病んだ脳のため、落語を聞いている。
 昔から志ん生が大好きで、かの名人の話芸にすがり、定期的に心を洗ってきた。

 志ん生のどこがすごいのか、と問われれば、ひとことで言えば、「同じことを別の落語家が言ってもおもしろくないが、志ん生が言うとおもしろい」だ。
 これを評論家などは「フラ」と表現する。

 志ん生のフラは神業だが、志ん朝にも受け継がれているような気がして、最近はそちらもよく聞くようになった。
 志ん生を別格として、聞いておくべき落語の名人は五人ほどいる、と私は考えている。

 以下つらつら書き著そうと思ったが、かなり長くなりそうなので、今回は、すこし異なった方向から「笑い」について考察してみたい。
 さっき、とあるヒーローものの映画を観ていて思ったことだ。


 映画やドラマの「悪役」は、女子校生に似ている。
 いや、「女子校生は悪」と言っているわけではない。

 よく笑う、という部分が似ているのだ。
 笑いの理由にいまいち共感できない、という意味を含む。

 連続殺人鬼が人を殺して笑うのは、まあ殺人が快楽なのだろうから理解はできる。
 それ以外でも、一般に映画などに登場する悪役が「ははははは」と笑いながら登場し、あるいは去っていく印象は、とても強い。

 悪役に限らない。
 『黄金バット』というアニメがあったのだが、なぜか彼はとてもよく笑っている。

 おそらく愉快なことがあったから笑っているのだろうと思われるが、具体的に、なにに対して笑っているのかは伝えられない。
 よく笑うなあ、なにがおもしろいのかなあ、と思って眺めている。


 女子校生もまた、よく笑う。
 おばはんも下品なほど笑うが、彼女らには一応、笑う理由がある(と思われる)。

 一方、女子校生は、箸が転がっても笑う、という言葉があるくらい、理由もなく笑う(ように表現されることが多い)。
 幸せそうな少女たちを眺めていると、こちらも幸せになってくる。

 ともかく、彼女らは、たいした理由もなく笑うらしい。
 もし、悪役が、たいした理由もなく笑っているとしたら、とてもよく似ていると思わないだろうか。

 で、調べてみたところ、ウィキに「悪の笑い」という項目があった。
 「フィクションに登場する悪役につきものの昂揚した笑い方」らしい。

 ここには、「何らかの形で勝利が得られた時」とか「他人に優越感を示すとき」という状況が明示されている。
 なるほど、優越感か。

 ヒーローに負けた悪役が、「はははは」とマントを翻して去っていく。
 負けたわけだから勝利ではないので、彼が笑っている理由はつまり……優越感……?

 ちがうような気がする。
 負け惜しみなら理解できるが、それにしても笑うのはおかしい。

 それ以外の理由が書いてないので忖度するしかないが、すくなくとも正義の味方の黄金バットが、優越感をひけらかして生きているとしたら、とてもいやだ。
 彼らが笑う理由には、大いなる疑義がある。


 さて、女子校生が笑う理由に戻ろう。
 彼女らは優越感で、えらそうに笑っているか?

 明らかにちがう。
 にもかかわらず、悪役の「はははは」と、女子校生の「あははは」は、なぜかとてもよく似ているように思えるのだ。

 ひとことで言えば、「たいした理由もなく笑っている」らしい点。
 バカなのかな……。

 いや、失言でした。
 私のように浅慮な人間には、とうてい思いも至らない深い理由があって、彼ら彼女らは笑っているのだろう。

 ぜひ志ん生師匠の意見をお伺いしたいものだが、こういう分析は枝雀師匠のほうがお得意かもしれない。
 とりあえず私のような凡人は、この名人たちが提供してくれる質の高い笑いにすがって生きるしかないようだ。

 笑いに満ちた世界へ。
 救いを求めて。

 


 最近、脳の具合がだいぶ悪い。
 このブログをはじめたきっかけのひとつでもあるが、私の脳はかなりイカレている。

 パニック発作。
 私の場合、平衡感覚と呼吸が失調し、激しいめまいと吐き気、苦痛と不安と恐怖が生存本能を萎えさせる。

 ここ数日を乗り切ればまた平穏な日々が戻るだろうとは思うが、当面、次の発作が怖くて布団に行きがたい。
 眠るのが大好きな私にとって、これはかなり苦しい状況だ。

 感覚をそのまま伝える手段がない以上、言葉を使うしかないわけだが、どう説明しても体験したことのない人には伝わりづらいと思う。
 正直、私も私以外の人の症状については、正確には理解できていない。

