三重県旧一志町の古代寺院2選~高野廃寺篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

三重県の中勢部、古代寺院群「嬉野五寺」がある旧嬉野町のお隣、旧一志町(いちしちょう)の二つの廃寺をご紹介しています。今回は「高野廃寺篇」です。

 


JAみえなか郷土資料館が意外に楽しいぞ(続き)

 

前回ご紹介した八太廃寺(はたはいじ)の出土瓦が展示されているJAみえなか郷土資料館。もう一つの古代寺院、高野廃寺の出土品もあるのかな?と期待しましたが、残念ながらそれは無し。

 

しかし、このようなものが展示されていました。

 

「(高野廃寺)想像復元図」とありますね

 

手作り感満載のジオラマ風の絵ですが、門から伽藍をのぞむといった凝った趣向。高野廃寺は伽藍配置はおろか建物跡も確認されていませんので、根拠はまったく不明ですが、門の向こう側に中央奥に五重塔、その左右手前に寄棟の堂と八角円堂を配置するという、なかなか独創的なものです。

 

斜め前から見るとこんな感じ。手前のカタマリは古墳の石室を再現

 

この想像図は結構味わい深いものがあって、伽藍配置マニアの私は面白く拝見させて頂きました。何が面白いのかというと、まず四天王寺式や法隆寺式ではない、変則的な伽藍配置としていることなのです。

 

中心に塔を据え、その両側に堂を配置する形式はどことなく飛鳥の檜前寺跡を紡彿とさせますね。古代寺院の伽藍配置に関心を持ち出すと、やがて教科書に載っているようなフツーの配置形態では物足りなくなってきて、そこから少しはみ出したようなものに惹かれるようになってくるのです。

 

檜前寺の伽藍配置。門の正面に塔があり、回廊で接続された金堂と講堂が左右に向き合って配置される独特の形式

 

もう一つは中心伽藍の構成要素に八角円堂を加えていること。一般に古代寺院において八角円堂が中心伽藍に含まれることはなく、それとは別に「院」として別構成になっていることが多いように思います。法隆寺の夢殿しかり、興福寺の北円堂しかり。それをあえて破ったところがポイント高い。まさか、ドドコロ廃寺をリスペクトしたとか!? この想像図を描かれた方が意図してこのような配置形態にしたのだとしたら、話が弾みそうです。

 

せっかくなので、この高野廃寺のジオラマに描かれた堂塔をリアルな形で妄想してみます。どうせなら創建時の朱塗りの柱が鮮やかなものをセレクトしたいところ。

 

まずは、伽藍の中心になっている塔。高野廃寺のような地方寺院で五重塔はいささか盛りすぎの感があって、塔が存在していたとしても三重塔ではないかと思われるのですが、まあそこは華麗にスルー。で、古代寺院の五重塔といえばこれ。

 

おなじみ四天王寺の五重塔。なんと最上階まで登れます

 

右手の八角円堂はこれかな....瀬戸内海の生口島にある耕三寺八角円堂。夢殿をモデルに規模を縮小して建設されたとのことで、なんと登録有形文化財に指定

 

あまりいいアングルで撮れなくてこれでご勘弁

 

ちなみに耕三寺は以前、本ブログでもご紹介しました。寺院建築にご関心があれば訪れて損はありません。オススメです。

 

 

さて、最後の左側の金堂もしくは講堂は寄棟づくり。絵では古代寺院にはない廻り縁がついているので、後代の再建(??)のようです。ここは創建時も同様の寄棟づくりだったとして、手持ちの写真を探してみたのですが、入母屋造りが多くてぴったりなものがありません。


ようやく見つけたのがこちら。奈良県葛城市の地光寺(じこうじ)の復元模型。葛城市歴史博物館で展示されているものです。

 

中央が金堂。ちなみに地光寺は薬師寺式の双塔伽藍だったようです

 

いかがでしょうか。本当にこのような伽藍が存在していたのかどうか知る由もありませんが、妄想としてはかなり楽しめましたよ。

 

 

  高野廃寺(たかのはいじ)

三重県津市一志町高野

訪問オススメ度 

 

郷土資料館を後にして、北西に向かいます。ほどなく集落の北外れにある高岡神社とその西隣の東光寺にたどり着きますが、この一帯の北側に展開していたと考えられているのが高野廃寺です。ここは、沖積台地の端部に位置しており、典型的な「ザ・古代寺院の立地場所」。


高岡神社参道脇の「高野廃寺跡」の看板

 

高野廃寺は古くは「薬師寺」「浄泉寺」と呼ばれていたとの言い伝えがあるようですが、小字名をとった「高野廃寺」が一応オフィシャルな名称のようで、『一志町史』でもこの名称が使われています。「高野廃寺」の他にも「高寺廃寺」「高岡廃寺」と似通った呼び方もあって混乱しますが、これらは同一の寺院跡の呼称です。
 

看板の拡大

 

古代寺院の痕跡を求めて神社やお寺の境内地を回ってみますが、礎石などのはっきりと遺構とわかるものは見当たらず。瓦の破片も見つけることができません。ここには何もないかと半ば諦めながら、東光寺から北へ続く狭い脇道を歩いて行くと....

 

こっ! これは!?


布目の跡がばっちり付いた瓦片でした。畑の耕作中に出てきたものがそのまま道脇に放っておかれたような感じです。いつも書いていることですが、古代寺院跡を訪ねて布目瓦の一片でも見つけられると、古代人の手のぬくもりが感じられるようでほくほくしてしまいます。

 

 

ほかにも布目瓦片がないものかと付近をカメラ片手にうろうろしますが、見つけられたのはこれだけ。道の脇で旦那さんと農作業をしていたお母さんに「風景写真でも撮りに来たの?」と声をかけられる。

 

高野廃寺遠景。北東から高岡神社の森を見る

 

あちゃー、これは不審者扱いされたなと思いつつも、「このあたりに昔のお寺があったと聞いて来てみたんです」と正直に話すと、「瓦は畑からたくさん出てくるけど、ここら辺は家を建てることができなくてねえ」とのお返事。

 

おそらく市街化調整区域か何かで、土地を持っていても制約があって使い道がないということなのでしょう。お母さん、この地の古代寺院には興味なさそうでしたが、そりゃあ耕作に邪魔なだけの瓦のかけらなんかよりも、持っている土地の活用の方が気になりますわな。

 

ところで、高野廃寺の出土物としては、瓦のほか、東光寺の西側の県道の拡幅工事を行った際に見つかった「風招(ふうしょう)」があるそうなのですが、どこに所蔵されているのかはよくわからず。後日、津市埋蔵文化財センターにも尋ねてみましたが、同センターでは古代寺院関連の展示はしていないとのことでした(出土した風招はどこかで所蔵されているのでしょうけど未確認)。

 

軒先にぶら下がっている風鐸下部の板状のものが「風招」。大阪四天王寺

 

旧一志町の古代寺院のご紹介は以上です。旧嬉野町の五寺に比べると出土品の展示関係では物足りなさを感じるものの、JAみえなか郷土資料館の運営や寺院跡をコースに取り入れたハイキングの主催など、地元のボランティアの方々によって草の根的に支えられていることが好ましく感じました。

 

資料館を案内していただいたボランティアの方がおっしゃっていましたが、最近の小学校では歴史をあまり教えないそうで、子どもたちが校外学習で資料館を訪れる機会がほとんどなくなってしまったとのこと。これも時代の流れでしょうかね。

 

 

[訪問日]2023.10.14