こんにちは、ひでちぇろです。

 

前回は、マーラーの交響曲が表現する、

「成長」、「弁証法的発展」と「普遍性」

について書きました。

 

今日は、最後の3曲についてです。

 

最後の3曲とは、

 

・「大地の歌」

・交響曲第9番

・交響曲第10番(未完)

 

です。

 

そして、この3曲の特徴はいずれも、

「死」がメインテーマになっていると

思われることです。

 

実際に状況として、

 

ご存知の方も多いと思いますが、

ベートーベン、ブルックナー、ドボルザークなど

いずれも交響曲を9番まで演奏して亡くなっているという、

第9のジンクスを意識していた可能性。

 

「大地の歌」を作曲する前に、

心臓病が発覚したり、

長女がなくなったり等、

「死」に直面する機会が多かったこと。

 

など、

「死」を意識せざるを得なかった

状況に置かれていました。

 

この段階になると、

気の長い弁証法的な発展、成長などとは

言っていられなくなったのではないかと

思われます。

 

マーラーはこれらを書いた後、50歳で亡くなります。

今自分はちょうど50歳なので、

まさに同じ年であり、全く他人事ではありません。

 

死が目前で苦悩した気持ちがよくわかる気がします。

 

曲の話になりますが、

 

「大地の歌」(歌付き)では、

6曲目の終曲が「告別」という題名で、

自然の循環と人間の死の対比、

自然に覆われた大地は人が死んでも永遠にある

というイメージがドイツ訳の唐詩で

厭世的に歌われます。

 

最後のほうに少しだけ、

チェレスタの明るい分散和音が

鳴ることで、

「死」に少しだけ救いや希望が含まれていて

ニュアンスが感じられます。

 

「死」は意識し始めたけれども、

まだ、すぐ目の前には無い感じですね。

 

続きは次回です。

それでは。

 

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

こんにちは、ひでちぇろです。

 

大きい低気圧が近づいているせいか、

ちょっとだるいですね。

 

今日は、マーラーの交響曲の

どういうところが好きかというお話です。

 

短く言うと「成長」と「普遍性」です。

 

どんなところに普遍性を感じるか説明します。

 

時間の長いクラシック音楽には

よく含まれるテーマですが、

 

苦難、悲しみ、破壊等のネガティブな状態から、

底を突き抜けて深い癒しを得て、

最後はこれまでに味わったことのない、

幸福、勝利を得るような普遍性のあるストーリーです。

 

同じドイツ系の作曲家では、

バッハ、ベートーベン、ブラームス等にも

共通していますが、

 

最も苦難、癒し、歓喜の

規模や程度がすさまじいことが、

マーラーの特徴かと思います。

 

この最も深くて大規模な「成長」は、

まさに、

ヘーゲル大先生の言う、

テーゼ→アンチテーゼ→ジュンテーゼの

「弁証法的発展」であり、

「成長」であり、

「人間の存在理由」であり、

「宇宙の存在理由」です。

 

そしてこの、

「弁証法的発展」の深さが、

一曲ごとに弁証法的に発展していくという、

感じですね。

 

そして最後の終着点が10番の5楽章です。

現世で成長を繰り返し、やっと、

「彼岸」に「帰って来た」という感覚です。

 

マーラーの交響曲のおかげで、

自分の人生にいくら破壊的なことが起きても、

最後は癒されて成長して歓喜して、

帰れるんだという勇気がもらえます。

 

本当に私独自ですが、

こんな風にマーラーが好きです。

 

それでは。

 

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村
ベートーベン、バイオリンソナタ全曲の演奏会を聴きに来ました。
繊細な石田さんと、詩的な津田さんの組み合わせが最高過ぎて、至福の時を過ごせました(^o^)


こんにちは、ひでちぇろです。

 

前回は、

20年以上前の大学時代に

マーラーの交響曲第3番を弾けて、

大いなるものとの一体感を味わえたことを

書きました。

 

今回は、2回目に弾いた時の話です。

 

昨年の11月に、

自分がメインで所属しているオーケストラで、

二十何年かぶりに交響曲第3番を弾きました。

 

じつは、

その一か月前に母の死を経験しました。

 

そして、あくまで個人のイメージなのですが、

母がなくなる数時間前に病室で、

 

青空、白い雲、光り輝く存在、

の様な今まで見たことが無い様な、

強いビジュアルのイメージが見えました。

 

その後母は亡くなったのですが、

 

そのイメージの場所に母は行けた様な感覚が有り、

少しだけ救われた様な気がしました。

 

そして、

その一か月後に演奏会がありました。

 