 出産の苦痛を男子が理解するのと同じくらい、自分がなってみないと、このきつさはわからない。
 その瞬間を乗り切ればどうということはなく、また産みたいと思う人もいるようだが、なにも生み出さないパニック症状については、できれば一生涯、避けて通りたいところだ。


 人によっては、呼吸や心拍に顕著な異常を感じるらしく、場合によっては救急車を呼び、心臓病などを強く訴える人もいるようだ。
 脳の失調なので、首から下をどう調べても異常は見つからない。

 私の場合、脳そのものに圧迫感がある。
 耳から漏れそうな脳漿を鼓膜がぎりぎりで押さえていて、風船のように膨らんでいる感じだ。

 このまま脳死してくれと思うほど、いわく言い難い不快感。
 で、最初は脳腫瘍のようなものを疑うわけだが、おそらくそんなものはないだろう。

 ただの「気の病」だ。
 騒ぐほどのことはない、いつものように引きこもっていれば治る。

 と、冷静になって思い返せば軽んじてみたい症状だが、その瞬間だけはマジできつい。
 あえて軽んじてはいるが、こっそり恐れてもいる。

 波が去れば、まったく問題はない。
 が、またアレがくると思うだけで、かなりの恐怖だ。

 希死念慮。
 眠剤に逃げる気持ちが、よくわかる。

 診断を受けているわけではないので、薬はない。
 酒でも買ってくるしかないが、よけいひどくなる恐れもあるので難しいところだ。


 ものの本によると、一年間のどこかのタイミングで成人の11%が経験し、パニック症(発作への恐怖で行動変容を起こす状態)になると2~3%らしい。
 女性に多く男性の2倍、通常は青年期の終わりから成人初期に発症するという。

 そんなわけで、まあ、めずらしいわけでもない。
 そう思えば、多少は慰められる。

 よく考えると、かなり感心もする。
 人間って強いんだな、と。

 あの強烈な恐怖と不快感、不安の濁流に見舞われて、勢いで死んでしまう人は相当数いてもおかしくない。
 いや、もちろんいるのだろうが、さすがに人口の11%が自殺はしていない。

 つまり、ほとんどの人は、あの恐怖と苦痛に耐えて生きている、ということになる。
 感心せざるを得ない。

 私の場合、高層階に住んでいたり、手近に武器があったりすると危険なので、慎重に避けるようになった。
 その期間に入ってしまったようだと認識したら、電車やクルマにも、なるべく乗らないようにしている。

 そういう選択をできる状況に暮らせていることは、とても幸せだと思う。
 もし勤め人で、決まった時間に決まった行動をしなければならないとしたら、死のタイミングはかなり近づくだろう。

 まあ生きていることが幸せかどうか、という問題もあるが。
 掘り下げると怒られそうなので、このくらいにしておこう。


 ……最近、スマートウォッチを使いだした。
 それによると、発熱や血圧、SpO2には問題ない。

 気になるのが、脈拍だ。
 そもそも頻脈の傾向があり、たまに大きく下がるが、基本的に100近くを維持している(直近の6時間平均は93、最小58、最高108)。

 看護用語辞典によると、脈拍数が100/分以上だと頻脈と定義されるようなので、かなり近い。
 それだけで病気というわけではないが、気になる。

 個人的に思うのは、早く死ぬんだろうな、という感覚だ。
 一生のあいだに打つ心拍数には限りがあって、私はそれを早めに消費している。

 小動物ほど脈拍が早く、寿命も短い。
 小人物の私も、その例に漏れないような気がする。

 てなことを言いながら、アホみたいに長生きする可能性もあるので、年金には期待したい。
 恐ろしい話だが。

 いつ死んでもいいように、身の回りの整理だけはしておこう。
 以上、ひさしぶりに初心に返った記事でした。
 


 念願の池上線に乗ってきた。
 池上線に揺られながら帰るのは、西島三重子以来のわが国の伝統だ。

 私は月に一度、五反田に用事があって行っているのだが、もっぱら新幹線を使う関係上、東京駅を中心に行動することになる。
 で、毎回、有楽町を横切りながら、有楽町で逢いましょう、と心のなかで歌う。

 有楽町は、織田信長の異母弟、有楽斎が由来とされる。
 もっぱら「昭和歌謡」をキーワードにした視点で、私は東京を楽しんでいる。


 東京~軽井沢間が、お先にトクだ値で2910円という破格になっていた。
 在来線で行くのと、ほとんど変わらない。

 わざわざ碓氷峠を登って軽井沢駅から下るという、かなり趣味的な乗り方をしたくなるのもうなずけないだろうか?
 とりま、私はうなずいた。

 で、せっかくだから軽井沢を楽しみつつ新幹線に乗ろうと計画した。
 引きこもりの私は、一度出かけたらたくさん用事を済ませてきたいタイプなので、いろいろと予定をぶちこむ。

