前回のブログ『再投稿 番外編 今年の正月に見た「あるお姿」』より続きます。

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 

度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます

世界中で、そして国内で新型コロナウィルス感染が再拡大していますが
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

前回のブログに関してyabutsubakime様より とても参考になるご教示をメッセージにて

頂きました。

私なりに理解させて頂いた事をまとめて次回書かせて頂きます。

球磨の地は 鉱物により強磁性と反磁性が共存していて、その事は「祈り」にも繋がっている・・・

その事は 古代とても大切な事であったと考えています。

yabutsubakime様 ありがとうございました😊

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

11月15日、午前中に農作業のお手伝いをさせて頂き、午後からは、我家に伝わる神々様へのお務めをさせて頂きました。

毎月1日と15日に行う家の宮原家の習わしについては過去ブログでも数回ご紹介させて頂いております。

神様、御先祖様への感謝の心

松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船

 

湯川(ゆご・ゆがわ)の神様・・・・

湯川の写真等は

ブログ湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・でご紹介致しました。

 

 

 

湯川(ゆご・ゆがわ)の神様について、実は今月に入り、新たに気が付いた事があります。

私・・・完全に見落としていた事がありました😥

見落としに気が付くきっかけは・・・不思議な事に「球磨弁のある言葉」と「地名」を知った事が発端となりました・・・・

11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい でも書きましたが

 

 

日本最古が「重なる地」でもある
この球磨に残る「地名」・「山岳名」・「河川名」 には
私はとても意味がある と考えております。

 

今後、気が付いた「地名」等のお話も交えながら、ブログを書かせて頂こう!と考えました😊

今回はその第一回目?となるお話です。 

書きたい事が山積みなのですが、所用続きで中々時間が取れないでいます。

ですから、今回は一気に書かせて頂きます。長くなりますがお付き合い下さい<m(__)m>

では早速<m(__)m>・・・・(p_-)

 

 

1.球磨弁で「湯」は・・「い」

先日、所有する資料「平成元年 湯前の地名と文化財」を読んでいて大変驚きました。

※湯前(ゆのまえ) ・・・熊本県球磨郡湯前町

 

「平成元年 湯前の地名と文化財」より

湯前という地名

『町史』に、ユノマエは、井(イ)の前で、古城台地の南側の湧水(加古井※かくい)を中心に村落が形成されたためとあり、古老は今でもイノマエと言うとあり、湯山(ゆやま※球磨郡水上村)の事をイヤマと言うとあります。

 

また、吉田東吾の『大日本地名辞書』には、湯前をユマエとして

「・・・・人吉より日向児湯郡米良におもむく者は、湯前の一里山を超ゆるを常とす。

鉱泉の湧出するところあれば湯前の名あり」 とあります。

水上村岩野の竜泉寺蔵の縛婆仙人像(じゅば)の銘に

「・・・・相良長続・・・代官湯前殿桧前氏・・・・寛正三年(1462年)・・・」とあり

その頃から湯前と呼ばれており、相良氏の代官として湯前に桧前氏(ひのくま氏)がいたものと思われます。

以上 「平成元年 湯前の地名と文化財」より 転記致しました。

 

※ユノマエは、井(イ)の前で、古城台地の南側の湧水(加古井※かくい)を中心に村落が形成されたため

※古老は今でもイノマエと言うとあり、湯山(ゆやま※球磨郡水上村)の事をイヤマと言う

 

ネイティブ球磨弁と私は呼んでいるのですが、古老・・特に90歳前後以上の方々の球磨弁は

私達の年代では、意味が解らない事も度々あるのですが・・・

湯前 = イノマエ

湯山 = イヤマ

知らなかった~ \(◎o◎)/!

ビックリ致しました。

 

湯前町史に記されていた・・とありますが、湯前町史の発行は昭和43年(1968年)いまから52年前の発行なので・・・当時の古老の方々とは・・・おそらく、江戸時代末期から明治時代初頭にかけての時代に生まれた方々・・・・

\(◎o◎)/! ネイティブ球磨弁 バリバリの世代 !!!

 

※ユノマエは、井(イ)の前 

湧水(井 イ )を中心に村落が形成されたため

 

やっぱりだった!!

