じつにおもしろいというか、くだらなすぎて笑ってしまった。
 オリンピック組織委員会の元会長、森氏の発言とそれにまつわるドタバタ劇についてだ。

 どうでもいいというのが正直なところなのだが、まじめに掘り下げるという選択肢もある。
 考えれば考えるほど、笑っている場合ではないと思った。


 まず、発言そのものの真実性について。
 女性がたくさん入っている理事会は時間がかかるらしい。

 とても興味深いので、統計的なデータがあるなら示していただきたい。
 事実そうであるなら擁護すべきだし、誹謗中傷であれば弾劾されるべきだ。

 検証が難しい可能性もあるが、すくなくとも個人的な印象であることは事実と思われるので、森氏は比較可能な複数のデータを示していただきたい。
 私のように「ファクト」を重視する人間にとっては、まず彼の発言が統計的有意に正しいかどうかを知りたいのだ。


 さて、次に、正しかろうがまちがっていようが、女性蔑視だからダメという人々に問いたい。
 あなたは「ジェンダーレス」という思想に同意する者、ということでよろしいか?

 とくに掘り下げるつもりはないが、最低限の知識として、ジェンダーレスというのは「男女の性差を決めつけてしまう考え方をやめよう」としている人々だ。
 ジェンダーフリーやユニセックスとも微妙に異なる考え方らしいが、男らしいとか女らしいという概念そのものを駆逐したいらしい。

 私個人としては、彼らの考え方は、それはそれであっていいと思っていた。
 一方で、従来通りの考え方を守っている人々も、いていいはずだ。

 いろんな人が共存するのがあるべき社会と思うが、どうやら自分たちの考え方にそぐわない人は去れ、という主張が今回まかり通った。
 平等と多様性を重視するオリンピックでは、古典的な考え方という多様性は認められないらしい。

 すくなくとも組織の偉い人として、森氏は不適格ということのようだ。
 ここ最近、彼は「たたきやすい人」の地位に立たされている。


 マスコミにとって、いや一般人にとっても、「たたいてもいい人」というのは、とても便利だ。
 クソみたいな放火犯とか、たしかに否定する以外の選択肢がない犯罪者をたたきのめすのは当然だし、それによって一体感を得るのも悪くはない。

 とあるインターネット放送をよく聞くのだが、そこで信頼している発信者さんも、嬉々として森氏をたたいていた。
 若干下品だな、と感じるほどに。

 マスコミ畑を生きてきた彼らにとっては、これは「上手に料理すべき天然素材」なのだろうと思われた。
 むしろ、骨の髄まで使い切ることが素材に対しての義務である、とすら思っているのかもしれない。

 前後の文脈から冷静に分析すれば、ここのみを抜き出してあげつらうことの真意について、正しいのか疑問を感じる人々も少なくないだろう。
 もちろん「あげつらう」ことが仕事のマスコミは、都合の悪い部分は基本的に無視する。

 アジェンダ・セッティングの権利は、マスコミが持っている。
 われわれがこの部分に注目しろと言ったら、愚民どもはそこのみを見ていればいいのだ! という理屈である。

 確信犯とボーンヘッド。
 そんな構図が見えて、短く嘆息した。


 すこし気になったのは、彼をたたく人々の属性だ。
 相当多数が「東京オリンピック即刻中止」論者の方々とかぶっているが、彼らに利用されるのもやむなし、という立場でよろしいのか。

 私は基本的に政治家という連中を虫唾が走るほど嫌悪しているので、森氏を擁護するつもりがさらさらない。
 かなりの「剛腕」政治家らしいことは仄聞しているので、たぶん「きらいなタイプ」でもあると思う。

 ただ、森氏個人については、部分的ではあるが、私と似ているところがあるように感じてしまった。
 周囲に女の勢力が強いという生育環境と、受けた恩義を返すという生きざまが、だ。

 石川の選挙区で、最初は田中角栄に助けを求めたらしいが拒否されたので、岸信介を頼った。
 このとき田中角栄が動いていれば、すこし歴史が変わっていた、ともいわれている。

 ともかく事実上、助けてくれたのが岸信介だった以上、返すべき恩は清和会にある。
 恩を受けた政治家(岸信介)の下につき、その勢力の伸長に力を尽くした。

 人間的には魅力的でもあったようだが、ともかく失言が多い。
 そんなわけで、こんなことになった。


 そもそも老害が支配するほうが、女性が支配するよりろくでもない。
 もっと高性能な若手に替わればいい、とは思う。

 とはいえ、ただこの発言のみを理由に、彼をたたいて済まそうという気持ちにならない。
 むしろその周囲の動き方のほうが、気持ちが悪い。

 森氏を看板の「的」にして、あるいは「弾除け」にして、多くの組織、利権が蠢いている事実は揺るがない。
 今回、多くの受益者は沈黙したまま、森氏を切り捨てる方向で動いた。

 その後の動き、政界のどろどろした権力闘争とか、利権団体と闇の組織とか、真の政治的理想(笑)とか、絡まり合う事情が落ち着く先へ、何人かの「調整さん」たちが動いて「落としどころ」を探った結果。
 大山鳴動して鼠一匹ということかもしれない。

 森氏がネズミだとしたら、たしかに騒がしいネズミだった。
 毎度お騒がしすぎて、もっと大事なことから目を背けさせるためかな、と穿ってみたくもなる。


 どの程度の失言なのか、という部分も、いまいち伝わりづらい。
 民間人が私的な場で言えば、なんの問題もない発言であることまでは、疑いない。

 事実、その場で聞いていた人々は、ふつうにスルーしていたようだ。
 発言自体ではなく、発言者の立場と状況が、このような事態をもたらしたということだ。

 たとえば、髪は女の命なの! と言っている女優さん。
 ふざけんなよ、女はハゲだって命に関係なんかねえよ、多様な女の価値観を認めないあの女優を干せ! という展開には、あまりならない。

 性差におけるイメージを全払拭したい人々の野望は、かなり前途遼遠だと思うのだが、今回、途中までそれに同意することがどれだけ社会的合意を得ているか、よく見えた。
 あの程度すらダメなんだ、とびっくり。

 そんな私を置いてきぼりにして、それが当然、みたいな暴論(私にとって)が平気で流通しているのをみると、いやな思い出ばかりが脳裏をよぎる。
 彼を攻撃している人々の姿が、私の性格を根本的にゆがめてくれた「知障を保護しない健常者はいかなる児童もつるし上げ」という人々の姿に、とてもよく重なるのだ。

 この件について説明すると長くなるので今回は省くが、要するに彼らは私にとって「偽善者」以外のなにものでもない。
 森氏のことを腐したいのに、その敵対者が気持ち悪すぎてすなおに叩けないのが、なにより苦々しい。


 私はいつも、だれの敵にもならないが味方にもならない、という態度を「最初は」貫いている。
 なぜ最初だけか。

 「先に」こちらを敵だと決めつける相手に対しては、お望み通り戦うしかないからだ。
 先制攻撃者に白旗を上げることだけは、けっしてできない。

 わかりやすいのが「イジメは助けない者も加害者」という論調だろう。
 私の考え方によれば、イジメを見過ごすような連中はどう考えても味方ではないが、だからといって加害者扱いもやりすぎだろ、と思う。

 イジメる側の問題が大きいことは事実にしろ、イジメられる側も無問題ではないはずなので、ただちにどちらの敵にも味方にもならない。
 そういうふうに、私は生きてきたし、生きたい。

