武産合氣道 大和/宮城野合氣修練道場 稽古日誌 -52ページ目

武産合氣道 大和/宮城野合氣修練道場 稽古日誌

「神奈川県大和市」及び「仙台市宮城野区」にて岩間スタイル合気道を稽古する「大和/宮城野合氣修練道場」道場長鈴木博之のブログ。IT関連、自動車整備、資格試験、震災関連など、様々な情報を提供しています。

日が傾いてきた。


どこもかしこも停電しているから,日が落ちてしまえば真っ暗になるだろう。
そうなる前に妻を捜さなければならない。


出花の集会所は自宅アパートよりも海よりにある。
当然浸水しているだろう。


とすると,避難先は中野栄小学校である。


踏切を渡り,線路を超える。

警報がカンカンと鳴り止まず,かなり耳障り。


踏切から見える線路上には,瓦礫や水没車両が散乱しているが見える。
電車など来るわけがない。


遮断棒は誰かが取り外したらしく,通行は自由。


線路を越えたその先が水浸し。
津波は国道を超え,線路を越えたのだ。


どうにか小学校へ到着。
体育館は人でごった返している。


地元の方々だけではなく,
仙台新港近辺の工場に勤務する人たちが,
作業服にヘルメットのまま避難してきている。


消防団や商工会の面々が毛布を運んでいる。
手伝わなければと思うが,今は妻が最優先。


作業服を着た人たちが,床にダンボールを敷いている。
子供達がステージの上で遊んでいる。
顔見知りのお年寄りが,毛布にくるまってろうそくの小さな炎を見つめている。


体育館を探すが,どうしても妻が見つからない。
アパート1階の奥さんと一緒に避難しているはずだが・・・。


体育館に収容しきれなくなったため,教室にも大勢避難しているという。

1階から順に,教室を一部屋ずつ探す。


1階をすべて探したところで,長男が6年生当時担任だった先生に出会う。

明かりを灯す発電機を回そうと,必死でがんばっている。


既に外は薄暗い。とにかく明かりが必要なのである。

妻を捜さなければならないのだが,つい手を出してしまう。


プラグがカブっていないか,火花は散っているか,燃料は出ているかをチェックし,
何度もエンジンを回すが,なかなか点火しない。


そうこうしている間も,余震は続く。
校舎が耐えられないほどの余震が来たら・・・とチラッと思う。


恐怖心は周囲に伝播する。
作業に専念して恐怖心を無理やり押さえ込む。


30分ほど格闘したが,ついに断念して消防団に委ねる。
先生にお詫びをし,再び教室を探して歩く。


4階まですべての教室を探したが,妻がどうしても見つからない。


時刻は既に夜7時。

妻には小学校で一夜を過ごしてもらうしかない。


あきらめて実家へ戻る。


妻と同じように,子供も大事。


二華中に避難している長男を,何としても迎えに行かなければならない。


長い長い一日は,まだ終わりそうになかった・・・。


・・・つづく。


Prev << Index >> Next

当て身を「ペチン」と入れる人をよく見かける。


特に女性に多い。


当て身はガッツリと入れなければならない。


鼻っ柱に当たれば鼻血を出しながら仰け反る、

顎に当たればガツンという衝撃で一瞬意識が飛ぶ、

その位の勢いで入れなければならないのだ。


自分よりも明らかに強そうな相手に向かってくるバカはいない。

暴漢というのは、あなたのことを弱いと思って、見下して、ナメているから襲ってくるのである。


そんな相手に対して「ペチン」が通用するはずがない。


そういう女性と稽古する時は、あえて顎や腹に当て身を入れさせる。


「そんな当て身ではダメだ、しっかり入れろ」

「何だ効かねぇな、本番で殺されるぞ」


こんな感じで、励ましつつ、半ば脅しつつの稽古となる。


相手に当て身を入れるという経験のない女性がほとんどである。

そもそも相手を傷つけるという行為は、女性にはできないのである。


いい悪いではない。それが女性なのである。


しかし生命の危険が迫っている時にそれでは困る。

だから私が「痛い」「効いた」と思うまで何度でも練習させるのである。


弟子が自分で自分の身を守れる。

