本日は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。

 

先日(12/5)は非常に寒い1日でしたが、朝早くに大阪難波へ出て「歯医者」へ行く用事があったので、「歯医者」で処置を済ませた後に、近鉄「奈良線」に乗車して「西大寺駅」で「橿原線」に乗換え「筒井駅」で下車してまずは「筒井城」へ足を進めました。

 

駅前に掲出されていた「筒井城」周辺の案内図↓

 

1城目の「筒井城」(奈良県大和郡山市筒井町)の城主は、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が山崎の合戦で戦った時、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」を決め込んで結果的に「秀吉」方に味方した「筒井順慶」です。「順慶」よりも以前の1343年頃から「筒井家」の居城でした。

 

ただその後は、「越智氏」や「箸尾氏」と抗争を繰り返し「筒井城」は攻められたりしました。1547年に「筒井順昭」が大和をほぼ平定しますが、「順昭」が病死すると1559年に「松永久秀」が大和に侵入して「順慶」が守っていた「筒井城」を落城させます。

 

そして「織田信長」の大和進出に伴い1576年に「順慶」が大和支配を任されることとなり、「筒井城」がその拠点になります。しかしながら1580年に、「織田信長」の命により「筒井城」は廃城となり「大和郡山城」へ拠点を移します。

 

「平城」である「筒井城」の縄張りですが、南北約100mと東西約200mの範囲を中枢である「内郭」として「堀」で囲い、その北側に重臣の屋敷地としていたようです。

 

また、西側を南北に走る「吉野街道」沿いの南北に「市場」が設けられていたそうです。

 

16世紀中頃になると、上記の重臣屋敷や市場、更には農村部分も包含する形で南北約450m、東西約600mにわたる「外堀」で囲むようになりました。

 

概要図↓

 

前夜に事前に遺構状況等を調べていましたが、遺構はそんなに無いようでした。

 

しかし「吉野街道」から「内郭」に入る「虎口」が「郭」に入る道の一部として使用されているのが確認でき、その細い道を出て広場に出た途端、真ん前に「筒井順慶城跡」碑が立っているのには驚きました。

 

直角に道が折れる(突当り左へ)この小道が「虎口」跡の一部のようです↓

直角に道が折れる(手前を左に)この小道が「虎口」跡の一部のようです↓

直角に道が折れるこの小道が「虎口」跡の一部のようです(真ん前に碑が)↓

「筒井順慶城跡」碑↓

 

その「碑」の右手から東側にかけては、枯れた「蓮(ハス)」の葉っぱが固まった沼が広がっていますが、夏になると「蓮」の葉と花が咲き乱れて綺麗な水辺になるのでしょう。この辺りは「内堀」の一部だったようです。

 

枯れた「蓮(ハス)」の葉っぱが固まった沼(内堀跡)↓

枯れた「蓮(ハス)」の葉っぱが浮いている沼(内堀跡)↓

 

そして「碑」の北側は、広大な畑地が広がり家は一軒も建っていません。畦道のような小道を東側に進んで道路に出ると、その東側は住宅地になっていますが、住宅地前の西側一帯は、先ほどの畑地と繋がった広大な空き地になり区画内には「筒井城跡」という看板が掲げられていました。

 

この広大な空き地は、江戸時代から家が建てられることなく、住民から「筒井家」のお城として大切にされてきたらしいです。

 

「筒井城跡」(西向き)↓

「発掘調査」時の「堀」跡(現地掲出の写真より)↓

「発掘調査」時の「石組み井戸」(現地掲出の写真より)↓

「発掘調査」で出土した大量の「かわらけ」(現地掲出の写真より)↓

 

住宅街の東側には森となっていて「筒井城跡」の「内郭」と謂われている「菅田比売(すがたひめ)神社」があります。

 

「筒井城跡」の「内郭」と謂われている「菅田比売(すがたひめ)神社」

 

入口は南向きで、左手(東側)には「内堀」跡が少し水を湛えていました。また左手(東側)から正面(南側)にかけて少し盛り上がりが見られるのが「土塁」のようです。

 

「筒井城跡」の「内郭」周囲の「内堀」(「菅田比売神社」東側)↓

盛り上がっているのが「土塁」跡↓

盛り上がっているのが「土塁」跡↓

「菅田比売神社」の本殿↓

 

「神社本殿」にお参りした後、神社北側に位置する「光専寺」行きました。当寺には「筒井順慶像」があるらしいです。その裏に残っている「外堀」「土塁」を見たくて中に入りましたが、そこからは見えないのでグルっと道を廻って裏側へ向かいました。

 

「筒井順慶像」が安置している「光専寺」↓

 

お寺の裏には道が付いていて、「外堀」と思われる水辺が確認できました。結構幅もあり長さもあって「堀」らしさが見られましたが、「土塁」が竹林の中で見えないのか分らず終いでした。

 

「光専寺」裏の「外堀」(東方向)↓

「光専寺」裏の「外堀」(西方向)↓

 

その道から北側一帯が田んぼや畑地になっていてそこが「重臣屋敷地」跡なのでしょう。この跡地の北側には、少し高くなって西から東にかけて土手状で車道となっていました。

 

まさにそれが「筒井順慶」が築いたと謂われる北の防御施設の「順慶堤」だそうです。真直ぐに東へ延びる土手で、北側は「量川」と呼ばれる小川になっていますが、まさに防衛の為の「総堀」替りだったに違いがありません。

 

北の防御施設の「順慶堤」(左は「量川」、東方向)↓

北の防御施設の「順慶堤」(右は「量川」、西方向)↓

「光専寺」方向の田畑(「重臣屋敷地」跡)↓

 

県道の「大和郡山広陵線」に突き当たる「順慶堤」から今度は県道を南下して「八幡神社」に向かいました。こちらには、少し新しい「筒井順慶公之碑」が立っていました。

 

「八幡神社」↓

「筒井順慶公之碑」↓

 

これで大体「筒井城」跡とその関連遺構などを見終えたので、近鉄「筒井駅」に向かいました。駅のすぐ南東に大きな「須浜池」というのがありますが、これもお城を守る堀の一部として使われていたのではないでしょうか。

 

「須浜池」↓

 

「筒井駅」から電車で一駅北側の「近鉄郡山駅」へ乗車し、当日二城目の「大和郡山城」へ向かいました。

 

次回のブログは「大和郡山城」をお届けします。

 

 

 

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