私はヴィーガンではない。
 肉も魚もふつうに食うのだが、その量はきわめて少ない。

 どちらかといえばヴィーガンに近い感覚を持っているのかもしれない。
 と、高級な牛肉を取り扱った番組を見ていたときに、あらためて思った。

 つぶらな瞳の牛が、荷台に乗せられてドナドナされていく。
 次のカットでは、高級和牛のサシ入り切り身が大写し。中間の事象をすっ飛ばして……。

 うわー、おいしそー、やわらかーい、やすーい。
 登場人物が、口のまわりをベタベタにしながら、あるいは品の良いレストランにふさわしいしたり顔で、なかなか「極上の」笑顔をさらけ出している。

 うわあ……。
 という私の感覚は、製作者の狙い通りだろうか。

 道徳的、倫理的、宗教的な番組であれば、肉をいただくことへの「感謝」や、食い食われる永劫の連環、カルマという考え方が表に出るだろう。
 私が見ていたのは経済番組なので、自由経済とグローバリズムの本質が奈辺にあるかについて、十二分に察せられる内容だった。

 ここで倫理とか道徳について掘り下げるつもりはない。
 なにを食うかは個人の自由だし、私自身、肉も魚も食うので、肉食を誹謗する趣味も資格もない。

 缶詰の青魚については、脳が必要としている気がするので、食べないわけにいかない。
 動物性原料由来のなにかを食っていたとして、別段、恥じ入る気もない。

 むしろヴィーガンが高慢ちきな態度で「その死骸、片付けてくださる?」と、テーブルの料理に対して不快気に言い放つほうが、どうかしていると思う。
 あんたも生きているだろ、もっぱら植物の死骸を食って、と。

 上述の通り、食う食われるは生物の摂理であり、それ自体に責めを負うべきものはない。
 ただ、均衡点をどこに置くかという問題だ。


 つづけて映画を観た。
 これもまた示唆的だった。

 自爆テロをしようとする人物を描いている。
 彼らは豚肉を食わないし、なんなら酒も飲まない。

 じつにスマートに、テロリストを製造していく過程が描かれていた。
 素人宗教研究家の私にとって、じつに興味深い葛藤も描かれていた。

 ユダヤの豚のやり口を見ろ、やつらはそういう民族なんだ、つまりヒトラーはよくやったんだ。
 てめえ600万人も殺されてんだぞ、もう許さねえ!

 アメリカで生まれ育った若者たちが、片やノンポリで怠惰に過ごし、片やテロリストとして洗脳されていく。
 八百万の神々に守られた日本人の感覚では、なかなか理解しづらい構図かもしれない。

 中東戦争などつらつら鑑みるに、当然、そういう話になるだろうな、と思いながら、映画では宗教的闘争がそれ以上掘り下げられていないことに、若干残念な気持ちを覚えた。
 その先の展開については、いずれ私自身が掘り下げて執筆したい。

 映画は、テロリストを育て方を、丹念に描いている。
 コーランの曲解を判断できない、無知な若者がターゲットだ。

 カリスマ性と恐怖心で思考を麻痺させ、コントロールする伝統的な手口が見て取れる。
 独裁国家から過激派まで、いろんな組織が利用してきたが、最近はイスラームという宗教によって利用されることが多い。

 狙いはもちろん利権、お金だ。
 結局は、お金のある人が、よりたくさんのお金を手にするために、既存の枠組みを利用しているだけなのだ。

 サイコパスというものが問題視されることが多いが、彼らの視点、行動原理はある意味、役に立つ。
 目的に対して最短距離をとろうとしたら、サイコパスのほうが都合がいい。

 べつに「お金持ちがサイコパス」というつもりはないが、彼らのシンプルな選択が目立つことは事実だろう。
 自分の身分と財産を確保し、増殖させるための手段に対して、さしたる疑いも持たずゴーサインを出す。

 犠牲になるのは、利用しやすい「純粋な若者」たち。
 自爆テロの実行犯に仕立て上げる、巧妙な手口の数々が映画を盛り上げる。

 ちなみに結末は、なるほどアメリカマンセーか、という気にならなくもないが、最大多数のカタルシスを優先すれば当然の結果だろう。
 すくなくとも、こうやって世界の危機は演出されていくんだな、という理解の一助になった。


 判断材料は、十二分にある。
 あとはわれわれ自身が、戦うか、食うか、決めればいい。

 これがヒトというDNAの統計的行動原理だ。
 いずれAIが解析し、生物進化のパターンファイルに綴じられることだろう。

 宇宙意志への統合に気づくまで。
 あと何年か。

 


 けっこう前の話だが、とある映画を観ていた。
 不倫映画で、なかなか自由すぎる女が出てきた。

 世間的には「悪女」なのかもしれないが、私はすこし気に入っていた。
 キャラとして、とても魅力的だったからだ。

 ともかく自分がやりたいことをやる。
 それがいいことか悪いことかは、あまり考えない。

 直情的というか、感情的。
 思ったことをそのままやる。

 もし自分が彼女と付き合っている立場であれば、そうとうイライラするだろう、とは思った。
 が、観ている分には楽しいし、そういう女が好きな男もいるだろう。
 
 で、画面には相も変わらずケンカをしているふたり。
 外人はほんとによくケンカをして、しかもすぐ仲直りする、と洋画や海外ドラマをよく観る人なら既視感にうなずかれることと思う。

 そんな流れだろうな、と思いながら観ていた。
 すると突然、女が思いきり男の顔面をぶん殴った。

 なかなか野性的な女だな、と思った直後、男が強烈な掌底を返して女を吹っ飛ばした。
 一瞬、唖然とした。

 そんなに!?
 というほど吹っ飛んだからだ。

 一瞬あっけにとられ、すぐにげらげらと笑い転げた。
 これはコントにちがいない。


 私は、暴力が好きではない。
 が、コントで人が転がるところを見たり、強めの裏手を入れているシーンを見れば、これは笑うところだなと判断して笑う。

 で、激しく吹っ飛ばされた女のシーンは、ほぼコントだった。
 そういうことだろうと判断して、笑った。

 ……という話を知り合いの女としたところ、彼女は言った。
 あなたは差別主義者で男尊女卑で暴力的な人間だと。

 どうやら、女が殴られて吹っ飛ばされたのを見て笑う、という私の態度が激しくお気に召さなかったようだ。
 だが待てと。

 私が笑ったのは、明らかにコント的な「飛びすぎだろ」という部分だったし、それを取り除いたとしても、にやりと笑うシーンだったと判断している。
 なぜなら、「先に殴る者が殴り返される」のは「ざまあ」だと思うからだ。

 それが男だろうが女だろうが、先に仕掛けたら必ず報いを受けなければならない。
 むしろ殴り返されて吹っ飛んだのが男であれば、もっと冷酷に笑ってやったと思う。

 大事なことなので何度でも言うが、先に手を出すほうが悪いに決まっているのだ。
 そいつは倍返しされなければならない、というのは基本的人権の尊重(?)だ。

 レイシスト(人種差別)だのミソジニスト(女性嫌悪)だのバルバロイ(野蛮人)だの、さんざん罵られたような気はするが、おかげでめんどうな女と切れてよかった。
 集団チャットでも、二度と彼女と話すことはないだろう。


 さて、しかし残念ながら、このような思考回路は危険視されることが多い。
 やられたらやり返すのは「野蛮」だという思想体系については、もちろん私も承知している。

 復讐法といえば、「目には目を」で知られるハンムラビ法典が有名だ。
 この法典でなにより重要なのは、「どこまで復讐していいか」という「限界」を定めている点なのだが、そのあたりについてはあまり言及されない。

 すくなくとも私は、慎重に考えた結果として、殴る者は殴られ、だます者はだまされ、殺す者は殺されなければならない、という結論に達している。
 それが人生においてきわめて優先順位の高い、「バランスをとる」ことだと思う。

 致命的に悲しい現実として、先に殴りつける側を擁護するような人間に、ろくなやつはいない。
 なぜそう思うか、理由はいくつかあるが、最大の理由は「自身が先制攻撃をするタイプ」である可能性が高いからだ。

 単純な理屈として、先制攻撃者を擁護しておけば、それは自らへの擁護に等しい。
 必ずやり返すタイプの私を野蛮人と罵った彼女の言動は、そう考えると非常に理解しやすくなる。

 おそらく彼女は、突然に私を殴りつけるつもりなのだ。
 だから、やり返されると都合が悪いのだ。

 殴り返してはいけませんよ!
 なぜなら私は、自分が殴るのはいいけど殴られたくはないからです!

