子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -25ページ目

南京事変の証言 

報知新聞 二村次郎カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京虐殺ということが言われてますが

 

二村「南京にいる間、見たことありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。

 

逆に人が書いたものを見たりしています。アウシュビッツの様に殺す場所がある訳でもないからね。

 

私が虐殺の話を聞いたのは、戦後、東京裁判の時です。それで思い出すのは、南京に入った時、城内に大きい穴があったことです。」

 

ー何時頃のことですか?

 

二村「南京城に入ってすぐです。長方形で、長さが二、三十メートル位ありました。

 

深さも一メートル以上あり、掘ったばかりの穴でした。大きい穴だったから住宅の密集地でなく、野原かそういうところだったと思います。」

 

ー日本兵が掘ったのですか?中国兵が掘ったのですか?

 

二村「それは知りません。南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが、本当のことは知りません。

 

ーあとで見に行ったりしませんでしたか?

 

二村「その時は別に気にも止めてなかったので見に行ったりしません。戦後、南京虐殺と言われて、思い出したくらいです。」

 

ー捕虜をやった(虐殺した)という話がありますが。

 

二村「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのは見たことがあります。確か昼でした。」

 

ー捕虜を見て、(報知新聞)社で話題にしたりしませんでしたか?

 

二村「捕虜と言っても、戦いの途中、捕虜の一人や二人を着るのは見たことあります。

 

皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。

 

捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。

 

また、戦争で捕虜を連れていくわけには行かないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。

 

南京で捕えた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。

 

あの時、捕虜を連れて行った兵隊を探して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います。」

 

ー一般市民に対してはどうだったのでしょうか?

 

二村「市民をどうするということはないでしょう。」

 

ー南京で死体は見なかったのですか?

 

二村「死体はほとんど見ませんでした。何百人の死体を見ていれば、記憶にあると思います。

 

多くの特派員が揚子江に無数の死体が流れているのを見た、という話は聞いたことがあります」

 

ーそれが虐殺と言われているものですか?

 

二村「虐殺されたものではなく、数が多いので話題になったのだと思います。」

 

ー南京ではどこに行ってますか?

 

二村「揚子江に行きましたが、私が見たのは一人か二人の死体でした。」

 

ー入城式も慰霊祭も撮ったのですか?

 

二村「撮りました。印象的だったのが慰霊祭で、その頃、軍司令官のそばに寄ることは大変なことでしたが、慰霊祭の時はそばまで行って撮ることができました。

 

その時、私は緊張で体が震えました。

 

松井石根軍司令官は泣いて弔文を読み上げていまして、それを聞いて私も感激で涙が流れて来ました。

 

あの時の感動は今も覚えています。」

 

ー慰霊祭が終わってすぐ帰るのですか?

 

二村「数日、南京にいたのかもしれません。帰りは車で帰ったのですが、途中、車ごと田園に落ちて、それでも誰も怪我せずに無事でした。」

 

ーそのまま上海ですか?

 

二村「上海に戻ってから杭州に行きました。年が明けて1月か2月頃、津浦線に行くためまた南京に行ってます」

 

ーその頃の南京の様子はいかかですか?

 

二村「もう敗残兵もいませんし、街は整然としていました。日本兵も警備兵だけでした。」

 

参考図書

「「南京事件」日本人48人の証言」阿羅健一著 小学館

 

写真解説

「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供を抱えて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった。」(昭和12年12月15日 南京安全区にて撮影)

 

 

 

 

 

南京事変の証言

大阪毎日新聞 五島広作記者

聞き手 阿羅健一

 

ー五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか?

 

五島「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、谷師団長に可愛がられまして、作戦会議も見ておけ、と谷中将の命令で藤原武参謀が呼びに来ることもありました。」

 

ー嵐山前後、軍の方から中国人は女・子供に関わらず全て殺すべし、という命令があったと言いますが、

 

五島「そんなことはありません。私は師団の司令部にいて、師団長と行動を共にすることが多かったのですが、聞いたことはありません。東京裁判があってからの作り話しではないでしょうか」

 

ー第六師団は北支で感状をもらってないから、中支で残虐行為をやったという人もいますが

 

五島「初めて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話しでしょう。

 

戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています。」

 

ー南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

 

五島「12月12日12時に初めて城壁を占領し、13日、一部城内に入りました。私もこの時、第13連隊から選抜した部隊と城内に入りました。」

 

ーこの時、残虐行為などは?

 

五島「12月13日と14日は城内掃討で、残虐行為などありません」

 

ー翌年(昭和13年)10月の漢口攻略戦では、岡村寧次中将の第11師団軍の下に第6師団がおった訳ですが、「岡村寧次大将資料」によりますと、第6師団の旅団長牛島少将などが、第6師団について、軍紀が乱れていたと言っていますが。

 

五島「漢口攻略戦は翌年のことで、私は従軍していませんのでなんとも言えません。

 

南京陥落直後、旅団司令部は師団司令部とは別のところにあったと思います。

 

牛島少将は立派な方で、私はそこで牛島旅団長にも会っています。その時、虐殺とかそういう話はありませんでした。想像ですが、もしかすると、疑われるようなことがあったのかもしれませんが、虐殺というようなことはやってません。

 

ー南京には外国の記者が残っていましたが

 

五島「ええ。何人かと会って話をしています」

 

ーその時、日本軍の軍紀について話題になったことがありませんか?

 

五島「彼らとそういう話をした記憶はありません。パラマウントニュース映画が南京を撮っていて、私もそのニュース映画に写っています。撮ったのはアーサーメンケンです」

 

ー五島さんはいつまで南京にいましたか?

 

五島「翌年の昭和13年1月10日までいました。この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺と言われることは見てません。

 

また、強姦もあったと言われてますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後言われていることは嘘です。

 

南京攻略戦が一段落したところで、谷中将が中部防衛司令官に任命され、第6師団を離れることになりました。

 

そこで私も谷中将と一緒に上海に戻りました。」

 

ー昭和42年10月、テレビ番組で朝日新聞の従軍記者だった今井記者と下野第6師団参謀長が虐殺論争を行なったと言われています。

 

これについてお聞かせください。

 

五島「記憶がはっきりしません。私もその現場にいたのか後で下野中将に聞いたのか、覚えていません。

 

私の書いたものを見てください。」

 

参考図書

「「南京事件」 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

写真解説

南京の難民区で宣撫班(せんぶはん)(武器を持たない丸腰の日本兵で、国民党軍や中共軍に家を焼かれ食料もないような、危機に瀕した中国人民に食料を配給したり、家を建てたり、反共宣伝を行っていた部隊のこと)が、食料や菓子などを配ると、大人も子供も大勢集まって来た(昭和12年12月18日)

 

 

 

 

 

 

南京事変の証言

東京日日新聞(毎日新聞) 佐藤振寿カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー白瓜口のあと南京に向かうのですね

 

佐藤「ええ。私はもともと第百一師団の従軍記者で、白瓜口から戻った時、第百一師団は上海にいたし、台湾部隊の敵前上陸にも従軍したので、これで休めると思っていたところに蘇州に行けと言われましてね、11月20日だったと思います。そこで嵐山まで車でいき、そこから線路に沿って蘇州にいきました。

 

蘇州に着いた時は雨で、師団司令部に行きましたが、東京日日新聞の従軍記者がどこにいるかわからず、もう夜ですから社旗も見えない、そこで寒い蘇州の街の中を大声で叫んで、ようやく探し当てました。」

 

ーそのあと、どういうコースでしたか?

