なぜ、毛沢東は旧日本軍に感謝したのでしょうか? | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

毛沢東が、昭和31年、元日本軍人に対し、「日本軍が中国に”進攻”してきたことに感謝する。」と言いました。

 

なぜ、そんなことを言ったのでしょうか?

 

昭和24年(1949年)10月1日、中華人民共和国が建国されましたが、その翌年の昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争が勃発。

 

毛沢東は、スターリンと金日成からの要請もあり、朝鮮戦争に出兵することとなりました。

 

それにより、西側諸国、特に米国から敵国とみなされてしまい、中国包囲網が形成されて、国家として承認をしてくれる国があまりにも少ない状況でした。

 

昭和30年(1955年)8月6日、原爆10周年記念日に広島で開催された世界平和会議に中国代表として、劉寧一(りゅう・ねいいち)が出席。

 

それに続いて8月20日、憲法擁護国民連合が主催する懇親会が開かれ、劉寧一や遠藤三郎元陸軍中将らも参加。

 

遠藤三郎元陸軍中将とは、蒋介石国民党が拠点としていた、重慶の空爆作戦の中止を訴えた人であります。

 

(昭和16年(1941年)に、海軍との共同作戦であった重慶爆撃百二号作戦は打ち切られました。)

 

この席で、遠藤三郎元陸軍中将が劉寧一に対して、次のように言いました。

 

「もし、中国が台湾問題で原水爆など武力行使をすれば、第三次世界大戦に発展する可能性もあるので、避けてほしい」と。

 

劉寧一(りゅう・ねいいち)は、中国に帰国後、中国共産党本部に報告して、憲法擁護国民連合会会長の片山哲元首相に対して、中国へ訪問してほしいと誘い、11月28日、片山哲を代表とする憲法擁護国民連合訪中団が北京に行き、毛沢東と会談しました。

 

この時、毛沢東は、遠藤三郎元陸軍中将に「革新的な左翼の人ではなく、次は、日本の右翼の方々や元日本軍人を連れてきてほしい」と要望しました。

 

帰国した、遠藤三郎元陸軍中将は、早速軍人に呼びかけて、元軍人訪中団を結成して、昭和31年(1956年)8月北京に到着して、9月4日に中南海の勤政殿(日本でいう赤坂迎賓館)にて、毛沢東と会談しました。

 

その席で、毛沢東は次のように語りました。

 

「日本の軍閥が我々中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったら我々は今まだ、北京に到着していません。

 

確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧日本軍人を我々は歓迎します。

 

あなたたちは我々の先生です。我々はあなたたちに感謝しなければなりません。

 

まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することができ、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることができたのです。」

(「廖承志(りょう しょうし)と日本」)

 

昭和33年(1958年)、日綿元社長の南郷三郎氏が、終戦後の日中貿易の再開のために、日中輸出入組合理事長として訪中して、毛沢東首席と会談しました。

 

昭和36年(1961年)1月24日、毛沢東は社会党の黒田寿男議員と会談し、次のように語りました。

 

「私(毛沢東)が南郷三郎氏と会った時に、『日本は中国を侵略しました。お詫びします。』と言いました。

 

私(毛沢東)は、あなたたち(日本人)は、そういう見方をすべきではない。

 

日本の軍閥が、中国のほとんどを占領したからこそ、中国人民を教育したのです。

 

さもなかったら、中国人民は覚悟を抱き団結することができなかったでしょう。

 

そうなれば、私は今もまだ山の上(延安の洞窟のこと、日中紛争中に毛沢東が拠点としていた場所)にいて、北京で京劇を見ることなどできなかったでしょう。

 

もし、感謝という言葉を使うなら、私はむしろ日本の軍閥にこそ感謝したいです。」

 

(「毛沢東外交文選」中華人民共和国外交部 中共中央文献研究室編集 2011年1月)

 

蒋介石率いる国民党軍は、中国国内の共産党分子を殲滅することを、最優先して戦っていました。

 

昭和7年(1932年)6月14日、蒋介石は、盧山にて「外を攘う(はらう)には、まず内を案じなければならない」という、中華民国国民政府の国策を打ち出しました。

(安内攘外)

 

当時(今も)、中国が直面していた最大の問題は中国共産党の存在でした。

 

中共は自らの政府、軍隊、貨幣を持ち、独自の政治要綱を持ち、国民党政府(蒋介石)を転覆することを基本政策としていました。

 

毛沢東率いる中共は、蒋介石による5回に及ぶ共産党征伐戦(囲剿)(いそう)に敗れ、延安まで逃げ(長征)、30万人から2万5千人に激減してしまいました。

 

昭和10年(1935年)11月12日、国民党第5回全国代表大会が南京で開催され、それまで分裂していた軍閥が、蒋介石の元で一致団結していきました。

 

数十万の大軍が、大同団結して3方面から陝北地区の延安を包囲して、一挙に共産党軍を殲滅する準備をしていた時、昭和11年(1936年)12月12日、蒋介石が張学良によって拉致監禁される事件が起きました。

(西安事件)

 

この西安事件により、蒋介石は中国共産党と合作(同盟)することとなり(国共合作)、中国共産党を殲滅する矛先を、抗日に向けることとなりました。

 

そして、毛沢東は蒋介石から殲滅される心配がなくなり、さらに莫大な賠償金を手にすることができたので、2万5千人まで激減してしまった共産党員を120万人まで増やして、中共軍の軍備増強をしていくことができたのです。

 

昭和36年(1961年)1月24日、毛沢東は社会党の黒田寿男議員と会談し、次のように語りました。

 

「我々は、なぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのでしょうか?

 

それは、日本の皇軍がやって来て、我々が日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作(同盟)するようになったからです。

 

2万5千人の軍隊は8年間戦って、120万人の軍隊となり、人口1億の根拠地を持つようになりました。

 

これでも、日本の皇軍に感謝しなくて良いと思われますか?」と。

 

(「毛沢東外交文選」中華人民共和国外交部 中共中央文献研究室編集 2011年1月)

 

参考図書

「毛沢東ー日本軍と共謀した男ー」遠藤誉著