こんにちは、ひでちぇろです。

 

今日は、ここまで書いた「共感」と、

「音楽」の関係について書いていきます。

 

結論的に書くと、

「音楽」は「共感」の為の

ツール、媒介であると考えています。

 

例えば通常のクラシックオーケストラの

演奏会では、

・作曲者

・指揮者

・演奏者(オーケストラ等)

・聴き手

のそれぞれが「共感」する場が演奏会であり、

 

その「共感」の為のツール(媒介する)のが、

「音楽」です。

 

では、なぜそれが「音楽」なのか?

言葉だって、映像だっていいじゃんないか?

という疑問が当然生じます。

 

この点が最も大事なのですが、

なぜ「音楽」かという理由、

 

それは「音楽」の持つ、

高い「抽象度」

 

です。

 

例えば「愛」という言葉、

 

言葉だと、これ以上も表現できませんよね。

 

しかし、「音楽」であれば、

深淵なものから身近なもの、

深いものもから浅いものまで、

1時間でも2時間でも

縦横無尽な抽象度と

無限の多様性で語ることが出来ます。

 

例えば、モーツァルトのオペラは、

ストーリーはおおよそ貴族がとっちめられて、

痛快だった、っていう話ですが、

 

付随する音楽は、

まったく異なる高いレベルにあり、

まさに「愛」を無限のバリエーションで

語ったものだと感じます。

 

つまり、

音楽によって表現できる、

個人の感覚から神の愛まで連続する、

高い抽象度の情報である「音楽」によってこそ、

 

人と人(人類)の間に「共感」を創造できる

のだと思います。

 

「音楽」がホールの中の人間を

「共感」によって一つにできる

ということは、

 

「人類」を一つにできる可能性、

「集合的無意識」や「阿頼耶識」

レベルでの「共感」を創造できる可能性が

あると感じます。

 

クラシック音楽は、

現代音楽っていう、

相当実験的でマニアックで、

シュールなものをよしとする

領域にあると感じますが、

 

逆に、今こそ、

全人類を惹きつける、

 

「共感」によって全人類を惹きつけられる、

より普遍的な音楽という視点を

そろそろ持っても良いのではないかと思います。

(多様性という面も大切ですが)

 

もちろん、

宗教の様に他のジャンルと喧嘩せずに。

 

25年くらい前に、

御茶ノ水のホールで、

ロストロポーヴィチのマスタークラス(公開授業)を

聴いたのですが、

 

彼は最後に、

「音楽は演奏者の感動と聴衆をつなぐ心の架け橋であると、

私は信じています」

と言っていました。

 

いまでも忘れられない言葉ですし、

今でも心の支えです。

 

今日はここまでです。

それでは。

 

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

 

引き続き「共感」の続きです。

 

「共感」によって、

物理空間を通さずに

人の気持ちが伝わってくる

 

ということは、

 

人の心は皆つながって、

一つと言える訳です。

 

これは、

ユングの「集合的無意識」とか、

唯識(仏教)の「阿頼耶識」の様な

レベルのものかと思います。

 

要するに、人類全体の心は

みんなつながって一つということですね。

 

インターネットに接続しているような、

感じだと分かりやすいと思います。

 

もっと上のレベルを考えると、

 

人類の集合意識

地球上の生命(の集合意識)

地球(の意識)

太陽系(の意識)

銀河系(の意識)

銀河団(の意識)

宇宙全体(の意識)=神

 

とつながっていくのかな、

と感じています。

 

という感じで、

「物理空間」の「宇宙」と対応した

「精神空間」とか「情報空間」の「宇宙」

と呼べるものがあり、

 

「精神空間」はインターネットの様に、

「宇宙」の中で一つにつながっているのだ、

 

と考えると、

説明がつきやすいと考えます。

 

ここで、

では、なぜ一つの精神がわざわざ、

無数の「自己」に分かれなければ

ならなかったのでしょうか。

 

今までここに書いてきたことの

まとめの様になりますが、

 