 近くて遠い軽井沢、なんかやることあるかなと考えた。
 ……軽井沢のセンセに挨拶でもいってくるか。


 軽井沢には、浅見光彦記念館というものがある。
 私にとっては因縁の館なのだが、むこうにとっては一方的な思い込みだ。

 もちろん迷惑をかけるつもりはない。
 いまさらだが、先生のご冥福を祈る(一昨年、お亡くなりになった)くらいの良識は持ち合わせている。

 軽井沢を舞台にすることもあるので、取材がてらあちこち見てきた。
 高級車の割合が高いことも含め、いつか作品に生かしたいと思う。


 ところでその肝心な浅見光彦記念館だが。
 私が行ったのはきのう、11月26日(木)。

 入り口には、次のような貼り紙があった。
 「浅見光彦記念館は11月23日(月)で本年の営業を終了致しました」

 …………。
 ……またかよ!

 北海道でとある洞窟を訪れたときも、今週から閉鎖です、というようなことがあった。
 毎度、タイミングが悪い。

 通常開館は来年4月かららしい。
 恐るべし、軽井沢の冬。

 目的のひとつは不発に終わったが、まだノーマルタイヤでも平気で走れる軽井沢の秋、行けるところには行こう。
 ひとつだけ言及しておくと、千駄木遺跡を見てきた。

 東京の千駄木ではない。
 なぜそんな名前をつけたのかは知らないが、群馬と長野の境あたりにある岩陰遺跡だ。


 私はたまに旅行をする。
 その目的は、だいたい「心霊スポット」か「洞窟」に限られる。

 名所旧跡とか、景勝地とか、いろいろ趣味はあると思うが、そのなかでもかなり変な部類になるだろう。
 うらぶれた風景に「古代人」の息吹を感じ、そこはかとなく揺れる心をたしなむ。

 人混みが大嫌い、という理由もある。
 だいたい上記のような場所が「混んでいた」ためしがない。

 テーマパークなどのようにお金もかからない。
 せいぜい何百円かで入れる。よっぽど交通費のほうが高くつく。

 で、洞窟のなにがおもしろいのか?
 かつてそこに暮らしていた人々に思いを馳せるとき、鬱勃としてひらめく悠久のインスピレーションが──と、たいそうな理由ではなく、なんとなく「雰囲気」が好きなだけだ。


 さて、晩秋の軽井沢から、「あさま」の指定席で東京まで約1時間。
 そこからは山手線で、有楽町やら高輪ゲートウェイやらをたしなむ。

 五反田の講座については、配信されているらしいので気が向いた方はどうぞ。
 画面の一角には、たぶん私がいる。

 その後、ワイン酒場で一夜を過ごし、解散が翌午前5時。
 帰りの新幹線が6時52分なので、その間を利用して懸案の池上線にも乗れた。

 文字どおり、池上線に乗って帰ったのだ!
 という自己満足を得ることができた。

 軽井沢からの帰路は、遺跡の近くに碓氷軽井沢ICがあったので、ついでに高速で帰ってきた。
 眠くて死にそうな身体に、曲がり道くねくね~の峠道はきつい。

 というわけで先ほど無事に帰宅し、いまこれを書いている。
 今回の五反田行きも、個人的には有意義な一日だった。

 記念館については……来年以降に行こう。
 さすがに疲れたので寝る。おやすみなさい。
 


 私は趣味で小説を書いている。
 いい趣味だと思う。

 一円もお金がもらえないのに、物を書く。
 最近は、ほとんどすべての時間を使っている気がする。

 自由業というのはすばらしいもので、稼ごうと思ったとき、稼ぐ必要のあるときだけ、働けばよい。
 切羽詰まるまで、なにもしないという選択肢がある。

 よって、起きている時間をすべて、趣味に傾けることができる。
 これは逆に言えば、仕事だと思ったらやっていられない。

 二十四時間、意識を傾注する仕事。
 どんなブラック企業だよ、というレベルの拘束時間だ。

 過酷な「仕事」だと感じたら、やめさしてもらうわ! という話になるかもしれない。
 まったく、いい趣味を持ったものだ。


 仕事は楽しくないもの、やらされているもの、という考え方そのものがまちがっている可能性はある。
 本来、もっと楽しんでやるべきもの、やりがいをもって立ち向かうべきもの、そういう仕事に就くべき、というのが正解だろう。

