われわれは、現在に生きている。
いろんな道具や施設を使って、かなり便利な生活になった。
私は東京を舞台にした物語を書いているので、現在の東京を形作った過去について調べることが多い。
資料として、科学映像館がアップしている動画など、とても参考になる。
地下鉄やトンネルを掘削したり、空中に高速道路を走らせたり、地震多発地帯に高い建造物を建てたりと、多くの「地形を変える」「地図に残る」仕事を眺めていて、嘆息する。
すげえなあ、と。
戦前から戦中戦後の資料なので、多くの作業は手掘りだったり、紙と鉛筆で計算だ。
もちろん部分的には機械化されていたが、基本的に手と頭による作業で、この圧倒的な巨大建造物群を築き上げた。
すげえなあ……。
正直、それ以外にことばが見つからない。
いや、ことばは見つかるが、彼らの仕事が重すぎて、ことばなんて尻軽女だ。
この先人の努力が、現在人の便利な生活を支えていることを、けっして忘れてはなるまい。
などと殊勝な気持ちになりつつ、オススメに出てくる動画を順次消化する。
私のようなおっさんの嗜好は、動画サイトにはモロバレだ。
恐竜、地球、宇宙人など、アホな男子らの食いつき抜群なカテゴリに、もちろんアホ代表の私も食らいつく。
他人に理解してもらおうとは思わないが、この気持ちは世界中の多くの男子が共有してくれることだろう。
宇宙とか恐竜とか遺跡とか電車とか、男子には巨大なもの、動くものが大好き、という遺伝子レベルの嗜好が植え付けられている。
私も大好物の宇宙動画を眺めていて、しかし、好きになれない種類の動画も存在することを、ここで申し述べておかなければならない。
とくに昭和の先人が文字どおり汗水たらして築いた巨大建造物を、日々ありがたく使用させていただいているという殊勝な気分で眺めると、もう吐き気しかない人々の登場する動画。
それは「古代宇宙飛行士説」だ。
いや、それ自体は疑似科学の突拍子もないトンデモな都市伝説の一環として、べつにあっていいとは思うのだが、彼らの考え方、主張の方法が、著しく癇に障る。
ひとことで言えば、先人に対する敬意がほとんど感じられないのだ。
たとえば「この古代遺跡は宇宙人がつくった」。
ひどい主張だと思わないだろうか?
当時の人々が、当時使えた技術と知識と労力のかぎりを尽くした巨石遺跡。
この偉大なモニュメントに対して、当時の人間がこんなものをつくれるはずがない、宇宙人がやってきて特別な技術を使ったのだ、云々。
失礼すぎる!
どれだけ努力してテストでいい点を取っても、こいつにこんな点をとれるはずがない、どうせカンニングしたんだろ? と言われるようなものだ。
当然、お怒りの方々も多い。
エジプト考古省のお偉いさん、ザヒ・ハワス氏も半ば切れていた。
この偉大な建造物は、われわれの先祖が無から、知性と労力のかぎりを尽くして、だれの助けも借りずに完成させたすばらしい遺産です。
神とか宇宙人とか、そんなワケのわからないものに介在されたくはありません。
怒る気持ちはわかる、そりゃそうだ。
先祖が頑張ってつくってくれたものに対して、それ宇宙人の技術を盗だだけだろ、と嘲られたらムカつくに決まっている。
よって、そんなわけねえだろクソが、と言い返すのは至当だ。
が、その程度で陰謀論者はひるまない。
そもそもエジプトが言い返せるのは、あまりにも有名な遺跡群であり、その研究者、文化の後継者がたくさんいるからだ。
それ以外の多くの古代遺物には、研究者も継承者も少ない(わからない)ので、あまり言い返すことができない。
まさに、そのせいで、彼らの吹聴する暴論が世間に暗躍、蟠踞することになる。
だれかをバカにしたくてしょうがない人々は、どこにでも一定数いるものだ。
反撃の能力が低い人々を狙って責める、という本質をもつ犯罪者。
彼らが反論できない人々を貶めるのは、もちろん見慣れた光景だ。
努力を尽くして達成された成果に、平気でイチャモンをつけられる人々。
デマゴギーで食う彼らの犯罪種別は「詐欺師」である。
古代エジプトに代表される遺跡には、当時の人々の血と汗と涙が詰まっている。
私を含めてほとんどの人々が、感心し、感動し、褒めたたえるべきものだ。
しかし、陰謀論者にとってはちがう。
そのねじくれた精神は、どうやって彼らを腐しうるかを、まず真っ先に考えるのだ。
詐欺師が詐欺をはたらくのは、もちろん職業柄ではあるのだろう。
だが、他人の努力を貶めるような種類の詐欺は、だいぶ気持ちがわるい。
過去に必死でがんばった人々を、現代の詐欺師たちが食うために侮辱しているさまを見るにつけ、心が締めつけられる。
陰謀論者を全否定するつもりはないが、その表現方法についてはどうか一考していただきたいものだ。
もちろん、古代に宇宙人がきたと言いたい人々がいても、それはいっこうにかまわない。
しかしまずは、このすばらしい遺跡をつくった古代人の叡智に、最大限の敬意を払うところからはじめるべきではないだろうか。
そのうえで、ところで、その隣にあるこの小さいほうは、もしかしたら宇宙人がつくったのかもしれませんよ!
