一年以上プレイしていたスマホゲームをやめた。
目標を達成したからだ。
地理のゲームで、レベルが112になると全ロックが解除される。
お金を払っても解除されるが、ほぼ無課金で全解除を目標にプレイしていた。
つづけようと思えば果てしなくつづけられたが、きりがないのでやめた。
世界の国名や地形など、いろいろ覚えられてよかった。
私はファミコン世代なので、幼少期からゲームをやっている。
プレステ以前に卒業したが、それなりにハマったゲームもある。
現在はスマホで、基本的にパズルゲームをやることが多い。
作業の合間に数分程度を費やし、課金にはあまり応じない。
歴史を顧みれば、ファミコンからはじまり、スマホゲームにとどめを刺しているゲーム業界。
それなりにたしなんできた私は、とっくに折り返した人生で、これまでゲームとどう向き合ってきたかを軽く考えてみた。
ゲームに人生を破壊された、というひとは少なくない。
私もそのひとり……と言いたいところだが、さほど深刻ではない。
ひどい人はかなりひどいので、それに比べれば(ほとんどの人は)マシだ。
狂ったようにやりつづけてしまう、とくに一部の子どもは。
ゲーム依存とか、ゲーム脳という言葉が、問題になってきた。
子どものかかる病気(病的態様)と言いたいところだが、大人もかかる。
むしろ課金においては、大人のほうがより深刻だったりする。
課金ビジネスに人生を狂わせられたひとは、少なくないだろう。
いや、この表現は、公平ではないかもしれない。
課金ビジネスで人生ハッピー、というひとも、それなりにいるだろうからだ。
一時代を築いたゲームタイトル。
マリオ、ドラクエ、スト2、パズドラ、などなど。
ちょっとまえにも、電車に乗っていたらパズドラをやっているおっさんがいて、若干の驚きを覚えた。
こういうひとを、業界は大切にしなければいけない。
ある程度やったら、満足してやめる、飽きてやめる、というひとがほとんどだろう。
とくにスマホゲームは、一部の課金者が「やめないでくれること」が生命線になる。
まだパズドラをやっているひとがいる事実は、ゲーム業界のなんたるかを類推させてくれた。
もちろん彼らも商売だ、ほぼ無課金で1年以上も遊んだ私は「客」ではあるまい。
彼らのターゲットは、財布のひもがゆるく、簡単にハマるひとだ。
そうして、つぎは簡単にやめられないように、一定のテコ入れと新たな「ガチャ」で搾り取る。
ゲーム業界の知り合いもいるので、べつに腐すつもりはないのだが、たまに「えげつねえな」と思うことはある。
ひどすぎて社会問題になった「ガチャ」については、いずれ語りたい。
さて、落語の『居残り佐平治』を聞いていて、ふと思った。
廓遊びとゲームは似ているな、と。
そのなかに、こういう言葉がある。
「上は来ず、中は昼来て昼帰り、下は夜来て朝帰り、そのまた下は居続けをし、そのまた下々は居残りをする」
遊郭など、「上」級の人間は行かない、「中」は来てもすぐ帰る。
「下」級の人間が朝までいて、さらに「下々」が「居残り」をするらしい。
要するに、遊ぶ時間は短いほどいい、ということだ。
これをゲームに当てはめると、かなりピッタリくる気がした。
上の人間はやらず、中はやってもすぐやめる、下は寝る間も惜しんでやり、下々は際限なくやりつづける。
ゲームに人生を破壊された人々を、よく表現していないだろうか。
これは一面的な見方であって、廓の側にもゲーム業界にも言い分はある。
私自身、ゲーム遊びも女遊びも、ひとつの偉大な文化だと思っている。
娼婦を批判するひともいるが、原初からある神聖な職業だ。
彼ら彼女らを病的に抑圧してくる社会の側こそ、むしろ危険視したい。
とはいえ、これらの「遊び」に負の側面がある事実も、また揺るがない。
どれだけ必要であっても、やりすぎは良くないのだ、基本的には。
そのなかで、居残り佐平治は「プロ」だった。
遊郭に居残り、みごとに利益を出した。
現在、ゲーム業界にはプロゲーマーという人々がいる。
彼らは「佐平治」なのではあるまいか、と思った。
物語の主人公になるくらいだから、もちろん「特殊」な人間である。
プロになれるのは「特殊」な人間だけだ。
それ以外に「遊ぶ」人々は、できるだけ短く遊んだほうがいい。
そういう意味では、私は「中」から「下」にあたる。
ゲーム業界の人々は、花魁だ。
女衒であり、ポン引きだ。
くりかえすが、彼らを腐しているわけではない。
ひとつの重要な業界であり、とくに娼婦などは人類最古の伝統ある商売であって、私も大好きだ。
娼婦になれるのは、上級の女だけ。
優秀な女であればこそ、莫大な稼ぎも可能となる。
この偉大な業界のエッセンスを楽しみ、嗜むことのできる社会を喜びたい。
遊びはとても大事なのだ。
最近、映画ばかり観ている。
ネタの宝庫である映画から、本日は「うそ」について語りたい。
映画はフィクションとか、全部えそらごととか、そういう話ではない。
物語に登場する「うそつき」という人物造形についてだ。
もちろん、あらゆるマンガやドラマなどの創作に、虚言癖のキャラクターは登場する。
このうそつきに対する許容範囲が、あまりにも広すぎはしないか、という気がした。
「もうやらない」「決めたことなの」「気持ちは変わりません」そうおっしゃる方が、あっさりと前言を翻して冒険の旅に飛び出す。
いや決めたんじゃないの、なんで行くのよ。
答え、行かないと話にならないから。
それはそうだが、じゃあ拒絶すんなよ。
一度やると言った彼女、周囲はその準備に奔走しているというのに、突然やらないと言い出す。
行かないというから別の手段を模索する人々のところへ、ノコノコやってきて、やっぱりやる、とか。
もちろん心は揺れる、そういう「気持ちになる」のはあなたの勝手だ。
が、それを他人に伝えたら、それは他人との「情報共有」になる。
共有された情報がフェイクだったら、相応の被害と利益が出る。
被害は、だまされたほう。利益はだいたい、だましたほう。
ひとをだます人間が、得をしていいのか?
人類社会が築き上げてきたモラルが、これらの事象からいかなる要請をもたらすか、言うまでもあるまい。
言ったことはやれ。
できんことは言うな。
万古不易のルールにすべきだが、完全に守るのはむずかしい。
とはいえ、けっして軽んじてはならない。
さて、映画の話だった。
考察を進めよう。
自ら言ったことを簡単に翻す、登場人物たち。
あまりにも表層的でうわすべりする発言が横行している映画は、だれにむけてつくられているのか?
要するに青春系ラブコメや昼ドラ映画といったたぐい。
テキトーなセリフばかりを並べ立てるような人間性でもOK、というルールになじめるかどうかだ。
私などは、かなり苦手だ。
悪役ならともかく、主要キャラがテキトーなことを言うたびに感情移入のボルテージが下がり、決めたことを貫かないウソツキ野郎、という印象が回復するまえに物語が終わってしまうことすらある。
作劇上の瑕疵にも思えるが、この手の虚言はプロット上の適切な起伏、と考える作家のほうが多いらしい。
あるいは、そういうのが平気な人々、むしろ求めている人々が、世の中にはとても多いということなのだろうか。
たしかに物語に起伏は生まれるので、私自身この方法を使うことはあるが、内心それなりに苦しんでいる。
いわゆる恋愛ものを書けないのは、たぶんそのせいだ。
最初から詐欺師であるというキャラクター提示であれば、もちろん正しい。
状況が大きく変更されてやらざるをえなくなる、というのもわかる。
単に当人の気持ちの問題で前言撤回、というのはマジでキモい。
知らねえよ、おまえの気持ちなんかよ、と思われたら損ではあるまいか。
もちろん私は共感したいし、やさしくもしたいのだが、やさしくする価値があるかどうかの判定基準として、そのひとの人間性はとても重要だ。
平気で他人をだます、という自己表現について、よく考えられたい。
だれにでもやさしくする、というのはむしろ罪悪だ。
単にお金をばらまくと犯罪者にまで資金を供給することになる、むしろ犯罪者のほうが多くのお金を集めがちである、という社会の実相に似ている。
資源は、その価値のある人間に集中させたほうがよい。
で、ほら吹きの価値は、かなり低くていいはずだ。
人間の価値をお金に換算できるのか、という問題は置くとして。
その価格を、だれが判定するのか?
