先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。
昨日のブログで今回1城目、雪の中の「荒砥城」をご紹介しましたが、2城目はやはり雪の中での訪城となった「真田氏館」(長野県上田市)です。
「上田市街地」から北に向かって車を走らせると、途中「砥石城」へ行く道の分岐点である「伊勢山」を通り越して、「下原」交差点の次の交差点を右折しますが、この場所に「真田氏発祥の郷」碑が立つ「真田氏記念公園」がありました。
いよいよ「六文銭」の幟がはためく「真田の郷」へ入ってきました。
「真田氏発祥の郷」碑が立つ「真田氏記念公園」↓
「真田氏館」の歴史と城主ですが、「真田昌幸」が1583年に上田城に築城する前に、「昌幸」の父「幸隆」等の「真田氏」が居館としていました。周囲には、「真田本城」「天白城」「尾引城」「砥石城」を巡らす要害の地となっています。
「真田氏館」の縄張りは、城館の周囲を「土塁」で囲い、当時は「堀」を巡らした典型的な地方豪族の居館でした。「土塁」の南側には「大手門」を備え、北側に「搦手門」を設け、南東隅の角を欠いた所に「東門」がありました。「単郭」ですが、内部は「東曲輪」と「西曲輪」が段となって区分されています。
黄色部分が「真田氏館」の縄張図↓
当居館跡は、「真田本城」へ向かう途中にあり、現在は公園化されていて「御屋敷公園」となっていますが、公園となっている箇所は雪に覆われていたので、それはそれで良かったような気がします。
ただ「土塁」が雪に覆われて盛り上がりが見られるだけで、辛うじて「石積み」部分だけが目にすることができました。
雪に覆われている所が「土塁」、下は「石積み」↓
南西隅にある「大手門」跡は、内枡形構造となっていて両脇には「石積み」がシッカリと残っていました。
南西隅にある内枡形構造の「大手門」跡↓
内枡形構造の「大手門」跡(館内側から)↓
「大手門」跡片側の石積み↓
「大手門」跡片側の石積み↓
「大手門」跡から「搦手門」跡の間には道路が通っていて、その西側が「西曲輪」跡、東側が「東曲輪」跡のようですが、特に「西曲輪」跡は公園化が進んでいるエリアでしたので、積雪がそれを隠してくれていたのが幸いしました。
西側(右)が「西曲輪」跡、東側(左)が「東曲輪」跡↓
「西曲輪」跡↓
「東曲輪」跡の途中から段があってその段上が「皇太神社」の境内になっています。当神社は、「真田昌幸」が「上田城」に移った後にかなり荒廃した状態であったことから、「昌幸」がここへ「皇太神社」を勧進したそうです。
「東曲輪」跡↓
「東曲輪」跡に建つ「皇太神社」↓
南側の「土塁」は雪に覆われていましたが、その下の「石積み」は見えていて「腰巻石垣」のようになって土の流れだしを防いでるようでした。
雪に覆われている所が「土塁」、下は「石積み」↓
その「腰巻石垣」沿いに走る道路を東へ移動すると、「氏館」の南東隅の欠けた所に「東門」跡があり積雪もそこだけが凹んでいたので直ぐに虎口と分かりました。しかし「東門」跡の北側の「土塁」は雪で覆われた状態でした。
「東門」跡と脇の「土塁」↓
この東側の広場的な所が、「出陣広場」と名付けられ、出兵するときにここに兵士たちが集合した場所なのでしょうか。
「出陣広場」跡↓
時間があまりなかったので、「氏館」北側に建つ「真田氏歴史館」には入場せずに、次の「真田本城」へ向かいました。
「真田氏歴史館」↓
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