子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -26ページ目

蒋介石率いる国民党軍の軍事顧問として派遣されていたドイツ将校達は、蒋介石に次のように言いました。

 

「外国に干渉するように頼みなさい。あなたは一人では勝てない。ロシアは今ここにはいない。協力者が必要だ。イギリスに頼みなさい。しかし、力のある干渉者となると好ましいいのは米国です。こうしたことになると米国人は便利です。」と。

 

ドイツ軍事顧問団は、モスクワとロンドンから世界に向けて宣伝活動(プロパガンダ)を積極的に行なっていました。そして、世界中を反日にするように仕向けて行きました。

 

蒋介石は、上海に注目しました。上海は外国人疎開があり、多くの外国人が住んでいました。そこで、戦闘を起こせば外国からの干渉を引き起こすことが簡単にできるだろうと、考えたのです。

 

ドイツ軍事顧問団もこれに同意しましたが、蒋介石に次の忠告をしました。

 

それは、蒋介石軍の私兵を上海戦に参加させないこと。そして、日本軍に一撃したら立ち去ること。

 

なぜ、ドイツ軍事顧問団はこのような忠告をしたのでしょうか?

 

日本軍とまともに立ち向かったら、それまでドイツ軍事顧問団が作り上げてきた蒋介石軍隊が壊滅してしまう恐れがあったためです。

 

当時の上海では、日本人居留民が日本に帰国しようとごった返していました。

 

なぜ、日本に帰国しようとしていたかというと、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件があり、その3週間後の7月29日に通州事件が起きて、日本人市民が中国人から虐殺されていたからです。

 

日本外務省は、日本本土に引き上げるよう通達を出していました。

 

上海に駐留していた日本兵は、水平と陸戦隊合わせて2千名。それに対して、蒋介石軍は10万人でした。

 

上海の外国人疎界には武装した中国兵は入れないことになっていました。なぜなら、中国兵は、一般市民に対して虐殺と強姦(レイプ)を行うからでした。

 

そこで、軍服を着ずに苦力(労働者)の格好で上海の疎界に潜り込み、武器を隠し持っていました。

 

昭和12年8月13日、一般人を装った中国兵が、日本兵に対して射撃を開始。それを合図に、疎界に潜り込んでいた中国兵が一斉に攻撃を開始。(第二次上海事変)

 

日本兵は、中国兵と一般市民と区別がつかない状況で、しかも、日本人居留民を安全に船に乗船させながら、防戦しなければなりませんでした。

 

それも、とびきり上等のドイツ軍の武器を持った、10万の中国兵に対して、迎え撃つ日本兵は、わずか2千名の海軍陸戦隊。

 

日本政府は、不拡大政策をとっており、上海の日本兵は限定的な防戦に終始しました。

 

このような絶望的な状況にもかかわらず、日本兵は1週間持ちこたえました。

 

中国軍による戦闘行為が拡大していき、収束する意思がないため、日本政府は不拡大政策を改めることに決定。

 

呉軍港から上海に軍艦を派遣しました。

 

援軍が到着すると戦況は逆転し、日本軍が軍服を着ていない中国軍を追撃し始めました。

 

南京にいたドイツ軍事顧問団は、蒋介石に対して即時撤退を何度も忠告しました。なぜなら、目的は戦闘に勝利することではなく、外国からの干渉(特に米国)を引き起こすことだからです。

 

しかし、蒋介石は、「メンツ、メンツ」と叫んで、撤退しようとしませんでした。

 

ドイツ軍事顧問団が何年もかけて作り上げた軍隊が、消滅の危機にありました。

 

中国兵はキャセイホテルなど、一般市民が多くいる場所を狙って空爆しました。また、中国市民が住んでいる住居を盾につかて戦闘行為を繰り返していました。

 

それに対して、日本軍は、繰り返し、市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しました。

 

この戦闘期間中、ドイツ軍事顧問団と蒋介石は、宣伝活動を積極的に行なっていきました。

 

「決死の大隊」「玉砕旅団」とか「中国の勝利」「日本の敗退」と言った嘘のキャッチフレーズで、世界に向けてニュースを流していきました。

 

米国の新聞は、日本軍の市民への爆撃、を見出しに掲げて記事を書きました。

 

陸海軍協定が結ばれ、11月5日、上海の南60キロの杭州湾に日本陸軍が敵前上陸し、上海を陸から攻撃する作戦をとりました。

 

陸軍の兵士を乗せた2列縦隊に並んだ大船隊、それに並んで海軍の軍艦が、伸び縮みせずに一定の間隔で堂々と進んでいきました。

 

その横を真っ白な病院船(赤十字)が通っていきました。病院船の甲板には真白い看護婦さんたちが一杯に立ち並んで、「バンザイ!」と叫びながらしきりと手をふっていました。

(「征野千里」谷口勝著)

 

第三艦隊に編入された「多摩」に500名の陸軍兵が乗艦して着ました。乗艦した兵はほとんどが30歳過ぎであり、赤紙で召集されてきた人たちでした。

 

妻子の元を離れてくるときはどんなに辛かったのだろうか、30代ということは子供もまだ小さいはず。

 

揚子江河口を遡り、夜中に母艦を離れて陸軍兵が敵前上陸を開始。約10隻の艦から一斉に艦砲射撃を行いました。

 

夜明けまで艦砲射撃が続きましたが、「多摩」だけでも100名の負傷兵が次々と運びあげられ、病院船に引き渡しました。

(「海軍かまたき出世物語」斎藤兼之助著)

 

「日軍100万上陸杭州北岸」の知らせを聞いた上海の中国軍は、一斉に南京に向けて退却していきました。

 

上海の英字紙には、次のような論評が掲載されました。

 

「中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、

 

一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきである。」(『東京朝日新聞』 1937年11月11日付夕刊)

 

国民党軍は撤退するにあたり、一般住民の住居をかたっぱしから放火して焦土にしていきました。(堅壁清野作戦)

 

そして、略奪や暴行や破壊、強姦(レイプ)を行なっていきました。

 

国民党軍が撤退するときは、略奪をすることは常となっていました。(『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊)

 

また、国民党軍は、一般民衆の所有物を強制的に取り立てていきましたが(徴発)、それに拒否すると裏切者(漢奸)として処罰の対象とされました。

 

上海では、日本軍と通じる者と疑われた中国人民を、裏切者(漢奸)として銃殺あるいは公開処刑することが日常化して、その数は4000名に達しました。(漢奸狩り)

 

国民党軍では、一般市民を強制的に徴兵して武器を持たせて、最前線で日本軍相手に戦闘させて、逃げようとする兵士がいたら、後方で見張っている同じ国民党軍が銃殺していきました。(督戦隊)

 

南京になだれ込んだ国民党軍は、上海同様に、南京城の内外の民家を放火しまくり、略奪を行い、日本に内通していると疑われる者を処罰していきました。

 