私については私が判定するし、あなたはあなたが判定する。
残念ながら、それしかない。
判定や判断にはそれなりにコストがかかるので、他人に決めてもらおうという人々が多いのは理解する。
だが、あまり他人の価値観に依存すると、世界の不幸を容認しているのと同じことにすらなりうる。
ともかく、脚本家や監督の価値判断の表明が映画という形式であり、ここには賛否両論がある。
盗み見ているのでもない限り、絶賛するのも文句を言うのも、自由だ。
自由ではない場合もある。
映画泥棒など、違法に映画を観ているようなひとに、文句を言う資格はない。
もちろん私は合法的に観ているので賞賛も批判も自由だが、政治についてはあまり文句が言えない。
なぜなら、選挙に行かないからだ。
政治家がきらいすぎて、一度も選挙に行ったことがない。
これは、政治で世界を変えたい人々にとって、愚劣きわまる態度だ。
義務化されている国もあるほど、選挙権は行使すべきものである。
選挙に行かない時点ですべての権利を放棄しているに等しい、とすら言われてしまうほど、投票の棄権とは愚かな行為だ。
私は私が選挙権を有している政治について、他人に決めてもらおうとしている。
その結果が、この始末だ。
日本の政治がクソだったとしても、私には文句を言う資格がない。
ゆえに政治については、あまり多くを語らないようにしている。
「政治」と「政治家」は別の文脈だが。
マシな政治家がいたら、ぜひ教えていただきたい。
うそつきにしろ政治家にしろ、最後は人間性の問題だ。
人間を描く者として、うそつき、それ自体を否定はしない。
むしろ「悪役」と同じで、物語の展開上、必要不可欠ですらある。
やられ役、否定されるべき存在として。
だからこそ、主役にそういうことをやってもらうと、違和感をおぼえる。
複雑な人間性というものを描くうえでは、有効な手段ではあるのだが。
ともかく映画は、いろいろと勉強になる。
暇さえあれば観よう。
3月は、けっこうがんばった。
そこで4月は、自分を甘やかそう、と決めた。
思う存分、映画を観ていいことにする。
というわけで、エイプリルエーガの開始だ。
まあ、いつも好きに観てはいる。
それでも2、3本観たら、だいたい満足する。
そこで、起きてる時間、全部映画を流しっぱなしにした。
強制映画漬け生活だ。
もはやご褒美なのかどうかもわからないが、2日目にして10本以上を観ている。
で、いくつか気づいたことがあるので、記録しておこう。
世の中には、いろんな動画サービスがある。
ひとつでも使っていればわかると思うが、必ず「オススメ」が表示されるエリアが確保されている。
視聴履歴から類推するらしいが、これはあまり信用できない。
履歴とまったく関係ないジャンルを平気で勧めてくるからだ。
それは運営側を主語とする「わたしの」オススメであって、「あなたに」というおためごかしの語彙は不適当と考える。
商人が「ご奉仕」と言い出しただけでゲボが出る体質の私の場合、ことさらだ。
彼らが働いているのは「あなたのため」ではなく、あくまで「自分のため」だ。
それを恩着せがましく、よくもまあ二人称など使えるものだ……。
ともかく今回、映画月間を楽しむため、新規でアマプラに入会した。
オススメするための「あなた」の履歴がないので、たぶん40代の日本人おっさんという属性に合わせて、レコメンドされているのだろうと思われる。
で、その「あなたが興味のありそうな映画」で、いきなり出てきたのがエヴァンゲリオンだった。
しばらく考え込んだ。
タイミングの問題が大きいだろうことは理解している。
よく知らないが、ちょうど新作が出たのだろう。
4月だし、マンガ祭り的なイベントの時期でもあるのかもしれない。
ワンピースとかドラゴンボールが並んで出てくるのを見ると、そうとしか思えない。
それ以外のオススメも、若干の違和感があった。
ひとことで言えば、まったく食指をそそられない。
私が「B級」という特殊な嗜癖をもっていることを、もちろん彼らは知らないのだからしかたないといえばしかたない。
それにしても、洋画が一本もなかったことには驚いた。
画面をスクロールすれば、もちろん出てくる。
が、トップページのオススメはすべて、ほかに観るものがなくなったからしかたなく観る系の邦画、あるいは朝鮮半島系だった。
私の世代はこういうものを観ているのか、と思ってげんなりしかけたが、どうやらそういうわけではないらしい。
ログインしなくても表示されるレコメンドと、ほぼ変わらなかったからだ。
ともかくアマゾンが勧める以上、それが社会の平均点なのだろう、という部分は理解する必要がある。
自分がメインストリームから大いに離れた場所に立っていることを、とっくの昔から知ってはいたが、あらためて自覚した。
で、そんな私が入会して最初に観たのは『ボヘミアン・ラプソディ』だった。
有名な映画なので、ご存じの方も多いだろう。
フレディ・マーキュリーとクイーンの伝記映画だ。
ふつうにおもしろかった。
いわゆるA級ヒット作に求められる手順を、しっかりと踏んでいる。
パールシーとか当時の業界についてなど、興味深い知識を仕入れることもできた。
ライブのシーンなどは、スキップした。
音楽が聴きたければ選んで聴くからいい、べつに映画で聴かせてもらわなくても。
いまさらボヘミアン・ラプソディ(しかも初見)かよ、と思われる向きもあるかもしれない。
B級マニアをひとくくりにするつもりはないが、私の場合、ヒット作はあまり観ない傾向がある。
私にとっては同じ映画なので、A級もB級も、見方は変わらない。
お約束のシーンはスキップし、冗長なら倍速再生する。
時短鑑賞は、とくにB級映画では必要不可欠だ。
低予算で星2以下の病的なやっつけ映画を、まともに観ていたら気が狂う。
理性と時間をどぶに捨てる映画。
時間の無駄、無駄が好き。
いや、好きというのも語弊があるかもしれない。
必ずしも楽しく見ているわけではないからだ。
ゲボを吐きながらブラバすることも、なくはない。
というか、けっこうある。
私が無条件で「B級」を認める要素が、いくつかある。
そのひとつが、「手振れ」だ。
俺の、俺の、俺の手振れを見れ~ 2時間だけでいい~
と歌っている(と思われる)監督の作品は、吐き気とともに観るようで観ていない。
画面は観ないが、音声からなんとなく物語を判断する、という見方をする。
無駄に揺れる画面に酔いたくないが、映画の内容は知りたいので、音声に頼るわけだ。
たぶんこれらの監督は、FPSに慣れた若者向けに映画を撮っているのだと思われる。
たまにゲーム動画でスプラトゥーンなどを見るが、しばらくすると気持ちわるくなる私のような年寄りに、グラグラ映画はキツい。
正直、素人でさえスムーズな4K動画を撮りまくれる昨今、わざわざ画面を揺らしてくる監督がなにをやりたいのか、いまいちよくわからない。
臨場感という耳タコの言葉もあるが、要するに自己顕示欲だろうと判断している。
俺の手振れで、俺が生きていることを知ってほしい!
知りたい! 生きてる監督の手振れ見たい!
そういう人々の間で、マーケットが成立している以上、私ごときものがその成立した取引に対してごちゃごちゃ言ってもしょうがないことは理解している。
もちろん、いやならブラバすればいいだけなので、どんな映画だろうと撮っていい。
生きてるんだ、すごいね、うん、見てるよ、あなたの手がグラグラ揺れてるの、ちゃんと見てるから!