 が、残念ながら多くの人々にとって、仕事は「しかたなくやるもの」だと思われる。
 私だって、金転がして利ザヤすっぱ抜く仕事なんて、いやでいやでしかたない。

 そんなにいやなら、やらなければいい。
 というわけで、やっていない。


 毎月短編と、別途賞レース用の短編一本と、長編を二編、そして毎週の連載小説。
 おまけに、このブログ。

 現在のところ、これらの「趣味」で手いっぱいだ。
 しばらく働かなければ、確定申告も楽になるだろう。

 来年3月の長編2本の締め切りまでは、このペースでやっていく感じになりそうだ。
 思えば3年前の春も、とある企画ものの推理小説で似たような環境にいた。

 たまに、こういう結果の出ない趣味に埋没するというのも、悪くない。
 膨大な資料読みも、目的をもって楽しんでやっている。

 ひたすら頭は使うが、金はほとんど使わない、というのも地味に助かる。
 世の困った趣味の持ち主のように、金の切れ目で周囲を巻き込むこともない。

 来週の講座に向けた直近の締め切りはクリアしたので、次は来月と、再来月のための短編仕上げだ。
 地味にがんばろう……。
 


 邦画の走り屋系映画を観ていた。
 冒頭、作中の走行シーンはプロのドライバーが云々、決して真似しないでください的な注意が出た。

 もちろんコンプライアンスは大事だ。
 いかに違法な走行をするシーンであろうと、合法的に撮らねばならない。

 さて、しばらく眺めていると、目測で時速30キロくらい、たしかに交通ルールを順守し、安全運転を心掛けた撮影らしいと納得のシーンがやってきた。
 牧歌的な一般道、追い越し車線を走る軽トラに抜かれている。

 問題は、そのとき助手席の男が、運転席に向けて言った言葉だ。
「おい、そんなに飛ばすなよ」

 冗談を言ったのかなと思ったが、会話では、なんか用があるから急いでるんですよ先輩、みたいな流れになっている。
 どうやら突っ込むシーンではないようで、淡々と進む物語に唖然とした。

 いくらなんでも、軽トラに抜かれざま言うセリフじゃないだろ……。
 もっと空いてる道で撮ればいいのに……。
 わざと突っ込ませたくてやってるのか……?

 そこまで考え、突っ込んでいる自己を嫌悪する流れになった。
 つまるところ、ホームビデオのような低予算映画にそういうリアリティはいらないという監督の判断は、いかんともしがたい。

 いまでは北米市場で高価なプレミアムカーとして知られるバブルの日本車たちは、眺めているだけで楽しい。
 R32やFDや80スープラなどがぞろぞろ出てきて、その世代の人間をホイホイするための映画だ、と割り切って眺めることもできる。

 もちろん昔の映画なので、製作当時にそういう意図はなかったろうが、現在はそういう人々に向けて配信されている(と思う)。
 そんなに飛ばすなよ……。


 邦画に限らず、洋画にもクソ映画は多い。
 いやむしろ洋画のB級こそ、圧倒的な物量を誇るといっていいだろう。

 そこで私は、とくに古い映画を観るときは、他人の意見を参考にすることにしている。
 たとえば、信頼できるレビュアーの評価で、41点という作品があった。

 ドルフ・ラングレンの大ファンである彼のレビューが41点ということは、たぶんラングレン・ポイントが40点、ということだろう。
 残念な感じの作品でも、そうと理解したうえで観るなら耐えられる。

 私は基本的に他人の言うことを信じるので、パッケージの惹句だけで観るときの評価は、最低になりがちだ。
 売り文句ほど名作だったためしは、ほぼない。

 そもそも最初にハードルを上げてしまうのは、あまりいい選択ではないと思う。
 辛口レビューが前提だと、それがなくなるだけでプラスだ。

 だまして釣る、というのは良くない。
 うそつきには、常に報いが用意されなければならないと信じている。

 人をだませば、それだけ信頼を喪失する。
 これをくりかえした結果が、私の「商人」に対する激しい憎悪だ。

 その点、信頼できるレビュアーというのは、海のものとも山のものともわからない映画を観る前には、とても助かる。
 予想以上のおもしろさ、というご褒美に出会える可能性も高まる。

 クソみたいな映画、時間の無駄、などと言われるとホイホイ観てしまう。
 げらげら笑って観られる(こともある)。

 私は本来、「B級」映画も好きだ。
 ただ、あたかも「A級のフリ」をして釣ってくるB級については、心底から嫌悪することにしている。

 だまして売るとか、そういうこと平気でできる人。
 必ず報いを受ければいいのに……。
 


 自意識過剰は、映画監督にとっての死らしい。
 クリストファー・ノーラン、いいことを言う。

 ご存じない方のために説明しておくと、最近『テネット』を公開した、売れっ子の映画監督だ。
 『バットマン』シリーズや、『インセプション』『インターステラー』が有名。