6楽章を弾き始めた時に、

またあの、

青空、白い雲の様なイメージが見えました。

 

母の魂がこの天国の様な場所に行けた実感があり、

マーラーが初めて書いた本格的な緩除楽章の力を借りて、

深く追悼できた気がしました。

 

この時は、

演奏しながら少し涙を流してしまいました。

 

やはり、

自分にとってマーラーの交響曲は、

普遍的で大切な何かに触れることのできる、

音楽だなと、

感謝の気持ちで満たされました。

 

今日は短いですが、

こんなところです。

 

それでは。

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

こんにちは、ひでちぇろです。

 

マーラーについて書き始めていましたが、

一時的にテーマを変えて、

「精神世界」と「北海道」についてです。

 

なんか、急に書きたくなってしまいました。

 

私は現在横浜に住んでいます。

そして、北海道へは、旅行で8回くらい、

仕事で札幌に30~40回くらい行ったことが有ります。

 

回数を出したのは、

まったく知らない訳じゃないよという意味です。

 

実際、回数は問題ではなく、

とにかく、「性に合う」んです。

 

いつもそうなんですが、

空港に着くとすぐに、

北海道ならどこでも、

 

「ああ、ホームグランドに帰って来た。」

とか、

 

「何か、人生に追い風が吹いている感じ。」

とか、

 

「根拠なくうれしい。」

とか、

 

とにかく、なにかに応援されている感じがあって、

心地が良いのです。

 

それに加えて、

景色は夏も冬もきれいだし、

食べ物は何を食べても何故かおいしいし、

人もみんな個性が有って、さっぱりしてて、性に合うし、

言葉遣いも少しだけ標準語とちがうあの感じが好きだし。

 

という風に、自分にとっていいことずくめなんです。

 

そこに仕事さえあれば、きっと住んでいます。

 

で、ここで精神世界的なお話ですが、

 

神道の世界では、「氏神」という、

土地ごとの神様の様な存在を想定しています。

(アメリカ先住民も同じ考えがあるかと思います)

 

人と創造主との間のヒエラルキー構造の中でも、

特に人に近い存在であると考えられます。

 

階層が近いだけに、相互に影響を与えられる存在です。

 

そして、ここ1~2年くらい、

氏神様のイメージが、

相当リアリティを持って

心のスクリーンに現れてきます。

(怪しいんですが、見えちゃいます)

 

今住んでいるのは横浜なので、

横浜を管轄している感じの「龍」が、

よく現れます。

 

渋めの金色で、

ちょうど山手線とか京浜東北線の車両くらいのサイズです。

 

見た目はいかついのですが、

茶目っ気のある性格で、

自分を背中に乗せて、

みなとみらいの辺りを飛んで見せたりしてくれます。

(これもすみません、怪しくて)

 

すっかり仲良しな感じです。

 

私は、月に一回、横浜の浅間神社というところに、

日々の感謝でお参りしていますが、

そういう感謝が、

パワーの源になって喜んでくれている感じみたいです。

 

そこに住む人たちの感謝がパワーの源になって、

逆にその土地を栄えさせてくれている感じです。

 

と、今住んでいる横浜の話になりましたが、

北海道にもやはり、自分の中では氏神様がいます。

 

白くて、さわやかな感じの「龍」で、

飛んでいると、スキーで滑っているときの様な、

涼し気な音が聞こえてきます。

 

この氏神様と、自分は相当に相性がよさそうで、

早くこっちに来いよと呼ばれている感じです。

 

行くといつも人生に追い風が吹く、北海道。

 

氏神様のお誘いに乗って、

いつかは住むか、

最低でも1か月とかの長期滞在をしてみたいです。

 

北海道に別荘をもてたら最高だと思います。

 

まずは、4月から長崎に転勤ですが、

いつかは、関東で音楽活動しつつ、

北海道に別荘を持つ妄想でもしながら、

戻って来られるよう、がんばりたいです。

 

それでは。

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

きょうは、チェロアンサンブル、コンマス、プロビオラ奏者のみんなに、長崎転勤前の送別会を開いてもらいました。
みんな、魅力的でいい人ばかりで、有り難くて、記念品をもらった時には、ウルッときました。
みんな、どうもありがとうー!!


