近鉄伊勢中川駅の南西に展開する「嬉野五寺」(うれしのごじ)。(その4)の今回が最終回。最後の記事では「嬉野五寺」のラスボス「天花寺廃寺」ほかをご紹介します。ではレッツラゴー!
はじめに今回の廃寺の名称について整理。「天花寺廃寺」「天華寺廃寺」の両方の表記が見られますが、ここでは原則論どおり所在地の「嬉野天花寺町」に合わせて「天花寺廃寺」とします。読み方も「てんげじ」「てんげいじ」と呼んでいる例もあって混乱しますが、「てんげえじ」が正しいようです。ということで、本ブログでは「天花寺廃寺(てんげえじはいじ)」としておきます。
さて、天花寺廃寺のどこがラスボスかというと、
- 「嬉野五寺」で唯一伽藍配置が判明
- 全国的にも類例のない六角塼仏が出土
- 孝徳天皇・孝謙天皇にゆかりがあるとの寺伝
といったところでしょうか。
天花寺廃寺へは中谷廃寺からいったん県道に戻り、北に向かって歩いていって、天花町交差点の手前で右の脇道に入り、山裾に沿ってしばらく行ったところにあります。
写真右手の田んぼの中が中心伽藍(金堂・塔)のあった場所。左にあるのは現地の案内板
ラスボスとはいえ、現地には案内板があるだけで、古代寺院の遺構は歩いてきた道とJR名松線との間の圃場整備のされた田んぼの中に埋まっており、残念ながら礎石などのいにしえを偲べるものは何もありません。
ということで、天花寺廃寺はまずは文献上の記録について、その次に出土物についてご紹介することにしましょう。
天花寺廃寺(てんげえじはいじ)
三重県松阪市嬉野天花寺町
訪問オススメ度 ★
天華寺という寺院は、天花寺廃寺の南西方向、県道を挟んで300mほどのところにあって、天花寺廃寺の後身寺院の可能性もある。この寺に伝わる『天華寺由緒記』に以下のような記述があるという。(下の写真の記述を参照してください)
現地の案内板。伽藍の絵は考証がちょっとあやしい
これによると、まず孝徳天皇(在位645年〜654年)の瑠璃光院があったということだが、発掘で明らかになった天花寺廃寺の創建時期は7世紀後半と考えられているから辻褄はだいたい合っている。
孝謙天皇の法華寺云々の下りは、聖武天皇(在位724年〜749年)と混濁しているように思えるが、天花寺廃寺を造営した地元豪族が中央政府とのつながりがあった程度に理解しておこう。
次に江戸末期に記された地誌『勢陽五鈴遺響(せいようごれいいきょう)』をみてみよう。壱志郡の巻之四に以下のような記述がある。
勢陽五鈴遺響 壱志郡 巻之四
天華寺同処にあり。天智天皇勅創にして本尊薬師仏、聖徳王の作なり。上古は大刹にして永禄中阿坂軍(あさかのいくさ)之時、兵燹(へいせん)のために焼土となり、今纔(わずか)に小堂のみ遺れり。其旧址より古瓦及土器仏具等を往々整得事あり
天智天皇(在位668年〜672年)の話は『天華寺由緒記』とは異なり、出どころは不明だが、7世紀後半と考えられる天花寺廃寺の創建時期にはこちらの方がしっくりくる。永禄年間の織田信長の伊勢攻めの際に焼失したというのは、東福寺(一志廃寺)と同じである。注目すべきは当時、小堂が残っていたということだが、今は何もなくその跡すら不明である。古瓦などが出土することは当時から知られていたようだ。
『勢陽五鈴遺響』の少し後にまとめられた『勢国見聞集』(1851年)には、その当時は天花寺廃寺の礎石や心礎が地表に露出していたと書かれている。これらはいずれも持ち去られてしまったようだ。この幕末の二つの地誌によって、天花寺廃寺は現在とは異なって、いかにも廃寺らしい痕跡が残っていたことが見て取れる。
JR名松線の踏切から南方の天花寺廃寺跡を望む。御覧のとおり今は何もありません
続いて天花寺廃寺の伽藍配置や出土物などをみてみよう。いずれも嬉野考古館で見学可能である。
天花寺廃寺の一帯で圃場整備事業が実施されるに先立ち、昭和54年と55年に発掘調査が行われている(三重県埋蔵文化財発掘調在報告44『昭和55年度県営圃場整備事業地域 埋蔵文化財発掘調在報告』 IX 一志郡嬉野町 天花寺廃寺)。その結果、礎石等は持ち去られていたものの、金堂と塔の基壇が確認され、東に塔、西に金堂を配置する法起寺式伽藍であったことが判明した。
天花寺廃寺伽藍配置図。金堂と塔以外の遺構は確認できなかったようです(以下嬉野考古館の展示より)
出土物で特筆すべきは六角形の塼仏である。これは戦前から出土していたものがあるとのことだが、この時の発掘調査でも数点が出土したとのことだ。仏像の脇腹横に穴が穿たれており、これは釘で壁面に固定するためのものだろう。
天花寺廃寺の出土品。六角形の塼仏は復元したもの
おなじく天花寺廃寺の出土品。右下が出土した六角形の塼仏の実物
六角形塼仏のレプリカは手に取ってみることも可能。グッド!
