前回のブログ『日本書紀に記された難升米(難斗米)様』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12450671647.html

 

はじめに

 

皆様其々の方々にとって、

「平成」と言う時代の中で沢山の思い出がおありになられると思います。

日本国中が悲しみに包まれて向かえた「平成」の元号発表の日。

今日から「平成」なんだ・・と気持ちを引き締めた記憶があります。

あれから30年。

私自身は30年前のあの日に、今の自分の環境が全く想像すら出来ませんでした。

 

4月1日の新元号発表の日。皆様様々なお気持ちでこの日を迎えられたと思います。

私は、「4年前に婿養子に入ってくれた主人と一緒に球磨に戻り、父と3人で新元号発表のテレビ映像を見ている自分は波乱万丈の時を越えて、今はとても幸せに過ごす事が出来ている。その事を心から感謝して、新しい元号「令和」の時代を生きて行きたい」

そう思いました。

新しい元号『令和』の時代が、災害などおこらない平和な時代である事を祈り

後3週間程となった平成の世を、心静かに穏やかな気持ちで過ごして行きたいと思います。

(でも・・ブログでは相変わらず\(◎o◎)/!とか\(^o^)/とか・・騒がしいと思いますがお付き合いください<m(__)m>・・(^'^) )

 

 

所で・・・標準語のひろっぷとは別に球磨弁のひろっぷと言うのがおりまして・・

(二重人格か!(゜-゜)・・(ー_ー)!! )

この球磨弁ひろっぷの方は、比較的穏やかな?標準語ひろっぷとは違い(ー_ー)!! 

結構、思った事をズバズバ言うのであります。

今日は球磨弁ひろっぷが何か言いたいようですので独り言と思ってお聞きください<m(__)m>

 

球磨弁ひろっぷより

新しい元号でタイ。語源が本当は何処から来たとか?とかちゅうて(とか言って)

何か論争とかありよっごたんねぇ~(p_-)

そげん事は私はどぎゃんでも良かっタイ。(ー_ー)!!

私は舞台が大宰府ちゅう所が何か嬉しかっタイね(^◇^)

おっ(p_-) 時代がようやく真実を見つめてくれなったバイ(p_-) ってね~嬉しかねぇ~(^'^)

ばってん・・大伴 旅人さんじゃろ・・(p_-)

大伴 旅人さんと言えば・・ウィキペディアを見るとタ~イ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

 

大伴 旅人(おおとも の たびと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。名は多比等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。

和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。

和銅4年(711年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・中務卿、養老2年(718年)中納言、養老3年(719年)正四位下と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進する。

養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げる。

その後、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月12日に旅人は京に戻るよう勅を受ける。しかし、隼人の平定は未了であったため、副将軍以下は引き続き駐屯を命じられている。翌養老5年(721年)従三位に、神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。
神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。

60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事の両説がある。

大宰府では山上憶良・満誓らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成した。

赴任後間もなく妻を亡くし、後には異母妹の坂上郎女が西下している。なお、子息の家持・書持や坂上郎女の西下時期については、旅人の赴任と同時とする説と、天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時との両説がある。

しかし、旅人の大宰帥時代については、史料が万葉集のみに限られていることから、旅人周辺の人物関係については推測の域を出ていない考察が多い。

 

ちゅう~て、ウィキペディアには書いてあるバッテン・・・

大伴 旅人さんの話に関係する事、わたしは、ま~え書いた事があるバイ(p_-)

長田王(攝津大夫)の足跡 及び隼人の乱について でタイね(p_-)

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335001934.html

 

反乱
養老4年(720年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。

朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。
隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。

 

「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」

この陽侯史麻呂という人が実は!「姫姓」じゃった!!と言う事まで、ブログを書いた時に調べて解っとったとですヨ(p_-)

そもそも・・

大伴 旅人、こん人は

和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。

養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。

どう考えたっちゃ(考えても)、大伴 旅人、こん人は

『最初から九州南部とは御縁があった』としか考えられないとバッテン・・どげんじゃろ?(どうでしょうか?)