そして、12月7日、蒋介石夫妻やファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問とともに、米国人パイロットの飛行機で、重慶に向け逃げました。

 

南京城内は国民党軍の将校たちが逃げてしまったので、指揮系統が混乱し、無政府状態になりました。

 

12月8日、松井石根大将を司令官とする日本軍は、国民党軍に投降を呼びかけるビラをまきました。

 

そのビラの概要は「10日正午までに南京城を平和裡に解放せよ、回答がない場合は止むを得ず南京城攻略を開始する」

という者でした。

 

12月10日、回答期限を過ぎても何の回答もなかったため、日本軍は南京城に攻撃を開始して、12月13日に南京城は陥落しました。

 

昭和13年(1938年)3月28日、中華民国維新政府が成立。

 

昭和15年(1940年)3月30日、汪兆銘を代表とする南京国民政府を樹立して、中華民国維新政府を編入しました。

 

南京城陥落後、日本軍の統治下のもと、南京市内の治安は回復して昭和20年8月15日の日本降伏まで、平和で豊かな生活を送っていました。

 

参考図書

「中国の戦争宣伝の内幕」F・ビンセント・ウイリアムズ著

 

写真

中国無名兵士の墓を慰霊する日本軍将兵(※南京陥落前)

『支那事変画報』毎日新聞、昭和12年12月11日発行

 

 

 

明治33年(1900年)、中国の山東省で数万人規模の武装蜂起が起きました。(義和団の乱)

 

外国人宣教師や外交官を殺害し、北京の各国公使館を包囲。

 

これに対し、イギリス、フランス、ロシア、日本など8カ国が、自国の居留民保護のために、天津の港に停泊していた各国の軍艦から約400名の陸戦隊を北京に送りました。

 

日本からも軍艦「愛宕」の水兵25名が参加しました。

 

北京では、義和団が北京に押し寄せる数日前、各国の公使館付武官や陸戦隊指揮官がイギリス公使館に集まり、具体的な防衛計画を話し合いました。

 

その時の総指揮を取ったのがイギリス公使のクロード・マクドナルドでした。

 

6月13日、公使館区域に約500名の義和団が襲撃。

 

6月21日、各国の公使館を警備していた清国軍(当時の中国政府)は、西太后の命令により、暴徒と化した義和団を鎮圧するのではなく、義和団と一緒になって公使館を襲撃しました。

 

この時、日本代表の柴五郎中佐は、最も激しい戦闘を進んで引き受け、少人数で暴徒や清国軍をことごとく撃退していきました。

 

イギリス公使のクロード・マクドナルドは、柴五郎中佐率いる日本兵の勇敢さや礼儀正しさに驚愕して、イギリス兵とイタリア兵も、柴五郎中佐の指揮下に入れました。

 

各国の外交官や、陸戦隊は北京に55日間も籠城しました。

 

どのような苦境にあっても冷静沈着な会津出身の柴中佐と、明るく忍耐強い日本兵の姿を見て、北京で籠城する各国兵士は、その士気をあげました。

 

柴中佐は戦術能力に優れており、作戦計画をするにあたり、各国武官たちは皆、柴中佐に意見を求めるようになりました。

 

柴中佐は、砲兵出身であり情報勤務も経験豊富であったので、北京城やその周辺の地理を調べ尽くして、情報網も作り上げていきました。

 

8月14日、籠城戦が終わり義和団や清国軍を鎮圧しましたが、各国の軍隊は略奪や暴行が多発しました。

 

その中でもひどかったのがロシア兵でした。

 

日本兵はそのような行為は一切なく、軍規に従って、規律正しく行動しました。

 

日本軍の勇敢さと軍規の良さが世界中に報道されました。

 

イギリスのスタンフォード紙は、事件当時、次のような記事を書きました。

 

「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰もが認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気溌剌たるは、真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない。」と。

 

また、ロンドンタイムズは、当時、次のように記事にしました。

 

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」と。

 

英国政府は、柴五郎中佐率いる日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、勇敢さに心打たれました。

 

義和団事件が鎮圧されたあと、各国の軍隊は引き上げましたが、ロシアだけが、2万人の兵隊を満州に送り込み、そのまま居座りました。

 

英国と日本は、ロシアの脅威をけん制する目的で、明治35年(1902年)1月、日英同盟を締結。

 

英国が外国と同盟を結ぶのは、史上初めてのことでした。

 

日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、勇敢さが認められたからです。

 

参考図書

「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝・他著

 

 

 

朝鮮半島の国内政治は、日本人にとって長年にわたり、極めて憂慮するべき問題でした。

 

なぜなら、社会不安は、天然病や黄熱病のように簡単に国境を超えて伝染する可能性があるからです。

 

日韓併合前までの朝鮮半島では、数世紀に渡り、李氏王朝の失政が行われていました。

 

その結果、独立国家として維持することが難しいほど財政的にも逼迫して、国家としての体裁を整えることができなくなっていました。

 

また、当時の清やロシアが朝鮮半島を事実上占領しており、日本の安全保障を脅かすほど脅威となっていました。

 

このような状況のもと、明治27年(1894年)、日本は清との間で戦争をして、戦争終了後の下関条約の第一条において、清に対して朝鮮半島における宗主権を放棄し、完全に独立を認めることを約束させました。

 

一般的に、条約の第一条は優先順位の一番高い事項となりますが、日本は第一に朝鮮半島の独立を清に要求したのです。

 

さらに、明治37年(1904年)、満州と朝鮮に対して陰謀を企てていたロシアとの間で戦争をしました。

 

当時のロシアは、ウラジオストクと日本から略奪した旅順(三国干渉)を占領して、世界最強の要塞を構築していました。また、シベリア横断鉄道は、朝鮮国境まで延長されていました。

 

戦争終了後のポーツマス条約の第一条において、改めて、朝鮮半島からロシアが引き上げることを約束させました。

 

日本は、一貫して朝鮮半島の独立を勝ち取るために、清とロシアと戦ったのです。10万人以上の日本兵の犠牲者を出してまで。

 

明治38年(1905年)、日本は朝鮮半島に総督府を設けて、朝鮮は日本の保護国となりました。

 

朝鮮では、権威者と責任者が分裂していました。そのような両頭政治体制で、社会不安や行政の無力さを導いたのでした。

 

そこで、明治43年(1910年)8月22日、二国間の全権大使によって調印された条約のもと、大韓帝国皇帝は日本の天皇に、朝鮮全土の統治権を完全かつ恒久的に譲渡を行いました。

 

1週間後に、天皇は日韓併合と朝鮮総督府の設立を命ずる勅令を発表しました。

 

明治43年(1910年)8月29日から日本は、朝鮮の行政に対して、全責任と全権を担ったのでした。

 

朝鮮王室の維持のために十分な歳費が与えられました。元王族に対して日本の皇族と同じ特権と名誉が認められました。

 

そして、貴族の称号が、多くの朝鮮人上流層の人々に与えられました。

 

梨元宮の方子(まさこ)様は、裕仁親王(昭和天皇)の最も有力なお后候補であったにも関わらず、朝鮮の李王朝の皇太子のお后となりました。

 

日本の皇室と朝鮮の皇室は同列だったのです。

 

一方で、日本と朝鮮と同じような地理にある、米国とキューバではどうだったのでしょうか?

