ドドコロ廃寺のココロ(その1)~伽藍考 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

ドドコロ廃寺」という、一風変わった名の古代寺院跡をご存じだろうか?

 

「ドドコロ」とは「堂所(どうどころ)」から来ているとか(ふーん)。「山村」は廃寺の存する現在の地名

 

ドドコロ廃寺は、奈良市郊外の圓照寺の東方にある奈良時代の古代寺院跡。圓照寺は三島由紀夫の小説『豊饒の海』に登場する「月修寺」のモデルとなったことでも知られている。

 

近年は一般的な廃寺の名称ルールに従って、地名を採った「山村廃寺」が正式名称となっているようだ。オフィシャルな場では「山村廃寺」が用いられることが多いようだが、それではツマランので、当ブログでは以降「ドドコロ廃寺」で押し通すこととする。

 

この廃寺、一般にはあまりなじみのないとは思うが、名前が面白い(?)せいもあってか、古代寺院関連の資料では目にすることがしばしばある。(ちなみに『検証 奈良の古代仏教遺跡』(小笠原 好彦 著・ 吉川弘文館)でも取り上げられています。)

 

ドドコロ廃寺の概要については、同書や上の写真の案内板をご参照いただくとして、ハイジスト(自称)の私が書きたいことは別にある!

同書でも言及されている「特異な伽藍配置」についてだ。

 

今回は少々真面目に考えてみよう。

 

 

ドドコロ廃寺の伽藍

 

ドドコロ廃寺の伽藍配置図は、近年作図されたものは無いようなので、ネットに掲載されていた昭和初期刊行の同廃寺の調査報告書の図をトレースして着色してみた。報告書では北が上になっているのだが、これをちょいと右に回転させてみる。すると....!

 

ドドコロ廃寺伽藍配置図(岸熊吉「ドドコロ廃寺出土石造相輪塔の調査」1928年を加工)

 

この伽藍配置を見てピンときた方は立派なハイジスト。

そう、これは三重県名張市の「夏見廃寺」の伽藍配置にそっくりなのである!

 

夏見廃寺の伽藍配置図(現地の案内板)

 

報告書の図に戻ろう。

記載された構造物は3つ。「塔跡」「八角円堂跡?」「講堂跡?」とあり、塔跡以外には「」が書き込まれている。当時の調査では確定に至らなかったらしい。

 

夏見廃寺との対比でみると、塔の位置は同じ。ドドコロの八角円堂は夏見の金堂、同じく金堂は講堂の位置に対応する。そこで、夏見廃寺とは一致しない塔以外の堂について考察してみることにしよう。

 

 

八角円堂の性質

 

まず八角円堂。八角形は特定の個人の追悼施設的な性質を持つというが、法隆寺東院伽藍の夢殿のように、八角円堂は小伽藍での金堂的な位置を占めていることがある。興福寺の北円堂も本来は回廊で取り囲まれ、小区画を形成していたという。

 

日本肖像彫刻の最高傑作「無著・世親立像」を安置する興福寺北円堂。回廊も復元予定だとか

 

であれば、安直だがドドコロ廃寺の八角円堂は金堂的な位置づけであったかもしれないとの推測も成り立つのではないか。ここではひとまず八角円堂が金堂相当だと仮定しておこう。

 

 

金堂跡の再考

 

問題は金堂跡だ。この部分のみ柱の位置まで明記してあり、間口五間、桁行四面(「間」は柱と柱の間の数)の堂であることがわかる。これが講堂だとしたら、堂塔の性質と位置関係も夏目廃寺と同様になる。検証してみよう。

 

その前に、そもそも古代寺院跡における「金堂跡」と「講堂跡」の区別はどうしているのか、という疑問がある。

 

「塔跡」の場合は平面が方形で(一般には三間×三間)、中心部に塔心礎が置かれるので、一目瞭然である。視覚的情報としては間違いようがない。

 

塔跡がひょっとしたら金堂?、講堂?などということはあり得ないのだ。つまり伽藍配置形式を考えるうえで、塔跡が基準、すなわちベンチマークとなるのだ。

 

それに対して「金堂跡」と「講堂跡」は平面はどちらも長方形で、強いて言えば縦横比が金堂は方形に近く、講堂は横長の場合が多い。しかし単体で見る限りでは、塔のような判りやすい遺構がなく、決定的な要素に欠けている

 

結局のところ、両者の区別は伽藍配置における塔との相対的な位置によって判断されているようだ。つまりベンチマークである塔との関連性が強い位置(塔の後ろ、横)にあるのが金堂、それらの後背にあるなど、金堂よりは若干関連性が薄いのが講堂、という区別である。

 

しかし、この方法は教科書的な伽藍配置形式であれば有効であるが、それから外れた特殊形式では判断が難しくなるのが欠点だ。

 

 

五間×四間の講堂はあり得るか

 

ドドコロ廃寺で金堂とされる遺構は前述のとおり五間×四間であり、これは一般的には金堂の柱割である。ゆえに前述の調査報告書では「?付き」ながら金堂跡に比定したと思われる。

 

だが、五間×四間の講堂が無いわけではない。京都府木津川市の高麗寺跡(こまでらあと)の講堂はこの柱割である。ちなみに両寺院とも渡来系氏族による造営とされているので、共通項としてあり得るかもしれない。

 

さて、ドドコロ廃寺の八角円堂が金堂要素であるとすれば、長方形の遺構を機能が重複する金堂とするよりは、講堂とする方が理にかなっているのではないだろうか。

 

つまり、平面的にはやや難があるとはいえ、従来金堂跡とされた遺構については、講堂跡であると書き換えることも十分可能であると考えられるのである。

 

以上、仮定(八角円堂=金堂的性質)に少ない事例(五間×四間の講堂)をはめ込んだものであるが、ここではドドコロ廃寺の伽藍配置は、夏見廃寺と同様のものであるという仮説を提案させていただいた。

 

 

残る疑問点

 

昭和初期刊行の調査報告書掲載の図には、よくわからない点もある。以下に羅列しておく。

 

  • 「塔跡」「八角円堂跡」を表しているラインは基壇の外縁部なのか、「八角円堂跡」の中にある二重のラインは何を表現しているのか。
  • 「八角円堂跡」とあるが、図ではあまりよくわからない。何をもって八角円堂跡と推定したのかが不明。むしろ「塔跡」の方が八角形の形状に近い。
  • 今回のトレース図では省略したが、謎の軸線が3本引かれていて、これは堂塔の位置関係を示そうとしたものか。
  • 伽藍内の高低差が不明で、堂宇の接地レベルがわからない。夏見廃寺のように、金堂と塔が一段上に建立されているわけではないかもしれない。

そもそも論的な疑問もあり、今回の推論も今後の調査によって覆る可能性は十分にあるが、ドドコロ廃寺の一帯は私有地らしく、発掘調査も昭和初期に行われてからは特段実施されていないらしい。

 

遺跡の集中する奈良市での優先順位は高くないかもしれないが、重文指定となった石製の相輪が出土している廃寺でもあり、詳細な発掘調査の実施を期待したいところではある。