タバコを吸っていると、コロナにかかりづらくなるらしい。
 ニコチンが、コロナの感染にかかわる部分をブロックしている可能性があるようだ。

 という「説」を取り上げて、ドヤ顔のタバコ礼賛を展開する喫煙者の記事を読んだ。
 じつにすがすがしい。

 もしこの情報が正しければ、彼の論陣にもうなずける部分がある。
 まず、フランスの病院やアメリカの医学ジャーナルで、その手の結論が出されていることは事実のようだ。

 タバコを吸うと肺を痛める、コロナに感染すると重症化しやすい、という議論については猛烈にプッシュする禁煙活動家。
 一方、コロナ自体にはかかりづらくなる、という都合の悪い事実については口をつぐんでいる。

 これはフェアではない、と筆者は苦言を呈する。
 禁煙運動家は、自分に都合のいい情報だけを出し、悪い情報は隠している、という指摘についてはなるほどとうなずける部分もあった。


 ヒステリックな禁煙運動家が言う「百害あって一利なし」は、私も常々、おかしいと思っていた。
 一利や二利はあるだろ、ストレス解消とか、落ち着くとか、だから吸ってるんじゃないか、という当然の突っ込みどころを頭からスルーしているところが、このへんの活動家に距離を置きたくなる理由でもある。

 自分に都合の悪いところはスルーする、という態度はほんとうにいただけない。
 どこかで書いたかもしれないが、自分に都合の悪い占いは信じない、という態度からして私は問題だと思っている。

 それでも「たかが占い」であれば、ぎりぎり許容範囲ではある。
 それ以外のマジメな話で、「ダブルスタンダード」はあってはならない。


 この書き手は信頼できる、と途中までは思っていた。
 が、残念ながら失点が見つかった。

 たとえば「副流煙による健康被害に医学的な根拠はない」という「説」。
 これを、喫煙に対するポジティブな文脈で使おうとしたところが、最悪の失点だった。

 世の中にはいろんな「説」があり、有名なところでは水俣病のときにも、この「医学的根拠はない」という「説」で、廃液の垂れ流しが継続されたことがあった。
 あらゆる「説」が、この世にはある。

 人類が宇宙に進出している現在さえ、地球は丸くない、平らだ、という「説」を主張している人もいる。
 でも宇宙から丸く見えますよ、いやあれはトリックだ、ただカメラの影響でゆがんで見えているだけだ、など。

 あらゆる「説」はあるわけで、問題は、それをどういう文脈で使うかという点に尽きる。
 残念ながら、この一文で途中まで良かった論旨の質が、大きく損なわれた。

 さすがに副流煙を吸わされたら健康に被害が出るだろうな、という一般的な想像力。
 対して、「医学的な根拠はない」という「説」を、上位の文脈に置いた。

 医学的根拠以前に、「周囲に副流煙を吸わせるのは申し訳ない」から、このような「説」を振りかざすのは正しくないと思うが、という批判的な文脈で使ってくれれば、まだ彼のことを信用できた。
 しかし彼は、この「説」を、喫煙に対する肯定的な文脈で使おうとしたのである。

 おそらく心の底に「副流煙ぐらい我慢しろ」という要求が根差しているからだろう。
 これは、そういう「説」もあるんだからいいよね、という文脈で使ってはいけない言説だった。


 周囲に毒を振りまくのは、べつに喫煙者に限った話ではない。
 究極的には、人間は生きているだけでちょっとずつ「害悪」だ。

 ただその「環境負荷」をできるだけ減らしていこうという不断の努力を、個々人がどれだけ背負えるか、という点にこそ「価値」があると考える。
 人類共通の正義などというものがありうるとすれば、それは「持続可能」という「スタンダード」こそがもっとも近い(とはいえSDGsへの道は遠く険しい)。

 どれほど高邁な理想を掲げようと、そこにダブルスタンダードがあっては台無しだ。
 都合のいいことも悪いことも知ったうえで、優先順位を決めて判断しなければならない。


 コロナ自体にかかりづらくなることより、重症化しやすいかどうかのほうが問題だ、と考える人もいるだろう。
 風邪をひきやすくなるがかかっても死にづらいほうがいいか、風邪にかかりにくくなるがかかったら死にやすいほうがいいかは、個人が選べばいいのだ。

 その意味では、この喫煙者の議論も、冷静に考えてあまり喫煙を礼賛していないんじゃないかな、とすら思える。
 いろいろな見方があってよい。

 多少の粗もあったが、彼の言っていることは8割方、正しいと感じられた。
 彼らが自分の健康を損なう(あるいは潤す)分には、彼らの自由であるべきだ。


 私も人生で二度ほど「喫煙者」だった経験があるが、あれを「やめられない」というのは、よほどニコチン体質なのだろう。
 そういう人にとっては、タバコは健康にいいのかもしれない。

 一部例外はあるが、喫煙はもはや「文化」として認めていい段階のような気が、しないでもない。
 ただし、それは他者を巻き込まない範囲の話だ。

 健康増進法が通過し、原則として屋内ではタバコを吸えなくなる。
 高い税金も課せられる、いろいろ迫害も受けるという。

 それでも喫煙者は、文句など言ってはいけない。
 その無抵抗主義こそが、喫煙者の正解だと思う。
 


 タイトル詐欺と謗られる前にあらかじめ言っておくが、私が天才でその創作論をここに開陳する、という意味ではない。
 創作のなかに登場する「天才」という種類のキャラについて、ちょっと思ったことを書く、という程度の軽い話だ。


 私はものを書く人なので、そのなかで、さまざまな人物を動かすことになる。
 そこらの一般人を動かしている分には、さして気も使わない。私もそのひとりだからだ。

 が、ときおり「天才」を登場させる場合、非常に気を遣う。
 天才の行動は、私のような凡人の想像を絶する可能性が高いからだ。

 たとえば昔のヒーローものなどに、IQ600とか、そんなIQねえよ、という感じのキャラが登場したりする。
 よく書けるね、その何分の1しかないIQで。


 IQ600は、理屈の上ではありうる。
 平均値100、標準偏差15として、4.0×10の104乗人に1人の確率で存在するらしい。

 70億人にひとりの場合はゼロが9個だが、104個ゼロがつくほど人類が増えれば、ひとりくらいは存在するわけだ。
 さて、そんな人物が仮にいたとしよう。

 そのような奇跡的キャラを動かす場合、避けられない矛盾が生じる。
 それを書いている人間の「発想の限界」だ。

 超絶的に稀有な才能の持ち主であるはずのヒーローが、はたして、そこらの有象無象のシナリオライターが思いつくような行動をとるだろうか?
 超天才であるはずのヒーローが、昭和風味の間抜けな主婦でも避けて通るような落とし穴に、なぜおっこちる?

