私は物事に熱中するタイプだった。

 じゅうぶんな才能と有用な方向性である限り、これは非常なアドバンテージになる。

 

 数学が好きで、才能があれば、ABC問題だって解くだろう。

 将棋が好きで、才能があれば……言うまでもない。

 

 残念ながら、私には才能が欠けていた。

 というわけで現状のような体たらくとなっているわけだが、幸いにも他人に迷惑をかけるような負の側面はなかったので、社会的には許してもらえると思う。

 

 部屋で静かに本を読んだり文章を書いたりしている分には、だれも傷つけようがない。

 いい趣味で助かった。

 

 

 しかし残念ながら世の中、そういう人ばかりではない。

 物事に熱中するタイプは、良い側面もあるが、悪い側面もかなり多いことを認めなければならないだろう。

 

 たとえばゲーム。

 熱中するのは良いのだが、それ以外の要素がスコーンと抜けてしまうと、社会人としてどうかという生活に陥ったりもする。

 

 最近、コロナで引きこもり生活が長引いて、ゲーム依存が増えているという。

 その集中力を別のところに生かせばいいのに、と思う。

 

 子どもの集中力は、とくに恐ろしい。

 自分でも高校時代、一週間ほとんど寝ずにゲームをしていたことがあったが、いま思うと逆に感心したりもする。

 

 ときどきスマホで地理のゲームをやったりする現在、1時間どころか15分で疲れてしまう。

 人生も折り返しを過ぎると、もう集中力がもたない。

 

 年はとりたくないものだ。

 昔の自分に、この貧弱な集中力を分けてやりたい。

 

 当然、ゲームばっかりしていると怒られる。

 が、いまの時代、プロゲーマーという道も開けているので、必ずしも否定ばかりできないのが難しいところだ。

 

 

 とくに趣味の世界で、異常な執着を示すタイプは、危険だ。

 自分はもちろん、他人も巻き込むようになってくると、これは笑っていられない。

 

 代表格の例を挙げよう。

 撮り鉄だ。

 

 撮り鉄の言動でいちばん笑ったのが、仕事をしている駅員に対して「邪魔だよ!」と叫んでいる動画だ。

 駅員が写り込むのは許せない、電車だけ撮らせろ、ということらしい。

 

 私は駅の側の事情も、撮り鉄の側の事情も、それほど詳しくは知らない。

 が、すくなくとも次の2点は理解している。

 

 「仕事」をしている駅員。

 そして「趣味」の撮り鉄。

 

 これ以上、説明する言葉も必要もないだろう。

 邪魔て……。

 

 全国各地からツッコミの声が起こったことは言うまでもないが、当人は、たぶん本気で言っている。

 だからこそ笑えるのだろうと思う。

 

 写真を撮りたいので少しどいてくださいと「お願い」するのさえ、おかしい。

 それが、仕事をしている駅員に、どけと「命令」するのだ……。

 

 ここだけ切り取られると、撮り鉄は頭がおかしい、と見える。

 あえて暴言を吐かせてもらえば、たしかに彼は「バカ」だ。

 

 

 バカだからこそ、おもしろい。

 撮り鉄が全国で無双をするエピソードは、読んでいて(ある意味)じつに爽快だ。

 

 最初から悪役として切り取られることに違和感もあるが、事実なので致し方ない。

 好意的に取り扱う方法を模索したいところだが……。

 

 そもそも「カメラ」という趣味そのものが、自分の世界に入りやすい危険な代物だ。

 そこに「鉄道」という危険物が加わるのだから、危険度は倍どころではない。

 

 植物とか自然写真なら、周囲にはあまり人がいない。

 比較的安全だ。

 

 しかし、「公共交通機関」だ。

 非常に多くの人間が利用する……もう危険のにおいしかしない。

 

 あえて擁護するなら、これだけ危険要素が積み重なっているにしては、撮り鉄の被害はまあまあ少ないほうじゃないかな、がんばってるんじゃないかな、といったところか。

 撮り鉄の方々には、相応の努力を惜しまずに共存していただきたいと思う。

 

 が、おとなしすぎると、それはそれで退屈だ。

 そろそろ炎上ネタを投下してもらえると、応援しがいもある。

 

 

 機関車を撮るためなら「死」も厭わない。

 あの狂気の撮り鉄っぷりを、どこぞの新駅あたりで発揮するツワモノはおるまいか。

 

 いや、まあ冗談ですがね……。

 


 コロナとやらのおかげで、人の生き死にをまじめに考えざるを得なくなった。
 と、お嘆きの皆さん。

 安心してください。
 死ぬなんて、たいしたことじゃないですよ。


 こんなことを書くと、すごく怒られるのが現代社会だ。
 暴言とか妄言とか自粛とか炎上とか、みんなストレスたまってるんだな、と思う。

 もちろん私も、ふざけて死を軽んじているわけでは毛頭ない。
 人体という機械の機能停止については、非常に多くの付随的反応と影響がもたらされることを認識している。

 人の機能があまり死なないように、社会の機能を殺しましょう。
 そんなムーブメントでここ数か月やってきたようだが、そろそろ飽きてきた人も多いのではないかな。

 予防できるならするに越したことはない。
 なるほどその通りだが、せめて死にゆく人くらい安らかに逝かせられんものか。

 たとえばエクモ(体外式膜型人工肺)とかいう生き地獄マシン。
 志村さんが苦しかったかどうかはわからないが、その周囲の人はどう思っていたのだろう。

 希望に満ちていたのか、それとも同じように苦しんだのか?
 私なら、苦しくてやっていられない。


 かつて、人間が倒れたら、それは死を意味した。
 しかし50年ほど前から、そうではないということが世間の人々に浸透してきた。

 その手のドラマやマンガなどの影響が強いだろう。
 医者はヒーローで、死にかけた人を助ける神にも等しい存在に祭り上げられた。

 そこまでできなくとも、もし人を助けられる機会に恵まれたら、一生懸命努力しよう、というのがポリティカル・コレクトネスとなった。
 ポリコレ……政治的な正しさ、みたいな感じか。


 たとえば87歳の老女が、自然に死ぬことを希望していて、それを知っていた周囲が、倒れた彼女にCPR(心肺蘇生法)を施さなかったとする。
 良かれと思って、だ。私でもそうする。

 ところが事実、この人々は世間から猛烈に非難された。
 アメリカで起こった事態だが、倒れた人を見つけた周囲の人は、その人を助ける「倫理的義務がある」というのだ。

 たしかに、救急救命に貢献している人々は数多く、その行為は崇高で、助かる命が助かるという、だれも損をしない取引であるように見える。
 だが、果たしてそうだろうか?

 CPRは必ずしも成功するわけではない。
 もしそれに失敗したとき、実施に当たった人は取り返しのつかない負債を引き受けなければならない「倫理的必然」がある。

 また、もし成功したとして、その後の人生が順風満帆であるとは限らない。
 数分間の脳活動の停止でも、後遺症は免れない。それが、その後の人生を不幸なものにしないと、だれが保証できるのか。

 静かに死にたい人を、静かに死なせてやる。
 かつては当然だった倫理が、いまや別の倫理に書き換わってしまった。

 これは、あるべき時代の変遷といえるか?