おっ!(゜-゜) そうやった!! 大伴 旅人さんの御先祖様は・・

参考 日本の苗字七千傑様サイトより 大伴氏/伴氏 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02103.htm

 

高皇産霊命の五世孫、天押日命は天孫降臨に従い、また天押日命四世孫の道臣命は神武天皇東征に従い、古代の朝廷における軍事面を担当して大伴大連姓を名乗る。 弘仁2年に大伴皇子の名を避け伴氏に改姓。

 

通説でもしっかりと高皇産霊命の五世孫、天押日命の後裔と名乗られている

大伴氏の大伴 旅人さんじゃったとタイね(だったのですね~)

ほんなら・・九州に御縁があって、当たり前タイ!!( ^^) _旦~~

 

そう考えると・・・(p_-)

やっぱり、隼人の乱は『通説』で言う所の

背景
7世紀後半の九州南部はヤマト王権(朝廷)の勢力が及んでいたものの支配体制は完全ではなく、熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。
朝廷は自らの勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたが九州南部においては住民の支持を得られなかった。これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためである。

じゃあ~なかね!(では無いと思います)

 

背景はきっと「記紀」の完成バイ!とわたしは思うと(思います)

時系列で(p_-)

①大伴 旅人 和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進

②古事記 完成 和銅5年(712年

③日本書紀 完成 養老4年(720年

④隼人の反乱 発生 養老4年(720年)2月29日「大隅国国司の陽侯史麻呂(本姓姫氏)が殺害された」事から始まる。

陽侯史麻呂(本姓姫氏)が国司に任命されたのは、南九州と中国大陸の間に古くから何らかの関係があったためではないか、という説がある。(ウィキペディアより)

 

おそらく、隼人の方々は・・記紀の完成後

『なんか!!この書き様は!!おいどんの(我々の)御先祖様ば、ばかにしよっとか!(ばかにしているのか!) 嘘ばっかり書きよって!姫姓の国司を派遣すれば済む問題じゃなかろうが!まして、同じ姫姓でも、こん人は(陽侯史麻呂)は最近日本に来たばかりの人じゃろが!

姫姓であれば誰でも良いと思っとるトカ!むか~しの様々な御先祖様方が連携して、この国を建てたとじゃろが(建てたのでしょう)何でおいどん(我々)の御先祖様だけ、こげん(こんな)書き方をされんばいけんとか!(されなければいけないのか)もう我慢出来ん!』

となったのではなかとかな!?(ないのかな?)

 

ばってん・・隼人の反乱 ウィキペディアの記述の最初に

隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。

と書かれていますね・・

つまり!!

この反乱を最後にようやくヤマト王権は日本全土における支配を確立した・・

と言う事に。

 

時は過ぎ・・

730年(天平2)正月13日に大宰府の大伴 旅人さん邸で役人らを招き、梅の花を題材にした歌会「梅花の宴」を開いた。そこで詠まれた32首の序文

「初春の令月にして気淑よく風和らぎ」

 

わたしは、新元号の「令和」は、日本全土がようやく一つになり、今の時代に繋がる

『出発』の時代を象徴している・・と考えたとですバイ(^'^)

 

所で・・・最初に

語源が本当は何処から来たとか?とかちゅうて
何か論争とかありよっごたんねぇ~(p_-)
そげん事は私はどぎゃんでも良かっタイ。(そう言う事は私はどうでも良い)(ー_ー)!!

と書きましたバッテン・・・

そもそも、漢字ちゅうもんは、日本発祥じゃナカですもんね(ー_ー)!!

中国からじゃもん(ですから) 仕方なか(ー_ー)!! (仕方ない)

 

も~し、漢字が今のように日本で使用されとらんかったら・・・(されていなかったら)

例えば、肥人書(こまびとのて・こまびとのしょ)が日本全国の文字として使われ取って、(使われていて)今に至るなんて想像すると・・・

Ahiru kusa characters 1.jpg

 

でけぇ~ん!!(ダメ~!!)