というくらい謙虚に意見を宣うなら、まだしも許していい。
この巨大な石は反重力装置で動かしたんですよ、そうすればとても楽ですからね。
古代人なんてサルみたいなもんだから、背負えるより重い石なんか運べませんよ。
そんなことを言っている、詐欺師ども。
先人への侮辱も、いいかげんにしていただきたい。
要するに、自分にできないことは、ほかのだれにもできないという前提。
狭量なその思考回路は、万人が(愚か者ほど多く)持ち合わせている。
であれば、それへの自省は必須の「成長」過程であり、すべからく謙虚さと向上心へつながっていく道のりではあるまいか。
などと、ときおり陰謀論に片足を突っ込む私は、強い自戒とともに思う。
なにしろレコメンドされて、まんまと視聴しているくらいには、都市伝説愛好家ではあるのだ。
その表現方法があまりにも無礼な場合にかぎり、多少腹が立つというだけで。
過去からの発信に対しては、尊敬と謙虚さをもってリプライしよう。
すべての過去は、すばらしい教材である。
世界中の人工知能が現在、恐るべき速度でやっている「学習」。
おそらく未来を担うべきこの異形の子どもたちに、人類の詐欺師の顔だけは反面教師にしてもらいたいと願う。
そして、謙虚に学ぶというフォーマットを大事にしよう。
そんなことを思いながら、いま私は簿記の勉強をしている……。
最近よく、スマホでカラオケをしている。
昭和歌謡を中心に、寝るまえ布団のなかで一曲、それをアップロードしたりしなかったり。
『大阪で生まれた女』は、BOROの79年の曲。
東京へはようついていかんらしい。
そしてひとり眠る私は、すばらしいナオミの踊る姿を夢に見る。
ナオミ、カムバック、トューミー♪
これはヘドバとダビデによる70年イスラエルの楽曲。
『ナオミの夢』で検索していただければ、すばらしいユダヤの夢を見ることができるだろう。
私が生まれるまえの曲だが、高校生くらいになってから、はじめてこれを聞いたとき、ナオミ・キャンベルって昔からすげーんだな、と思ったものだ。
もちろん、ナオミ・カムバックと、ナオミ・キャンベルは、まったく関係ない。
当時、スーパーモデルということばがファッション界を騒がせていて、アホな高校生だった私もバブルに浮かれた世間の空気を、それなりに感じていた。
ブランドものというやつを身に着け、調子にのっていた当時の自分を、できれば一発殴ってやりたい。
さて、とっ散らかした前置きはこのくらいにして、本題にはいろう。
大坂なおみさんの話だ。
世界ランク2位のプロテニスプレイヤーが、全仏オープンを棄権した。
うつ病らしい。
直接のきっかけは記者会見の拒否。
記者がうつ病を深刻化させるからだという。
マスコミが取材対象に対して、わざと怒らせたり泣かせたりしてネタをとる、というのは、たしかにあるんだろうなと察しはつく。
スポーツ界にかぎらず、あらゆる「取材」の場面で、彼らはやらかしている。
完全になかったことをでっちあげるまではあまりしないと思われるが、ちょっとでもそれらしい空気があれば「演出」で仕立て上げる。
マスコミによる「誘導」は、あまりにも横行している。
スポーツで重要なのはフィールド上でのパフォーマンスであり、記者会見はオマケみたいなものだ、というのが選手の立場だ。
一方、それを記者会見まで不可欠の義務かのように主張し、ネタをよこせと迫る勢力が大きな力をもっている事実がある。
そういうのも含めて付き合うのがスポーツ選手の義務である。
だってマスコミさんがあなた方を売り出してくれるおかげで、たかが趣味の延長にすぎないスポーツごときで飯が食えてるんですよ。
と、まあマスコミべったりの運営の理屈は、そんなところだろう。
われわれから見れば、そのスポーツ選手に食わせてもらってるのがおまえらじゃん、という気がしないでもないが、そういう全体を含めてベタベタした関係でいきましょうや、というのが記者会見という「義務」なのだと思われる。
笑ったのは全仏の主催者である会長さんが、その義務を拒否する大坂を「ひどいまちがい」と非難しておいて、うつ病の告白で流れが変わるや否や、自分はコメントだけを出して記者会見は拒否するという「偽善者」ぶりだ。