こんにちは、ひでちぇろです。

 

高校時代にマーラーに心酔する体験を

した訳ですが、

 

その後、大学4年の時に

今度はマーラーの交響曲を弾く機会が

巡ってきました。

 

私が大学生だったころ、

ジュネス・ミュジカル・シンフォニー・オーケストラ

(通称、「ジュネス」)

という、

首都圏の一般大学の学生から、

オーディションでメンバーを選抜し、

 

当時は一つの大学だけでは実現が難しかった、

大きい規模の曲をNHKホールで演奏するという

催しが有りました。

 

すでに、大学2年、3年で2回、

この「ジュネス」に参加していましたが、

 

4年の時もオーディションに合格できて、

3回目の「ジュネス」に参加しました。

 

その時演奏したのが、

マーラーの交響曲3番でした。

 

この時は大学4年生で、

すでにベートーベン、ブラームス、ドボルザーク、

チャイコフスキー辺りの

ロマン派の作曲家の交響曲は

ある程度経験していました。

 

また、前回の「ジュネス」で、

リヒャルト・ストラウスの

「アルプス交響曲」という、

演奏の難しい大曲を経験済でした。

 

ですので、

マーラーの交響曲を演奏するには、

ちょうど機が熟していたと思います。

 

マーラーの交響曲第3番は構成が独特で、

 

1楽章:牧神が目覚め、夏(ディオニソス)が行進してくる

2楽章:野原の花が私に語ること

3楽章:森の動物が私に語ること

4楽章:夜(人)が私に語ること

5楽章:天使が私に語ること

6楽章:愛(神)が私に語ること

 

という感じです。

(最初はこの副題がついていましたが、

出版直前にマーラーが

削除してしまいました)

 

自然の神→植物→動物→人→天使→神(創造主)

 

という、神道的とも一神教的な創造の段階とも

とれる様なテーマで構成されています。

 

この曲の最も魅力的な部分は、

やはり「愛(神)が私に語ること」の6楽章です。

 

マーラーが3番で初めて書いた、

深い癒しを伴った

緩除楽章(ゆっくりした楽章)です。

 

5楽章まで経験してきた創造の段階から、

最後は神と溶け合う様な、

本当に美しい、天国の様な楽章です。

 

これを演奏できた時は、

本当に感動し、

弾きながら涙がこぼれそうになりました。

 

実際、セカンドバイオリンの人たちは、

半分くらい泣いていたらしいです。

 

この曲を弾くことができて、

音楽によって大きなものの一部になる感覚と、

それによって得られる多幸感を味わうことが出来ました。

 

音楽をやっていてというか、

生きていてよかった。と思えました。

 

きょうはここまでで、

また次回に続きます。

 

それでは。

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

こんにちは、ひでちぇろです。

 

今日は311ですね。

 

7年経った今でも、

あの日のショックが

ありありと思い出されます。

 

当時亡くなられた方に追悼の意を表すと共に、

自分が今ここに生かされていることへの

感謝の気持ちを忘れない様にしたいと思います。

 

今日から、マーラーの交響曲について

書いていきます。

 

マーラーは、

私が一番共鳴しやすい作曲家です。

 

また、人生の要所で自分に色々な

生きるヒントを与えてくれる存在でも

あります。

 

ですので、

作曲者としてはまずはマーラーについて書きます。

 

マーラーとの出会いは、

私が高校の音楽の授業で、

生のオーケストラの演奏会を聴きに行った時でした。

 

場所は、東京文化会館、

指揮が若杉さん、

オーケストラがケルン放送交響楽団でした。

(本当にドイツの本場のオーケストラでした)

 

ここで演奏されたのが、

交響曲第9番でした。

 

この9番の特徴は、

 

この曲はマーラーが完成させた最後の交響曲で、

最も完成度が高いことと、

曲全体のテーマが「死」であること、

 

そしてものすごく密度の濃い作品です。

 

高校生の当時、この曲をなんの予備知識無く、

聴いたのですが、

余りの音楽の密度の濃さと、

すさまじさに圧倒されました。

 

また、消え入るようなビオラの最後の音

(譜面の最終小節に死に絶える様にと指示されている)

の後、

演奏者も聴衆も一切音を出さない、

無音の時間があり、

(最近ではよく見かけますが)

 

「この濃い時間は一体なんなんだ!!!」

とショックを覚えると共に、

オーケストラのすごさを初めて知ったのでした。

 

この演奏会をきっかけに、

オーケストラと、

そしてマーラーの交響曲にすっかりハマってしまいました。

(今でもそうです)

 

さらに翌年には、

授業の一環で、

今度は同じくマーラーの交響曲

1番「巨人」を聴きました。

同じ東京文化会館で

シャルル・デュトワ指揮モントリオール響でした。

 

これもまた、オケが最高で、

「巨人」が魅力満載の若々しい曲で

すぐに好きになりました。

 

