JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。
日本100名城「月山富田城」(島根県安来市広瀬)の後編をお届けします。
昨日のブログでも記載しましたが、前回訪城したときは、大雪による積雪で「大手門」跡付近までしか辿り着けなかったから、「月山」の頂上を目指して上っていく九十九折れの山道「七曲り」は初挑戦です。
城内コース図(現地に掲出)
「菅谷口門」跡脇の軍用道と書かれた道を上って行くといかにもこれから山道をのぼるぞ!という雰囲気だったのですが、暫く上っていくと舗装された登城路が続いていて、少し拍子抜けをしました。
舗装された「七曲り」道
舗装された山道なので楽チンかた思いきや、どんどん「山中御殿」跡や「花ノ壇」跡の姿が小さくなっていくにつれて、やはり「七曲り」は厳しい、シンドイ道でした。途中「山吹の井戸」がある曲輪で息を吹き返しましたが・・・もうほぼ終わりに近づいていました。
「山中御殿」跡や「花ノ壇」跡の姿が小さくなっていきます
「山中御殿」跡等はますます小さくなってきました
「七曲り」の途中にある「山吹の井戸」
左側面に石垣が見えたと思うと、登り切った目の前には「三ノ丸」跡の二段の石垣が迫ってきます。多分この石垣が、麓から見えていた部分なんでしょう。
「西の袖平」跡の石垣
「三ノ丸」跡の段築石垣
「三ノ丸」跡の段築石垣
辿り着いた曲輪は「西の袖平」跡で、北西の方へ延びています。その先端にまず歩を進めると、そこからは「広瀬陣屋」跡城下町の沢山の赤色屋根の家屋が並んでいるのが見えます。
「西の袖平」跡の北西先端
「西の袖平」跡の北西先端から見下ろす「広瀬陣屋」跡の城下町
その先端から見上げる「三ノ丸」跡石垣も見事な「段築石垣」が見られます。
「三ノ丸」跡の見事な「段築石垣」
「三ノ丸」跡は、細長く左へカーブしていますので、その先に位置する「二ノ丸」が望めます。「三ノ丸」跡には、井戸跡がありました。
「三ノ丸」跡
「三ノ丸」跡から「二ノ丸」跡を望む
「三ノ丸」跡から「西袖ノ平」跡と「広瀬城下」を見下ろす
「三ノ丸」跡の井戸跡
「三ノ丸」の先端から階段で10段上がった所が「二ノ丸」跡になり、休憩所の建物が建っています。「ニノ丸」跡には、建物や柵や塀の柱穴が見つかっていて備前焼のカメが出土していることから食料や水の保管エリアだったようです。
「ニノ丸」跡を望む(「三ノ丸」跡から)
またそこから北方向には「中海」がかすかに見え、北西方向には「広瀬陣屋」跡の城下が見下ろせます。
遠くに見えるのが「中海」(「ニノ丸」跡から)
「二ノ丸」跡の南東方向には最後の砦である「本丸」跡が築かれていて、その間には深くて広い「堀切」が設えられ「本丸」の防御を堅固なものにしています。
「二ノ丸」跡の南東方向に「本丸」跡との間にある深くて広い「堀切」(手前は「切岸」になっている)
特に、「二ノ丸」跡から「本丸」跡に向かう虎口周辺や「ニノ丸」南西面には石垣がビッシリと積まれているのと、前述の「本丸」跡との間の「堀切」面にも石垣が積まれていて、「ニノ丸」の重要性が良く解ります。
「ニノ丸」跡虎口に積まれた石垣
「ニノ丸」南西面の石垣
「ニノ丸」南西面の石垣で横矢も掛る
「ニノ丸」跡の「堀切」面の石垣
「月山」の山頂である「本丸」跡は、深い「堀切」から「本丸」側の「切岸」を施した斜面を上る道を上がり切った所になりますが、南東に向けた長い曲輪となっています。
「本丸」跡(「ニノ丸」跡から見る)
「堀切」底から「本丸」跡へ上る
「本丸」跡から「堀切」越しに見下ろした「ニノ丸」跡
「本丸」跡
特に、東側の「土塁」のような高く盛り上がった場所には二本の石碑が立っていて、「山中鹿介幸盛」を偲んだ広瀬出身の陸軍少将「熊谷宣篤」が書いた題字だということです。
「本丸」跡の土塁上に二つの石碑
「本丸跡」に立つ「山中鹿介幸盛記念碑」
「本丸」跡の南東先には「勝目高守神社」が祀られています。この神社は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を祭神として尼子時代には代々の守り神として祀られていたそうです。ここが、標高190mの最高地のようで、この南東方向の段下にも曲輪跡が見られます。
