前回のブログ『家の水の神様(球磨郡久米郷宮原村の宮原家の水の神様)』より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12449528169.html
前回のブログで『次回書かせて頂きます』と書いた内容が多々あるのですが、この数日の間に初めて知った事がありまして、この事はおそらく『次回書かせて頂きます』と書かせて頂いた内容に結びついているような気がしてなりません(..)
と言う事で、今回は『初めて知った事』を書かせて頂く事に致しました。<m(__)m>
1.日本書紀に記されていた難升米(難斗米)
前々回のブログ『松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船』 の中でも触れた
松野連系図では熊津彦様の御子息として記されている難升米様
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12447362204.html
難升米様の事がどうしても気になって、あらためてウィキペディアの記述を読み返していると今まで気が付いていなかった記述に気が付きました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3
難升米(なしめ、生没年不詳) または難斗米(なとめ)[1]は、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。
または難斗米(なとめ)[1]・・・難斗米???
すぐに注の[1]を確認すると
[1] 「日本書紀」の引用文による。現存している「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀で、8世紀に完成した日本書紀が正しい文字を伝えている可能性がある。
「日本書紀」の引用文による??? 一体どう言う事なのだろう(?_?)
この時点で、私は日本書紀に難升米(難斗米)様の記述がある事を全く知らないでいたのです。(皆様方はすでにご存じでいらっしゃった事と思いますが、私は無知識でした)
どうしても、日本書紀の原文が読みたくなり「日本書紀 難斗米」でネット検索すると、見つける事が出来ました(p_-)
それは日本書紀巻第九 氣長足姬尊 神功皇后 の中に記されていました!
hp制作様サイト内 日本書紀巻第九 氣長足姬尊 神功皇后
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_09.html
卅九年、是年也太歲己未 魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、
詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也
卌年、魏志云 正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也
卌三年魏志云 正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻
確かに日本書紀巻第九 氣長足姬尊 神功皇后紀の中に『魏志云』として
『明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。』とあります。
日本書紀に『魏志』からの参考文が記されていた事など全く知らないど素人の私は非常に驚いてしまいました。
神功皇后 卅九年(39年)とは上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると、
確かに 西暦239年。
合わせてあるな・・・(p_-) と私は考えました。
早速、父にこの事を伝えると
『日本書紀に?お父さんも知らなかったよ!難斗米?難升米じゃないのか!? ”斗”であれば”升”より上だな(^'^) 十倍増えている 日本書紀の記述では偉くなられているんじゃないのか(^'^)』
と・・・えっ!? そっち(?_?) 父が興味があるのはそっち(?_?) 神功皇后様と女王卑弥呼様の事では無く・・十倍増えている・・そっち(?_?)・・・
ただ・・私の父は、ブログでは殆ど書いた事がありませんが、親戚中が皆認める何と言うか凄い能力の持ち主で・・
父の言葉の裏に『重要な意味』がある事が多々あるので、私も『十倍増えている?』事が確かに気になりました・・・(p_-)
それに・・ウィキペディアの注記には
『現存している「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀で、8世紀に完成した日本書紀が正しい文字を伝えている可能性がある。』とありました・・
ただ・・何故?日本書紀巻第九 神功皇后紀に『倭女王』様の記述、『難斗米(難升米)』様の記述があるのか!?
つまり、書紀編纂者の方々は『倭女王』様を『神功皇后様』に比定されようとしていたのではないのか!?(対外的に・・海外に向けて)
私は『倭女王(卑弥呼)』様=『神功皇后様』と言う事を現段階で肯定する訳ではありません。
しかし、ブログ『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』で書いた事
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12444947549.html
”私は記紀を編纂した方々は、古代の中国史、朝鮮半島史を参照された事は明らかだと思います。
記紀は『上記の古代中国史・朝鮮半島史』に、記述を合わせる必要も当然あったはず
です。”
と書いていたのですが、これって・・間違ってはいなかったのだ・・と言う事はよ~く解りました(p_-)
日本書紀巻第九 氣長足姬尊 神功皇后 をじっくり読むと
百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。・・から始まる記述もありました。
百済記云・・
と言う事は・・同じく『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』で書いた事
”私の推測を不敬だと言われる方もいらっしゃると思いますが、ご了承下さい。
古事記編纂をした方々は、
建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。
倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。
の記述より 垂仁天皇様を伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)
つまり球磨郡久米郷に関わりのある「御方」として、記す必要があったのではないのでしょうか!?
西暦57年に倭奴国が朝貢した事に対して中国側からの指摘があった場合に必要な「答え」の為ではなかったのでしょうか!?”
と・・私は書いていたのですが・・・この事がやはり非常に気になって参りました・・・
2.難斗米 ナントメ? トメ?トミ?