そういう観客に対して撮っている監督さん、ごきげんよう。
もうひとつ、好きになれない撮り方がある。
ワンカット長回しだ。
とくに昔の邦画に多いが、私にとっては鬼門だ。
最近はスキップという武器があるので、時間の無駄が省けて助かる。
低予算であることは、もちろん理解している。
だからといって、安上がりの臨場感でごまかそうとしたり、変に芸術家ぶったりされることに耐えられない。
きちんと工夫すれば、おもしろい映画は撮れるはずだ。
それを安易な方法で「やっつけ」るのが、手持ちカメラや定点長回しだと思う。
そんなにムカつくなら見なければいいのだが、やめられない止まらない。
少ない予算のなかで、光るものを見つけ出す楽しみは、なにものにも代えがたい。
観るだけで脳死する、時間の無駄、と評されることの多い残念映画。
itnとかアルバトロスとか、その時点で一部の人々は、「あー」と死んだ魚のような目になるだろうが、私にとってはニヤリだ。
よく買いつけたなこんなもん、ドブにでも捨てろ!
とレビュアー界隈で腐されるような作品群は、ほんとうに愛すべきだ。
もちろん倍速とブラバの山ではあるが、ときおり価値ある作品が見つかる。
そういう嗜癖をもった人間が──いま、すなおにアマゾンのレコメンドに従って、有名どころの映画を次々とこなしている。
画面を揺らすことを否定はしないし、ワンカットを使うのもいい。
『レヴェナント』のイニャリトゥは、おそろしく高レベルな映像表現で、上述の要素を満たしてくれた。
人々は彼を評価した。
2年連続アカデミー賞の監督らしい。
たしかに「すごいな」とは思った。
否定しないどころか、評価する。
全編ワンカットという特殊な映画もある。
『1917 命をかけた伝令』は、たぶん撮影難易度としては最高ランクだと思う。
どの程度までCGで修正しているのかはわからないが、これを撮るのはたいへんだったろう。
すくなくとも、漫然とワンカットを静止画のように撮りつづける芸術家ぶった監督や、俺の手振れを見ろとグラグラ揺らすだけの監督よりは、千倍もマシだ。
いや、この表現は必ずしも正しくない。
莫大な予算を使えるハリウッド大作の監督と、限られた予算でやりくりしている監督を比べるのは、平等ではあるまい。
それでも、なんの工夫もなくやっつける職業・監督、業界・映画、消費者・私、という構図が、すべてを肯定しているような気がする。
よろしい、それが映画だ。
私自身、カネを転がして得た上澄みで生活しているので、あまりえらそうなことは言えないことを、まずは申し上げておく。
キャピタルゲインとか利息とか差益とか、そういう不労所得で生活する、いわば社会の寄生虫の一味だ。
まことに申し訳ないので、全体の被害が減るよう、なるべく少ない金額で生きたいとは思っている。
最低限をいただいて、ひっそりと、死なない程度に。
アメリカで行なわれたベーシックインカムの社会実験では、意外なことに、みんな働くようになったらしい。
そういう「成果」をふりかざして、日本にも早いところベッカム導入してくれれば、私としてもたいへん助かる……。
さて、本日はこの不労所得をマシマシにする景気の問題について、すこしばかり語りたい。
経済の寄生虫の一匹としては、無視するわけにもいかない問題だ。
私はあまりテレビを観ないのだが、見るとしたらテレ東の番組が多い。
もっぱら経済番組だ。
昨今、日経平均が3万円の水準にある。
これは長期的に、かなりの高値圏のように見える。
市場が「バブルなのではないか」と不安をおぼえている。
で、ある日のモープラだかプラス10だか忘れたが、証券会社のバイヤーみたいな人がゲストでやってきて、こんなことを言っていた。
現在、株価は高くかなりの利益が出ている、売ったほうがいいのではないか、という相談を受けます。
相場の先行きは予測できません、短期なのか長期なのかが問題です、途中でやめてはいけません買いましょう、分散投資をオススメします(選んで買いましょう)。
率直にいって、こういう人間を信じてはいけない、と思った。
いまは相場が安いから買いましょう、という売り方はするくせに、高いから売りましょうとは言わない連中、と感じられるからだ。
テレビという影響力の大きい場所で、そういう本音は言えないんだろうというのは理解する。
買う方向にバイアスをかける仕事、それが証券会社だろう、たしかに。
なお、本日紹介した銘柄・商品は推奨ではありません。
投資については自己責任でお願いします。
当然のごとく、最後にはこの免罪符がついてくる。
無敵無謬のことばだが、そういうオフダをつけたからといって、なにを言ってもいいという話ではない。
さらに別の日、どこぞの編集長がゲストで、こんなことを言っていた。
配当が高い銘柄、増配率の高い銘柄を紹介し、「押し目で仕込んでいくことが重要かと思います」と。
ほんとにテキトーなことを言っているんだな、自覚的な確信犯なのかな、と感じた。
直後、毎度おなじみ「投資は自己責任で」という定型句が入ってきたのを見て、番組自体が「放言」を推奨しているのかな、とすら思った。
もちろんアメリカのように、超長期の上昇トレンドが継続している社会もあるので、その選択が正しくないとは言わない。
結果を評価できるのは歴史だけだ。
が、このタイミングで増配率の高い銘柄を引っ張り出してきた神経は、引っかかる。
正直、かなり危険な空気感をおぼえた。
もちろん長期上昇トレンドにおいて、短期の押し目買いなら、わかる。
トレンドが転換すれば、すみやかに売り払うべきポジションだし、そもそも押し目買いはそういう意味だ。
しかし、このファンダメンタルズで、長期で仕込むべき銘柄を紹介したうえ、短期的な押し目を拾えというのは、どうか。
発言の背景を穿ちたくなるレベルで、おかしい。
それこそ何十年のサイクルでもっていれば、いずれは戻ってきますよ、という意味であれば正しいし、理解する。
しかし、そんなことを言い出したら、現在の価格水準とか、まったく関係ない話になる。
明らかにまちがっている、と突っ込むことはできない。
というより、純粋な配当狙い、百年持つつもりなら仕込みましょう、という提言はいつでもどこでも基本的に正しく、成立するのだ。
要するに、この編集長は「なにも言っていないに等しい」ということになる。
貴重な時間を無駄にしたな、という皮肉な自嘲がじわる。
振り返れば、たしかに、この手の「どうでもいい話」は、しばしばあった。
よほどニュースがないのか、定期的にぬるい埋め草を差し込んでおく伝統があるのか。
さまざまな意見を取り入れている、と言いたい製作側の事情も透けて見える。
なにかを言っているようで、なにも言っていないコメンテーター。
経済番組に限らず、ちょいちょい見かける。
そりゃテレビ見る人も減るよな、と思った。
と、マスコミを腐してばかりもなんなので、平等に評価はしたい。
日経新聞の編集委員かなんかが出てきたときは、それなりに「不都合な真実」を教えてくれることもある。
長期投資は有効である、という見方に対する批判とか、投資の「妙味」は語りつつも罠がある、という金儲け主義の裏側。
考えオチの部分もあるが、おおむね納得できる「コメント」があることも、事実だ。
これらの「コメント」は、マスコミによって便利に利用、消費されてきた。
私がいろいろ「気づいた」のも、私の知能程度が昔よりはマシになっているからで、昔のままなら「へー」で終わっていた。
バカの目をくらまして、放送時間を埋める。
そういう制作姿勢が必要なタイミングもあるだろう。
考えてみれば、それはそうだ。
毎日、帯で1時間の番組をつくりつづけなければならないとしたら、毒にも薬にもならない、なにも言っていないコメントというのは、一定程度必要だろう。
私自身ですら、そうだ。
6日に一度、記事を上げる。
当然、言いたいこと、書きたいことがあるから書いているわけで、文責を負う覚悟もやぶさかではないが、たまに「ぬるいな」と思うことはある。
もっとおもしろい文章を書けるんじゃないのか自分、と思わないこともない。
それでも自分のつくった締め切りに従う。
個人ですら、そうなのだ。
もっと巨大なものによって決められた締め切りに従って動いているプロデューサー、ディレクターの気持ちは、忖度するにあまりある。
ぬるいことを言ってくれるコメンテーターや、毒にも薬にもならないネタというのは、ほんとうに便利なんだろうな、と同意しかできない。
いや、批判もできるが、全否定はできない。
ものをつくる、というのはたいへんなのだ。
ぬるいな……。
東日本の大災害から十年が過ぎた。
だからというわけでもないが、ディザスター系の動画を最近よく観る。
映画はもちろんだが、ドキュメンタリーや科学的検証番組も好物だ。
それらを見ていて、ふと気になる表現があった。
地震のエネルギーを、広島型原爆の何万発分といった比較に用いることだ。
使っている当人はわかりやすいと思っているのかもしれないが、いかがなものだろう。
10万人を殺すほどのエネルギー、みたいな状況が必然的に脳裏をよぎるが、それを意図しているなら完全なミスリードだ。
地震は放射能で人を殺しはしない()by福島。
広島型原爆の10分の1の破壊力の爆弾を、ニューヨークに爆発させた後、あなたはこう言えるだろうか。
うちの近所で起こった、ちょっとした地震の何万分の1のエネルギーです(たいしたことじゃないでしょ?)。
なに言ってんの?