 このノーランの言う「自意識」は、「くりかえさないことをしない」という意味のようだ。
 作品群を通してではなく、「自分が伝えるべき物語や、観客に最高の映画体験を与える最善の方法として、モチーフがある」といったようなことを述べていた。

 よく意味はわからない。
 難解でありながら一定の興行収入を得られる監督なので、けっこう多くの人に届いているのかもしれない。

 私はそれほど賢くないので、結局のところ「それは観客が決めることだ」という言葉に従うことにしている。
 ちなみにこれは『メメント』の結末について、記者会見で問われたときの答えである。

 その後、自分の意見を述べたこと自体を反省していた。
 以後、監督の意見などどうでもいい、観客が決めるべきだ、という姿勢を貫いている。

 じつに正しい意見であり、どこからが適正な自意識で、どこからが過剰かも含めて、観客自ら決めればよい。
 ちなみに私にとっては、指針のひとつとして「手持ちカメラ」がある。

 あくまでも私が過剰と判断する自意識だ。
 そうでない人がいても、いっこうにかまわない。


 最近は、素人でも画面の揺れない快適な動画を撮影できるようになった。
 にもかかわらず、わざわざ画面をグラグラ揺らす映画監督がいる。

 以前にも書いた気がするが、三半規管の弱った老人には拷問のような撮り方だ。
 しかし、彼らにとってはそれが安価に達成できる「臨場感」らしい。

 映画表現の重要な動機に、自己顕示欲がある。
 私にとって、その自意識が過剰になって見える部分、それが「手持ちカメラ」だ。

 自らの手の揺れを、視聴者にそのまま伝えられる。
 生きている俺の手ブレを見ろ!

 知らんがな。
 そういう自意識過剰、ドブに捨ててくれよ、といつも思う。

 低予算なので高品質なセットや特殊効果が用意できないから、画面を暗くしてごまかす、というのはまだ納得できる。
 視聴者に、さほどのダメージがない(時間を無駄にするくらいはあるが)。

 だが、手振れは視聴者に直接的なダメージがある。
 多くの人々が、ぐらぐら揺れる画面で気持ち悪くなっている。

 予算が足りないのはしかたないにしても、そういう被害をもたらすような自己顕示欲は許せない。
 そんなにいやなら見なければいいじゃん、という意見もあろうが、私の場合、映画自体は好きなので、以下のような対処法をとっている。

 邦画であれば、画面を見ずに倍速音声だけで内容を理解する。
 洋画であれば4倍速にして、字幕だけを見る。

 これで、苦痛の程度を一定程度、改善できる。
 みなさんも、ぜひ一度おためしいただきたい。

 もちろん、そういう自意識を過剰と思わない人は、ふつうに観ればよい。
 あくまでも私見だ。


 予算なんかなくても、いくらでもおもしろい映画は撮れる。
 古い映画で、カルトなファンがついているような作品は、その傾向が強い。

 先ほど『ダーク・スター』を観たのだが、じつにおもしろかった。
 74年の古典SFコメディで、げらげら笑えたし、プロットもよくできていた。

 ただのビーチボールのエイリアンをはじめ、特殊効果など時代を考えてもまったく金がかかっていないことは、よく伝わってくる。
 それでも、おもしろいのだ。

 一時期、雨後のタケノコのように量産されたモキュメンタリーの監督たちは、こういう作品を見習うべきだ。
 画面を揺らすなんて、だれでもできる。

 もちろんダメ映画にも、それはそれでいい部分を探す楽しみはある。
 が、せっかく時間を使うのだから、やはりいい映画を観たい。
 


 大統領選の結果が、おおむね出たようだ。
 前回ちょっと書いたとおり、結果はどうでもいい。

 選挙的なものでいえば、大阪都構想についての結果も出た。
 こちらについては、とても喜ばしい結果であるので、ちょっと語っておこう。

 5年前と同じように、大阪都構想は否決された。
 なぜ喜ばしいか。

 決めたことをやる。
 当然に受け入れるべき否決を、5年でやり直すとか低能すぎるからだ。


 ブレグジットが決まったときも、直後から、投票をやり直せという意見がありますと紹介していた池上さんのことが、ちょっとキライになったことがある。
 突拍子もない意見はどこにでもあるだろうが、まともなジャーナリストがまじめに取り上げるべきではない。