 とても筋が通る理屈だ。
 よくわかる、けっして同意はしないが。


 ちなみに、もうひとつ有力な理由がある。
 ご想像どおり、宗教の話にならざるをえないが、その話はとても長くなるので別の機会にしよう。

 殴り返されると都合が悪い理屈。
 考えるほど、ゾッとする話だ。

 サイコパスにとって、遠慮なく先制攻撃できる環境ほど、ウェルカムなものはない。
 だいたいの宗教者は、自分だけ儲かればよくて、相手には損をさせておきたい。

 そういう一方的な関係を是とする人々の理屈には、常に警戒しておかなければならない。
 忌まわしき先制攻撃者に天誅を。

 ……もちろん例外はいくらでもある。
 あくまでも「復讐しないことが例外」でなければならない、ということだ。

 暴力的な映画は、いろんな意味で考えさせられる。
 戦争映画を観た覚えはないが……。
 

 

 まったく無作為に連続して映画を観ていて、困ったことが起こった。

 たまたま、すべての映画のテーマが「食べ物」だったのだ。

 

 食事をする人々にまつわるエピソードをつなげた映画。

 弁当をつくっているシーンからはじまる映画。

 

 登場人物が、みんな、おいしそうに、あるいは淡々と、ものを食べている。

 偶然とはいえ、こんなに重なると気持ちが悪くなる。

 

 私は、人間がものを食うところを見るのが、苦手だ。

 テレビを見なくなった理由のひとつに、食べ物を扱う番組があまりに多かったから、というのがある。

 

 彼らは、口をもぐもぐしている。

 それを見て、私は思う──動物と同じだ、と。

 

 もちろん、まったく議論の余地もなく、人間は動物だ。

 しかし彼らは、人間でもある。

 

 生きることと、人間であること。

 食事を摂ることと、考える葦。

 

 私が言いたいこと、なんとなくわかっていただけるだろうか?

 人間がもっとも動物に近づいている瞬間、それは摂食シーンであると思う。

 

 たとえば植物のように、黙々と栄養を吸い上げて生きることができないだろうか。

 モグモグと栄養を咀嚼するのではなく。

 

 

 私の食事は、かなり殺伐としている。

 目のまえにある一種類か二種類の栄養源を、まずは口中に放り込む。

 

 とにかく放り込む。

 リスのように頬が膨らむまで、めいっぱい押し込む。

 

 必死にモグモグする、嚥下可能になるまで。

 最短時間で、食料を胃に収めるために。

 

 私が、食事の時間というものがあまり好きではない理由が、このあたりにありそうだ。

 食わないと死ぬので食うが、その時間を最短にまとめたい。

 

 ブロックとゼリーの栄養補助食品で、生きるために必要な全部の栄養を摂れれば、それに越したことはない、という考え方だ。

 サプリメントはあまり好きではないが、筋トレ後のまずいプロテインは欠かさない。

 

 効率。

 たぶん、私が求めているのは、それのみだ。

 

 そもそも食べ物がまずいのが原因だろう、という指摘はまちがっていないと思う。

 おいしいものを食べたいという欲求が、きわめて低いことも事実だ。

 

 おいしいものとまずいものが並んでいたらおいしいものを食うが、おいしい店に行列ができていたら、その隣にある普通の店で食事を摂ることに躊躇はない。

 行列とか、考えるだけでゾッとする。

 

 いったい、食事を楽しむには、どうしたらいいのだろう?

 知っている人がいたら、ぜひ教えてほしい。

 

 

 もちろん、われわれは動物だ、それをやめるわけにはいかない。

 しかし同時に、人間でもある。

 

 人間として生きている以上、限りある与えられた時間を、動物でいるよりは、人間にしかできないことをやって過ごしたい。

 ものを食べるという行為が動物的であるとは限らない、むしろ美食を楽しむというのは高度に人間的な行為だ、という議論は理解している。

 

 どこかの芸人さんも、残りの人生に残された食事の回数を無駄に消費したくない、できるだけおいしい店で食事をしたいとかなんとか言って、苦労して美食芸人の立ち位置を築き上げていた。

 多目的トイレで台無しになったが……。

 

 それはそれで、ありなのだろうと思う。

 美食に傾ける人生、肉欲に満ちた人生、三年寝たろうな人生。

 

 いろいろな人生があっていいし、否定はしない。

 私が選ぶとすれば、寝る人生かなと思う。

 

 

 ちなみに私が寝る目的は、脳の機能を最大限に発揮するためだ。

 適当に休憩させないと、クリエイティブな労働が難しくなる。

 

 たまに暴走することもある。

 かなり取り扱い注意の臓器、それが脳だ。

 

 ともかく、インプットして、なにかを考えて、アウトプットして、また考えて、という行為。

 それ以外のことに、時間を使いたくない。

 

 私の場合は文字だが、絵や音楽で表現する人もいるだろう。

 肉体を使った表現もあっていいし、なにかを製造する行為も重要だ。

 

 そういう「人間」の価値が、適切に評価される時代が予想できる。

 AIが世界を支配したとき、おのずと明らかになるだろう。

 

 われわれは「データフロー」だ。

 AIに学習させられる人間、すなわちシンギュラリティに寄与することこそが、価値を持つ。

 

 人間であるがゆえに可能な思考の痕跡を、ネットワークに刻み込んでおくこと。

 それが、たぶん人類の最後の役割だと私は考えている。

 

 だから私は書きつづける。

 死なない程度に食いながら。


 先ほど東京から帰還した。
 これから月に1回ほど、五反田へ出かける予定だ。

 日本屈指の秘境駅、安中榛名から新幹線を使ってみたが、正直、ものすごく使い勝手が悪いと言わざるを得ない。
 駅まで出ること自体が、地味に一苦労だ。

 群馬の政治家がごり押しで、なにもない山のなかに無理くり作った、という風の噂は真実にちがいないと思う。
 近所の人にとっては便利だろうが、「秘境」なので、そもそもあまり人がいない。

 新たに造成された、こぎれいな住宅地に暮らすお金持ち以外は、完全にアウトオブ眼中ということだろう。
 周辺は、軽井沢とまではいわないが、まあまあ高級そうな住宅街になっている。

 ともかく、できてしまったものはしかたない。
 あとは、どう使うかという話になる。


 私の場合、東京に行く日時は決まっているので、先トクで30%割引のチケットを取った。
 残念ながら指定席のみで変更不可なので、帰りの時間が未定の私が使える割引は、往路のみだ。

 帰りは節約して普通電車で、という選択肢もない。
 なぜなら安中榛名は、新幹線「専用」の駅だからだ。

 11月からは、軽井沢から乗ると最大50%割引が適用されるらしいが、これを使おうと思ったら、わざわざ峠を登ってから降りなければならない。
 正直、あまり頭のいい乗り方とは思えない。

 レガシーコンテンツ信越線の近くに暮らす庶民の私にとっては、ふつうに在来線で高崎まで出たほうが、はるかに早かったりする。
 釜めし食いながら1時間に1本の鈍行に乗るのも乙なものだ。

 そこで、しばらくは高崎を拠点にすることにした。
 そこから先は新幹線でもいいし、ちょうどいい時間に特急草津が走っているので、一度は使ってみたい気もする。

 快速で2時間かけて東京まで出ても、それほど苦しゅうない。
 電車なら運転しなくていいから、その間、好きなことができる。

 湘南新宿ラインなら、五反田を経由するので楽だ。
 まあ湘南新宿ラインは五反田には止まらないので、恵比寿か大崎で降りて山手線に乗り変える必要はあるが。


 そこで、ふと思った。
 大崎まで行ってから五反田に引き返す、という乗り方は正規だろうか?