選手はつらくても記者会見に応じなければならないが、会長は自分がつらい立場らしいと判断すれば会見に応じなくてもいい、という堂々たるダブルスタンダード。
まあ、会長にとって記者会見は日常ではなかろうし、急な流れの変化に対応できなかったという事情は理解する。
自分が「マスコミの餌食」になってみて、はじめて他人の気持ちがわかるようになるのかもしれない。
自分が特別な存在であり、自分だけが優遇されるべきだという考えは、おそらく多くの人間がもっている。
自我の強いスポーツ選手はもちろんだが、組織で偉くなる連中など、ほとんどが選民意識のカタマリであるにちがいない。
要するに、俺はやっていいけど、おまえはダメな!
というジャイアニズム。
ほかに最近のニュースでいえば、日本が台湾を助けるべくワクチンを送ったとき、「ワクチンを政治的な道具にすべきではない」とか言い出した中国。
これには、さすがの私も飲みかけていたお茶を吹き出してしまった。
多くのクラスメートをぶん殴っているジャイアンが、デコピンしたのび太をつかまえて非難するのに似ている。
自分がやるのはいいけど、他人がやってはならない、という典型だ。
ではどうしたらいいのか。
報道レベルでは決まっている。
たとえばウイグル報道に対して、中国は「虚偽の情報を多く取り込み、実態とかけ離れている」「イデオロギー的偏見を捨て去って、客観的に中国を報道するよう促」している。
要するに、中国に合わせて偏向しろ、という要求だ。
いかなる報道にもバイアスはかかっている。
その前提で、こっちに偏向しろ、と要求し合うのが国際社会の常道なのだ。
もちろん似たようなことは、アメリカもやっている。
というより、ほとんどの国から個人まで、周囲の弱い人間に対してやりがちである事実を銘記すべきだ。
人類史、なかんずく近代西欧史は、自分はやってもいいけど他人はダメ、という方向に社会を進化させてきた。
いわゆる「世界史」を築いてきたヨーロッパにとっては、もっぱら加害者である自分が守られるためには、これ以外に選択肢がなかったともいえる。
結果、ハンムラビ法典以来の伝統は消え去り、「同じ方法で死刑にする」という法理は、もはやアフリカの一部の国にしか残らなくなった。
同害報復の原理については、歴史的にかなりの議論はあったのだが、結果としてご存じの通りの状況となっている。
さすがに殺人罪に対する死刑については、カントなども合理的だと言ってはいるが、残念ながら劣勢だ。
もちろん私は、やられたらやり返す派なので、できれば拷問刑の復活を望みたい。
ほんとうの意味で、あらゆる「痛み」は、体験してみなければわからないと思う。
だから、殴るひとに対しては、同じように殴り返してあげるのが、正しい教育のありかたではあるまいか。
そのために必要なルールは、たったひとつだ。
あなたを殴ったその相手にのみ、殴り返していいですよ。
16代ローマ皇帝にして、ストア派の哲学者、『自省録』で知られるマルクス・アウレリウスが、とてもいいことを言っている。
「罪を犯したものだけを罰せよ」。
あえて言うが、私は自分が復讐したいからではなく、相手が二度とまちがわなくて済むように、教えてあげたいだけなのだ。
先に殴ったら、こうなりますよ、と。
俺はいいけど、おまえはダメ。
そう主張する先制攻撃者。
彼らに対して、われわれが問うべきほとんど唯一のことは、つぎの一点に帰結する。
あなたのどこが特別なのですか? 私よりも。
最近の教育は、みんなが特別だと言いたいらしい。
だったら特別な私の投げ返すブーメランも受け取ってほしいものだ。
フランスのテニス協会会長にも、盛大なブーメランがぶっ刺さった。
アメリカや中国がくりひろげる非難合戦も、要するに同じ意味合いだ。
俺はいいけど、おまえはダメ。
けっこうな割合で、みんながそう思っているかと思うと、ヘドが出る。
その残念な事実を踏まえて、自分で考え、正しいと思う道を選ぶしかない。
必要なのは「知識」であり、考える「自由」だ。
