JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。

本日は、続日本100名城「新高山(にいたかやま)」(広島県三原市)「前編」をお届けします。

 

10/20(木)の早朝6時半より登城する為に、最寄り駅「本郷駅」前にある「星野旅館」を出発しました。かなり冷え込んでいたのでユニクロの折り畳みジャンパーで凌ぎました。

 

「新高山城」は、2019年3月に登城を試みたのですが、事前の復習不足で登城口を間違い無駄な時間を経過して登城を断念してしまったお城で、再チャレンジです。

 

それでは「新高山城」についての歴史と城主について触れておきます。

 

「安芸国」は元々「平氏」が強い土地柄ですが、「平家」傘下だった「土肥家」は源平の戦いで「源氏」に与し、苗字も「小早川」と替えて、戦後は安芸の沼田(ぬた)の地頭に任命されます。そして「高山城」を築城します。

 

その後、本家である「沼田小早川家」から「竹原小早川家」が分かれますが、1544年に「竹原小早川家」が跡継ぎを決めずに当主が亡くなったことから「毛利元就」の三男(後の隆景)が養子と入ります。「小早川隆景」は、1550年に本家「沼田小早川家」の当主を隠居に追い込み「沼田小早川家」の家督を継ぐとともに両小早川家を統一して「高山城」に入城します。

 

翌年1551年には沼田川を挟んで「新高山城」を築いてそこに移ります。しかし1567年に「三原城」に築城してそこへ移ることで、「新高山城」は廃城となりました。

 

新高山城」は「沼田(ぬた)川」の対岸の198mもある新高山山頂の天然の要害に築かれ、岩石が露出していたる所から岩盤がそそり立っています。

 

岩盤が露出している「新高山」(標高198m)

 

お城の縄張りは、東西約400mあり、「内郭」は頂上尾根や鞍部を活用にして東側から西側にかけて、「本丸」「東の丸」「ライゲンガ丸」「中の丸」「釣井の段」「西の丸」「北の丸」が配備されています。

 

また「外郭」は、斜面中腹から張り出した二つの尾根を利用して大手側を固める目的で、「匡真寺跡」「鐘の段」「番所跡」「紫竹の丸」「シンゾウス郭」が置かれました。

 

「新高山城郭図」(三原市教育委員会文化課発行)

 

それでは「新高山城」と「古高山城」が望める「沼田(ぬた)川」を渡る「本郷橋」東詰からご案内します。

 

私は前回、山に向かって直ぐに左折れしていったのが間違いでして、登城口は「㈱ヒロシマ・コープ」の工場に沿ってもう少し先にある標識「新高山城跡 登山道入口」を左折して「登城道」の看板から一本道となります。

 

「新高山城跡 登山道入口」看板

「新高山城登山道」看板

 

途中、細い山道が続きますが、左手に「鐘の丸」との表示があったので、真直ぐ進まずにそこから左の細い山道を上がっていきました。真直ぐ進むと「番所」跡へ出ます。

 

削平地があったので、そこが「鐘の段」跡だと思ったのですが、北西方向に周囲を「切岸」を施し急角度となった盛り上がった小丘があったのでそこが「鐘の段」跡だと分かりました。周囲の下段にも帯曲輪があるようで登り道を上がると「虎口」があって平坦地になっていました。

 

「鐘の段」跡土壇の南東の曲輪跡

「鐘の段」跡の土壇(東下から見上げる)

「鐘の段」跡東下の曲輪跡から上がる石段

「鐘の段」跡の「虎口」

「鐘の段」跡の土壇上

 

「鐘の段」の解説が有り、北方には「土塁」を設けた二郭、東側には大小ニ郭、南西側には三段の郭を配置していると書かれています。私が上がってきたのが東側の大小2郭だったようです。

 

「鐘の段」跡から北側を望むと、低い位置に平坦地が続き、その先には切り立った(切岸)丘となっています。その丘沿いに右側の道を辿って行った先に、「番所」跡に出ました。先程「鐘の丸」跡へ入る為に左側へ折れずに真直ぐ進むとこの道に出ます。

