JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。

 「米子城跡入口」から乗った安来市の「広域生活バス(イエローバス)」に揺られて約30分、最寄りバス停「市民病院」前で下車しました。「飯梨川」を渡る「新宮橋」からは既に日本100名城「月山富田」(島根県安来市広瀬)の一部分が見えてきます。

 

遠くに「月山」山頂の主郭部、手前は「馬乗馬場」跡や「千畳平」跡等が見える

 

「安来市立歴史資料館」内に入ると、今からガイドの方に説明を受けながら登城しようする人達が約20人くらい集まって説明を受けていました。

 

これは一足先に出た方が良いかなと思い、足早にスタートしました。

 

資料館」内に置かれていた模型

「月山富田城周辺 案内図」

 

まずは「月山富田城」の歴史と城主について触れておきたいと思います。

 

当城は「尼子清貞」が守護代として15世紀後半に居城としていましたが1484年に解任され、1530年に子の「経久」が反乱を起こし再度「尼子」のお城となります。

 

1543年に「晴久」の時代には、「大内義隆」が出雲に進攻してきますが撃退して「晴久」は山陰と山陽8ケ国の守護に任命され、石見銀山も手に入れます。

 

しかし「義久」の時に「毛利元就」に「月山富田城」を包囲されて1566年に開城します。その後、「勝久」と「山中鹿介」が出雲へ進攻しますが「尼子軍」は敗北、「月山富田城」は「毛利家」のお城となりました。

 

「豊臣政権下」では、「吉川広家」が城主となりますが、関ヶ原の戦い後は「堀尾忠氏」が父「吉晴」とともに入城します。しかし「忠氏」が急死したことで「吉晴」が政務をとり1608年には「松江城」を築城して居城を移したことから1615年の「一国一城の令」の頃に廃城となります。

 

月山富田城」の縄張りは、標高190mの「月山」を中心に「飯梨川」に向かって馬蹄形に上り丘陵上に多くの防御施設を施した山城です。

 

主な「曲輪」と見所

 

大きくは、「月山」に向かって「千畳平(せんじょうなり)」「太鼓壇」「奥書院」「花の壇」等の曲輪や大土塁によって広大な「山中(さんちゅう)御殿」を防御する形を採り、更に詰の城として山上部に「三ノ丸」「二ノ丸」「本丸」を石垣で固めた造りで築き、その間の導線は「七曲り」という急坂で敵の侵入を防いでいます。

 

「山中御殿」への導線は、「菅谷口門」「塩谷口門」「大手門」の3箇所ありました。

 

 

それでは、「歴史資料館」前から入山を始めていきます。登城路左上の尾根上の敷地は平らにした「馬乗馬場」が横たわっていて一部石垣の所も確認できます。結構長い敷地なので、いつまでも目に着く曲輪となっています。

 

「馬乗馬場」跡の先端部分には石垣が張り付いている

「馬乗馬場」跡の入口付近

 

その出入口から登城路を右に曲がって上がっていきますと広い敷地に行きつきます。そこが「千畳平」跡となっていて手前には「尼子三代(経久、晴久、義久)」を祀った「尼子神社」が建ちます。

 

「千畳平」跡の全景

「尼子神社」

 

「千畳平(せんじょうなり)」跡は、城下に最も近く面している曲輪で、斜面は張出していて石垣が貼りついていますが、この時期でも草が石垣を隠すように生えています。冬に正面から見上げると壮大な石垣だろうと思います。

 

「千畳平」跡の大石垣

 

また、この敷地からは、鯱や瓦が出土していることから張出し箇所には「櫓」が建っていてと考えられています。

 

「千畳平」跡の「櫓」跡と見られる場所

 

「千畳敷」跡から「太鼓壇」跡へ向かう途中からも「馬乗馬場」跡が良く見えます。

 

馬乗馬場」跡が良く見えます

 

「太鼓壇」跡は、時を城下に知らせる「太鼓櫓」があった場所と言われていますが、現在は「山中鹿介幸盛」の銅像が立ちます。「山中鹿介」は、1566年に「毛利氏」に敗れた後「尼子勝久」とともに「尼子家」再興を願って孤軍奮闘した武将ですが、1578年に毛利の家臣に討たれました。

 

「太鼓壇」跡

「山中鹿介幸盛」の銅像

 