 決めたことをやる。
 この当たり前のことをやろうとしているイギリスに、頭から冷水をぶっかけるような報道に見えた。

 私は根本的な信条として、「言ったことをやる、できないことは言わない」ようにしている。
 だから、テキトーなことを言いがちな政治家や商人が、虫唾が走るほどキライだ。

 選挙の結果というのは、つまり「住民がそう言った」ということだ。
 多数決という名の総意、それが選挙だろう。

 大規模な不正があったとか、軍が介入したとか、そういう攪乱要因があれば別だ。
 が、ふつうに選挙をした結果を、ふつうに受け入れられないのであれば、それがふつうではない国へ行くしかない。

 やり直すべきではない住民投票をやり直した。
 この時点でクソ判断だが、あらためて否決されたのは非常に喜ばしい。

 住民が多数決で決めたことに従えないなら、自分が出て行くのが手っ取り早い。
 もちろん住民の半数が出て行くなど現実味はないわけだが、すくなくとも投票をやり直すなんてバカげた話だけは、吐き気をおぼえずには聞けなかった。

 そんなに「都」が好きなら、勝手に東京都にでも行けばいい。
 それか京都に引っ越して、同じ住民投票を画策するなら私も応援した。

 京都府ってなんだよ、と小さいころ思ったことを思い出す。
 やはり京都は、京都がよい。


 多数決に「数の暴力」というリスクがあることは承知している。
 しかし残念ながら、「数は力」という方式が、民主主義国家では正義ということになっている。

 あとは選んだ住民が、自らの民度の責任を負うだけだ。
 私も大阪には数年ほど住んでいたが、今回の判断がいちばん感心した。

 この民度を問うような投票を憎んでいるのが、「いわゆる」知識人の方々だと思われる。
 「愚かな民衆を自分たちが導く」という姿勢で政権運営している国も、現にある。

 頭がいい人々らしいので、EUを離脱したりトランプを選ぶような、バカなまねはしない。
 そんな道を選ぶ反革命分子は、軒並み逮捕して、収容所に送ってしまえばいい。

 彼らが、彼らにとって都合のいい国をつくったら、どんなふうになるかは地図と歴史を見回せばわかる。
 この国がそういう国でなくて、ほんとうに助かった。

 ともかく、右でも左でも、えらそうにしている連中というのは、ほとんどの場合えらくない。
 えらそうにまちがう政治家や社会学者は、もうすこし謙虚になるべきだ。


 エリートだろうが衆愚だろうが、決めたことはやらねばならない。
 できないなら、決めないことだ。

 私も、「ぜったい」とか「死ぬまで」とか、そういうできそうもないことは決めないようにしている。
 「しばらく」禁酒するとか筋トレするとか、そのくらいのルールなら守れる。

 しばらくしたら、また決め直せばいい。
 ……とは思うが、議員の改選でもあるまいし、住民投票のスパンとして5年は短すぎだ。

 自分の気に入る結果が出るまで、延々とくりかえす。
 そんなバカな投票、あっていいはずがない。

 大阪民国の人々が冷静な判断をしてくれて、ほんとうによかったと思っている。
 あとは淡々と、「決めたことをやって」ほしい。
 


 そろそろアメリカ大統領選らしいので、結果が出るまえに一言だけ残しておきたい。
 政治家ぎらいなので、結果の予想はしない(どうでもいいので)。

 正直、政治そのものにあまり興味がない。
 が、トランプという人物については、とてもおもしろいので、なんとなく眺めている。

 ちょうど4年前、リベラルというか「いわゆる知識人」どもが、トランプをバカにして、こんなやつ大統領になれるわけないじゃないですか、論外ですよ、みたいなことを言っていた。
 イギリスのEU離脱のときもそうだが、自信満々でまちがいを吐き散らす社会学者とかいう連中に、ほとほと嫌気がさした時期だった。

 経済学者の「予想」が外れるのは、いつものことなので慣れている。
 言っている彼ら自身、当たるも八卦な感じを出していることも多い。

 しかし一部の社会学者どもの、あの人を小バカにしつつド外した論評は、いま思い出してもほんとうに吐き気がする。
 学者というのはおしなべて尊敬することにしている私だが、唯一、バカにし(返し)ていいのが社会学者だと思ったくらいだ。

 彼らはだいたい、トランプが大統領になるわけない、イギリスがEUから抜けるわけがない、というようなスタンスで活動していたが、結果はご承知の通りだ。
 その後の分析で、多少、殊勝なことを言っていた学者もいたが、まだ何人かどうしても許せないやつらがいる(だれとは言わない)。


 とはいえ、トランプが勝つのはさすがにおかしいように、私にも思えはする。
 彼らの気持ちは、わからないこともない。

 トランプが強いというよりは、ヒラリーが弱かっただけじゃないのか、というのが当時の率直な感想だった。
 その考えの当否が、今回、明らかになる。

 あのトランプに「負けられる」という部分のみをもって、女が大統領になるのはあと50年は無理なんじゃないの、と思えた。
 ヒラリーを女の代表に据えることには議論の余地もあろうが、大統領候補である以上、いちばん強い女を出してきたはずではないか?