それを教えるのが道場長の役目。


当て身はガッツリと入れて欲しい。

「合気道は掴まれた所から始まる」


師匠から何度も言われた言葉。


「掴む」とは「相手を制する事」である。


「戦い」というものは、防御だけでは成り立たない。

相手に対し何らかの攻撃を加え、相手を無力化する必要がある。


こちらの攻撃を確実に決めるためには、相手の動きを封じる必要がある。

動きを封じる一番の方法は、体の一部を「掴む」ことである。


手首、袖口、肩口、胸ぐら、髪の毛など、

どこでもいいから掴んで相手の動きを封じ、

その上で攻撃を加えるのである。


つまり「掴む」とは「攻撃の前段」であり「攻撃の一種」なのである。


だから強く掴む。簡単に外れたり、押したり引いたりされてはならない。

掴む際は相手が動けぬよう、制するように掴まなければならない。


前屈みで掴みに行ったり、腰が引けた状態で掴んではならない。

つまんではならないし、技を掛けられに行ってはならない。


「掴む」というのは案外難しいのである。


一方掴まれた場合は、制されることなくそこから自在に技を掛けられなければならない。

「掴まれたら動けない」ではお話にならないのである。


「そんなに強く掴んではいけません」


そう指導する師範もいるという。


それは稽古着を来たダンスの先生だ。


本当に合気道を学びたいのならば、

ダンス教室に通っていてはダメ。


合気道が他武道からバカにされてはならない。

強く、厳しく掴んで欲しいと思う。

実家に祖母,父母,妹一家が身を寄せていた。

妻は小学校。長男は学校。


震災を乗り越えるには,何より体力が大事。
体力を支えるのは気力。
気力を支えるのは,食事と睡眠。


どんな状態であっても,食事は何より大事なのだ。


米や味噌,野菜はあるし,水も出るが,いかんせん電気がない。
まだ余震が続いており,うかつに火も使えない。


地震発生前に,妹がカレーを作って,ご飯を炊いておいたという。
工場から400メートルほど離れた,妹一家が住むマンションにそれらはあるという。


自転車で向かう。
だがすぐに断念。


まだ水が引いていない。

膝ほどの深さでも,案外進めない。

この程度の津波でも,巻き込まれたら逃げられないというのが理解できる。


工場へ戻り,長靴に履き替え,ザブザブと進む。


黒い水。透き通ってはいない。
薄い泥水なのだろう。


途中,予想外に深い場所があり,結局長靴の中も水浸しになってしまった。


黒い水は,恐ろしい程冷たい。


しかしこれ以上は増水しないという確信があったので,恐怖は感じない。


妹のマンションに近づく。
部屋は2階。階段を上がればすぐである。


突然「助けて下さい!」という女性の悲鳴。
かなり切羽詰った様子。


見れば赤ちゃんを腕に抱え,小さい女の子の手を引いた若いお母さん。
マンションの一階廊下で,私の方を見て必死に呼びかけている。


「階段で2階に上がったらいいっちゃ」とノンビリ応えると,
「階段がわかんないんです!」とキレ気味に返される。


「?そんなわけないじゃん」と思いつつマンションの玄関に到着すると,確かに階段がない。

マンションには何度か来ているはずなのに,どうしても見つからない。


あれ?あれ?と探していると,ようやく分かった。
防火扉が閉まり,階段を覆い隠していたのだ。


防火扉を開けて,母子を二階へ連れて行く。

ホッとした様子のお母さんに,「子供と手をつないでもらえますか」と涙声でお願いされる。

目線を低くして,「大丈夫だよ」と声を掛け,半ベソの女の子と手をつなぎ,二階へ上がる。


車に子供を乗せて避難しようとしていたらしい。
しかし増水した水で車が浮いてしまい,走らなくなってしまったとのこと。

しかたなく車を捨てて,徒歩で逃げてきたとの事。


「これ以上水は来ないから。大丈夫」と励まして,妹の部屋に入る。


私のアパート同様,食器だの何だのが散乱している。素足では危険だ。
長靴は外側も内側もビチャビチャだから,玄関で脱ぐ意味がない。
悪いとは思いつつも,ビチャビチャの長靴のまま上がらせてもらう。


