早春の「嬉野五寺」を歩く(その1)~嬉野考古館と嬉野廃寺 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

嬉野五寺(うれしのごじ)とは、現在は三重県松阪市の一部となっている旧嬉野町(うれしのちょう)に存在した古代寺院群のこと
お察しのとおり、この名称は大阪府柏原市の「河内六寺」に倣ったもので、私が勝手に命名しました。

嬉野の夕暮れ
 
この「嬉野五寺」、「河内六寺」のように歴史書(『続日本紀』など)に登場するわけではありませんが、呼び方を拝借した以外にも「河内六寺」と共通する事項があります。
 
まず、この「嬉野五寺」のある一帯は、「河内六寺」と同じく比較的狭いエリアに古代寺院が密集している全国的にも珍しい地域であること。「河内六寺」は山裾に一直線上に立地していましたが、こちらは中村川沿岸の台地端部に輪をなすように造営されています。
 
また、これらの古代寺院群からの出土品などがまとめて見ることができる展示施設があること。河内の「柏原市歴史資料館」に対して、こちらは「松阪市嬉野考古館」。こうした施設であらかじめ知識を得られるのはありがたいことです。
 
両者にはこうした共通要素があって、「嬉野五寺」という呼び方はまんざらでもないと私は思っているのですが、いかがでしょうか? そのうち、この呼称が定着するかもしれません(妄言)。
 
さて、私の定義では「嬉野五寺」を、
  • 嬉野廃寺(うれしのはいじ)
  • 上野廃寺(うえのはいじ)
  • 一志廃寺(いちしはいじ)
  • 中谷廃寺(なかたにはいじ)
  • 天華寺廃寺(てんがじはいじ/てんげいじはいじ)
の五つとしています。
 
この一帯には、以下の図にあるとおり、もう二つの古代寺院(八太廃寺・積善寺)がありますが、それらは除外。その理由は追って書くことにして、今回は「嬉野五寺」を時計回りに根性(徒歩)で訪ねてまいります
 
(その1)は、嬉野五寺の出土品などが展示されている「松阪市嬉野考古館」と嬉野廃寺を訪ねます。訪れたのは2023年2月の終わり。空も明るさを増して春の息吹を感じ始める頃です。それではレッツラゴー!
 
黄色の四角が古代寺院跡(左が北)。右中央部に集中しているのが「嬉野五寺」です。(松阪市嬉野考古館解説パネル)

 

起点は近鉄「伊勢中川」駅

 

まずはじめに「嬉野」という地名について。ウィキペディアによると、町名の由来は「およそ2000年前に倭姫命が阿坂の賊徒を平定した折に『うれし』と喜んだという伝承に基づく」とのこと。古くは「宇礼志乃」と書いたようですね。
 
「うれしの」なんて、いい地名ですよね! 素晴らしいと思うのですが、地元民以外には少々ピンとこないかもしれません。町内には近鉄、JR東海が通っていますが、どちらにも「嬉野」が付く駅がないからでしょうか。近鉄沿線民になら「伊勢中川のところ」と言ったほうのが通りがいいかもしれませんね。
 
鉄ヲタにはよく知られた近鉄の名所の一つ「中川デルタ線」。ここは大阪線、名古屋線、山田線が会する一大セクションだが、御覧のとおり周囲には耕作地が広がっている。
 
伊勢中川へは特急で大阪から1時間半、名古屋からなら1時間ほどの距離。昔は既存集落のあるのどかな田園風景に似つかわしい小ぢんまりとした駅舎でしたが(駅自体は以前から5線6面の大ターミナルで、そこがまたちぐはぐな感じで面白かった)、近年は区画整理により急速に市街化が進んでいて、駅舎も現代風のものに建て替えられました。
 

伊勢中川駅西口。反対の東口も同様に整備されています
 

 

まずは松阪市嬉野考古館で予習

 

近鉄「伊勢中川」駅からまず向かうのは松阪市嬉野考古館。タクシー利用なら10分弱、徒歩なら30分弱。旧嬉野町の施設が集まっている地区の一角にあります。

 

左のダブルかまぼこ屋根の建物の2階が「松阪市嬉野考古館」

 

2階に上がると考古館の入り口があります。松阪市のホームページにも記載があるとおり、ここは職員の配置はなく、電灯もついていないことがありますが、ひるまずにまいりましょう。

 

考古館エントランス。掲げられた文字は「嬉野町歴史資料館」のまま

 