それは、成長がしたかったからではないかと

思います。

 

まず、「全体」から「自己」に分かれて

孤独と苦痛を経験し、

 

苦痛からの学びによって「成長」し、

 

「成長」によって「感謝」を覚え

 

「感謝」のエネルギを使って「共感」し、

 

「共感」によって「自己」の枠を広げ、

 

枠をどんどん広げて、「自己」は最後に「全体」=「宇宙」=「神」

と溶け合う

 

という、

 

まるで大気中の水が雲になって雨となり、

川となって海に出て、また大気を湿らせ、

という循環の様に、

 

「自己」も旅をしているのかなと想像します。

 

「輪廻転生」はその中で何度も経験する

小さな成長のワンサイクルで、

 

「自己」を完成する

長大な旅の途中にみんながいるのかと思います。

 

「共感」は以上です。

 

「チェロ」がほどんど出てこなくなりましたが、

 

かの偉大なチェリスト、

ポール・トゥルトゥリエ先生も、

「音楽家は思想家であるべきだ。」

とおっしゃっています。

 

音楽を考える時に世界観は非常に大切だと思い、

自分の考えを書きました。

 

それでは、また。

 

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

 

昨日は、主に演奏での「共感」の話を書きました。

 

今日は、

特定の相手の視線そのものをイメージすると、

その人の生きている感覚みたいな情報が入ってくる、

「共感」の続きです。

 

音楽以外の日常生活でも

変化がありました。

(外見の変化はなかったと思います)

 

道を歩いていてすれ違う人の視点に

立ってみる遊びを

よくやる様になりました。

 

そうすると、具体的な(左脳的な)

思考内容は全くわからないんですが、

身体を持って生きている実感みたいなものが

伝わってきます。

 

そして、外からは分からないけど、

みんな結構生きるのに必死なんだな~、

というのが解る様になってきました。

 

例えばきれいな異性の人でも、

「共感」をしているときは、

そのきれいと思っている気持ちは

消えてしまいます。

 

そして、誰しも自分と同じく一生懸命生きている

一人の人間なんだな、

と当たり前のことを実感させられます。

 

そして、「共感」するということは、

繋がっているということで、

その繋がっているベースは何かなと、

思う様になりました。

 

ベースは何かとを考えるうち、

 

生きとし生けるものはみんな、

「つながってる」んだな。

 

その「つながってる」一部分を表現してるのが

「自分」なんだな

 

という感覚に至る様になりました。

 

そしてその頃から、

世界が広がって、

奥深くなってきた様に感じられる様に

なりました。

 

また、いろいろな人生き物、物が、

愛おしく感じられる様になりました。

 

今までは、

狭い世界に住んでいたなと感じられる様に

なりました。

 

もちろん、

弱い一人の人間である、

自分が毎日生き延びていく努力は

止められないことなのですが、

 

「共感」をきっかけとして、

大幅に人生の幸福度がアップしたと

感じます。

 

続きはまた明日。

それでは。

 

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

 

「共感」のつづきです。

 

コントラバスの首席に意識をフォーカスしたら、

首席奏者の感覚が自分に伝わって来たわけです。

 

しかも、ただ感覚が有っただけでなく、

その演奏会の練習段階から本番まで、

類似の箇所で何度も同じことが出来てしまいした。

 

つまり、ピッチカートのタイミングを

ぴったり合わせることが、

偶然ではなく、再現性を持って可能

だったということです。

 

ピッチカートは音が瞬時に減衰するので、

演奏する側からすると

0.1秒ずれても相当ずれた感じがしますので、

おそらく1/100秒の範囲で合っていたと思われます。

 

後でコントラバスの首席に確認しましたが、

チェロのことは全く眼中になかった様なので、

やはりこれは「偶然」ではなく、「共感」だなと

思われました。

 

「共感」を発見した瞬間でした!