 アメリカの内側から眺める選挙と、日本を含めた海外から眺める大統領選は、かなり空気が異なるらしい。
 それでも、そうとう弱い男(選挙的な意味で)のトランプに「負けられる」というのは、女が弱すぎるということではないか。


 もし今回、バイデンが負ければこの考えは改める。
 トランプは強いのだろう。

 が、順当にバイデンが勝つなら、ヒラリーが弱かった、ということだ。
 敷衍すれば、女は弱い、下駄を履かせてもらわないと勝てない、と表現してもいい。

 ただし、この表現には「アメリカという国の性質において」という枕詞をつける必要がある。
 女の強さは世界中、さほど変わらない。

 先にも書いた通り、アメリカ国内から見る選挙というのは、育ってきた環境の異なるわれわれからは、なかなか理解しがたい部分も多いようだ。
 突っ込みどころ満載の国、アメリカ合衆国。

 正直、あまり好きではないのだが、宇宙と映画だけは評価している。
 それ以外の部分に目を背けつつも、大統領選だけは生ぬるく眺めたい。


 トップが男だろうが女だろうが、世界はそれほど変わらない。
 もっと決定的に変える可能性がある「基礎技術」の発展こそが、なにより重要だと思う。

 その意味で、今回の選挙も興味深いデータとして蓄積されるのだろう。
 ちなみに株式相場は、どっちが勝っても上昇を織り込んでいるという。

 いつも通り、相場師どもがテキトーなことを言っている。
 なんだよそれ……。

 


 五反田に行ってきた。
 SF創作講座というところで学んでいる。

 引きこもりの私にとって重要なのが、往復のルートだ。
 前回は新幹線を使ったので、今回は特急で行くことにした。

 毎回、別の交通手段を使う、というマイルールを設けるつもりはないが、せっかく外出するのだから同じことはしたくない。
 乗り鉄傾向のある私は、移動方法を考えること自体が楽しい。

 草津4号が、ピッタリの時間に走っていた。
 草津よいとこ一度はおいで。

 上野から長野原草津口をつなぐ特急列車、特急草津。
 JR東日本651系、交流直流両用特急形電車。byウィキ。

 私は鉄オタではないので、ぶっちゃけこういう情報にあまり興味はない。
 ちょっと乗るのが好きなだけの一般人だ。

 高崎まではクルマで行った。
 献血と買い物がてら、16時46分発に乗り込んだ。

 平日(木曜)ですいていたので自由席に乗り、チケットは車内で買った。
 赤羽までプラス950円、ふつうにスイカで払える。

 埼京線に乗り継ぎ、五反田へは開始時間の10分前に着いた。
 15分前に着ける予定だったが、高崎線と埼京線で二度の臨時停車が入った。

 一度は乗客の荷物がはさまれたからどうこう、二度目は踏切の安全確認がどうこうで、どちらも2~8分程度の遅れだった。
 回復運転に励んでくれたおかげで、予定より5分遅れで間に合った。


 引きこもり生活が長いので、定期的に電車に乗るという行為が新鮮だ。
 通勤や通学で毎日乗っていたころには感じたことのない、鉄の血のうずきを覚える。

 ……いや、何度も言うが私は鉄オタではない。
 ただちょっと鉄分が多めなだけだ。

 乗り継ぎの経路とか時間とか、調べるのが楽しい人はいると思う。
 次回は、クルマで軽井沢まで登ってから新幹線で降りてこようかな、などと考えている(一般的にはアホな乗り方だ)。