 私は宗教を研究しているので、人の生き死にの問題については、よく考える。
 医療についてもだいぶ勉強した。

 知り合いの看護婦に、誇りをもって自らを「看護婦」と呼ぶべきだよ、と提言したことがある。
 ナイチンゲールの昔から尊敬を集めていた看護婦なのだから、その呼び方には女優と同じくらいプライドを持つべきだと、看護白書にも書いてあったよ、と。

 気持ち悪いものを見る目で見られたが、ともかくポリコレ的には、看護師と呼ぶのが正しいことになっている。
 それが男女平等ということなのだ、と。

 世間の人々が正しいと決めるのは、まあ世間の人々の自由なのだが、それと異なる考えを持つ自由も当然、私にはある。
 ときどきやらかすタイプである私の発言を「ヘイトスピーチ」として規制すべきか、それとも「表現の自由」として保障すべきかは、だれが決めるのだろう。

 一般にドイツなど敗戦国では、ヘイトスピーチとして刈られるハードルが低く、戦勝国では高い傾向がある。
 ドイツでは、人種差別的な発言は重大な刑罰の対象となるが、同じことを言ってもイギリスでは「ちょっとしたマナー違反」程度だったりする。

 おかげさまで、俺様ブリテンはEUなんかといっしょにやってらんねえよ、という顛末と相成った。
 そもそもイギリスが重要な戦争でちょいちょい勝つおかげで、世界地図は変な形になってしまったと、私などはいつも残念に思っていたりする。

 勝てば官軍。
 歴史の不文律として、この傾向は揺るがない。

 ヘイトスピーチだと決めつけて批判する連中が、わが国にも多数いる。
 たった一度の敗戦で、たいへんな毒を飲まされたものだ。



 閑話休題。
 菩薩は、他人の楽を自らの楽とする。

 他人を楽にしてやることで、自分が満足するという思想は、西洋的にはボランティア精神の発露ということになろうか。
 西洋においてはキリスト教的な思想が底辺にあるが、東洋では仏教、世界的にもそれ以外の土着的思想が介入して、彼らの社会に内在する「美徳」をたたえる。

 愛他的精神というのは、一定確率で人類共通の性質だ。
 これをロジカルに組み立てたのが、宗教である。

 たしかに宗教は、人類の役に立ってきた。
 社会に倫理を規定したし、人々に道徳を教えた。

 西洋人には、宗教がなかったら人間は野獣だと信じている人々が、かつては多かったし、現在もそう考える人は残っている。
 宗教という集金機構の前には、当然と言えば当然だ。


 宗教云々はともかく、自分を犠牲にして他人を救う、という「美しい」行為に、自ら身を捧げようとする志向を持つ人々は、人口の5%程度、存在するようだ。
 もちろん「命を捧げる」ところから「すこしくらい苦しくてもよい」という程度まで、受け入れる損害にはグラデーションがあるが、驚くほど「美しい」「犠牲的行為」に身を捧げる人が、われわれの周囲、何十人かにひとりくらいは、たしかに存在するらしい。

 日本を含む東洋的な仏教国では、この「菩薩」を中核として、中世から近代にかけての道徳律が成立していった。
 日本の「民度」とやらの依って立つところだと思う。

 日本を特別だと考えたい右翼的な人々は、縄文以来つづく日本的な要素(難しい概念だが)に大きな意味を見出そうとする傾向が強く、神道を仏教の上位文脈と考えたがる。
 が、たとえ仏教が神道のもと、日本的に改良されたとしても、その点を高く評価すればするほど、仏教が日本に与えた影響の大きさを証明することになる。

 神道と仏教を明確に弁別することは、もはや不可能に近い。
 かつて無理やりそれをやろうとした政治的な試みもあったが、成功したとは言い難い。

 純粋な黒人や純粋な白人が、もはや少数派であるように、宗教的な混淆は日本において、ある種の到達点に至ったと考えられる。
 ……さて、そこで日本国という民度の高い多神教国家が、お年寄りにしてあげられることはなんだろう?

 とげぬき地蔵でお祭りがあったら、死んでもいいという人が集まるのを批判することからやめたらどうかな、と思う。
 なかには自分だけはうつらないと思っている人もいるかもしれないが、ある程度「もうじゅうぶん生きた」と思っている人もいるはずだ。


 祖母が自宅に帰ってくると、変に無茶食いをする。
 ホームでは、食べたいものを食べられないからだという。

 身体に悪いから、といって周囲は止めるし、私もそう行動した。
 すると100歳の祖母は、ちょっと悲しげな顔で言った。

 いまから何日か長生きするより、食べたいものを食べたいよ。

 とても、よくわかる。
 こういう気持ちを受け止めて、認められる社会であってほしい。


 そんなことを愚行いたしました。
 皆様も、お身体、ご自愛ください……。

 

 

 私は現在、祖父の家に暮らしている。

 亡くなって20年になるが、表札はまだ「善一郎」のままだ。

 

 何年たとうが、ここは祖父の家なので、善一郎の表札を外すつもりはない。

 機関士の善さんと、もうすこしちゃんと話しておけばよかったと思う。

 

 

 ……さて。

 

 東京電力という会社がある。

 なかなかおもしろい営業をするので、それについて記しておこう。

 

 きっかけは、1本の電話だった。

 冒頭の祖父の名を出して、誰何してきた。

 

 留守電だったし、私の名前ではなかったので無視していたのだが、するとその相手、こんどはうちの母親に電話したらしい。

 だいぶ前に死んだ祖父の名前を出されて、だいぶビビッていた。

 

 詐欺が怖くて、すぐ切ったそうだ。

 ある意味、とても正しい行動だったことが、のちに判明する。

 

 

 結論から言えば、彼は東電の人間だった。

 メーター交換をしたいらしい。

 

 だったら名乗ればよさそうなものだが、本題に入るまでは、けっして会社名も個人名も出さなかった。

 極秘行動のエージェントかよ、というくらい、用件に入るまで謎の相手だった。

 

 東電を名乗るといじめられる、という経験でも積んだせいなのか。

 オレオレ詐欺かよ、というような電話スタイルだ。

 

 〇〇さんですか、〇〇さんの家の設備についてお聞きしたいのですが、と質問ばかりする。

 自分のことを説明するつもりは、一切ないようだ。

 

 ともかく給湯器のメーター交換の話になった。

 それ以外の説明はない。古い給湯器だし、そういうこともあるだろうと了解した。

 

 メーター交換後、3か月。

 電気の使用量は減っているのに、料金が高くなった。

 

 たいへんなトリックが隠されているので、以下、説明したい。

 

 

 くらしテプコのエネくらべを見ると、昼間の電力使用量が上がっていて、夜間電力が下がっている。

 ここに謎を解く鍵がある。

 

 スマートライフプランの夜間電力適用は深夜1時から6時だが、交換されたメーターの通電時間は23時から翌7時までの8時間に設定されていた。

 当然、通電開始23時から給湯器は稼働し、安くなる1時ころには仕事を終えている。

 

 なんと、こっそり高い電力でお湯を沸かさせるスタイルだったのだ。

 この通電時間詐欺については、現在進行形で被害を受けている方もいるかもしれないので、よく確認されることをおすすめする。

 

 ちなみに交換前の古いメーターは、1時から9時の8時間、通電していた。

 たまたまかもしれないが、安い深夜電力を使えていたわけだ。

 

 この詐欺的な2時間はなんなのかと東電に電話したところ、それはメーカーの設定であって東電には変更できない、関係ない、という姿勢だった。

 そんなバカな話があるだろうか? そのメーターで料金を決めて受け取る主体が東電なのに、メーカーのせいにして済むと思っているのか……。

 

 そもそも彼らは、私がスマートライフプランであることを知っているわけだから、深夜にせいぜい最初の1~2時間稼働する給湯器のために、23時から稼働するメーターに交換したら、顧客にとっては不利な契約への変更になる、ということは先刻承知のはずだ。

 当然、説明をする義務があるが、いっさい口にすることはなかった。

 

 というわけで、早速だが冒頭の伏線を回収する。

 名乗るのも憚られるような商売をしている自覚はあるから、よけいな説明はしない、という姿勢を貫いていたのだ。

 

 交換したら損するとか、説明しないでいいから、とにかく新しいメーターに交換しちゃって。

 あとはあいつらバカだから、気づかないよ。

 

 そういう商売に加担している、という自覚があれば、たしかに名乗りたくはないだろう。

 ある意味、いろいろわかりやすい。

 

 

 理屈もわかる。

 大震災で、ベースロード電源たる原発を失った。

 

 原発の特徴は24時間発電しつづける、だ。

 当然、夜間の電力が余る。

 

 それを安くしたのが夜間電力なので、現在、火力の割合が高い状況では、そもそも夜間を安くしようという動機が弱い。

 むしろ安く売るのは損だから、高い電気のほうを買ってほしい。

 

 安くしたり高くしたり、お忙しいことだ。

 もちろん100%、彼らの都合である。

 

 私は「絶対」とか「100%」という言い回しが大嫌いなのだが、彼らに対しては使っていいと確信している。

 なぜなら「100%安全」な原発を作って、利益を得ていた人々だからだ。

 

 同じ会社である以上、ぜひとも全責任を負ってもらわなければ困る。

 が、なぜか関係のない私に皺寄せがきた。

 

 経営者、社員、株主、関係者が責任・清算を果たしてから、こちらに余波が及ぶならわかるが、そうでもない。

 おかしな話だ。

 

 

 しかも残念なことに、本題はここからなのだ。

 なんと、この東電のメーター交換、家の電灯と給湯器のメーターを統合する、という作業も伴っていた。

 

 これこそ第二の罠、「基本料金をアップさせる」策略だ。

 説明しよう。

 

 あくまでもうちの場合だが、それ以前は、給湯器と家の電気を同時に使っても、家は家、給湯器は給湯器で使用量を計測されていた。

 ところが、新しいメーターは「積算」を行なうようになった。

 

 たまたま給湯器が動いているときに、ポットでお湯を沸かしたり電子レンジを使うと、同じ30分以内の使用量としてカウントされる。

 具体的にいうと、いままで1とか2kWの最大需要でしかなかった電力が、5kWに跳ね上がった。

 

 30分間に使う電力が、たとえ一回でもあるレートを越えれば、基本料金が高くなるというルールを突いた、まことに狡猾なやり口だ。

 さすがは東電社員、以前よりも明らかに不利になる契約変更を、顧客になんの説明もなくやり遂げたのだ!

