蒋介石率いる国民党軍の軍事顧問として派遣されていたドイツ将校達は、蒋介石に次のように言いました。
「外国に干渉するように頼みなさい。あなたは一人では勝てない。ロシアは今ここにはいない。協力者が必要だ。イギリスに頼みなさい。しかし、力のある干渉者となると好ましいいのは米国です。こうしたことになると米国人は便利です。」と。
ドイツ軍事顧問団は、モスクワとロンドンから世界に向けて宣伝活動(プロパガンダ)を積極的に行なっていました。そして、世界中を反日にするように仕向けて行きました。
蒋介石は、上海に注目しました。上海は外国人疎開があり、多くの外国人が住んでいました。そこで、戦闘を起こせば外国からの干渉を引き起こすことが簡単にできるだろうと、考えたのです。
ドイツ軍事顧問団もこれに同意しましたが、蒋介石に次の忠告をしました。
それは、蒋介石軍の私兵を上海戦に参加させないこと。そして、日本軍に一撃したら立ち去ること。
なぜ、ドイツ軍事顧問団はこのような忠告をしたのでしょうか?
日本軍とまともに立ち向かったら、それまでドイツ軍事顧問団が作り上げてきた蒋介石軍隊が壊滅してしまう恐れがあったためです。
当時の上海では、日本人居留民が日本に帰国しようとごった返していました。
なぜ、日本に帰国しようとしていたかというと、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件があり、その3週間後の7月29日に通州事件が起きて、日本人市民が中国人から虐殺されていたからです。
日本外務省は、日本本土に引き上げるよう通達を出していました。
上海に駐留していた日本兵は、水平と陸戦隊合わせて2千名。それに対して、蒋介石軍は10万人でした。
上海の外国人疎界には武装した中国兵は入れないことになっていました。なぜなら、中国兵は、一般市民に対して虐殺と強姦(レイプ)を行うからでした。
そこで、軍服を着ずに苦力(労働者)の格好で上海の疎界に潜り込み、武器を隠し持っていました。
昭和12年8月13日、一般人を装った中国兵が、日本兵に対して射撃を開始。それを合図に、疎界に潜り込んでいた中国兵が一斉に攻撃を開始。(第二次上海事変)
日本兵は、中国兵と一般市民と区別がつかない状況で、しかも、日本人居留民を安全に船に乗船させながら、防戦しなければなりませんでした。
それも、とびきり上等のドイツ軍の武器を持った、10万の中国兵に対して、迎え撃つ日本兵は、わずか2千名の海軍陸戦隊。
日本政府は、不拡大政策をとっており、上海の日本兵は限定的な防戦に終始しました。
このような絶望的な状況にもかかわらず、日本兵は1週間持ちこたえました。
中国軍による戦闘行為が拡大していき、収束する意思がないため、日本政府は不拡大政策を改めることに決定。
呉軍港から上海に軍艦を派遣しました。
援軍が到着すると戦況は逆転し、日本軍が軍服を着ていない中国軍を追撃し始めました。
南京にいたドイツ軍事顧問団は、蒋介石に対して即時撤退を何度も忠告しました。なぜなら、目的は戦闘に勝利することではなく、外国からの干渉(特に米国)を引き起こすことだからです。
しかし、蒋介石は、「メンツ、メンツ」と叫んで、撤退しようとしませんでした。
ドイツ軍事顧問団が何年もかけて作り上げた軍隊が、消滅の危機にありました。
中国兵はキャセイホテルなど、一般市民が多くいる場所を狙って空爆しました。また、中国市民が住んでいる住居を盾につかて戦闘行為を繰り返していました。
それに対して、日本軍は、繰り返し、市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しました。
この戦闘期間中、ドイツ軍事顧問団と蒋介石は、宣伝活動を積極的に行なっていきました。
「決死の大隊」「玉砕旅団」とか「中国の勝利」「日本の敗退」と言った嘘のキャッチフレーズで、世界に向けてニュースを流していきました。
米国の新聞は、日本軍の市民への爆撃、を見出しに掲げて記事を書きました。