うわぁ~こりゃう~ごと!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

(わぁ~これは大変!!おおごと!!)

 

小学校一年生から「う~ごと」して勉強せんばんバイ!

(おおごとして、勉強しなければいけませんよ!!)

 

良かった~(^'^) 漢字が入ってきて本当に良かった~(^'^)

肥人書(こまびとのて・こまびとのしょ)どん(など)日本全国で文字として使われ取れば((+_+))

私はこうしてブログば書く事は・・ど~い出けんですモン(そんな事絶対に無理です)

 

色々な事に感謝の気持ちを持って

では皆様 だんだんなぁ~\(^o^)/

 

今日は、球磨弁のひろっぷが書きたい事を書かせて頂きましたが・・・

私の球磨弁が解った(理解出来た)九州内の球磨郡以外にお住まいの方々、

いらっしゃったら、は~い(^O^)/ と手を挙げて下さい(マタマタとのお声が・・)

しかし(ー_ー)!! この事はとても大事だと思います。

 

何故ならば・・・文字が無い時代には『言葉』がとても重要だったはずです(p_-)

共通の言葉を話すと言う事は古代のネットワークで繋がっていた証拠だと思います。

何故?九州内と私は限定したのか。

九州以外にお住まいの方々はご存知ない方もいらっしゃるかと思いますが

九州全体で、同じような方言を使っている訳ではありません(ー_ー)!!

地域によっては、全く違う方言であったりイントネーションであったりします。

私は、最近この事がとても重要な事ではないのか!?と考えています。

おそらく、私の球磨弁は、熊本県内にお住まいの方々だけではなく・・

福岡県・佐賀県・長崎県にお住まいの方々にはちゃんとある程度通じたと思っています(p_-)

(もちろん、ギャン(非常に、とか、沢山)とかは使わないでしょうが・・(^'^) )

ちなみに、今から50年程前までの球磨では男性のとても大事な部分を『へのこ』と言いました(特に家の一族)

この言葉・・沖縄でも使われていた事を最近

『ゆうがたお阿佐』様のブログ

儒教と道教と徐福伝説 その1 を拝見して初めて知りました。

https://ameblo.jp/yuukata/entry-12238484749.html

『ゆうがたお阿佐』様、大変勉強させて頂きました。ありがとうございます。(^'^)

 

だんだんなぁ~

ブログ『球磨弁とヘブライ語』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html

 

 「ありがとう」の意で「だんだん」を方言として用いる地域は西日本各地にある。

列挙してみると、鳥取県西伯郡、島根県、山口県大島、愛媛県、高知県幡多郡、

福岡県博多、熊本県、大分県直入郡、宮崎県高千穂などである。

「ありがとう」の意味ではなく、「いろいろ、重ね重ね」といった意味で「だんだん」が用いられる地域もある。山形県米沢市では「いろいろご馳走になりました」を「だんだんご馳走になって」という。このような用例は新潟県中頸城郡、富山県、石川県、滋賀県彦根、島根県、高知県檮原、熊本県、宮崎県などで見られる。長崎県壱岐では「だんだんお世話になりました」というが、「いろいろとお世話になりました」の意味である。

 

方言『だんだんなぁ~』のネットワークが存在する訳です。

 

今回は『4月1日からここ数日考えた事』と題して急遽書かせて頂きましたが

次回は前回の続きをしっかりと書かせて頂きます。

ちなみに、私は『だんだんなぁ~』の語源は、神様に感謝を申し上げる事に繋がっていると考えています。

つまり『壇々なぁ~』です。  『 壇 』 

壇は古代の祭祀にとって、とても重要な意味を持っていました。

詳しくは次回に(^'^)

 

あらためまして

私は、新元号の「令和」は、日本全土がようやく一つになり、今の時代に繋がる『出発』

の時代を象徴している文字である・・と考えました(^'^)

 

では・・皆様 だんだんなぁ~\(^o^)/

 

次回 『 自然から教わる事 』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12454159288.html