 

キューバはスペインの植民地でしたが、重税や奴隷制度への不満などから、1868年から1878年にかけて独立戦争が行われました。

(第一次キューバ独立戦争)

 

明治19年(1886年)10月に奴隷制度が廃止され、それまでの奴隷たちは、農民や労働者階級の仲間入りをしていきました。

 

そして、多くの裕福なキューバ人が財産を失いました。

 

砂糖工場などに米国から、大規模な投資が行われていきました。

明治28年(1895年)にはその投資額は5000万ドルに達していました。

 

キューバは政治的にはスペインの植民地でしたが、経済的には米国に依存していきました。

 

そして、明治28年(1895年)2月、キューバ各地で独立運動家たちが蜂起して、独立運動を活発化させていきました。

(第二次キューバ独立戦争)

 

このような状況のもと、明治31年(1898年)4月、米国とスペインの間で戦争が行われました。

(米西戦争)

 

米国海軍はスペイン艦隊を壊滅して(サンチャゴ・デ・クーバの役)、パリ条約において、米国はキューバを保護国としました。

 

イギリスにおいては、1826年、インドを植民地運営していたイギリス東インド会社が、マレー半島における3つの植民地(ペナン、シンガポール、マラッカ)を統合して海峡植民地として、インドのベンガル総督府が管理するようになりました。

 

日本は、米国と英国に習い、地政学的に影響力の大きい朝鮮半島を、清とロシアという大国との戦争の勝利により保護国とし、総督府を設置して、行政運営を行っていったのです。

 

日韓併合の1年前の明治42年(1909年)12月4日、韓国の一進会が、韓国皇帝の純宗(じゅんそう)、韓国統監の曾禰荒助(そね あらすけ)、韓国首相の李完用(り かんよう)に対して、「韓日合邦を要求する声明書」を送りました。

 

「韓日合邦を要求する声明書」

「日本は、日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし、韓国を独立させてくれた。

 

また日露戦争では、日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

 

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。

 

第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

 

我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

 

参考図書

"The New Korea"  アレン・アイルランド著

 

 

1919年3月1日、朝鮮の民族主義者たち33名が、公園に集まり独立宣言をしました。

(三・一運動)

 

日本政府は、軍と警察を動員して、この運動を鎮圧しました。

 

そして、それまでの武断政治から文民政治へと転換するため、長谷川好道を更迭して、斎藤實(まこと)男爵を朝鮮総督に送りました。

 

1919年9月に朝鮮総督に就任した斎藤實(まこと)男爵は、政務総監となった水野錬太郎とともに、南大門駅(現ソウル駅)において、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)によって爆弾を投げつけられました。

 

この事件で2人は無事でしたが、護衛の警察官など37名が死傷しました。

 

(1962年、韓国政府は、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)に、建国勲章大韓民国章を叙勲し、ソウル駅前に銅像を建立。)

 

通常でしたら、このような事件が起きると強硬な態度を取ってもおかしくないのですが、斎藤實(まこと)男爵は、高圧的な態度を取る代わりに、寛大で友好的な姿勢を取り続けました。

 

東京の軍や官僚から非難を浴びようとも、時間をかけて朝鮮の人々の幸福と繁栄を成し遂げようとしました。

(”The Christian Advocate" メゾシスト教会 ハーバート・ウエルチ著)

 

具体的に朝鮮は、どのような物質的発展を遂げたのでしょうか?

 

朝鮮の人口の82%は農業従事者でした。耕作面積は1912年で1060万エーカー(約42、900平方キロ)。1923年では1500万エーカー(約6万平方キロ)と11年で1.4倍。

 

農作物の推定原価は4億3500万円から11億6900万円に上がりました。

 

これは農業金融の組織化と荒地の開拓、農法の改善などによります。

 

1912年時点の未償還の農業貸付金額は500万円未満でしたが、1923年には1億3400万円以上となり増加の大部分が農業の様々な改良のための投資にあてられていきました。

 

養蚕の生産高は、1910年で40万円にすぎませんでしたが、1923年では2600万円にまで増加しました。

 

林業では、併合前までは、森林保護はほとんど無視されてきました。

 

そのため、薪や建築資材の深刻な不足と、はげ山が、雨季の大量の降水量に耐えられなくなり、毎年深刻な土砂災害を誘発していました。

 

1911年、朝鮮総督府は新たに造林規定を設けました。

 

併合以来、10億以上もの苗が、朝鮮の森林を再生するために植えられていきました。

 

政府はさらに、森林組合の結成を促進して、1925年にはこれらのうち350の組合で総組合員数がほぼ100万人になりました。

 

漁業では、漁法の改良、水産物の保存や包装方法の改良がなされて、1912年の漁獲高は800万円に対し、1921年は4500万円に増加。

 

鮮魚の輸出高は1912年は13万8千円に対し、1921年は700万円以上に増加。

 

製造業では、併合前までは、商業や産業の進歩は深刻に阻害されていました。それは貨幣システムの劣悪な状況、生活と財産への不安、怠惰で腐敗した政治によるものであります。

 

また、産業の様々な分野の科学的研究から得られるであろう恩恵に対しても、韓国政府の関心が不足していたことが原因でした。

 

これらの問題の一つ一つに対して、朝鮮総督府は大幅な改革をして行きました。

 

その結果、1912年の貿易高、88,101千円に対し、1921年は450、658千円と、9年間で5倍以上に増加しました。

 

日本が朝鮮半島を併合したことで、朝鮮の産業は飛躍的に発展して行きました。

 

参考図書

「The New Korea」 アレン・アイルランド著

 

 

 

1910年に日本と朝鮮が併合されました。併合前の朝鮮半島の地方制度は、どのようなものだったのでしょうか?

