私はヴィーガンではない。
肉も魚もふつうに食うのだが、その量はきわめて少ない。
どちらかといえばヴィーガンに近い感覚を持っているのかもしれない。
と、高級な牛肉を取り扱った番組を見ていたときに、あらためて思った。
つぶらな瞳の牛が、荷台に乗せられてドナドナされていく。
次のカットでは、高級和牛のサシ入り切り身が大写し。中間の事象をすっ飛ばして……。
うわー、おいしそー、やわらかーい、やすーい。
登場人物が、口のまわりをベタベタにしながら、あるいは品の良いレストランにふさわしいしたり顔で、なかなか「極上の」笑顔をさらけ出している。
うわあ……。
という私の感覚は、製作者の狙い通りだろうか。
道徳的、倫理的、宗教的な番組であれば、肉をいただくことへの「感謝」や、食い食われる永劫の連環、カルマという考え方が表に出るだろう。
私が見ていたのは経済番組なので、自由経済とグローバリズムの本質が奈辺にあるかについて、十二分に察せられる内容だった。
ここで倫理とか道徳について掘り下げるつもりはない。
なにを食うかは個人の自由だし、私自身、肉も魚も食うので、肉食を誹謗する趣味も資格もない。
缶詰の青魚については、脳が必要としている気がするので、食べないわけにいかない。
動物性原料由来のなにかを食っていたとして、別段、恥じ入る気もない。
むしろヴィーガンが高慢ちきな態度で「その死骸、片付けてくださる?」と、テーブルの料理に対して不快気に言い放つほうが、どうかしていると思う。
あんたも生きているだろ、もっぱら植物の死骸を食って、と。
上述の通り、食う食われるは生物の摂理であり、それ自体に責めを負うべきものはない。
ただ、均衡点をどこに置くかという問題だ。
つづけて映画を観た。
これもまた示唆的だった。
自爆テロをしようとする人物を描いている。
彼らは豚肉を食わないし、なんなら酒も飲まない。
じつにスマートに、テロリストを製造していく過程が描かれていた。
素人宗教研究家の私にとって、じつに興味深い葛藤も描かれていた。
ユダヤの豚のやり口を見ろ、やつらはそういう民族なんだ、つまりヒトラーはよくやったんだ。
てめえ600万人も殺されてんだぞ、もう許さねえ!
アメリカで生まれ育った若者たちが、片やノンポリで怠惰に過ごし、片やテロリストとして洗脳されていく。
八百万の神々に守られた日本人の感覚では、なかなか理解しづらい構図かもしれない。
中東戦争などつらつら鑑みるに、当然、そういう話になるだろうな、と思いながら、映画では宗教的闘争がそれ以上掘り下げられていないことに、若干残念な気持ちを覚えた。
その先の展開については、いずれ私自身が掘り下げて執筆したい。
映画は、テロリストを育て方を、丹念に描いている。
コーランの曲解を判断できない、無知な若者がターゲットだ。
カリスマ性と恐怖心で思考を麻痺させ、コントロールする伝統的な手口が見て取れる。
独裁国家から過激派まで、いろんな組織が利用してきたが、最近はイスラームという宗教によって利用されることが多い。
狙いはもちろん利権、お金だ。
結局は、お金のある人が、よりたくさんのお金を手にするために、既存の枠組みを利用しているだけなのだ。
サイコパスというものが問題視されることが多いが、彼らの視点、行動原理はある意味、役に立つ。
目的に対して最短距離をとろうとしたら、サイコパスのほうが都合がいい。
べつに「お金持ちがサイコパス」というつもりはないが、彼らのシンプルな選択が目立つことは事実だろう。
自分の身分と財産を確保し、増殖させるための手段に対して、さしたる疑いも持たずゴーサインを出す。
犠牲になるのは、利用しやすい「純粋な若者」たち。
自爆テロの実行犯に仕立て上げる、巧妙な手口の数々が映画を盛り上げる。
ちなみに結末は、なるほどアメリカマンセーか、という気にならなくもないが、最大多数のカタルシスを優先すれば当然の結果だろう。
すくなくとも、こうやって世界の危機は演出されていくんだな、という理解の一助になった。
判断材料は、十二分にある。
あとはわれわれ自身が、戦うか、食うか、決めればいい。
これがヒトというDNAの統計的行動原理だ。
いずれAIが解析し、生物進化のパターンファイルに綴じられることだろう。
宇宙意志への統合に気づくまで。
あと何年か。