 

佐藤「蘇州から脇坂(次郎大佐)部隊長に着いて行きましたが、鈴木二郎(東京日日新聞記者)と一緒だったと思います。

 

この時、廃水用の溝で膝を捻挫して、それが今でも痛み、寝返りが打てない時があります。

 

常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の二人の写真をとりました。

 

煙草を持っていないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを100箱ほど買ってリュックのあちこちに入れてましたので、これを数個やったら喜んで、話が弾み、あとは浅海記者が色々聞いていました。

 

私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。

 

よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。

 

向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。

 

戦後、浅海にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている。

 

佐藤もそのうちに呼び出しが来るぞ、と言ってましたが、私には呼び出しが来ませんでした。

 

浅海が、あの写真はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だし、何か考えることが会ったんでしょう。

 

それで二人が中国で銃殺刑になってしまいました。」

 

ー浅海記者とはずっと一緒だったのですか?

 

佐藤「その時はたまたま一緒だったのです。彼は、南京陥落後、戦勝報告講演のために帰京しました。

 

師団司令部には最初から必ず一人か二人地元の記者がつき、有名な連隊にも記者が付いていました。

 

それ以外の記者は遊軍です。私は、遊軍で、浅海や鈴木など東京から来た連中も遊軍でした。

 

それで、一緒になることが多かったのです。

 

その時、軍ではどの部隊が南京一番乗りするか競争でしたが、我々記者の間でも、誰が一番乗りの部隊を取材するか競争でした。

 

無線のある前線基地には、上海の支局から、情報とか司令が届いていて、どの師団について行ったら早いとか、どの師団につけとか言ってました」

 

ーそれで第9師団についたり、第16師団についたりしていたのですね?

 

佐藤「そうです。結果として、私や浅海や鈴木は第16師団(京都)についていく形になりましたが、もともと第16師団について言ったのは京都支局の光本記者です。」

 

ー磨盤山山系を越えたあとはどんなコースですか?

 

佐藤「淳化鎮と湯水鎮の間を南京に向かい、十日頃中山文化教育館は紫金山の中山陵近くにあり、4階建の建物で、中にはガラスケースに入った古物がありました。

 

この頃も食料の欠乏に悩まされました。」

 

ー中山文化教育館にはいつまでいましたか?

佐藤「13日の南京入城までいました。他者の記者と一緒に一部屋を使い、隣の部屋は第16師団の草場旅団司令部が使っていました。

 

旅団司令部に、南京陥落はいつかと聞きに行くと、今日はまだだ、と留め置かれ、ここには結局、3日ほどいました。」

 

ー大宅壮一氏(評論家)が当時の「改造」に、佐藤さんと会ったと書いてますが

 

佐藤「その頃、大宅壮一は学芸部の社友でしたから、南京には準社員として来ていました。

 

そこで、私が大宅を中山文化教育館に連れて来たのです。彼はどこで入手したのか中国の古い美術品を持ってましてね。大宅だけではなく、記者にもそういう人がいました。

 

その頃は「十割引きで買って来た」という人が会ってね、中国には古い仏像とかがありますから、そういうものを略奪する人がよくいました。」

 

ー南京に入るのは何日ですか

 

佐藤「13日の早朝、南京が陥落したと起こされ、中山文化教育館から尾根を少し行きますと、そこが中山陵で、ここを通って中山門から入城しました。

 

先頭の兵は夜が明ける前に入ってたようです。中山門から双眼鏡で城内を見ると、遠くを中国兵が中山東路を横切って行くのが見えました。

 

よく見ると茶の軍服でね、茶の中国兵もいるのかと思っていましたが、実は日本兵で、もう第6師団が城内に入ってたわけです。

 

カメラマンの金沢喜雄が脇坂部隊について行って、既に光華門に立てられた日の丸を撮ってますから、占領は第9師団か第6師団の方が我々より早かったようです。」

 

ー南京城内の様子はどうでしたか?

 

佐藤「13日はまだ戦闘があって、中国兵があちこちにいて危険でしたが、城内は穏やかでした。中山門から入って少し行った右側に励志社があり、ここを毎日新聞の宿舎にしました。」

 

ー14日はどうでした?

 

佐藤「もうこの日は難民区の近くに通りでラーメン屋が開いており、日本兵が10銭を払って食べてました。

 

それと14日ごろは中国人の略奪が続いて、中山路を机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け、手を差し込んで盗っている中国人もいました。

 

この日も一部ではまだ中国兵との戦いは続いていました。

 

14日のことだと思いますが、中山門から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。

 

飛行場の手前です。建物には八十八師の看板がかけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。

 

敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。

 

戦場のことを平和になってから言っても無意味だと思いますが、兵隊には敵愾心があり、目は血走っていました。」

 

ー15日はどうですか?

 

佐藤「14日だったかもしれませんが、南京の大使館を開くというのでそれを撮りに行きました。

 

映画班に開田靖一というディレクターがいて、東大でフランス語をやった人ですが、その時、外交官として南京に来ていた福田篤泰(領事館補)と高校が同級だったので、彼がそのニュースを持って来まして、それで、大使館に入って国旗を掲げるというところを撮りました。

 

それから、何人かで車で城内を回りました。難民区に行くと、中国人が出て、英語で話しかけて来ました。

 

我々の服装を見て、兵隊出ないとわかって話しかけて来たのでしょうが、日本の兵隊に難民区の人を殺さないようにと言ってくれ、と言ってました。

 

この時、難民区の奥が丘になっていて、その丘の上の洋館には日の丸が上がってました。

 

全体としては落ち着いていました。」

 

ー難民区に入れましたか?

 

佐藤「入り口は閉まって、中国人がいて入れないようになってました。」

 

ー16日はどうでした?

 

佐藤「16日は中山館で難民区から便衣兵を摘出しているのを見て、写真を撮っています。

 

中山通りいっぱいになりましてね。頭が坊主のものとか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けている者とか、はっきり兵士とわかる者を摘出してました。

 

髪の長い中国人は市民とみなされていました。」

 

ー17日はどうでした?