 と思わせた瞬間に、その作品の「設定が足を引っ張る」ことになる。
 いいかげんな話つくってんじゃねえよ、だ。

 もちろんギャグ漫画なら、まったくかまわない。
 IQ何兆だろうが好きにしたらいい。

 私たちはふざけています、まじめに見ないでください、という前提があるからだ。
 しかし、多少なりとも「現実」に即して作品を作り、かつ「数字」を出す以上、まじめに出してもらいたい。

 ──と思ってしまうタイプは、たぶんSF警察に向いている。
 電車の型式に異常にこだわるアスペの鉄ヲタにも通じるかもしれない。


 実在する有名な天才フォン・ノイマンは、IQ300といわれている。
 が、これはかなりのトリックを用いた計算方法だ。

 IQには古典的な「レシオIQ」と、通常使われる「deviationIQ」というものがある。
 フォン・ノイマンの300を算出するために用いられたトリックは、非常に低い年齢でテストを受けさせ、レシオIQで算出するという方法(それも後世に推定したもの)だ。

 IQ160以上を自称する人は、このトリックを用いていることが多い。
 たとえば「8歳で微分積分を理解できる」などだが、逆に言えば、年齢が高くなると「その年齢にならないと解けない問題」という作問が不可能になるため、ある程度の年齢以上ではIQが200以上にならない。

 そもそもIQという指標は、「100を基準として、年齢相応より知能が高いか低いかを判定する」ためのテストだったので、成人では正常に判定できなくなる。

 つまり「信頼性に欠ける」ため、通常はdeviationIQを用いる。
 統計学(正規分布)を使っており、いわゆる「偏差値」の出し方と同じだ。

 平均の人々の偏差値50が、IQでは100となる。
 その年齢の相場と比べるので、どの年齢でも正確に算出できる。

 標準偏差を使うので、理屈のうえでは上限はない。
 超絶難問のテストで、やたらと平均点が低いなかで満点をとれば、偏差値であっても100を超えることは、ご存じの方もいるだろう。

 極端な話、人類で、たったひとりが解ける問題を解いた場合、偏差値は86万になるらしい。
 が、問題が1つのテストというのは現実味がないし、そもそも正確性に欠けるので、正気の人は「私の偏差値は86万です」とドヤ顔をすることはない。

 問題数を増やすほど点数がばらつき、正確性が増す。
 どのテストでどれだけのスコアを出したか、という比較を突き詰めれば、ある程度の価値はあるかもしれない。

 とはいえ、しょせん指標のひとつにすぎないわけで、あまりこだわるべきものでもないと言われれば、その通りだ。
 ちなみに私のIQは、だいたいどのテストでも、やや100を超える程度の一般人なので、上を目指そうとすると苦労する。


 IQは、おおむね160を超えれば、一握りの「天才」である。
 いま書いている作品には、オイラー(スイスの数学者・天文学者)の生まれ変わり的な、IQ200近いという常軌を逸した天才が登場するのだが、彼の行動には、私ごとき凡百の脳髄の限界ぎりぎりを使う。

 すくなくとも数学的予測の範囲内で、間抜けな行動をとらせてはならない。
 とはいえ神ではないから、スーパーコンピュータ並みの活躍もおかしい。

 天才とは厄介なものだ。
 彼らこそが、人類全体をブレイクスルーに導く。

 その脳髄の発想するところを、ほんのわずか、一瞬なりとも想像するために、私は私の貧弱な脳髄を酷使する。
 奇矯な行動をとることにも、理由があるはずだ。

 そうやって張り巡らせすぎた伏線の回収に、やや手間取っている。
 処理能力の足りない脳というのも、また厄介なものだ。


 その脳をトレーニングする方法について、最後に記しておこう。
 脳とハサミは、生きているうちに使わないと錆びる。

 私は宇宙が好きなので、よく宇宙関係の動画を見る。
 で、国立天文台がようつべにうpした自然科学研究機構のシンポジウムをまったり見ていたところ、なかなかおもしろい話を聞けた。

 といっても、私がおもしろかっただけで、ふつーの人にはちっともおもしろくないだろうな、というくらいの予想はつく。
 なので、ふつーの人にもわかる話をしよう。

 素粒子物理学の話だ。
 いや、素粒子物理学「者」の話、といったほうが正確だろう。

 その人の発表を聞いていて思ったのは、だいぶ早口だな、ということだった。
 私が1.5倍速で聞いている、という事情もあるが、いつもは2倍速に慣れている耳でなければ、理解が追いつかないくらい早口だ。

 早口の人は、一般に頭の回転が速い。
 次々と言葉を吐き出せと命じてくる脳に、口が追いつかない状態である。

 この人、すごく頭がいいんだろうな、と思いながら聞いていた。
 1兆分の1秒後の世界、見えないものを見る、ということに思いを馳せた。


 さあ、これが「トレーニング」になる。
 倍速で聞こう!

 速聴は脳を活性化する。
 皆さんも、ぜひやっていただきたい。

 私は、音楽以外は、だいたい倍速か、興味があるジャンルでも1.5倍速で見ることにしている。
 集中して、活性化した脳にぶちこんでやることで、密度の高い時間を得られる。

 世の中には、3倍、4倍で聞いて理解できる人もいるらしいが、私は2倍速が限界だ。
 言い換えれば、私程度の能力でも対応できるくらいだから、世の大半の人はいけるだろう。

 せっかく生きているのだから、もっと使おうではないか。
 脳とハサミを!
 


 タイトル詐欺、という言葉がある。
 犯罪として立件するのは難しいが、いわゆる「イラッ」とくる罪な行為。

 映画をよく観る人なら、まとわりついて離れない問題だろう。
 内容にまったく関係ないが、タイトルで見るかどうかを決める人々に対する、いわゆる「釣り」目的でつけられた、おもに邦題。

 観てみて、内容がつまらなければ当然、酷評するだろうが、それに見合った内容なので問題ない。
 かわいそうなのは、そこそこおもしろいのに「釣り」のせいで足を引っ張られる作品だ。

 内容がおもしろくても、その「タイトル」を期待した人にとっては「違う」ことになるので、腹を立てて低評価をする(だまされて愉快になる人はあまりいない)。
 平均評価が低くなる、観る人は減る、悪循環。

 一般的に、タイトル詐欺でいいことはあまりないと思うのだが、それでも汎用されるのはなぜか。
 「最初だけ」客が増える、という点はどうやら事実らしい。


 そう、目的はひとつ。
 目を引くタイトルで最初だけ売れればいい、という判断なのだ。

 これはもう、それだけでよいと判断した配給会社の姿勢に尽きる。
 そんな会社に買われてしまった、不幸な製作者というようにも見えるが、そもそも、だれも買ってくれなかった可能性があるなら、多少なりビジネスになって不幸中の幸いといえるのかもしれない。

 詐欺タイトルは非常に多いが、すくなくとも私は、だまされて愉快になったことはほとんどない。
 よって、その手の詐欺会社がなるべく利益を得ないよう、これからも注意していきたい。


 そういう「まったく関係ない」邦題は論外として、「言い過ぎでしょう」というキャッチコピーも気になる。
 先ほど見ていた、まあまあおもしろい娯楽映画にも漏れなくついてきた。

 どう考えても「本格スリラー」ではないし「歴史的サスペンス」の要素もあまりないのに、そういう壮大な惹句をつける。
 すると、それが「重荷」になってしまう。

 中規模の予算で、まあまあがんばっている映画に、この手のコピーが多い。
 業界の努力は理解するが、方向というか、感覚がズレていないだろうか。

 深く考えないで観るアクションとかホラーとか、そういう前提で観る分には楽しい。
 そこそこ楽しいのに「偉大」「傑作」「史上最高」と風呂敷を広げすぎるから、「それほどでもなくね?」となる。


 女優やアイドルのコピーでも、しばしば思う。
 そのコピーと顔面を並べて見た瞬間、彼女のことが嫌いになった私は、過剰反応かもしれないが。

 私は彼女がブスだとは思わないし、近所にいたらかわいい子だと認めただろう。
 が、それを売り出そうとしている事務所が、こんなことを言いだしたら、どうか。


 史上最高の美少女。
 歴史に残るヒロイン。
 3千年に一度の美貌。


 待てと。
 それは言いすぎだろう。

 ふつうに、そのへんにいたらかわいいな、と思える程度の子に、その惹句はおかしいだろ。
 事務所の人間、だれも気づかなかったのか?

