中共が唯一日本軍に対して正規戦を行なった百団大戦は、なぜ毛沢東によっ批判されてきたのでしょうか? | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

中国共産党の八路軍が、日本陸軍と真正面から対峙して大々的に戦闘をして大きな損害を与えた、唯一の戦いがありました。

(百団大戦)

 

この戦いの司令官であった彭徳懐(ほう・とくかい)は、毛沢東から批判を受け、粛清されてしまいました。

 

なぜでしょうか?

 

日本陸軍に大きな損害を与えた司令官は、本来でしたら賞賛されるはずです。しかし、中国では、この百団大戦は批判の対象であり、その司令官であった彭徳懐の評価は悪いです。

 

聶栄臻は次のように述べています。

 

「この戦闘は、本来、正太鉄道やその他の主要交通機関の破壊戦であった。

 

だが、のちに彭徳懐がのぼせ上り、動員部隊はますます多くなり、戦闘規模はますます大きくなり、戦闘時間も集中し過ぎたばかりか、百団大戦を対外的に大いに宣伝した。

 

毛沢東は、百団大戦の宣伝に非常な不満を持った。我々が延安に行って、整風運動に参加した時、毛沢東はこの件を批判した。

 

この戦闘は、中央軍事委員会に報告されていなかったとの風説もある。

 

だが調査によると、この戦闘を行う前に、八路軍総司令部は中央に作戦計画を報告している。

 

そしてこの中で、両面から正太鉄道を襲撃、破壊すると述べている。

 

毛沢東は次のように批判した。このような宣伝は我々の力を暴露し、日本軍が我々の力を見直すことにつながり、

 

その結果、敵は力を集中して我々を攻撃すると同時に、蒋介石は我々に対する警戒心を強めることになろう。

 

百団大戦を宣伝すれば、蒋介石は驚き慌てることになるのだ。」と。

(「聶栄臻回想録」聶栄臻著)

 

首都紅衛兵代表大会で清華大学井岡山兵団が配布した「彭徳懐の罪悪史」には次のように述べられています。

 

「1940年8月から12月まで、日本軍と対峙していた。彭徳懐は朱徳らとともに『百団大戦』を行った。

 

彭徳懐は重慶を守ろう、西安を守ろうと主張していたが、これは、重慶を本拠地としていた蒋介石を守ることに繋がった。

 

八路軍の『基本は遊撃戦(ゲリラ戦)であるが、有利な条件下での運動戦を放棄しない』という毛沢東の基本路線に背き、無謀な軍事行動を行なった。

 

彭徳懐は40万人の兵力を動員して、正太、道甫戦など5000キロに渡る戦線で出撃し、消耗戦を展開した。

 

彭徳懐は蒋介石保護に熱心になり、蒋介石の歓心を買い、蒋介石は彭徳懐に電報を打ち、褒賞を与えた。

 

百団大戦は毛沢東の戦略的な配置と作戦方針に合致せず、無謀に戦えば戦うほど、わが八路軍の損失は大きくなった。

 

百団大戦は早く我が八路軍の力を暴露してしまったため、日本軍は中共への対処を強化した。

 

百団大戦によって蒋介石はますます抗日戦に消極的となり、反共に積極的となった。

 

毛沢東は、百団大戦では早くから、彭徳懐の誤ったやり方を批判していた。

 

毛沢東は『彭徳懐がこれほど大きなことを行うにあたって、私と相談せず、我々の力が大々的に暴露された。その結果は非常に悪いものとなろう』と述べた」

(「彭徳懐の罪悪史」紅衛兵清華大学井岡山主編 1967年11月)

 

毛沢東は日本軍と正規戦で対峙することを放棄していました。

そのかわり、遊撃戦(ゲリラ戦)を通して、日本軍の後方部隊の補給路を断ち、戦闘の長期化を行うことを基本戦略としていました。

 

毛沢東の遊撃戦論は次のようなものです。

 

日本は軍事力が強く狭い国である一方で、中国は軍事力が弱く広い国であるため、日本軍は兵力が不足せざるを得なくなるため、戦争が長期化する。

 

日本軍は、装備や兵隊の質的優位があっても、量的優位があるわけではなく、これが弱点となる。

 

ゲリラ戦が日本軍の兵站を破壊して、戦闘部隊を牽制して、中国人民の掌握に成功すれば、戦略的に正規戦に呼応することが可能となる。

 

当時の八路軍は、装備や兵力において貧弱でした。屈強な日本陸軍を相手に正規戦を戦えば、いたずらに兵力を消耗して、殲滅されてしまうだけでしたので、後方部隊の兵站をゲリラ攻撃することに徹していたのです。

 

しかし、彭徳懐は日本陸軍を相手に正規戦を戦ってしまいました。

 

このことが、毛沢東が百団大戦を批判する要因である、とされていました。

 

また、毛沢東に報告をせず、彭徳懐が独断で行なった軍事行動であった、として彭徳懐が粛清される要因となりました。

 

実際、昭和34年(1959年)7月の廬山会議において、彭徳懐は次のように自己批判(検討)をしました。

 

「1940年の百団大戦は組織的に言えば、共産党中央の承認を受けずに勝手に決定したものである。これは組織も規律もない重大な行為であり、政治的にも誤りである。

 

自らの力をあまりにも早く暴露し、日本軍の主力を正面の戦場から引き寄せたことは国民党(蒋介石)に有利となり、敵後方の抗日根拠地に重大な困難をもたらした。」と。

(「彭徳懐資料集」紅衛兵清華大学井岡山主編)

 

これは、彭徳懐の心にもない言葉でした。共産党の団結のために、責任を全て引き受けようとしたのです。

 