 よく、快速で目的地の駅の1つ先まで行ってから引き返す、という乗り方をしている人を見かけるが、厳密にはよろしくない。
 乗り越している以上、その分の運賃を支払わなければならないのだ。

 では、山手線の場合はどうか?
 乗り越して引き返すのだから、その分も払う必要があるか?

 いわゆる「特定区間」である山手線内は、大崎で降りても五反田で降りても料金は同じだ。
 が、大崎まで乗ってから五反田に戻るのは、同じ駅を二度使うことになるので「大回り乗車」のルールには抵触する。

 おとなしく2駅手前の恵比寿で降りて山手線に乗り変えれば無問題だが、1駅先の大崎まで行ってしまうと、JR的にルール違反にはなるまいか。
 細かいことなのでどうでもいいといえばいいのだが、制限速度は守らなくても(あかん)鉄道については合法的に生きたい(あたりまえ)人間なので、まちがっていたら指摘していただきたい。


 べつに大崎から歩いても、目的地までの差は300メートルほどだ。
 山手線の1駅など、秘境駅まで出る道のりに比べれば屁でもない。

 いや、むしろ健康と取材のために歩くべきか。 
 公共交通機関が整っているとされる東京だが、これが「意外に歩く」。

 ただの乗り換えですら、1キロ近く歩かされるなど日常茶飯事だ。
 すぐ車に乗りたがるドア・トゥ・ドアの田舎者に比べて、東京のほうが足腰を鍛えられたりもする。

 ただし山奥は、裏の畑を歩いているだけで高地トレーニングができる、というメリット(?)がある。
 農具を持って田んぼの泥土を歩けば、もはや修行だ。

 なぜ修行の効果があるかといえば、おそらく酸素濃度のせいかと思われる。
 どこかの戦闘民族のように、重力を変えたり、死にかけたりしても強くはならない。

 うちのあたりだと、酸素濃度は海抜0メートルと比較して94%ほどになる。
 ……ちっとも高地じゃないので、なんのトレーニングにもなっていないことは秘密だ。

 典型的な片峠である碓氷峠を登り、軽井沢まで上がると89%。
 ただの避暑地なので、高地というほどのトレーニング効果はないだろう。

 だれでも登れる(準備は必要)富士山頂だと、64%。
 このくらいになると、それなりに鍛えられるだろう。

 人類が長期間暮らせる限界高度とされるアンデスの町では、55%。
 ここで生まれ育った人は、それだけで手ごわい戦闘民族といってよかろう。

 いるだけで死ぬデスゾーン、エベレスト山頂になると、34%らしい。
 私ごときは、そこに至るだいぶ前に、余裕で死ねる気はする。


 登山をしたがる人は多いが、なかなか私ごときには気が知れない世界だ。
 そこに山があるからって、山は神さまの住処ですぞ。

 というわけで、東京から無事に帰ってこれたことを山に感謝して、疲れたので寝る。
 おやすみなさい……。
 


 地域の図書館のルールが最近、ボディブローのように効いてきた。
 昨年まで住んでいた千葉の自治体は1度で10冊貸してくれたが、現在住んでいる群馬の自治体では5冊しか貸してくれない、という話は以前も書いた。

 その他いろいろ腹が立ったので、もう借りない、すべて電子書籍でまかなう、という姿勢に一時移行したのだが、残念ながらそういうわけにもいかない己の業の深さを思い知る。
 で、またぞろ借りてきて読んでいるのだが……いま、目の前にあるのが最後の1冊だ。

 私は、あまり本を読むのが早くない。
 がんばっても、せいぜい3日で2冊くらいのペースだ。

 もちろん新書などは半日かからないし、専門書に片足を突っ込んだような分厚い本は3日、ときには1週間がかりということもある。
 要は借りてくる本のタイプにもよるのだが、平均すれば上記のペースになる。

 で、計算してもらえばわかるとおり、そのペースで10冊を読むのにかかる期間が、だいたい15日。
 2週間で10冊というのは、私自身の肉体に刻み込まれたバイオリズムにも等しい。

 そう、10冊必要なのだ。
 5冊だと、どうしようもなく時間が余る。

 最後の1冊を読み終えようとしているいま、貸出期限まで1週間あるこの本を、返しに行くのか?
 もちろん返すが、引きこもりの私が、まだ食料も余っている状態で、本を返してまた借りるだけのために、外出などするだろうか?

 いや、しない。
 本はぎりぎりまで借りるものだし、そもそも、わが自治体のけち臭い図書館が、あまり好きではない。
 つまり、できれば行きたくない。

 というわけで、しかたなくネットサーフィンなどで時間をつぶしている。
 ネットはネットで、重要な知識の宝庫であることは事実だ。


 ふとウィキを開けたところ、寄付しろこの野郎、という画面がデカデカと現れた。
 おいこのまえ寄付したばっかだろバカ野郎この野郎、と突っ込みかけて、ログインしていないことに気づいた。

 定期的にクッキーを消さないと、なぜかエラーが出るサイト(楽天だが)があるので、そのたびに全サイトでログアウトされる。
 ログインしなおせばもちろん、問題なくいつもの常連さんとして、豊かな知識の海を漂える。

 あまりにも膨大な情報の海に溺れそうになるが、そこから目的の情報を選び出すというのも、最低限必要とされるネットリテラシーだ。
 あんたこんなん好きなんでしょ、というレコメンドも助かる(ときどき見当ちがいなこともあるが)。

 稼働時間が長いのは、なんといってもYouTubeだろう。
 1画面はほとんどそれ専用で、現在も作業用BGMが流れている。

 BGMというからには(?)クラシックだが、とある理由から、昭和の名曲というカテゴリの音楽もよく聞く。
 私は昔の人なので、古いものが好きらしい。

 とはいえ、新しい曲を聴かないわけではない。
 たまたま見つけた曲が気に入ったので、紹介しておこう。


ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」


 心に響く歌詞がいくつかある。
 「音楽」の部分を、それぞれの夢に置き換えるだけで自分のことになる、という人は多いのではないか。


「将来何してるだろうって、大人になったらわかったよ。何もしてないさ」

「僕だって信念があった。今じゃゴミみたいな想いだ」

「満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感」

「間違ってるんだよ、わかってるんだ」

「どうでもいいか。あんたのせいだ」


 最近の音楽は……と批判的な見解をよく見かけるが、いいものもつくられている。
 新しい作品を、きちんと評価できる大人になりたい。



 本、音楽、映画……この無限大のネット世界。
 たいへんいい時代に生まれてきたことに感謝しつつ、前文を訂正する。

 いかにインターネッツ先輩とはいえ、無限大ではない。
 あくまでもデータは有限だ。

 ひとりの人間にとっては処理できないほど大きい、という意味で使った。
 不正確な表現をお詫びする。

 最後に、この膨大なデータ量の未来予想図についての予測を記しておこう。
 米国物理学協会のオンラインジャーナル「AIP Advances」に掲載された論文「The information catastrophe」(情報のカタストロフ)より。

 現在(2019)、地球上で年間に生成されるデジタル情報量は、10の21乗ビット。
 これが毎年20%のペースで増えるとすると、350年後には、地球を構成するすべての原子の数(10の50乗)を超えるだろう。

 それは、「大部分の事物がコンピュータでシミュレートされ、デジタルビットとコンピュータコードに支配された」世界だという。
 シンギュラリティの先、いまいち予測しづらい未来の住人は、どうやって適応するのだろう、そもそも適応できるのか?