 芸人が話す前に、これからすごくおもしろいことを言います! と宣言するに等しい。
 自殺行為だ。


 大事なことなのでもう一度言うが、そのへんにいたらふつうにかわいくて、貶す要素などほとんどない、かわいい子なのだ。
 が、事務所が変な売り文句を付け足すせいで、はあ? ブスだろ、と言いたくなる。

 ブスではない。
 かわいいのだが、事務所が「言うほどではない」という意味で、相対的に「かわいくない」「ブス」になる。


 売る側の人間はそう思っているんだよ、と強弁もできるが、そんな個人的感想を「公衆」に押しつけるのはどうか?
 だったら、ちゃんと「個人の感想です」と大きな文字で注釈を入れるべきではないか?

 いろんなところで、まちがった売り方が横行している。
 というか、それを「まちがっている」と思う時点で、私がマーケッターにとって「対象外」になっている事実を噛み締めればいい、という考え方もある。

 ハブられることには慣れているので、それはそれで納得はいく。
 むしろ私のほうが、世間からズレた存在になっている……と、言われてみれば否定はしづらい。

 しづらいが、冷静に見て「言い過ぎだろ」という表現は、巷にあふれている。
 これもまた事実だ。


 なにも考えずに観る娯楽作品としてはデキがいいのに、謎解きやサスペンスとして深く考えながら観たい人に対して売り込もうと、変に壮大なコピーを練るから反発される。
 ターゲッティングがまちがっているのだ。

 ふつうにかわいいだけの子に、史上最高美少女という看板をつけたらダメだ。
 彼女自身が損をする。

 ミステリーではなく、娯楽アクション。
 深く考えないで観てください、という売り方をすれば別の評価になった。


 私は映画を、総合芸術として見ている。
 キャスト、スタッフだけではなく、広告販売まで含めた評価だ。

 製作者にはなんの落ち度もない──たしかにそうだが、ふざけた広告を打つバイヤーを選んだ、という程度の責任はある。
 娯楽作品として作っているのに、本格推理として売るような詐欺商法を、臆面もなく繰り出せるタイプの「商人」に絡まれた不幸だ。

 アイドルを売り出すのも映画を作るのも、総合芸術だと思う。
 どこのパーツが「バカやらかし」ても、その人物、作品自体を損なう。

 みんなでつくる、という芸術の難しさを重く考えるべきだろう。
 とくに「商売」が絡むと、この手のリスクはいや増す。


 その点、趣味なら自由だ。
 他人を巻き込まず、自分だけが楽しんで書いていればいい。

 公開にはある程度のリスクも伴うが、詐欺商人ほど重くはない。
 気が向いた人に、負担にならない程度に読んでもらえればありがたい。

 孤独を楽しめる人には、ものを書くという作業は向いている。
 それを控えめに公開するくらいの自由は、あってもいいだろう。

 最後に、これだけは言える。
 読んでいただいて、ありがとうございました。
 


 コロナで社会がひずんできたな、と感じる。
 負担を受ける業界と、そうでない業界の差が大きいせいだろう。

 たとえば私は、とくに損失らしきものはこうむっていないわけだが、国がお金をくれるというのでもらっておいた。
 これは本来、より負担をこうむっている人々がもらったほうが公平かと思うが、日本は中国すら驚くほどの社会主義国なのでOKということらしい。

 意識が高いわけではない私は、一瞬だけ「もらわない」という選択肢を考えた。
 もちろん一瞬であり、もらえるものはもらっておいて、右から左に使うことで貢献しようと考えを改めた。

 ホームページで苦境を訴えている会社を中心に、ただちに2~30万ほど散財した。
 もらった以上にばらまいたので、一応、ひずみの是正に貢献はしていると思われる。


 持続化給付金詐欺とか、いろいろ横行しているらしい。
 もらう資格のない人間がもらったり、一部、焼け太っている業界もある。

 一律に恥ずべき連中だとは思わないが、そこでふと考えた。
 自分には、どこまで要求する資格があるだろう、と。

 全国で侃々諤々の議論がくりかえされている。
 コロナで苦しい業界にGoToしよう、いやまだ早すぎる、など。

 で、いわゆる社会的弱者の人が、GoToについて、冗談じゃないよ的に腐していた。
 生きるのに必死な人、彼女は戦場にいるらしい……。


 まず最初に感じたのは、左寄りのマスコミが使いたがる「弱者」利用だ。
 たとえば政権を批判するため、政策を腐すため、「看板」として利用される弱者の構図は、枚挙にいとまがない。

 世話をしてくれる身近な人たちに感謝しているとか、消毒がとても大変だとか、書いていること自体は、そうだろうなと思う。
 で、どういう議論につなげたいかというと、コロナが拡大すると自分のケアが脅かされるとか、GoToの予算をケア関係の人たちにまわせとか、要するにそういうことらしい。

 どこかに行くより、身近な人を大切にしてほしい、的なことを書かれていた。
 なかなかうまい言葉を使うと感心した。

 もちろんそうだろう、とくに否定はしないし、そう思う気持ちは理解する。
 彼女がどこにも行かず、あるいは行けないのは、彼女の自由だし勝手だ。


 が、あんた以外がどこかに行くのはべつにいいだろ、と思ってしまった私は心がせまいのだろうか。
 このひずんだ社会で、困っているのはあんただけじゃないんだから、と。

 もう一度言うが、この人の立場に立てば気持ちは理解できるし、否定するつもりはないのだ。
 にしても、自分がつらいから旅行業界もいっしょに死んでくれ、という流れまではどうかと思う。

 いや、おそらく当人にも、そんなつもりはないのだ。
 ただ政権と政策を批判したい人が、うまく利用しているだけのことだ。

 と考えると、いろいろ納得がいく。
 それがマスコミというものの性質だ。



 私は引きこもりのくせに旅人なので、旅行業界が残念な状況には、心を痛めている。
 最近は脳の調子が悪いので重度の引きこもりだが、マシになったら旅立ちたいとも思っている。

 どんな夢もかなうという、永遠の楽土を目指したい。
 その国の名は……。

 まあ、どこの国へ行くにも、マスクをつけないとたたかれる、というのは世界的なスタンダードになっているようだ。
 顔を隠すのはよろしくない、という欧米人の基本的態度さえ変更せしめたコロナの威力はすさまじいな、と思う。


 かつて、公共の場でグルカをかぶることを、フランス人が批判して問題になったことがあった。
 最近はマスクをしないと逆にたたかれる、みたいな風潮になっていて社会の変化も著しいと思うわけだが、原点に立ち返ろう。