 

道(日本の都道府県に相当)、府(日本の都市部の特別区に相当)、郡(日本の市の相当)、面(日本の小さな村や町に相当)の他に警察機関、財務機関がそれぞれ独立してありました。

 

また、外国人の教育のための学校組合もありました。

それぞれが特殊な行政をしていて、それぞれの機関が交錯していていました。

 

財政的には、併合に伴い、天皇から3000万円(1500万ドル)の寄付(恩賜金)が贈られました。

 

そのうちの3分の1は朝鮮の貴族や功績のある官司、学者、経済的に恵まれない孤児や未亡人に贈与されました。

 

残りの1700万円はその利子によって、朝鮮の人たちを様々な形で援助できるような恒久的な資金として、蓄えられました。

 

このような状況のもと、1919年に朝鮮総督府に就任た斎藤氏は、行政の地方分権政策を始めました。

 

それぞれの行政機関を統廃合していきました。

(日本の平成の市町村合併のように)

 

また、府の諮問機関として府協議会がありましたが、その構成員は政府からの任命で構成されていました。それでは民意が反映できないので、一般民衆の選挙によって選ばれるようにしました。

 

面についても同様、面協議会を設置して、その構成員を、一般民衆の選挙によって選ぶようにしました。

 

しかし、一般民衆による選挙ということに慣れていない朝鮮半島では、すべての面に置いてそれを実行すると、混乱が生じるということで、当面は一部の面のみで実地することとなりました。

 

改定された地方制度は1920年10月1日をもって実地され、11月20日には府と特定の面において、協議委員の一般選挙が行われました。

 

当初は、朝鮮人たちは無関心でしたが、次第に熱意を示し、多くの朝鮮人が立候補しました。

 

12の「府」と24の「面」での選出された構成割合は、

府においては、日本人134人、朝鮮人56人。

面においては、日本人130人、朝鮮人126人。

 

日本人たちは、自分たちの間で合意して、日本人の候補者を制限しました。

 

朝鮮人は少なからず、日本人候補者に投票しました。そして、当選した日本人の中には、次点の朝鮮人に当選を譲る人も何人もいました。

 

一般選挙を行うように指定されなかった、他の「面」の協議委員たちは、「道」や「府」などから任命されました。

 

1920年12月20日時点の「道」、「府」、「郡」、「面」の議員の構成割合は次の通りです。

日本人 87人

朝鮮人 275人

合計 362人

 

地方行政の協議委員の朝鮮人の割合は、76%を占めていました。

 

朝鮮半島の教育制度は、どのようなものだったのでしょうか?

 

1398年李王朝の創始者である、李成桂がソウルに成均館という最高学府をを作り、その後、各地に郷校という学校ができるようになりました。

 

李王朝の3代目国王である李芳遠が最高学府の予備校として4つの学校(四学)を設立しました。

 

これらの学校はすべて政府の管理下にある公立の教育機関であり、その維持は農家とそこで働く奴隷から得られた利益で賄われていました。

 

公立学校とは別に地方(道)のいたるところに中国語の読み書きだけを目的とする、「書堂」と呼ばれる私塾がありました

 

このような教育制度は、その後500年もの間、大きな変化もなく続きました。

 

1984年、日清戦争の後に、日本と清国との間で取り交わされた下関条約により、清国が支配していた朝鮮半島を独立国として認め、日本の影響力が朝鮮半島に強まっていきました。

 

1905年に朝鮮が日本の保護国となると、朝鮮の教育改革が、日本主導で行われていきました。

 

その一つに、女子教育があります。それまで、朝鮮半島では、女子教育は積極的に行われておらず、キリスト教の伝道グループが設立した学校に限られていました。

 

そこで、ソウル(漢城)に漢城女子学校を設立しました。

 

1904年に農商工学校が、1906年に私立商業学校が設立されました。大倉喜八郎卿が20万円を寄付をして設立されました。

 

その後、6年間で10校の農林業の公立学校、2校の商業の私立学校が設立されました。

 

日本の保護国になってから最初の数年間は、教育施設の増設に対し、朝鮮人から強い要望がありましたが、日本政府の財務能力を大幅に上回るものでした。

 

その結果、朝鮮半島の各地域に競うようにして数百もの私立学校が設立されていきました。

 

乱立した私立学校では、学問とは言えない施設もあり、不正も行われたので、全ての私立学校が政府の監督下におかれました。

 

1910年の公式記録では、朝鮮総督府が認可した私立学校は2220校、うちミッションスクールは823校でした。

 

1910年の日韓併合後、朝鮮総督府が設立されると、日本人と朝鮮人の両方の教育管理は、総督府内務部の学務部が一括して監督するようになりました。

 

しかし、朝鮮半島ではこれまであった「朝鮮の子供は朝鮮学校へ、日本の子供は日本の学校へ」という二本立ての教育制度を、引き続き続けることが決められました。

 

朝鮮人向けの公立学校は、1909年には139校、1911年には280校とわずか2年間で2倍に増え、

 

朝鮮人学生の数は、1909年には1万6506人、1911年には3万201人と、2年間で1.8倍に増えました。

 

これらの学校で働く教員の数は、1909年には731人だったのが、1911年には1295人に増えました。

 

1920年になると朝鮮人の生活水準も飛躍的の向上し、教育熱も高まり朝鮮人学校も数も大幅に増えたので、今までのように朝鮮人と日本人を分離して教育していくことが、見直されるようになりました。

 

専門学校、師範学校、工業、商業学校では、日本人と朝鮮人の共学のみでしたが、初等・中等教育では、「習慣的に朝鮮語を使っている人」と「習慣的に日本語を使っている人」のための学校に分かれていました。

 

1925年には中等学校、高等普通学校、女子普通学校の運営は、総督府から地方政府に移管されました。これらの学校の敷地及び所有物の無料使用権が与えられた上に、

 

総督府から地方政府に補助金が交付されました。9校の中等学校の運営費として、53万円、14校の高騰普通学校に65万6千円、2校の女子普通高等学校には10万8千円が、運営費として地方政府に交付されました。

 

生徒数は1911年から1924年の13年間で、11万789人から54万2679人に増加。

 

中でも最大の増加は、普通学校の2万121人から36万1710人でした。(普通学校とは朝鮮語を常用としている児童が通う小学校であり、日本語を常用としている児童は尋常小学校と高等小学校に通いました)

 

この数字には、幼稚園と書堂(中国の古典と書道のみを教える、朝鮮人経営の初等私立学校)の児童数は含まれていません。

 

幼稚園は1911年の606人から1924年の4510人、書堂では14万1604人から25万6851人へと増加しました。

 

教育課程はどのようなものだ他のでしょうか?

 

6年生の公立小学校の標準教科課程では、

道徳は週1時間。

国語(日本語)は、1年生は週10時間、2、3、4年生は12時間、5、6年生は9時間。

 

朝鮮語は、1、2年生は週4時間、その他は3時間。

 

算数は、1、2年生は週5時間、3、4年生は6時間、5、6年生は4時間

など。

 

また、宗教教育についてはどのようになっていたのでしょうか?