 というわけで、彼らにとって私は「敵」になる。
 相手がそう望むなら、やむを得ない、倍返しだ。


 なにもやっていない人間に対して、敵だと決めつけて罵詈雑言。
 これは「先制攻撃」にあたる。

 先制攻撃だけは、許されてはいけない。
 徹底的に戦う必要があるが、これは、そうとう厳しい戦いになる。

 なぜなら、私の「先制攻撃を許さない」という態度は、多くの狂信者、サイコパス(悪役はつねに先制攻撃をする)にとって、最悪に都合が悪い選択肢だからだ。
 攻撃しても反撃を受けないというパラダイスこそ、彼らは望んでいる。

 この論理的必然は、とても大事なことなのでくりかえそう。
 先制攻撃者にとってもっとも都合が悪いのは、反撃されることである。

 殴りつけなければいいだけの話なのに、殴り返すのが悪いという意見が、恐ろしく広く行きわたっている。
 完全に、まちがっている。


 私は自分の人生に、一貫性を持ちたいと思っている。
 先に悪いことをしようが、良いことをしようが、やったことは返すべきだし、返さなければならないし、必ず返ってくる、という原理原則を守りたい。

 だから恩義を返す部分の森氏には同意するし、バイアスのかかったマスコミの決めつける論調にも、ただちに同意できない。
 ポリコレが暴力になりうる点について、慎重に見極める必要がある。

 結論。
 森氏が老害かどうかはともかく、老人であることは事実だ。
 若い人、がんばってください……。

 


 アジア映画でひさしぶりに、いい作品に出会った。
 『ドラゴン×マッハ』だ。

 正直、かなりおもしろかった。
 信頼できる映画ブロガーさんも絶賛していたが、ほぼ同意する。

 いくつか気になる部分はあったものの、おおむね満点に近い。
 中国映画も、やるときはやる……まあ私は香港映画だと思っているが。


 すぐれている部分は、やはり「キャラ」だと感じた。
 マンガ関係者が、魅力的なキャラを作ることを最重要視するのは、やはり正しい。

 役割ごとに描き分けられていて、いちいちカッコイイ。
 いわゆる「キャラが立っている」作品に、失敗は少ない。

 とくに「敵がスゴイ」のは、かなりポイント高かった。
 正義の側がふたりがかりで、ぎりぎり倒せる悪の「所長」の存在感がすばらしい。

 味方はもちろんだが、敵や、モブにまでそれなりの感情移入ポイントがある。
 余韻を残す描き方や、考えオチのエピソードも盛り込まれている。

 物語も、及第点以上に練られている。
 白血病とか臓器売買とか麻薬組織とか、個々のワードは使い古されているものの、破綻なく組み立てられていて無駄がない。

 そもそもアクション映画なのだから、格闘シーンのクオリティが高ければジャンルとして成立する。
 キャラクターやストーリーはオマケの加点部分にすぎないのだが、そこも悪くない仕上がりだから、減点するのが難しい。

 ひさしぶりに、いい映画を観た。
 これからは中国映画の視聴を増やしてみようか……。


 私は基本的に、世界中のどんな映画も(字幕さえついていれば)観る。
 ただ、いっさい観ない国がある。

 世界の映画はあまりにも多いので、全部を観るわけにはいかない。
 そこで、テキトーに選んで観るしかないのだが、そのテキトーなフィルターで最初に弾くのが、韓国映画だ。

 クオリティ云々が理由ではない、アカデミー賞もとったらしいし。
 そもそも観ないので、品質が高いか低いかもわからない。

 なぜ観ないのか?
 なんとなく、彼らが「観てほしくなさそうだから」だ。

 とくに剣呑な話をするつもりはない。
 私は嫌韓でも反韓でもない。

 韓国映画を観ないからネトウヨ、みたいな見方は早計だ。
 その考え方を踏襲すれば、邦画もあまり観ないので国賊ということになりかねない。

 最近、中国映画をよく観るようになった私は、共産主義者なのか?
 そんなわけがない。

 全部観るわけにはいかない映画を、結局、どこかの段階で選ばなければならないので、わかりやすい機械的な指標を導入しただけ、というのが真実に近い。
 国際関係をオミットするわけにもいくまいが、映画ならさしたる害もなかろう。

 しょせん個人の話でもある。
 そもそも、韓国は「無視」するのが最善、と当の在日韓国人に教わった。


 あれは二十代のころ、派遣先で知り合った人物だった。
 顧みれば、ひとりの人間の発言が、意外に大きな影響をもたらすことがあるという、いい証左でもあろう。

 彼は言った。
「韓国のことは無視するか、北朝鮮を応援するのが、日本人としては正解だと思うよ」

 いま思い返しても、かなり皮肉の効いた意見だとは思う。
 当時の私には、きちんと理解すらできてはいなかったが、考えれば考えるほど納得する部分が大きい。

 十五年以上も前、すでに拉致問題もあったし、私も若かったので強く反論した。
 すると彼は、ごく冷静にこう言った。

「韓国が仲良くしたがっているように見えなかったら、仲良くする必要はないけど、だからってやり返すのもどうかと思うよ。
 かまってちゃんをかまったら負け、みたいな感じかな」

 当時の私は、ただ彼が日本人をなだめすかすために言ったのだ、と思っていた。
 クレバーな在日だな、と。

 だが、韓国人がわざわざ敵である北の側につけ、と言う理由を真剣に考えるべきだった。
 人権派弁護士出身の大統領にも聞かせてやりたいが、要するに、朝鮮半島には38度線があったほうがいいのだ。

 もちろん私は、いまでも「やられたらやり返す倍返しだ」という思想をもっているので、彼の考え方を全面的に肯定しているわけではない。
 ただ、頭のいい韓国人もいることを自分に言い聞かせるため、その言葉を尊重したいと思っている。

 だからって映画とは関係ないだろう、という反論は即座に聞こえてきそうだが、もちろん先刻承知だ。
 頭のいい韓国人の見解を尊重しつつ、自己の原理原則を貫いた答えは、以下のようになる。

 関係ないことを関係ないこととして扱える人々に対してのみ、関係ないことを関係ないこととして扱えばよい。
 以上だ。


 というわけで、さすがに北朝鮮を応援したくはないので、私は基本、あちらの方向はあまり見ないようにしている。
 とはいえ、ものを書く人間なので、一応最低限のことは知っておいたほうがよかろうと、報道番組などでテーマが半島問題であっても我慢して見ることは多い。

 だいたい、見なきゃよかったなと思うのだが。
 とくに最近、納得できなかった番組の解説者の言葉について、備忘録として書き留めておこう。

 例のごとく、慰安婦とか徴用工の問題だった。
 問題というものは終わらせてはならないのだな、と思いながら眺めていると、韓国について解説する教授はこんなことを言っていた。

「日本政府の「解決済み」という姿勢は理解するが、事実、韓国でこれだけ大きなムーブメントになっている。
 そこで、日本政府がなにも対応しないということは、無理なのではないか」

 さて、こんどは別の文脈だ。
 日本に新たにやってくる韓国大使について。

「日本のマスコミは、韓国の新しく赴任した大使に対して、ネガティブな報道が多すぎる。
 両国の友好のために、もっと寄り添った報道姿勢をとるべきだ」

 国民の感情が相手国の対応を変える理由になる、と一段目で主張している。
 その国民の感情を大きく左右するマスコミの態度に文句を言うなら、さらにひどい報道姿勢である韓国のマスコミは、いったいどうしたらいいのだろう?