 旅先では旅先のルールを受け入れる、というのは当然の態度かと思う。
 他人の家で自分ルールを押しつけるのは、まちがいだ。

 ネットで次のような記事を読んで思ったことを、取り上げたマスコミの思想を忖度しつつ、考えてみていただきたい。
 ちなみに、かなり脳内変換して意訳している。


 日本では1日5回の礼拝が難しいので、「公共の場に」もっと祈りの場を作ってもらいたい。
 祈りの時間になったら、私が祈る時間を「あなた方が」つくってほしい。

 あなた方の場所と時間を割譲してもらいたい、なぜなら、あなた方の社会に私たちが混ざった時点で、それは私たちのものだからだ。
 そこにイスラム教徒の暮らしやすい社会をつくってほしい、あなた方が努力して、私たちのために、と。


 ──こう書くと、たいへんおかしな人々に見える。
 まあ要求するのは勝手なのだが、これはたとえるなら、私が「うちの前に私専用の鉄道を敷いてもらいたい」という要求に近いような気がする。

 そこで気づいた。
 あくまで素人宗教研究家にすぎないが、いわゆる「信者」と「コロナ」はニアイコールなんだな、と。

 他人の家に踏み込んで自分の家みたいに改造しろと要求する権利がある、と思い込み、現にそれをやらかす連中。
 イスラームに限らず、あらゆる宗教が独自の世界を押し広げようという、原理的な衝動を持っている。

 その「信者」の暴挙、血みどろの歴史に辟易したフランス人が、長い時間をかけてようやく獲得したのが「政教分離」という思想である。
 しかしイスラームにとっては、両者は本質的に密接不可分のものなので、当然に軋轢が生じるわけだ。

 多かれ少なかれ、すべての宗教が「病気」のようなものだ。
 ただ、別の病気を癒すか、すくなくとも気にしないようにする効果はあるので、現在進行形で利活用されている。


 すべての問題の根源は、「自分(たち)は特別だ」と思ってしまう点にある。
 特別であれば、果てしなく要求する資格がある。

 「文明の衝突」を生まないためには、立場を入れ替えて考えられるかどうかだ。
 たとえば私がイスラームの国へ行って、公共の場に神社を建てろなどと要求したら、最悪の場合は逮捕される。

 自分たちがやるのはいいけど、相手がやるのは許さない。
 私はこれを「曹操病」と呼んでいる。

 自分たちにできないことを他人に要求する面の皮について、小一時間、考えてもらいたい。
 もちろん曹操は特別だから許される、などという話ではない。

 もっぱら社会学者の使いたがるロジックが、弱者とやらを甘やかす。
 それが「利権」なのだからしかたない、という話は以前もしたかもしれない。


 あなたは特別ではありません。
 あなた(たち)がしたことはされるし、あなた(たち)がしないことはしてもらえないのです。

 ──昨今の「みんな特別なオンリーワン」思想に毒された人々にとっては、ゾッとする言い回しかもしれない。
 これにゾッとしている時点で、ご自身がだいぶ「先制攻撃」側に立っている可能性は憂慮されたい。

 だれもが特別であると認めることと、だれも特別ではないと見なすことは、本質的には同じだ。
 気に入るほうの言い方を採用してもらえばよい。

 立場を入れ替えたとき、あなた(とその仲間たち)は、どうしますか?
 返ってきたブーメランを受け止める覚悟を決めましょう。


 さて、結論だ。
 私がこの議論で焦眉に置いたのは、上記のような記事を載せたマスコミの思惑は? という論点だった。

 彼らが「耳障りのいい主張」で、「批判」と「誘導」したい方向がどこか、各々ご想像されたい。
 ともかく彼らは、そうして生計を得ている。

 批判するつもりはない。
 私は、たいていのことについて「言う(書く)のは自由」だと思っている。

 むしろ、その自由を否定するような、いわゆる「言葉を狩る」人々を見るとげんなりする。
 書いたことの責任は負わなければならないが、私もここに好きなことを書いているので、それ自体を否定されると困る。

 それ自体の否定というのは、たとえば「両論併記を否定」するような人々のことだ。
 たとえば戦争とか憲法9条とかの話がわかりやすいが、ある左寄りの人が「毎日新聞は両論併記すべきではない(保守の意見は載せるな)」と表明されていて、ずいぶん追い詰められているんだな、と思ったものだ。

 その意見に反対なら、反対の意見を述べればよい。
 どちらの意見がまともかは、読んだ人が判断する。

 世界には、国民にそれを判断する能力はないから、すぐれた党が代わりに判断してあげる、という体制の国もあるようだ。
 そこへ行けば、かの左の人の夢もかなうのではないかな。


 もちろん個別具体的には難しい問題もある。
 この件については別途、掘り下げることもあるだろう。

 私はかなり「自由な側」に立つと思われるので、言葉の狩人たちとは激しい戦いになるかもしれない。
 あえて言っておけば、「狩る者は狩られる」べきだ。


 すべて自ら言ったことの「責任」の問題で、あとは丸め誤差の範囲だろう。
 たとえば文春砲など、まさに「桁違い」の影響力があるのだから、その破壊力については、相応の責任を追及されるべきだ。

 マスコミという「組織」の責任は、明らかに「個人」より大きい。
 その責任を負う限りにおいては、自由に書き散らしてよろしかろう。

 よく、炎上するような書き込みは、書き込む前に冷静になってそれを読み返しましょう、という態度が推奨されている。
 私も自ら読み直して、7秒ほど考え、書き込むと決めた。

 自分の影響力のなさを考えたうえで、確信犯の責任を負いたいと思う。
 この空しさが、狂った脳には心地よい……。
 


 私は、よく映画を観る人間らしい。
 最近、記録している映画のタイトルが3000を超えた。

 ここ数か月で一気に増えたのは、記録をはじめる前に見た覚えのある映画を発見した都度、あまり見直さずに追加しているためだ。
 シリーズものなど見つけてしまうと、一気に増える。

 考えてみれば十代から、観た映画のタイトルを書きこんでいたノートが数冊はあった。
 とっくに捨ててしまったが、その分を追加すればかなりの量になる。

 ざっくりとだが、控えめに見ても4000タイトルは超えているだろう。
 テレビで洋画劇場が盛んな時代、毎週、3~4タイトルはこなすことができたことを考えると、もっとずっと多い気はする。

 昔はタイトルと監督と主演と感想などなど、いろいろ書いていたのだが、いまはもうタイトルと製作年と国だけしか書いていない。
 私にとっての映画は、視聴した「記録」を積み重ねることにさしたる意味はなく、私の脳を「通過」すること、それ自体に意味があると考える。

 そもそもミニマリストにとって、コレクションはむしろ邪魔だ。
 場所を取らず、重さもない、記憶それ自体が価値なのだ……。

 しかし一応は中級のマニアとして、記録だけは残しておこうと思い、エクセルを立ち上げることにした。
 映画ワールド上級職の方々から見ればちゃちな記録だが、死ぬまでこっそりと書き綴っていこうと思う。