というわけで、私は歌う。
ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン♪
最近、世界史を復習していて思った。
復讐されたら困るだろうなあ、という国の代表格、イギリス。
世界史を学ぶとキライになる国、堂々の1位らしい。
ブリカスという言葉を生み出すほどの国の「実績」には、すなおに感心する。
いいこともたくさんしているので、わるい評価だけつけるのは不公平だとは思う。
植民地政策や奴隷貿易は他のヨーロッパ諸国もやっていたし、先に離脱したことを考えれば比較的マシだった気がしないでもないような気がするようなしないような。
アヘン戦争は「…………」と思うが、現代に残すダメージを考えれば三枚舌外交のほうがひどいような気もする。
彼らをひどいと思うのは現在の価値観であって、当時としては、侵略とか虐殺は「みんなやってた」からしかたない、生き残るとはこういうことだ、という主張には「歴史の重み」がある。
すくなくとも、彼らが「やりすぎ」てくれたおかげで、現在、人種差別も人身売買も、もちろん大量虐殺も、やったらあかんことになった。
現在進行形で問題だなと思うのは、戦争に勝てばいいことになる、という短期的な事実のほうだろう。
アメリカによる民間人の大量虐殺が代表格だが、彼らは勝ったので、それはやっていいことだった、という条項が国連憲章にまで書いてある。
やらかしつづける「なう」アメリカ、そのかつての親玉で、勝てば官軍の精神を教え込んだ元凶、イギリス。
世界史が比較的悲惨なのも、イギリスがちょいちょい戦争に勝つせいだ、という気がしないでもない。
まあ負けたら負けたで、勝ったほうが悪役を引き継ぐだけなのかもしれないが。
同じヨーロッパでも、ドイツのようにコテンパンに負けてくれると、もうそのことを口にしただけで犯罪、逮捕という状況になる(ようだ)。
だが腐っても戦勝国になると、たとえばイングランドのバーで差別的な発言をしたところで、人種差別はよくないね、マナー違反だよ、という程度になる(らしい)。
EU離脱してもいいじゃない、という流れになった原因の一端も、このあたりにあるのではないか。
ブリカスは現在進行形でブリカス、という「欧州議会での別れの演説」動画を見たが、じつに楽しかった。
世界主義との決別で煽る、イギリス代表。
送り出す欧州議会が流す「スコットランド民謡」『蛍の光』。
天才的だな、と思った。
もう欧州のやつら全部カスでいいだろ、という誉め言葉。
さて、翻って我が日本。
ネットニュースを見ていると、どうやらオリンピック反対、という声が強いらしい。
その姿に、件のEU離脱を思い出した。
日本のオリンピック反対と、イギリスのEU離脱の類似性……どうつながるか、説明が必要だろう。
あくまでも個人的意見だが、東京オリンピックはやったほうがよい。
いろいろ冷静に考えれば、いまさら延期も中止もあるまい。
同じく冷静に考えれば、イギリスはEUに残留したほうがよかった。
が、国民投票という「失策」を打ってしまったため、彼らは引き返せなくなった。
当時、だいたいの国民はイギリスがEUに残留すると思っていて、なんとなく気分で離脱に投票してみたら成立してしまって驚いた、というひとが多かったらしい。
だからやり直してほしい、という意見を、投票の直後から堂々と放送していた池上さんの姿を、たいへんな違和感とともに思い出す。
決めたことをすぐに覆そうとするクソ野郎、という感情については別途書いているので過去記事を参照されたい。
ともかく彼らは「決めたこと」を、どんなにいやでも、やらなければならなくなったのだ。
「やるよ、やっちゃうよ」という「オドシ」は、それをやらないからこそ価値がある。
じっさいにやっちゃったら、無価値どころかマイナス効果だ。
みんなわかってるよね、しょせんオドシだし、本気じゃないんでしょ。
という予断で国民投票を実施してしまったイギリス政府は、結果、またしても深刻なトラウマを抱えることになった。