 朝鮮日報とか東亜日報とかの翻訳が、ちょいちょいヘッドラインに乗っているので、流し読むこともある。
 彼らの態度の半分も、日本のマスコミには厳しさが足りない、といつも思う。

 韓国の報道はいいけど、日本はダメということだろうか?
 もちろん彼女が、韓国のマスコミに対しても同程度の苦情を宣っているなら別だが。

 国民の感情とやらは、だれがつくるのか?
 自分たちがやっているのと同じ方法を相手がとっているだけだとしたら、苦情を宣う筋合いはあるのか?

 報道姿勢を決めるのは、残念ながらその国の国民だ。
 マスコミがゴミになるとき、一定程度、自省的にならざるを得ない。

 まずは自国に対して、それから同程度、他国に対して。
 ごちゃごちゃ言いたければ、まず自分にその資格があるかを問うてもらいたい。


 そもそも、ほんとうに客観的な発言というものは、それ自体が非常に難しくはある。
 ただ、「国民感情がこうだから配慮しろ」を認めれば、歴史からなにも学んでいないということになるまいか。

 事実として、国内が混乱していたほうが、国際関係のやり取りが優位になるということは、よくあった。
 たとえば、国内の経済が混乱しているので借金はしばらく猶予してくれ、という外交的な要求は通りやすい。

 敷衍するまでもなく、自国内の世論を政権に都合よく誘導すれば国際関係まで有利、という論理的展開は容易に想定される。
 それを「内政」と言い張るのが、腐った政府のお仕事だ。

 さて次は、この理屈をかの国に援用すべきか、という問題になる。
 そうしろ、というのが件の教授の主張だ。

 彼女がどの立場か、最初からわかっていたからべつに驚きはない。
 政府のお仕事を支援すれば、どこかで利益にはなるのだろう。

 直近の日本政府すら、その利益に貢献してきた。
 当然、彼らが「去年まで餌ほりこんでくれてたろ、今年もくれよ」と要求したくなる気持ちはわかる。

 しかし時代は変わった。
 いや、変わらなければならないのだ。

 件の頭のいい韓国人は、まだ無視しろと言うだろうか。
 いまも彼の言葉を朴訥に守っている者としては、とても興味深い。


 と、いろいろ述べてきたが、正直、世界地図がどうなろうと、勝手にすればいいと思っている。
 ほとんどの政治家とかいう連中は、毛ほども信頼するに足りない。

 また、マスゴミに踊らされる民衆とかいう連中も、あまり信用は置けない。
 まちがいだらけの近代史の半分は、彼らのせいなのだ。

 では、どうしたらいいか?
 最適解は、人工知能だ。

 人間から愚かさを取り除いた判断を、ASI(Artificial Super Intelligence)ならしてくれる。
 シンギュラリティ後の未来こそ、明るい……と思いたい。
 


 新電力の経営が悪化しているという。
 新電力とは、電力自由化によって新しく電気の小売り事業を始めた企業のことだ。

 去年、東電にいやな思いをさせられた私は、速やかに新電力に乗り変えている。
 とくに不具合なく利用できており、応援しているのだが……。

 急激な価格の変動により、新電力の多くがダメージを受けている。
 電力卸の市場には、まだ「闇」と「歪」が少なくないようだ。

 問題は「インバランス料金」というものにあるらしい。
 一時的に逼迫した電気を融通してもらうため、いつもより高い料金を支払わなければならない、という一種のペナルティ的な制度のようだ。

 「電気代25倍」の被害は、ユーザーまでは及ばないわけだが、新電力の経営にとっては、この3月は試練のときだ。
 東電をはじめとする「殿様商売」連中の傲慢な態度を打ち崩すため、ぜひとも乗り越えてもらいたい。


 さて、そういう大きな世界の話は、私のような小人物にはあまり関係がない。
 ここでは、せせこましい電気代の話をしよう。

 東電のふざけた行為に腹を立てて以来、電気代については厳しい目を向けるようになった。
 という動機はともかく、エネルギーを節約すること自体は、地球にやさしい正解だと考える。

 私が現在、契約している新電力のサイトには、電力の使用量が非常に詳しく表示されている。
 くらしテプコでももちろん見られるが、判官びいきはともかく、より見やすい。

 これを利用して、賢い電気の使い方を考えた。
 以下、もっぱら「温水器」の話になる。


 私は現在、祖父母の家に仮寓している。
 この家は善一郎さん(祖父)の建てた家なので、基本的にいじりたくない。

 あまり設備更新をせず、ほぼ半世紀前の家を使いつづけている。
 その古い家において、お湯を沸かしているのが、古い東芝の貯湯式電気温水器だ。

 絶賛販売中の温水器であれば細かく温度設定などできて、エネルギー使用量を最適化できるのだろうことは理解している。
 が、私はうちの古い電気温水器を、壊れるまで使う覚悟だ。

 こちとら田舎の寒い地方なので、お湯が出ないとけっこう困る。
 しかし私個人は、がんがんお湯を使うというタイプでもない。

 基本、短時間のシャワーだけ使えれば、あとはいらない。
 そういう使い方をするひとり暮らしのおっさんが、お湯にかかる電気代を最適化する方法を考えた。


 シャワーにしか使わないなら、瞬間湯沸かし器のほうが向いていると思うが、設備はもう古い貯湯型と決まっている。
 あとはこのお湯を、どう使うかだ。

 まず基本となるエネルギー消費量を割り出した。
 温水器の通電は、午後11時から午前7時まで、と決まっている。

 そこである日、1日いっさいお湯を使わず、自然に冷めた分だけを温めさせてみた。
 すると、かかる電気代はおよそ70円くらい、ということがわかった。

 1か月、まるでお湯を使わなくても、沸いた状態を維持するだけで月2000円ほどかかる、という計算になる。
 深夜料金を適用できないし、毎日氷点下の寒い地方でもあるので、この点はしかたない。

 そこで、いろいろ試行錯誤した。
 結論から言おう。

 月に5~6回だけ、一晩、温水器を稼働する。
 あとの25日は、電源を切っておく。

 すると、ふつうにお湯を使いながら、ほぼ同額の出費に抑えることができる。
 以上だ。


 さて、解説しよう。
 まず、沸かしたお湯をシャワーにしか使わないということは、タンクのなかにはほとんどのお湯が余っている。

 そのままにしておけば、もちろん時間が経つごとに温度が下がる。
 次の問題は、この温度がシャワーに使えなくなるくらい冷めるまで、どのくらいかかるかだ。

 試したところ、一週間弱であれば、ぎりぎりシャワーを使える程度の温度は保たれている、という事実に気づいた。
 たぶん後半は、外気温との差が小さくなっているから、温度が下がる速度も低下している。ここがミソだ。

 高温状態を保つより、低温のほうが長持ちする。
 理屈として、わかりやすい話だろうと思う。


 そこで、6日に一度くらい、ほぼ一晩かけてお湯を沸かす。
 この料金が、だいたい400円。

 あとは計算していただければわかる。
 お湯を沸かした状態を保つだけの料金と、毎日ふつうにお湯を使った料金が、ほぼ等しくなるのだ。

 画期的! と、この方法に気づいた自分を、ひとしきり褒めてやった。
 残念ながら、すべての人に当てはまるわけではないので、自分しか褒めてくれない。

 文字どおり湯水のようにお湯を使う人や、毎日ちゃんと湯船に入る、という人には向かない。たぶん3日目くらいで、お湯が出なくなるだろう。
 一方、私のように短時間、少量のシャワーでしかお湯を使わない、という生活スタイルであれば可能だ。

 月に何度か給湯器の電源を切り替えるという手間もあるが、うちの場合は近いところにあるので許容範囲。
 最新のデジタルな温水器なら、きめ細かな温度管理がオートマチックにできるのだろうが、アナログな「電源オンオフ」という方法だけで、疑似的にそれに近づけた。

 古い設備を保ちつつ、余計な電気を使わない。
 じつにエコな生活スタイルではないだろうか?