 

佐藤「入城式があった日です。入城式の様子をなるべく上から撮ろうと思い、前の晩からはしご3本ほど探して用意しておきました。

 

それを2、3本おきに電柱にかけておいて、松井大将が中山門から入って来た時、このはしごに昇って撮りました。

 

一枚撮ってから次のはしごに移って先に行き、また昇って撮るというように何枚か撮りました。

 

この時、木村伊兵衛や渡辺義雄(ともにカメラマン)が外務省の食卓で写真を撮りに来ていて、いつもは写真を撮ってる私が逆に撮ってもらいました。

 

NHKも来て放送していたようです。

 

入城式と翌日の慰霊祭の写真でだいたい私の仕事は一段落しました。」

 

ー虐殺があったと言われてますが

 

佐藤「見てません。虐殺があったと言われてますが、16、17日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。

 

また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」

 

ー直接見てなくとも噂は聞いてませんか?

 

佐藤「こういう噂を聞いたことあります。なんでも鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関(シャーカン)の岸壁に並べて重機関銃で撃ったとうことです。

 

逃げ遅れた警備の日本兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで3千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。

 

もちろん、その時は戦後言われている虐殺というのではなく、戦闘だと聞いてました。

 

捕虜を捕まえても第一食べさせる食物がない、茶碗、鍋がない、日本兵ですら充分じゃなかったでしょうからね。

 

私らも上海から連絡員の持ってくる米が待ち遠しい位でしたから」

 

ー下関(シャーカン)をご覧になりましたか?

 

佐藤「ええ。入城式後だったと思います。行きましたが、噂で聞いたような跡はありませんでした。

 

私が行った時は、苦力を使って軍が酒樽の積み下ろしをやってました。見てる時、一人の苦力が酒樽を落としましてね。こりゃ、あとで怒られるだろうなと思いました。」

 

ー社内で虐殺の話が出ませんでしたか?

佐藤「誰と話したこともありません」

 

ー南京では、どこに行くにも写真を撮ってましたか?

 

佐藤「仕事用と個人用カメラを持っていて、個人用のライカは買ったばかりでよく撮ってました。

 

慰霊祭の後は主に個人用で街を撮ってます。その時、日本兵の死体を撮ってはダメだと言われてましたが、私は死体であろうが何であろうが撮ってました。

 

この時、百枚も撮りましたが、後になって見ても、日本兵が残虐なことをやっている写真は一枚もありません。

 

この中には日本兵が慰問袋を配って、中国人が群がっている写真などもあります。

 

そういう状態ですから、虐殺ということはたまたま私が見ていなかったのではなく、なかったのだと思います。」

 

ー仕事で撮った写真には佐藤さんが説明をつけるのですか?

 

佐藤「そうです。フィルムのタップに撮った日と場所と簡単な説明をつけて、これを連絡員が上海に持って行きます。

 

上海で現像して長崎に船で持って行き、福岡から東京へ電送したと思います。

 

東京で軍の許可を得る訳ですが、ネガは途中の大阪本社が保存してました。」

 

ーその時の写真は毎日新聞のものになるのですか?

 

佐藤「そうです。私が撮ったと言いましても、毎日新聞に属してます。」

 

ー佐藤さんはなかったと言っても、その時の写真には残虐行為という説明がついてますね?

 

佐藤「ええ、写真は説明ひとつでどうにもなりますから。15日、私が南京城内で撮った写真に、日本兵が荷物を背負って、向こう側に乳母車が写っている写真があります。

 

私も経験がありますが、荷物というのは重たくて、それで中国人に背負わせたり、ロバの背に乗せたりしました。

 

私は無銭で膝を痛めていましたので、磨盤山山系を越える時は本当に苦しくて、朝、遅れないように人より早く出発しても、最後は皆に遅れましてね。

 

ですから、兵隊の荷物のこともよく分かります。私が、見た日本兵は、南京に入ったので気が緩んで肩の力が抜けたんでしょう。

 

肩をがっくり落として歩いていました。それを見たとき、兵隊の気持ちがよくわかったので撮ったのですが、いつの間にか、

 

「”徴発”した荷物を運ぶ日本兵」

 

という説明がつけられています。

 

(徴発とは、戦時中、住民から物品を強制的に取り立てて、その対価として軍票などを支払うこと。対価を支払わない略奪とは異なりますが、徴発と称して略奪行為をしていたと説明をしている場合あります。)

 

また、同じ場面を撮っているのに、”虐殺”の場面だと言う人もいます。同盟通信の不動健治さんです。

 

戦後しばらくして発表した写真(「日本写真史1840ー1945」平凡社)にそう言う説明がついてました。

 

同じような場面を大阪毎日の松尾邦蔵や私が撮って、虐殺の死体ではなかったし、それには、

 

「倒れているのは、中国兵の”戦死体”」

 

と説明をつけています。

 

私は不動産をよく知っていて、不動さんから南京で虐殺があったなんて聞いたこともありませんでした。

 

彼の弟さんとも親交があるので、気がついた時にそのことを言ったら、兄貴はもう頭がボケているから言ってもわからないだろうと言ってました。

 

なんでも戦後、何か虐殺の写真がないかと言われて、その写真を出したと聞きました。

 

不動さんは先日亡くなりましたが、弟さんと話した時のテープはまだ持っています。」

 

ーいつまで南京にいらしたのですか?

 

佐藤「24日までいました。24日のごごにトラックに連絡用のオートバイを載せ南京を出発しました。

 

道路には大きな穴があって大変でした。途中一泊して25日早朝に上海に戻り、上海には昭和13年の2月までいて、その後で東京に戻りました。」

 

ー南京事件を聞いたのはいつですか?

 

佐藤「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思いますが、NHKに「真相箱」(「真相はこうだ」1945年12月9日ー。後「に真相箱」と改題。企画・脚本・演出をGHQ民間情報局が手がけたもの)

 

と言う番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのが初めてだったと思います。

 

たまたま聞いてましてね。テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音やきゃーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、と言うのですよ。

 

これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、と周りの人に言った記憶があります。

 

10年ほど前にも朝日新聞が「中国の旅」と言う連載で、南京では虐殺があったといって、中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。

 

なぜ日本人に聞かないで、あのような都合の良い嘘を乗せるのかと思いました。当時、南京にいた人は誰もあの話を信じていないでしょう。

 

それ以来、私は自宅で朝日新聞を購読するのをやめましてね。その時、配達員に朝日は嘘を書いているからやめる、と言いました。

 

よくあることですが、被害者は誇張して被害を語るものです。ことに南京陥落の頃には朝日の記者やカメラマンが大勢いました。

 

そうした人たちの証言が欠けていて、一方的な被害記事に終始していたので、その記事の信頼性に疑問を感じた訳です。」

 

参考図書

「「南京事件」日本人48人の証言」阿難健一著

 