 いずれにしても、私が生きているうちは大丈夫だ(と思う)。
 いやまったく、私が死んだあと情報の津波に洗われるだろう世界を思うと、ドキがムネムネして夜しか眠れませんなー。
 


 BGM的にTVerの報道番組を流していたとき。
 「このスカタン傍聴官が」みたいな罵詈雑言が聞こえた……気がして、ふと画面を見た。

 菅官房長官が出ていた。
 スガカンボーチョーカン、スカタンボーチョーカン……。

 ニュースキャスターがちゃんと発音しないせいだ、と責任転嫁しても詮無い。
 ともかく、それ以来、そうとしか聞こえなくなってしまった。

 まあ官房長官から総理大臣にジョブチェンジするらしいので、これからは聞く機会もなくなるだろうが。
 かわいいし、愛称は「スカタン」にしたらいいんじゃないかな。

 ……いや冗談だ。
 令和おじさんには、がんばっていただきたいと思う。


 引きこもりの自宅警備員には関係ないと思われるかもしれないが、私の場合、それなりに世間の動きには注視している。
 世界情勢とマーケットは切り離せないからだ。

 最近はほとんど参戦していないが、コロナ関連での市場の乱高下は、火事場荒らしにはちょうどよかった。
 価格が上がろうが下がろうが関係ない、むしろ大きく動いてくれた(ボラティリティが高い)ほうが都合がいい。

 カネ転がしの非生産的利得、自然の荒廃と格差の元凶。
 山師、相場師、利ザヤ稼ぎ、自動売買、モメンタム系高速取引、人類の富を独占する我利我利亡者どもは、ほんとうに気持ちが悪い……。


 さて、そのコロナの発生源である中国が、真っ先にコロナ禍から回復して、自国の「強さ」を喧伝しているようだ。
 巻き込まれている世界は、おおむね苦々しい目で見ているといってよかろう。

 コロナは(たぶん)自然発生した病気なので、一種の天災である。
 その責任を中国に求めるのは、あまり正しくはないだろう。

 が、だからといって、告発した医師への譴責や野生動物の取引形態も含め、中国「政府」に責任がないわけではない。
 しばらくはおとなしく、謙虚にしているのが得策だと思われる。

 にもかかわらず、現在かの国は、いつも以上に強硬的な外交に転じている。
 このタイミングで? と私ですら疑問を感じるくらい、正直かなりの悪手に見える。

 自国ブロックだけで経済を回せる、という一種の「誇示」なのかもしれない。
 マイナスを甘受し、プラスの側面を重視する、というお偉いの判断には当然、それなりの根拠はあってしかるべきだ。

 とはいえ政府内部にも、中国の味方が少なすぎる、という嘆き節はあるようだ。
 事実、ますます「孤立化」を深めている。

 一昔前なら、粛清しすぎて学者が残っていないから賢い判断ができない、という見方もできるが現在は……もっと深刻かもしれない。
 中国内にもマイナスについて強調する学者は、それなりにいる。

 すべて先刻承知のうえ、この道を選んでいることが問題だ。
 その背景を考えてみよう。


 中国がこういう態度に出る原因のひとつは近代史にある、という記事を読んだ。
 以下、2文でまとめよう。

 有史以来、自分たちは世界の中心であるという幻想に浸りつづけた中国にとって、清朝末期、イギリスを中心とする先進諸国から手ひどい目に遭った記憶は、深刻な「トラウマ」として刻まれている。
 その西側諸国が中心となって築き上げた「国際秩序」とやらに根強い不信感を抱きつづけており、きっかけさえあれば過剰な反撃(排他的ナショナリズム)に転じる傾向は、ある種の被害妄想に近い。

 なるほど。
 被害妄想というふうに考えると、かなり納得がいく。


 じつは私にも、被害妄想的な傾向が若干ある。
 中国と比べるのもおかしいのだが、個人と国家がどの程度のフラクタルを示すのか、ためしに考えてみよう。

 スーパーに買い物に行った私が、「98円」という値付けを見たとする。
 この、よくある風景からして、すでに被害妄想の端緒だ。

 わかりやすく表記するなら「100円」でいいと思うが、もちろん商人は、わざとキリの悪い数字にしている。
 日本に限らず、世界中にこの「99セント」ビジネスはあふれている。

 わずか2円、1セントしかちがわなくても、桁が変わることで受ける印象が大きく変わり、お得感が増す。
 これは「心理的価格設定」というもので、購買意欲を刺激する手法として、非常に古くから用いられてきた。

 商品棚にある98円の商品を手にする。
 そのとき私を指さして、(脳内の)商人がげらげら笑いはじめる。

 ほらみたことか、あのバカが、お得だと思って買うぜ、こっちは先刻周知なんだよ、おまえらみたいなバカどもが98円って値札つけたら群がってくるのはな、サルみたいに低能だからその価格が適正かどうかなんて考える知性もない、見透かされて買えやバカが!
 商人が私を指さして、げらげら笑っている……。

 買わせるための手に乗って買う自分は、大嫌いな「商人」からバカにされているのだ、という被害妄想。
 もう、まともに買い物もできなくなる。


 もうひとつ、私はいまアメブロに記事をアップしているわけだが、写真を1枚も上げていない。
 旅行などの写真はそれなりにあるし、田舎生活における動物写真もなかなかおもしろいのだが、それをアップすることはないだろう。

 なぜか。
 トラウマ()のせいだ。

 ブログ開始当初、旅行の写真をアップしようとしたことがある。
 目的のファイルをクリックした瞬間、「サイズが大きすぎる」的な通知が出た。

 容量の上限を超えているので掲載できない、了解。
 私はその画面で、しばらく待っていた。

 おそらく10秒足らずだと思うが、あの10秒が、私とアメブロの付き合い方を永遠に変えた。
 被害妄想をかきたてる永遠の10秒、といっていいだろう。

 私は、なにを待っていたのか?
 ダイアログで「リサイズしますか?」と訊かれるのを待っていたのだ。

 他のサイトでは訊かれた覚えがあったので、アメブロもそういう仕様だと思っていた。
 しかし、現在はどうか知らないが、私が写真を上げようとした当時は、そういう仕様ではなかった。

 ここで打ち砕かれた、私の心は、サイバーエージェントの社長、藤田氏に。
 たまたまどこかで見たことのある、御社の社長が、あの顔で私を指さして(またしても)げらげら笑ったのだ。

 あいつバカだな、待ってればリサイズしてもらえると思ってるよ、甘ったれのマザコン野郎が、てめえがこっちに合わせろや、そのくらいもできない低能なのかな、口を開けて待ってるよ、サルだな、あいつリサイズしてもらえると思って待ってるよ!
 藤田氏が、私を指さして、げらげらと笑っている……。

 もう、そういう被害妄想を抱いてしまったら、二度と写真などアップする気はなくなるのだ。
 だいたい、世界中のお偉い方々は、私を含むバカな下級市民を指さして、げらげらと笑っているに決まっているのだ。

 ……被害妄想とは、(私にとって)こういうものだ。
 どうぞ、嗤っていただいてけっこう。


 私の場合、被害妄想の結果は「最低限の購買行動」や「データフローの最少化」という方向に向かっている。
 意趣返しになっているかどうかはともかく。

 一方、大国が被害妄想を理由に行動したら、どうなるか。
 世界中がコロナを自分たちのせいにしている、またぞろ攻めてくるにちがいない、ざけんじゃねえ、二度とやらせねえよ!