 私は男なので、トイレに「座る」という機会も、女子より少ない。
 そこで温水便座のスイッチも、いちいち切っている。

 ひとり暮らしだと、どこまでもつましくなれるのものだ。
 もちろん私もケチではないので(たぶん)、来客中などは電源を入れておく。

 たぶん、いっしょに暮らす人が増えれば、こういう変な節約もやめるような気がする。
 ほかにやることがないから、節約でもするか、という理由でいろいろやっているだけのような気もするのだ。

 しかし、節約自体はいいことだ、とも思う。
 ということは、私が孤独を守っているのは、いいことなのだ。

 新電力のニュースを見ながら、そんなことを考えた。
 哀れな話だ……。
 


 毎度五反田へ行ってきた。
 これまでにも何度か書いてきたが、同じ方法では行かない、という謎ルールを自分に課している。

 新幹線、特急、在来線など、いろんな電車に乗ってきたが、今回は「車で」行くことにした。
 この選択に至った最大の理由は、もちろん非常事態宣言だ。

 まったく生きづらい世の中になった。
 終電が遅いとか、朝までやっている飲み屋がないとか、行きたいとこにいれないこんな世の中じゃパンデミック。


 五反田周囲の駐車場を検索していて、ふと思った。
 あのへん車で走りたくねえなあ……。

 そこで、すこし離れた場所に駐めることにした。
 具体的には、環七や環八から近い駅周辺。

 五反田までは池上線か浅草線を使えばよい。
 講座の終了が23時で、そこから電車で群馬の山奥まで帰るのは無理だが、都内なら問題ない。

 というわけで、環八からすぐの御嶽山駅に近い駐車場から、池上線を使うことにした。
 これで、以前、無駄に遠回りしたのとはちがう、文字どおり「池上線に揺られて帰る」ことができる。

 いけーがみーせんにー……ジャスラックに怒られる前にやめておくが、いい歌なので昭和歌謡マニア以外の方も是非。
 ……けっして電車に乗りたかったわけではない。


 もちろん、ほかにいくつか目的を兼ねている。
 引きこもりにとって、一回の外出で多数の用事を済ますことは、至上命題なのだ。

 杉並を中心とした、現在書いている小説の舞台にもなっている場所を見てまわりたい、という計画が、まずあった。
 ニシオギのアクマツカイが活躍する舞台に接し、かなりインスピレーションを感じることができた。

 彼らはここにいて、この道を通ったのだ。
 ストリートビューでもじゅうぶん間に合う部分は多いが、やはり自分で体感することは無意味ではない。

 現場を見る、というのはやはり大事だ。
 たまには車もいいものだ。


 埼玉の実家に寄る、というくだらない目的もあった。
 五反田より近いくせに、ここ3年まったく帰っていない。

 なぜなら、用もないのに行きたくないからだ。
 行くこと自体が重要なんだ、という親孝行な方々のご意見は先刻承知だが、言うまでもなく私は親孝行ではない。

 しかしまあ今回は、実家の通信環境の調整という目的を兼ねていた。
 年寄りのネット環境なんざ、楽天の無料回線でじゅうぶんじゃね? という思惑だ。

 若干手間取ったが、中古のスマホをルータ代わりにして設定完了した。
 埼玉の田舎なので、楽天4Gは上下とも10Mbpsに及ばず、しかもけっこう不安定という体たらくだったが、もともとADSLだった連中だし、私は困らないのでいいことにした。


 と、それなりに必要なことをして、先ほど帰宅した。
 あまり寝ていないので、昼間から一杯飲んで寝ることにした。

 いい御身分だ。
 クズみたいな生活にも見えるが、一応やることはやっている。


 べつにクズでもいいのだが……。
 最後にちょっとだけ言い訳をして、今回のエントリーを終えよう。

 自分のことは自分でやり、他人の手助けは受けない。
 高額納税するほど働かず、生活保護の世話にもならない。

 孤独を愛し、仕事にも家族にも煩わされない。
 だれにも、なにも、これっぱかりも感謝されない代わり、イチャモンつけられる筋合いもない。

 最低限の必要を満たす生活。
 じつにすっきり、さわやかだ。

 いつ消え去っても安心。
 そう思うと安らかに眠りにつける。

 眠りという、小さな死。
 これだけが、私を癒す。
 

 私は田舎の住人である。
 祖母の家を借りて、ひとりで暮らしている。

 長らく一人暮らしに慣らされてきたので、家事の最適化については人後に落ちない自信がある。
 炊事、洗濯、掃除……ルーティンワークに時間はかけない。

 さて、その掃除なのだが、最近ちょっとトラブった。
 大寒だけに、もんだいか、ん……。


 私はミニマリストなので、部屋に物がほとんど置いてない。
 そうなると、ロボット掃除機の出番だ。

 たまにスイッチを押すだけでいいので、たいへん重宝している。
 そのロボットが、調子を崩した。

 いやまあ、要するにバッテリーの問題なのだが。
 スイッチを押した直後から、ろくに仕事もしないで「バッテリー残量がなくなりました」と言いながら充電台へ帰ろうとする。

 ふつうに考えれば劣化したバッテリーを交換すればいい、となるわけだが、そういう問題ではない。
 去年も味わったが、交換してもダメなのだ。

 低温環境では、バッテリー性能が著しく落ちる。
 これが答えだ。

 現に、充電台と短時間作業をくりかえし本体を温めてやると、正常に動くようになる。
 ロボット掃除機のバッテリーをも痛めつける、この田舎の寒さ、なかなか手ごわいものがある。


 先日も、洗って小皿に伏せておいたマグカップが、とれなくなった。
 ふつうに考えれば、膨張したカップ内の空気が収縮して大気圧に押されているからだろうとか、小学校理科レベルの推論が働く。

 しかしながら、低温環境では水分が凍結する。
 幼稚園レベルの、これが答えだ。

 弱音を吐くつもりはないが、身体が多少の悲鳴をあげても、しかたないと思えてくる。
 もちろん室温氷点下くらいで、暖房に頼るつもりはないのだが……。

 去年も似たようなことを書いた。
 理屈抜きで短くまとめると、北半球で一年のうちいちばん気温が低下する時期が、一月下旬であり、ゆえに「大寒」なのである。

 同じ日々を暮らしたはずだが、なぜか今年は去年より寒い。
 その理由、考えてみた。


 コロナで人間が活動を減らしたから、本来くるべき氷期が到来したのではないか。
 人類は現在、短い間氷期に過ごしており、本来ならばそろそろ次の氷期がやってきていいころだ。

 温暖化はウソだ、などと言うつもりはない。
 ただ事実として、マウンダー極小期など一時的な寒冷期はくりかえされている。

 人間活動がそれほど大きな影響を及ぼすというのなら、コロナのおかげで一時的に活動が低下したおかげで、地球が本来の寒さを取り戻したと考えられなくもない。
 そこまで考えて、いや誤差の範囲だ、と冷静さを取り戻した。

 2020年の日本の年平均気温は過去最高だったらしいし、一時的な寒さは極端化の兆候でもあるし、ラニーニャ現象もピークに達している。
 今年の夏はポストラニーニャの年になるそうだ。