 さて、一口に3000タイトルといっても、なかなか伝わりづらいかもしれない。
 インドが年間に製作する映画が、約2000本らしい(?)。

 1作2時間として、6000時間。
 24時間で割ると250日。

 と考えると、115日だけ寝かせてもらえば、およそ1年で見終わる計算だ。
 もちろんそんな見方はしていないわけだが、まともな社会生活を送る前提でも、30年もあれば足りるだろう(3日に1本くらいなら観られない数ではない)。

 それに、私の見方はかなり特殊なので、それほど時間はかからない。
 基本PC動画で見るので、ふつうは倍速再生。よほどの名作でも1.5倍速だ。

 お約束シーンのスキップも多用するので、2時間超えの日本映画でも、30分くらいで見終えることもある。
 みなさんもお試し願いたいが、倍速は脳トレにもなるのだ。


 で、一部の日本映画に言いたい。
 だらだらしすぎ。

 10秒スキップを何度か押しながら、思う。
 まだやってんのかよ……。

 映画の本場アメリカも、もちろんお約束シーンのオンパレードだ。
 あきれるほど「またかよ」な作りだが、感心する点もいくつかある。

 お約束シーンの短さだ。
 たとえば、どこの映画も大好きな、濡れ場。

 男と女が出会ったら、セックスしなきゃいけないルールでもあるらしい。
 またムチョムチョやってんのかよ、と思いながらため息交じりにスキップする。

 一概には言えないが、アメリカはスキップ3回で、だいたい次のシーンに移る。
 日本映画は、6回スキップしても、まだやってることがある。

 長い……。
 話はちっとも進まないくせに、お約束のシーンがやたら長い。

 そこ、長回しで撮る必然あるか?
 編集という言葉の意味を、理解しているか?

 だから平気で2時間を超える。
 彼らがそういう作り方を好むのはしかたないが、それが大衆受けを妨げている一因ではあるまいか?

 大衆のひとりである私は、もちろんそんな時間の無駄に付き合うつもりはない。
 スキップに割り当てたキーがすり減るだけの話だ。


 もちろん理解している。
 彼らは大衆受けなど望んでいない。

 自分たちを支持してくれる、一部のマニアにだけ受ければいい。
 そういう合格点を設定している人々にとっては、好きに作ることこそが至上命題だ。

 私が、好きに書いているのと似ている。
 だから、日本の(一部の)映画監督たちに、ああしろこうしろ言うつもりはない。

 ただ事実として、私の価値観とはズレている。
 多少のズレは、よくあることだ。お互い自由にやりましょう。

 この手に倍速とスキップさえあれば、いかなる日本映画も受け入れる覚悟がある。
 ……と言いたいところだが、どうしても耐えられず前半でギブアップ(ブラウザバック)した映画が、けっこうある。

 残念ながら、日本映画だ。
 それも、少女漫画原作。

 あれだけは無理でした。
 すいません……。


 そんなわけで、数はこなしている。
 基本は好きなのだ、映画が。

 しかし、たまに映画館で見るときも、思わず10秒スキップ用のテンキーを探してしまうことがある。
 どんなに好きでも、時間は貴重だ。

 スキップの必要がない映画を見つけること。
 それが私の人生の目標になっている……。

 

 

 世界でコロナが拡大しているらしい。

 とくにアメリカ、ブラジル、インドあたりが著しい増加ということだ。

 

 国民性が出ているな、と感じた。

 

 人口が多いから感染者が多い、というのは理解できる。

 人口比で、明らかに少ないのが東アジアから東南アジアだ。

 

 わかりやすいのが、民主的なインドと、独裁的な中国の対比だろう。

 両国は同じくらいの人口だが、感染者数が大きく異なる。

 

 不自然なほど感染者数が横ばいの中国は、情報統制や検査数などの問題はあるにしろ、一応は封じ込めに成功したとみてよい。

 一方、坂道を転げ上がる(?)感染者グラフを持つインドは、もはや集団免疫戦略に転じる以外にないかもしれない。

 

 インドはイギリスの影響が強く民主主義の根付いた国だが、その民族性との兼ね合いによって、民主主義の悪い面が盛大に開花した国でもある。

 インド人とビジネスをするのは、ほんとうに大変らしい。

 

 彼らは自分のペースで動き、他人の言うことを聞かない。

 民主的というのは、自己主張した者が勝ちだからだ。

 

 

 アメリカのモンスター系パニック映画を見ていた。

 そこで非常にわかりやすい例を見つけたので、紹介しておこう。

 

 主人公である素人の女と、案内人である専門家の会話。

 周りにはモンスターがいて、不気味な気配が近づいている。

 

案内人「静かに(小声)!」

女「なんなの(普通声)!?」

 

案内人「静かに(イラついた小声)!」

女「あれは何(やや大声)!?」

 

案内人「静かに(必死の小声)!」

女「どうなってるの(大声)!?」

 

 外人は、ほんと人の言うこと聞かないんだな、と思った。

 危ないから黙ってろ、と言われて悲鳴をあげる外人女を見ながら、さすがは自由の国と感心した。

 

 

 一方、とくに東アジアの人々は、人の言うことをアホみたいに聞くようだ。

 その場で待機してください、と言われて船とともに沈んだ高校生たちもいた。

 

 善し悪しだ。

 

 言うことを聞く人が多いと、全体としては秩序立って見えるが、危機的な状況では船ごと全滅するリスクがある。

 言うことを聞かない人が多いと、全体としては混沌としてくるが、危機に際してはその一部が生き残る可能性が高い。

 

 

 さて、かの隣国では、共産党が愚かな民衆を率いていく、という体制でやっていくつもりらしい。

 八紘一宇、一蓮托生の国家運営には、良い面もあるし、もちろん悪い面も多いだろう。

 

 現にその体制で動いている国なので、好きにすればいいとは思うが、そうとばかりも言っていられないのが安全保障だ。

 私は、歴史上ほとんど常に加害者であった欧米がきらいだが、だからといって中国の側にも立てない。

 

 すでに満足のいく領土、利権をぶんどっている先進国にとってのデフォルトは現状維持だし、後発の国にとってのデフォルトは拡大利権、一帯一路となる。

 環境問題も似ているが、双方の立場が完全に異なるので噛み合うわけがない。

 

 中国に共感できない最大の理由は、彼らにとってのデフォルトが拡大、つまり「こんどは俺たちがぶんどる番」という基本戦略のためだ。

 当然、ぶんどられるわけにはいかない他国との軋轢は、不可避となる。

 

 

 落としどころを探るのは、多少はマシな政治家と頭のいい外交官たちに任せておこう。

 私は私の個人的な価値基準をもって、世界の動きを判断したい。

 

 私が欧米を認めるほとんど唯一の理由は、宇宙を切り開いたことだ。

 彼らは罪深い人々だが、誇るべき実績も残している。

 

 自然科学の先端分野を切り開いた量に応じて、その国の罪を許すべきだというのが、私の偏った判断基準である。

 よって、もし中国の宇宙開発が人類の限界を超えていくなら、共産党を応援してもいいくらいだ。

 

 考えてみればソ連の昔から、共産党と宇宙は親和性の高い組み合わせだった。

 もちろん共産党を含め、中国大陸を支配した王朝がそれほど長くはつづかないにしろ、ある程度の成果は残していってくれないとさみしい。

 

