南京事変の証言
報知新聞 二村次郎カメラマン
聞き手 阿羅健一氏
ー南京虐殺ということが言われてますが
二村「南京にいる間、見たことありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。
逆に人が書いたものを見たりしています。アウシュビッツの様に殺す場所がある訳でもないからね。
私が虐殺の話を聞いたのは、戦後、東京裁判の時です。それで思い出すのは、南京に入った時、城内に大きい穴があったことです。」
ー何時頃のことですか?
二村「南京城に入ってすぐです。長方形で、長さが二、三十メートル位ありました。
深さも一メートル以上あり、掘ったばかりの穴でした。大きい穴だったから住宅の密集地でなく、野原かそういうところだったと思います。」
ー日本兵が掘ったのですか?中国兵が掘ったのですか?
二村「それは知りません。南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが、本当のことは知りません。
ーあとで見に行ったりしませんでしたか?
二村「その時は別に気にも止めてなかったので見に行ったりしません。戦後、南京虐殺と言われて、思い出したくらいです。」
ー捕虜をやった(虐殺した)という話がありますが。
二村「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのは見たことがあります。確か昼でした。」
ー捕虜を見て、(報知新聞)社で話題にしたりしませんでしたか?
二村「捕虜と言っても、戦いの途中、捕虜の一人や二人を着るのは見たことあります。
皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。
捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。
また、戦争で捕虜を連れていくわけには行かないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。
南京で捕えた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。
あの時、捕虜を連れて行った兵隊を探して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います。」
ー一般市民に対してはどうだったのでしょうか?
二村「市民をどうするということはないでしょう。」
ー南京で死体は見なかったのですか?
二村「死体はほとんど見ませんでした。何百人の死体を見ていれば、記憶にあると思います。
多くの特派員が揚子江に無数の死体が流れているのを見た、という話は聞いたことがあります」
ーそれが虐殺と言われているものですか?
二村「虐殺されたものではなく、数が多いので話題になったのだと思います。」
ー南京ではどこに行ってますか?
二村「揚子江に行きましたが、私が見たのは一人か二人の死体でした。」
ー入城式も慰霊祭も撮ったのですか?
二村「撮りました。印象的だったのが慰霊祭で、その頃、軍司令官のそばに寄ることは大変なことでしたが、慰霊祭の時はそばまで行って撮ることができました。
その時、私は緊張で体が震えました。
松井石根軍司令官は泣いて弔文を読み上げていまして、それを聞いて私も感激で涙が流れて来ました。
あの時の感動は今も覚えています。」
ー慰霊祭が終わってすぐ帰るのですか?
二村「数日、南京にいたのかもしれません。帰りは車で帰ったのですが、途中、車ごと田園に落ちて、それでも誰も怪我せずに無事でした。」
ーそのまま上海ですか?
二村「上海に戻ってから杭州に行きました。年が明けて1月か2月頃、津浦線に行くためまた南京に行ってます」
ーその頃の南京の様子はいかかですか?
二村「もう敗残兵もいませんし、街は整然としていました。日本兵も警備兵だけでした。」
参考図書
「「南京事件」日本人48人の証言」阿羅健一著 小学館
写真解説
「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供を抱えて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった。」(昭和12年12月15日 南京安全区にて撮影)