 

 その後、たとえ気づいて節約を開始したとしても、「最大需要」を基準とした料金は1年間適用される。

 ヤクザかな、と思うくらい、うまいことぶんどっていくスタイルだった。

 

 電話サポートも、驚きだった。

 元に戻してくれといっても、のらりくらりわけがわからないことを言う。

 

 なんの説明もなかったのだと言うと、お気持ちはわかります、とのこと。

 どうやら「説明しない」という姿勢は、全社的に徹底されているようだ。

 

 元に戻せるか調べますと型通りに請け負い、すぐに折り返してきて、無理ですとお達し。

 まあ、そういうルーティンワークなのだろう。

 

 乗り換えると言うと、給湯器がある場合は適用できる会社が少ないとか何とか、根拠不明のことを言って止めようとする。

 吐き気を通り越して感心した。

 

 もちろん速やかに乗り換えたわけだが、たった3か月とはいえ、余計な料金をこのヤクザ会社に払うかと思うと残念だ。

 2011年、なぜあのとき、さっさと破綻処理してしまわなかったのか、心底悔やまれる。

 

 

 電気料金とかその手の公共料金は、詳しいルールに気づかず唯々諾々と支払っているケースが多いと思う。

 私の場合、課金状況が変化してから3か月で気づいたわけだが、これはかなり早いと思う。

 

 冬場の給湯器大活躍時代から、春になってお湯を沸かす頻度も減った。

 当然、料金が安くならなければならないのだが、「あまり変わらない」「むしろ高くなっている」ことに違和感を覚えることができた、自分の注意力を褒めてやりたい。

 

 日々「生活感覚」を研ぎ澄ましていたおかげだろう。

 まあ偉そうに言うほどのこともないが。

 

 なるほど、破産をしないで、こんなふうに利益を積み重ねていこうとしているんだな、これが彼らの営業努力というものなんだな、と残念ながら納得させられた。

 電力会社乗り換え、というリテラシーのない人々は餌食になりつづけざるを得ない、こんな世の中じゃポイズン。

 

 携帯電話会社の時代から、乗り換えたほうが得、という不文律を身体に刻み込んでおいてよかった。

 これからも商人の卑劣なやり口には、敏感な自分でありつづけたいと思う。

 

 そして善一郎氏の家をできるだけ守っていく。

 借りぐらしの俺だって。

 

 ダイソンが大損こいたらしい。

 ダイソンだけに……。

 

 何度か消そうかと思ったが、一応、自分への戒めとして残しておこうと思う。

 ともかく吸引力の衰えない掃除機を開発した人が、EV開発に投じた648億円のプロジェクトが廃止された。事業化が見込めないからだという。

 

 コロナ騒ぎで人工呼吸器を作ったものの、英国政府から「いらない」とも言われた。

 何千もの失敗作を作った末に、ただひとつの掃除機を作り上げた人だから、べつに失敗することは平気なのかもしれないが、それにしても失敗の桁が大きすぎて感心する。

 

 失敗するのが平気というのは、ひとつの才能なのかもしれない。

 というわけで、きょうは失敗というものはとても大事なのだ、という話をしよう。

 

 

 宗教の本を読んでいると、しばしば出会う「善」という言葉。

 今回は、そのうち「偽善」について考える。

 

 真っ先に思い出すのは、高校時代、キリスト教の家庭で育ったKくんに「おまえ偽善者だなあ」と言ったところ、大激怒されたことだ。

 原因となった小さな善行については、まったく思い出せないが、その程度のことで「偽善者呼ばわり」されたことに、彼はブチ切れたのだった。

 

 こちらとしては、まったく深い考えはなかった。

 が、ともかく大激怒されたことで、「偽善者」というのはたいへん悪い言葉らしい、ということは学習した。

 

 Kくん自身、あまり宗教的とはいえない生活だったが、姉が修道院に入るなど、それなりに宗教的な家庭に育ってしまうと、三つ子の魂百までになるのかもしれない。

 コンプリ神父について熱く語っていたので、たぶんカトリックだとは思うのだが、元気にしているだろうか……。

 

 

 閑話休題。

 事程左様に嫌忌される偽善者。

 

 まず言葉の定義から確認しよう。

 善行が宣伝効果になると踏んで行なった場合、「偽善」になるという。

 

 行動自体ではなく、気持ちの問題。

 目的が「自分の欲」の場合、それは「善」ではない、ということだ。

 

 「善悪」という言葉に対置して考えると、わかりやすい。

 受け取る当人にとって、あるいは客観的に、メリットをもたらしていると見えれば、それは「善」だが、デメリットが大きければ「悪」である。

 

 ここには二人称と三人称の問題もあるが、ややこしくなるのでひとくくりにしておく。

 一方の「偽善」は一人称の問題、という点だけ理解されたい。

 

 

 善と偽善は、事象としては同じである。

 受け取る側にとって、まったく同じ効果をもたらすため、区別がつかない。

 

 その行為による経過や結果とは無関係に、行為を起こした当事者の気持ちによって左右されるのが、いわゆる「偽善者問題」である。

 偽善者叩きとか、しない善よりする偽善、といった議論につながっていく。

 

 この言葉は言うまでもなく、きわめて宗教的な意味合いが強い。

 とくにキリスト教では「悪人」に匹敵する取り扱いを受けるため、たいへん深刻だ。

 

 だから、あまり他人を「偽善者」呼ばわりしないほうがいいことを、私はKくんから学んだ。

 せっかくいいことをしているのに悪人呼ばわりされたら、たしかに腹も立とう。

 

 キリスト教に限らない。

 仏教も同様である。

 

 個人の内面を取り扱う「宗教」というものの性質上、偽善の問題は避けて通れないらしい。

 仏教では「雑毒《ぞうどく》の善」といい、善に毒が混じっている、という意味だ。

 

 

 具体例を出そう。

 私の行為でいえば、献血がそれにあたる。

 

 毒は「見返りを期待する」という意味なので、私の場合、きわめて直接的に「いつか返してもらう」ことを期待している。

 他人から善人だと思われたい、などという気持ちはさらさらない。

 

 べつに献血しなくても輸血はしてもらえるが、その場合、必要な血液を「金で買う」ことになる。

 負い目を感じる必要はないのだが、預けていた血を「返してもらう」ほうが、気持ちよく受け取れる気がする。

 

 負い目のなさが勝ち目につながる、といういい言葉もある。

 情けは人のためならず、だ。

 

 というわけで、自分のために献血している。

 この言葉を定義した人々の目から見れば、明らかにこれは「偽善」にあたるだろう。

 

 

 しかし、見返りのために善行をした、と「表明している人」の行為は偽善だろうか?