「本丸」跡の南東先に建つ「勝目高守神社」
「勝目高守神社」の段下にも曲輪跡
「本丸」跡まで辿り着いた達成感を享受しながらしばしの間休憩をした後に、バスの時間も迫ってきていましたので急いで下山をしました。
「山中御殿」跡まで下りて、「大土塁」を間近に見る為に下山ルートを登城ルートと替えました。「大土塁」は前編でも記載したように長さ100m、幅最大20mですので間近に見ると迫力があり、土塁上にも上がってみましたが、反対側の「切岸」は非常に深い様でした。
「大土塁」
「大土塁」の端
「大土塁」の上(左側は「切岸」)
「大土塁」の「切通し」の間を進み暫く林のような中を歩き進むと、「巌倉寺」が建ちます。この裏手には1600年に出雲・伯耆国の国主「堀尾吉晴」の墓があります。彼は「月山富田城」に入り「松江城」の築城に携わった後の1611年に逝去してここへ埋葬されました。非常に立派な大きな墓で大名の墓としては最大級だと言われています。
「大土塁」の「切通し」
「巌倉寺」
「堀尾吉晴」の墓
そしてこの裏には、「伝・山中鹿介幸盛供養塔」が立ちますが、これは「堀尾吉晴」の奥方が「幸盛」を偲んで立てたものと伝わります。
「伝・山中鹿介幸盛供養塔」
「巌倉寺赤門」を潜り抜け「冨田橋」を渡りました。計画では、「広瀬陣屋」跡と城下を廻る予定でしたが、バスの時間が12時1分ともう僅かしか時間がなく、2008年2月に訪城はしていましたので断念しました。
「巌倉寺赤門」
「飯梨川」越えに「月山」の写真を撮った後、走るようにして「広瀬バスターミナル」に到着、既にバスが停まっていてすぐの発車となりました。
「飯梨川」越えの「月山」(標高190m)
帰りはJR「安来」駅まで乗車し、12時44分の電車で米子「米子駅」まで向かいました。「米子駅」では31分の乗継時間がありましたが、食事する所もゆっくりできる時間もなかったのでコンビニでカツサンドを購入して車中食としました。
ただ、「米子駅」は「境港線」のスタート駅、「境港」「水木しげる」の出身地で、「ゲゲゲの鬼太郎列車」を始めとした妖怪列車の発着や駅全体が鬼太郎シリーズの妖怪キャラクターで彩られているので、この際に写真をふんだんに撮りました。時間がなくても、寸暇を惜しんで見てしまうのが乗り鉄の性(さが)なんでしょうかね~
「米子駅」の「境港線」構内は「ゲゲゲの鬼太郎」一色
「米子駅」からは、「伯備線」の「新見行」の各駅停車、「米子駅」から何と2時間21分もかかりました。というのも、途中の対向列車の待ち合わせや追い抜き時間が、25分や15分や数分単位の待ち合わせが数度もありました。単線区間で特急列車の待ち合わせが原因なんでしょう。
「米子発新見行」普通電車
「新見駅」で乗換え、「倉敷駅」までは1時間7分と比較的早い所要時間でした。この間は、夕陽が山々を照らして紅葉は未だですが綺麗な山並を見ることが出来ました。「倉敷駅」からは山陽本線で「糸崎駅」迄1時間8分、少しの乗継時間で駅前のコンビニで夕食と翌朝のパンなどを購入し、更に乗換えて「本郷駅」には18時43分に到着しました。
夕陽を浴びた山々が綺麗でした
「糸崎駅」からは新型車両の電車(広島区内はこのような新車が)
宿泊先は、昔ながらの駅前旅館でしたが、翌朝の「新高山城」登城に便利なように最寄り駅前に決めました。昔ながらの旅館に宿泊するのはほぼ初めてでしたが、2階の部屋は当然畳敷きですが、綺麗なベッドが置かれていて布団を敷く手間を省いているようです。
畳で足を伸ばせるし、風呂は室外に有りますが、大浴場ではないですが広い浴場で誰も入っておらずに当日の23,000歩も歩いた疲れを充分に癒すことが出来ました。
それと、「全国旅行支援キャンペーン」によって、宿泊料が40%引き、更には「広島県の旅行支援クーポン」2,000円を戴き、土産代の足しになりました。
「広島県の旅行支援クーポン」
次回ブログでは、続日本100名城「新高山城」へ向かいますので、引続きご覧ください!
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