南京城陥落後の南京民衆の様子 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

昭和12年12月13日、日本軍により南京城が陥落。

中国国内では、南京攻略の総司令官だった松井石根大将を、日本のヒトラーと呼んでいます。

 

その理由は、南京城陥落後、6、7週間の間で30万人に及ぶ中国人を大虐殺をしたためということです。

 

実は、松井石根大将は、昭和13年3月、予備役となって日本に帰国後、中国大陸で戦死した日本兵はもとより、中国兵に対しても、毎朝、熱海の観音様(興亜観音)の前で観音経を唱えて、慰霊の祈りをしていた、大変慈悲深い人だったのです。

 

この祈りは、昭和21年3月5日、東京裁判の被告として巣鴨プリズンに収監されてからも、毎朝行なっていたそうです。

 

昭和12年12月当時の南京市内の人口はどれほどだったのでしょうか?

 

南京城内に安全区を設けて、国際委員会がこの地区を管理していました。

 

この安全区に南京市民全員を収容して保護していました。

 

国際委員会は、日本軍が入城した昭和12年12月13日から昭和13年2月9日の間に日本大使館や米国、英国、ドイツ大使館あてに61通の文書を発送しました。

 

その61通の文書の内容というのは、日本軍の非行や食料、治安など、日本軍に対する要求を訴えたものでした。

 

この文書の中に南京の総人口は20万人とあります。

 

東京裁判で松井石根大将の弁護人である、ロビン弁護士が次のように質問しました。

 

「南京において殺害された数は30万人となっておりますが、私の承知している範囲におきまして、南京の人口は20万人であります。」と。

 

この質問に対し、ウエッブ裁判長は、「今はそれを持ち出す時ではありません」と発言を封じてしまいました。

(「速記録」58号21.8.29)

 

国際委員会は、難民に食料を与えるために、正確な人口の把握が必要でしたので、人口の推移の統計を記録していました。

 

昭和12年12月17日から27日は20万人と記載しており、昭和13年1月14日になると、25万人に増えており、2月10日まで25万人で推移していたと記録しています。

 

また、スミス博士が昭和13年3月末に多数の学生を動員して人口調査を行いました。

 

その結果、3月末時点の人口は22万1150人でしたが、調査の手の届かないところもあったので、実際は25万から27万人と推定されると、スミス博士は注記していました。

 

また、5月31日、南京市政公署の5つの地区の役所で登録された住民は27万7千人であったと報告がありました。

(日中戦争史資料)

 

なぜ、人口が増えたのでしょうか?

 

日本軍が南京城に入城してから南京の治安が回復したので、南京郊外に避難していた民衆が、続々と移住してきたからです。

 

「南京市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口流入があった」とスミス博士は解説しました。

(日中戦争史資料)

 

12月暮れから正月にかけて、日本軍は、難民区に潜伏していた、私服の兵士(便衣兵)を摘出するために、良民証を給付していきました。

 

その数、16万人に達しました。しかも、これは10歳未満の子供と60歳以上の老人を除外した数字ですので、実際は、25万から27万人と見積もられています。

(「スミス博士の福田篤泰氏への書簡」日中戦争史資料)

 

朝日新聞は12月20日付朝刊で「よみがえる平和都市南京」と題して写真特集を掲載しましたが、その中で、

 

「皇軍(日本軍)に保護される避難民の群」と題して、2、3百人の難民が列をなして南京に帰還している風景を掲載していました。

 

このように、日本軍による南京城陥落から、南京市内の治安は回復したので、南京市内の人口は急激に増加していったのです。

 

松井大将の厳命により、難民安全区には一発の砲弾も打ち込まれることはありませんでした。

 

松井大将は、南京陥落に際して、7か条の「南京城攻略要項」を参謀たちに指令しました。

 

その第7条には次のようにありました。

 

「皇軍(日本軍のこと)が外国の首都(南京のこと)に入城するは有史以来の盛事にして、

 

永くにたるべき実績たると世界の斉しく注目しある大事件なるに鑑み、

 

正々堂々将来の模範たるべき心組みをもって、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為絶対に無からしむるを要す。」

 

また、南京陥落に伴い、参謀とは別に下士官たちに次のような訓令を出しました。

 

「特に敵軍といえども抗戦意思を失いたるもの及び一般市民に対しては寛容慈悲の態度を取り、これを愛護せよ」と。

 

松井大将は孫文と交流があった日本陸軍を代表する親中国派でした。蒋介石が日本に留学中の時も、下宿先の保証人になったりして、面倒を見ていました。

 

東京裁判で、日高参事官は次のように証言しました。

 

「松井大将は、南京市の地図に外国大使館などをマークしたものを多数作り、これを軍隊に配られました。

 

その地図には更に中山陵(孫文の墓)と、明孝陵(明の初代皇帝 朱元璋の墓)を赤い円で囲み、絶対に破壊を避けるべき地点であることが記載してありました。

 

この2箇所の付近では、一切大砲を使用することを禁止されたのです。」

(東京裁判「速記録」第309号)

 

これほどまでに、松井大将は、中国の文化財保護を重視したのです。

 

昭和12年12月17日、日本軍の南京城への入城式が厳粛に行われました。

 

松井大将が入城式に向かっていた途中、焼け跡から「赤子」の鳴き声が聞こえました。

 

すると松井大将は岡田尚秘書に向かって「探してこい」と命じました。

 

そして救出してきた赤子を松井大将が自ら、お風呂に入れたり毛布にくるみ、ミルクを飲ませて育てていきました。

 

松井大将は、松子と命名して可愛がりました。

(「興亜観音」創刊号)

 

参考図書

「南京事件の総括」田中正明著

「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」水間政憲著