 

1911年に朝鮮教育令が施行され、新しい規則法が1915年に発令されました。

 

この規則法では、正規の科目として、聖書を教えることや宗教儀式を行うことができなくなりました。

 

これに従わない場合は、朝鮮総督府から正規の学校として認定されず、官立学校卒業生に与えられる特典も認められませんでした。

 

これは、学校制度において、公立私立を問わず、すべての学校に対して等級が与えられ、その等級ごとに決められた教育課程が規定され、科目に対して指定した時間数が決められていました。

 

そのため、この教育課程から逸脱することを許されたら、卒業生は多様な教育課程の数と多様な解釈ができることを意味してしまい、混乱を招いてしまいます。

 

規定教科の時間外であれば、聖書を読み、宗教教育を施し、学校の敷地内で、宗教儀式などを行うことは許されていました。

 

南メソジスト教会のアルフレッド・W・ワトソン牧師はこの点について、次のように述べました。

 

「新しい教育令は宗教教育に制限なしの自由を与えると同時に、政府から完全公認されている学校と同じ特権のいくつかを享受できるなど、ミッションスクールが別種類の認識を得られる道筋を与えている。

 

誤解のないように付け加える必要があるが、事実、政府の完全公認を得ているミッションスクールは規則正しく体系立てられた宗教教育を施している。

 

これは秘密裏に、または不正に行なっているものではない。政府の十分な認識と同意の下で行われており、規定教科課程外で行われている限り、法律に反するものではない。

 

基準を満たしている学校が校内で礼拝を行ったり、教育課程以外の宗教教育を行うことは、前総督府では、一時的な特例として許可が与えられるのみだった。

 

斎藤男爵のもとで、この許可は一般的で永続的なものになった。」

(「総督府の新しい教育規定の重要性」1923年7月 Korea Mission Field)

 

以上のように、日本統治下の朝鮮では、学校制度や教育課程を整備し、宗教教育を認め、朝鮮語教育(ハングル文字の普及)などを行っていきました。

 

また、学校もたくさん建設し、教員数と就学児童数を大幅に増加していきました。

 

参考図書

「The New Korea」 アレン・アイルランド著

写真は京城女子師範学校

 

 

 

 

昭和17年(1942年)2月28日、ジャワ島北東部のスラバヤ沖にて日本海軍とイギリス海軍と戦闘が行われました。

(スラバヤ沖海戦)

 

日本海軍の圧倒的な優勢で、イギリスの駆逐艦や巡洋艦など、連合国の艦は沈没して、乗組員は海に漂流しました。

 

戦闘が終了した2日後、日本海軍の駆逐艦の雷(いかずち)が、ジャワ島のスラバヤ沖合を航行していると、たくさんの浮遊物を発見。

 

さらに近づき、双眼鏡でよく見ると、それは、救命ボートにしがみつき、海に漂流していたイギリス兵たちとわかりました。

 

雷の工藤俊作艦長は、その時、次の決断をしました。

 

”イギリス兵を救出せよ”

 

この海域には潜水艦が出没しており、駆逐艦雷(いかずち)も、潜水艦からの魚雷攻撃を受けました。

 

イギリス兵を救出している間、再び魚雷攻撃を受けるかもしれない危険がありました。

 

また、燃料も限られていたので、あまり長い時間、救出に時間をかけてしまうと、敵艦が現れた時の戦闘行動に、支障をきたしてしまう恐れもありました。

 

工藤俊作艦長は、”潜望鏡が見えないか確認しろ”と見張りに何度も確認の指示を与えました。

 

工藤俊作艦長は、ラッタル(艦艇が岸壁係留時に使用する固定の大型階段)を降ろして、救助のために使用するように指示を出しました。

 

また、一番砲だけ残して、総員を救助活動のために振り向けました。

 

このような行為は、日本兵に対する救助活動でも行わない、極めて異例の対応でした。

 

救命ロープや竹竿を降ろして、抱きつかせて救出しようとしました。

 

艦から流出した重油まみれの海の中、20時間以上漂流していたイギリス兵たちを一人残らず救出して行き、合計422名を救出しました。

 

工藤俊作艦長は、甲板にてイギリス兵の将校に対して、英語で次のように語りました。

 

「あなたたちは勇敢に戦われました。あなたたちは、日本海軍の名誉あるゲストであります。」と。

 

日本兵は、救出したイギリス兵に対して、ミルクやビスケットなど食料を支給し、重油まみれの体を拭き取り、負傷兵の手当をしました。

 

翌日、救出された422名のイギリス兵たちは、ボルネオ島の港パンジェルマシンにて、オランダ病院船に引き渡されました。

 

この時、救出されたイギリス兵のサム・フォール少尉は、のちに次のように語りました。

 

「一人二人を救うことはあっても、全員を探そうとはしないでしょう。

 

例え戦場でもフェアに戦う、困っている人がいればそれが敵であっても全力で救う、それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです。」と。

 

工藤俊作艦長にとっては、このようなことは当然の行為だったかもしれません。

 

なぜなら、海軍兵学校では、武士道精神を叩き込まれていたからです。

 

工藤俊作艦長は、終戦後、家族や友人に対しても、戦争体験を一切語らなかったと言います。

 

サム・フォール少尉は、終戦後、祖国に戻ってからも、工藤艦長に対しての感謝の気持ちを忘れることはありませんでした。

 

サム・フォール少尉は、自分が死ぬ前に工藤艦長にぜひお礼を言いたいと思い、平成15年(2003年)10月と平成20年(2008年)12月に日本訪問しました。

 

すでに昭和54年(1979年)に亡くなっていた工藤艦長は、サム・フォール少尉の訪問に喜んだことでしょう。

 

工藤艦長の墓前に手を合わせたサム・フォール少尉は、422名を代表して、感謝の思いを伝えることができました。

 

参考図書:「海の武士道」恵隆之介著

 

 

 

跳び箱を10段飛ぶ幼稚園児たちがいます。

 

その保育園、幼稚園では男女みんなが、跳びます。

 

特に身体能力が優れているとか、特別なトレーニング方法を取り入れていると言うことではありません。

 

ごく普通の保育士さんたちが指導して、そのようなことが日常的に行われています。体の身体能力を鍛えることが、その後の学習能力に直接影響を及ぼすと、ある幼児教育の指導者は語りました。

 

また、1日に3万歩歩くことが必要と訴えています。今の幼稚園、保育園では、1日1万歩も歩くことはないそうです。

 

ゲーム機の普及により、急速に歩くことをしなくなったそうです。歩くことをしっかりしてきた子供は、身体能力が高いそうです。

 

そして、その後の勉強においても、高い成績を上げる傾向があるそうです。

 

「読み書きそろばん」という言葉があります。

 

これはことわざであり、真理を言い当てているのですが、まず、読むことが重要で、その次に書くこと、最後に計算という意味です。

 

幼児期に絵本をたくさん読み聞かせしてきた子供は、読解力、理解力が高いので、大人が言う言葉をすぐに理解して生きます。

 

読み聞かせをする絵本の冊数は、800冊から1000冊必要だそうです。

 

これがしっかりできていると、次の書くこともできるようになり、計算もしっかりとできるようになります。

 

この順番が大事だそうです。そして、ことわざにはなかった、”体育”が一番優先順位が高いそうです。

 

昔の人は、歩くことは当たり前でしたので、ことわざとしても残さなかったのでしょう。

 

”体育、読み、書き、計算”

 

この順番で身体能力をつけていけば、自然と”自立”した子供に育っていくそうです。

 