松阪市嬉野考古館は、旧嬉野町内の遺跡からの出土品などを展示している施設。規模はそれほどでもありませんが、重要な出土品が数多く展示されていて濃密な空間ですね。

 

常設展示室内部

 

入館してまず目に入るのは巨大な鴟尾2つ国の重要文化財に指定され、旧嬉野町の古代史を語る上で代表的な遺物の一つになっています。

 

弧形透かし穴(というらしい)が笑っているお目目のようでカワイイ( *′∩∩‵⸝⸝ )


これらの鴟尾は古代寺院跡から掘り出されたものではなく、旧嬉野町内の釜生田辻垣内瓦窯跡(かもだつじがいとがようあと)から発見されたもの。嬉野五寺のある地域からは少し離れた、中村川の上流に当たります。窯跡からは瓦も見つかっているそうですから、中村川を運搬ルートにした古代寺院の瓦の製造拠点だったのでしょうね。

 

鴟尾後部のアップ。下の穴はなんのためのものなんでしょう?

 

この2つの鴟尾は大きさが少し異なり、よく見ると刻まれた文様も異なっていますね。ということはペアではなく、どこかの寺院の傷んだ鴟尾の置き換え用に製造されたものでしょうか。鴟尾の形状や文様を研究する「シビラー」もいるのかしらん。


鴟尾の解説板

 

古代寺院関連の展示の目玉は、この鴟尾のほかに天華寺廃寺出土の塼仏があります。ここの塼仏が珍しいのは、よくある長方形ではなく六角形であること。全国でも天華寺廃寺でしか出土していないのだそうです。この塼仏など寺院から出土した遺物については、それぞれの寺院の項でご紹介することにしましょう。


古代寺院コーナー。中央上部にあるのが六角塼仏

 

嬉野考古館を後にして、これから「嬉野五寺」を巡っていきますが、結論を先に書くと、これらの古代寺院跡は現地にかろうじて案内板がある程度で、遺構などが確認できるものはほとんどありません


その意味では、わざわざ出かけても面白くはないでしょうが、ハイジスト的には堪能できる!....はずだ(小声)
 

そんなわけで、五寺の紹介をしていきましょう。
 

 

  嬉野廃寺(うれしのはいじ)

三重県松阪市嬉野権現前町

訪問オススメ度 


嬉野考古館から西に向かい、JR名松線を渡るとやがて洪積台地を登る坂となる。この台地の端部にあったのが嬉野廃寺だ。

 

嬉野廃寺案内板。「グリーンロード」脇から西方向を望む(ピンぼけ)


名称からすると「嬉野五寺」のフラッグシップのようでもあるが、現地には案内板があるのみだ。寺域は資料によって異なり、県道(グリーンロード)を跨ぐように記されているものもあれば、県道の南側にあったように示されているものもある。嬉野廃寺は発掘調査が行われたことがなく、要するによくわからないということだ。

 

嬉野廃寺解説板。現地でこの古代寺院の手掛かりとなるものはこの案内板だけだ

 

案内板のある側とは反対の三重県畜産研究所の敷地内には、大正年間に基壇らしき土の高まりがあったというが、それも現在は不明だ。

 

県道の北側の三重県畜産研究所。大正期にあった建物はもちろん建て替え済み


昭和56年に発行された『嬉野町史』によると、次に訪れる上野廃寺(円光寺)の「境外地の仏堂としての小伽藍が建っていたということは考えられる」とあり、現地の案内板とは逆に寺院としては小規模なものだったとの見解が示されている。

 

さらにこの一帯は「往昔嬉野稲荷を中心にして美しい赤松林の続く嬉野の森」があったという。今はぽつんと残った嬉野稲荷神社にその名残をとどめるのみだ。

 

嬉野稲荷神社から東方向を望む

 

 

嬉野考古館と嬉野廃寺の紹介記事は以上です。

 

最後に触れた『嬉野町史』では、このあたりは昔赤松の林だったんですね。

宅地化されていないような場所は昔からそうだったと思いがちなんですが、国土地理院のサイトで昔の航空写真を眺めていると、以前は山林だった場所が開墾されて、田畑になっている場所も結構あるのですね。

 

ネットは便利ですが、図書館に行かないと読むことができない『嬉野町史』のような資料に、思いがけず興味深い記事を見つけることはしばしばあります

その点では、ネット全盛の時代でもまだまだ図書館の存在意義は大きいですね。



(その2)に続きます。