これらは金堂跡の南と東から出土したとのことで、金堂内の荘厳に用いられていたと考えられている。塼仏は一般的な方形のものも出土しているという。また如来像だろうか、塑像の左ひざの部分も出土している。
復元すると高さ55センチほどの座像になるそうです
出土した瓦は、いわゆる川原寺式や藤原京式のものもあり、これは前述のとおり、天花寺廃寺の造営者の中央政府とのつながりを示すものとされる。
複弁八葉蓮花文軒丸瓦。川原寺式と藤原京式の違いが良くわかりませんが、立派な文様です
以上で天花寺廃寺のご紹介は終わりです。どうですか?六角形の塼仏なんて珍しいものが、どのように飾られていたのか、考えてみるのも面白いですね。
六角塼仏の荘厳を妄想
実はこの点、私は少し引っかかるところがあって、それは何かというと、一般的な方形の塼仏のように壁面にずらっと並べると、端の部分に隙間ができてしまうので、このような並べ方ではなかっただろうと。
ちなみに斜辺部分も直線ではないので隙間ができてしまいます
嬉野考古館で展示してあるように、数枚を組み合わせてアクセントになるように荘厳したであろうというのが正解かもしれませんが、ここで一つ妄想を膨らませて、堂内の柱にブレスレットのように巻き付けてあったのではないか?との説を提唱してみましょう。
どんな感じになるのか検証してみました。
六角形の塼仏の写真を朱色の地に連続コピペ。シングルでは寂しいのでダブルにして印刷した紙をその辺にあった筒に巻いてみます。
やっぱり塼仏を柱に巻くだけでは、ちょっとイメージが違うようです。
そこで、柱頭部分という設定で、塼仏を巻く部分の上下にお絵描きを足してみました。
文様はネットにあった適当な画像を参考にして適当に描いてみただけですので、考証性はありませんし、スケール感もテキトーです。
今度はどうでしょう?
なんとなく雰囲気は出てきましたね(自己評価)。柱巻塼仏説、いかがでしょうか。根拠はありませんが、さりとて完全否定もできない。言ったもんやったもん勝ちの世界ですね。まあ、個人的には楽しい作業でしたよ。
これで「嬉野五寺」のご紹介は終わりです。日もだいぶ傾いてきて夕暮れ時が近いことを感じます。天花寺廃寺からは東に向かって伊勢中川駅に戻ります。駅に戻りましたが、まだ日は落ちていない。ここで終わりにしないのがハイジスト。
ここはもう一つ、「嬉野五寺」に入り損ねた場所に行ってみることにしましょう。
積善寺(しゃくぜんじ)
三重県松阪市嬉野須賀町
訪問オススメ度 ─
積善寺の白梅
伊勢中川駅から南東方向に歩いていくこと約30分。洪積台地の端部に位置するのが積善寺です。境内の案内板には古代寺院のことは記されていませんが、積善寺の東側の土塁下から古代瓦が数枚出土しているとのこと。
積善寺の周囲には須賀城跡の土塁が残っています
(その3)でもふれたように、瓦の出土だけでは古代寺院と確定することはできず、界隈ではまだ「廃寺」への昇格は見送られているようですが、文献によってはフライングで「須賀廃寺」と記されていることもあり、今後の調査が期待されます。
積善寺付近にて
積善寺を後にするとさすがに日が暮れていました。薄暗くなった嬉野の里を伊勢中川駅まで戻り、本日の行程はこれで終了です。歩行距離はだいたい13キロくらいでした。いい運動になりましたね。
伊勢中川駅近くの交差点脇に嬉野町出土の考古資料の案内板がありました。下の二つは鴟尾くんです
「嬉野五寺」を訪ねる記事、いかがだったでしょうか。
長々とお付き合いありがとうございました。
[訪問日]2023.2.26