早春の「嬉野五寺」を歩く(その3)~一志廃寺と中谷廃寺 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

近鉄伊勢中川駅の南西に展開する「嬉野五寺」(うれしのごじ)。(その3)の今回は、「一志廃寺」「中谷廃寺」を巡ります。ではレッツラゴー!
 

上野廃寺を後にして進路を北西方向に取り、下之庄の集落を越え、一志橋で中村川をわたり、一志の集落に向かいます。地図を見ると、細い道が入り組んでいていかにも古くからある集落という感じ。この集落にほぼ重なる形で存在していたと考えられるのが、一志廃寺です。
 
一志橋を渡った場所から北方向の集落を望む。雲行きもちょっと怪しくなってきました
 
一志廃寺は「嬉野五寺」の中にあっては、礎石などの遺物が唯一現地で見ることのできる古寺院跡。これらは集落の西端にある薬師寺で確認できます。では行ってみましょう。
 

 一志廃寺(いちしはいじ)

三重県松阪市嬉野一志町

訪問オススメ度 ★★

 


薬師寺全景。後背地(写真左側)は小高い丘になっています
 
二段に葺かれた寄棟造という少々変わった意匠の薬師寺本堂。その向かって左側に案内板が設置されており、その手前にあるきれいな柱座が造り出された礎石が一志廃寺のものだ。さらにその左に置かれているのが塔心礎と考えられている。
 
塔心礎(左)と柱座のついた礎石(右)
 
塔心礎といっても御覧のとおり円孔からは樹木が生えており、知らなければ大きな石鉢にしか見えないだろう。この塔心礎はもともと集落内の別の場所にあったのが、ここに持ち込まれたのだという。
ちなみに案内板には、「薬師寺の文化財」として狛犬と鰐口の説明があるが、礎石のことなど肝心の古代寺院に関する記述がない。
 
塔心礎のアップ。舎利孔があるのかどうかは不明
 
一志廃寺は発掘調査が行われていないので、伽藍配置をはじめ詳細は不明だが、採取された瓦の様式から推定すると「嬉野五寺」の中では最も創建時期が古いとみられているらしい。『嬉野町史』によれば、小型の独尊博仏も出土しており、これは紀寺出土のものとよく似ているという。(残念ながらこれらは嬉野考古館での展示はされていませんでした。)

薬師寺は、寺伝によれば東福寺(藤福寺)のあった場所に再建されたものだ。東福寺は中世には伊勢国司北畠氏の庇護を受け栄えたが、阿坂合戦の際に織田軍に攻められ焼失、からくも本尊薬師如来立像と鰐口は難を逃れ、これを安置するために設けた一堂が薬師寺なのだそうだ。
 
この薬師如来立像は寄木造で高さは1m弱。平安後期の作と考えられており、国の重要文化財に指定されている立派なものだ。この立像は本堂西側の高台に設けられた鉄筋コンクリート造の収蔵庫に安置されており、開帳は12年に一度しかされない。(ちなみに次回は2024年のようです。)
 
嬉野考古館に展示されている写真パネル

拝観できないことはわかっていだが、収蔵庫のある場所まで行ってみる。高台に上るとあたりは墓地となっていた。一志の集落がよく見渡せる。
 
薬師寺本堂の西側の高台からの眺め。右端にわずかに見えるのが中村川
 

薬師如来立像を安置する収蔵庫

 

収蔵庫の前に案内板があり、こちらは古代寺院にも言及されていた。こちらによれば、一志廃寺は奈良時代前期(700年頃)の創建とのことだ。

 

収蔵庫前の案内板

 
 
一志廃寺の説明は以上です。

高台から再び薬師寺境内に戻ってきました。先ほどご紹介した柱座のある礎石や塔心礎のほかにも、礎石だったらしきものがちらほらと。
 
案内板とは別の場所の礎石。こちらもうっすらと柱座の円形造り出しが見えますね
 
瓦片もないものかと探してみると、お! 布目がありますね。布目があるのは室町期までとされるので、これが古代寺院のものとは確定できませんが、当時の瓦工人の「手」の跡が感じられて、先人の存在が時空を超えてぐっと身近に感じられるのはうれしいものです。


瓦片はあまり見当たらず境内で見つけたのはこれだけ

薬師寺を出て、次の目的地の「中谷廃寺」をめざします。
迷路のような集落内の道を通って、県道に出るのですが、ふと道端に目をやると布目瓦片が!(究極奥義「瓦めくり」)
なるほど、現在の集落が一志廃寺の寺域に重なるというのもうなずけますね。
 
こちらは黒っぽい色でした
 
集落内に遺跡がある場合は、個々の住宅の建て替え等に伴って、少しずつ発掘調査を行っていくしかなく、一志廃寺の全体像がわかるにしても遠い先のことになります。アテにならない私の勘ですが、一志廃寺からは何かしら面白い遺構や遺物が出てきそうな雰囲気があり、今後に期待したいと思います。
 
集落のはずれの道標。歴史を感じさせますね

さて一志の集落を抜けたら県道に戻って北上します。伊勢中川駅を出発してからの歩行距離は約6キロメートル。少々ダレてきましたが、頑張っていきましょう!
 
 

  中谷廃寺(なかたにはいじ)

三重県松阪市嬉野天花寺町

訪問オススメ度 

 
中谷廃寺遠景。写真中央奥のあたりのはずなのですが....
 
「嬉野五寺」の中ではもっとも創建時期が新しく、8世紀後半の天平期とのことだ。昭和62年と63年に「詳細分布調査」というものが実施され、竹林の中に基壇らしき高まりと大量の瓦が確認されたといい、瓦を積み上げた基壇だった可能性があるという。寺院の規模は大きなものではなく、一堂形式だったのではないかと考えられているようだ。
 
この辺り....なのか?
 
 
中谷廃寺を探してみたのですけどね、ここは案内板もなく場所がよくわかりませんでした。竹林はありましたが、どのあたりが「基壇の高まり」なのかは特定できず。瓦片などを見つけることもできませんでした。

ちなみにこの中谷廃寺、以前は廃寺ではなく「中谷遺跡」と呼ばれていたようですが、最近の資料では廃寺に「昇格」しているようです。

話は少々逸れますが、なにがしかの遺跡を古代寺院跡であると判定するための基準は、
  1. 瓦や礎石などの遺物がある
  2. 寺院特有の伽藍配置(四天王寺式や法隆寺式など)である
  3. 寺院特有の遺物(塔心礎、水煙、瓦塔、博仏など)がある
といったことが挙げられます。2.や3.であればほぼ当確ですが、問題は1.の場合。瓦や礎石があっても官衙(古代の役所)などの建物なのかもしれないし、瓦だけなら瓦窯(瓦を焼いた窯)の可能性もあって、それらがあるからといって直ちに寺院とは確定できないわけです。
 
実際に、寺院跡なのか遺跡なのかで揺れ動いた例もあって、例えば愛知県豊田市の伊保廃寺は、古くは「伊保白鳳寺跡」と呼ばれていたものの、古代寺院とは確定できなかったことから「伊保古瓦出土地」と改められ、その後発掘査により寺院跡とほぼ確定できたため、めでたく(?)「伊保廃寺」になったという経緯があります。

その点、この中谷廃寺が古代寺院跡なのかどうか、瓦積みの基壇も現時点ではその可能性があるに過ぎず、いまひとつはっきりしないのですが、これは今後の調査で明らかにされていくことでしょう。
ちなみに瓦積みの基壇はこんな感じ。復元された伊丹廃寺の塔基壇(兵庫県伊丹市)

 


(その4)に続きます。