「会話が苦手な生徒たち。それは学校内だけの問題ではない。大人になっても苦手。大人が子どもにも会話をしないことを強いている。そして、教育とは矛盾していく。面接も苦手になって受験に影響する。」の話し
今日はちょっと難しいことですが、なんとなく「そういえばなああ」ってわかっていただける話です。子育てや子どもの教育において非常に重要な話です。
日本人は往々にして、見ず知らずの人に対して「教えてあげる」「声をかけてあげる」という能動的なコミュニケーションを避ける傾向にあると言われます。「余計なお世話かもしれない」「相手が自分から聞いてくるのを待とう」という遠慮が、結果として無言のまま相手を不安や孤立へと追いやってしまうことが少なくありません。
この「察する文化」は、実は教育の現場にも深く根付いているのではないでしょうか。学校という場においても、「待つこと」が美徳とされ、「自分で気づくまで見守る」指導が尊重される風潮があります。しかし、過度に待つことは、時に「積極的に教える」という本来の教育的意義を放棄しているに等しい場合があります。これはバランスの問題です。
例えば、グループワークの授業での一幕を思い浮かべてみてください。数名で一つのテーマについて討論し、発表資料を作成する場面です。ある生徒が明らかに役割分担についていけず、何をすればいいのか分からずにうつむいていたとします。しかし、周りの生徒たちは「そのうち慣れるだろう」「自分から言ってくるのを待とう」と、あえて何も言わずに作業を進めてしまいます。
あるいは、文化祭の準備で、グループごとに役割分担がなされているのに、一人の生徒が指示を聞き逃し、何をすればいいのか分からずにぼんやりと立ち尽くしている。周りの生徒たちはその姿に気づきながらも、特に声をかけずに自分の作業に没頭してしまう。これらはすべて、目の前の「困りごと」を認識しながらも、たった一言の声かけを惜しんでしまう日本的なコミュニケーションの縮図と言えるでしょう。
リーダー役を設定しないとリーダーがいなくなってしまう日本人生徒の集団行動の癖とも言えます。
教育において「自分で考えさせる」ことは確かに重要です。しかし、子どもは時に、自分が困っていること自体にすら気づいていないことがあります。迷っていること、間違っていること、混乱していることを自覚できずに、ただ闇の中でもがいている状態です。そんなとき、隣の席の生徒や先輩が「どうした?一緒に考えよう」「それ、こういう風に整理してみると分かりやすいよ」と優しく橋を架けることで、初めて学びの糸口が見えてくるものです。
なぜ、このような「声かけ」が生まれにくいのでしょうか。そこには、学校文化に根差した三つの大きな壁があると考えられます。
一つ目は、「知らない人とは話さない」という心理的なハードルです。同じ学校に通っていても、クラスが違ったり、学年が違ったりすると、多くの生徒は「赤の他人」と認識し、積極的に関わろうとしません。同じクラス内でも、グループが異なるとそれが生じます。掃除の時間に他クラスの生徒が同じ場所にいても、顔見知りでなければ「声をかけるべきか」と迷い、結局ためらってしまうのです。ソーシャルスキルでもありますね。
二つ目は「絶対的な私語禁止」のルールです。日本の多くの学校では、授業中はもちろんのこと、移動時間や休憩時間ですら「静かにする」ことが強く求められます。「私語は厳禁」という規範は、もはやルールというより暗黙の了解として生徒の行動を縛っています。そのため、「ちょっと教えてあげよう」という親切心があっても、それを言葉にすることが「ルール違反」になってしまうのではないかという恐怖が先行し、結果的に口をつぐんでしまうのです。
例えば都心の混雑してくる電車内でも、数十年前までは電車内で会話をすることはよくありました。でも今はそれすら禁止です。生徒たちの生活もどんどん静かさを求めるようにさま変わりしています。「異常なまでの静けさ」が美徳とされる風潮は年々増していくようです。わずかなささやき声や物音さえも「うるさい」「集中の妨げになる」と否定的に捉えられ、教室がシーンと静まり返っていることが「よい授業」「よいクラス」の絶対的な条件であるかのように扱われています。この空気の中で、誰かに声をかけることは、たとえ親切心からであっても、その静寂を乱す「迷惑行為」として映ってしまうことがあります。静かであること自体が目的化し、その静けさが、助け合いのための対話までもをシャットアウトしているのです。
三つ目は、議論や主張のスキル不足です。
続きは、次回このブログで。現在不定期更新です。飛び飛びでいろんな記事が掲載されるかもしれません。
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