昭和12年(1937年)7月、盧溝橋を挟んで、中国国民革命軍第29軍と日本陸軍支那駐屯軍が演習をしていました。
なぜ、日本陸軍が中国国内に駐留していたのでしょうか?
それは、明治33年(1900年)6月、北京市内の外国公使館に対して、清国軍と義和団というゲリラ組織による暴動が起きました。(義和団の乱)
暴動の鎮圧後、清国政府に対して欧米列強が、賠償金など様々な制裁措置を取り決めました。(北京議定書)
首都北京を占領された清朝(西太后)は、北京の公使館周辺区域の警察権の剥奪、海岸から北京までの諸拠点に、日本を含む欧米列国の軍の駐留を認めるという、制裁措置を認めざるを得ませんでした。
このような経緯があったので、日本陸軍は北京郊外の盧溝橋に駐留していたのです。
昭和10年(1935年)7月、モスクワで開催された第7回コミンテルン大会において、日本を標的とする決議がなされました。
コミンテルンの支部である中国共産党は、この決議に基づいて、昭和11年(1936年)6月までに抗日人民戦線を完成して、対日戦争の準備を整えていきました。
昭和11年(1936年)12月、張学良が蒋介石を拉致監禁するという事件(西安事件)が起きました。
この事件により、毛沢東の中国共産党を殲滅するという、蒋介石の目標は、あと一歩というところで打ち砕かれ、抗日戦線を共産党と共同で行うことを約束させられました。
第29軍の総司令官である宋哲元は、昭和12年(1937年)4月に作成された、日本軍を殲滅するという抗日戦線の具体的作戦計画に基づき、軍事訓練を強化していきました。
昭和12年(1937年)7月7日、中国共産党の劉少奇(りゅう・しょうき)の指揮する抗日救国学生隊によって、夜間演習中の日本軍支那駐留軍と、国民革命軍第29軍の宋哲元の双方に発砲しました。
このことがきっかけで、日中軍事衝突が起きましたが、7月11日に現地軍による停戦協定が結ばれ、19日に正式に停戦協定の調印が行われました。
元日本軍情報部員であった平尾治は、次のように証言しました。
「盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に、緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。
その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。
無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。」
と、上司である情報部北京支部長の秋富繁次郎大佐から説明を受けました。
毛沢東は、盧溝橋で日中軍事衝突が起きたと報告を受けた時、狂喜して喜びました。
なぜ、毛沢東は狂喜して喜んだかのでしょうか?
日本軍と蒋介石軍が軍事衝突をして、中国国内が混乱状態となることで、共産党員を増員して、共産党軍を増強していく。
その後、日本軍が去ったあと、蒋介石軍との内戦に勝利して中国を支配する、というシナリオが毛沢東にあったからです。
コミンテルン指導のもと、中国共産党が構築した抗日戦争の準備のための抗日人民戦線、第29軍が事前に策定し訓練していた日本軍殲滅作戦、そして、劉少奇(りゅう・しょうき)の指揮する抗日救国学生隊の発砲により、盧溝橋事件が起きてしまいました。