難斗米と書いて、中国語ではどう読まれるのか非常に気になりGoogle 翻訳を使って調べて
見ました。私は何か気になると徹底的に検証しなければ気が済まない・・しつこい性格です(p_-)
難斗米 Nán dǒumǐ ナンドウミ かな??
意味 むずかしいご飯・・ぷっ(*^_^*)・・笑ってはいけません(ー_ー)!!
ちなみに
難升米 であれば・・ Nán shēng mǐ ナンシェンミ かな??
意味 炊きにくい・・ぷっ(*^_^*)・・笑ってはいけません(ー_ー)!!
卑弥呼様同様・・当時の魏の人が倭人を卑下して名前の漢字を充てたのでは!?
などと考えてしまいました。 失礼な!(--〆)
『なん』・・と入力してどう言う漢字が登場するのか非常に興味が湧いて変換したのですが・・
南・何・難・男・楠・灘・軟・納・娚・渠・輭・暖・那・烏・胡・曷・・・他多数
南=ナン はすぐに解ったのですが・・古川様より御教示を頂いていますので後日御紹介させて頂きます(..)
しかし・・
非常に驚いたのは「楠」(くすのき)って・・・
ナンと読めるんだぁ~!!\(◎o◎)/!
と言う事です!
早速 Google 翻訳を使って調べて見ました。(p_-)
楠 Nán
間違いありません!!
ちなみに楠木はNánmù 意味は・・南村
えええええ~っ!!\(◎o◎)/!
ビックリして鳥肌が・・・何せ橘姓『楠木氏』は宮原の一族と同族でいらっしゃいます。
平安時代末期の橘公長と橘公信この方々の代で分かれました。
橘公信この方の後裔が「楠木氏」楠木正成公でいらっしゃいます。
橘公長の子「橘公業」が橘姓宮原一族他肥前の渋江氏・中村氏・牛島氏等の
御先祖様です。
楠木はNánmù 意味は・・南村
実は・・祖母方の実家「岡原平川家(江戸時代中期までは平河)」なのですが、何故か親戚一同から「みなみ」と呼ばれているのです。通称です・・
家の親戚は、家の姓ではなく、殆どが住んでいる土地の通称で親戚を呼んで、例えば、
曾祖母の実家の深水家は「横馬場」、椎葉家は「溝下」、森園に住む深水家には「モイノソン」
久米の親戚は「堂山(どうやま)」みたいな・・感じで
祖母の実家の平川家は親戚皆、「みなみ」と呼ぶのです。
しかし、「南側にあるからみなみ」じゃ無いのです(..) 何せ・・祖母の実家のお隣の平川家の方も、隣なのに「みなみ」と祖母の実家の平川家の事を呼ばれるからです(p_-)
私はこの事をこちらのブログの方にか書いた事が無かったのですが、7年程前から利用させて頂いている「スレッド」の方では、最初から「この事」を書いていました。
ずっと何故「みなみ」って呼ぶのだろう・・と不思議だったからです。
難は南であり楠である。 中国語の楠木 意味は南村となる
私、実はずっと以前から姫姓 呉王夫差後裔「難升米」と言う方と祖母方の平川家は何らかの形で繋がっているのではないか??と、不思議なのですが妙な感(直感?)で感じていたのですが・・今回『難は南であり楠である。中国語の楠木 意味は南村となる』と言う事に気が付いた事で、何らかの形で繋がっているのは「祖母方」だけではなく・・・
家も・・宮原家も・・?? 橘姓宮原一族も・・?? いえ! 橘族も!!?と妙な感(直感?)が働いてしまいました・・・
姫姓 松野連系図によれば・・難升米(難斗米)様は熊縣の熊津彦様の御子息と記されており熊縣は現在の球磨郡・人吉市地方を指す・・
こんな偶然って 本当にあるのでしょうか・・??
(妄想だ!とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが、しかし何故か、血が反応しています・・)
それに・・こちらもずっと気になっていたのですが、
京都大学教授だった内藤湖南博士の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている・・
田道間守様が御祭神でいらっしゃる神社様は『中嶋神社』様。
偶然か・・?
