三重県旧一志町の古代寺院2選~八太廃寺篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

以前、三重県の中勢部、近鉄伊勢中川駅の西側に集中する旧嬉野町の古代寺院群を勝手に「嬉野五寺」と名付けてご紹介しました。

 

 

しかし、この付近には「嬉野五寺」だけでなく、ほかにも古代寺院跡が確認されているのです。それが今回ご紹介する「八太廃寺(はたはいじ)」と「高野廃寺(たかのはいじ)。旧一志郡一志町に存在していた2寺院です。

 

右中央部の黄色の四角が「嬉野五寺」。左下にあるのが八太廃寺。高野廃寺は表示されていませんが、八太廃寺の左下に位置しています(松阪市嬉野考古館解説パネル)

 

旧一志町は現在は合併により三重県津市になっているのですが、同じ旧一志郡でも「嬉野五寺」のあった旧嬉野町は合併により松阪市になっています。しかも嬉野町内には一志という地名もあってややこしい(嬉野五寺の一つ「一志廃寺」も旧嬉野町)。

 

これらの古代寺院は、立地場所から見ればまとめて「一志七寺」とでもするのも良いようにも思いますが、旧嬉野町と旧一志町は郡部の時代から行政区域が異なっていたこともあって、郷土史での記述や、出土品の展示なども別々にされています。

 

それに倣って本ブログでも両者を切り分けてご紹介することにしています。ということで、前置きが長くなりましたが、旧一志町の古代寺院巡りにレッツラゴー!

 

 

  八太廃寺(はたはいじ)

三重県津市一志町八太

訪問オススメ度 


八太廃寺は白鳳期に建立されたと考えられている古代寺院跡です。この廃寺に関連する場所はいくつかあって、名称などが少々紛らわしく混乱しがちなので、はじめに整理しておきましょう。

  • 八太廃寺‥‥JR名松線(めいしょうせん)伊勢八太駅(いせはたえき)北西部に存在したと考えられている古代寺院跡。班光寺(ばんこうじ)と呼ばれていたとの言い伝えがあり、「班光寺跡」と記されることも多い
  • 班光寺跡の碑‥‥八太廃寺から北に500mほど、一志東小学校校庭の南西にある石碑。ここは古代寺院跡ではなく、江戸期にあったという班光寺の跡
  • 日出山班光寺‥‥現在の班光寺。班光寺跡の碑から北西に200mに位置する寳善寺の境内地に移転したもの。
  • 羽多神社(はたじんじゃ)‥‥班光寺跡の碑から北に400m、波瀬川の南に位置する神社。竜天宮とも言う。八太廃寺のものとされる礎石が境内に据えられている。
  • JAみえなか郷土資料館‥‥八太廃寺出土の瓦が展示されている。毎週土曜日に開館。

八太廃寺は伊勢八太駅のすでそばということもあり、今回は近鉄ではなく松阪からJR名松線を利用。廃止もうわさされるローカル線です。

 

松阪駅からワンマン運転のディーゼルカーに乗車

 

車窓から「嬉野五寺」の一つ、天花寺廃寺を望む

 

松阪から15分ほどで伊勢八太駅に到着です。訪れたときはあいにくの雨模様。無人駅の北西一帯が古代寺院跡とのことですが、農地や宅地が広がっているだけで、痕跡は何もありません。

 

伊勢八太駅。写真の奥の方が古代寺院のあった場所とされていますが....

