朝鮮総督府による朝鮮半島の経済開発とは? | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

1919年3月1日、朝鮮の民族主義者たち33名が、公園に集まり独立宣言をしました。

(三・一運動)

 

日本政府は、軍と警察を動員して、この運動を鎮圧しました。

 

そして、それまでの武断政治から文民政治へと転換するため、長谷川好道を更迭して、斎藤實(まこと)男爵を朝鮮総督に送りました。

 

1919年9月に朝鮮総督に就任した斎藤實(まこと)男爵は、政務総監となった水野錬太郎とともに、南大門駅(現ソウル駅)において、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)によって爆弾を投げつけられました。

 

この事件で2人は無事でしたが、護衛の警察官など37名が死傷しました。

 

(1962年、韓国政府は、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)に、建国勲章大韓民国章を叙勲し、ソウル駅前に銅像を建立。)

 

通常でしたら、このような事件が起きると強硬な態度を取ってもおかしくないのですが、斎藤實(まこと)男爵は、高圧的な態度を取る代わりに、寛大で友好的な姿勢を取り続けました。

 

東京の軍や官僚から非難を浴びようとも、時間をかけて朝鮮の人々の幸福と繁栄を成し遂げようとしました。

(”The Christian Advocate" メゾシスト教会 ハーバート・ウエルチ著)

 

具体的に朝鮮は、どのような物質的発展を遂げたのでしょうか?

 

朝鮮の人口の82%は農業従事者でした。耕作面積は1912年で1060万エーカー(約42、900平方キロ)。1923年では1500万エーカー(約6万平方キロ)と11年で1.4倍。

 

農作物の推定原価は4億3500万円から11億6900万円に上がりました。

 

これは農業金融の組織化と荒地の開拓、農法の改善などによります。

 

1912年時点の未償還の農業貸付金額は500万円未満でしたが、1923年には1億3400万円以上となり増加の大部分が農業の様々な改良のための投資にあてられていきました。

 

養蚕の生産高は、1910年で40万円にすぎませんでしたが、1923年では2600万円にまで増加しました。

 

林業では、併合前までは、森林保護はほとんど無視されてきました。

 

そのため、薪や建築資材の深刻な不足と、はげ山が、雨季の大量の降水量に耐えられなくなり、毎年深刻な土砂災害を誘発していました。

 

1911年、朝鮮総督府は新たに造林規定を設けました。

 

併合以来、10億以上もの苗が、朝鮮の森林を再生するために植えられていきました。

 

政府はさらに、森林組合の結成を促進して、1925年にはこれらのうち350の組合で総組合員数がほぼ100万人になりました。

 

漁業では、漁法の改良、水産物の保存や包装方法の改良がなされて、1912年の漁獲高は800万円に対し、1921年は4500万円に増加。

 

鮮魚の輸出高は1912年は13万8千円に対し、1921年は700万円以上に増加。

 

製造業では、併合前までは、商業や産業の進歩は深刻に阻害されていました。それは貨幣システムの劣悪な状況、生活と財産への不安、怠惰で腐敗した政治によるものであります。

 

また、産業の様々な分野の科学的研究から得られるであろう恩恵に対しても、韓国政府の関心が不足していたことが原因でした。

 

これらの問題の一つ一つに対して、朝鮮総督府は大幅な改革をして行きました。

 

その結果、1912年の貿易高、88,101千円に対し、1921年は450、658千円と、9年間で5倍以上に増加しました。

 

日本が朝鮮半島を併合したことで、朝鮮の産業は飛躍的に発展して行きました。

 

参考図書

「The New Korea」 アレン・アイルランド著