「春恒例の城下町巡り」3日目は、先のブログで記載したように「新高山城」登城を断念して「福山城」(広島県福山市)を目指します。
JR山陽本線「本郷駅」から乗り込んだ在来線列車は、「糸崎駅」で乗り換えて「福山駅」へ向かいます。駅の真前には、城郭建造物の展示場のように櫓、門、御殿類そして土塀が美しく並びます。
伏見櫓、筋金御門(いずれも重文、福山駅構内から)
伏見櫓前から新幹線福山駅をのぞむ
十数年前にも訪ねていたり、新幹線を利用する度にこの風情を眺めていますが、駅構内からや駅を降りてあらためてじっくりと眺めると、身震いするほどの感動を得ます。
さて、入城する前に「福山城」の歴史と城主についてお話をします。
1619年に、「徳川家康」のいとこである「水野勝成」が10万石で入城し、1622年に西日本の外様大名に睨みをきかす目的もあってあらたに築かれました。一国一城の令が発令された後で、お城の修復でさえ禁止されていたにもかかわらず、新城を築くことは異例でした。
従って、早急に築城する必要もあって、「徳川伏見城」の廃城を受けて、「伏見櫓」「筋鉄御門」(以上は重文)「月見櫓」「伏見御殿の湯殿」(以上は復元)「伏見御殿」等数多くの「伏見城」の建造物が移築されました。
また、近くにあって一国一城令で廃城になった「神辺城(かんなべじょう)」からも、多くの部材や櫓が持ち込まれ「神辺一番櫓」「神辺二番櫓」「神辺三番櫓」と命名された櫓が並んで建てられました。
伏見御殿(本丸御殿)跡
天守より伏見御殿(本丸御殿)跡と新幹線福山駅
神辺一番櫓跡
縄張りは、「本丸」を中心に「二の丸」「三の丸」が取り巻く「輪郭式」の構造で、「本丸」の北東部に「天守曲輪」を設け、折れを多用した複雑な累線で防備しました。
福山城城郭図
「二の丸」は、「帯曲輪」のような細い敷地で取り巻き、二重になっている所もありました。「三の丸」は、「二の丸」を「ロ」の字で囲んで重臣の居住地としました。
奥に見えるのは伏見櫓、手前は復元湯殿(二の丸帯曲輪より)
帯曲輪の復元土塀
前述しましたように、御三家でも五重天守を建てるのを憚られる中で、「天守」は五重天守であり、櫓も「三重櫓」が七基も建つなど大城郭でありました。
譜代大名のお城でしたので、藩主(城主)の人事異動に伴い、「水野家」の後は「松平家」「阿部家」に引き継がれます。幕末の激動期に「老中首座」であった「阿部正弘」もここの藩主でありましたが、江戸では「外交・国防問題」や「将軍継承問題」等の激務の影響で、「福山城」へは一度も入城していないそうです。
それでは現在の「福山城」を探索していきたいと思います。
JR「福山駅」の北側は、「二の丸の一部」と「内堀」であった所にあたります。本丸をゴッソリとえぐり取られた「三原城」ほどではないですが、「福山城」もJR線の敷地として一部使用されています。
駅を出た所の「内堀」跡だった場所から入口である「筋金御門」方向を見上げると、「二の丸帯曲輪」の「高石垣」と入口まで延びる坂の右側に復元された白壁の「土塀」が美しいです。
二の丸帯曲輪石垣と復元土塀
入城口は、伏見城から移築された「筋金御門(すじがねごもん)」(重文)の櫓門が守りを固めていて、その左手にはこれもまた「伏見城松の丸東櫓」であった「伏見櫓」が門に睨みをきかせています。因みに、二階の梁に「松の丸東やくら」と記載された墨書が見つかったことから、「国宝」指定がなされるような動きが出ています。
伏見櫓(重文、三層三階、望楼型。伏見城松の丸東櫓からの移築)
伏見櫓(重文、三層三階、真壁造り)
伏見櫓(重文、三層三階)
伏見櫓(重文、三層三階、北側より)
「筋金御門」は、入母屋造りで本瓦葺、脇戸付き、壁には柱や長押を埋め込まないで見せる「真壁造り」という手法を採り入れ、扉には筋鉄が打ち付けられていることから「筋金御門」と命名されています。
筋金御門(重文、入母屋造りの櫓門、本瓦葺、真壁造り)
筋金御門(重文、伏見城から移築、脇戸付き)
筋金門(重文、本丸側より)
次のブログは、復元された城郭建造物を見ていきます。
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