写真解説

1、疲れ切って荷物を運ぶ、年老いた日本兵たち。手前では子供用のボートの形をした乳母車を引いており、写真奥ではロバの背に荷物を載せている。

(1937年12月15日)

 

2、空襲の爆風で死んだ中国兵の戦死者たち

(1937年12月13日)毎日新聞社提供

 

 

 

 

 

昭和12年12月13日南京が日本軍により陥落。

 

その後、南京城から逃げる中国兵や一般人民に対して、日本軍が虐殺をおこなったとされています。

 

実は、中国人を虐殺したのは日本軍ではなく、中国国民党軍(蒋介石軍)だったのです。

以下は、その当時の南京を守備していた、元中国軍兵士の証言を多数掲載した本(「南京大虐殺全記録」何建明著)の内容となります。

 

著者である何建明は、中国作家協会副主席を勤めている、中国では部長級の高官になります。

 

「南京を守備していた中国軍は国民党軍であり15万人いましたが、2万人が戦死し、残りの13万人が戦わずに逃げ回りました。

 

指揮官たちが真っ先に逃げてしまったので、残された軍隊の指揮命令系統が完全に麻痺してしまいました。

撤退命令を受けていない兵士と、受けたという兵士の間で、激戦が繰り広げられました。

 

(同じ国民党軍の内部で戦闘状態となったのです。)

 

戦場は唯一の通行口である南京城の城門で行われました。

ここでは5、000人以上の兵士と平民が命を落としましました。

 

人々は命かかがら別の場所から逃げ出して、ようやく揚子江のあたりまで辿り着いたが、対岸まで運ぶ船は、2、3隻しかなかった。

 

そこでまた、熾烈な血まみれの奪い合いが始まったのだ。

 

他人を船から川に突き落とす者、川に落ちて上がれず船の縁を掴む者、定員オーバーのため船が転覆して大声で助けを求める者、

 

机や椅子などにつかまりながら川の中であがく者など、死を恐る人たちは、手段を選ばずに必死に避難している。

 

もっとも残忍なのは、船に乗れなかった兵士たちが、離れていく船上の人たちを狂った野獣のように機関銃で掃射し、おびただしい人を死なせたことである。

 

川一面に死体が浮かび、血の海と化した。死者の数は数万人に上ると推測される。

 

この血なまぐさい中国人同士の殺し合いをどう解釈すればいいのか、筆者にはわからない。困惑と怒りを感じるだけだ。」

 

このように、揚子江から船に乗って逃げようとする中国人は、限られた船しかないために、すでに船に乗り込んだ中国人に向けて、機銃掃射して虐殺していったのです。

 

その数、数万人に及びました。

 

その後、日本軍が南京城に入った時には、揚子江沿岸に大量の中国人の遺体が流れついていました。

 

参考図書

「ついに中国で始まった大崩壊の真実」邱 海涛 著

 

 

 

南京事変ついて従軍記者の証言です。

 

東京朝日新聞 足立和雄記者

聞き手 阿難健一

 

阿難「南京で大虐殺があったと言われていますが、どんなことをご覧になってますか?

 

足立「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日(南京城陥落の翌日)だったから、(昭和12年12月)14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。

 

塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった。」

 

阿難「ご覧になって、その時どう感じましたか?」

 

足立「残念だ、取り返しのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました。」

 

阿難「なぜ勝てないと?」

 

足立「中国の婦女子の見ている前で、一人でも二人でも市民の見ている前でやった。

 

日本は支那に勝てないと思いました。支那人の恨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました。」

 

阿難「そのほかにご覧になりましたか?」

足立「その1箇所だけです。」

 

阿難「大虐殺があったと言われてますが」

足立「私が見た数十人を射ったほか、多くて百人か二百人単位のほかにもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるかもしれない。」

 

阿難「南京城外はどうでした?」

足立「城外と言っても上海ー南京間は戦闘行為でしょう。郊外を含めて全部で何千人か、というところでしょう」

 

阿難「そうすると、ほとんど城内であったということになりますね?」

足立「そうでしょう。青年男子は全員兵士になっていて、城内には原則として残っていないはずだ。

 

いるのは非戦闘員で老人・婦女子だけだ。もちろん全然いない訳ではないが、青年男子で残っているとすれば、特殊な任務を帯びた軍人か便衣兵だと思われていた。

 

便衣兵は各戦闘で戦いの後、日本軍の占領地に入って後方かく乱や狙撃などを行なっていましたからね。

 

逃げないで城内に入るということは、敵意を持っていると見られても仕方ない。

 

軍は便衣兵掃討が目的だったが、あるいはやりすぎがあったかもしれない。」

 

阿難「城内外に合わせて数千人あったということですね?」

足立「全部集めればそのくらいはあったでしょう。

 

捕虜を虐殺したというイメージがあるかもしれないが、それは、戦闘行為と混同しています。

 

明らかに捕虜だとわかっている者を虐殺はしていないと思います。」

 

阿難「当時の従軍記者で大虐殺を証言している人もいますが、例えば今井正剛記者」

 

足立「今井君はもうなくなっていますから。今井君は同じ社会部で接触はありました。親しくはありませんでしたが。亡くなった人のことは言いたくない。」

 

阿難「お気持ちはわかりますが、今井記者のことで知っていることをお聞かせください。」

 

足立「今井君は自分で見て書く人ではなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。南京でもカメラマンなど何人か死んでますからね。

 

今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった。

 

筆を走らせるというかな。しかし、文はうまいとされていた。」

 

阿難「守山義雄記者については?」

足立「守山君とは親しくしていたし、尊敬もしていた。」

 

足立「朝日新聞の論壇係から私のところに電話がありましてね。守山君がベルリンにいた時の話です。

 

ベルリンで、守山君は日本の留学生と飯を食ったことがあり、その時の留学生に、南京で大虐殺があったと語ったというのです。

 

その留学生が今は有名な大学教授になっているそうです。私は、彼の名前を聞くのは初めてでしたが、その大学教授がベルリンで守山君から聞いた話を論壇係宛に送ってきたというのです。

 

守山君の語った話というのは、日本軍が南京で老人・婦女子を殺し、あまりたくさん殺したので、道路が血でいっぱいになり、守山君が履いていた半長靴に血が流れ込むほどだった、というものです。

 

守山君がこういう話をしたというのです。

 

論壇係は、私が南京で守山君と一緒だったし、親しかったということを誰かに聞いて、この話を確かめようと電話をかけてきたわけです。

 

そこで私は、確かに南京では守山君と一緒でしたが、そんなことは見ていないし、後で守山君から聞いたこともない、守山君は嘘を喋るはずはない。

 

その大学教授はどんな人か知らないが、その人が言っていることは嘘だ、そういうことが載るのなら、守山君の名誉のために残念だ、と言いました。

 

論壇係は私の話を聞いて納得したようです。教授の原稿をぼつにしました。

 