「太鼓壇」を抜けると書院造の建物があり政務や軍議が行われていたという「奥書院」跡の平坦地がありますが、現在は慰霊碑が立つだけです。

 

「奥書院」跡

 

細い道を行ったん下ってまた上がった所に南北に長い「花ノ壇」跡が見え、奥の方には建造物が建ちます。この曲輪は発掘調査に基づき2棟の建物を再現していて休憩所になっています。礎石跡では南側に建物が固まり北側は全く建物の痕跡がないことから北側は武士の待機場所だったのではないかと想定されています。

 

「花ノ壇」跡(奥に建物跡があり建物を再現)

 

「花ノ壇」跡からは、「月山」頂上部の主郭部分の石垣が良く見えます。また、現在はまだ木々に覆われてハッキリと「七曲り」の道筋が見えませんが、冬になると良く見えるポジションだと思いました。

 

「花ノ壇」跡から見上げた主郭部分

 

「花ノ壇」跡の南側にも曲輪跡がありますが、その間は深い「堀切」になっているのが良くわかります。

 

「花ノ壇」跡の南側には深い「堀切」

 

建物脇には、その曲輪跡から「山中御殿」跡へ繋がる登城路に出る門跡があり、下って行くと「花ノ壇」跡の西面に石垣が積まれているのを確認できます。

 

「花ノ壇」跡からの出入口跡

「花ノ壇」跡の西面に石垣を確認

 

先程上から覗いた「堀切」跡を横から見て、「堀切」越しに見えた曲輪跡に向かいます。その曲輪跡名は分からないですが西側から南側にかけてシッカリした石垣が積まれていました。

 

「堀切」跡を横から覗いた所

「花ノ壇」跡南側にある曲輪名不明の曲輪跡から「堀切」越しに「花ノ壇」跡を見る

「花ノ壇」跡南側にある曲輪名不明の曲輪跡隅に石垣

「花ノ壇」跡南側にある曲輪名不明の曲輪跡の南面石垣

 

そこから見る遠望は視野が拡がり、西側には「大土塁」や「軍用大井戸」が望め、「山中御殿」跡の全景と北面の石垣が望めます。更に左へ視野を向けると、「山中御殿」跡を取巻く土塁の内側にはシッカリと石垣が積まれ、その奥には門跡らしい石垣も目に留まります。

 

「大土塁」

「軍用大井戸」

「山中御殿」跡の北面石垣

「山中御殿」跡内の門跡

 

いよいよ「山中(さんちゅう)御殿」跡内に入ります。ここは、広大な曲輪跡で周囲は前述のように石垣が築かれています。近世初期には、恐らく「堀尾家」の居館があった場所ではないかと思われ、当城の中心的な場所となっています。

 

「山中御殿」跡の全景

「山中御殿」跡周囲の石垣

「山中御殿」跡周囲の石垣上には「多門櫓」が建っていた

 

「山中御殿」跡の向かって左側(東側)には、城下の「菅谷口」からの道に繋がる「菅谷口門」跡とその「櫓台」跡 の石垣が堅固に構えています。その脇には、「雑用井戸」と呼ばれる「井戸」が今も水を湛えています。

 

「菅谷口門」跡

「菅谷口門」跡(外から)

「菅谷口門」跡の反り立った石垣

水を湛える「雑用井戸」

 

そして右側(西側)奥には、「狭間土塀」跡の台から石段を下りて石垣の間を抜ける埋門形式の様な「塩谷口門」跡があります。こちらは裏側から眺めると石壁による城壁に見えます。

 

「狭間土塀」跡

「狭間土塀」跡から石段で降りると「塩谷口門」跡

埋門形式の様な「塩谷口門」跡

石壁による城壁のような「塩谷口門」跡

 

また中央には、「大手門」跡の石垣は失われているようですが、周囲の石垣が良く残っています。

 

「大手門」跡付近に残る石垣

「大手門」跡付近に残る石垣

「大手門」跡付近に残る石垣

 

後篇のブログでは、「月山」の頂上を目指して上っていく九十九折れの山道「七曲り」に初挑戦です。前回来城したときは、大雪で「大手門」跡付近までしか辿り着けなかったからです。

 

次回のブログでは「月山」の頂上部の主郭部をお届けします。引続きご覧ください。

 

 

 

 

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