 べつに「偽って」はいない。ちゃんと「表明」している。

 

 そこで私は、キリスト教の定義ではなく、仏教の定義を採りたい。

 「毒善」だ。

 

 なかなかいい語感である。

 私の行為は、たしかに独善的とはいえるだろう。

 

 「独」は「私」のこと。

 よって他人の独善については知らないし、そもそも偽善と独善、どっちがマシなのかも、もうよくわからない。

 

 

 偽善者は、場合によっては、「敵」よりも嫌われる。

 考えてみれば、それはそうだ。

 

 敵は、最初からマイナスの存在として織り込まれている。

 だが偽善者は、当初、味方に含まれる。

 

 味方のはずの人間が、敵対行為をしているとしたら、マイナスは二倍だ。

 よって、敵よりも被害が大きくなる。ゆえに偽善者は最悪になる。

 

 ロジックとしてはそういうことだが、偽善者が常に敵対行為をするわけではない。

 上述のように、単に利己的目的のためである場合もある。

 

 利己性が、他害性を兼ねない。

 この点は重要である。

 

 表で善人を装い、裏で悪いことをしているのも偽善者。

 自分の欲のために善行をするのも偽善者。

 

 ひとくくりにされてしまうが、これはひどすぎると思う。

 

 そもそも仏様からみれば、全人類が偽善者ということになっている。

 人間とは、そもそも煩悩の塊だからだ。

 

 だとしたら、そもそも偽善者は「一般人」を意味する

 悪口にはならないのだ。

 

 

 達磨大師も、見返りを期待した善行に功徳はないと断言しているので、善とはすべからく気持ちの問題に帰着する。

 残念ながら、言葉とはそういうものだ。

 

 数学的なプラスとかマイナスのわかりやすい数値で語られる世界のほうがしっくりくるタイプにとっては、彼らの物言いはひどく胡乱でご都合主義に見える。

 私が宗教的になれない最大の原因が、このあたりにあるだろう。

 

 自分の気持ち次第。

 いい言葉だが、法律的な問題への適用は難しい。

 

 そこで、法律の言葉は生活感から離れ、厳密な客観性を帯びていくことになる。

 一方で宗教も、自分に都合のいい言葉や解釈を、次々と生み出していくことになるわけだ。

 

 

 私が偽善者の問題でもっとも思うのは、他人を偽善者呼ばわりする人自身の正当性だ。

 偽善を批判すること自体が偽善にも見える。

 

 達磨大師はそうとう偉い人なのだろうから、たいへんな利益をもたらしてくれた皇帝を偽善者呼ばわりしてもいいのかもしれない。

 が、そうでもない人々が、他人のことを偽善者呼ばわりしているのを見ると、おまえはどの立場だよ、そんなに偉いのか、と思わないこともない。

 

 Kくんを偽善者呼ばわりした私は、たいへん反省したのだ。

 偽善者という言葉は、使い方に気をつけなければならない危険ワードなのである。

 

 と、若いころに失敗をしておくと、とても学習効果が高い。

 反省することの多い人生は、その後の人生を豊かにしてくれる。

 

 失敗あってこそ、すくなくとも昨日よりはマシな今日になるのだ。

 吸引力の衰えないただ独りの独善を、これからも追求しようと思う……。

 

 昔の言葉は死語になる。

 最近「写メ」という言葉を使ったところ、笑われた、という話を聞いた。

 

 写メ。

 写メール。

 

 おそらく写真を添付したメールの送信、という意味だろう。

 写メる、などの動詞活用もされた言葉だが、これは死語なのだろうか。

 

 結論から言えば、べつに使っていいだろ、と思う。

 他人のセックスを笑うようなもので、写メと言った人間を笑った人間こそ笑われればいい。

 

 SNSで共有する場合、たしかに「メール」ではないので、厳密にはおかしい。

 だが、テレビに出ている人々は、日々「ビデオ・テープ・レコーダー(で記録された映像)をご覧ください」と言っている。

 

 当初、カメラにガシャンとテープを差し込み、録画して、編集して放送しています、という意味かと思ったのだが、最近はテープ(ぺらぺらした紐状の記録媒体)を使わない動画であっても、VTRでOKということになっている。

 VTRがOKなら、写メだってOKだと思うのだ。

 

 一時、不正確な表現でイライラした「VTR」だが、私も最近、もう好きにすればいいよ、と思うようになった。

 

 他人が使う言葉に突っ込むというのは、若さの証拠だ。

 私はそれを失ったのだ。

 

 無知と元気の象徴、若さ。

 

 もちろん言葉狩りをする者どもは、古今東西老若男女、いくらでもいる。

 なかでも年を取ってから、どうでもいい言葉狩りに邁進する人々は、かなり深刻な「老害」の可能性がある。

 

 昔は60歳がたいそうなお祝いで、その後は余りの人生、「余生」だった。

 いわゆる本卦還り、赤ちゃんに戻った気持ちで、赤いちゃんちゃんこなどを着る。

 

 本物の赤ちゃんはその後、飛躍的に能力を伸ばしていくが、二度目の赤ちゃんはその後、下り坂を転げ落ちる。

 

 人間の能力は、若いころにピークを迎える部分が多い。

 知識や判断力などは、体力ほどは減衰せず、むしろ増えていくので、年を取った優秀なリーダーに従っていたほうが安心な場合は少なくない。

 ただ、愚劣な老害にいたるパターンも、それなりに散見される。

 

 私のスタンスとしては、「基本的に」お年寄りには敬意を表する。

 彼らの経験知には、見るべき価値があると思うからだ。

 

 ときどき害毒を垂れ流すタイプについては、犯罪者のようなもので、やばいやつはどの世代にもいるわけだから、「例外的に」処理するしかない。

 たぶんそういう人は、老人になったから害毒なのではなく、もともとそういう人だったのだろう。

 

 と、言い切れないケースもある。

 とくに残念なのは、昔、優秀だった人が無残な老害に成り果てた姿を見ることだ。

 

 もともとロクデナシだったわけではないだけに、ギャップがすごい。

 芸能界など、美しく引いていった人というのはまさに伝説だが、老醜をさらしている人にはため息が漏れる。

 

 彼らは、優秀な参謀に恵まれていない、という解釈をするようにしている。

 お父さん、そんなバカなこと言うもんじゃありませんよ、と家族なり親友なりが諫めてあげればいいのに、そういう人が身近にいない。

 

 残念な家族、あるいは孤独な老後、という視点で老害を眺めると……よけいに悲しくなった。

 モンスターなファミリーを再生産しないだけ、まだ孤独のほうがマシだろうか。

 

 せっかく高められた名が、ひどく棄損された老作家もけっこういる。

 老い先短い自分、死後どう思われようと知ったことか、という気持ちなのかもしれない。

 

 一方、名こそ惜しけれ、という日本人論もある。

 「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできない」のだ。

 

 しご。難しいところである。

 自戒するとしよう……。

 

 

 

 アメリカのアマゾンが、コロナ関係の便乗値上げ40万件を削除したという。

 同時に議会にも法規制を求めているらしい。

 

 みんなが困っているときに、弱みにつけこむという商売の基本。

 日本でもマスクの騒ぎがあったが、じっさい世界中でこの手の「商人」は大活躍かつ大顰蹙を買っているわけだ。

 

 そのマスクの値段も、だいぶ下がってきた。

 17日時点の最安値は1枚あたり12円(箱なしのバルク品)らしい。

 

 私にとっては、50枚500円程度という相場観(騒ぎの前の通常価格)だ。

 同じ価格にならなければ買う気は起こらない。

 

 一時1万を超える異常価格を提示したマスク。

 しかし現状、まだ部分的かもしれないが、ほぼ平時に近い値段まで下がっているようだ。

 

 ちなみにこれは使い捨ての中国産安物マスクの話。

 シャープのマスクとかN95といった、ブランド品や高品質商品は別だ。

 

 

 マスクの最安値を検索するサイトによると、運用を開始した今月7日時点で1枚あたり33円。

 1日ごとに数円ずつ下がり、現在12円、といった感じだ。

 

 アメ横でマスクを仕入れた店主の話がどこぞで記事になっていたが、売れなくて困っているそうだ。

 そりゃそうだろう。

 

 本来500円のものを、2000円とか3000円で売ろうというのだ。

 そもそもいくらで仕入れたのか知らないが、値崩れのせいで売れない、利益が出ない、「ボランティア価格だよ」と言っている時点で、かなり気持ちが悪い。

 

 彼は、通常時の価格を知らないで仕入れたのだろうか? そんなわけはない。

 彼のつけている価格がボランティアだとしたら、そもそも高値で仕入れているということになる。

 

 商売が立ち行かないから、せめてマスクで損失の穴埋めをしたい、という事情のようだが、私には同情できない。

 なぜか。

 