この時期がマーラーとの出会いでした。

 

ではまた。

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

こんにちは、ひでちぇろです。

 

前回で書ききれなかったので、

今回も「風景写真」の話です。

 

前回は、撮影者の「共感」が魅力的な写真の前提

という話でした。

 

今回は、「風景写真」の鑑賞方法、

「風景写真」と「共感」する方法についてです。

(私の方法の紹介です)

 

まず、写真と対峙して鑑賞するのであれば、

写真集を買うか写真展に行くかして、

ある程度以上のサイズ、品質が必要です。

 

これは、写真の世界にリアリティを感じで、

その世界の中に入っていく為です。

 

そして、写真が鑑賞できる環境が整ったら、

次は、気に入った写真を選びます。

気に入らないと「共感」できないので。

 

対象の「風景写真」を選んだら、

その写真数秒眺めて気持ちを慣らした後、

その写真の場面に自分が立っている気持ちになります。

 

そして、その場で、

音、空気感、風、気温、地面、太陽光、におい、

その時の気分、

など五感で受け取れるものをすべて感じます。

 

感覚を人工的に作るのではなく、

「感じる」のです。

 

この、五感での体験を心行くまで楽しみます。

 

そうすると、

なにか、自我とか魂とかが軽く、薄くなる、

独特の心地よさと、

その風景に対する愛おしさが湧いてきて、

幸せな気持ちに包まれます。

(と書いただけで写真集が見たくなってきました)

 

ここで何が起こっているかというと、

おそらく、我々はすべての感覚を使って、

撮影者のフィーリングをリアリティを持って、

再体験しているのではないかと、

思われます。

 

一方、撮影者は、

その写真を撮った時に、

撮影対象の自然と

一体化していたのかと思います。

 

ですので、

写真を真剣に「感じ」て、

撮影者を介して対象の自然と一体化し

「共感」できるのではないかと思います。

 

「撮影者」を「演奏者」、

「自然」を「音楽」とすれば、

「音楽」でやっていることに通じます。

 

また「撮影者」を「宮司」さん、

「自然」は「自然」で、

「神道」に通じます。

 

ですので、

自分の中では「風景写真」も「音楽」も「神道」も

みな「共感」というキーワードでつながっているのです。

 

次回はまた音楽の話に戻ります。

それでは。

 

にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

こんにちは、ひでちぇろです。

 

今日は、音楽から少し脱線して、

風景写真について書きます。

 

写真は、

筋トレを始めてからのここ3年くらい、

遠ざかっていたのですが、

 

音楽以外の分野についても、

 

現在の視点でどう理解できるか

書いてみたいと思います。

 

魅力的な風景写真と

それほど魅力的でない(失礼!)写真が

なぜあるのか?

 

というテーマで書いていきます。

 

5年から10年前くらいの頃、

上手くなりたい気持ちもあって、

某風景写真系の雑誌をよく買って、

風景写真について勉強していました。

 

そうすると、

やはり、プロの写真家がとった写真は

たいてい魅力的で、思わず見入ってしまうような、

ものばかりでした。

 

いきいきとして華がある感じがするのです。

 

かたや、

アマチュアが投稿した写真はというと、

投稿された写真の中を勝ち抜いてきただけあって、

技術的には素晴らしく、

美しいんですが、

 

なぜか、見ていて楽しくならないというか、

なにかが足りない感じがするのです。

 

当時はその理由がわからないままでした。

 

しかし、今考えると、

その違いとは、

「音楽と精神世界」のところでも書いた様に

 

「共感」

であると思います。

 

そもそも、

他人の取った写真を見るという行為は、

撮影者と全く同じ視点でものを見るということです。

 

ということは、

視点の情報をトリガーにして、

「共感」が起こり、

視点以外の情報(感情や体感)も、

同時に身体にインプットされるものと思います。

(真剣に観るとそうなっていきます)

 

その写真を撮るときに

撮影者が、写真を後からみるたくさんの人が

「共感」することをあらかじめ想定し、

「共感的視点」で写真を撮影していたならば、

見る側も「共感」しやすく、

ポジティブなフィーリングが感じられると思うのです。

 

これに反して、

撮影者の心のベクトルが自分の方向にしか

向いていなかったならば、

写真を見ても、

「共感」しづらく、

いまいちな感じがすると思うのです。

 

と、

ここまで書いて、

このブログも同じですよね。

 

読んでいただく方の視点も常に感じていないと、

独りよがりなつまらない文章になりますよね。

 

自戒を込めつつ、

まだ明日からも書いていきたいと思います。

 

それでは。

 

cにほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村