思わず、叫んでしまいました。

 

何故ならば・・・(p_-)

ブログ 古代 自然から教わる事 を 書いた頃から・・・私は、

古代の球磨は 湧水 つまり 「井」の「イ」の国だったのだなぁ~

と考えていたからです!

 

 

これで、家の水の神様がお祀りでいらっしゃる湧水「湯川」※ゆご・ゆがわ の 「湯」の意味も解りました😊

 

湧水(井 イ ) = 湯

だからなのでした・・・・\(^o^)/

 

球磨盆地(人吉盆地)内のいたる所に湧水があり、今でも水道で利用したりと生活には欠かせません。

ちなみに(p_-)

この湧水地。 球磨では昔から  と呼ばれる地に水が注ぎこんでいて 迫・迫田 と言う

地名も複数に及び、この迫田では ふる~くから水稲稲作が行われていました😊・・(p_-)

 

※古代の球磨は 湧水 つまり 「井」の「イ」の国だったのだなぁ~

 

その『水が湧き出す「湯川」』 がある私の住む集落旧宮原村宮麓と旧岡本村の間を流れる

川は 井口川(いぐちがわ)

しかし(ー_ー)!! 国土地理院の地図では

井口川は = いのくち川

となっています。

 

井(湧水)=イ が至る所から湧き出す地に流れる 井口川(い のくち川)だったのですね~

湧水(イ)の湯川の水は小川となって井口川に注ぎ込みます。

このような場所が球磨郡・人吉市には数え切れない程あって・・・・

だから 球磨川は九万の支流を持つ川 と言われているのですね・・・

今でも 球磨は 湧水 つまり 「井」の「イ」の 地 なのですね・・・

 

所で・・・・

皆様、すでにお気づきかと思いますが・・・

球磨弁 の特徴として 〇〇ノ■▲ という言葉使いがあります。

 

例えば、私の名前は 宮原 ミヤハラ ですが

地名の 宮原 は ミヤノハル ・・・ ミヤノハル

『大日本地名辞書』には、湯前をユマエとしてあるようですが・・・

湯前は ユノマエ ・・・ ユノマエ

ネイティブ球磨弁では イノマエ ・・・ イノマエ

と 「ノ」が入ります。

 

湯前 は イノマエ

湯山 は イヤマ

湯山(イヤマ)は現水上村湯山 ですが・・

湯山(イヤマ)の山とは 市房山 の事だと 強く感じます。

 

ネイティブ球磨弁で言うと・・・

イヤマ ノ ヤマ イチ フサ ヤマ・・

イ ヤマ イチ フサ・・

 

球磨川上流域 球磨郡水上村湯山地区から見た 市房山頂上付近

イヤマ ノ イチフサヤマ (冬景色)

・・・・・ 

 

 

そう言えば!!(p_-)

市房山のお隣の江代山(えしろ山) ※日向国の方は津野岳と呼ばれています

その江代山がネイティブ球磨弁を使う方々の年代では

二房山・・・ニノ フサヤマ

と呼ばれていたと 求麻郷土研究会を退会なさった方から頂いた

別の資料に記されていました。

 

市房山 が 一のフサ山

江代山 が 二のフサ山 と 当時の古老の方々は認識されていたようです。

 

つまり(p_-) 一のフサ山も二のフサ山も

「フサ」の山 と言う事になります!

斎まつる フサ の山

 

やっぱり!!  市房と言うお名前ではなくて、久米殿のご先祖様のお名前は

フサ でいらしたようです!! (ひろっぷ 確信致しました (p_-) )

 

球磨川中流域 私の家の近くから見た 市房山と江代山(こちらも過去の冬景色)

 

左側が 江代山(二のフサ山)と 右側が 市房山(一のフサ山) です 😊

斎まつるフサ の山・・・

市房山(一のフサ山)と江代山(二のフサ山)は

球磨川上流域・・・

 

西暦806年の球磨の「久米殿」のご先祖様は一体何時の時代のご先祖様なのか??

と言う事になりますが・・・

フサ と 言う御方は 確かにいらっしゃいました。

松野連系図にも記載されている 中国春秋時代の呉国 国王 夫差(フサ)王・・・

 

2.「呉人呉人的来多」

過去ブログでも数回ご紹介致しましたが

球磨川下流の八代の球磨川の前川にかかる前川橋のたもと

伝承は・・・オレオレデーライタ

 

今でもオレオレデーライタ河祭と名付けて毎年五月十八日に祭を行っていて・・
「オレオレデーライタ」とは一説によると「呉人呉人的来多」つまり、

中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」という意味

 

松野連系図にも記載されている 中国春秋時代の呉国 国王 夫差(フサ)王

西暦806年の球磨の「久米殿」のご先祖様は一体何時の時代のご先祖様なのか??