南京大虐殺については意識的に嘘をついている人がたくさんいるんですよ。」

 

阿難「足立さんがいらっしゃった朝日新聞では、本多勝一記者が南京大虐殺があったと主張しているし、社会面でもよく取り上げていますが」

 

足立「非常に残念だ。先日も朝日新聞の役員に会うことがあったのでそのことを言ったんだが。

 

大虐殺はなかったことをね。

 

(省略)

 

朝日新聞の中には本多君の態度を快く思っていない人もいますよ」

 

阿難「百人斬りの話を知っていますか?」

足立「ええ、あの記事を書いた浅海(一男)君も知ってますよ」

 

阿難「浅海記者はライバルの毎日新聞の記者でしょう?」

足立「でも何度も顔を合わせていましたよ。毎日新聞は戦争を煽るような気風が特に強かったようだが、浅海君もそんな人でね。

 

あの百人斬りの記事は創作かもしれんな。

 

浅海君が百人斬りを競った二人の軍人に会ったのは事実だろうが、二人の談話は創作かもしれない。

 

浅海君は口をつぐんで何も言ってないが、心の中ではまずい記事を書いたと思っているんじゃないかな。

 

戦後、あの記事が証拠となって二人の軍人は死刑になったし、その中国へ浅海君は新聞の組合の委員長として言ってるんだからね。」

 

百人斬りとは、上海戦から南京城に向けて侵攻途中に、野田毅少尉と向井敏明少尉が、日本刀でどちらが早く支那兵を100人斬るかを競ったという内容の、新聞記事のことです。

 

この記事を書いたのが、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の浅海記者でしたが、当時の新聞は戦意高揚を目的とした記事が良しとされており、この百人斬りの記事もその目的のために書かれました。

 

「日本刀は三人戦闘で斬れば使い物にならなくなる。だから100人も斬れるはずがないので100人斬り報道は虚偽である」

(「私の中の日本軍」山本七平著書)

 

昭和22年(1947年)12月18日、南京軍事法廷において、野田毅少尉と向井敏明少尉に対する公判が行われました。

 

ハロルド・J・ティンパーリが、「百人斬り」の新聞記事を「戦争とは何か」(What War Means)という著書の中の、殺人競争(The Nankin Murder Race)という章で紹介。

 

これが証拠として採用されたので、証人尋問は行われませんでした。

 

ハロルド・J・ティンパーリとは何者だったのでしょうか?

 

ティンパーリ(Timperley)の中国名は田伯烈といい、「戦争とは何か」(What War Means)という本を出版しましたが、彼は中立的な第三者ではなく、中国国民党中央宣伝部の顧問という肩書きを持っていました。

 

国民党中央宣伝部の国際宣伝所長の曾虚伯(そう・きょはく)は、自伝の中で次のように書いています。

 

「我々は手始めに、金を使ってティンパーリ本人とティンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」と。

(「曾虚伯自伝」曾虚伯著)

 

向井と野田は、無実を証明する書類の到着を待つために、公判の延期、また問題の記事を書いた浅海記者と、当時の直属の上官の証人召喚を求めたが認められなかった。

 

記事は新聞記者による創作であると弁明して、死刑判決後にも記者と当時の向井の上司からの証明書などにより再審を求めたがこれも認められなかった。

 

昭和23年(1948年)1月28日、南京の雨花台において銃殺刑が執行されてしまいました。

 

無念だったことでしょう。

 

以下は、昭和22年(1947年)12月28日 (死刑宣告後)に野田毅少尉が残した遺文です。

 

「一 日本国民に告ぐ

 

私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。

 

自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。

 

只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。

 

再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。

 

たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。

 

然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。

 

東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。

 

今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。

 

中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。

 

至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。

 

西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。

 

愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、

 

何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。

 

猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。

 

日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。

 

此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。

 

此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。

 

桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。」

 

 

以下は、昭和23年(1948年)1月28日処刑当日の野田少尉の日記に書かれていたものです。

 

「死刑に臨みての辞世

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。

 

 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。

 

死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。

 

 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。

 

 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。

 

 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。

 

我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。

 中国万歳

 日本万歳

 天皇陛下万歳

 

 野田毅」

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」 阿難健一著 小学館文庫

 

 

 

 

南京事変の証言です。

大阪朝日新聞 山本治上海支局員

 

南京に着いたのはいつですか?

山本「着いたのは、入城式(昭和12年12月17日)の日の午後で、入城式の終わったあとでした。」

 

南京の様子はどうでしたか?

山本「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、場内は何箇所も煙が上がっているのが見えました。」

 

城内の様子はどうでしたか?

山本「特別変わったことはありません。南京で印象的なのは城壁で中国兵の死体を見たくらいです」

 

虐殺があったと言われていますが?

山本「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」

 

難民区(安全区)はご覧になっていますか?

山本「難民区は兵隊や憲兵がいては入れませんでした。そういうことですから市民は安全でした。

 

一般市民の死体というのは一つも見ていません。紅卍字会の人が戦死体を片付けたりしていました。」

 

南京には何日間いましたか?

山本「数日間いて自動車で戻りました。」

 

上海や杭州でも南京大虐殺は聞いていませんか?

山本「一度も聞いていません。上海支局長の白川さんは軍の最高幹部とも付き合いがありましたけれど、白川さんからも聞いたことはありませんでした。」

 

南京大虐殺はあったと言われていますが?

山本「事件というようなものはなかったと思います。私も見ていませんし、朝日でも話題になっていません。

 

また、あの市民の数と中国軍の動きでそういうことが起きるはずがありません。

 

私が上海、南京で見た死体というのは、最初、黄浦江の船の周りにあったたくさんの中国兵と、上海市街戦での戦死体です。

 

あとは南京の城壁ですね。城壁の死体は綺麗なもので、首を切られたとかいう虐殺されたものではありません。

 

戦死体は弾が当たって死ぬので綺麗です。

 

それと虐殺という表現ですが、戦場では、普通最も悪いとされていることが、最大の功績になるわけです。

 

平和になって平和時の感覚で言うのは、何も意味がないと思います。

 

そう言う基準で虐殺と言っているような気がします。

 

私は昭和15年になって召集され、少尉として従軍しました。この時は自分で攻撃命令も出したこともあります。

 

ですから自分で戦争もしていますし、また、記者として客観的にも見ていますが、そう言う体験から見ても虐殺事件というのはどうでしょうか」

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著 小学館文庫

 

 

 

南京で20万人以上を虐殺したと判決した東京裁判。

その判決文に証拠として採用された資料には、何の根拠もありませんでした。

 

昭和20年(1945年)11月、東京裁判に資料提出するためと、谷寿夫中将の処分を急ぐために南京市で、大掛かりな資料集めを行いました。

 

調査のために「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」という組織が設置されましたが、その構成メンバーは医師会や商工会、紅卍字会、青年会など14団体でした。

 

この調査により裁判所に提出された資料には、埋葬死体数が”15万5千人”とあり、詳細な一覧表が添付されていました。

 

(紅卍字会による埋葬死体数4万3071人、”崇善堂”による埋葬死体数11万2261人)

 

東京裁判では、判決文で次のように書いてあります。

 

「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。

 

これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、”15万5千”に及んだ事実によって証明されている」と。

(「東京裁判」)

 

この判決文に”15万5千”と書かれているように、調査委員会が資料として提出した統計表が、決定的な証拠として採用されていることがわかります。

 

この調査委員会が提出した統計表は、本当に証拠として信頼できるものなのでしょうか?