 『三体』の国である。

 登場人物も、自国の壮大な内ゲバには絶望していたが……やればできる、と思う。

 

 

 

 

 

 ストロング系、というお酒がある。

 お安いチューハイで、非常にコスパが高い。

 

 私もかつて、アル中になろうと試みたとき、大量に買い込んだことがある。

 毎日500ml缶3本以上のペースで呑んでいると、たしかに生活も体調も乱れるだろう。

 

 昔は、アル中御用達といえば、俺とおまえと大五郎だったわけだが、時代は変わった。

 ストロングのロング缶で、ロングロングアゴーが、ナウなヤングのモーレツ・ドランカースタイルだ。

 

 生まれる前に戻って生まれ直したい、むしろ生まれてこなかったことにしてほしい。

 死ぬのさえ厄介で、めんどくさい。

 

 そんな気分に陥るタイプは、ロング缶はフェイタルブロウだ。

 あまりにも依存症を増やしやすく有害ということで、撤退する酒造会社すら現れて話題になった。

 

 売れる商品を作るか、顧客の健康を考えるか。

 そんな議論もされていたが、そもそも酒を売っている時点で……という気はする。

 

 

 なにを、どう呑むか。

 決めるのは客自身であって、結果的に破滅したら自己責任だ、というのが一般的な考え方だと思う。

 

 いや社会のせいである、自己責任で片付けてはいけない……という、飽き飽きする議論を、ここで蒸し返すつもりはない。

 社会学者や精神科医は、それで飯を食っているのだから、そう言うだろう。

 

 だからこそ、酒を売って飯を食っている酒造会社が、健康云々を言い出したのを見て欺瞞を覚えた。

 安く酔われては都合が悪い、薄い酒を大量に買ってもらったほうが儲かる、という意味かなと穿ってみたくもなる。

 

 

 私は他人に命令されるのが極端にキライなタイプなので、自分で決められることのすべてを自分で決めて生きてきた。

 結果として自己責任しか残っていないわけだが、これを「他人のせいにしたがる」とどうなるか、思考実験を試みた。

 

 私が田舎で逼塞しているのは、世間の見る目がないせいだ。

 私は適切な評価を受けていない、社会から搾取されている、私をちやほやしない社会に対して、復讐しなければならない。

 

 ……書きながら寒気を覚えた。

 こういう思考を突き詰めていくことで、ガソリンをもってどこぞの会社にカチコミをかける勢いが増すのだろう。

 

 

 残念ながら、この手のタイプを甘やかす人々は、けっこうな数で実在する。

 けっして多数派ではないと思いたいが、それにしては声が大きいようにも思われる。

 

 彼らを甘やかすことで仕事が増える人々には申し訳ないが、それに慰められる方々も含めて、私としては異世界線の住人という感じを受ける。

 もちろん彼らの考え方を理解したうえで、同意できないという意味だ。

 

 心理学という疑似科学の話や、精神科医が「病(=仕事)」を増やす手練手管については、前にも書いた。

 彼らのやりたいこと、目指す社会像について同意できる部分は少なからずあっても、その論法には断固として承服しかねる。

 

 酒やたばこ、麻薬さえも自己責任だ、フリーダム!

 と、そこまで言ってしまうのもどうかとは思うが、現状の自己責任論はまだゆるいほうだ、というのが私の考えだ。

 

 できることをできるだけ、やりたいようにやらせてくれる社会が望ましい。

 日本は、そういう体制を選んだはずだ(選んでいない、押しつけられた、という考え方もある)。

 

 

 もちろんこの「自由」というやつは、たいへんな問題をはらんでいる。

 その最大の問題は、自分の自由が、しばしば他人の自由とぶつかることだろう。

 

 それを解決するため、ヨーロッパの哲学者たちによって250年ほど前に考え出された答えが「自由の相互承認の原理」である。

 宗教の差、人種の差、民族の差によって、虐殺や奴隷化がくりかえされてきた歴史に対する反省から生み出された、悪くないアイデアだ。

 

 自由に生きることは、人類にとって不可欠であり最重要だが、その権利を主張するには非常な責任が伴う。

 責任を放棄するなら、権利もない。

 

 好き勝手に生きていれば、他人の自由とぶつかることは多くなる。

 その場合に、どう行動するか。

 

 われわれは全員、他者の自由を侵害しない限り、自由に生きることができる。

 相手の自由を尊重する限りにおいて、自分も尊重される。

 

 そしてもちろん、古来からある鉄壁の原理原則の通り、害したら害される。

 あまりにも当然の話で、議論の余地がない、と私などは思う。

 

 議論をしたがるのは、自分は特別なので特別扱いをしろ、という人々だろう。

 結果、そういうタイプの人は最初から自由を制限されるべきだ、ということにもなりかねないので、彼ら自身にとっても基本は自己責任にしておいたほうがよいと思う。

 

 

 最後に、とくに関係ないが、大好きな宇宙に結びつけて、いい言葉を紹介しておこう。

 アメリカの天文学者にしてSF作家の大家が語った、非常に重要な真実だ。

 

「信じることにコミットする」

カール・セーガン

 

 宇宙人を信じることはそれぞれの自由だが、じゅうぶんな意志を持って貫かなければならない。

 結果にコミットする、という有名な宣伝に通じるかはともかく、それが「おとなになる」ということだと思う。

 

 私もできるだけ強くあろうとしているが、ほんとうに強い人に比べれば、足元にも及んでいない。

 彼らは、まさに桁外れの意志の力で、たぶん世界を変えていく。

 

 その力強い目から見れば、私ごとき「惰弱の徒」が、なにをえらそうに、だろう。

 汗顔の至り、もって瞑すべし……。

 

 

 以前、オークションの話をした。

 変な人に引っかかってしばらくやめていたが、最近、すこしだけ再開した。

 

 使わなくなった動画再生用のNUCを売ろうと思ったのだが、そこで驚いた。

 なんと、2年以上前に買ったNUC(2万円くらい)が、ほとんど値下がりせずに売られていたのだ。

 

 たぶん当時、発売したばかりくらいのベアボーンPC。

 同じものを2台買って、1台は動画再生とチャート表示専用と割り切って、動かしっぱなしにしていた。

 

 もう一台は、スペック的には頼りないが、どうせ文章執筆という最低限の性能しか使わない仕事だから、という考えでメインに採用した。

 それまでのi5のノートより性能的には劣るのだが、言い換えればそれほどの性能が必要ないことに気づいたのだった。

 

 ベアボーンなので、SSDやメモリは別に買う必要があるが、それでもPC2台仕上げるのに5万程度。

 これで2年使えれば十分すぎる。

 

 

 とはいえメインに、なんとなく不足を覚えてきた。

 値段がこなれてきた型遅れの(やや)高性能な機種に買い替えることにして、必要なくなったNUCを売ろうと検索をかけた。

 

 そこで、まったく同じ型番、同じスペックのNUCが、ほぼ同じ値段で見つかったのだった。

 いや、なんならちょっと値上がりさえしている。

 

 ……驚いた。

 2年以上前のPCなのに……?