幸いカレーは床に落ちていなかった。


しかし何と言うことか,フライパンで作られている。
このままでは非常に運びにくい。


手近にあった,たぶんきれいな容器にカレーを移し替え,
ご飯は炊飯器ごと持ち出す。


先ほどの母子は,近所の会社の人に背負われ,安全な場所へ移動していた。


カレーと炊飯器を持って,ザブザブと工場へ戻る。
水の冷たさにもすっかり慣れている。


一段高いところにあるホンダのディーラから,私を見下ろすおじさん。


「やっぱりしょっぱいのすか?」
「はて。舐めてみさい」


何ともノンビリしたやりとり。


海から離れた場所でこの有様だから,当然沿岸部は壊滅状態なのであるが,
私も,家族も,このおじさんも,誰もそんなことは思っていない。


今思えば,頭のネジが,一本飛んでしまったかのように,
思考回路が正常に働いていなかったのだと思う。


これが震災直後の心理なのだろう。


・・・つづく。


Prev << Index >> Next

国道が渋滞し始めた。
停電で信号が動いていないのだ。


遠くで煙が上がっている。
製油所まではかなりの距離だが,
ここからでも火の手が見える。


救急車,消防車は引きも切らずに走り回る。
空にはヘリコプター。


これらの音には,その後毎晩のように悩まされることになる・・・


家族の安否を確認したところで,再びアパートに戻る。


妻の姿はなかった。
どこかに避難したらしい。


食器の破片でアパート内はうかつに歩けない。


外から「おーい,兄ちゃん,水,水来てるよ」と声が聞こえる。
どこかのおじさんが知らせて回っているらしい。


避難を呼びかける放送は全く聞こえない。


アパートそばの道路にも車の列。
何かから逃げたいのだが,渋滞していて進めない,
そんな感じの混み方である。


アパートそばの道路から,仙台新港方面を見る。

遠くにキラキラと光る,水が見える。


水?なぜ水?

これは海から来た水なのか?


急いで工場に戻り,実家の家族に避難を呼びかける。

遠くにあった水が,徐々に近づいてくる。


アパート前の駐車場が冠水。
アパートそばにある,ホンダのディーラ裏の道路も冠水。


アパートの部屋は2階だから問題ないが,
水が来ているからアパートには戻れない。

それ以前に,これ以上増水したら,工場や実家も危ない。


どうする?
どうすればいい?


初めての経験。
全く判断がつかない。


工場から100メートルの所に水が見える。


その時,水が止まった。


水は引かない。
が,少なくともこれ以上増えてもこない。


工場の100メートル手前。

本当のギリギリで止まったのだ。


これが,私が目にした津波である。


だが,その本当の恐ろしさを,その後何ヶ月にも渡って思い知らされる事となるのであった・・・。


・・・つづく


Prev << Index >> Next

実家の家族は無事。
自宅にいた妻は無事。


早急に長男と連絡を取らなければならない。


電話を掛けてみる。
周囲は停電だが,基地局は生きていたらしい。


何度かのコールの後,長男と携帯がつながった。

携帯はすぐに切れてしまったが,とにかく長男の声が聞けた事には本当に安心した。


「学校へ戻れ」とメールを出す。
「うん分かった」返信がすぐに帰ってくる。


これ以降は,何度掛けても電話もメールもつながらなかった。


長男本人と,二華の先生から聞いた震災直後の状況を以下にまとめてみる。


######


中学校は午前授業。お弁当を食べてから1時間程度部活に顔を出し,帰宅する途中だった。
高校生は自宅学習日のため登校していなかったが,部活のため何名かの生徒が登校していた。