先ほどの、跳び箱10段を普通に跳ぶ園児たちは、このような考え方により、歩くことや身体能力を鍛えることを優先している保育園、幼稚園に通っている子供です。

 

また、幼児期に、”できる”を体験している子供は、成長していくにしたがって、”自立”した大人になっていきます。

 

ある園児が家庭の事情で、卒園式の1ヶ月前に引っ越しをしなくてはなりませんでした。

 

そこで、1人だけの卒園式を行うことになりました。その卒園式で、日頃練習している跳び箱10段を披露することとなりました。

 

普段はみんなと一緒に飛んでいる10段ですが、なぜか、この時はなかなか飛べません。

 

幼児期では、メンタル面が大きな比重を占めているので、一人だけの卒園式で、自分だけ10段を跳ぶ状況が、よく理解できなかったのかもしれません。

 

そして、みんなが応援に駆け寄りました。円陣を組み「できる、できる、できる」と。

 

その直後では、見事、跳び箱を跳ぶことができました。

 

跳び箱10段を飛んだことのない外部の人から、”頑張れ”と言う声援ではなく、

 

普段一緒に飛んでいる仲間たちから、

”いつも飛んでるじゃない、なんで跳べないの?”

 

いうニュアンスで、”できる できる できる”と言う円陣が、その子のメンタルに響いたのでしょう。

 

幼児期の、”やったらできた!”と言う体験は、その後の人生において、貴重な経験となっていきます。

 

”それしちゃダメ、あれしちゃだめ、危ない”と、制限をかけることなく、子供の無限の可能性を信じて、”やったらできた!”をたくさん体験させていきたいな、と思いました。

 

https://youtu.be/AO2Yrcoe5iA

 

昨日、幼児教育の専門家の方の講演会に参加してきました。

その方が強調していたのが、幼児期(3歳から9歳を対象)には体育がもっとも重要であると言うことです。

 

勉強は二の次であり、体の身体能力を鍛えることをしっかりやってきた子供は、学校での成績も伸びる傾向があると言うのです。

 

また、”自立”した子供に育てることが重要であると話していました。

 

親は、どうしても子供のことが心配であり、ついつい手をかけてしまいます。靴を履くことであったり、服を着替えることであったり、身近なことを一人でやらせることを積み重ねていく習慣をつけましょうとおっしゃっていました。

 

3歳までに「やればできる」と言う自立と自尊心をしっかりと植えつけてしまえば、あとは放置していても子供は自立していくそうです。

 

私の長女の場合ですが、3、4歳の頃、家の近くの鉄棒で逆上がりの練習をしました。娘は、「できない」と言う言葉を連発しました。

 

その時、私はすかさず、「できるよ」と言いました。

 

そして、ちょっと手でサポートしてあげて、娘がくるりんと回った時に、「ほら、できたでしょ」と言うと、娘の顔が晴れやかに変わりました。

 

その後、娘は、保育園から帰ってくると鉄棒に直行して、毎日鉄棒を練習していたそうです。誰に強制されるわけでもなく、自分から進んで。

 

久しぶりに家に帰ってくると、娘は、鉄棒で逆上がりが一人でできるようになったと、嬉しそうに披露してくれました。

 

 

娘は、小学受験も中学受験も経験しましたが、親が”勉強しなさい”、などと言わずに、自分から進んで勉強に励み、見事に合格しました。

 

「やったらできた!」と言う自信と体験が小さい頃にあれば、子供はどんな困難でも、「できない」と弱音を出さずに、勝手に進んでいくんだな、と感じました。

 

 

 

ベトナム戦争時、韓国軍はベトナム虐殺しましたが、韓国のベトナム派遣軍最高司令官は「誰に対しても償う必要はない」と語りました。

 

昭和36年(1961年)5月16日の軍事クーデターにより樹立された軍事政権で国家再建最高会議議長に就任した朴正煕は、同年11月、米国のケネディ大統領に米軍の傭兵としてベトナム戦争に参加したいと打診しました。

 

ケネディ大統領は受け入れを拒否していましたが、ジョンソン大統領に政権が交代すると朴正煕の要望を受け入れ、韓国軍はベトナムに派兵されていきました。

 

25歳から35歳まで、北ベトナム軍の砲兵部隊で中尉だったトンさんの証言です。

 

トンさんは、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を援助するために、ホーチミンを通って南下しました。

 

米軍は、北ベトナム軍やベトコンを見つけては、戦闘爆撃機により爆弾を投下し、次にヘリコプターによる空中からの攻撃により、草木がなくなるくらいの大量の爆弾を投下する「索敵撃滅作戦」を展開していきました。

 

一方、米軍の傭兵としてベトナム戦争に参加した韓国軍は、主にヘリコプターで農村に入り、村人たちに食事を提供するといって1箇所に集めて、村の女、子供、老人、赤ん坊を抱いた母親を、見境なく撃ち殺していきました。

 

女性に対しては強姦(レイプ)をした上で、殺害していきました。

 

そして、証拠隠滅のため、村の家に火をつけて牛などの家畜も殺していきました。

 

北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)はもちろんですが、村の女性までも立ち上がり武器を手に取り、韓国軍に立ち向かっていきました。

 

韓国軍は問題外に弱かったとトン氏は語りました。

 

北ベトナム軍や解放民族戦線(ベトコン)は、米軍と戦闘をする際、村の中に入って戦闘を絶対にしなかったそうです。なぜなら、村が破壊されることを恐れたからです。

 

村から外れた場所で戦闘をし、米軍は民間人を虐殺しなかったといいます。

 

(一度だけ米軍は、昭和43年(1968年)3月16日、ソンミ村で504名が犠牲になった虐殺事件をおこしました。責任者であるウィリアム・カリー(William Calley)中尉は、昭和44年(1969年)9月5日に起訴され終身刑を宣告されましたが、のちに減刑されて、3年半の自宅軟禁に服しました。)

 

20歳から24歳まで元解放軍として戦った、ラムさんの証言。

 

「韓国兵はとても残虐で、ベトナム人を見ると無差別で殺戮しました。朝、食事をやるからといって集めておいて、突然、銃撃し、手榴弾で殺しました。」と。

 

カムラン村には48人の南ベトナム解放軍がおり、韓国軍が村を襲撃したと聞いて、攻撃を仕掛けました。

 

500名ほどいた韓国軍を48名で撃退した、と語りました。

カムラン村では、昭和41年(1966年)8月14日、84名の女子、老人、子供が、韓国軍によって虐殺されました。

 

17歳から27歳まで元解放軍として戦った、ティさんの証言。

 

「韓国軍がヘリコプターでディエンニエン村にやってきた。子供、妊婦、若い女性、婦人、老人が集められて、小銃、手榴弾、機関銃で虐殺されました。

 

韓国軍は農家を破壊するときは、必ず牛を殺します。野良仕事ができないようにして、村人を苦しめます。」と。

 

