なぜ、”長征”は”抗日”行動と言われるのでしょうか? | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

 

 

2万5千里を移動した”長征”は、中国共産党の偉大な歴史の一つとして、中国の教科書に記載されており、”北上抗日”のために行われたと徹底的に教えられています。

 

しかし実は、この”長征”とは、蒋介石国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、ソ連の指導のもとに行われた逃避行でした。

 

紅軍(中国共産党)は、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、昭和9年(1934年)10月から昭和11年(1936年)10月にかけて、2万5千里(1万2500km)を徒歩で移動しました。

 

中華ソビエト共和国とは、昭和6年(1931年)11月7日に、江西省瑞金を首都として中国共産党が樹立した国家です。

 

昭和10年(1935年)1月15日から、長征途中に中国共産党首脳部による遵義会議が開催されました。

 

それまで、ソ連留学組である秦邦憲(博古)が、中共の主導権を持っていましたが、遵義会議以降、ソ連留学組中心による指導部は失脚し、毛沢東が中央政治局常務委員に選出されて、主導権を持つようになりました。

 

昭和10年(1935年)8月1日、モスクワにいた王明等、駐コミンテルン中国共産党代表団が、中国共産党と毛沢東(中華ソビエト共和国中央政府首席)名義で、抗日宣言を発表しました。(八一宣言)

 

昭和10年(1935年)11月28日、朱徳(中国労農紅軍革命軍事委員会首席)と毛沢東(中華ソビエト共和国中央政府首席)が共同宣言を発表しました。(抗日救国宣言)

 

その宣言の中で、長征について次のように述べています。

「中華ソビエト共和国中央政府と中国労農紅軍革命軍事委員会は団結して日本と戦うよう、全国人民に呼びかけるとともに、

 

”北上抗日”のため、自ら紅軍の主力を派遣し、2万5千里の長征を行い、困難と苦しみの限りを経験した。」

 

毛沢東と朱徳は、”長征”が味わったありとあらゆる困難は、あらかじめ予想されたものであり、その目的は、”北上抗日”であったと説明しています。

 

その後、敗北後の逃避行は全て、”北上抗日”のためと宣伝されていきました。

 

「中国紅軍長征記」では次のように述べられています。

 

「高昌戦役(昭和9年(1934年)4月、蒋介石国民党軍による、第5次共産党殲滅戦)での敗北後、秦邦憲(博古)、李徳(コミンテルンより派遣された、ドイツ人軍事顧問オットー・ブラウンの中国名)らは、敵の陸と空、大砲による攻勢に肝を潰した。

 

彼らは瑞金(中華ソビエト共和国の首都)に戻ったのち、直ちに中央根拠地を放棄し、湖南西部に大移動し、牙竜率いる紅二方面軍と合流し、湘顎西に根拠地を建設することを決定した。

 

5月、彼らは秘密裏に戦略的な移転の準備を始めた。この戦略的な移転が始まった頃は、長征とは呼ばず、

 

「移動」「長征行軍」「西征」と読んだ。その目的は、生存できる足場を探し、そこに新たな根拠地を建設することであった。

 

当時はあれほど遠くまで行こうとは、とりわけ延安まで急いで行軍しようとは思いもしなかった」

(「中国紅軍長征記」河南人民出版社1987年)

 

この本は、長征を賞賛する宣伝本ですが、”長征”の目的が”北上抗日”であるとは書かれていません。

 

周恩来(中央軍事委員会副主席)は、1960年に次のように述べています。

 

「紅軍は(誤った)路線を実行した結果、江西省瑞金(中央根拠地)を撤退し、やむなく”長征”することとなった。」

(「周恩来選集」中共中央文献編集委員会編 人民出版社1980年)

 

劉伯承(紅軍参謀長)は次のように指摘しています。

「1934年10月中央根拠地(江西省瑞金)を離れることを急遽決定した。

 

もとより、事前に幹部や大衆の中で広範な思想的動員は行われなかったし、陣地戦から運動戦への転換の説明もなかった。

 

根拠地を離れて、長距離の行軍作戦を行うには必ずや準備工作が必要だが、それもなく、慌ただしく移動した。」

(「劉伯承回想録ー長征を回想する」劉伯承他著 解放軍出版社 1983年)

 

計画的な軍事行動というより、生存をかけた逃避行に近いことが伺えます。

 

西路軍の任務について、張国燾(中華ソヴェト政府副主席、第四軍を徐海東と共に建軍。のち1937年に共産党除名)は次のように述べています。

 

西路軍とは、張国燾率いる第四方面軍のうち、「黄河の西に中華ソビエト共和国の根拠地を作ろう」との名の下に結成された軍隊でありますが、黄河の西側に渡り、河西回廊で回族軍(中国ムスリム(イスラム教徒))と戦闘で、馬兄弟に敗れて殲滅。

 

「林育英(1935年7月のコミンテルン第7回大会の結果を伝達するために、派遣した代表)が、もたらした電報の最も重要な点は、西進計画に対するモスクワの計画を伝達するものだった。

 

彼は、川康地区の紅軍が、新疆ウイグル地区との交通ルートを開く計画はすでにスターリンの承認を得ている。

 

彼によれば、もしも中国紅軍が新疆ウイグル地区と甘粛河西一帯びを支配下に置くことができるなら、

 

ソ連が必要な武器を供給するとともに、精鋭部隊養成の軍事訓練にも協力するとスターリンは考えているという。

 

それゆえに彼は、我々が西進するか否かを、早急に決定するべきだと表明した。」

(「我が回想」「明報」張国燾著 月間出版社 1974年)

 

要するに、長征のルートは、決して抗日のためではなく、スターリンの意思により決定され、中国人民の危機を顧みず、ソ連の利益のために、ソ連の指揮のもとに行われたことを意味しています。

 

参考図書

「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか」謝幼田著 草思社