途中の大きな交差点で信号待ちをしていたら,突然揺れが始まった。


周囲の大人が,ビルからの落下物を避けるために中央分離帯に避難していたのを見て,自分も中央分離帯に避難した。


揺れは今まで経験したことがないほど大きく,しゃがんで揺れが収まるのを待つしかできなかった。


揺れがひと段落しどうしようか迷っていたら,父親と電話がつながり,「学校へ戻れ」と書かれたメールが届いた。

程なくして,生徒を探して歩いていた二華の先生に声を掛けられ,学校まで戻った。


学校へ戻ると,生徒は全員体育館へ集められていた。


そこへ地元の人たちが続々と避難してきた。
連坊小学校に入りきれなかった人達が二華へ避難してきたのだ。


そのため二華の生徒は第二体育館へ移動することとなった。
そして多くの生徒がそのままそこで一夜を過ごした。


校長先生は,県庁に電話を掛けた。


二華は避難所になっていないため,毛布や食料の備蓄がない。

3月とは言え季節は冬だから,このままでは生徒が凍えてしまう。


しかし県庁からは「県としてはそのような備蓄はないので,市の方に掛け合って欲しい」とのつれない返事。


そこで今度は市役所に電話を掛けた。


電話網はパンク寸前なのか,なかなかつながらない。

ようやくつながったと思ったら「二華は避難所に指定されていないので,市としては毛布や食料の配給はできない」との返事。


県立の学校なのに,県は助けてくれない。
仙台市内にある学校なのに,市も助けてくれない。


生徒がまだ100名近く残っているのに。
被災者が続々と押し寄せているのに。


校長先生は本当に困ったと思う。


結局,様々な人脈をフルに活用し,
どうにか生徒の毛布を確保したという。


次に食料の確保が必要となった。


近所の生協に相談したところ「二華のためでしたら」と快く食料を支給してくれた。


水道は止まっていたが,屋上のタンクに貯まってる分だけは使うことができた。


電気も止まっていたが,電気を使わないストーブがいくつかあり,灯油の備蓄も十分だった。


地元の方々の様々な協力を得て,生徒は食事をし,毛布とストーブのおかげで寒い思いをせずに済んだ。


######


先生もまた,被災者である。
家族や家の安否も心配だ。


そんな中にあって,生徒を守るためによくでがんばってくれたと思う。


親の一人として,二華関係者及び地元の方々には深く感謝している。


とにもかくにも,生徒にとっても,先生にとっても,長い一日の始まりであった・・・。


・・・つづく。


Prev << Index >> Next

当日。


塗装の車は,前日に仕上がっていた。


塗装の腕は,とてもプロにはかなわない。

完全に元に戻すのは難しい。どうしてもツヤが出ないし,塗りムラもある。


しかし目立たなくすることはできる。

「遠目でわからなければいいから,安く仕上げて」という要望には十分に応えられる。


工場を開けて,朝イチで洗車。

昼間の明るさで見ても,上々の仕上がり。

これならお客さんにも喜んでもらえるだろう。


お客さんの指定した場所へ納める。

宮城野区の岡田である。

仙台新港やキリンビール工場を横目に眺めながら,きれいに仕上がった車で10分程度のドライブ。


コスリ傷の修理をするたびに「もうこすらないでね」と思う。

だから「もう戻ってくるなよ」と声を掛けてから,お客さんの車とお別れする。

逆に車検のときは「また戻っておいで」と声を掛ける。


代車に乗り込み,工場へ戻ってくる。

車検の車をリフトに載せて,整備作業を始める。

お昼を食べて,午後の作業に取り掛かる。


そして2時46分。

揺れが始まった。


小さい揺れでも,工場の中にいては危ない。

慌てず工場の外に出る。


「あーまた来たか」程度に思っていたが,揺れが突然大きくなる。


リフト上の車も揺れる。

落ちたらどうしようかと考える。


工具を入れた棚が倒れ,工具を撒き散らしながら,オイルの缶をつぶす。

あの下にいなくてよかったと考える。


