1/6(土)に「青春18きっぷ」5回目を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけ、「紀伊田辺城」「安宅八幡山城」を訪城して、3城目は「安宅(あたぎ)本城」(和歌山県西牟婁郡白浜町安宅城の内)へ向かいました。
といっても、「安宅八幡山城」から南にすぐの所を走るJR紀勢本線下を潜って田園の中にあります。丁度「日置川」を渡る橋の真ん前になります。
「安宅氏城館跡」への案内↓
この「安宅本城」の歴史や城主については、「安宅八幡山城」で触れたように「安宅氏」の本拠地となった館だそうで、「安宅八幡山城」は「本城」の詰め城という位置づけで築城されたようです。
「安宅本城」は堀や石垣で防御していたようで、現在は西側に数段の低い石垣が見られますが、これは遺構のようです。西面の石垣上に植栽がされていてその内部には民家が建っていました。周囲の水田も「本城」エリア内部のようでしたが、民家の周囲をグルっと廻って観察はしなかったので、説明書きや遺構を見落としているかもしれません。
「安宅本城」跡の石積みと植栽↓
「安宅本城」跡の石積みと植栽↓
「安宅本城」跡の石積みと植栽↓
そこをサラッと見た後、「日置川」に架かる橋を渡っている間にも真ん前のこん盛りした小山が今から向かう「安宅(あたぎ)大野城」(和歌山県西牟婁郡白浜町大古)です。
「日置川」に架かる橋から見える「安宅大野城」↓
非常に近いエリアの中に3城もあったので効率的に見て回ることができました。
川を渡り少し道路を中に入ってすぐの所に「春日神社」が建っています。この前には「安宅大野城」の詳細と共に「縄張図」も掲出されているので大変助かります。「白浜町教育委員会」等のこのような史跡を大切に扱い紹介していくという取組みは見学者にとって非常に親切な試みだと思います。
「春日神社」↓
当城は、「安宅本城」の対岸に築かれ、「日置川」の河川交通を監視する目的があったようです。
登城口は、「春日神社本殿」の左脇から山へ入っていきますが、すぐに「横堀」を越えて少し上ると「曲輪2」跡になります。
「本殿」脇の登城口↓
分断しているのは「横堀」↓
「横堀」↓
「曲輪2」跡↓
「曲輪2」跡↓
「堀切」があってそれを越えると「曲輪1」跡から少し段下に「腰曲輪」跡が南側から西側にかけて大きく取巻いています。現在「発掘調査」を行っているようであちらこちらでブルーシートが覆いかぶせられていました。
「堀切」↓
「堀切」が東側へ下っていく↓
「曲輪1」跡は三角おにぎり形をしていて、北側の先端には「土塁」が築かれています。その「土塁」先には「土橋」が架かり北東から南東にかけて築かれた「土塁」と接続していますが、「土塁」北面は「切岸」が良く効いた断崖絶壁になっています。
「曲輪1」跡↓
「曲輪1」跡先端の「土塁」↓
「土橋」で繋がる北端の「土塁」(北東~南西にかけて)↓
「土橋」で繋がる北端の「土塁」(北東~南西にかけて)↓
北端の「土塁」の真下(切岸が凄い)↓
「曲輪1」西側の「腰曲輪」下にも「腰曲輪」が設けられていて「南側」には目的がわかりませんが大きな「窪み」が見られ、前述の北東から南東にかけて築かれた「土塁」と「土橋」そして南側に築かれた「土塁」との間には「空堀」が設けられていました。
「曲輪1」西側の「腰曲輪」下にも「腰曲輪」↓
「腰曲輪」の「南側」には目的がわかりませんが大きな「窪み」↓
城域は以上で、そんなに技巧的な仕掛けはされておらず、河川交通の監視用だとすれば、この位の守りで充分であったことだと思いました。
私は、余裕時間があり歩いて行ける距離であれば登城しようと「縄張図」を持参していた「安宅中山城」「土井城」は、「紀伊日置駅」から片道約2㎞で約30分かかりそうでしたので、帰りの時間的なこともあるので登城は断念しました。
「紀伊日置駅」は13時50分発で、これに乗って「紀伊田辺駅」「御坊駅」「和歌山駅」で乗り継いで帰ると「大阪駅」には18時13分に着く予定です。
帰りの電車内では、「<速報>ブログ」を打ち込んでいく予定にしていました。しかし睡魔が襲い、ウツラウツラと舟漕ぎをしている中で、ライン友達からはお疲れ様でした!との労いの声が届きます。
しかし長時間乗車して座っていると足腰の疲れも回復基調にあり、「和歌山駅」に着くころにはすっかりと疲れが癒され、しかも当日の天気は快晴で16時半だというのに外はまだまだ明るい!
再び「和歌山駅」で下車して、お城巡り「和歌山城」へ久々に寄ってみようという気力が湧いてきました。ということで、急遽予定外の「和歌山城」への訪城を断行したのでした。
次回はその「和歌山城」をお届けします。
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