 

弁護側は次のように反論しました。

 

「この統計表は、(南京)事件後10年も経過してから作られたものである。

 

死体を10年後に明確にしようとしてもそれは不可能であり、結局この数字は全く想像によるものであると断ぜざるを得ない。

 

死体発見場所から見ても、これらの死体は戦死者の死体である。日本軍による虐殺死体とするのは誤りである。

 

この数字は多分に作為されたものである。例えば、”崇善堂”の作業を見ると、最初の4月までの間は、1日平均130体であったものが、

 

急に1日平均2600体となり、これを連続10日間にわたり、作業したことになり、その誇張、ずさんは信用できない。

 

雨花台・水西門・中山門等は当時の日本軍により清掃されたる地域にして、戦後5ヶ月(南京城陥落した昭和12年12月13日から)を経過したるのち、このような多くの死体が存在するはずがない。

 

紅卍字会の数字の中には、女・子供は皆無に近いが、”崇善堂”の数字の中には、全て男子、女子、子供を適当な減少率で死体数を記入してある。

 

明らかに作為的な数字である。」と。

 

東京裁判では、このような弁護側の反論を全て棄却して、調査委員会の報告をそのまま証拠として採用して、判決を下しました。

 

 

第16師団長参謀長であった中沢三夫大佐は次のように述懐しました。

 

「死体処理は日本軍が主体となって、各種民間団体と多数の苦力(クーリー)を使って行いました。しかるに、紅卍字会や”崇善堂”が日本軍とは無関係に、独自に処理したかのように発表しているが、事実に反する。」と。

 

”崇善堂”とはどのような団体だったのでしょうか?

 

”崇善堂”の事業内容は、衣料給与、寡婦の救済、保育などが主な事業。

(「民国24年度(昭和10年)南京市政府行政統計報告」南京市政府秘書処発行)

 

とあり、葬儀や埋葬はやっていないことがわかりました。

 

南京城の内外に散財した死体は、紅卍字会及び自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分していきました。

(「中華民国27年度南京市概況」)

 

この資料でも、埋葬業者として、”崇善堂”の名前は出てきませんでした。

 

南京の日本商工会議所編の「南京」の中にある、「南京市政公署振務委員会」の収支表では行政院が各種慈善団体に補助金を支給しており、”崇善堂”も支給されていました。

 

「各種慈善団体は南京事変の為、資金難に陥り一時停頓したが、振務委員会より補助を受けて暫時復旧していった」、とあります。

 

”崇善堂”が本格的に活動を再開したのは、南京事変が起きた8ヶ月後の「昭和13年9月から」と記録されていました。

 

南京陥落した昭和12年12月13日から昭和13年5月にかけて、”崇善堂”が11万2千人という膨大な死体埋葬を行なったというのは、当時の公的な記録から読み取ることができません。

 

参考図書

「南京事件の総括」田中正明著

 

 

 

昭和12年(1937年)7月、盧溝橋を挟んで、中国国民革命軍第29軍と日本陸軍支那駐屯軍が演習をしていました。

 

なぜ、日本陸軍が中国国内に駐留していたのでしょうか?

 

それは、明治33年(1900年)6月、北京市内の外国公使館に対して、清国軍と義和団というゲリラ組織による暴動が起きました。(義和団の乱)

 

暴動の鎮圧後、清国政府に対して欧米列強が、賠償金など様々な制裁措置を取り決めました。(北京議定書)

 

首都北京を占領された清朝(西太后)は、北京の公使館周辺区域の警察権の剥奪、海岸から北京までの諸拠点に、日本を含む欧米列国の軍の駐留を認めるという、制裁措置を認めざるを得ませんでした。

 

このような経緯があったので、日本陸軍は北京郊外の盧溝橋に駐留していたのです。

 

昭和10年(1935年)7月、モスクワで開催された第7回コミンテルン大会において、日本を標的とする決議がなされました。

 

コミンテルンの支部である中国共産党は、この決議に基づいて、昭和11年(1936年)6月までに抗日人民戦線を完成して、対日戦争の準備を整えていきました。

 

昭和11年(1936年)12月、張学良が蒋介石を拉致監禁するという事件(西安事件)が起きました。

 

この事件により、毛沢東の中国共産党を殲滅するという、蒋介石の目標は、あと一歩というところで打ち砕かれ、抗日戦線を共産党と共同で行うことを約束させられました。

 

第29軍の総司令官である宋哲元は、昭和12年(1937年)4月に作成された、日本軍を殲滅するという抗日戦線の具体的作戦計画に基づき、軍事訓練を強化していきました。

 

昭和12年(1937年)7月7日、中国共産党の劉少奇(りゅう・しょうき)の指揮する抗日救国学生隊によって、夜間演習中の日本軍支那駐留軍と、国民革命軍第29軍の宋哲元の双方に発砲しました。

 

このことがきっかけで、日中軍事衝突が起きましたが、7月11日に現地軍による停戦協定が結ばれ、19日に正式に停戦協定の調印が行われました。

 

元日本軍情報部員であった平尾治は、次のように証言しました。

 

「盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に、緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。

 

その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。

 

無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。」

 

と、上司である情報部北京支部長の秋富繁次郎大佐から説明を受けました。

 

毛沢東は、盧溝橋で日中軍事衝突が起きたと報告を受けた時、狂喜して喜びました。

 

なぜ、毛沢東は狂喜して喜んだかのでしょうか?

 

日本軍と蒋介石軍が軍事衝突をして、中国国内が混乱状態となることで、共産党員を増員して、共産党軍を増強していく。

 

その後、日本軍が去ったあと、蒋介石軍との内戦に勝利して中国を支配する、というシナリオが毛沢東にあったからです。

 

コミンテルン指導のもと、中国共産党が構築した抗日戦争の準備のための抗日人民戦線、第29軍が事前に策定し訓練していた日本軍殲滅作戦、そして、劉少奇(りゅう・しょうき)の指揮する抗日救国学生隊の発砲により、盧溝橋事件が起きてしまいました。

 

 

昭和12年12月13日、日本軍により南京城が陥落。

中国国内では、南京攻略の総司令官だった松井石根大将を、日本のヒトラーと呼んでいます。

 

その理由は、南京城陥落後、6、7週間の間で30万人に及ぶ中国人を大虐殺をしたためということです。

 

実は、松井石根大将は、昭和13年3月、予備役となって日本に帰国後、中国大陸で戦死した日本兵はもとより、中国兵に対しても、毎朝、熱海の観音様(興亜観音)の前で観音経を唱えて、慰霊の祈りをしていた、大変慈悲深い人だったのです。

 

この祈りは、昭和21年3月5日、東京裁判の被告として巣鴨プリズンに収監されてからも、毎朝行なっていたそうです。

 

昭和12年12月当時の南京市内の人口はどれほどだったのでしょうか?