と返されるのが関の山だ。
この意味のない比較を、なぜ使いたがるのだろう?
そんなに使いやすいか?
このハテナマークを連発する書き方は、私のもっとも嫌悪するところだが、そのくらいイライラを共有してほしいのだ。
広島原爆との比較は、正確な理解を妨げる。
そもそも熱核を人間の頭上で爆発させることと、地の底で発生する地震を比較する意味が、よくわからない。
山から一歩も出たことのない住人への説明に、海を使うみたいなものだ。
ベタだが、テーブルからコップが落ちるレベル、といった震度の表現のほうが「わかりやすい」と思う。
危機感を煽る効果があまりないから使いたがらない、というマスコミの事情も理解はするが。
だから原爆と比較するのか?
震えて眠れ、ってか。
ただのアジテーターだな。
原爆が出てくるたびに、私はイライラしている。
まあ、そういう表現を使った時点で、相手のスタンスを忖度する役には立つ。
この番組をつくった目的は、恐怖をあおること。
それはそれで、アリっちゃアリなので、全否定はしない。
ただ、どうしても原爆の「意味」が心に引っかかる。
自身、上述のとおり、あえてイラつく書き方をするときもある。
そういう書き方をしている相手の心情を忖度する材料としては、一応役に立つ。
たまにはいいが、多用されると辟易する。
原爆比較は、多用されすぎてむしろ思考停止なんじゃないの、とさえ思える。
宇宙的な出来事、たとえば太陽のエネルギーとの比較であれば、原爆はあっていい。
同じ核反応だし、空から降り注ぐエネルギーだし、あとは距離の問題だ。
地震は地の底での出来事だ。
比較として火薬量を使うなら、たとえば「厚さ何十センチの金庫を破裂させるほどの威力」みたいな表現は、いかがか。
あなたの家に、金庫はありますか?
厚さ何センチの鉄板なら安心ですか?
震度いくつの地震はその厚さの金庫を破壊しますよ、みたいな。
……いや、わかりづらいか。
たしかに原爆のほうが、なんとなく規模感を理解した気になりやすいし、なにより危機感をあおる役に立つ。
代案もないのに文句ばかり言うな、と自分に突っ込んでおこう。
地震や台風は天災だが、原爆は人災だ。
カテゴリーの異なる概念を比較してもよいものか、という違和感もある。
しかし考えを進めると、地震や台風も人災の可能性はあると気づく。
というより、災害という概念そのものが、つとめて「人間的」だ。
「自然に還れ」と言ったのは、フランスのユマニスト、ルソーだった。
自然が人間に対して起こす災害より、人間が集まって暮らすことによって起こる災害のほうがおそろしい、という論旨だ。
たしかリスボン火災について語ったものだが、大火においては日本もひけをとらない。
火災旋風で甚大な被害が出るのは、都市計画を無視した密集した家屋のせいだ。
津波で被害が拡大するのは、被害を受けるようなところに住んでいるからだ。
そもそも地震なんて、失うものがなければ、ちょっとしたアトラクションですらある。
結局、すべては人災なのかもしれない。
やっぱり人間は、いなくなったほうがいいよな……。
と、定期的にこの手の鬱に沈潜するのは、いつものことだ。
季節の変わり目というのは、おそろしい。
私はものを書く人間である。
どんなものを書くかというと、ホラー、SF、ミステリといった領域を得意としている。
ファンタジーや時代小説もきらいではない。
唯一、恋愛小説だけは苦手だ。
全体のアクセントとして恋愛があるなら、わかる。
恋愛メインは、ちょっと厳しい。
もちろん好みの問題なので、そういうのが好きな人は好きで、まったくかまわない。
たぶん私の興味も、彼らにとっては「厳しい」のだろうと思われる。
大事なことなのでもう一度言うが、私は「ホラー」畑の出身だ。
おそろしい現象というものに嗜癖があり、とくに人間の狂気の果てにある残酷な現実というものが、たいへん好物だ。
べつにそういう悲惨な出来事が起こればいいと言っているわけではない。
起こってしまった事実は、すでにありあまるほどあるのだから、新しく起こる必要はあまりないとさえ言える。
要するに「歴史」だ。
人類史は、その暗部ひとつとっただけで、ごはん3杯はいける。
人間は恐ろしいな。
すごいことがあったんだな。
学ばなければいけないな。
そういう視点で顧みる歴史は、とても興味深い。
ある種の人間賛歌とすらいえる。
加害者をリスペクトしているのかといわれると、もちろん憎悪している。
悪が存在しないと「話にならない」系統の物語が、事実ある、それだけだ。
敵を必要とする国家に近いかもしれない。
加害者に対しては、いかなる反撃も許される、と国連憲章にも書いてある。
これ自体、個人から国家まで、どれだけ「敵」を必要としているかの証左だろう。
自分が正しいと言い張るためには、正しくないものが要る。
私は臆病な人間なので、他人を傷つけることがおそろしい。
しかし私も人間なので、攻撃衝動や破壊衝動というものももっている。
どこかで解放しなければならないが、そのために無辜の民を傷つけることなど、断じてあってはならない。
通常は創作物などでストレス解消をはかるわけだが、現実で解放していいタイミングがあるなら、それでもいい。
たとえば、マスコミなどによる「袋叩き」は、この具象化ではあるまいか。
重大犯罪者や、大事故の責任者はもちろんだが、口を滑らした政治家や、やらかした芸人など、こいつはたたいていい、となったら行き着くところまでたたきのめす、という現実にはみなさんおぼえがあると思う。
事実、たたかれるようなことをしたのであれば、そいつは「たたいていい」のだ、すくなくともある程度は。
世の中で起こる「炎上」の多くに、この心理状態が大きく作用している。
なにもしていないやつをいきなりたたくのは、よほど頭がおかしくなければ正当化できない。
だが、なにかをしでかしたやつであれば、正当化する必要すらない(と信じやすい)。
私が歴史の暗部を好む理由の一端にも絡む。
この邪悪な人間に対してだけは、徹底的にたたいても許されるだろうな、という安心感が血みどろの歴史物語を楽しませるのだ。
現実には、一方的な悪人というのはあまりいないので、歴史上の人物を心行くまでたたいて気持ちよくなるタイミングはあまりないのだが。
ともかく、そういうことだ。
さて、本日は歴史の暗部ではなく、現代の暗部をすこし掘り下げたい。
もちろんホラー作品は暗部を描いているが、ちゃんと明るい場所で健全かつ合法的に販売されている種類の、暗部だ。
そのひとつ、怪談。
日々のホラーが欠落してくると、私はこの安心安全なレジャーで、足りないホラーを埋め合わせることにしている。
きょうも、ビジネスライクなウソつきたちが、暗い物語を語っている。
本日は、彼らのお仕事について、ちょっとばかり意見を述べたい。
くりかえすが、ホラー映画をはじめ、その手の創作物を楽しむというのは、とてもよいストレス解消だ。
その作り手、語り手たちを、基本的にはリスペクトしている。
が、彼らに対して一歩距離を置きたくなるタイミングというのが、たまにある。
それはたいてい、「実話モノ」を見たときにやってくる。
──これは本当にあった話です。
そういう嘘をつかれるのが、吐き気がするほどいやだ。
物語なら物語でいいのに、なぜ真実だと言い放つ?
すばらしく完成されたホラーです。
それでいいじゃない?