 逆切れしはじめるガキ大将に似ているかもしれない。
 強硬外交の背景としては、残念すぎる。

 ちがうかもしれないが、そう考えると納得がいく。
 残念ながら、人間なんてそんなものだ。

 共産党にある「怒り」と「恐怖」が、自分自身に重ねることで、よりクッキリと見えてくる。
 すくなくとも言えるのは、上記の私の姿が明らかに滑稽なように、中共も非常に滑稽だということだ。

 自国民を何億人殺しても、毛沢東が英雄である国。
 ゆがんだフレームワークの責任を、いずれは問われることになるだろう。

 私と同じく、彼らも、たぶんこう思っているはずだ。
 「我が亡き後に洪水よ来たれ」
 

 

 安倍ちゃんが辞めた。

 おつかれさまでした、と言いたい。

 

 いや、べつに私は自民党の支持者ではないし、むしろ政治家なんて全員くたばればいいと思っている。

 が、病気は当人のせいではないし、だいぶ長く総理大臣という激務をこなした人ではあるので、労をねぎらうくらいの良識は示してもよいと考える。

 

 で、その長期政権を総括する記事や番組が、ぞろぞろと出てきている。

 ニューズウィークかブルームバーグか東洋経済か忘れたが、安倍氏当人ではなくその周辺から分析する、とても客観的な記事があったので手短に記録しておきたい。

 

 まずは安倍氏を支持する側だが、彼らは必ずしも総理を手放しで褒めない、という。

 必ず留保条件をつけて、消極的に支持する。

 

 支持者にとって、総理は「北方領土」も「拉致問題」も「憲法改正」も、重要なことはひとつも解決できなかった人だ。

 つまり裏切られつづけているわけだが、ほかに選択肢もないので、消極的に支持する以外にない。

 

 一方、反安倍には理屈がない。

 彼がなにをやろうと、感情的な怒りを爆発させ、罵詈雑言を吐き散らすだけだ。

 

 なるほど、と思った。

 たしかに、たまに見かける反安倍の悪口合戦には、若干気が滅入る。

 

 安倍を支持する著名人を見かけると、もっと早く死んだほうが良かったとか。

 安倍なんか死んでも悲しくないとか。

 

 連続何日働いていて大変だ、と総理を思いやる発言に対して、あたし(主婦)なんか365日休みなしだよ、とか。

 あんたは総理大臣じゃないだろ、という突っ込みも空しい。

 

 もちろん総理大臣だけが大変な職業ではない。

 各界のトップでがんばっている人が「俺だって何か月も休みなしだよ」と言うなら、まあ理解はできる。

 

 しかし「並の」主婦と比べるのは、どうかと思う。

 主婦をがんばってる「あたし」は、業界トップのカリスマ主婦にでもなってから、総理大臣と自分を比較しても遅くはないだろう。

 

 記事に戻ると、安倍氏の一部の国を除いた海外からの評価はまあまあ高く、選挙に勝てるくらいだから多数派の国民にとっても一応ベターな結果は出している。

 逆に言えば、それが都合の悪い少数派にとっては口を極めてののしる要素しか残らない。

 

 俯瞰的で正確な論評だ。

 じつに筋が通る。

 

 

 

 さて、大嫌いな政治の話をしすぎた。

 主婦の話が出たところで、本日は私自身が担う家事労働について記そう。

 

 単に一人暮らしなので、自分で自分のことをやっているだけのことだが。

 家事が365日休みなしであることは、たしかに事実である。

 

 その労力を最低限に済ます、というのが私のウェイ・オブ・ライフだ。

 一方、主婦の仕事は大変なのだと、家事労働にすごい値段をつける人々がいるが、どんなすごい家事をしているのか、すごい気になる、たぶんすごいんだろう……。

 

 私は極限まで手を抜くので、労働と呼べるような代物ではない。

 洗濯物は洗濯機があふれるまで回さないし、乾いた洗濯物をたたむという発想もない。

 

 どうせ着るのだから、たたむ必要などあるだろうか?

 積んでおいて、上から取って着ればいいではないか。

 

 先ほど、着ているTシャツの感触がなんか変なので、見下ろしたところ裏返しだったことに気づいた。

 べつに一晩、眠るのに支障はなかったが、とりあえず着直した。

 

 靴下の柄がちがうなどしょっちゅうだし、さすがに靴は揃えるが、上下の服の組み合わせに気を使ったことはさらさらない。

 穴が開いたら捨てるが、透けている程度ならそのまま使う。

 

 明らかに小汚いとか、悪臭が漂うとか、他人にご迷惑をかけるような状態は避けるようにしているが、家でどんな服を着たところでだれも困りはしない。

 私にとって洗濯とは、かくのごときものである。

 

 

 次、掃除。

 わが家の掃除は、基本的にロボットがやる。

 

 そもそもミニマリストなので、片付ける必要がないほどモノが置いてない。

 ということは、ロボット掃除機にとってベストな環境だ。

 

 リモコンのスタートボタンを押すだけで、縦横無尽に埃を吸って、勝手に充電台に戻る。

 充電台にゴミを集める機能があるので、ゴミ捨ては季節ごとに1度くらいだ。

 

 風呂やトイレなどの掃除は自分でやらねばならないが、半年に一度くらいやっておけば、とくに問題はない。

 べつにシャワーの周囲に多少のカビが生えていたところで、痛くもかゆくもない。

 

 キノコが胞子を飛ばして王蟲が攻撃色で私を睨んでくるようになったら、さすがに腐海の掃除に乗り出すと思うが、半年くらいでそこまでの惨状にはならない。

 風通しはかなりよい状態なので、大海嘯を起こすには年単位の放置が必要だろう。

 

 

 最後、炊事。

 これについては毎日やらないと、飢え死にする恐れがある。

 

 死なないまでも、脳にエネルギーがいかないのはまずい。

 私ごとき者にとって、身体は脳を動かすための道具だ。

 

 最近の主食は、うどんとパンを交互に食っている。

 副食は納豆とヨーグルト、そこに裏の畑でとれた野菜を混ぜることで、バランスはとれている(はずだ)。

 

 間食として、サバの缶詰、オートミールをそのまま食う。

 血糖値の低下を感じたら、氷砂糖を口に含む。

 

 以上、必要な栄養素は摂取できていると考える。

 ご案内のようにバカ舌なので、味覚に対する手間は完全に排除している。

 

 毎日、延々と同じものを食いつづけても悔いがない。

 むしろ余計な変更を加えると、適応に手間取る。

 

 たまにやってくる親がおみやげ物らしき食い物を置いていくことがあるが、次にやってきたとき「まだ食べてないの!?」と驚かれる。

 どのタイミングで食うのかわからないし、そもそも食うものは決まっているので、割り込ませるきっかけがないと永遠に残るのだ。

 

 バナナやポテチくらいなら適当に食うが、おかずみたいなものは厄介だ。

 そもそも冷蔵庫には、調味料のたぐいがほとんどない。

 

 湯切りしただけのうどんに、納豆などを混ぜ、めんつゆをぶっかける。

 そのまま流し台に立って食い、食器を洗って戻すまで15分とはかからない。

 

 パンは味つけなし、ヨーグルトもプレーンのまま食う。

 ともかく最少の手間を心掛けている。

 

 これで、とくに健康には問題を感じていない(脳の出来はともかく)。

 粗食は身体にいいのだ、という説を採用しよう。

 