 

南京城内に安全区を設けて、国際委員会がこの地区を管理していました。

 

この安全区に南京市民全員を収容して保護していました。

 

国際委員会は、日本軍が入城した昭和12年12月13日から昭和13年2月9日の間に日本大使館や米国、英国、ドイツ大使館あてに61通の文書を発送しました。

 

その61通の文書の内容というのは、日本軍の非行や食料、治安など、日本軍に対する要求を訴えたものでした。

 

この文書の中に南京の総人口は20万人とあります。

 

東京裁判で松井石根大将の弁護人である、ロビン弁護士が次のように質問しました。

 

「南京において殺害された数は30万人となっておりますが、私の承知している範囲におきまして、南京の人口は20万人であります。」と。

 

この質問に対し、ウエッブ裁判長は、「今はそれを持ち出す時ではありません」と発言を封じてしまいました。

(「速記録」58号21.8.29)

 

国際委員会は、難民に食料を与えるために、正確な人口の把握が必要でしたので、人口の推移の統計を記録していました。

 

昭和12年12月17日から27日は20万人と記載しており、昭和13年1月14日になると、25万人に増えており、2月10日まで25万人で推移していたと記録しています。

 

また、スミス博士が昭和13年3月末に多数の学生を動員して人口調査を行いました。

 

その結果、3月末時点の人口は22万1150人でしたが、調査の手の届かないところもあったので、実際は25万から27万人と推定されると、スミス博士は注記していました。

 

また、5月31日、南京市政公署の5つの地区の役所で登録された住民は27万7千人であったと報告がありました。

(日中戦争史資料)

 

なぜ、人口が増えたのでしょうか?

 

日本軍が南京城に入城してから南京の治安が回復したので、南京郊外に避難していた民衆が、続々と移住してきたからです。

 

「南京市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口流入があった」とスミス博士は解説しました。

(日中戦争史資料)

 

12月暮れから正月にかけて、日本軍は、難民区に潜伏していた、私服の兵士(便衣兵)を摘出するために、良民証を給付していきました。

 

その数、16万人に達しました。しかも、これは10歳未満の子供と60歳以上の老人を除外した数字ですので、実際は、25万から27万人と見積もられています。

(「スミス博士の福田篤泰氏への書簡」日中戦争史資料)

 

朝日新聞は12月20日付朝刊で「よみがえる平和都市南京」と題して写真特集を掲載しましたが、その中で、

 

「皇軍(日本軍)に保護される避難民の群」と題して、2、3百人の難民が列をなして南京に帰還している風景を掲載していました。

 

このように、日本軍による南京城陥落から、南京市内の治安は回復したので、南京市内の人口は急激に増加していったのです。

 

松井大将の厳命により、難民安全区には一発の砲弾も打ち込まれることはありませんでした。

 

松井大将は、南京陥落に際して、7か条の「南京城攻略要項」を参謀たちに指令しました。

 

その第7条には次のようにありました。

 

「皇軍(日本軍のこと)が外国の首都(南京のこと)に入城するは有史以来の盛事にして、

 

永くにたるべき実績たると世界の斉しく注目しある大事件なるに鑑み、

 

正々堂々将来の模範たるべき心組みをもって、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為絶対に無からしむるを要す。」

 

また、南京陥落に伴い、参謀とは別に下士官たちに次のような訓令を出しました。

 

「特に敵軍といえども抗戦意思を失いたるもの及び一般市民に対しては寛容慈悲の態度を取り、これを愛護せよ」と。

 

松井大将は孫文と交流があった日本陸軍を代表する親中国派でした。蒋介石が日本に留学中の時も、下宿先の保証人になったりして、面倒を見ていました。

 

東京裁判で、日高参事官は次のように証言しました。

 

「松井大将は、南京市の地図に外国大使館などをマークしたものを多数作り、これを軍隊に配られました。

 

その地図には更に中山陵(孫文の墓)と、明孝陵(明の初代皇帝 朱元璋の墓)を赤い円で囲み、絶対に破壊を避けるべき地点であることが記載してありました。

 

この2箇所の付近では、一切大砲を使用することを禁止されたのです。」

(東京裁判「速記録」第309号)

 

これほどまでに、松井大将は、中国の文化財保護を重視したのです。

 

昭和12年12月17日、日本軍の南京城への入城式が厳粛に行われました。

 

松井大将が入城式に向かっていた途中、焼け跡から「赤子」の鳴き声が聞こえました。

 

すると松井大将は岡田尚秘書に向かって「探してこい」と命じました。

 

そして救出してきた赤子を松井大将が自ら、お風呂に入れたり毛布にくるみ、ミルクを飲ませて育てていきました。

 

松井大将は、松子と命名して可愛がりました。

(「興亜観音」創刊号)

 

参考図書

「南京事件の総括」田中正明著

「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」水間政憲著

 

 

蒋介石率いる国民党軍の軍事顧問として派遣されていたドイツ将校達は、蒋介石に次のように言いました。

 

「外国に干渉するように頼みなさい。あなたは一人では勝てない。ロシアは今ここにはいない。協力者が必要だ。イギリスに頼みなさい。しかし、力のある干渉者となると好ましいいのは米国です。こうしたことになると米国人は便利です。」と。

 

ドイツ軍事顧問団は、モスクワとロンドンから世界に向けて宣伝活動(プロパガンダ)を積極的に行なっていました。そして、世界中を反日にするように仕向けて行きました。

 

蒋介石は、上海に注目しました。上海は外国人疎開があり、多くの外国人が住んでいました。そこで、戦闘を起こせば外国からの干渉を引き起こすことが簡単にできるだろうと、考えたのです。

 

ドイツ軍事顧問団もこれに同意しましたが、蒋介石に次の忠告をしました。

 

それは、蒋介石軍の私兵を上海戦に参加させないこと。そして、日本軍に一撃したら立ち去ること。

 

なぜ、ドイツ軍事顧問団はこのような忠告をしたのでしょうか?