 それでも寒いものは寒いので、要因を考え、すべからく結論へと逢着した。
 理屈で考えれば当然だし、みんな体感的にも理解していると思う。

 周囲の状況が「きつい」と感じるとき。
 それは往々にして、「自分が」弱っているときだ。

 私の場合、筋トレを数週間なまけてみた。
 当然、筋肉が減る。

 すると、寒さをより強く感じるようになってきた。
 去年にはなかった寒さの理由、発見だ。

 で、筋トレを再開した。
 すると、去年と同程度まで寒さが減った。

 やはり気温の問題ではない。
 内部から発する熱量の問題だ。

 室温ではなく、体温(への影響力)を変える。
 そのほうが、効率がいい。


 以前、ハンドヒーターの話(寒いから手を温めるとかなんとか)を書いたと思うが、たぶん弱っていたせいだ。
 体内温度という意味からいえば、ダンベル持ち上げたほうが効率がいい。

 ここ最近、三日ごとくらいに身動きとれなくなるまで筋肉を傷めつけ、プロテインをがぶ飲みして寝る、という行動をくりかえした。
 超回復のためだが、さすがにやりすぎたようで筋肉痛がとれない。

 しかし、おかげさまで寒さはかなり和らいだ。
 痛みで寒さをごまかしているだけ、という考え方もできるかもしれないが。

 これからは控えめに、こつこつ筋トレしていきたい。
 ともかく「筋肉は裏切らない」のだ。


 たとえ世界が氷点下10℃でも、体温が36℃あればよい。
 そういう世界を地で行く、サバイバル系の番組は多い。

 最近よくその手の番組を観てしまっていたのは、身体が弱っていたせいかもしれない。
 先ほど観た動画でも、ノルウェーの雪山を短パンと靴下でサバイバルしている人がいて、思わず二度見してしまった。

 ものすごい豪雪の世界に、むきだしの下半身で行動しているおっさんが画面をよぎるたび、なんとなく笑ってしまう。
 ふたりでサバイバルする番組なのだが、相棒の男が呆れて言う。

「短パンでくるとか、頭おかしいのかおまえは?」
「俺はずっとこれでやってきたんだよ!」

「せめてブーツを履けよ」
「靴下は3枚重ねているから大丈夫だ」

 ああね、3枚重ねなら雪の多い日も安心……じゃねえよ!
 と画面に突っ込ませるという、制作者の意図を裏切れなくて残念だ。

 事程左様に、自分自身が強ければ外部世界の多少の変化などものともしない、ということなのだ。
 熱いとか寒いとか辛いとか苦しいとか、かなりの幅で対応できることは、多くの人々が証明してくれている。

 かのナポレオンも言った。
 最高の調味料は空腹である、と。

 大事なことなので、最後にもう一度言っておこう。
 筋肉は裏切らないのだ。

 

 大脳が消費する「ブドウ糖」を補うため、氷砂糖を愛用している。
 ふつーのアメちゃんでもいいのだが、氷砂糖はコスパがよい。

 もちろん重視するのはコスパだが、品質も一応考えている。
 で、いつもは評判のいい国産品をまとめ買いしているのだが、ふと見たところ在庫が切れていた。

 しかたなくネットで探したところ、345円という最安品を見つけた。
 品質に不安はあったが、次のセールまでのつなぎだし、取り急ぎ必要だったので、スーパーに買い物がてら、近所のコメリに寄ることにした。

 広いホームセンターを探し回るのもいやなので、店員に場所を尋ねた。
 知らぬ存ぜぬのダメ店員も実在するなか、一応、なんとなく覚えていて案内してくれた点は、評価したい。

 あるとしたらここなんですが、と不安な感じで先導する店員。
 私にとっては違和感しかない場所だ。

 どうやら、漬物関係の商品が置かれているエリアらしい。
 おそらく「梅酒」つながりだろう。

 店員の指さした場所に、氷砂糖はたしかにあった。
 問題は、その埃臭い棚の値札が「漬物袋198円」だったことだ。

 本来あるべき値札がどこにもなくて、店員も苦笑いで首をかしげている。
 じゃあ198円なんじゃないですかね、などと言いながら。

 さすがに安すぎると思うが、ネットに在庫数まで出ているわけだし、同じ値段だろうとレジに持っていった。
 結果、398円。

 いいですか? と問う店員。
 べつに高くはないし、せっかく探してくれた彼女に敬意を表して買った。

 もちろん、私ごとき細い客は二度とくるな、という経営者の意図を理解して受け入れたのだが。
 345円で釣って398円とるというのは、あまりいい商売のやり方ではないと思う。

 そもそも「商人」にはヘドが出すぎているので、多少嫌悪感が増したところでこれ以下はない。
 こうして私の行ける店は、どんどん減っていく……。


 そんなわけで、頼みの綱は、やはりネットショッピングだ。
 年末からこっち、だいぶ買い物しまくった結果、山のようになった段ボールをどうしようか悩んでいる。

 とりあえず、たたんで積み上げておいたが、焚きつけにもちょうどいいな、と思った。
 ここは田舎の山奥、焚き火をしたいくらい寒い室内にいる。

 先日、ついに室温が氷点下を記録した。
 ということは、外気温はマイナス10℃近いということだ。

 頭寒足熱で部分的に温めればよい、部屋が暑いと思考力が低下する、という信念で暖房を使っていない。
 にしても、室内が氷点下は、やはりきつい。

 去年、親が買ってきたファンヒーターがあるのだが、冬になったにもかかわらず物置に置いたままだ。
 それを出してくる、という手もある。

 だが、「寒いのは平気なんだ」と広言している手前、気が進まない。
 父親の「無理しないで使え」という言葉も引っかかっている。

 ──エコはわかったから、ほんとは寒いんだろ、せっかく買ってやったんだから使え、意地を張るな。
 と言われたわけではないが、持ち前の被害妄想がそういうニュアンスまで穿ってしまう。

 べつに寒くねえよ!
 と意固地になるタイプだ。

 良くいえば、反骨精神。
 ふつうにいえば、ただのバカ。

 理解はしている。
 死ぬまで、このバカは治らないだろう。

 まあ、ほんとに死んだら笑い話だが。
 死に方のなかでは、凍死がいちばん楽だと聞いたことはある。

 たぶん、コロナで死ぬより、自宅で凍死するほうが難しいはずだ。
 難しいことに挑戦したい、という気持ちは持っている。


 さて、オチだ。
 こんな夢を見た。

 難しいことに挑戦したのかどうか。
 六文銭を握りしめて三途の川へ行ったところ、十文だよと言われた。

 ──おい死神、どういうことだ、ネットでは六文だったぞ。
 ──知ったことか、渡し守が十文といったら十文なんだよ。
 ──ふざけんな、こんなとこ二度とくるか!

 と、死神に対して意地を貫いたところ、追い返されて目が覚めた。
 地獄の沙汰が、そんなセコかったらいやだな……。
 


 私は暑さには弱いが、寒さに強いタイプなので、基本、暖房を使わない。
 よって、部屋全体を温める、という発想がない。

 もちろん軽井沢なみに寒いので、防寒はする。
 湯たんぽや電気毛布など、部分を温める器具も用いるが、ストーブとかファンヒーターの類は、そもそも部屋にない。

 だいたい、腹と足元だけ温かくしておけば、生きていける。
 という信念で暮らしてきたが、最近すこし折れてきた。

 室温が5℃までなら、いけた。
 問題は、昨今の寒波で、このボーダーをしょっちゅう下回ってくることだ。

 で、追加の暖房器具を「自作」することにした。
 どこよりも寒い場所、「手」を温めるために。

 ヒーター内蔵の手袋というものも売っていたが、どうもレビューが芳しくない。
 指先だけが出るシルクの冷えとり手袋もすでに使っているので、安っぽい電熱手袋に変えたくない。