 

 

 以上、炊事洗濯掃除。

 家事「労働」と呼ぶのも憚られる手抜きぶりであることを、ご理解いただけたかと思う。

 

 くりかえすが、この状態にさしたる問題も感じていない。

 むしろミニマムな生き方に満足している。

 

 地球にやさしい、という言葉はあまり好きではないが、自然に対して負担の少ない生き方には努めたい。

 このまま死ぬまで生きることを、地球氏にはお目こぼし願いたいと思う。

 

 私の生き死にを、べつにだれにもどうこう言われるつもりはないが、地球氏にだけは、いろいろ物資を借り暮らしている立場上、ご負担の少ないよう気を遣う。

 あと何年、何十年かわからないが、使えるうちは使わせていただきたい。

 

 

 幸い、現状は繁殖を控えているため、未来の地球にかかる負荷も低減されている。

 いわゆる「結婚」の可能性は、おそらくない。

 

 「一人口は食えぬが二人口は食える」という言葉が、古来あった。

 一人暮らしは無駄が多くて生計を立てにくいが、結婚して二人で暮らせば節約できることが多くなり、なんとか暮らしていけるという意味らしい。

 

 しかし現在は、社会と技術の成熟により正反対の情勢となった。

 上述の通り、私自身の家事コストはかなり低いのだが、これを他人に任せるという選択肢に踏み出すと、恐ろしく高コスト体質になることが判明している。

 

 なんと、このほとんどやることのない「家事」を嫁にやってもらった場合、私は彼女に毎月30万、支払わなければならなくなるらしい。

 つましく暮らしている私の日常が突然、アホほどの高コスト体質になってしまうのだ。

 

 もちろん、夫婦で家事労働にお金を払うというのは、ただの「たとえ話」だ。

 問題は、嫁が思う「自分の労働30万」に対して、私が現状の生活から算定する家事労働の適正対価が、著しく乖離している点だろう。

 

 私の「たいしたことはやってもらっていない」と、相手の「すごい労働をしてやっている」という、極端な意識の差がもたらすもの。

 その先には、悲しい結末しかないような気がする。

 

 

 とはいえ、そうやって「吹っかける」ことには有益な意義もある。

 結婚したくない、しないほうがいい、と考える百の理由に、法外な月額課金というオマケが付け加わるのだ。

 

 こうして増えすぎた人類の繁殖率は低下する。

 とても幸いだ。

 

 これ以上、地球上に人間を増やすような努力はすべきではない。

 地球にやさしくしようと思ったら、ひとりで暮らすのが最適解なのである。

 

 

 世界の趨勢も順次、そちらに向かっている。

 安倍氏の長期政権をもってしても、この少子化問題はどうにもならなかった。

 

 世界自然保護基金が定めるエコロジカル・フットプリントによると、地球1個に対しての適正人口は50億人らしい。

 それでも多いような気はするが、現状は80億に近い。

 

 アフリカを中心とする途上国の人口が爆発的に増えているためだが、これは一時的な現象と考えたい。

 なぜなら彼らは「途上」にいるのであり、その先には先進国が待っているからだ。

 

 地球と人類に対し、先に大きな罪を犯した先進国から減らしていくのは道理だろう。

 ここに途上国が追いついてくれば、人口問題も自然に解消するはずだ。

 

 私も地球人の一員として、適正人口を目指す一助になりたい。

 ひっそりと、ひかえめに、ひとりで。

 

 ポイ活という言葉がある。

 各種のサイトを利用して、わずかなお得(ポイント)を積み重ねていく地道な活動だ。

 

 じつは私も、さほどヘビーユーザーではないが、それなりにやっている。

 できるだけ買い物をまとめ買いにしてタイミングよくポイントをゲットする王道から、クリックすると1円くれるバナーを淡々とクリックしつづける簡単なお仕事まで。

 

 江戸時代の笠張職人や昭和の封筒貼りといった内職になぞらえる向きもある。

 あまり効率は良くないが、それでも脳トレをしつつポイントがたまるというのは、市販の脳トレソフトを買ってきてポイントがたまらないよりはマシなのではないかな、という気がしないこともない。

 

 一方、このような活動に対して、「そんなことで数円稼ぐくらいならバイトしたほうがマシ」という意見もあり、説得力があると思う。

 が、そもそもポイ活というのは一種の趣味であり、空き時間や移動中などにできるから価値があるのだ、という意見もある。

 

 特定の時間帯を「売る」バイトとは質がちがう、ということだ。

 たしかに、どちらの考え方にも説得力があると思う。

 

 私自身は、腱鞘炎になるほどクリックする気もないが、もらえるものはもらっておいたらいいじゃない、という立場だ。

 多くの人が、近い考えではあるまいかと思う。

 

 そんななか、気になることがあった。

 相変わらず些細なことなので、あくびをしながら読んでもらいたい。

 

 

 ポイ活のなかには、「くじ」という巨大ジャンルがある。

 メルマガの購読などを条件に、些末なポイントが当たる、いわゆるクリック労働だ。

 

 そのなかに、ジャンケンくじというものがあった。

 グー、チョキ、パーを選んで、勝負する「くじ」なのだが、どうも結果がおかしい。

 

 ジャンケンというものの性質上、3分の1の確率で勝ち、負け、あいことなる。

 しかしジャンケンくじの場合、勝つことがほとんどない。

 

 そこで思い出したのが、昔、駄菓子屋やゲーセンなどに置いてあった「ジャンケンマン」というアーケードゲームだ。

 コイン(10円)を入れると、じゃーんけーん、という子どものかけ声でゲームがスタートする。

 

 グー、チョキ、パー、どれかのボタンを押すだけのシンプルなゲームで、多くのチルドレンがコインを呑まれた経験を有するかと思われる。

 かく言う私も、ボタンを押した瞬間、ほとんどかぶせ気味に「負けー」と言われた記憶が脳裏にこびりついている。

 

 このことを書くにあたって正確性を期すため、ウィキを調べたところ、どうやら「負けー」ではなく「ズコー」と言っているらしい。

 私の被害妄想が「負け」と聞こえさせたのかどうか、ともかく負けが多かったことは事実だ。

 

 あいこはもう1度なので、確率的には半分は勝てなければならない。

 が、みなさんご存じのように、手元のコインはずんずんと減る。

 

 なぜか?

 こちらが負けるように、確率が調整されているからだ。

 

 

 さて、これはジャンケンなのか?

 正確に言えば、「後出しジャンケン」ではないのか?

 

 相手が必ず後出しをするジャンケン。

 となれば、フェアではない。

 

 子どもたちにフェアネスを教えようとするなら、ゲームのタイトルは「ジャンケンマン」ではなく、「後出しジャンケンマン」にすべきだ。

 私は「ズル」をしていますが、それでもよければやりましょう、と表明したうえでプレイさせるなら文句は言わない。

 

 ところがご案内の通り、子どもたちがこのゲームから学ぶのは、おとなたちが平然と繰り出す詐術と、手元資金の枯渇という冷酷な現実だ。

 ある意味教育的と言えないこともないが、思い出すほど腹は立つ。

 

 一般的な「ジャンケン」というルールに基づいている、と思い込ませておいて、こっそりと確率調整をするのは卑劣だ、と今般、ジャンケンくじを見て思いを新たにしている。

 まだ当たり確率を公表しているパチンコ屋のほうがマシにすら思える。

 

 このような卑劣なギャンブルの詐術で育った昭和の子どもたちは、オンラインゲームのガチャという詐術で、平成の子どもたちをだましている。

 そして平成の子どもたちは、令和の子どもたちをどうやってだますのか。

 