 

現地はこんな感じ。右手にJR線があります

 

八太廃寺は、1989年・90年に発掘調査が行われましたが、残念ながら堂宇の遺構などは確認できなかったようです。伽藍配置なども不明のまま。かつては礎石や瓦などが見られたとのことですが、礎石は他所に持ち出されてしまったそうです。

 

その礎石の一つが当地から少々離れた羽多神社内にあるというので、そこまで歩いて行きます。途中「班光寺跡の碑」に立ち寄ります。繰り返しになりますが、ここにあったのは江戸期の班光寺であって古代寺院跡ではありません。八太廃寺を「班光寺跡」とすることもあるので、ここがそうだと勘違いしてしまいがちですが(私も間違えました)、古代寺院があったのは先ほどの伊勢八太駅の周辺です。

 

一志東小学校校庭の南西にある班光寺跡の石碑

 

班光寺は行基(668~749年)により開基され、十市皇女(?~678年)が訪れたことがあるとの寺伝があるようですが、時系列的には無理があってこの点は信頼できません。

 

織田信長の伊勢攻略で焼けたとする話もあるらしく、「嬉野五寺」の一志廃寺や天花寺廃寺に共通しています。というか、このあたりの古刹は信長にことごとく焼き払われたことになってしまいますね。

 

羽多神社遠景

 

近鉄線を越えて延喜式内社の羽多神社に到着。さっそく礎石を探してみると、社殿の左側にありました。

 

立札が添えられ境内に鎮座

 

礎石の表面を見ると窪みが2箇所あります。盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ばれる民間信仰の遺物らしいですが、日本のみならず、古代から世界中でみられるものなのだそうです。へえー。盃状穴だとしたら、礎石としての役割を終えた後に彫られた穴なんでしょうね。

 

礎石のアップ。柱座らしき盛り上がり(溝?)の中に盃状穴が二つ

 

ちなみにかの東大寺の転害門の石段にも盃状穴が穿たれています。うろ覚えですが、穴に油を注ぎ燈明を灯していたのではないかとの話をガイドさんから聞きました。

 

国宝の東大寺転害門。後世の改修を受けているとはいえ、奈良時代の姿をとどめています

 

石段を見ると盃状穴が多数

 

ちなみに八太廃寺からは塔心礎も見つかっているとの話もあるのですが、これはどうやら津市の中心地にある個人宅に持って行かれたもよう。

 

さすがにどのようなものかを確認することはできないと諦めていましたが、『一志町史』(上巻)の口絵にその写真が掲載されていました! 

 

図書室でのコピーの手続きが面倒だったので、その場で模写(笑)。心礎はちょうど舎利孔の端の部分で割られており、2段式の彫り込みの状況が見て取れました。

塔心礎のラフスケッチ。舎利孔の脇に盃状穴らしき窪みがありますね

 

 

JAみえなか郷土資料館が意外に楽しいぞ

 

また別の日に一志にやってきました。今回は近鉄川合高岡駅からJAみえなか郷土資料館とその近くの高野廃寺を訪れてみます。JAみえなか郷土資料館はネットを調べていて知ったのですが、民俗資料のほか古墳からの出土品などの考古資料も展示されている様子。

 

JAみえなか郷土資料館。「三重のまんなか・まちかど博物館」に指定されています

 

古代寺院の瓦の展示があるのかはネットではわかりませんでしたが、とりあえず行ってみることに。開館しているのは土曜日のみです。訪問時は私だけで、ボランティアの方に丁寧にご案内して頂きました。

 

展示物を順に見ていくと、幼少の頃、祖母の家にあった編み機を発見! 懐かしさがこみ上げてきます。このような編み機のことはまったく忘れていて、何十年も経っているのに見た瞬間に思い出すのも不思議なものです。視覚的な情報は意外と記憶の底に刻まれているということなのでしょうかね。

 

写真の下にあるのが編み機

 

肝心の古代寺院関係はと探してみると....ありました!「班光寺跡」すなわち八太廃寺出土の瓦です。砂粒が目立つのが特徴でしょうか。

 

なかなか立派な文様です

 

瓦の展示はこれだけだったのですが、このほかにこれから訪れる予定の旧一志町のもう一つの古代寺院、高野廃寺の想像図がありました。これもまた味わい深いものだったのですが、それはまた次回。

 

 

[訪問日]2023.4.15(八太廃寺)、2023.10.14(JAみえなか郷土資料館)