ありもしない話を、あったと言い張る。
その点だけが、ほんとうに許せない。
たとえばノンフィクション映画は、それだけで一定の価値がある。
その一定の価値を、最初から、なにもしないで盗み取ろうという態度、それが「ほんとうにあった」だと思う。
ないよ、そんなこと。
私の趣味嗜好にはSF要素も根強いので、いかなるホラーにおいても、再現性と定量化を要求してやまないのだ。
再現性のスポイルは、自称霊能者たちにとって最大の救済だ。
同じことが起こらなくてもいいから、平気でウソがつける。
通話の記録は、残っていませんでした。
まわりの人たちは、そんなものを見た覚えはないと言いました。
気がつくと、そこは病院でした。
なにもかも、厄介な部分は主観と省略で乗り越え、検証不可能の世界に放り込む。
そうして日々の糧を得ている人々は、現にいる。
いや、彼らも仕事だ。
その点は理解している。
ほぼ厳密に宗教のやり方を踏襲しているだけ、といってもいい。
伝統的な職業なのだ。
人類の業だな、と思う。
このマーケットが成り立っているのは、たしかに彼らを必要としている人々が存在するからなのだ。
一部、タチのわるい霊能者が市場原理を「強要」する場面で問題は発生するが、それ以外の一般的な「救いを求める人々」に対応している範囲内では、さして問題がない。
健全なマーケットである限り、それは保存される。
それでも、好き嫌いは残る。
先ほど楽しんだ怪談師の話も、たまに「ん?」というものがはさまる。
聞いた話でいいのに、当人が体験した、と言い出してしまう系統だ。
これは、ちょっと危ない。
もっとも気になるのが、オチに近いところでの一言、彼は「気を失」った。
ほんとうに、彼らはよく「気を失う」。
もしそんなに邪悪なものが近くにいたなら、気を失ったら二度と目覚めないほど恐ろしい結末になるのではないか?
なぜ彼らは、平然と生還するのか?
気を失った彼らを、たいせつに抱きかかえて病院に連れて行ってくれるモンスターの姿を想像すると、とてもほっこりする。
そういうのは、ホラー映画に任せておけばいいじゃないの……。
近代ヨーロッパの貴族社会では、ご婦人たちがやたら気を失う描写が行なわれる。
あれも「じつは意識がある」ことが、ほとんどだったらしい。
もちろん気を失うことに、根拠がないわけではない。
もともと貧血気味の女性たちが、当時流行のコルセットでぎゅうぎゅうに締めつけられてのぼせているところへ、ちょっとした感動や驚きが襲ったら貧血で失神しやすい、という理屈はなんとなくわかる。
気を失う、というのは淑女のたしなみであり、流行なのだ。
だったら怪談にも、あっていいじゃない?
なるほど、それはそうだろう。
が、「説得力」というものについても、すこし考えてほしいのだ。
かなり健康そうな若い日本人の男性が、怪談を語っている。
そこで私は気を失いました、その後の記憶はありません、あとで聞いた話では……。
そんな様式美で話を終えようとしているのを眺めながら、魚の死んだような目で思う。
あんたずいぶん健康そうにみえるのに、貧血体質なんだね……。
人生で一度も「気を失う」という体験をしたことがない(ごく短時間の意識喪失はある)私にとって、睡眠時以外で何時間も記憶をなくせるというのは、一種の驚異だ。
たしかに映画みたいだな、と思った。
たとえば、ザコの撃った弾はけっして主人公には当たらない、というお約束でも知られる映画業界。
いっしょに行く、と駄々をこねる味方は軽く殴ると気絶するし、潜入した先の見張りなんかもう殴られるまえに気を失ってるんじゃないの、くらい即刻戦闘不能だ。
どんな達人だよ、と鼻白むこともなくはない。
が、映画は最初からフィクションであると宣言しているので、受け入れやすい。
だが上述のような怪談師は、最初から「ほんとうにあった」と宣言する。
当人がそう言う以上、そうなんだろう、そいつのなかではな。
もちろん「ほんとうにあった」も含めてフィクション、という見方もできる。
あとはそれを受け入れるかどうかだが、私は手前で線を引く。
こんなことがあった、という話を聞きました、までは許容範囲だ。
体験しました、化け物がいました、気を失いました、とカタりだしたら一線を踏み越えてきたな、と判断する。
病院の診断書とかは、どうなっているのだろう?
それより、ちゃんと現場片づけてから移動したんだろうな?
いやほんと、その後の記憶がありません。
ちょうどそのあたりまで考えたところで、本格的に眠くなっちゃったんで。
忖度しながら、ため息を漏らす。
めんどくさくなっちゃったんだね、わかるよ。
ゴミとかは持ち帰らないといけないけど、広げた風呂敷を自分で回収して帰ったらマッチポンプだもんね。
むしろ消火なんてしてもらったら困るよね、火をつけて煙を立てるお仕事だもんね。
理解はするのだが、カタっている当人の血色がよすぎると、どうもげんなりする。
結論。
怪談に、動画は向かない。
ラジオで聞くのが正解だ。
映画というものは、舞台を自国に設定することが多い。
製作者、配給、訴求の観点からいっても、当然だろう。
しかし時代はグローバルなので、製作国にとって「外国」が舞台になることも、少なくない。
さまざまな理由から外国を舞台とする時点で、透けて見えてくる事実に興味をおぼえた。
外国を舞台にするジャンルとしては、当然「スパイ映画」が多い。
それはそうだろう、なにしろスパイだから。
スパイ映画と呼べるかはともかく、元スパイとかマスコミが主役になったバリエーションも豊富だ。
ただの旅行者でも、もちろん主役になりうる。
ともかく外国に行って、慣れない環境で奮闘する時点で、ひとつのドラマではある。
そんな作品のひとつ。
紛争地帯にいる家族と、連絡がとれなくなった。
助けに行くんだ、と言い出す女主人公。
いや無理だ、と冷静な周囲に止められる。
ひとりでも家族を助けに行く! と意地を張る。
まったく無理なことをおっしゃる、まあそれだけ気分が高まっているのだろうが。
案の定、ちょっとピンチになっただけで、助けてー!
だから言っただろ、と冷めた視線で眺める。
彼女のために、必要以上の資源が消耗されている。
あそこに妹がいた、危険だ、やだやだやだ、見に行く!