市房山(一のフサ山)と江代山(二のフサ山)

私は・・・どう考えても 全て繋がっているような気がしてなりません・・・

 

中国春秋時代の呉国が滅んだ 今から2400年前・・・

当時の西日本で唯一の・・・住居跡の列状配置

集落内群構造 住居跡の列状配置が西日本で唯一認められる遺跡が
『人吉市の中堂遺跡』 

何度も書きますが(p_-)
九州で・・ ではないですよ!!(ー_ー)!!
西日本で唯一
です。 2400年前の遺跡です・・・

私は・・・どう考えても 全て繋がっているような気がしてなりません・・・

 

※古代の球磨は 湧水 つまり 「井」の「イ」の国だったのだなぁ~

時代は下がり、弥生時代 ・・

ブログ『倭人また文身し以って水害(洪水)を厭わす也。魏略より』で書きましたが

 

 

【魏略曰:「女王之南、又有狗奴國、女(以)男子爲王、其官曰拘右(古)智卑狗、不屬女王也。自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘里。其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、
自謂太伯之後、昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。
今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」】

 

自謂太伯之後

呉(句呉)の祖とされる人物 太伯王

ウィキペディアの記述をじっくりと読んでいると気が付くのですが・・・

 

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。

后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)

紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。

季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。

後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。

この国は呉ともいわれる。

太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。

 

『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。
『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました<m(__)m>

 

※太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

※『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。

 

太伯王には子供さんはいらっしゃらなかった・・・

「呉太伯世家」 とは 弟の虞仲(仲雍)王の系 を指す・・・・

つまり 夫差(フサ)王は 弟の虞仲(仲雍)王の系であり 「呉太伯世家」である・・・

 

つまり・・・つまり・・・

自謂太伯之後 とは呉太伯世家夫差(フサ)王の 後裔である

と言う意味ではないのでしょうか・・・

 

※荊蛮の地 にて 太伯は句呉(こうご)と号して国を興す

長江下流域・・・

 

私の最近のブログを続けてお読み下さった御方々は お気づきだと思うのですが・・

私は・・・どう考えても 全て繋がっているような気がしてなりません・・・

 

ただ・・・こんな事を書くと 中国の方々から反発を受けるかもしれませんが・・・

周国(国姓 姫氏)の王都近郊で、最近発見された 4300年前の遺跡・・・

縄文時代の日本を感じるのは私だけでしょうか・・・

 

詳しくは、今後のブログで触れて行きたいと思いますが、

石峁(シーマオ)遺跡画像はお借りしました

 

 

ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている

にも拘わらず 大量に発見された ・・・

翡翠・・・??

 

東門をにらむように壁に施された菱形模様の彫刻・・・

菱形模様・・・??

 

ただ・・・4300年前と言われても 私には 何か 新しい時代のように感じてしまいます・・

何せ 11万年以前の遺跡や1万2千年前~8000年前等のお話を書いたばかりですので・・

 

周国(国姓 姫氏)の王都近郊・・・

姫氏・・・

もしかしたら・・・・・・・・・

 

 

ただ・・・

何故? 球磨川の河口に「呉人呉人的来多」 なのか・・・・?????

さらに気になる事が・・・

ブログ 恒星アケルナル 熊本県南部以南でしか見る事が出来ない星 でも

書いたのですが

「アカマル」(Acamar)という呼称自体がアラビア語で「川の果て」を意味する

アラビア語「アーヒル・アン=ナフル」 ākhir al-nahr に由来したもの「アケルナル」

中国では

「水委」と呼ばれるアステリズムを成していて
その中で、アケルナルは1番目の恒星とされているため、「水委一」と呼ばれている。

つまり・・・「川の果て」 = 「水委」なのですよね・・・

水委・・・

 