 手袋を二重にすることも考えたが、作業効率が下がりそうで気が進まない。
 むしろ用途に合った形のものを、自分でつくったほうが良くないか。

 というわけで、USBにつなぐヒーターパッドだけを買った。
 電熱ベストとかに入っているやつで、中身だけでお安く1500円。

 これを、百均で売っている荷締めバンドに並べて貼る。
 容易に着脱できるよう、手を差し込んでマジックテープを貼るだけの形に整える。

 装着し、電源を入れると、当たり前だが……熱い。
 ほどなく手が汗ばむほどになってきた。

 ベストを温めるほどの数のパッドを、右手だけに集めたのだから、そりゃ熱いだろう。
 強さは3段階で変えられるので、基本的には中間の強さで使用している。

 まあまあ快適なのだが、弱点は配線がうざいことだ。
 立ち上がるときは、いちいち外さねばならぬ。

 そのために着脱しやすいようにはしているのだが、それでもめんどくさい。
 が、ともかくも、これで指先がかじかむことはなくなり……はしないが、だいぶマシになった。

 充電式カイロを握ってしのいでいた時代も、おさらばだ。
 室温0℃もどんとこい、これを「ハンドヒーター」と名付けた。

 左手の分もつくろうか考え中だが、配線がうざくなりすぎる気がする。
 さしあたり今年の冬は、利き手だけで乗り切ろう。


 そんなわけで、真夜中に工作しながら映画を眺めていた。
 お正月といえば映画でしょう。

 で、異常な傑作ゾンビ映画を発見した。
 発見というからには、だれもが知る名高い映画ではなく、かなりマイナーなB級映画だ。

 これが、じつにおもしろい。
 『ゾンビワールド』という。

 検索をかけると『ゾンビワールドへようこそ』しか出てこないし、こちらは「バカすぎておもしろい」とそれなりに高評価なのだが、そっちではない。
 ただの『ゾンビワールド』、見つけたら、ぜひご覧いただきたい。

 一発ヒットすると、すぐ似たようなタイトルをつけて、まちがえて見てもらおうとするクソ業界あるあるにはうんざりだ。
 数少ないレビューの平均は3前後だが、1から5まで著しく評価が割れるのは、私のように楽しめるタイプと、あまりにも冒瀆的すぎるという理由でキリスト教徒が低評価を入れるからにちがいない。


 あらかじめ申し上げておくが、あくまでもB級ゾンビ映画なので、その手のブロックバスターを期待する人には向かない。
 ゴア表現はまあまあしっかりしているので、そのあたりもR15の自己責任でお願いしたい。

 短編集で、おもしろい話と、そうでもない話が極端だ。
 オススメなのは、最初のほうの一本。

 歴史モノで、トボケたキリストが出てくるのだが、これがまた冒瀆的で、じつにおもしろい。
 生き返らせたラザロがゾンビになり、パリサイ人がゾンビになり、ローマ軍がゾンビになって襲いくる。

 はじめて生き返らせたんだから、しょうがないじゃん! とか宣うキリスト。
 絶望して首を吊ったユダを生き返らせるものの、吊ったままの状態で生き返らせたので、そのまま死ぬとか。

 ゾンビはしゃべるタイプで、ふつうに煽ってきたり、驚いたりしている。
 襲いくるゾンビに対するキリストの戦い方も、またトリッキーだ。

 ユダがよこした魚を、マジシャンのように増やして武器にする、とか。
 アクション俳優さながら、しまいにはカジキマグロやピラニアまで取り出してくるとか。

 完全なバカ映画ではあるのだが、すばらしいサカナアクションでもある。
 キリスト教徒が見たら、たしかに低評価を入れるだろう。

 しかし空飛ぶスパゲッティモンスター教徒である私にとっては、じつに爽快だ。
 正味、キリストさんが好きになる話だとすら思う。

 いつものB級の一本として、テンション低めで観はじめたところ、これだ。
 冒頭から引き込まれ、げらげら笑い転げてしまった。

 恐ろしい名作だな、と思ってしばらく眺めていたが、残念ながらその後は、だらだらと愚にもつかない短編が連続するので、全体的には名作とは言い難い。
 時代と場所を超えて、ゾンビに支配されたゾンビワールドのあちらこちらを描く、という視点は統一されている。

 冒頭のキリストとサカナのバトルだけ観たら、あとはブラウザバックでも大丈夫。
 謎の小太りおっさんがトリッキーな方法で殺しまくる、という最後の短編も、突き抜けたバカバカしさという意味ではまあまあ楽しめたが、冒頭の一本にはかなわない。

 史上初のゾンビを生み出したのは、キリストだった!
 なるほど、キリスト教圏でゾンビが大人気なのは、そのせいか……。

 最近、神話と宗教を扱った短編に取り組んでいるのだが、こういうおもしろさの短編は、やはり映画でなければ表現できないなと感じた。
 自分がつくったゾンビと、サカナで戦うキリスト、マジで最高だった。


 私も、自分がつくったハンドヒーターで温めた指で、物語の世界を創作したい。
 と、無理やりつなげてオチとしよう。
 


 世界の動きにあまり関係のない生活をしている。
 よって本日も、元旦とまったく関係のない話をしよう。

 最近のことで、私はだいぶイラついたのだが、人によっては、そんな私にイラつくことだろう。
 どちらが正解というより、性格の問題かと思う。

 私は、同じことを何度も言うのがきらいだ。
 自分でできることを、他人にやってもらおうとする態度もきらいだ。

 うちの愚かなオカンがその傾向にあるので、ひととおり腐しておく。
 似たようなバカ女と何人か会ったこともあるが、女とは基本的にそのように愚劣なものだ、などと言うつもりはないのであしからず。


 比較のため、男の例として父親を提示しよう。
 以下、両者にスマホを与えてみた結果だ。

 父親は、早々に諦めていた。
 ガラケーでじゅうぶんだ、こんなものいらん。

 ちょっと使えなかったからといって、使うための努力から放棄する、という態度もどうかとは思うが、まあわかりやすくはある。
 うちの父親は、スマホを使うことを拒絶した。

 一方、母親だが、一応使いこなしている。
 ラインとかラジコとかユーチューブくらいだが、それなりに利用はしているようだ。

 それ自体、立派だとは思うが、そこで次なる問題が生じる。
 スマホにつきもののトラブル解決にまつわる諸々だ。

 アイコンが消せないとか、スタンプが送れないとか、文字が打てないとか、ちょっとした躓きに対して、自己解決するという努力があまりない。
 妹が教えることもあるようだが、たまに私がその役割を負わされることがある。


 昔、「ggrks」という言葉があった。
 ちょっと調べればわかるのに、教えて教えて言うユーザーに対する定型句、ググレカス、だ。

 ……なんでこんなことできないの、バカなの?
 と内心思うくらい単純なことばかり訊かれると、げんなりする。

 もちろん私も、大人としてのたしなみは学んでいるので、直接的には言わない。
 この手の罵詈雑言は炎上の原因にもなるから、避けるべきだろう。

 それでも、これだけは言わせてもらう。
 やればできることを自分でやろうとしない、という態度は許せない。


 とあるアンケートで、女子が恋人(結婚相手)に求める要素のひとつとして、自分のことは自分でできる、というのがあるらしい。
 たしかに、たとえば定年後、濡れ落ち葉のような旦那が、古女房にすがりついて生きているのを見ていると、ほんとうにゾッとする。

 彼女らの要求は正しいし、私自身、自分のことを自分でやるという当然の生き方でここまで生きてきたので、このような期待に対しては完全に応えることができる。
 お互いに自分のことは自分でやる夫婦生活が理想、という意見にはおおむね同意だ。