しかたなく代わりに行く案内人、犠牲になる。
同系統の作品を、ここ数週間で立て続けに観た。
同じシーンをどの映画に当てはめても違和感がないくらい、パターン化されている。
本来、いるべきではない場所に、無理やり介入して被害が拡大するという典型例だ。
彼女がやってきたせいで、現地の人々や、味方の多くが巻き込まれ、死ぬ。
この手の物語の主人公にイライラする理由が、なんとなくわかってきた。
とくに「無能」な「白人さま」の場合、その傾向が顕著になる。
製作過程を推し量るに、能力はないけど愛()にあふれている一般的な白人層に向けてつくられている、と考えらる。
白人の救出のためなら、黒人やアラブ人が巻き込まれて死んでも、しかたないのだ。
終始、白人さまを助けるためには必要な犠牲だった、というテンション。
わるいのは、このような危険な国があることですよね、と問題の矛先を捻じ曲げる。
そういう映画を、ちらほら見かける昨今。
世界では、なんかあったのだろうか。
さて、分析を開始しよう。
家族を助ける行為に、どこまで同意できるか問題だ。
愛するひとを助けたいという気持ちは、よくわかる。
そのためなら自分の命も惜しくないというのも、まあわかる。
が、赤の他人を巻き込んで犠牲者を出してもかまわない、という行動までは同意できない。
それでも、あえてそのような設定を多用するのは、なぜか。
前述したとおり、現状まだ上位購買層として多数派である白人たちに向けて映画をつくりました、ということだ。
危険な途上国の紛争に巻き込まれた同胞の姿を、安全な国から眺める「層」に向けられたメッセージ、といってもいいかもしれない。
主人公への共感が必要とされる映画で、彼あるいは彼女の「愛」をどこまで肯定できるかは、とても重要だ。
畢竟、この手の映画は「愛国映画」に似て、視聴した人種や国籍、立場によって評価が分かれる。
同調圧力や集団行動にすぐれた日本人には、かなり苦手なジャンルかもしれない。
社会不適応者の私が言うのもなんだが。
倫理的に、あまりにも自分たちばかりを優先する行動には、共感が得られづらい。
とくに人種問題など、ベーシックに根深い葛藤が背景にある場合、問題は複雑化する。
アフリカや中東などの紛争地帯で、事件に巻き込まれた家族を助けるために、どうするべきか。
枚挙にいとまがないパターンの映画で、主人公たちがしばしばやりすぎるのは、なぜか。
現実にできないからこそ、映画でカタルシスを。
地味じゃ商売ならないんだよ。
という業界の事情を忖度しないわけではない。
突っ込み待ちの派手な演出にすぎない、なるほど、そういうこともあるだろう。
だが、もっと冷静な作り方もできたはずだ。
あえてそれをしないなら、確信犯である。
彼らが平気で(はないのかもしれないが)現地人を、それも無関係の市民を巻き込んで銃撃戦など展開しているのをみると、とたんに共感の程度が激減する。
そういう私のような考え方の層も、織り込み済みなのだ。
どうぞ、このような価値観を憎んでください。
その代わり、これだけ同意してくれる層もいるのですよ、と。
たとえば映画の主人公のように、あなたの大切なひとが誘拐犯にさらわれたとする。
そして脅迫を受け、その要求を拒否したところ、犯人が人質を殺してこう言った。
おまえが言うことを聞かないからだ、おまえのせいだ、と。
その感じに似ている。
私なら、こう返す。
いや、人質が死んだ理由は(比較的最大限)おまえが殺したせいだろ、と。
同じことだ。
周囲を巻き込む主人公の行動原理は。
紛争国の民間人に被害者が出たとする。
テロリストのせいだ、治安のわるいこの国のせいだ、自分は家族を助けたいだけなのでわるくない。
そんなことを言われても、とうてい納得できないのではなかろうか。
基本おまえが無茶したせいで死んだんだろ、と私なら突っ込む。
主人公の暴走があるレベル(先述の例でいう誘拐)を超えた段階で、それは明確に「犯罪」となる。
他人を誘拐して脅迫するような犯罪者の行動原理と、主人公の属性がかぶってしまうのだ。
目には目を、という視点に立てば正しいようにも思われる。
が、いったん巻き込まれる側の視点に立つと、真逆の効果となる。
これは、作劇法として、かなり注意しなければならないポイントだ。
その主人公をヒーローにしたいのか、ただのパンピーでいいのか、共感を集めたいのか、ノンフィクションの手法なのか。
物語の性質を決める重要な分岐点だ。
慎重に判断しなければならない。
身勝手な主人公というパターンも多いので、このような展開を全否定するつもりはない。
どこか欠陥のある人間だからこそ共感できる、というセオリーもじゅうぶんありうる。
アル中とか、暴力的とか、性格がわるいとか、エロすぎるとか、欠点だらけの主人公も、それはそれで魅力的だったりする。
あとは他人を巻き込んでも平気でいられる「程度の問題」だ。
多少、周囲に迷惑をかけても、許容範囲と思える程度なら、問題にならない。
彼あるいは彼女の「能力」が、その瑕疵を覆って余りあるほど魅力的であれば、許容範囲はさらに広がるだろう。
逆に、ただの無能なのに、家族を助けたい「気持ちだけ」の主人公。
これはもう、かなり危険だ。
それでもそういう主人公がつくられるのは、「ふつうの人間」が事件に巻き込まれたら、という設定がもたらす効果のためだろう。
同胞たちへの訴求効果が主目的なので、いっしょにされたくないタイプにとっては、かなり共感しづらい映画に仕上がる。
あんたの「気持ち」はあんたの勝手だが、あんたの「能力」と予測可能な「結果」を、自ら天秤にかけてくれないか。
現地のことをよく知っているガイドが危険だと言っているのに、無理やりやらかして死んだのが自分ならともかく、まわりの人間だったとき。
それでも平気な顔でいられる人間が、主人公の映画。
自分の目的のために他者が犠牲になっても気にしない人種、そう……人口の1~数パーセント存在するという、サイコパスだ。
そうか、これはサイコパス映画だったのか。
卒然として恐懼する。
いずれにせよ、利益と損失のバランスに同意できるかだ。
価値、能力、行動自体、被害の多寡、さまざまな要素を加味しつつ、同意できる行動をとる者にこそ、主人公の資格がある。
いや、ふつうの人間が主人公になっても、それはそれでいいが。
その場合、スーパーイライラ映画になることもある、と知っておこう。
白人さま、アメリカさま、将軍さまのためにつくった映画。
それを客観的な視点で観ること自体が、本来の目的にそぐわないのだろう。
私の目には「自分勝手な女」でも、家族を大事にする欧米人にとっては「ふつう」なのかもしれない。
身内や家族ばかりを優先するひとは、もちろんどの国にもいる。
そういうことのない、純粋に能力と適性で評価される国へ、私は行きたい。
そんな国やだよ、もっとウェットな人間関係で、べったりしてたいんだよ、というひとには現在の世界が向いている。
というわけで、どこにも行くアテのない私は、きょうも家に引きこもる。
映画という、社会の窓にすがって……。
楽天モバイルの駆け込み需要がピークらしい。
やはり無料の力はすごいな、と思った。
埼玉の親に契約させて、一年無料の年寄り用wi-fi構築を決めた。
ポイント還元の大きい端末を購入し、その後なんやかやあったのだが、結果として購入した端末が私のところにある。
私は、自分のことは自分でやる、自分の使うものは自分で買う、というタイプなので、親が買った端末を自分が利用してやろうという気はない。
販売者が予定する通り、使用者は親自身だ。
要するに、私が端末の設定をしなければならない、ということだ。
若者ならだれでも自分でできるし、できない年寄りなどのためにショップがある。
その簡単な仕事を、子の私が請け負ったというわけだ。
それはそれで、よくあることでもあろうと思う。
昨日(4日)、実家に寄るついでに新しい端末のwi-fi設定などする予定だった。
滞在時間をなるべく短くするため、前日(3日)に端末自体の設定を済ませておこうと考えた。
で、親にパスワードを訊いた。
端末に必要な更新をかけたり、使っているアプリを入れるためだ。
するとラインで、不正確な回答が返ってきた。
一言一句まちがえてはいけない、パスワード。
それが、まちがっている。
3文字も。
最初から変だなと思いはしたが、セキュリティのために変更することはよくある。
なにしろパスワードだ、一言一句、そのまま入れてやった。
認証されない。
私は考えた。正しいパスワードを問うべきか? それとも入力ミスの部分を忖度して、先に進めるべきか?
まちがいが判明したのは、親が写真でパスワードのメモを送ってきたからだった。
私が写真から判断して、3文字のミスを見つけたわけだ。
しかし母親よ。
同じものを見ながら、それも自分のパスワードで、なぜ3文字もまちがえる?
わざとかな……。
私は深く嘆息し、その後、他の作業に移った。
テキトーな対応をされてやる気をなくした、と客観的には見えるだろう。
否定はしないが、やる気をなくすと、結局のところ困るのはこちらだったりする。
そのあたりを見透かしたかのような、甘えきったこの態度にイラついた、というのがより正解に近いだろうか。
どうせあんたがやるんだから、我慢して年寄りの相手をして正しいパスワードを聞き出しな、というわけではないはずだが、そう思えてしまう自分もいる。
苛立ちに任せて、こう叫ぶこともできた。
パスワード訊いてんだよ、テキトーな文字列返すんじゃねえよ!
もちろん私は大人なので、そんな言葉は発さない。
代わりに、しばらく放置したのだ。
アンガーマネジメントという言葉がある。
イラチの私にとって、とても大事な言葉だ。
瞬間給湯機のように腹を立て、暴言や暴力に走る残念なひとがいる。
「怒りのコントロール」は、そういうひとに絶対的に必要だ。
たとえば、反射的に暴言を吐くまえに6秒待ちましょう、というルールがある。
6秒あれば、多少は冷静になれる、という意味だ。
さて、そんな母親のスマホをもって、4日、車で五反田に向かった。
出発は群馬だから、途中、埼玉の実家に寄るのは都合がいい。
五反田の話は、これまで何度も書いた。
毎回別な方法で、という薄っぺらな遊びをはじめて半年になる。
いろんな交通手段で、群馬の奥地から五反田を目指す。
で、今回も残念ながら(?)車をチョイスしたのは、言うまでもなく非常事態宣言のせいだ。
菅さんが早めに解除してくれなかったどころか、延長の気配まである。
緊急事態宣言下では当然、朝まで飲み屋というルートがない。
真夜中に帰宅するためには、車で行くしかない。
そこでこうなるわけだが、まあ、それはそれで楽しみ方もある。
前回は文字どおり、池上線に乗って帰った。
今回は浅草線で帰ろう、と決めた。
池上線が環八と交わるあたりに駐車した前回。
今回は、浅草線が環七と交わるあたりに駐車した。
結局電車乗るのかよ!