 

 なんと、底辺(に近いが必要十分)のスペックを持ったPCは、性能上昇とか値下がりどころか、性能据え置き、値上がりの体たらくだった。

 実際4K動画を処理できるスペックなら、3Dゲーム以外の用途で不足を感じることは、ほぼない。

 

 仮想通貨のマイニングをするとか、動画編集をするとか、3Dを使った作業をするとか、そういうヘビーな使い方をする人は、そもそもこのレベルの機種に見向きもしない。

 そういう人は、最初からそういう機種を買う。

 

 私のように、昔の名前で出ています、という程度の人にじゅうぶんな性能が、おそらく2年前のこの機種だったのだろう。

 必要最低限の性能は高止まりしている、ということか。

 

 では、それなりの性能の機種はどうか?

 マイニングに使えるグラボ搭載機とかは、でたらめに高いようだ。

 

 もちろん私は、私に必要な性能と価格の最適化を目指している。

 というわけで、かなり使い倒したにもかかわらず、ほとんど値下がりせずに売り払うことができた。

 

 

 セレロンで十分な私だが、お金(というかpaypay)が入ったので、新しめのi5に切り替えた。

 私専用、速度は3倍だ。

 

 デフォルトでトリプルモニターが使える。

 発売当時の価格ではコスパがいいとは言えないが、価格もこなれて満足な買い物ができた。

 

 ベアボーンの価格は、ほぼCPUの価格を意味する。

 CPUのグレードだけで、価格は数倍から十倍以上にもなる。

 

 ゲームもマイニングもやらない人間に必要とも思えないが、たまにはいいだろう。

 ──と、考えて買ってはみたが、ちょっと後悔している。

 

 いや、考え自体はまちがっていないと思うが、生活のなかで使わない、という事実はいかんともしがたい。

 オーバースペックを買ってしまったことで、私はしばらく恥ずかしさを感じた。

 

 セレロンで十分ですよお……。

 

 

 さて、そんなわけでオークションを再開したわけだが、あまり儲けるつもりはないので、基本的には安く出品している。

 が、安すぎる価格設定はしていない。

 

 たとえば1万円の品物を、1000円や2000円で売ることはしない。

 べつに売ってもいいのだが、それが「本当に必要な人に届く」可能性は、残念ながら低いからだ。

 

 いわゆる「転売ヤー」には、ほんとうに嫌気がさす。

 1000円で仕入れて1万円で売る、それこそ「せどり」の理想とするところだろう。

 

 私も被害(?)に遭った。

 私が5000円で売ったカーナビが、しばらくして14980円で売られていたのだ。

 

 そもそも値付けに腹が立つ。

 980円という価格には、ウマとシカを狙い撃ちにしています、という主張しか感じとれない。

 

 1ドルを切る価格という意味を込めて、アメリカではじめられたらしい99セント的な値付け。

 心理的に安く感じさせられるため、引っかかる素朴な人間が多かったらしい。

 

 もちろん商人とは、できるだけ先にだまされやすい正直者からだましていこう、という考え方で生きている。

 彼らに特有の心理学は、マーケティングの部署はもちろん、学校でも教えられているのだから気が滅入る。

 

 昨今の「送料無料」論争もそうだが、言葉の使い方があざとい。

 私が厳しすぎるのかもしれないが……。

 

 

 それはともかく、転売ヤーだ。

 きゃつらに儲けさせるくらいなら、自分が損をしても商品をドブに捨てたほうがましだ、と思うタイプの人間である。

 

 私が届けたいのは、必要としている人なのだ。

 ちゃんと使ってもらえるなら、もっと安くても売りたい。

 

 が、さすがにネットでは、相手が使うかどうかまではわからない。

 そこで、たとえば1万円くらいで売れる商品なら、だいたい7~8000円くらいの値付けをするようにした。

 

 こうすると、手数料や送料などを引くと、転売してもほぼ利益は見込めない。

 必要な人が安く手に入れられ、私もそこそこ儲かり、邪悪な商人の付け入るスキがない。

 

 そういう価格設定のできる出品者に、私はなりたい。

 

 

 私はよくネットで「すごろく」をやるのだが、先ほど発生した事象をもとに、こんなことを考えた。

 

 「6」が出てほしい、と願ってサイコロを振ったときに6が出る確率。

 「2」以外ならなんでもいいよ、と思って振ったサイコロで2が出る確率。

 

 両者は同じはずなのだが、なぜか後者の確率のほうが、はるかに大きい気がする。

 まさに、さっきも「2」が出て思わず笑ってしまったのだが、これはもちろん心理学的な理由である。

 

 確率とか統計の話ではない。

 エセ科学として有名な、これは心理学だ。

 

 予想通りのベストなケースより、予想されたうちワーストのケースのほうが、心に強く刻まれるため、よくあると思い込んでしまう。

 いわゆる「マーフィーの法則」というやつだ。

 

 あるある、と多くの人が同意する(が再現性はない)。

 ということは、それは心理学ということになる。

 

 

 心理学は、疑似科学だ。

 私も昔、心理学の本など読んで、人間についてわかったつもりになったものだが、ぶっちゃけ「科学的」という表現は向かない。

 

 しばしば宗教に近接する概念で、悪用されやすい傾向もある。

 商人どもが用いる詐術のような売り方も、往々にして心理学に基づいている。

 

 臨床心理学とか、ユングとか、フロイトとか、科学的と思われているようでも、じつはそうでもない。

 実験そのものができず、あるいは主観的で定量化できない。

 

 科学というよりは哲学、宗教の側面が強いといってよい。

 文系と理系の中間地点のような分野が、心理学ということなのかもしれない。

 

 

 主観や偶然性は支配できない。

 そこに心理学が絡むと、人間はどう行動するか。

 

 すごくいやなことを思い出したので、ついでに記録しておこう。

 ──私が小学校低学年の頃の話だ。

 

 

 連休で祖母の家に帰省したとき、近所の家の子どもたちと遊んだ。

 で、向かいの家の女の子、たぶん小学校の高学年くらいだと思うが、その子とオセロゲームをやった。

 

 低学年とはいえ、私は頭がそこそこよかったので、オセロもそれなりに強かった。

 で、どうやら勝ちそうな流れである。

 

 するとその女の子、突然、裏返せない石まで裏返しはじめた。

 ポカーンとしている私に対して、彼女は言った。

 

「挟んで裏返った石で挟まれた石も裏返せる」

 

 ……おわかりいただけただろうか?

 私は目の前でそれをされたのですぐ理解したが、言葉で説明しようとすると、すこし厄介だ。

 

 自分が置いた石で挟んで裏返す、そこまではいい。

 そのとき「裏返った石で挟まれた石も、同じターン内で裏返せる」というのだ。

 

 ゲームの途中から突然、採用された独特なルール。

 しかも彼女の側にだけ。

 

 もちろん私は、そんなルール見たことも聞いたこともないので、自分の番になっても、本来裏返せる石しか裏返せない。

 しかし彼女の番になると、裏返った石に挟まれた石も裏返せる、という新ルールによってバラバラと裏返っていく。

 

 結局、圧倒的に負けたわけだが……負けたのか?

 私は彼女に負けたのか?