 

その後、この感覚をまずは引き続き

音楽の演奏で

使ってみる様になりました。

 

この「共感」、メカニズムが解らないので、

どこまで正確かは判りませんが、

 

音楽でリズムやニュアンスが合わない時に、

ワラをもすがる思いになるので、

とにかくもっと使ってみようと思った訳です。

 

そして使ってみた訳ですが、

 

例えばフルート奏者の吹くきれいなフレーズ

があったとして、

 

そのフルート奏者の視点をイメージすると、

いつフレーズを始めたいかとか、

フレーズの頂点はここでとか、

 

が、音だけでなく、体感的に「共感」できる様になり、

音を合わせてあげるのが、

昔よりすごく楽になりました。

 

半分、自分の演奏に自分で合わせる感覚です。

 

ちなみに、相手が人間関係的に元々共感できる個人だと、

「共感」しやすいんですが、

そうでない一部の人に対しては、

「共感」しずらいというのはちょっとあります。

 

また、バイオリンパート全体の集合的意思とか、

指揮者を含めたオーケストラ全体とか、

演奏会での千人規模のお客さん、演奏者の全体とか、

 

人数が多くなると、

ディテールはぼやけますが、

何らかの全体の意思の塊とか束のようなものが、

感じられる、つまり「共感」できる様に

なって来ました。

 

今日はここまでです。

それではまた明日。

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こんにちは、ひでちぇろです。

 

今日は、「共感」についてです。

 

「共感」は、英語(グーグルの辞書)では

“Empathy” ですが、

これだと、同情とか憐れむ様なニュアンスが入ります。

 

それとは少々異なり、

私のお話しする「共感」は、

“Share sense”、

 

まさに感覚を共有するという感じです。

 

これを初めて自覚したのは、

オーケストラでの演奏中でした。

 

私は某アマチュアオーケストラで、

普段は一応首席奏者の席で弾いています。

 

その首席奏者の席からは、

コントラバス奏者が一切見えません。

(指揮者も譜面もコンサートマスターも見ないといけないので、

後ろを見る余裕はゼロです)

 

よく同じ音(コントラバスは一オクターブ下)を

弾く機会があるのですが、

見えないので、

相手が合わせてくれないと、

絶対に合わせられません。

 

と思っていました。

 

しかし、ある時、

チェロとコントラバスの、

曲の終わりの大事なピッチカート(弦をはじく)の時に、

 

今日もダメモトで、

コントラバスの首席(自分より先輩)の視野を

なんとなくイメージしてみました。

 

この時、

コントラバス首席の席からの視覚情報と

音楽を感じる体の感覚みたいなものが伝わってきて、

それに合わせてピッチカートを弾いたら、

 

何と寸分たがわず、

同じタイミングで音が出ました!

 

これが、

 

「共感」体験

 

の始まりでした。

 

 

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

 

珍しく何年振りかの風邪で

床にふせっていましたので、

2日間空いてしまいました。

 

やっぱり健康は大事ですね。

と、実感しました。

(まだ少し頭が痛いですが)

 

前回は、「感謝」を捧げるというお話をしました。

 

身の回りに色々と与えられたのに応えて、

「感謝」を返す。

 

これだけだと、

それで終わりですが、

そうではなかったんです。

 

当たり前の様ですが、

「感謝」を示すことで、

相手からも同じ「感謝」のエネルギーが返って来ます。

 

ここで、エネルギーっていうのは、

相手を幸福感で包むエネルギーという感じです。

 

スポーツクラブに通い始めの頃、

クラブ内の大きい風呂で、

 

・ご先祖

・自分の血筋の水子

・両親

・自分の食事に供された動植物

・自分の普段会う人たち

・横浜の氏神様

・日本の大地

・地球

・銀河系

・銀河の集まり

・宇宙

 

をイメージしてはそれぞれに感謝していました。

なぜかやりたくなったので、

毎回やっていました。

 

その結果、

普段会う人たちは別として、

それぞれの存在が非常にリアリティの有る

イメージに育ってきました。

 

そして、その存在達が、

自分と相互に「感謝」のエネルギーを与え合う存在

になっていったのです。

 