と、我ながら突っ込んでみる。
いや、五反田駅の近くの駐車場も一応は検索したが、まだ浅草線に乗っていなかったから……。
ともかく今回は、馬込から五反田に向かったのだった。
ついでに小説の舞台となっている、杉並、練馬、それから中野あたりも、前回見られなかった場所をまわった。
降りて散策するほどの時間はなかったが、石神井公園の近辺では窓を大きく開き、3月初旬のそこそこの寒さを、文字どおり空気感ごと味わった。
一度の遠征で何度もおいしい。
諸君、遠出には計画を詰め込もう!
さて、オチだ。
冒頭に書いた「アンガーマネジメント」を、もっとも必要としている人々に、今回も出会うことができた。
車という「動く凶器」を、運転する人々。
毎回、多かれ少なかれ、変なドライバーには出会う。
赤信号ギリギリに突っ込むとか、ウィンカーも出さず急に曲がるとか、隙間を蛇行して追い抜くとか、要するに一分一秒を争うほどお急ぎの方々なのだろう。
ちょうど目のまえで、そういうひと同士のバトルを見た。
一台は、すこしまえに背後からやってきて、私のすぐうしろで車線変更して触れそうなほど真横を通り過ぎた瞬間、直前に割り込んだ車だった。
車いす仕様の福祉車両に対して、平気で煽り運転や割り込みできる人格というのも、なかなか豪儀だ。
つぎの信号で止まっていたところへ、追いついた。
生ぬるい目で眺めていると、彼は目前で似たようなことをはじめた。
あまり隙間がない車間で中途半端に車線変更し、前走車を追い抜いて直前に割り込む。
すると、抜かれたほうは切れたのか、その先で同じことをやり返した。
その後、すごいスピードで走って行った2台。
一瞬しか見られなかったが、彼らがその先で事故を起こさなかったか心配だ。
……正直に言おう。
他人を巻き込まず、自分だけで死んでくれればいい。
いや、もちろん治療されることが望ましいのだが、そのまえに他人を巻き込むリスクのほうが高い。
なんとなれば、事故を起こさなければ治療が開始されないからである。
乱暴な運転をする人や、抜かれたら抜き返さずにはおれないタイプにこそ、必要なもの。
それが「アンガーマネジメント」だ。
今回、私は被害者・観察者の立場で語ったが、若いころは加害者の気味もあっただけに、この文章は自省として書き残しておく。
狭い日本、そんなに急いでどこへ逝く……。
私は、夏休みの宿題を初日に全部片づける、というタイプだ。
仕事も、できればそうしたい。
なかなか、そうはいかないのだが、傾向としてはそうだ。
とにかく、やるときはやる、やらないときはやらない、という生き方を好んでいる。
で、たとえばオークションに参加するときも、まとめて出品することは多い。
オークション「やるときはやる」タイミングが、たまにやってくるわけだ。
今回もそうしたのだが、3個目くらいの撮影と入力を進めているときに、最初に出品したものが売れた。
ものの15分くらいだった。
まだほかの出品が途中なんだが、と思いながらその商品をもってコンビニにいった。
もしかしたら私は、値付けが良くないのだろうか、と反省してみる。
いや、理解はしているのだ。
もうちょっと高くしても、数時間、あるいは数日あれば売れるだろうと。
しかし私がオークションに参加しているのは、べつに儲けたいからではない。
それを必要としなくなった私以外に、役に立ててくれる人がいれば、その人に譲りたいというだけの話なのだ。
だから、転売して利益が出ない程度のぎりぎりの値付けで、さっさと売ってしまいたい。
そして、あくまで個人のミニマリストなので、それほど持ち物が多いというわけでもない。
出品数が多くないので、段取りもあまり良くない。
もっとサクサク出品したいのはやまやまだが、誤字などはもちろん、カテゴリやメーカーや状態など、注意すべきところが多いので、変な人に当たらないためにもそこは慎重になる。
文字を読むことや書くことが多い人生なので、ひとつの信念を固守している。
できるだけ「ウソがあってはならない」だ。
たとえばフィクションであっても、そんな理屈はねえだろ、という内容に辟易することも少なくない。
最初から現実であるにもかかわらず、最初からウソをつく「商人」という種族もいる。
オークションは、まさにその「商売」の巷なのだが、どこであれウソは論外だと思う。
以前「見解の相違」でいやな気分になった話は書いたが、それ以前の話だ。
今回は文字どおり「ウソ」が書かれていた話をしよう。
某メルカリの話だ。
ひと言でいえば虚偽表記なのだが、そう単純な話でもない。
出品者自身、どうやら気づいていなかったようなのだ。
とある機械もので、外見は非常によく似ている。
型番の末尾が02か03かという、まぎらわしい部分だ。
写真からの区別は、ほとんどつかない。
いやもちろん、プロがちゃんと見ればわかるのだろうが、素人がスマホの小さな画面から判断するのはかなり難しい(不可能とは言わない)。
で、私はその不可能に挑戦し(たわけではないのだが)、みごとにだまされた。
検索タイトルも商品説明も末尾03だったが、届いたのは私がほしかった03ではなく、02であった。
写真どおりの商品なので、否定できないミスだ。
当初から、悪意のない単純ミスだったと、相手も認めている(結果的に優良誤認なので、相手の過失が大きいとは思う)。
上記の通り、形としてはよく似ており、私も最初まったく気づかなかった。
届いて電源が入った時点で、受取連絡をしている。
写真どおりのものが届いて、さしあたり動作も問題なければ、速やかに受取連絡をするのは当然だと思う。
さて、問題はそこからだ。
03であれば受けつけられるべき設定が、入らない。
当然だ、02なのだから。
しばらく悪戦苦闘した結果、遅まきながら気づいた。
これ、型番ちゃうやん。
そこからメッセージでのやり取りがはじまる。
最初は相手も、ふつうに対応してくれていた。
自分のミスを認め、返品返金という話にまでなりそうな気配だった。
ふつうに善良な人間なんだろうな、と思っていた。
この時点で、私の最大の過失は、きちんと確認しないで受取連絡をしたことだ。
さらにメッセージでのやり取りで、写真は出ているのだから、それできちんと確認しなかったほうにも落ち度がある、とも言われ認めた。
しかし現物を所有して写真まで撮っている側と比較して、どちらの過失が重いかは明白である、と返した。
そして、返品の場合こちらが送料を負担することはできない、と言った。
すると、唐突に「一方的で受け入れられない」と話し合いを切り上げられた。
自分に都合が悪くなると交渉を終わらせる、どっちが「一方的」だよ、と思った。
九割方自分が悪くても、損失はあんたが全部こうむってくれよ。
こういう無体なことが、メルカリでは、できる。
なぜか。
私がすでに「受取連絡」をしているからだ。
自分が悪くても損をするのは嫌だよ、と言って通用するシステム。
最初から、そういう枠組みのマーケットに参加している事実を、理解すべきだ。
そこに、あとから参加したのは私なのだ。
なるほど、これは受け入れるしかないかもしれないな、と思った。
多少、値段は落ちるが、転売すれば済む話だ。
いい勉強になったよ、さよならメルカリ。
そう思いながら、事務局に相談した。
すると、意外なことに、事務局が動いた。
考えてみれば、そのシステムで全体として利益を得ている企業としては、当然の対応と言えるのかもしれない。
今回の件に関しては、送料を事務局が負担します、ということだった。
こうなると、相手も動かざるを得ない。
一転して、返品返金、ということで話がまとまった。
で、決着がついた話だ。
相手もそこまで悪い人間ではなく、原状復帰なら受け入れるという立場だった。
通知された住所に、商品を送り返した。
意外につまらない結末だったな、と筆を置きたいところだが、残念ながら蛇足とも呼ぶべきつづきがある。
返品した商品が「宛先不明」で戻ってきたのだ。
おいマジか、なんなん取引相手、メルカリ、郵便局……。
イライラしながらメッセージを送ったところ、そんなはずはない、郵便局に問い合わせる、と相手もどうやら憤慨している気配だ。
これはどうやら、別の悪役が出てきたらしい……。
ほどなく、郵便局員がやってきた。
このたびは当方の不手際でございます、と。
担当の配達員に加え、課長が名刺をもってついてきて、申し訳ありませんと謝り、荷物を回収していった。
まあ過ちはだれにでもある、しかたない、許そうと。
ちょっとしたトラブルもあったが、一連のやり取りも片づいた。
以上だ……と、話を終えたいところだが。
数日後、思い出したようにメルカリを開いてみる。
ステータスがまったく変わっていない。
そういえば相手からも連絡がない。
おいおい、群馬から東京に送るのに、何日かかってんだよ?