韓国軍が村を襲撃したという報告を受け、ティさんが所属する解放軍が韓国軍を撃退するために戦闘を開始。200名いた解放軍はフランス製の旧式銃で、約600名の韓国軍を撃退しました。

 

ディエンニエン村では、昭和41年(1966年)10月9日、112名の女子、老人、子供が、韓国軍によって虐殺されました。

 

10歳の少年だったグンさんの証言。

 

「両親と兄弟の八人が、韓国兵によって虐殺されました。兵隊が立ち去った後、死体の下から這い出して逃げました。今も、韓国人に強い恨みがあります。

 

村に来た韓国軍は強制的に子供、女子、老人など村人を集めた後、突然、小銃、機関銃、手榴弾で次々と虐殺をしていきました。

 

逃げる人びとの悲鳴とともに、あたり一面血で染まりました。

父はまだ息があったので近くの病院に運ばれましたが、そこで死亡しました。」と。

 

現場で亡くなった人以外は、慰霊碑に名前が刻まれていませんので、グンさんのお父さんは、虐殺の犠牲者として名前が記録されませんでした。

 

グンさんは、お母さんに守られるように抱きかかえられていたので、奇跡的に生き延びることができたそうです。

 

昭和41年(1966年)10月9日、フォックビン村で女性46名、男性12名、不明10名の68名の方が、韓国軍によって虐殺されました。

 

このようにベトナム各地では、韓国軍によって村が焼き払われ、村人が虐殺された場所に、慰霊碑がたくさんに作られています。

 

韓国軍によるベトナム人虐殺の犠牲者は、数万人と言われています。

 

また、韓国人兵士によって、ベトナム人女性が強姦(レイプ)されてできた孤児(ライダイハン)も、数千人から1万人以上いると言われています。

 

韓国では、ベトナム戦争について、共産主義を防ぎ、自由のために戦った聖戦であるように教えられています。

 

平成11年(1999年)5月、韓国のハンギョレ新聞社の週刊誌「ハンギョレ21」に、韓国人歴史研究者の具秀ジョン(ク・スジョン)氏が、韓国軍によるベトナム虐殺を記事にしました。

(平成11年5月6日号)

 

米「ニューズウィーク」が、「暴かれた英雄の犯罪」というタイトルで、ベトナム戦争で行なわれた韓国軍によるベトナム虐殺を取り上げました。(平成12年4月21日号)

 

平成12年(2000年)6月27日、ベトナム戦争に従軍した退役軍人、約2000人が、ハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊。

 

韓国軍のベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、「ニューズウィーク」のインタビューで次のように語りました。

 

「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と。

 

参考図書

「韓国の大量虐殺事件を告発する」北岡俊明、北岡正敏共著

 

 

 

 

中国共産党の八路軍が、日本陸軍と真正面から対峙して大々的に戦闘をして大きな損害を与えた、唯一の戦いがありました。

(百団大戦)

 

この戦いの司令官であった彭徳懐(ほう・とくかい)は、毛沢東から批判を受け、粛清されてしまいました。

 

なぜでしょうか?

 

日本陸軍に大きな損害を与えた司令官は、本来でしたら賞賛されるはずです。しかし、中国では、この百団大戦は批判の対象であり、その司令官であった彭徳懐の評価は悪いです。

 

聶栄臻は次のように述べています。

 

「この戦闘は、本来、正太鉄道やその他の主要交通機関の破壊戦であった。

 

だが、のちに彭徳懐がのぼせ上り、動員部隊はますます多くなり、戦闘規模はますます大きくなり、戦闘時間も集中し過ぎたばかりか、百団大戦を対外的に大いに宣伝した。

 

毛沢東は、百団大戦の宣伝に非常な不満を持った。我々が延安に行って、整風運動に参加した時、毛沢東はこの件を批判した。

 

この戦闘は、中央軍事委員会に報告されていなかったとの風説もある。

 

だが調査によると、この戦闘を行う前に、八路軍総司令部は中央に作戦計画を報告している。

 

そしてこの中で、両面から正太鉄道を襲撃、破壊すると述べている。

 

毛沢東は次のように批判した。このような宣伝は我々の力を暴露し、日本軍が我々の力を見直すことにつながり、

 

その結果、敵は力を集中して我々を攻撃すると同時に、蒋介石は我々に対する警戒心を強めることになろう。

 

百団大戦を宣伝すれば、蒋介石は驚き慌てることになるのだ。」と。

(「聶栄臻回想録」聶栄臻著)

 

首都紅衛兵代表大会で清華大学井岡山兵団が配布した「彭徳懐の罪悪史」には次のように述べられています。

 

「1940年8月から12月まで、日本軍と対峙していた。彭徳懐は朱徳らとともに『百団大戦』を行った。

 

彭徳懐は重慶を守ろう、西安を守ろうと主張していたが、これは、重慶を本拠地としていた蒋介石を守ることに繋がった。

 

八路軍の『基本は遊撃戦(ゲリラ戦)であるが、有利な条件下での運動戦を放棄しない』という毛沢東の基本路線に背き、無謀な軍事行動を行なった。

 

彭徳懐は40万人の兵力を動員して、正太、道甫戦など5000キロに渡る戦線で出撃し、消耗戦を展開した。

 

彭徳懐は蒋介石保護に熱心になり、蒋介石の歓心を買い、蒋介石は彭徳懐に電報を打ち、褒賞を与えた。

 

百団大戦は毛沢東の戦略的な配置と作戦方針に合致せず、無謀に戦えば戦うほど、わが八路軍の損失は大きくなった。

 

百団大戦は早く我が八路軍の力を暴露してしまったため、日本軍は中共への対処を強化した。

 

百団大戦によって蒋介石はますます抗日戦に消極的となり、反共に積極的となった。

 

毛沢東は、百団大戦では早くから、彭徳懐の誤ったやり方を批判していた。

 

毛沢東は『彭徳懐がこれほど大きなことを行うにあたって、私と相談せず、我々の力が大々的に暴露された。その結果は非常に悪いものとなろう』と述べた」

(「彭徳懐の罪悪史」紅衛兵清華大学井岡山主編 1967年11月)

 

毛沢東は日本軍と正規戦で対峙することを放棄していました。

そのかわり、遊撃戦(ゲリラ戦)を通して、日本軍の後方部隊の補給路を断ち、戦闘の長期化を行うことを基本戦略としていました。

 

毛沢東の遊撃戦論は次のようなものです。

 

日本は軍事力が強く狭い国である一方で、中国は軍事力が弱く広い国であるため、日本軍は兵力が不足せざるを得なくなるため、戦争が長期化する。

 

日本軍は、装備や兵隊の質的優位があっても、量的優位があるわけではなく、これが弱点となる。

 

ゲリラ戦が日本軍の兵站を破壊して、戦闘部隊を牽制して、中国人民の掌握に成功すれば、戦略的に正規戦に呼応することが可能となる。

 