そのエネルギーをもらって、

心の深いところにある傷跡が、

少しずつ癒されていった感じがしました。

 

というところで、

次回は共感についてです。

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

 

まずは、「神道」を通じての「感謝」から

書いていきます。

 

念のためですが、

私は特定の宗教団体に入信したりはしていません。

あくまで、個人の見解です。

 

私の認識としては、

神道の根幹は、

「祖霊崇拝」と「自然崇拝」です。

 

祖霊(祖先)崇拝は、

人類発祥から今の自分まで脈々と命のたすきを

繋いでくれた、先輩方に感謝をささげるものです。

 

自然崇拝は、

生きる為に必要な、

空気、水、土地、食物となる動植物

を与えてくれるものです。

 

これらの普段は前面に出ることのない、

今ここに生きる為の根幹を支えている部分に

「感謝」をささげるということです。

 

この「感謝」こそが、

「神道」において最も大切な要素かと思います。

 

そして、神社は、

その土地の「自然」(=氏神)に対して、

感謝の意を示す場と考えられます。

 

神社に行く前に、人間の側はすでに

いろいろと与えられているので、

せめてものお返しに「感謝」を捧げに

お参りに行くわけです。

 

また、現代では、

「祖霊崇拝」の為の、

先祖供養は現代日本では

主に仏教の役目になっていると思われます。

 

江戸時代には「神道」と仏教の境目が相当あいまいでしたので、

結果としてこのような状態になっていますが、

ブッダが先祖供養を重要視していたとは思えず、

本来は「神道」の役割ではないかと思います。

 

少し話はそれますが、

「神道」では、

信仰の入り口が、祖先であり、自然であり、

八百万(やおよろず)の神を信仰するので、

一見、見境が無い様に感じられますが、

 

我々が直接コミュニケートできる

身近な先祖や自然は

あくまで我々に近い階層構造上の

一番下位層に位置しており、

 

その上位構造がたくさんあって、

最上位がキリスト教で言う神(GOD)

や創造主であると考えられます。

 

キリスト教の様な一神教も

多神教と呼ばれる「神道」も、

 

ものの見方、角度が違うだけで、

同じ抽象度の神の存在を

最上位としていると考えられます。

 

今日はこの辺りで。

明日は、「感謝」の続きです。

 

それでは。

演奏会のチェロパートの写真、
全員で写ってるのが入手できました。

ちょっとしつこいですが、
また掲載します!


 

こんにちは、ひでちぇろです。

 

2013年8月に復職してから

数か月は期限の無い単純作業ばかりで、

ならし運転といった感じでした。

 

2014の2月くらいから、

本格的な設計の仕事を任されました。

 

この年の後半くらいからは、

本格的に複数のプロジェクトに関わる様になり、

帰宅時間は早めながらも

本格稼働し始めました。

 

仕事には復帰できてきましたが、

今度は、うつの時に15キロ程増えた体重が

そのままで、身体も重く、

見た目もいまいち、

健康診断の値も色々な値に問題が出ている状況でした。

 

しかも、うつの薬を飲んでいると、

太りやすくなるので、

痩せる要素がゼロでした。

 

このままではまずいと思い、

一念発起し、

家の近くのスポーツクラブに入会し、

2か月のダイエットのコースを始めました。

(今も通ってます)

 

ここで、

スポーツクラブに通ううち、

今までに無い大きな変化がありました。

 

「神道」の学びによって得られた「感謝」と、

「共感」です。

 

短いですが、

また明日。

こんにちは、ひでちぇろです。
 

今日は、

ショスタコーヴィチ専門のオケに
出演してきました。
 
初めてでしたが、感動できました。
すごく楽しかったです(^o^)
 
最後の曲が終わった瞬間、
なぜか涙がこみ上げてきました。
 
これが音楽ですね!
 
写真はチェロパートの仲間です。
前列の右側が自分です。
 
 
ちょっと番外編でした。
 
それでは。