 高くても仕入れて「さらに高値で転売しよう」という思考回路が、透けて見えるからだ。

 その時点で、もう気持ちが悪い。

 

 断っておくが、その店主個人を責めるつもりはない。

 それが「一般的な商人」の思考回路であり、言ってしまえば「商売の基本」でさえある。

 

 ただし、あくまでも一面だ。

 通常の価格で仕入れて、少しの利益を乗せて売ろう、という思考回路の商人もいる。

 

 そういう商人に対しては、同意もするし、場合によっては敬意も表する。

 おそらく「平時の基本」でもあろうが、「非常時」となると本性があふれ出る。

 

 彼が売りのタイミングを逃して大損ぶっこいても、ちっとも同情できない。

 みんなが困っているときに「高値転売」をもくろんでいるような連中は、河原に首を並べて滅びればいいのだ。

 

 

 必要なものを、必要な場所に、適切な価格で。

 私にとっては、これが「商売の基本」だ。

 

 おおむねみんなそう思っているだろうとは思う。

 が、問題は「適切な価格」の意味だ。

 

 必要とする人が多く、品物が少なければ高くなる。

 残念ながら市場原理であり、その高額な設定こそが「適切」であると判断する人は多い。

 

 一方、私は常に「通常価格」と比べるようにしている。

 みなさんにオススメしたいのは、この「通常価格」を肝に銘じることだ。

 

 買い物上手と呼ばれる方々にとって、これは基本中の基本である。

 通常価格を知らないと、激安価格を判断できないからだ。

 

 よって、私のようなタイプは、このご時世1枚もマスクは買わなかった。

 通常価格に戻ってから買えばよい。

 

 それでも必要としている人はどうするのか?

 そもそも、そんな人になっている時点で危機管理ができていないが、それを言っちゃあおしまいなので、とりあえず必要な最低量のみを仕入れて、たいせつに使っていただくとか、布のマスクを自作するとか、方法はいくらでもあるだろう。

 

 今回のケースに限らず、困った状況に陥った場合、高額商品に手を出す前に、あらゆる代替手段を模索していただきたい。

 ともかく、高値でも買う、という人につけこむ商売の横行を避けるには、高値では買わない、という人が増える以外にない。

 

 腐るものでもないマスクについては、もうしばらく待ってから、2~3箱は仕入れておくがよろしかろう。

 マスクの製造が止まったという話は聞かないので、私の予想では、とくにこれから北半球は夏の季節、どんどん市場にダブついてくる。

 

 ほどなく通常価格以下の激安セールがはじまるだろう。

 それから買っても遅くはない。

 

 

 現に通りかかる人にマスクを配っている店もあるようだ。

 試供品的な意味だとは思うが、そこまでしなければ捌けないという現実がある。

 

 別の店主も、もうすこし早く売りに出せていれば、と悔やんでいるという。

 騒ぎになってから買い付けるなど後手を引いた商人とは別に、自社倉庫に「抱え込んで」しまった商人だ。

 

 マーケットに飢餓感を出すためには、商品を出しすぎてもよくない。

 これもまた商人どもの背負ったカルマといえる。

 

 マスク1枚当たり、4月下旬までの時点では平均78円、最安57円だった。

 チャートを見ると、5月に入った段階から急激に下げていることがわかる。

 

 上述の通り、現在の最安価格は12円。

 4月の値段があと1か月継続してくれれば、と願っている店主は多かろう。

 

 

 すべてはタイミングなのだ。

 相場の世界に身をさらしていると心底、身に染みるこの言葉。

 

 大事なことなので、もう一度言おう。

 すべてはタイミングだ。

 

 自分で言ってて気持ち悪くなってきたので、きょうのところはこのくらいにしておく。

 あぶく銭によって世界が動いているかのように見えるこのご時世、コツコツとやる人が勝利する世界こそ、正しいと思う……。

 

 

 『ビバリーヒルズ高校白書』という海外ドラマが昔(1990~)流行った。

 2019年、そのリブート的な番組が作られたらしい。

 

 『ビバリーヒルズ再会白書』は、オリジナルキャストの「その後」を描くまっとうな続編のようにも思われるが、それぞれがキャラクターではなく当人として出演している、という新しい発想のシリーズだった。

 

 それなりの視聴率を出したものの、シーズン2はキャンセルされたらしい。

 昔の遺産で食うのも限度がある、ということだろう。

 

 30年後のビバヒル。

 けっこうエグい作り方をしているようなので、機会があったら見ていただきたい。

 

 が、私がビバヒルで思い出すのは、それとは関係のないごく個人的な話だ。

 つまらない話だが、よろしければどうぞ。

 

 

 十年以上前の話だが、なんのきっかけか、とある友人の男と飲んでいて、ビバヒルの話になった。

 私は、リアルタイムでは見ていなかったが、数年後の再放送あたりからちゃんと見た、という手合いなので、それなりに話題に乗れる。

 

 例のテーマソング、♪デデデデッデデデデッ、カッカッ、の「カ」のタイミングでグーパンチを振るくらいには、よく見ていた。

 つまり、きらいじゃないのだが、その男は、どうやらビバヒルが心の底からきらいらしかった。

 

 興味がない、というなら話はそれで終わりなのだが、彼がビバヒルに、ほとんど憎悪に近い感情を持っている、という事実にむしろ興味を惹かれた。

 じつは好きなんじゃないの? という裏腹な思いでも抱えているのではないか、と。

 

 たしかに金持ちのイケ好かない高校生たちの、くっついた離れたドラッグでトラブったという、どうでもいい話といえばどうでもいい。

 しかし、よくよく話を聞いてみると、彼がビバヒルをきらっている理由は、どうもその内容ではない。

 

 学生時代、まだNHKがリアルタイムで放送していたころ、ビバヒルにドハマりしていた同級生がいたのだという。

 その「クソデブス」が毎日のように、彼の席の近くで ビバヒルについて語り尽くしていた。

 

 それ以来、大きらいになったのだ、という。

 

 

 なかなか破壊力のある言葉だ、クソデブス。

 たった5文字で、いろんなところを破壊して余りある。

 

 多様な表現で、その女を腐しまくっていた彼だが、なかでも「ビグザム」という表現が私にはツボだった。

 最近の若者はよく知らないと思うので、興味がある方はググってみていただきたい。

 

 たしかにビグザムみたいな女子が後ろの席でマシンガントークしていたら、そうとうストレスはたまるだろうとは思う。

 ともかく、その女子が毎日のように熱烈に語りすぎていて、イライラが頂点に達したらしい。

 

「くだらねえクソ番組だよ、ビバリーなんとか」

 

 彼はそう切り捨てたが、待てと。

 それおまえ、ビバヒルがきらいなんじゃなくて、その女子がきらいなだけじゃないのか。

 

 彼にとっては「同じこと」らしいのだが、どんなにおもしろい話でも、憎んでいる相手から語られると、クソ話に成り下がる可能性はあると思うのだ。

 ためしに訊いてみた。

 

「もしその女子がクソでもデブでもブスでもなく、かわいい女子だったらどうよ?」

 

 彼はしばらく考えてから、言った。

 

「俺にとってのビバヒルとクソデブスは、密接不可分の産廃だ」

 

 残念な話であるが、脳細胞がそのように固着してしまったら、解きほぐすのは難しい。

 秀逸なひとつの海外ドラマが、ひとりの人間の選択肢から葬られるのは残念な話ではあるが、やむをえないだろう。

 

 だれが悪い、というわけでもない、と思う。

 その女子は女子で、ほんとうにビバヒルが好きだったんだろうから。

 

 

 さて、このように意図せずマイナスの効果をもたらしてしまう、というのは、世の中にままあると思う。

 そもそも意図していたとおりの効果をもたらす人々の輪から、われわれが単に外れているだけ、という見方もできる。

 

 そもそもビバヒル好きのその女子は、その男にビバヒルを好きになってもらおうとしていたわけではない。

 ということは、彼女の意識から外れたところで勝手にもたらされた副作用みたいなものであって、そんなものは彼女の知ったことではない。

 

 ドラマでもマンガでもゲームでも、対象年齢やターゲット層というものが存在する。

 その外にいると気付いたら、近寄らないにしくはない。

 

 ドラマや映画といったものは、難しいものだ。

 ひとりひとり、求めているものがちがう。

 