この期に及んでゴネたのか、いやそもそも届いてないんじゃないか。
郵便局のサイトを開き、伝票番号を確認、メールで問い合わせる。
大慌てで動き出す、日本郵便株式会社。
返ってきたメールによれば「入力漏れ」があり、再発防止の「指導」をしたらしい。
「同局へは、再発防止のための指導、および周知の徹底を指示いたしましたので
何卒ご容赦賜りますようお願い申し上げます。」
という、わかりやすいコピペつきの謝罪メールを、ここにもコピペしておく。
数日前に謝りに来て、数日後にこの始末だ。
群馬から東京まで届くのに、結局、1週間以上かかった。
徒歩かよ、と。
江戸時代の飛脚でももっと早いぞ。
やはり飛脚便に頼むべきだったか、いや黒猫も悪くない……。
しかも送り先が、毎月通っている五反田だ。
大崎郵便局に頼る以前に、自分で届けたほうが早い。
ちなみに問い合わせの結果、2日後に配達された。
言い換えれば、問い合わせなければ配達しなかった、というわけだ。
メールの答えも「大崎」が「大津」郵便局になっていた。
郵便局、バカなのかな……。
というわけで、この話は終わりだ。
滑稽な二段オチを演出してくれた郵便局さん、ありがとう。
もちろん上級国民である郵便局員さまにお頼み申す以上、われら平民は伏してお届けの日をお待ち申し上げ候奉るしかないわけだが。
いかげんにしろよ郵便局。
MVNOが死滅する時代がやってくる、と業界ではもっぱらの噂だ。
MVNOとは、大手の回線を借りて営業する、いわゆる格安スマホのことだ。
彼らを滅ぼす悪役は、楽天とかいう巨人である。
1GBまで0円という、明らかにおかしい手を打ってきた。
もちろんその前には、DoCoMo、au、ソフトバンクという3社が、足並みそろえて同額の値下げに踏み切った、という「楽天つぶし」がある。
やられたらやり返す、倍返しだ、という「0円爆弾」を放った楽天には、さすがの私も感心した。
そろそろダイヤモンド会員10年目という、楽天経済圏の奴隷である人間の言葉にすぎない、という点を割り引いて聞いていただきたい。
ともかく腐った通信業界に、楽天モバイルという尖兵が鉄槌を下している。
正直、楽天に対しては口を極めて罵りたい部分も少なくないのだが、今回の件に関しては快哉を発したい。
年寄りと情弱をだますことのみに汲々としてきた通信業界には、どう考えても懲罰が必要だからだ。
漫然と使いつづけてくれるブタから吸い取った栄養で肥え太りつつ、その一部を乞食たちに配布していた、ケータイ業界。
私も乞食側で参戦はしていたが、2回線か、多くても3回線を回す程度の「ライト乞食」だった話は、以前も書いた。
ライトであっても、通信料は実質かからない、むしろちょっとプラス、という生活ができた。
そのしわ寄せは「養分」であるブタどもだ。
菅さんがお怒りになるのも、よくわかる。
この腐った業界をたたき直してくれる「指導」の一環として、おそらく楽天モバイルがある。
にしても、0円はまずくないだろうか、とさすがの私も思った。
場合によってはダンピング、独禁法で規制対象になりうる。
0円では、そもそも競争が成り立たない。
それ以上、値下げすることはできないからだ。
できるとすれば「キャッシュバックの値上げ」くらいだが、これはまさに、それまで通信業界のやってきた邪悪な所業に重なる。
再び消耗戦の様相を呈してきたが、今回は「養分」の居場所が異なる。
エサをばらまくためには、そのための供給源を準備しなければならない。
かつての業界は、情弱のブタどもから集めた養分をばらまいた。
一方、楽天モバイルは、どうやら本体である楽天市場などの利益から、先行投資という名目で絞り出しているらしい。
ある意味、私も養分《ブタ》になっているわけだが、それでもかつて3大キャリアがやってきたことよりはマシかもしれないな、と思っている。
菅さんが、アンチ通信業界になる気持ちは、よく理解できる。
当時の業界がやっていた行為は、ライト乞食の目から見ても、あかんやろ……いやくれる言うならもらうけどな……という、要するにダメダメなやり方だった。
業界は、変わらなければならない。
楽天が変えられるかどうかはわからないが。
さて、そんなことを考えながら通信業界の記事を読んでいたところ、電話がかかってきた。
フリーダイヤルから、どうやらセールスマンらしい。
そもそも電話にはあまり出ないのだが、たまに気が向いたときには出る。
今回は、どうやら気が向くべきではなかった。
商人、なかんずくセールスマン。
私が世の中でもっとも嫌悪する種類の人々に対して、ちょっとばかり毒を吐きたい。
私は基本的に、自分が尊重されるために、まずは相手を尊重したいと思っている。
たとえば、相手が「いやだ」と言ったら、その提案は速やかに取り下げることにしている。
言い換えれば、私が「いやだ」と言ったら、あたりまえだがそれはいやなので、二度と同じ提案をしないでもらいたい。
が、相手が拒否してからがセールスマンの仕事、不必要なものを買わせるために全能力を注げ、という前提で生きている人々がいる。
職業否定にもつながるが、率直に言って、私はそのような仕事を否定する。
存在自体が相いれない相手、それが私にとってセールスマンだ。
結論から言うと、その電話は光回線のセールスマンだった。
まあ電話をかけるのは自由なのだが、問題は、セールスを感じさせない話題から、口火を切ったことだ。
インターネットの設備の更新にかかわる「工事のご連絡」です、と。
そう言われれば、一時的にネットが使えなくなるのかな、いつ頃かな、と聞く気になる。
即切りをモットーとしている私ですら、最初しばらく聞いてしまった。
なんと邪悪な話術であろう……。
この地域では何月何日に工事が入りますので、この時間は使えません、という水道工事のような話ならともかく、そうではない。
どちらの会社をお使いでしょうか、毎月おいくら支払っておりますでしょうか、と質問がつづくに及んで、敵の正体に気づいた。
怒りが膨らむと同時に、ある種の興味もおぼえていた。
会話は録音されている。工事に携わる人間のフリをしてだいじょうぶか?
聞きながら考えて、察する。
お使いになっている通信設備が更新されますよ、あなたが契約してくれればね!
クソが……。
おかげさまで、しばらく不愉快な時間を過ごさせてもらった。
工事の連絡なんですよね?
ええ、お客様の状況によっては工事が必要になります。
どうせそんなことだろうな、という会話を脳内でシミュレーションしながら、この罠に落ちた自分を残念に思った。
そして、他人を残念な気持ちにさせるような罠を張ったセールスマンという職業に対する憎しみを、輪をかけて新たにした。
ちなみに「申し訳ありません、ご不要なご連絡でした」と、この憎むべきセールスマンに言わせたのは、「楽天の光回線を0円で使ってます」という私の言葉だった。
どんなセールスマンも、さすがに0円が相手では戦えない。
意外と役に立つな、楽天。
もちろん商人の一味である楽天がやってきた、邪悪な詐術を忘れてやるつもりは一切ないが、利用できるうちは活用させていただこう。