 

 

 このことを思い出すと、不条理という言葉の意味を噛み締めずにはいられない。

 いま思えば、こちらも同じ方法で裏返してやればよかったのだが、当時の私は、自分が信じるルールが正しいと思っており(いや正しいのだが)、まちがったルールに則って行動することを潔しとしなかった。

 

 非常に悔やまれるが、いまでも正解がわからない。

 ああいう行動をとる小学校高学年の女子に対して、低学年男子は、いったいどのように対処すればよかったのだろうか?

 

 

 子どものころの話でしょ、いい思い出じゃない。

 と、さわやかな笑顔で言える性格の人は良い。

 

 私は、そういう性格ではない。

 やられたらやり返す、倍返しをするのだ。

 

 つまり私は、いつか彼女を探し出して2回、負かさなければならないのだが、どうしたらいいのかが難しい。

 見つける困難より、その方法だ。

 

 負けること自体は、しかたないと思う。

 相手のほうが強くて、自分のほうが弱かった、それで負けるなら、もう全身全霊で認める。

 

 相手がルールを守っている以上、こちらもルールを守る。

 そして相手より強くなればいい。

 

 もし能力が足りなければ、そのとき、はじめてあきらめる。

 相手のほうが強かったと認めることで、残念な記憶として残りはするが、弱くて負けた以上、自分に対してはふがいないという感情、相手に対しては敬意しかない。

 

 だが、彼女の場合はちがう。

 私は負けたのだが、どうしても負けたと思えない。

 

 

 社会に出れば、不条理なことなんていくらでもある、幼いころに体験できてよかったじゃない、という意見もあろう。

 なるほど、いや許せん。

 

 そういう性格の人が生きていきやすい社会というのは、この世のどこかにあるだろうか。

 そこへ行けばどんな夢もかなわなくてもいいが、せめて旅立ってみたいものだ……。

 

 

 きょうは、いつにも増して、どうでもいい話を書こうと思う。

 とても暇な人だけ読んでほしい。

 

 

 私はあまり腕時計をつけない。

 軽装を好むからだが、たまに儀礼的につけてみることもある。

 

 最近のお気に入りは、木製のアナログ腕時計だ。

 どこが気に入っているか。

 

 材質とか、肌触りとか、おしゃれだとか、国産ムーブメントとか、そういうことを抜きにして、いちばん気に入っているところを申し上げよう。

 

 時刻がわからない、というところだ。

 

 動かない木製のおもちゃ、ではない。

 ムーブメントがついているので、一応、動く。

 

 木製のフタはネジで止めてあり、精密ドライバーで簡単に取り外せる。

 ふつうの腕時計とちがって、電池交換が楽なのがお財布にやさしい。

 

 では、壊れているのか?

 いや、正確に時を刻む。

 

 では、なぜ時刻がわからないのか?

 正確に言えば、わかることはわかる。限られた条件下で、だ。

 

 

 結論から言えば、この時計、時刻が非常に読みづらい。状況によっては、ほぼ読めない。

 その理由は、文字盤と針の色が同じだからだ。

 

 ほぼ黒に近い茶色の背景に、針は漆黒。

 これがまた、恐ろしいくらい見えない。

 

 秒針が動いているのはわかるのだが、よほどうまいこと光を反射させないと、止まっている針は背景に埋没する。

 判読には斜めからの光源が不可欠だ。

 

 炎天下であれば見える(それでも見づらい)のだが、インドア派の私にはハードルが高い。

 薄暗いところや間接照明では、もう時刻を読むことをあきらめる。

 

 当然、急いでいるときにパッとみて時刻を知る、などという用途にまったく適さない。

 おかげで昔の人は時を知るのに苦労したことだろうな、と思いを馳せることができる。

 

 そんなバカな時計はもう販売中止だろうと思って、アマゾンで件の商品の関連プロダクトを調べたところ、黒い文字盤に黒い針、という時計はたまに見かける。

 需要があるということは、一部の好事家には好まれる、という意味なのだろう。

 

 

 腕時計は一般に、視認性やデザイン性のため、文字盤と針の色を変えるものだ。

 同じ色を採用するにしても、視認性を確保するために模様やワンポイントなどの工夫を入れる。

 

 しかし私が所有する時計に、そのような工夫はない。

 同じ模様は二度とない木製であり、その色合いは木によって微妙に異なるわけだが、うちの個体はほぼ黒く、しかもその木目が針をカムフラージュするから困ったものだ。

 

 届いた当初、あまりにも見えなくて返品クレームを入れかけたが、考え直した。

 いまでは、この時計、たいへん気に入っている。

 

 考えてみれば、私は時計など見ない。

 よって、べつに見えなくてもいい。

 

 コペルニクス的転回だ。

 負け惜しみではない。

 

 

 

 そもそも、時間に追われるということが苦手だ。

 自分のペースで生きていきたい。

 

 しかし約束は守らなければならないし、時間がテキトーな社会は混乱するだろう、ということくらいは理解している。

 よって他人との約束は守るし、約束を破る人間とは付き合わないことにしている。

 

 結果的に、人間関係が希薄になる。

 多かれ少なかれ互いに拘束される相手と付き合うことが、負担だからだ。

 

 当然、女の子と付き合えない。

 まあ、そのへんはもういいのだが。

 

 

 縛られるのが苦手なのに時計を買うという行為はアンビバレンツなようだが、自らの意思でその縛りから逃れていると考えると心地よい。

 というわけで、ちょっと前に壁掛け時計を買った。

 

 この時計が、私の想定の斜め上を行った。

 非常にテキトーな時間を指してくれるのだ。

 

 アマゾンで1000円弱で買った、聞いたこともないメーカーの時計。

 パソコンで計測したところ、およそ1日で1分ほど遅れるようだと判明した。

 

 クオーツの月誤差は一般に、±30秒である。

 この計算だと、うちの呑気な時計くんは、月誤差30分ということになる。

 

 さすがに困ったものなので、電波時計を買おうかと思ったが、田舎すぎて電波が入らないと困る(笑)。

 で、カシオのクオーツに買い替えた。

 

 こいつが、早い。

 都会からやってきたカシオ氏、だいぶ生き急いでいる。

 

 さすがに1日1分はズレないが、買ったときにぴったり合わせたはずなのに、数日で、すでに30秒ほど早い。

 月誤差の範囲内なのでなんとも言えないが、やはり電波時計を買ったほうがいいのかもしれない。

 

 

 田舎なので(?)、時間に正確である必要は、あまりない。

 たとえば沖縄に沖縄時間というものがあように、田舎には田舎のルールがある。

 

 沖縄では、約束が10時なら、午前中に着けば約束通りだ。

 田舎では、太陽が沈んだら寝るのだ。

 

 ……もちろん冗談だが、都会に比べれば、そういうゆるさはあると思う。

 自分のペースで仕事をしたい、という気持ちはわからないでもない。

 

 にしても、時計までゆるくなるのは田舎のせいだろうか。

 理由を究明することにした。

 

 

 はっきりとはしないが、おそらく充電池のせいだ。

 古いからなのかどうか、出力が不安定になっていた可能性がある。

 

 100均の乾電池に変えたところ、ピタリと平均月差20秒のレートを守ってくれるようになった。

 意外にあっさり、いい仕事をするようになってしまった時計。

 

 おまえも、あちら側の存在に成り上がってしまったんだな。

 一抹の寂しさを覚えつつ、私は時間に縛られないこちら側で、まったりと生きていきたいと思う。