 たとえば私などは、リアルな映画が大好きなのだが、世の中にはそれを「地味」「カタルシスがない」などと感じる人もいる。

 主人公が超人的な戦闘力で、ありえない巨大な敵をなぎ倒す、という展開を期待して見ている方もいるわけだ。

 

 もちろん私は、「ありえない」展開には否定的である。

 

 野生のオオカミは強いもので、一匹倒すのも大変だ。

 地味な作戦や手製の武器で、なんとか撃退する。

 

 合理的な動き、妥当な戦術、多少の犠牲。

 まさに「地味な戦い」だが、私の目には、これがリアルというものか、と楽しく見られる。

 

 しかし世の中には、群がるオオカミどもを、ばったばったと殴り殺していくような、いわゆるマンガの世界を期待して見ている人もいる。

 そういう人にとっては、なんのために映画を見てるんだよ、リアルなんか世の中にあふれてるんだから、映画くらい超現実なカタルシスを見せてくれよ、ということになる。

 

 どちらも、正論だ。

 

 最初から超現実的不条理ギャグ映画だと理解して見るなら、どんなことが起こっても楽しめるし、むしろもっとやれ、と思う。

 だが、リアルを描いている映画で、変なことをしたらダメだと思う。

 

 このへんのバランスが絶妙な映画というのが、名作と呼ばれるのだろう。

 

 

 最後に、たまには映画の紹介でもしておこう。

 名作だと思うホラー映画から、5選。

 

 以下、未見の方には申し訳ないが、簡単にネタバレをする。

 といっても、有名な作品ばかりなので、ネタを知っていても楽しめるだろう。

 

 『シックスセンス』は有名だ。

 以後、良くも悪くも登場人物自身が幽霊、というパターンを形成してしまった。

 

 『ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ』も同様、主人公自身に秘密がある。

 いわゆる「犯人は俺だったのか」系だが、「またかよ」と言いたくなるほど乱造された同系統のなかでは、いいデキだったと思う。

 

 『ウィッカーマン』はだいぶ古い作品だが、少女を助け出そうと奮闘する刑事の物語のように見せかけて、じつは「生贄」に選ばれたのは最初から刑事自身だった、というどんでん返しが、古い宗教の不気味さと相まっていい味を出していた。

 

 『エスター』は個人的に好きな作品だ。

 サイコパスの女というパターンはよくあるが、ホルモン異常で見かけは子ども、という部分が画期的だった。

 

 『ソウ』は連続殺人鬼によって密室に閉じ込められ、ゲームを強要されるというシチュエーションホラー。以後、雨後の筍のように似たような設定の作品群が作られた。

 ゲームの「神」であるジグソウと、共犯者であったアダムの裏切り。聖書的なメタファーが隠されていて、じつに楽しめた。

 

 

 パッと思いつくところで書いたが、ほかにも名作はたくさんある。

 

 私がよく見るのは、ホラー、ミステリー、SF、たまにファンタジーだ。

 苦手なのは恋愛だ。4倍速で見てもつらい。

 

 ホラーはネタバレしても楽しめると思うが、ミステリーは知らないで見たほうがいいかもしれない。

 強制引きこもりのこの機会を、ぜひご活用いただきたい。

 

 とくにSFは、非常に素晴らしい作品が多い。

 いつか紹介したいと思う……。

 

 

 ちょっと調べ物があって、ひさしぶりに『聖書』を読み返した。

 さすが人類最大のベストセラー、何度読んでも発見がある。

 

 よく、欧米人が「謝らない」という話を聞く。

 その原因は、たぶん『聖書』だ。

 

 神が食べてはいけないと命じた知恵の実を食べた、アダムとイヴ。

 問い詰める神に、アダムは「イヴに渡されたので」と責任転嫁、イヴは「蛇に渡されたので」と責任転嫁。

 

 驚くべきことに、彼らは最後まで「謝りもしない」。

 むしろ、食べちゃダメな木の実とか置いとくほうが悪いんだよ、とでも言いたげなふてぶてしさだ。

 

 ぼくのせいじゃないよ、と言い張る子どもの姿が思い浮かぶ。

 彼らの言語には、謝罪を意味する言葉が存在しないのではないか、と思うくらいだ。

 

 われわれは大人になるにつれて、相手の気持ちを慮り、自分が悪いときには謝り、潤滑に社会を回すという「知恵」を身に着ける。

 しかし『聖書』の執筆当時、人類はまだ幼児の精神年齢だったのだろう、という気がする。

 

 あくまでも古典なので、幼さは致し方ない。

 むしろ問題は、それを、いまだに教材にしていることのほうだろう。

 

 謝らない国、付き合いたくないものである。

 

 

 この欧米の「謝らない」文化は、交渉を有利に進めるため、とされている。

 が、それによって問題が大きくなることも、多々あったようだ。

 

 そこでイギリスの保険会社は、「謝ろう」キャンペーンを展開したという。

 アメリカでは、交通事故などの現場で謝っても裁判上不利な証拠にならない、というアイム・ソーリー法が作られた。

 

 かつてアメリカで、日本のタイヤ会社が事故を起こしたとき、社長が弔意を示した。

 それに対して、「過失を認めると賠償金が上がる」などの議論が巻き起こった。

 

 そのタイヤを作って利益を得た社長が、そのタイヤによって被害を受けた遺族に謝罪する。

 当たり前の話なのだが、欧米では「謝ってはいけない」という「ミスリード」が、マスコミ各社こぞって行なわれた。

 

 そういう問題ではないのだ。

 被害をもたらした事実に対して哀悼の意を評したり、当事者が謝罪したりするのは当然なのだ。

 

 訴訟に不利になるから謝らない、という不埒な暴挙は、もはや限界に達している。

 昨今は、ボーイングのCEOすら、737MAXでの遺族の方々に「個人的に」お詫びします、と言っている。

 

 過ちは、素直に謝する。

 そこから、話は進むのだ。

 

 ただ「謝ってほしいだけ」だ、という映画すら作られるほど、謝らない文化は人間の心を傷つけっぱなしにする。

 癒す。そのためには、まず謝ることだ。

 

 

 さて、ここまで書いてきて、私が謝ってばかりいるペコペコ日本人だと思ったら、大きなまちがいだ。

 以前、こんなことがあった。

 

 毎度おなじみ、宅配便のおっさんが、荷物を持ってやってくる。

 彼が伝票を指さし、言った。

 

 番地が書いてないんですけど、こちらでいいんですよね?

 

 伝票を見る。

 たしかに番地が書いてない。

 

 それでも宅配便は届く。

 まあ常連なので、彼もすぐ気づいたのだろう。

 

 さて、この荷物を受け取ったとき、私は謝るべきだったろうか?

 結論から言えば、私は謝らなかった。

 

 ごくろうさま、とは言った。

 が、それは通常届けてくれる宅配便の人にも言っている。

 言わないときもあるが、たいてい「どうも」くらいは言う。

 

 番地が書いてないのに届けてくれた。苦労させてすいません。

 そういう意味の「すいません」は言うべきか?

 

 その必要はない、と私は考えた。

 掘り下げよう。

 

 

 私がミスをして住所を入力せず、発送されたとする。

 この場合、私には過失があるが、番地もないのに発送した相手にもミスがある。

 

 私だけが謝るのはおかしい。

 が、まあ私も悪いので、この場合に謝るのは良いとしよう。

 

 しかし私は即座に、それはない、と気づいていた。

 番地を書かずに発注など、システム上ありえないのだ。

 

 もし、そんなことが起こったとしたら、悪いのはサイトのほうだ。

 アダムの真似をしているわけではない。これは責任転嫁ではなく、そもそも私に責任がないのだ。

 

 こちらには、通常通りに発注する以外の発想がない。

 それで通常通りの連絡が行われなかったとすれば、私以外のどこかでミスが起こっている。

 

 もちろん確認したが、まちがいなくショップにこちらの住所は伝わっている。

 つまり、もっとも確率の高い可能性として、「ショップが印刷ミスをした」ことが、宅配業者に余計な負担をかけた原因だ。

 

 ともかく「私は悪くない」。

 この一点が重要だ。

 

 

 「悪くないのに謝る」というのは、おかしなことだと思っている。

 よって、目の前にどんな被害を受けた人がいようが、悲惨な目に遭っていようが、いたわりこそすれ、謝る必要はないと考える。

 

 めぐりめぐって、という議論があることは承知している。

 情けは人のためならず、というわけで、私がなるべくいいことをしておく理屈は、結局は自分のためになるという考えからだ。

 

 たしかに住所が印刷されていないのは私のせいではないが、めぐりめぐるほどめぐるまでもなく、私がそんな店に発注したのが悪いんじゃないの? という理屈には逢着する。

 

 なるほど。注文したのが悪い! と。

 よろしい、その議論が正当だとしよう。

 

 では、なにができる?