 ところで彼女らは、自分が相手の役に立つつもりがないのと同じ程度には、自分も相手の能力を利用する資格がない、という認識でよろしいのだろうか?
 残念なことだが、やたら頼ってくる女子というものを多く見てきた私としては、まだ若干の違和感というか疑義が残っている。

 もし、自分は相手を利用するが相手から利用されるのは断る、という意味だとしたら完全におかしいので、鋭く自己批判されることをオススメしたい。
 いうまでもないが、やったらやり返されるし、やらなければやってもらえないのだ。

 そういう当然の前提さえ合意なら、じつに正しい主張だと思う。
 ぜひとも貫いていただきたい。


 オカンの話に戻るが、先ほども、チャットで説明したのに電話してきて同じことを訊く、という暴挙に出てイライラした。
 彼女の言い分としては「確認のため」なのかもしれないが、何度も同じことを説明したくない私は、いつものように「好きにすればいい」と答えた。

 同じ質問をするということは、別の選択肢を求めている、という可能性もある。
 だから「勝手にすれば」という別の答えを出しているわけだが、あまり評判は良くない。

 いろいろな人から「冷たい」と言われることは、昔から多かった。
 相手によって態度を変えない証拠でもある。

 母親も毎度ぶーたれているが、不愉快なのはこっちだ。
 「何度も同じことを訊く」という先制攻撃をした時点で、「冷たくあしらわれる」という反撃を受けてしかるべきなのだ。


 個人的な経験だが、この手の女はほんとうに多かった。
 パソコンの不具合やネットの設定などが多いが、ちょっと調べればわかることを、全部やってもらおうとする。

 わかんなーい、おしえてー、やってー。
 いるいる、と思っている男子諸君も多いのではなかろうか。

 わからないではない部分もある。
 得意な人にやってもらったほうが手っ取り早い、という理屈はまちがっていない。

 事実、業務などでは分業は当然だし、効率的であり推奨されてしかるべきだろう。
 お金を払って依頼している場合も、自分ができようができまいが、むしろやってもらうべきだ、その権利を買ったのだから。

 しかし、ただ自分でやるのがめんどうだから、楽をしたいから、という理由でやってもらおうとする態度には、ほんとうにイラっとくる。
 そもそも自分でやろうとしなければ、できるようにならないではないか。


 専門的な内容で、かなり勉強しなければできないのであれば、最初から頼むべきだろう。
 ある程度自分でやってみて、できなかったからやってくれ、というのもわかる。

 が、やる気のカケラもなく、最初から人に頼るとか、どういう了見だよ。
 すべての頽廃は、ここからはじまる。

 日常生活のかなりの部分は、基本、ひとりでできるものだ。
 言い換えれば、やろうとしない限り、すべてのことはできない。

 たとえできなくても、せめて、やる気を出そう。
 完全になくなったら、それはもう「死んでいいタイミング」とさえいえる。

 「生きる屍」問題。
 長くなりそうなので、いずれ語ろう。

 2021年も、がんばって。
 ……生きる!
 


 ろくでもないクリスマスだった。
 まさにサンザンクロースルだな、と寒いことつぶやかざるをえないような出来事について、一応記録しておく。

 きょうは基本的に愚痴なので、そういうのキライな人はブラバお願いします。
 カレンダーを見たところ、今年最後の投稿になるが、いつも以上にろくでもないエントリーで恐縮の至り。


 病院と警察。
 この巨大な組織から、軽くジャブを食らった話だ。

 まず、病院に行くために朝早く家を出て数分後の話。
 ネズミ捕りにつかまった。

 彼らがどんな狡猾な手法でそれをやっているかは、ここで縷々語るのもおこがましいほど、世の中には憤懣やるかたない方々が多いと拝察する。
 なので、私からは手短に説明したい。

 ゆるやかな下り坂、速度が上がりやすい場所と、そこそこの獲物を期待できる時間帯に、待ち受けるのはデフォ。
 ルームミラーに背後からかなりのスピードで接近してくる車、あおられる前に予防的にすこしだけ速度を上げたところ、前にいた私だけが捕まるという不条理。

 朝、ただでさえ見えづらい角度にある太陽のほうから、ほとんど直前のタイミングで飛び出してくるポリ公。
 危険行為として訴えたいくらいだが、残念ながら、ノルマの犠牲者を待ち受けるのは警察という組織のデフォ。

 それより私が内心忸怩たる思いに満たされたのは、直前にすれちがった対向車のパッシングを、きちんと利用できなかった自分自身のほうだ。
 ハイビームにしてたかな、だとしたら申し訳ない、いやそうじゃない、と一瞬だけ判断が遅れてしまったのは、すべて私自身の過失だ。

 トラックの運転手さん、教えてくれてありがとう。
 あなたの善意を受け止めきれなかった責任を取って、17キロオーバー、1万2000円の切符をいただきます。


 今回も含め、私は警察という組織に数万円ほど貸しがある。
 いやな思い出のほとんどは交通課だが、妹の旦那が警察のお偉いらしいので、あまりディスると怒られるかもしれない。

 警察は法律通り仕事してるだけだよ、悪いのはあんたでしょ、と言われるだけの話だということも理解している。
 にしても、もっとほかにやることねーのかよポリ公が、と思った事実は揺るがない。

 滋賀県警と群馬県警は、とくに許せない。
 あんなところで止まるやついるかよ、追い越し車線走りすぎってなんだよ、まぶしいんだよ照らすんじゃねえよ……。

 昔のことを思い出していたら、よけいに腹が立ってきたので、次へ行くとしよう。
 これは本日、バッドデイの序章にすぎないのだ。


 朝っぱらからクソ気分悪いな、と思いながら病院に向かう。
 すでに地元の病院で紹介状をもらってあり、予約も入っている。

 さほど待たされることもあるまいと、地域の医療センター的なところに向かったのだが、ご想像の通り、これがまあ、なかなか待たせてくれる。
 数分の問診のために2時間待ちは「ふつうだよ」と思う人が多いかもしれないが、イラチの私にとって、予約してあるのに待たせるとか意味がわからない。

 ともかくノロノロと手続きは進み、どうにか最後の診察室までたどり着いた。
 問題はここからだ。

 この大病院の医者、診察すらせず、近くに専門の病院があるとか言い出した。
 どうしてもうちでやってほしいならやるけどと、なかなかえらそうだ。

 結局のところ、たらいまわしにされた。
 2枚目の紹介状をもらうだけの簡単なお仕事に、2時間かかったことになる。

 料金的にも、違和感があった。
 紹介状があると保険外併用療養費5000円とやらがかからないらしいが、初診料は別だし、そもそも紹介状自体が有料だから、結局は大差なかったりする。

 トドメは駐車料金。
 駐車券は「外来2時間まで無料」とある。

 2時間どころか5分で済む診察に、むこうが勝手にモタモタしてる代償を払うのは客って、どういうことだ?
 まあ駐車料金はたかが100円だが、ただでさえムカついてるところに上乗せされると、よけいに腹が立つ。

 いずれにしても無駄に時間を食われることが、なによりも損失だ。
 待たせる、という病院のデフォは、ほんとうに耐えがたい。


 そんなこんなで、紹介された次の病院に向かう。
 本日最後にして、最大のイベントだ。

 たらいまわされた先、私を待ち受けていたもの。
 それは、さらに5時間待ち、という大損害だった。

 電話で予約を入れ、すぐに行ってくださいと前の病院に言われて、すぐに向かったにもかかわらず5時間はありえない。
 2時間でマジギレ5秒前の人間に、5時間とかもう、病院破壊するほど暴れたんだろうな、と推察される方もおられよう。