1940年3月ごろから、日本陸軍は、華北の中共の根拠地に鉄道や道路を建設していきました。

 

これに対して、中共はその交通網を破壊する作戦を立てました。

「正太線への襲撃破壊は、1940年春、何人かの同士と議論して決まった。参加者は彭徳懐の他、八路軍高級将校たちだった。」

(「聶栄臻回想録」聶栄臻著)

 

この作戦の討論には、そのほかに鄧小平などがいました。

 

1940年7月23日、この作戦報告が共産党中央に報告されました。(「中共中央文献選集」中共中央党校出版社)

 

彭徳懐が独断で行なった作戦ではないことが明らかとなりました。

 

7月24日、毛沢東をトップとする延安の共産党中央に向けて、この作戦を進めると決定した極秘電報を打電。これに対して、毛沢東は反対しませんでした。

(「彭徳懐年譜」人民出版社)

 

のちに毛沢東が批判した、報告がなかった、というのが誤りであったことがわかります。

 

作戦が開始され、予定通り日本陸軍が建設した鉄道各線が破壊され、大損害を被りました。

 

8月23日、彭徳懐が共産党軍事委員会に電報を送りました。

「これは華北の抗戦以来、敵の侵攻に加えた積極的かつ大規模な戦闘であり、宣伝を強化・拡大すべきである」と。

 

この電報を受けて毛沢東は次のように述べました。

「百団大戦は真に人を奮い立たせるものだ。このような戦闘をさらに、1、2回組織できないものだろうか?」と。

(「彭徳懐自述」彭徳懐著 人民出版社1994年)

 

9月1日、重慶にいた周恩来は共産党中央に宛て、次のような電報を打ちました。

 

「百団大戦の影響は極めて大きく、蒋介石も最良のことだと言っている。この戦闘行動を山東及び新四軍に拡大せよ」

 

9月5日、周恩来は再度打電しました。

「百団大戦は人心を興奮させる初めての大事である。我々はここ(重慶)で、いたるところで新聞各紙が大きく報道し、『大公』『新民』『国民公報』は私の談話を発表した。八路軍の戦績を賞賛した」と。

(「真正の人ー彭徳懐」彭徳懐伝記執筆グループ編 人民出版社)

 

9月10日、中共中央書記局は全軍に向けて次のように指令を出しました。

「わが八路軍と新四軍の全勢力は、現在、強化団結の時期にあり、主として敵に対する打撃に意識を傾注するべきである。

 

華北の百団大戦の先例に基づき、山東及び華中で計画的な大規模攻勢を組織すべきである。

 

華北では百団大戦の行動を、未だ敵に打撃を与えていない方面に拡大して、これによって敵の占領地区を縮小し、根拠地を拡大し、封鎖線を突破し、戦闘力を高めるべきである。

 

また、山東と華北方面では、引き続き戦果を拡大し、200万の友軍、国民党(蒋介石)の後方及び、敵占領区内の幾千幾万の人民に良い影響を与えるべきである。

 

また、敵の重慶などへの侵攻に対して影響を与えるべきである」と。(「中共中央文献選集」中共中央党校出版社)

 

また、次のように指摘しました。

「わが党の15万の大軍は、敵後方で積極的に行動し(百団大戦)、日本軍に重大な打撃を与えて、全国人民に限りない希望を与えた」と。

(「真正の人ー彭徳懐」彭徳懐伝記執筆グループ編 人民出版社)

 

毛沢東をトップとする共産党中央には、反対意見がないばかりか、再び百団大戦を拡大することを奨励していたのです。

 

党中央からの指令に従い、9月22日、彭徳懐は第二次襲撃を行いましたが、今度は、日本陸軍による壊滅的打撃を受けて、作戦は失敗に終わりました。

 

百団大戦から2年後、昭和17年(1942年)、延安で整風運動が始まり、毛沢東は共産党の絶対的な権力を掌握。そして、毛沢東は百団大戦を批判しました。

 

整風運動とは、共産党員の思想を点検する、政治キャンペーン。党員全体に思想改造運動を展開して、毛沢東の思想を徹底的に党幹部に注入し、全面服従させる狙いがありました。

 

昭和20年(1945年)6月、中共第7回全国大会で、彭徳懐は再度、批判を受けましたが、彭徳懐は反論。

 

しかし、彭徳懐は監獄に拘禁されました。毛沢東が死んだ後も、解放されることなく、昭和49年(1974年)11月、獄中死しました。

 

中国共産党は、戦後一貫して、日本軍との戦闘は、中共(毛沢東)の指揮のもと、八路軍と新四軍が行なったのであり、国民党(蒋介石)は、山奥で観戦していただけだった、と宣伝されてきました。

 

中国人民は、骨の髄まで、この宣伝を信じ込まされてきました。

 

百団大戦も、毛沢東の宣伝により、全て彭徳懐に責任転換されて批判されてきました。

 

毛沢東が指示した、第二次攻撃による八路軍の大損害は、許しがたいものであり、また、昭和34年(1959年)7月の廬山会議における、大躍進政策への批判が気に入らなかったからです。

 

彭徳懐は、昭和18年(1943年)中共の機関紙の中で、「民主、自由、博愛、平等」を主張して、次のような孔子の価値観を認めました。

 

孔子の言葉「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」

(自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではない)

 

これに対して、毛沢東は批判して、次の価値観を主張しました。

 

毛沢東の言葉「己の欲せざる所は、人に施すべし」

(自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じだが、そんなことを構わず他人にすべきである)

(「領袖、元帥、戦友」薄一波著 中共中央党校出版社 1992年)

 

人類史始まって以来の数千万規模の大虐殺を行った、毛沢東のおそるべき価値観です。

 

参考図書

「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか」謝幼田著 草思社 2006年