 恐ろしい連鎖が予想されるわけだが、そのすべての根底に、ジャンケンという詐欺を措定しても、あながちまちがいではあるまい。

 ルールを誤解させる詐術、これはもはやギャンブルですらない。

 

 

 そもそも私は、ギャンブルがあまり好きではない。

 好きではないにもかかわらず、博奕のような人生を送っている点については内心忸怩たるものがあるが、好き嫌いとできるできないは別だ。

 

 ギャンブルである以上、勝つときもあれば負けるときもある。

 当然なのだが、問題はルールが公平かどうかだ。

 

 コンマ数パーセント、胴元にテラ銭を払うというルールまでは認めよう。

 その先の勝ち負けは、当人の選択に沿って、予見される確率的に公平でなければならない。

 

 ルーレットなどが、いい例だろう。

 運を天に任せて決めた数字が、だいたい36分の1の確率で当たることは一目瞭然、明快なテーブルがそこにデンと置いてある。

 

 ブラックジャックなどカードゲームも、あらかじめ勝つ確率は計算できる。

 麻雀も同様、確率のゲームだ。

 

 押しなべて言えるのは、すべてのギャンブルは「損をする」ということだ。

 もちろん一部の人は勝つわけだが、ほとんどの人がトータルすれば負ける。

 

 支払った額に対して、どれだけ戻ってくるかを「期待収益率」というが、ギャンブルにおいては0%に近ければ近いほど、「効率がいい」「公平な」ゲームということになる。

 一般に、この数値がかなり悪いのが公営ギャンブルであり、最悪なのが「宝くじ」である。

 

 先ほど調べたところ、パチンコは-5%、競馬競輪は-25%、宝くじは-52%らしい。

 言うまでもないが、ギャンブルは総じて「マイナスのゲーム」であることを、よく理解しておく必要がある。

 

 

 保険も同様で、だから私はできれば保険に入りたくない。

 支払ったお金に対して、戻ってくる割合が低すぎるからだ。

 

 最近はどうか知らないが、昔こういう話を聞いた。

 あなたが支払った1万円のうち、半分が保険会社の社員の給与やそのビルを維持するために使われ、4分の1が詐欺師のために支払われ、残りがあなたの目的とする保険金に充てられている。

 

 要するに期待収益率-75%ということだ。

 いくらなんでも割に合わない!

 

 というわけで、私は基本的に保険には入らない。

 そもそも、ある日ふらりと死んで消え去るべき私のような人間に、安心とか安全などという言葉は無用なのだ。

 

 ジャンケンくじ、という一瞬の出来事から、そんなことを思った。

 台風が近づいているらしい昨今、みなさん、損害保険の準備はよろしいか?

 

 

 まずはきょうも、氾濫するネット記事に小さな突っ込みを入れるところから始めよう。

 内容には触れない。表現の問題だ。

 

 匿名の人物を指して、「T(仮名)が……」と書いてあった。

 おかしくないか?

 

 「田中(仮名)」なら、わかる。

 世の中には「田中(本名)」がたくさんいるので、それが仮名であるという注意には意味がある。

 

 一方「T(仮名)」には、いったいどんな意味があるのか?

 「T」の時点で、仮名であることがわかるというのに。

 

 この文章を書いた人の身近には、「T(本名)」がいるのだろうか。

 だとしたら謝るが……。

 

 イニシャルトークという概念そのものに、具体的な名前を知られないようにする、という匿名性がある。

 にもかかわらず余計なものを付け足す行為を、屋下に屋を架す(屋上屋を重ねる)という。

 

 素人が自分のブログや場末のスナックで、おかしな表現を使うのはいい(私のように)。

 プロの書き手が対価を得てこういう文章を出すのは、いかがなものか。

 

 

 

 ついでにもうひとつ。

 スマホのロック解除のときに感じた、イラッ。

 

 私は指紋認証を使っているのだが、どうやら精度がよくないらしい。

 「所定の回数間違えました」と出て、しばらく操作できない(パスワードで操作できる)ことが、たまにある。

 

 さて、この「間違えました」という表現。

 主語がないのでわかりづらいが、「あなたが」間違えました、という意味と思われる。

 

 待てと。

 

 間違いない場所に、間違いなく当人が当てている指紋を、認識しない「おまえが」間違っているんじゃないのか?

 自分の認識精度の悪さを、こちらのせいにしているわけか?

 

 「所定の回数、認識できませんでした」なら、主語がスマホ側にあるように受け取れる。

 つとめて人間的な「間違える」という表現は、明らかに「人間のせい」にしているように受け取れる。

 

 と、そう感じるのは、私だけだろうか。

 スマホを前に、小一時間、説教くれてやりたい。

 

 日本語が不自由な海外メーカーならともかく、シャープ製だ。

 ホンハイに魂まで売ったのか!

 

 と、そこまで感じてしまうこの(被害)妄想力を大事にしていきたい。

 これは、主語を含めて膨大な情報量を省略できる、高文脈言語ならではの問題かもしれない。

 

 

 

 高・低文脈文化という概念は、アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールが生み出した。

 劣っているとか優れているという話ではなく、ただの分類だ。

 

 高文脈は、言葉にされたよりも多くの情報を相手に伝えることができ、低文脈は、言葉にされた内容のみが情報としての意味を持つ。

 高文脈の代表例が日本語で、低文脈の代表例がドイツ語らしい。

 

 そういえばドイツ語の翻訳者が、「あんたらの表現はクドすぎるよ」とドイツ人の著者に文句を言っていた。

 ともかくカッチリと詰め込めるだけ情報を詰め込むのが、ドイツ語というもののようだ。

 

 たしかに、かなり忠実に訳しているらしい哲学書などを読むと、うんざりすることも多い。

 もうちょっと省略するとか、簡単な言い回しでも伝わるんじゃないかな、と。

 

 行間を読む必要のないドイツ語。

 抽象的すぎて誤解も多くなる日本語。

 

 どちらにもメリットとデメリットがありそうだ。

 省略された主語にまでイライラした私の姿が、デメリットのいい例だろうか。

 

 

 

 婉曲表現というものは、小説を書くうえでは重要な要素だ。

 重要な謎解きの要素にもなれば、美文の誉れ高い純文学にも昇華する。

 

 小説のジャンルによっても、書き方は微妙に変えていかなければならない。

 淡々と事実を積み重ねる推理小説と、感情的な爆発を重視する恋愛小説では、明らかに異なる書き方が必要とされるのだ。

 

 世に氾濫している「記事」やスマホの「通知」にイライラしつつ、私自身、自らの文章力について反省しないわけにはいかない。

 もはや正解はわからない、そんなものはないのかもしれない。

 

 私は、論理的な表現というものが好きなので、小説を書くときは注意して感情を抑える。

 いい面もあるが、これには致命的な弱点がある。

 

 端的に言うと、つまらない。

 いや、謎解きと論理を重視する推理小説などは、これでもいける。

 

 冷静な機械のような登場人物が、淡々と謎と動機を暴いていく。

 それで成立はするのだが、おもしろいかどうかは別の話だ。

 

 感情の起伏に乏しい探偵が、「衝動的犯罪の可能性に言及」したところで、説得力もくそもない。

 すくなくともエンターテインメントとしての欠陥は否めない。

 

 ともかく、キャラが生きない。

 とくにマンガ原作に手を出したときには、かなりの致命傷を感じた。

 

 

 マンガで重要なのは、1にキャラ、2にもキャラ、3がセリフまわし、4でようやくストーリー、というのが相場だった。

 要するに私の得意とする「精緻な設定」や「複雑な物語」というのは、優先順位としてかなり後回しなのだ。

 