陸海軍協定が結ばれ、11月5日、上海の南60キロの杭州湾に日本陸軍が敵前上陸し、上海を陸から攻撃する作戦をとりました。
陸軍の兵士を乗せた2列縦隊に並んだ大船隊、それに並んで海軍の軍艦が、伸び縮みせずに一定の間隔で堂々と進んでいきました。
その横を真っ白な病院船(赤十字)が通っていきました。病院船の甲板には真白い看護婦さんたちが一杯に立ち並んで、「バンザイ!」と叫びながらしきりと手をふっていました。
(「征野千里」谷口勝著)
第三艦隊に編入された「多摩」に500名の陸軍兵が乗艦して着ました。乗艦した兵はほとんどが30歳過ぎであり、赤紙で召集されてきた人たちでした。
妻子の元を離れてくるときはどんなに辛かったのだろうか、30代ということは子供もまだ小さいはず。
揚子江河口を遡り、夜中に母艦を離れて陸軍兵が敵前上陸を開始。約10隻の艦から一斉に艦砲射撃を行いました。
夜明けまで艦砲射撃が続きましたが、「多摩」だけでも100名の負傷兵が次々と運びあげられ、病院船に引き渡しました。
(「海軍かまたき出世物語」斎藤兼之助著)
「日軍100万上陸杭州北岸」の知らせを聞いた上海の中国軍は、一斉に南京に向けて退却していきました。
上海の英字紙には、次のような論評が掲載されました。
「中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、
一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきである。」(『東京朝日新聞』 1937年11月11日付夕刊)
国民党軍は撤退するにあたり、一般住民の住居をかたっぱしから放火して焦土にしていきました。(堅壁清野作戦)
そして、略奪や暴行や破壊、強姦(レイプ)を行なっていきました。
国民党軍が撤退するときは、略奪をすることは常となっていました。(『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊)
また、国民党軍は、一般民衆の所有物を強制的に取り立てていきましたが(徴発)、それに拒否すると裏切者(漢奸)として処罰の対象とされました。
上海では、日本軍と通じる者と疑われた中国人民を、裏切者(漢奸)として銃殺あるいは公開処刑することが日常化して、その数は4000名に達しました。(漢奸狩り)
国民党軍では、一般市民を強制的に徴兵して武器を持たせて、最前線で日本軍相手に戦闘させて、逃げようとする兵士がいたら、後方で見張っている同じ国民党軍が銃殺していきました。(督戦隊)
南京になだれ込んだ国民党軍は、上海同様に、南京城の内外の民家を放火しまくり、略奪を行い、日本に内通していると疑われる者を処罰していきました。
そして、12月7日、蒋介石夫妻やファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問とともに、米国人パイロットの飛行機で、重慶に向け逃げました。
南京城内は国民党軍の将校たちが逃げてしまったので、指揮系統が混乱し、無政府状態になりました。
12月8日、松井石根大将を司令官とする日本軍は、国民党軍に投降を呼びかけるビラをまきました。
そのビラの概要は「10日正午までに南京城を平和裡に解放せよ、回答がない場合は止むを得ず南京城攻略を開始する」
という者でした。
12月10日、回答期限を過ぎても何の回答もなかったため、日本軍は南京城に攻撃を開始して、12月13日に南京城は陥落しました。
昭和13年(1938年)3月28日、中華民国維新政府が成立。
昭和15年(1940年)3月30日、汪兆銘を代表とする南京国民政府を樹立して、中華民国維新政府を編入しました。
南京城陥落後、日本軍の統治下のもと、南京市内の治安は回復して昭和20年8月15日の日本降伏まで、平和で豊かな生活を送っていました。
参考図書
「中国の戦争宣伝の内幕」F・ビンセント・ウイリアムズ著
写真
中国無名兵士の墓を慰霊する日本軍将兵(※南京陥落前)
『支那事変画報』毎日新聞、昭和12年12月11日発行