 

「鐘の段」跡土壇から北側を望む

「鐘の段」跡北側の平坦地

「鐘の段」跡から出てきた大手道(右手は「番所最上段」跡)

 

「番所」跡は帰りに訪れることにして「大手道」を進むと、「番所」跡と「匡真寺(きょうしんじ)」跡の間に刻まれた「堀切」を見ることが出来ます。そして先程「鐘の段」の北側に反り立った丘が「匡真寺」跡でした。

 

「番所」跡(右側)と「匡真寺」跡(左側)の間の「堀切」

 

「匡真寺(きょうしんじ)」跡は、1577年に「毛利(小早川)隆景」は、父「毛利元就」の7回忌、母「妙玖」の33回忌の法要を行う為に建てた菩提寺の跡です。この跡からは、お寺のもの思われる瓦が多数見つかっていて、現在もその破片があちらこちらで見られます。

 

「匡真寺」跡の石垣

「匡真寺」跡

「匡真寺跡」に立つ「毛利元就・小早川隆景・毛利隆元の連歌碑」(城跡守る会等が昭和60年に建立)

「匡真寺跡」に転がる瓦の破片

 

「匡真寺」跡から山道を少し上った所には石段があり東西広い敷地に出ますが、その石段の所に門があったようです。

 

「中の丸」跡に入る「門」跡

 

「中の丸」跡の門跡の中は、東西に平坦地が延びていて西側は「西の丸」「北の丸」の各跡が繋がり、東側には「本丸」跡を中心に「釣井の段」「東の丸」「ライゲンガ丸」の各跡が配備されています。

 

「中の段」跡の西側「西の丸」跡等の方向

「中の段」跡の東側「本丸」跡等の方向

 

私は先ず「東側」の「本丸」跡へ足を進めますと、そこには「三原城」の築城の為に石垣を切り出した後に残る大小の石群が転がっています。その脇の坂道を上がった所に「本丸」跡の「桝形虎口」があり「本丸」跡内に導かれます。

 

「本丸」跡の裾に転がる石群

「本丸」跡の裾に転がる石群

「本丸」跡の裾に転がる石群

「本丸」跡の「大手門桝形虎口」(入って左へ曲がる)

 

「本丸」跡は、城内でも最大級の曲輪で、西側に今通ってきた虎口の「土塁」が残り、北東部には「建物礎石」が見られることから、「御殿」等の建造物が建っていたと推定されています。

 

「本丸」跡

「本丸」跡内の建物礎石群

 

切り立った道を上るとそこは眺めの素晴らしい「詰の丸」跡に出ます。まだ早朝でヒンヤリしていることもあって遠方の山合には霧が出ていてそれが雲海として見える所もありました。眼下の「沼田(ぬた)川」や渡って来た「本郷橋」「本郷の街並み」が一望でき、また「毛利(小早川)隆景」が以前居城にしていた「古高山城」の山も対岸に見えます。

 

「本丸」跡から「詰の丸」跡方向

「詰の丸」跡からの遠望、遠くの山には雲海が見えました

「詰の丸」跡からの遠望、「沼田川」と「本郷橋」「本郷の街並み」

「古高山城」跡がある「高山」

 

「詰の丸」跡は岩石が露出している場所で「石切場」としても使用していたようです。また、数本の石塔がその巨岩の上に立てられていましたが、石に刻字されていた内容を読み取りができませんでした。

 

「詰の丸」跡に露出している巨岩

「詰の丸」跡の巨岩の上に立つ石塔

「詰の丸」跡の巨岩の上に立つ石塔

 

「詰の丸」の岩盤上で暫し休憩をしてから、「本丸」跡下段に拡がる「釣井の段」跡へ下りました。ここには門跡でしょうか石垣の隅部と石垣の一部が残っていました。

 

「本丸」跡下段に拡がる「釣井の段」跡へ繋がる「大手門」跡?

 

次回のブログ「後編」では「本丸」跡の北側下段に位置する「釣井の段」から始めたいと思います。

 

どうぞ引続き「後編」をお楽しみください。

 

 

 

 

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