ネジ類を納めた棚が倒れ,分類してあったネジや電球が散らばる。

折角分類したのになーと考える。


外に目を向けると,電柱が激しく揺れている。

折れてこっちに倒れなきゃいいなと考える。


母屋から祖母と父が飛び出してくる。

父が祖母を車に乗せている。


事務所から母が出てくる。

必死の形相で戸口に掴まっている。

母の手を引いて,車に乗せようとするが,戸口に掴まった手を離そうとしない。

その力の強いこと。

指を引き剥がして手を引き,車に乗せる。


揺れがなかなか止まらない。

しかし不思議と立っていられる。

立っていられるから大したことないと思ってしまう。


揺れが止まった。


電気は止まっている。

水道は出ている。

ガスはプロパンだから大丈夫。

お客さんの車は無事。

家族も無事。

火の気はない。


そこまで確認して,工場からほど近くのアパートへ自転車で急行。


ドアを開けて絶句。

アパートは食器や本が散乱して足の踏み場もない。


プリンタが,電子レンジが落ちている。
重いはずの冷蔵庫がズレている。


幸い妻は無事。


何とタンスが倒れている。

前に倒れるなら分かるが,横に倒れている。

一体どうやったらこのように倒れるというのか?


タンスを起こそうとすると再び大きな余震。

なす術なし。収まるまで待つ。

貴重品を持って,小学校へ避難するよう指示し,再び工場へ戻る。


長男は仙台市街地の中学に通っている。

何としても安否を確認せねばならない。


この時点で,太平洋で発生した津波が押し寄せつつあるとは夢にも思っていない。


長い長い一日の始まりだった。


・・・つづく。


Index >> Next


平成23年3月11日午後2時46分,宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生,地震により発生した津波は最大で15メートルもの高さとなって沿岸部を襲った。


死者は約1万5千人,行方不明者は9千人を超え,合わせると2万4千人もの方々が命を落としたと言われている。


私はこの未曾有の災害を体験し,この目で見てきた。


いわば歴史の証言者である。


歴史の証言者として,私から見た「東日本大震災」を綴ろうと思う。


もくじ

その1 震災の瞬間 (平成23年5月25日)
その2 長男の安否 (6月1日)
その3 押し寄せる水 (6月8日)
その4 食料の確保 (6月15日)
その5 妻は何処? (6月22日)
その6 長男を迎えに (6月29日)
その7 炊き出し開始 (7月6日)
その8 九死に一生 (7月13日)
その9 師匠の安否 (7月20日)
その10 船は無事か (7月27日)
その11 七ヶ浜へ (8月3日)
その12 被災地へ水を (8月10日)
その13 津波の怖さ (8月24日)
その14 気が休まらない (8月31日)
その15 祖母をお風呂へ (9月7日)
その16 オフライン (9月14日)
その17 中野地区合同慰霊祭 (平成25年3月17日)
その18 ねぇねぇしってたぁ? (4月10日)










武産合氣道 大和合氣修練道場 & 宮城野稽古会 稽古日誌

壊滅的な被害を受けた七ヶ浜町菖蒲田浜の家屋。

誰が置いたか,クマとトラのぬいぐるみ。


女性のためのレディース防災セット【非常用持ち出し袋/非常用持出袋/女性用/防災セット/避難袋/...
¥8,400
楽天

水や食べ物の提供を申し出ると、「うちは大丈夫だから」と言われることが多いのです。

本当は大丈夫じゃないんです。

自分よりも辛い思いをしている人がいることを知っているから、「うちは大丈夫」と言ってしまうのです。

そんなときは差し出がましいと思わずに、強く渡してあげて下さい。



英語に「ライフライン」という単語はないそうですが、なかなか上手い和製英語ですね。

英語でしたら、ライフ・インフラストラクチャの方がしっくりくるかもしれません。

それはさておき、ライフラインがどれか一つでも途絶えると、本当に不便ですね。

今回の地震でそれを痛感しています。