旧球磨郡久米郷宮原村の宮麓に御鎮座の神社様は『中嶋大権現(中嶋霧島神社)』通称は『中嶋神社』 もしくは『宮原神社』様でした。
垂仁朝・・と言う事は上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると
紀元前29年から西暦70年であって、時間軸が合わない、海外の史誌を参考にされた記紀の記述(年代を合わせる)行為から見て田道間守様が難升米(難斗米)様であると内藤湖南博士が位置づけられた根拠は一体何でいらっしゃったのだろう・・??? と考えていたのです。
そう言えば・・・明治初頭以降、球磨には東京帝国大学と京都帝国大学の方々がこぞって来られて各地の史跡を調べて回られたと言う事は知っていました。
偶然か・・内藤湖南博士とは ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(けまないむら、現・秋田県鹿角市)にて、南部藩士・
内藤調一(1832年 - 1908年。号は十湾)と容子の次男として生まれる。
父・十湾は折衷学派に属していた。
南部藩士・・・南部氏とは橘姓宮原一族は鎌倉時代に姻戚関係を結んでいます。
球磨郡久米郷を父より譲られた橘公綱の妻は日蓮様の有力壇越として知られた南部 実長の孫娘様で、父は南部実継と言う方です。
橘公綱の子「橘公資」この方が肥後国宮原村の「宮原」より「宮原公資」となられました。橘姓宮原一族は南北朝時代に分かれたようで、球磨郡久米郷宮原村の宮原氏と熊本県八代郡氷川町宮原(旧宮原村)の宮原氏となります。
氷川町宮原とは・・古代の火君(ひのきみ)の本拠地です。こちらを所領されたのが
橘姓宮原氏であります。
そう言えば・・・秋田は鎌倉時代の橘公業一族の所領地が含まれる場所・・・(?_?)・・(p_-)
内藤湖南博士が田道間守様が難升米(難斗米)様であると位置づけた根拠は一体何でいらっしゃったのだろう・・???
まさか(p_-)・・『球磨の中嶋神社』の中嶋から・・(?_?)
激怒された御方々申し訳ございません(..) あくまでもど素人の妙な感でございます(..)
所で・・
譲り状や地頭職補任等形跡が全くないのに・・何故?宮原氏は火君(ひのきみ)の本拠地を領する事になったのだろう・・???
こうやって考えてみると・・祖母方の平河氏だけではなく、橘姓宮原氏・・つまり伊予橘氏も間違いなく古代の謎に関わっている・・と私は確信して参りました。
(やはり・・こうなってくると段々怖くなってきます・・(+_+) )
球磨郡久米郷宮原村の宮原氏の一系である家の宮原家の曾祖父は何故か「葦原様」と呼ばれていた・・・?????
今回、『前回書かせて頂きます』と書いた事の前に、初めて知った事を優先して書いたのですが・・何だろう(?_?) DNAが『ここをちゃんと理解しておかなければ意味が解らないはずだ!』
と言われていたような気がするのです・・
(マタマタ(ー_ー)!! と言う大合唱が聞こえてきたような・・(+_+) )
所で・・(^'^)
全国には球磨郡久米郷・・いえ『球磨盆地』を物凄~く近くまで山が迫った土地 といったイメージをお持ちの方々もいらっしゃると思います。
人吉市までは来られた事がある方も、球磨盆地(旧球磨郡久米郷・球玖(くく)郷・東村(ひがしむら)郷・西村(にしむら))の方まではお越しになられた事が無い(ー_ー)!!とおっしゃる方々もいらっしゃるかと思いまして、私が住む『この地』の風景をかなり以前ブログに載せていましたので、あらためてご紹介させて頂きます(^'^)
旧久米郷宮原村・旧久米郷奥野村附近の田園風景
旧久米郷久米村・旧久米郷湯前村方向
こう言う風景が東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる球磨盆地(人吉盆地)です。
現あさぎり町 ※旧岡原村(旧宮原村・旧岡本村)の上空写真です(^'^)
平成元年9月発行 「おかはる」より 縦向きに
旧宮原村内の一区画をアップにしてみました。
山は迫っていませんでしょう(^'^)
標高1000メートル級の山々に囲まれた、平野でございます。
天空の別天地とおっしゃる方々もいらっしゃいます。
確かに平野部でも標高は200m近いですが、住んでいると高い所に自分が居る事は忘れてしまっています。
標高が低い土地にお住まいの方々、上空200メートル位を見上げて見て下さい(^'^)
その辺りの延長線上に、わたくし「ひろっぷ」が住んでおります。
「ヤッホー」\(^o^)/ 声は届きましたか?
しかし、あらためて見ても・・・殆ど田んぼしかありませんねぇ~・・
子供の頃はそれが嫌で、都会に憧れもしたのですが、今は『台地の恵が豊なのだ!(^'^)』と
台地の神々様に感謝致しております。
さらに・・(p_-) ここでは鉄鉱石も砂鉄も採れます。銅山もありました。
金も銀も採れます(p_-) 水晶や翡翠等の装飾用鉱物も採れました(p_-)
それが・・・球磨でございます!
前回、前々回のブログをご覧くださった方々から、メールやコメントで沢山のありがたい御教示を頂きました。
心から感謝申し上げます。 ありがとうございます。
次回は皆様方から頂いた御教示を拝読させて頂いて、私がようやく理解出来た事、
前回『書かせて頂きます』と書いた事等をまとめて書かせて頂きます\(^o^)/
と書きましたが<m(__)m>
次回
『4月1日からここ数日考えた事』に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12452510540.html