 素で5時間なら、そうなったかもしれない。
 が、これについては、全責任を病院に帰するつもりはない。

 やってきた看護師から「午前のドクターは専門ではないので、午後、院長の診察を直接受けたほうが早いかもしれませんよ」という、トレードオフな提案があったからだ。
 そこで、別日に出直す(ことになるかどうかはわからないが)よりは、きょう5時間のほうがマシか、と私自身が考えて判断した。

 たしかに私は頭のおかしいイラチだが、筋が通っていれば納得はする。
 自分で選んだ、という体にさせられた可能性もあるが、受け入れよう。


 さて、こうして山奥に引きこもって暮らしているおっさんが、ふいに、地方都市でぽっかりと空いた5時間を与えられたら、どうするか。
 もちろん有効利用する。

 切符の代金を支払ったり、オイル交換したり、業スーで買い物したり、オシャレに昼食(!)したりと、引きこもりの行動としては無駄のない計画を立てた。
 西友とセリアとドンキにも行ったが、そこで思ったことは、けっこう空いてるな、だ。

 コロナは「禍」であるが、いいこともある。
 人混みを忌み嫌う引きこもりにとって、ほどよい客数はありがたい。

 マスク越しの距離感も意外に悪くない。
 そもそもコロナ以前から、けっこうマスクをつけるタイプだった。


 結局、午前中で済むと思っていた用事は、一日仕事になってしまった。
 しかし、それなりに買い物もできたし、無駄な一日ではなかっただろう。

 ちなみに専門医からは、薬で治るよ、と診断された。
 最初の病院でもらったのと同じ薬をもらって、なくなったらまた来ればいいよ、という軽い結論だった。

 無駄な不快感は早急に取り除かれるべきと考える私は、手術で一発回復したかった。
 地元の病院でそう言ったところ、うちでは手術できないからと紹介状をもらったのだが、そもそもの診断からして手術の適用ではないらしい。

 医者が万能ではないことはわかっているが、だったら最初から言ってくれないか……。
 過ごした一日そのものは無駄ではなかったとしても、大きな意味で、無駄なことをしたような気分は残る。


 さて、このエントリーのタイトルは、日本のデフォだった。
 デフォルトの意味をググると、「1.債務不履行」、「2.コンピュータで、あらかじめ設定されている標準の状態・動作条件。初期設定。初期値」とある。

 各組織がもつ残念な初期設定に振り回されつつ、私の払った反則切符の代金が、日本社会の債務不履行を先延ばすことになるのだろうか。
 などと、無理やりつなげて、今年最後の記事を終わるとしよう。

 一年間、お世話になりました。
 みなさん、よいお年を。
 


 私はたまに将棋をやる。
 強くはないが、弱くもない。

 頭の体操にちょうどいいと思っていたが、最近ちょうどよくないと気づいた。
 熱中してしまうからだ。

 ふつうに何時間も将棋を指してから、ハッとする。
 こんなことやってる場合じゃねえ……。

 健康のため、指しすぎに注意しましょう、と席主からも広く注意されている。
 そのくらい熱中してしまう人が多い、ということだろう。

 ある種の依存症にも近い禁断症状を感じるに及び、しかたなく、脳の回路をつなぎ変えることにした。
 依存からの離脱を望む人、アル中やシャブ中の方々も、ぜひ試したらいいと思う。

 ニコチン中毒の方々は、すでにやっているらしい。
 タバコはまずい、気分が悪くなる、と脳内の配線をつなぎ変えるのだ。

 じっさい、まずく感じるための薬みたいなものがあるようで、吸ってみたらまずい、をくりかえしているうちにタバコを吸わなくなっていく。
 これが「脳の配線をつなぎ変える」ということだ。

 タバコは落ち着く、すばらしい、将棋は楽しい、やろう、という既存の回線。
 そこに、「将棋はダメ」という配線を上書きする。

 こんなことばかりやっていると能力の浪費だ、与えられた生存期間は限られているのだ、これ以上時間を費やすのはまずい。
 そう思い込んだところ、だんだんやりたくなくなった。

 たまに観戦くらいはするが、それで満足するようになった。
 若い人にわかりやすく言うと、格ゲーなどが似ているかもしれない。

 私も現在、たまに格闘ゲームを「観戦」する。
 スト5をよく観ているが、昔使ったガイルが現在もウメハラ氏などに使われているのを見ると、自分が若いような気になってくるから不思議だ。

 現在はプロのゲーマーもいるので、一概には言えないのだが、ゲームというものは基本的に「遊び」だと思う。
 それをやっていても、お金はもらえない、というかむしろ使う。

 格ゲーなんかで一喜一憂して、いったいガイルが俺の人生にどんな役に立つというんだ?
 クソみたいに金と時間を浪費してるだけじゃないか!

 という自問自答の瞬間が、どんな人間にも、たまにはやってくると思う。
 もしゲームから離脱したければ、その気持ちを、脳内に定着させてやればいい。


 私は意外に、この手のコントロールがうまい。
 おかげさまで、かなり依存症になりにくい体質だ。

 それをやる、あるいはやめる。
 よほど強力な本能以外は、新たなモチベーションの刷り込みで上書きできる。

 多かれ少なかれ、だれでもできるはずだ。
 決めたことをやる、それができてこそ、一人前の人間だと思う。

 大事なのは、無理のない範囲で「決める」ことだ。
 目標が高すぎると、「決めたことができない」という自己嫌悪に見舞われる。

 私がこの世でもっとも嫌悪する種類の人種、ホラ吹き野郎に、自分自身がなってしまう。
 想像しただけで、おおよそ最悪の気分になる。

 それを避けるためには、まあできるだろうな、という程度の目標にしておくことだ。
 絶対、永遠に、二度とやらない、というような「強い」言葉は避けたほうがよい。

 1か月くらい辞めてみようとか、1本だけ飲むのはいいことにしようとか。
 ある程度の余裕を持たせてやれば、無理なく達成できるのではないだろうか。

 ただ「心からそう思っている」必要は、あるかもしれない。
 私がどんなにアホでも、信じてもいないことを信じるのは、やはり骨が折れる。


 ゲームは1日1時間。
 たまに楽しむ程度ならいいが、没頭して人生の大半を費やすべき行為ではない。

 ほんとうにそう思っていたら、脳内の配線をつなぎ変えて、その考えの優先順位を繰り上げてやればいい。
 やりたい、という衝動のひとつ上まで。

 どんな人間も、手を握ったままで手の中のものを食うことはできない。
 手を握る、という優先順位を上にしてやれば、その中のものを食うことは不可能だ。

 不可能な物事に直面したら、人間はどうするか?
 キツネになるのだ。

 ふん、あんな高い木に生っているブドウなんて、まずくてとても食えたもんじゃないさ。
 そう捨て台詞を吐いているうちに、ほんとうにそんな気になってくる。

 で、そのうち将棋も格ゲーも、それほどやりたくなくなる。
 やろうとすると、気持ち悪くなりさえする。

 これが私にとっての「セルフコントロール」だ。
 他人をコントロールするのは難しくても、自分くらいはコントロールできてもいいじゃない?


 そんなわけで将棋に費やしていた時間を、執筆に向けることができた。
 先ほど、年明けの短編賞用の原稿が仕上がったところだ。

 次は翌月の短編と、3月の長編と、連載用のストックも減っている……。 
 まったくもって、将棋やってる場合じゃない。

 どっちもお金にならない点は同じだが、執筆には一応、可能性がある。
 一方、将棋にはゼロだ。

 自分自身に対して、優先順位を納得させやすい。
 さあ、書こう。