早春の「嬉野五寺」を歩く(その2)~上野廃寺 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

近鉄伊勢中川駅の南西に展開する「嬉野五寺(うれしのごじ)(その2)の今回は、「上野廃寺」を巡ります。ではレッツラゴー!
 

嬉野廃寺からグリーンロードをさらに西に向かって歩いて行くと、左手に松阪市立嬉野中学校があります。素通りのつもりですが、校門の近くに何やら奇妙な土盛りが....スマホで調べてみると「天保1号墳」と言って、ここに移設された古墳でした。

 

中には入りませんでしたが、立派な石室が露出した形で復元されているそう

 

私は古墳にもコーフンする性質ではあるのですが、今回は廃寺探訪が目的なのでここはパス。旧嬉野町は古墳も数多くあるのですが、特に前方後墳という形態のものが多いことで知られています。

 

私の関心事である古代寺院の伽藍配置もそうですが、前方後円墳のような形は「なぜそうしたのか」が良くわからないのですよね。諸説がありますが、いずれも決定打とはなっておらず、逆にあれこれ考えてみるのが面白い点です。

 

さらに西に進むと「愛宕さん」という小堂があります。廃寺になっているとのことで、背後が空地に本堂などがあったのでしょうか。古い石仏などがあって、歴史を感じさせます。

 

愛宕さん。地元の方によってきれいに維持されているようです

 

さらに歩いていくと同じ洪積台地の西端に至ります。大谷川という小さな川に沿って少し南に下っていくと、台地上に円光寺というお寺があります。この一帯に存在していたと考えられているのが上野廃寺です。


西側から台地上の円光寺を望む

 

 

  上野廃寺(うえのはいじ)

三重県松阪市嬉野上野町

訪問オススメ度 

 

上野廃寺は、白鳳期創建と考えられている古代寺院で、現在の円光寺がある一帯に中心伽藍が、その北側の少し標高の下る場所に、寺院に関連する生活施設などがあったと考えられている。

 

円光寺本堂に続く石段

 

境内にある案内板にはここに古代寺院があったことにも言及

 

円光寺境内にある案内板には「現在の境内より北側、畑地には礎石などが残存しており」とあるが、今では本堂の裏手に鉄筋コンクリート造の事務所ビルが建てられていて、案内板にあるような古代寺院の痕跡はなくなってしまっている。

 

周辺を歩いてみるが、古代寺院の手掛かりになりそうなものは皆無といった状況。しかし、その昔は礎石や古瓦が見られたようだ。関連する文献から引用してみよう。

 

寺跡には今も広く古瓦片を散布す、又嘗て大型礎石を数多く他へ搬出せしことあり。現時尚数個を存す。また塔心礎石の端麗なるもの存す。

 

『三重縣古瓦図録』鈴木敏雄 著 楽山文庫 発行 昭和8年

 

む? なんと昭和初期には塔心礎も残っていたというのだ! 現在どこにあるのかは不明。好事家によって持ち出され、大邸宅の庭に置いてあるのかもしれない。

 

(前略)新円光寺より小径を北に下った右手に鐘田と称する休耕田があり、西麓を流れる大谷川に沿った杉林中に今も開発の際出土した古代瓦の破片が累々と苔に埋もれて残っている。

 

『嬉野町史』 嬉野町役場 発行  昭和56年

 

時代は下って昭和56年。「円光寺」、「開発」とあることから、円光寺の建て替え(詳細未確認)など、その当時何かしらの工事がこのあたりで行われ、その時に出土した瓦片がまとめて置いておかれたような記述だ。「鐘田と称する休耕田」と思しき場所は、円光寺の少し北の、一段低くなって開けた場所のことだろうか。

 

鐘田と思われる場所(違っていたらごめんなさい)

 

上述の『嬉野町史』にも記述されている大谷川だが、上野廃寺近辺で河川改修が行われることになり、平成元年に発掘調査が行われている。上野廃寺の中心伽藍があったと考えられる円光寺周辺からは少し離れた場所の発掘だったので、寺院そのものの状況を明らかにするものではなかったが、寺院と関連する遺構などが確認されるなど、一定の成果はあったようだ。

 

河川改修が行われた一帯

 

発掘調査では、排水施設であると考えられる大溝や、四脚門と推定される基壇跡、築地跡などの遺構が確認されたほか、大量の土師器須恵器木製品などが出土したという。出土品の一部は松阪市嬉野考古館で展示されている。以下にご紹介しておこう。

 

上野廃寺出土の土師器と須恵器(松阪市嬉野考古館)

 

同じく須恵器(松阪市嬉野考古館)

 

「糸巻」[右]と斎串(いぐし)[左](松阪市嬉野考古館)

 

円面硯(えんめんけん)。奈良時代の硯です(松阪市嬉野考古館)


これらの遺物や大溝の遺構から、この区域には僧房や食堂などがあったのではないかとの推定がされている。さらに量が多いことから、僧房などの生活関連施設だけでなく、制作工房のような施設もあったのではないかと考えられているようだ。

 

平成元年の発掘調査区域は限定的だったので結論づけるのは拙速だが、このエリアに寺院の生活関連施設や制作工房があったとの推察は興味深い。というのは、すぐわきを流れる大谷川、あるいは台地の端部からの湧水による取水が容易だったと思われるからだ。

 

生活や何らかの生産のために水が重要であることは言うまでもあるまい。「神聖」な中心伽藍は標高の高い区域に、「世俗」的な生活関連施設などは低い区域にという観念的な上下の区別だけでなく、給水や排水などの実利的な面からもこうした標高差のある施設群の配置計画は合理性がある。まさに一石二鳥だ。

 

また、寺院の付属施設として制作工房があったとすると、古代寺院の経営手段として、器などの製造・販売などの事業を手掛けていたということになる。僧侶たちの生活の糧を得るために、寺院でモノを売っていたという図式はなかなかイメージがしづらいが、この辺りは今後掘り下げていきたいと思う。

 

 

上野廃寺の紹介記事は以上となります。

 

ここを訪れたときに私は勘違いをしていて、中心伽藍が円光寺の東側の台地上にあったと思い込んでいたのですね。それでそのあたりをウロウロしてみたのですが、瓦片や礎石のようなものは一切なく、とんだ空振りになってしまいました。できれば再訪したいなあ。

 

畑地には桃の花が満開となり、菜の花もちらほらと咲き始めていかにも早春の風情。

 

 

円光寺の南の辻の脇で、写真のようなものに出くわしました。小ぶりの石が祀られているような風でもありましたが、これが何なのかは寡聞にして知らず(「山の神」というものですかね?)。これも追々調べてみようかと思います。

 

 

(その3)に続きます。