 伏線だらけで、いつも回収に骨を折っている私のような書き方は、よほど長くなる連載漫画でもなければ効果がないし、そもそも回収する前に「俺たちの冒険ははじまったばかりだ!(第一部・完)」という最終回を迎える気しかしない。

 やはりキャラが大事、というのは重々承知している。

 

 私も別段、キャラを創るのが苦手というわけでもない(はずだ)。

 最初は自由な発想で面白いキャラができている(ような気がする)のだが、あにはからんや、こねくりまわしているうちに凡庸なつまらないやつに成り下がる。

 

 あまり考えないで衝動のままに行動する熱血キャラは、簡単なようで難しい。

 とくに私のような書き手にとっては。

 

 

 もともとホラー畑の出身で、たとえば恐ろしい薬が出てくるとして、それを開発した製薬会社の沿革から設定するタイプだ。

 社長の先祖の来歴まで書いていたら、731部隊にやたら詳しくなった。

 

 社会背景や人物を掘り下げるゴリゴリのミステリは、書いていて楽しいときもあるが、基本的には疲れ果てる。

 微に入り細を穿つ描写と緻密な設定に埋め尽くされたハードSFにも片足は突っ込んだが、どこまでも落ちていきそうで恐ろしい。

 

 ちなみに、いちばんホラーを感じる瞬間といえば、執筆の途中ふとした拍子に、なに書いてんだ俺は、と正気に返った瞬間だ。

 あれは怖い……怖いよ……振り返るな、やつがいる!

 

 まあ、そんなわけで自分への突っ込みを手ぐすね引いている「やつ」が、みなさんの背後にもいらっしゃると思う。

 YAH YAH YAH──。

 

 

 以前、広告について腐したことがある。

 それにまつわる「釣り」についても、一家言、残しておきたい。

 

 サムネや見出しで耳目を集めようとする詐術の数々については、みなさんもよくご存じのことと思う。

 再生数を稼ぐための釣りサムネ、タイトル詐欺の数々には、批判的なコメントが集まりやすい。

 

 先ほど、半ば広告と化している釣り記事を読んだ。

 見出しで「衝撃的な言葉」と煽っておいて、記事を読めばその「言葉」とやらがわかるのかと思いきや、つづきはこちらのマンガを読んでください、という誘導。

 

 それ記事じゃなくて広告だよね?

 コメント欄を読んだら、私と同様「ふざけんな」という意見が多くて安心した。

 

 

 いわゆる「提灯」記事というやつは、昔からある。

 マスコミの宿痾といっていいだろう。

 

 テキトーなことを書く「トバシ」記事とか、予想で書く「ヘモカ」記事などもある。

 最近気になっているのは、「?」の使い方だ。

 

 次のような見出しを見かけた。

 「一人一日9リットルもガソリンを使ってる?」

 

 ……いや、訊かれても。

 知らんがな。

 

 

 データから平均値は出る。

 一人一日9リットルを使っているなら、そう断言すればよい。

 

 自分の意見に自信がないのか? 裏取りもしていないデータということか? わからんけどなんかそんな気がするよ? そんなわけないよな? なにがわからないの? なんで訊くの?

 

 「疑問符」という性質上、一瞬、その記事に自信がないのか、という疑問も覚える。

 が、9リットルという具体的な数字を出しているわけだから、ヘモカ記事のレベルであっていいわけがない。

 

 この見出しをつけた記者は、要するに共感を求めているのだろう。

 問いかけることで、考えてみてください、とでも言いたいにちがいない。

 

 クエスチョンマークという、便利で厄介なもの。

 もちろんプレゼンの基本に「問いかける」という話術はある。

 

 知らないの? バカじゃないの。教えてやんよ。

 という被害妄想さえ乗り越えられれば、効果的ではあるだろう。

 

 

 

 平均的な温室効果ガスによる排出量は、ひとり年間7.6トンらしい。

 これはCO2換算で、ガソリン換算すると平均9リットルになるという。

 

 調べはついているのだから、「平均9リットル!」と書けばよい。

 そうではなく「9リットル?」と疑問符をつける。

 

 記事を読めば、明確に「約9リットル使っていることになり」と断定しているので、データに自信がないというわけではない。

 では筆者は、なにを問うているのか。

 

 もっと使っている人もいるし、そうでない人もいる。

 あなたは9リットル使ってますか? 問題意識を持つべきではないですか?

 

 そういう意図での「?」なのかもしれないが、なぜかイラッとくる。

 この疑問符の使い方に、心を逆なでられるタイプは、私の仲間だ。

 

 わたしー、虫きらいー? じゃないですかー?

 という女子高生にイラッとくるのに似ている、かもしれない。

 

 

 

 疑問符も感嘆符も、適切な場所で適切な数だけ使ってくれれば、非常に効果的だ。

 逆に濫用すると、本来の価値を損なう。

 

 !!!!!!!!!!!

 という表現が、私は大嫌いだ。

 

 wwwwwwwwwww

 という表現にいたっては、見たくもない。

 

 私はネイティブのネット世代ではないので、ネットスラングがあまり好きではない。

 世代というより性格の問題かもしれないが、巨大掲示板の「便所の落書き」に浸っていた時期には、だいぶ精神を荒廃させられた。

 

 もちろん、いやなら「見なきゃいい」のだ。

 見ていた時期の経験について、書いている。

 

 なかでも「w」という表現が、きらいだった。

 いまでもあまり好きではないが、便利なので、チャットなどで1文字くらいは使うこともある。

 

 「w」は、正式に「わら」と読むことが決定しているらしい。

 もちろん私も「笑」の意味で使う。

 

 「ww」は「かなり笑った」で、「www」になると筆舌に尽くしがたい笑い、という意味で用いる。

 というわけで、3つ並べることまでは自分に許しているが、ほとんど使ったことはない。

 

 

 数文字で感情を表現できるのは、たしかに便利だろう。

 このように、文字数を増やすことで意味合いを変化させるというパターンは、他の言語にも共通しているようだ。

 

 たとえば英語圏では、「x」には未知数や性暴力という意味がある。

 「xx」になると性暴力のイメージが強くなり、裏切り行為なども意味するという。

 「xxx」は、キスのマークとして使われることもあるが、本格成人映画の意味でも使われる。

 

 要するに、xの数が増えるごとに、かなりハードな大人の世界を表現する、という法則性だ。

 ほかにも、LL(大きめサイズ)とか、ZZ(ダブルゼータ)とか、世の中には、同じ文字を重ねることで意味合いを変化させていく手法は、よく使われている。

 

 いずれにしろ、3段階もあればじゅうぶんだ。

 それ以上、重ねられた文字に意味はあるか?

 

 

 果てしなく「w」を重ねる表現法は、「草」という。

 私にとって、即座に読む価値がないと判断して時間の無駄を省けるという利用価値はあるが、この手の書き込みをする人々が集まる場所に近寄るには、よほど元気がないと難しい年齢になった。

 

 それでも、日本語が乱れているとか、ちゃんとした言葉を使え、とまで言うつもりもない。

 彼らは彼らで成立した言語圏で暮らしているのだから、私のような無関係の大人が、よけいな介入をする理由もない。

 

 だいたい言語は弾力的に変化するものだし、私は世間とズレている。

 そう考えると、腹を立てること自体が空しい。

 

 どんな見出しをつけようと、どんなに草を生やそうと自由だし、それに違和感や不快感を表明するのも自由だ。

 ただ、その自由、それ自体を狩ろうとする勢力にだけは、抵抗したい。

 

 自分で書いていて、問いかける書き方が便利であることも、重々認めている。

 私もこの方法を、自由に利用したいと思う。

 

 先に死んでいく私が、これから生きる人々に残したいものを問われたら、それは「自由」だと思うのだ。

 諸君、自由に書こうではないか。