3.私が見落としていた事

今回、古代の球磨は 湧水 つまり 「井」の「イ」の国だったのだなぁ~

と言う事に気が付いて、湯川(ゆご・ゆがわ)の由来が理解できて・・

「川の果て」 = 「水委」 である事が理解出来て・・・ 

さらに 「呉人呉人的来多」を深く考え・・そして 

自謂太伯之後 とは
夫差(フサ)王(呉太伯世家)の 後 ・・・後裔である
と 言う意味ではないのか・・と考えた時に ・・・

あらためて

夫差(フサ)王後裔「松野連」系図に記されていた

熊縣(球磨縣)の熊津彦様の御子息 難升米様に思いを寄せました

 

そして・・・

ふ~と 過去ブログで書いた、私が何故ご先祖様を調べる事になったのか・・

きっかけを読み返していました。

 

あらためて 簡単にご説明すると

祖母が亡くなった後、祖母が私に伝えたかったご先祖様の話とは一体なんだろう??

と考えながら数年が過ぎた時に 夢に現れた「私の背中を押して下さった方々」

四角い大きな帽子?のような物を被った男性と お菓子の神様

 

お菓子の神様を追いかける私に四角い大きな帽子?のような物を被った男性から言われた

言葉 「追いかけてはいけない。知りたかったら自分で調べなさい

お菓子の神様?も

知りたかったら自分で調べなさい!」と・・そこで目が覚めました。

その後・・・お菓子の神様は本当にいらっしゃった事を知りました・・・

その御方が 田道間守命 様

 

田道間守命 様 お祀りの神社様が 京都の中嶋神社様・・・

中嶋神社様が 私の住む集落に御鎮座であった中嶋大権現(中嶋神社)と同名の神社様であった事にも当時はとても驚きました。

 

さらに田道間守命 様 のウィキペディアの記述にも当時 大変驚きました!

※直近の記述を見ると さらに驚き!が記載されていました!!。

 

ウィキペディアより 抜粋

内藤湖南は『卑彌呼考』において、『魏志』倭人伝に卑弥呼から魏へ遣わされたと見える大夫難升米を田道間守に比定しているが、『日本書紀』では卑弥呼は神功皇后の時代とされており、田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると61年になる。

これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者田道間守を倭奴国の大夫と考えていたことが推測される。(上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を参照)

 

※書紀の編者は田道間守を倭奴国の大夫と考えていたことが推測される。

倭(委)奴国王の大夫・・・

 

やはり・・・そうか・・!

委 は 川の果て・・・ (独り言です)

 

では 本題です(p_-)

実は・・・田道間守様をお祀りの中嶋神社様について、

私が 見落としていた事があったのです・・・

私がここ数年間 完全に見落としていた事とは・・・ 

 

中嶋神社 ウィキペディアより

 

中嶋神社(なかしまじんじゃ)は、兵庫県豊岡市にある神社である。

式内社で、旧社格は県社。

「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社がある。

 

田道間守命を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆかわたなのかみ)を配祀する。

 

皆様方、もう お解りになられたと思います。

今回の私のブログ内容をじっくりとお読み下さった御方々なればこそ お解りになられた

と思います。

 

※天湯河棚神(あめのゆかわたなのかみ)を配祀する。

天湯河棚神(あめのゆかわたなのかみ)

 

私が・・

地元に御鎮座であった中嶋大権現(中嶋神社)様と

夢に出て来られたお菓子の神様がお祀りの 京都の中嶋神社様との

共通点に気が付いて、何年経ったのだろう・・・ 7年程かな・・・

遠回りして、ようやく 気が付きました!。

 

天湯河棚神(あめの ゆかわ たなのかみ)

おそらく 湧水 井 イ 委 の地に湧き出す 湯河(湯川)の神様、水の神様でいらっしゃるのでしょう・・・・

 

 

1.球磨弁で「湯」は・・「い」

2.「呉人呉人的来多」

3.私が見落としていた事

と・・今回、続けて書かせて頂きましたが、 私は・・・・ 私は・・・!

全て繋がっている!  と考えます。 

 

 

次回は球磨川の水は対馬の北岸に繋がっている「お話」や地球の磁性の「お話」

そして 球磨の地名について 書かせて頂きます!

 

最後までご覧頂き、ありがとうございました。

皆様、お身体、十分に気を付けてお過ごし下さい。

 

愛する 球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『アニミズム 強磁性と反磁性 球磨は何故祈りの地なのか』 に続きます。