 

日本軍とまともに立ち向かったら、それまでドイツ軍事顧問団が作り上げてきた蒋介石軍隊が壊滅してしまう恐れがあったためです。

 

当時の上海では、日本人居留民が日本に帰国しようとごった返していました。

 

なぜ、日本に帰国しようとしていたかというと、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件があり、その3週間後の7月29日に通州事件が起きて、日本人市民が中国人から虐殺されていたからです。

 

日本外務省は、日本本土に引き上げるよう通達を出していました。

 

上海に駐留していた日本兵は、水兵と陸戦隊合わせて2千名。それに対して、蒋介石軍は10万人でした。

 

上海の外国人疎界には武装した中国兵は入れないことになっていました。なぜなら、中国兵は、一般市民に対して虐殺と強姦(レイプ)を行うからでした。

 

そこで、軍服を着ずに苦力(労働者)の格好で上海の疎界に潜り込み、武器を隠し持っていました。

 

昭和12年8月13日、一般人を装った中国兵が、日本兵に対して射撃を開始。それを合図に、疎界に潜り込んでいた中国兵が一斉に攻撃を開始。(第二次上海事変)

 

日本兵は、中国兵と一般市民と区別がつかない状況で、しかも、日本人居留民を安全に船に乗船させながら、防戦しなければなりませんでした。

 

それも、とびきり上等のドイツ軍の武器を持った、10万の中国兵に対して、迎え撃つ日本兵は、わずか2千名の海軍陸戦隊。

 

日本政府は、不拡大政策をとっており、上海の日本兵は限定的な防戦に終始しました。

 

このような絶望的な状況にもかかわらず、日本兵は1週間持ちこたえました。

 

中国軍による戦闘行為が拡大していき、収束する意思がないため、日本政府は不拡大政策を改めることに決定。

 

呉軍港から上海に軍艦を派遣しました。

 

援軍が到着すると戦況は逆転し、日本軍が軍服を着ていない中国軍を追撃し始めました。

 

南京にいたドイツ軍事顧問団は、蒋介石に対して即時撤退を何度も忠告しました。なぜなら、目的は戦闘に勝利することではなく、外国からの干渉(特に米国)を引き起こすことだからです。

 

しかし、蒋介石は、「メンツ、メンツ」と叫んで、撤退しようとしませんでした。

 

ドイツ軍事顧問団が何年もかけて作り上げた軍隊が、消滅の危機にありました。

 

中国兵はキャセイホテルなど、一般市民が多くいる場所を狙って空爆しました。また、中国市民が住んでいる住居を盾につかて戦闘行為を繰り返していました。

 

それに対して、日本軍は、繰り返し、市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しました。

 

この戦闘期間中、ドイツ軍事顧問団と蒋介石は、宣伝活動を積極的に行なっていきました。

 

「決死の大隊」「玉砕旅団」とか「中国の勝利」「日本の敗退」と言った嘘のキャッチフレーズで、世界に向けてニュースを流していきました。

 

米国の「ライフ」誌は、日本軍の市民への爆撃、を見出しに掲げて記事を書きました。

(上海南駅の赤ん坊)

 

日本の陸海軍協定が結ばれ、11月5日、上海の南60キロの杭州湾に日本陸軍が敵前上陸し、上海を陸から攻撃する作戦をとりました。

 

陸軍の兵士を乗せた2列縦隊に並んだ大船隊、それに並んで海軍の軍艦が、伸び縮みせずに一定の間隔で堂々と進んでいきました。

 

その横を真っ白な病院船(赤十字)が通っていきました。病院船の甲板には真白い看護婦さんたちが一杯に立ち並んで、「バンザイ!」と叫びながらしきりと手をふっていました。

(「征野千里」谷口勝著)

 

第三艦隊に編入された「多摩」に500名の陸軍兵が乗艦して着ました。乗艦した兵はほとんどが30歳過ぎであり、赤紙で召集されてきた人たちでした。

 

妻子の元を離れてくるときはどんなに辛かったのだろうか、30代ということは子供もまだ小さいはず。

 

揚子江河口を遡り、夜中に母艦を離れて陸軍兵が敵前上陸を開始。約10隻の艦から一斉に艦砲射撃を行いました。

 

夜明けまで艦砲射撃が続きましたが、「多摩」だけでも100名の負傷兵が次々と運びあげられ、病院船に引き渡しました。

(「海軍かまたき出世物語」斎藤兼之助著)

 

「日軍100万上陸杭州北岸」の知らせを聞いた上海の中国軍は、一斉に南京に向けて退却していきました。

 

上海の英字紙には、次のような論評が掲載されました。

 

「中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、

 

一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきである。」(『東京朝日新聞』 1937年11月11日付夕刊)

 

国民党軍は撤退するにあたり、一般住民の住居をかたっぱしから放火して焦土にしていきました。(堅壁清野作戦)

 

そして、略奪や暴行や破壊、強姦(レイプ)を行なっていきました。

 

国民党軍が撤退するときは、略奪をすることは常となっていました。(『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊)

 

また、国民党軍は、一般民衆の所有物を強制的に取り立てていきましたが(徴発)、それに拒否すると裏切者(漢奸)として処罰の対象とされました。

 

上海では、日本軍と通じる者と疑われた中国人民を、裏切者(漢奸)として銃殺あるいは公開処刑することが日常化して、その数は4000名に達しました。(漢奸狩り)

 

国民党軍では、一般市民を強制的に徴兵して武器を持たせて、最前線で日本軍相手に戦闘させて、逃げようとする兵士がいたら、後方で見張っている同じ国民党軍が銃殺していきました。(督戦隊)

 

南京になだれ込んだ国民党軍は、上海同様に、南京城の内外の民家を放火しまくり、略奪を行い、日本に内通していると疑われる者を処罰していきました。

 

そして、12月7日、蒋介石夫妻やファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問とともに、米国人パイロットの飛行機で、重慶に向け逃げました。

 

南京城内は国民党軍の将校たちが逃げてしまったので、指揮系統が混乱し、無政府状態になりました。

 

12月8日、松井石根大将を司令官とする日本軍は、国民党軍に投降を呼びかけるビラをまきました。

 

そのビラの概要は「10日正午までに南京城を平和裡に解放せよ、回答がない場合は止むを得ず南京城攻略を開始する」というものでした。

 

12月10日、回答期限を過ぎても何の回答もなかったため、日本軍は南京城に攻撃を開始して、12月13日に南京城は陥落しました。

 

昭和13年(1938年)3月28日、中華民国維新政府が成立。

 

昭和15年(1940年)3月30日、汪兆銘を代表とする南京国民政府を樹立して、中華民国維新政府を編入しました。

 

南京城陥落後、日本軍の統治下のもと、南京市内の治安は回復して昭和20年8月15日の日本降伏まで、平和で豊かな生活を送っていました。

 

参考図書

「中国の戦争宣伝の内幕」F・ビンセント・ウイリアムズ著

 

写真

中国無名兵士の墓を慰霊する日本軍将兵(※南京陥落前)

『支那事変画報』毎日新聞、昭和12年12月11日発行