当時の八路軍は、装備や兵力において貧弱でした。屈強な日本陸軍を相手に正規戦を戦えば、いたずらに兵力を消耗して、殲滅されてしまうだけでしたので、後方部隊の兵站をゲリラ攻撃することに徹していたのです。

 

しかし、彭徳懐は日本陸軍を相手に正規戦を戦ってしまいました。

 

このことが、毛沢東が百団大戦を批判する要因である、とされていました。

 

また、毛沢東に報告をせず、彭徳懐が独断で行なった軍事行動であった、として彭徳懐が粛清される要因となりました。

 

実際、昭和34年(1959年)7月の廬山会議において、彭徳懐は次のように自己批判(検討)をしました。

 

「1940年の百団大戦は組織的に言えば、共産党中央の承認を受けずに勝手に決定したものである。これは組織も規律もない重大な行為であり、政治的にも誤りである。

 

自らの力をあまりにも早く暴露し、日本軍の主力を正面の戦場から引き寄せたことは国民党(蒋介石)に有利となり、敵後方の抗日根拠地に重大な困難をもたらした。」と。

(「彭徳懐資料集」紅衛兵清華大学井岡山主編)

 

これは、彭徳懐の心にもない言葉でした。共産党の団結のために、責任を全て引き受けようとしたのです。

 

1940年3月ごろから、日本陸軍は、華北の中共の根拠地に鉄道や道路を建設していきました。

 

これに対して、中共はその交通網を破壊する作戦を立てました。

「正太線への襲撃破壊は、1940年春、何人かの同士と議論して決まった。参加者は彭徳懐の他、八路軍高級将校たちだった。」

(「聶栄臻回想録」聶栄臻著)

 

この作戦の討論には、そのほかに鄧小平などがいました。

 

1940年7月23日、この作戦報告が共産党中央に報告されました。(「中共中央文献選集」中共中央党校出版社)

 

彭徳懐が独断で行なった作戦ではないことが明らかとなりました。

 

7月24日、毛沢東をトップとする延安の共産党中央に向けて、この作戦を進めると決定した極秘電報を打電。これに対して、毛沢東は反対しませんでした。

(「彭徳懐年譜」人民出版社)

 

のちに毛沢東が批判した、報告がなかった、というのが誤りであったことがわかります。

 

作戦が開始され、予定通り日本陸軍が建設した鉄道各線が破壊され、大損害を被りました。

 

8月23日、彭徳懐が共産党軍事委員会に電報を送りました。

「これは華北の抗戦以来、敵の侵攻に加えた積極的かつ大規模な戦闘であり、宣伝を強化・拡大すべきである」と。

 

この電報を受けて毛沢東は次のように述べました。

「百団大戦は真に人を奮い立たせるものだ。このような戦闘をさらに、1、2回組織できないものだろうか?」と。

(「彭徳懐自述」彭徳懐著 人民出版社1994年)

 

9月1日、重慶にいた周恩来は共産党中央に宛て、次のような電報を打ちました。

 

「百団大戦の影響は極めて大きく、蒋介石も最良のことだと言っている。この戦闘行動を山東及び新四軍に拡大せよ」

 

9月5日、周恩来は再度打電しました。

「百団大戦は人心を興奮させる初めての大事である。我々はここ(重慶)で、いたるところで新聞各紙が大きく報道し、『大公』『新民』『国民公報』は私の談話を発表した。八路軍の戦績を賞賛した」と。

(「真正の人ー彭徳懐」彭徳懐伝記執筆グループ編 人民出版社)

 

9月10日、中共中央書記局は全軍に向けて次のように指令を出しました。

「わが八路軍と新四軍の全勢力は、現在、強化団結の時期にあり、主として敵に対する打撃に意識を傾注するべきである。

 

華北の百団大戦の先例に基づき、山東及び華中で計画的な大規模攻勢を組織すべきである。

 

華北では百団大戦の行動を、未だ敵に打撃を与えていない方面に拡大して、これによって敵の占領地区を縮小し、根拠地を拡大し、封鎖線を突破し、戦闘力を高めるべきである。

 

また、山東と華北方面では、引き続き戦果を拡大し、200万の友軍、国民党(蒋介石)の後方及び、敵占領区内の幾千幾万の人民に良い影響を与えるべきである。

 

また、敵の重慶などへの侵攻に対して影響を与えるべきである」と。(「中共中央文献選集」中共中央党校出版社)

 

また、次のように指摘しました。

「わが党の15万の大軍は、敵後方で積極的に行動し(百団大戦)、日本軍に重大な打撃を与えて、全国人民に限りない希望を与えた」と。

(「真正の人ー彭徳懐」彭徳懐伝記執筆グループ編 人民出版社)

 

毛沢東をトップとする共産党中央には、反対意見がないばかりか、再び百団大戦を拡大することを奨励していたのです。

 

党中央からの指令に従い、9月22日、彭徳懐は第二次襲撃を行いましたが、今度は、日本陸軍による壊滅的打撃を受けて、作戦は失敗に終わりました。

 

百団大戦から2年後、昭和17年(1942年)、延安で整風運動が始まり、毛沢東は共産党の絶対的な権力を掌握。そして、毛沢東は百団大戦を批判しました。

 

整風運動とは、共産党員の思想を点検する、政治キャンペーン。党員全体に思想改造運動を展開して、毛沢東の思想を徹底的に党幹部に注入し、全面服従させる狙いがありました。

 

昭和20年(1945年)6月、中共第7回全国大会で、彭徳懐は再度、批判を受けましたが、彭徳懐は反論。

 

しかし、彭徳懐は監獄に拘禁されました。毛沢東が死んだ後も、解放されることなく、昭和49年(1974年)11月、獄中死しました。

 

中国共産党は、戦後一貫して、日本軍との戦闘は、中共(毛沢東)の指揮のもと、八路軍と新四軍が行なったのであり、国民党(蒋介石)は、山奥で観戦していただけだった、と宣伝されてきました。

 

中国人民は、骨の髄まで、この宣伝を信じ込まされてきました。

 

百団大戦も、毛沢東の宣伝により、全て彭徳懐に責任転換されて批判されてきました。

 

毛沢東が指示した、第二次攻撃による八路軍の大損害は、許しがたいものであり、また、昭和34年(1959年)7月の廬山会議における、大躍進政策への批判が気に入らなかったからです。

 

彭徳懐は、昭和18年(1943年)中共の機関紙の中で、「民主、自由、博愛、平等」を主張して、次のような孔子の価値観を認めました。

 

孔子の言葉「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」

(自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではない)

 

これに対して、毛沢東は批判して、次の価値観を主張しました。

 

毛沢東の言葉「己の欲せざる所は、人に施すべし」

(自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じだが、そんなことを構わず他人にすべきである)

(「領袖、元帥、戦友」薄一波著 中共中央党校出版社 1992年)

 

人類史始まって以来の数千万規模の大虐殺を行った、毛沢東のおそるべき価値観です。

 

参考図書

「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか」謝幼田著 草思社 2006年