 われわれは、いったい、どのような行動を選べば、悪いことをせず、だれにも謝る必要なく生きられるのか?

 

 結局、人間は生きているだけでちょっとずつ害悪、という例の理論が正しいわけか?

 生まれてきてすいません、地球さん。

 

 そんな考えに、私は与しない。

 よって、やってもいないことには、謝る必要がない。

 

 

 以下、そう信じる「理屈」を述べる。

 

 まず前提として、私は「応報の原理」というものを信奉している。

 因果応報はあまりにも有名な言葉であり、因果律はむしろ自然の法則ですらある。

 

 「ハンムラビ法典」は復讐法として有名だが、これはマイナスの行為について定められたルールだ。

 一方、プラスの行為である善行にも、報恩あってしかるべきだ。

 

 いいことをしようが悪いことをしようが、必ず自分に返ってくる。

 先制行動には、必ず報いが来る、そうでなければならない。

 

 一方、謝罪というのは「返済」だ。

 自分の行動がもたらした結果に対して、なんらかのものを「返す」ことだ。

 

 借りてもいない金を勝手に返したら、それは客観的に「お金をあげた」ことになる。

 すなわち「先制」行動にあたるといえよう。

 

 前述のとおり、私は「必ず報いがくる」ことを信じている。

 いずれ返ってくることを期待して「いいこと」は先にしておきたい一方、必ずきたるべき「復讐」を極度に恐れるため悪いことはしたくない。

 

 

 「謝罪」は、悪いことではないだろう。

 状況によっては、会話を滑らかにし、被害者を慰撫し、問題を解決に導くこともある。

 

 が、今回の場合、そもそも謝すべき罪がないのだから、謝罪はおかしな行為だ。

 よって、あえて先制行動の選択肢に入れる必要を認めない。

 

 改めて結論。

 やってもいないことに対して謝る必要は、ない。

 

 

 というわけで、私はあまり謝らない。

 悪いことをしないように生きているからだ。

 

 自らの行動に理屈を通し、信念をもって生きると、生きやすい。

 ただし、あくまでも精神的に。

 

 もし、このことでスムーズな潤滑が阻害されるとしたら、そこには致命的な見解の相違があると思われる。

 そういう相手には、互いに近寄らないほうがよろしかろう。

 

 万一、近寄らざるを得ない場合には、信念をもって戦うしかない。

 自分で考えて、たどり着いた信念だ。

 守るのは、自分しかいない。

 

 信念は人を強くする。

 強くなければ、生きていけない。

 

 生きる資格については……。

 わからない。

 

 先日、知人と十条で飲んできた。

 たまに外で飲むと楽しい。

 

 誤解のないように言っておくと、コロナ以前だ。

 つまり、けっこう前の話なので、不謹慎狩りの対象外にしていただきたい。

 

 当時はまさか、あのころはよかったな、とただ飲んできただけの記憶を振り返る時代になろうとは、思いもしなかった。

 十条から東十条という、なかなかおもしろいエリアをうろついたわけだが、今回は、地政学的な件については置いておこう。

 

 

 記憶。

 そう、記憶の話だ。

 

 たまに、記憶がなくなるほど飲む、という人の話を聞く。

 だが私は、飲んで記憶をなくしたことがない。

 

 そこまで飲まないせいなのか、ともかくどこかでストッパーがかかる。

 そして常に冷静な自分が、泥酔している自分を客観視している。

 

 酔いつぶれて寝たことはある。

 もちろん睡眠中の記憶はないわけだから、その意味では「記憶をなくしている」と言えないこともない。

 

 が、起きて動いている間の行動については、がっつりと覚えている。

 で、今ふいに思い出しているのは、東十条の駅舎内での会話。

 

 どの路線で帰るの、みたいな流れで、目指す新京成から逆引きしていく。

 で、当時の私は駒込と田端の区別もつかない状態で、変な答えをした。

 

「駒込で乗り換えて」

「駒込って何よ(笑)」

 

 山手線に乗り換えるなら、東十条、京浜東北線、田端だ。

 常磐線に乗り換える場合は、日暮里まで行く。

 

 この過程のどこにも、駒込を通る部分はない。

 つまり私は「間違えた」わけだ。

 

 たいした間違いではないのだが、路線については、彼に細かいことで突っ込んだことがあったので、逆に自分が間違うというのが恥ずかしかった。

 だが一応、言い訳をしておく。

 

 駒込と田端は隣り合っている。

 で、ちょっと前、メトロで駒込の病院へ検査のために行ったりしていた。

 

 治験のための検査で、この話もまたネタになるので別の機会に書く。

 ともかく、そのとき乗り換えたイメージが「駒込で乗り換え」という件の発言につながった。

 

 最初に言ったとおり、いくら飲んでいても記憶は鮮明だ。

 が、駒込と田端の記憶が混同されるなど、間違いは犯す。

 

 ……自分で書いていて思うが、どうでもいいわ、というレベルの話だと思う。

 どうでもいいのだが、間違いは間違いだ。

 

 やっぱり間違うと恥ずかしい。

 これからは気をつけて生きたい。

 

 

 どうでもいい話のついでに、思い違いをしていた件について、記録のために残しておこう。

 常磐線に揺られながら、つれづれなるままに考えた。

 

 松戸から代々木上原行き(重要)に乗って、西日暮里で(重要2)山手線に乗り換え、駒込へ行ったときのこと。

 詳しい方はすでに気づかれただろう。

 

 私はずっと、JRだけを使っていると思い込んでいた。

 が、このルートだと、メトロの料金が加算される。

 

 ふつうに常磐線から山手線なら、加算されない。

 常磐線から千代田線を経由して山手線、という乗り換えになると高くなる。

 

 しかし乗り換えは同じ1回だし、かかる時間もほぼ変わらない。

 乗り換えの駅が日暮里になるか、西日暮里になるかの違いだけだ。

 

 なぜこんなことになったのか。

 私はどこで間違ったのか?

 

 結論から言えば、松戸で3番線から(常磐線に)乗ればよかった。

 千代田線直通の代々木上原行に乗ったため、北千住から先、自動的にメトロを使うことになった。

 

 どうせ山手線で乗り換えるのだから同じだろう、というその考え、甘すぎる。

 小田急まで直通している意味をよく考えろ、だ。

 

 と、ここまで自分で読み返して、説明が下手すぎると思うが、勘弁してもらいたい。

 ややこしいからこそ、私も間違えた。

 

 

 もう2~3年も前の話だが、厄除けに西新井大師に行ったときだ。

 元旦、特別列車など出さぬJRの代わりに、深夜2時、北千住から松戸までJR直通メトロの世話になったことがある。

 

 普通にJRの料金だけが加算されていた。メトロに乗ったのに、課金はJR分だけ。

 その経験が、メトロはサービス満点だ、と思わせた可能性もある。

 

 たしか北綾瀬あたりの料金設定も、けっこうややこしいルールがあったような気がするが、興味がある方はご自分で調べていただきたい。

 そこらへんの路線図や料金体系については、うまく説明する能力が私にはない。

 

 よって、私はてっちゃんではないのだろう。

 もちろんだ、彼らのような特殊能力は、とうてい持ち合わせていない。

 

 が、他人が間違ったことを言っているのを聞くと、つい気になってしまう。

 武蔵野線か京葉線か、という話で若干モメた話は、前にも書いたような気がする。

 

 一般人が、地図と首っ引きで路線図について考えることなど、まずない。

 そこに絡んでいくスタイルがてっちゃんだとすれば、そっちに近いような気もしないでもないような気がするようなしないような……。

 

 一応、鉄分が多めであることは自覚している。

 しかし、本物のマニアの異常な愛情には、とうていかなわぬ。

 

 最近は23区の地図を見ながら、新路線について考える日々だ。

 そう、私は「架空鉄」に近い。

 

 

 「架空鉄」とは、現実には存在しない鉄道の総称である。

 壮大なシミュレーションの世界を展開し、それについて掘り下げている大規模なコミュニティもあるらしい。

 

 私は、そういうものには触れていない。

 ただ個人の個人による小さな架空の物語だ。

 

 そこで最後に、すこしだけ、その個人的「架空鉄」の夢を語っておこう。

 

 ──北海道と樺太を地下鉄で結ぶ計画。

 ロマンを感じないだろうか?