 マイナポイントはスイカで申請したので、5000円分、よけいに乗れる。
 コロナにも飽きたし、GoToも利用して移動を楽しもう。

 ちなみに講座には大阪や岡山など、遠方からの方々も参加している。
 最近は、とくにホテルが安くて助かるらしい。

 11時半に講座が終わり、その後は毎度、朝まで飲み会だ。
 コミュ障の私にとっては若干違和感のある時間だが、なんとかご迷惑をかけないよう心掛けている。

 最終電車が早まるまでもなく、そもそもその時間では帰れない。
 不可避的に飲み会に参加し、始発を待つことをくりかえすことになるのだろう。


 今回、その帰り道、猛烈に年を感じた出来事があった。
 電車内で意識を失い、座っていたシートから滑り落ちたのだ。

 始発の山手線でその手のバカチンは見慣れたものらしく、周囲の人はなんの反応もなく自分のスマホをいじっていた。
 (おそらく)数秒後、かろうじて意識を取り戻した私は、座っていたシートに這い戻り、姿勢を保つ努力だけに意識を傾注した。

 血を400抜いて、飯もろくに食わず朝まで酒を飲めば、そうなってもおかしくはないような気もする。
 自分の限界を知る、いいきっかけになった。

 若いころはイケたのだが、泣く子と年には勝てぬ。
 認めよう、反省とともに、愚行はくりかえすまい──。
 


 先ほどスーパーで買い物をしてきた。
 支払いのときにちょっとイラっとしたので、記録しておく。

 ペイペイで支払うことを告げ、スマホを取り出した。
 カメラ位置を確認し、QRコードを寄せるが……読み取り画面がよく見えない。

 リーダーの周囲に透明フィルムが垂れこめていて、それが太陽光を反射しているせいだ。
 通常の時間帯はいいのかもしれないが、私が行った時間帯では、反射光で画面がほとんど見えなくなっていた。

 感染対策をするのはいいが、QRリーダーの使い勝手の検証が不十分だ。
 さすがに全時間帯まで手が及ばなかったのかもしれないが……まあ、それはいい。

 そこまではいい、問題は、そこからだ。
 見えねえなあ、と支払いで手間取っていると、そこの機械にかざすんですよ、カメラのところに、と透明フィルムのむこうからレジのおばちゃんがバカにしたように説明してくる。

 知ってるよ! その画面が見えないんだよ!
 突っ込もうとしたとき読み込み音がしたので、言いそびれてしまったのが残念だ。

 おっさんが若者ぶってペイペイとか使おうとするからだ、使い方わかんねーんだろ滑稽だなげらげら、と内心で嗤われているかと思うと腹が立つ(被害妄想)。
 うしろのばあちゃんもガマ口から小銭出してたし、みんなニコニコ現金払い、それが田舎の本来あるべき姿ということか(偏見)。

 とりあえず機械だけは導入したけど、使っている人を見たことがない田舎の郵便局のクラウドプリントサービスに似ている(経験)。
 だから、たまにナウなヤングぶってモーレツにフィーバーしようとする(?)おっさんに対する冷遇がハンパないんだろう(思い込み)。

 そんなことを思いながら、山道を登ってきた。
 たまに買い物に行くと、ネタが拾えて楽しい。


 とはいえ買い物の多くは、もはや家から出るまでもなく完結する時代になってしまった。
 田舎までモノを運んでくれる人がいるのは、とてもありがたい。

 家で買い物をすればネタが拾えないかといえば、そんなこともない。
 盤石の被害妄想をもってすれば、どんなときも、いやな気分になれる(阿呆)。

 いくらでも例はあろうが、たったいま、それを感じた。
 パスワードなどにおける「半角英数」問題だ。

 彼らはなぜ「全角」を認めず「半角英数」を強要するのか。
 他のあらゆるサイトでも日本人を、いや2バイトコードを利用する世界の入力者たち全員を敵に回すような仕様がまかり通っている事実に、目を背けてはなるまい。

 2段階認証で、たとえば2468という数字が通知されたとする。
 それをふつうにテンキーから入力すると、私の場合、全角になる。

 たいていの日本人は、日本語入力モードを使っていると思うので、ふつうに数字を入れると全角になるはずだ。
 「テンキー入力は常に半角」など細かく設定はできるものの、そういう人は少数派ではあるまいか。

 全角など打ち込もうものなら、半角で入力してください、と弾かれる。
 ……なんでだよ!? 同じ数字だろ、全角を受け入れろよ!

 世界は半角アルファベットでできているから、全角とか寝ぼけた文字コード使ってる連中は、ひと手間かけて時間を浪費してろや、げらげらげら、と1バイトコード圏のやつらに指さして嘲笑されている(いつもの被害妄想)としか思えない。

 しかし、この忌まわしい風潮にも、風穴があけられつつある(気がする)。
 ヤフーのサイトで、2段階認証の数字が全角でも受け入れられたのだ!

 ようやく時代が追いついてきたことを感じたが、まだまだ世界は半角に満ちている。
 われわれの戦いは、はじまったばかりだ!(第1部・完)