 

 宗谷海峡に地下鉄道トンネルを掘ろうという計画は、ロシアが言い出した。

 残念ながら、日本はまったく乗り気ではないようだ。

 

 やればいいのに、と思う。

 2兆円もあればできるらしい。

 

 変な新幹線なんか作るより、よっぽど楽しそうな計画だと思う。

 いや政治的にも経済的にも、難しいことはわかるのだが……。

 

 

 枕崎発サーソー行、普通列車。

 そんなものがあったら、どうする?

 

 どうもしない。

 ……そうでしょうね。

 

 しかし、ぜひ乗りたい、という人もいると思う。

 日本からイギリスまで、電車で行けるのだ。

 

 プロの方なら、何週間くらいかかるのか、すぐに計算できたりするのだろう。

 ちなみに各停だと、日本を出るまでに80時間くらいかかるらしい。

 

 軌道可変で、寝台はいらない。

 寝ている間に駅を通過してしまうのは困るからだ。

 

 夜はちゃんとホテルで寝てもらう。

 翌朝、列車に戻って出発だ。

 

 ラウンジにスタンプ台があって、停車ごとに駅スタンプが押せるとか。

 駅名看板の前で自撮り写真撮れるとか。

 

 鉄ヲタ歓喜のオプションもつけよう。

 時間とお金のある趣味人には、たまらないはずだ。

 

 シベリア鉄道自体は1週間で完走するようだが、そのような特急走行は禁止。

 必ず各駅停車にしていただきたい。

 

 編成の半分に地元の普通列車を連結してもらい、移動を自由にしよう。

 もちろん地元の乗客にも利用してもらう。

 

 シベリアを完走するのに、何週間かかるだろう……。

 中国を経由する案も、あっていいかもしれない……。

 

 北ルートで行って、南ルートで帰ってくるとか。

 まさに「世界の車窓」だ。

 

 ベラルーシ、ポーランド、ドイツあたりに入ってきたら、また別の楽しみがありそうだ。

 車と違って、お酒も飲めるのが鉄道のいいところだろう。

 

 終着駅サーソーは、イギリス最北端の駅で、エディンバラからさらに300キロ以上北、スコットランドの果てだ。

 極東から極西。なんたるロマン。

 

 グーグルマップを眺めながら、そんな妄想をする架空鉄。

 旅はいいね……。

 

 商人とマスコミがタッグを組んで、愚者を釣ろうとする戦場。

 そう、「広告」だ。

 

 とあるクレジットカード。

 7000pプレゼント! の内容がすごい。

 

 新規に作ったカードで、翌々月までに支払った料金(特定の買い物分に限る)の「1%」を上限7000pまで還元、という意味だった。

 つまり2か月で70万円の買い物をしろ、そしたら7000pやるよ、と。

 

 ふつうに考えれば、カードを作れば7000円もらえるのかな、と「釣られる」。

 そういう「愚者」を目当てにした広告だ。

 

 普通に買い物したって1%以上還元するカードは、いくらでもある。

 こんなのはプレゼントでもなんでもない。

 

 が、そういう情報は、ほんとうに注意深く観察しないと見つからない。

 愚者を釣ろうとする者どもにとって、日常茶飯事のやり方だ。

 

 

 もちろん良識ある方々は、眉根を寄せる現状である。

 消費者相談センターをはじめ、法律相談の窓口も多くある。

 

 では、広告「表現」は、どの程度まで許容されるのか。

 これが、かなりグレーゾーンが広く、問題を難しくしている。

 

 最近では、アプリのダウンロードを促す広告で、怪しげなものをよく見かける。

 内容とおおよそ関係ないパズル要素や、アダルト要素で釣っておいて、ダウンロードしてみたら「ぜんぜん違う」などということは、よくある。

 

 これは、法律的にはどうなのか。

 景品表示法の「優良誤認」や「おとり広告」に当たる可能性もあるが、広告では運用上「ある程度の誇張」とやらが認められている。

 

 「ある程度」と「著しい」の差がよくわからないが、こういう邪悪な広告があるから、広告そのものへの信頼が損なわれていく。

 広告はそもそも詐欺だ、と考えておいたほうが良い。

 

 広告が好きな人はあまりいないと思うが、私もそれを厭悪する者のひとりだ。

 アプリの課金は基本的にしないのだが、広告消去という選択肢がある場合の課金は、やぶさかではない。

 

 広告を消せますよ、という広告。

 もう、なにがなにやら……。

 

 

 広告に対抗するために必須なのが、法律だろう。

 法文の網の目を縫ってくる業者に、素人はなかなか立ち向かえない。

 

 そもそも法律自体が、われわれにとって「優しい」か、という問題もある。

 昨今の改正で法文そのものが「平易に」なっている、という意味はもちろん重要だが、法律の考え方そのものにも、まだ冷たい部分が多く残っているように思う。

 

 おばあちゃんが、孫の名義で預金通帳にお金を貯めていた。

 おばあちゃんが亡くなって、それを相続しようとした孫が、子や叔父といった相続権者から、それは遺産の一部なので分割する、と言われた。

 

 どう考えても、おばあちゃんは孫に残したくてそれを預金したと考えられるが、遺言はなく、法律的には贈与契約が存在しないので、孫にはびた一文支払われない、という結論らしい。

 すくなくとも去年の時点では、そういう結論で「まーるくおさまって」いた。

 

 彼らの論理も理解できないことはないのだが、祖母と孫の関係にかかわらず、相続不可能の結論には若干驚いた。

 状況によっては支払われます、ではなく、受け取れない、と断定だ。

 

 法律って恐ろしい。

 法律だから。従え。忖度すんな。

 そういう世界なんだな、と思った。

 

 

 もちろん法律にも「情状」という酌量の余地があるが、援用したければ法廷で争う必要がある。

 法廷で会おう、となると、もうアメリカだ。

 

 いやだなあ、と思ったら、最適解がある。

 お金を持たないことだ。

 

 広告も法律も、お金を持たない人から、それ以上は奪えないことになっている。

 業者も、ないものを奪うより、あるところから奪ったほうが手っ取り早い。

 

 でもぉ~、お金がなかったら、食べ物も買えないじゃない?

 だいじょうぶ、この国のセーフティネットは、餓死者が出ない程度には助けてくれることになっている。

 

 きちんと制度を利用できる程度の知識は必要かもしれないが、世の中には、そういうギリギリの人を進んで助けてくれる奇特な方々もいる。

 必要な人は頼られるがよろしかろう。

 

 

 それに、うちの裏には野菜が生えている。

 いや、もちろん自然に生えたわけではなく、親がたまに世話をしているからあるわけで、作ってくれている人には感謝しなければならないが。

 

 この畑というものからは、なんと、食べられるものが生えてくる(笑)。

 基本的にレトルト食品で何十年も生きてきた私にとって、野菜というものの偉大さは、けっこう身に染みた。

 

 菜の花というのは、どこにでも生えている「雑草だろ(言いすぎ)」としか思えないものだったが、なんと食える。

 しかも、けっこう簡単に。

 

 花が咲く前の穂先を、折り取って集める。

 軽く水洗いして、スーパーでもらえるような薄いビニール袋に入れる。

 

 レンジに入れる。

 香りが漂うまで温める。

 

 取り出して、適当に切って、めんつゆをぶっかけて食べる。

 うまい。

 

 これを知って以来、近所の道端に生えている菜の花を見ると、食い物が生えている、と感じるようになった。

 花を咲かせちゃダメだろ、早めに収穫しないと、などと思いながら、めんどうなのであまり収穫にも出かけない怠惰な自分。

 

 だってアマゾンが届けてくれるから……。

 ↑(ダメ人間)