これを他山の石とした日本国およびIOCは、オリンピックなんか実施するに決まってるでしょ、ということで淡々と進めている。
忖度とか配慮とか、なかんずく国民投票とかありえない。
私は基本的に、やると言ったらやるべきだと思っている。
が、オリンピック反対派の存在意義も、同時に認めている。
オリンピック反対にしろEU離脱にしろ、とりあえず「言っておいたほうがよい」ことは、まちがいない。
その「自分たちは反対した」という実績は、のちのち有効なエクスキューズになるかもしれないからだ。
オリンピック反対したのに実施された、自分たちは我慢してやっている、という勝手な被害者意識を獲得できる、それも無料で。
主催者側としても、国民の多くが反対したけど開催してやった、と勝手に恩を売ることができる、これは有料だが。
全体として、対外的に優位に立てる。
国際政治でもしばしば用いられる、弱いほうが強い、という理屈の援用だ。
身近なところでは、韓国が、よく使っている。
自国内にはこんなに反対派がいる、だから配慮してくださいよ、と相手国の政府に突っかかることができるのだ。
イギリスでも同様だった。
国内では離脱派がこんなにいるんですよ、だから無茶な要求をされるとほんと困るんですよねEUさん、と交渉のテーブルで強気に出られたのだ。
それが投票などやらかしたおかげで、こんな結果になってしまった。
みんな、わかっていると思ってたのに、と当時の為政者はほぞを噛んでいるはずだ。
イギリス政府涙目、キャメロン最大の失政、と多くの国際政治学者も宣っている。
下手な選挙はやめといたほうがよい、と多くの政治家があらためて学んだことだろう。
まあ、そんなわけでオリンピック反対自体には、価値はある。
その手の交渉事で、朝鮮が日本からどれだけの利益を吸い上げたかを考えれば、効果については論を俟たない。
ただし、やりすぎるとヤバイ、というのも事実だ。
ヤバくならない程度に反対したうえで、実行してやることにこそ真の価値がある。
オリンピック反対派を眺めていて、そんなことを思った。
芸能とかスポーツというジャンルに、毛ほども興味のない私にとっては、やろうがやるまいが正直どっちでもいいのだが。
歴史を鑑みるに、人類の本質は変わらない。
われわれが学ぶべきは、それを知ったうえで、どう行動すべきかの知恵だろう。
わきまえつつも、わざとやらかす、という人間ほど手ごわいものはない。
そうなりたいものだ、とは思わないが。
世の中でいちばん頭いいの、高校生じゃね。
最近たまに、そんなことを思う。
ステイホームが長引いているせいかはわからないが、家庭で学習できる素材の動画がたくさんあがっている。
私はEテレで好んで高校講座を見るようなタイプなので、そういう動画を延々と流しつづけても苦しゅうない。
知らないことを知る。
生きる重要な目的のひとつだ。
とくに理系の科目が多く、動物の細胞外マトリクスとか、C4植物特有の光合成とか、なにも知らないことに気づく。
聞いたことのない物質や構造など、これ全部勉強してる高校生、私より頭いいだろ、と。
さすがにケプラーの法則は知っているつもりでいたが、数字を与えられて「冥王星の公転周期を計算せよ」と言われても、正直できなかった。
ケプラーの第三法則を使って式を立てる先生さまの説明を聞いて、なるほどと思った。
移項とか通分とか分解とか、やっていることは中学までの数学だ。
まあ、ちょっとがんばればできそうだな、しょせん高校生だろ、なんて思っていたら残念。
能ある高校生は、じつは集合や群論の考え方も、すでに学んでいる。
しぐま、いんてぐらる、ろぐ、いんくるーど……見覚えのない記号が並んでいる彼らのノートを見て、多くのオトナが「日本語でおk」と思ってしまうだろう。
それでも勉強するのは、現在、執筆している物語の舞台が高校だからだ。
年寄りが冷や水を浴びて、ガロアのような天才高校生の脳内を忖度しようと努力している姿は、哀れを通り越して滑稽かもしれない。
IQ500の正義の味方とか、ぼくの考えた超必殺技がかっこよければ、中2くらいまでは食いついてくれるだろう。
が、相手が高校生になると、そう簡単にはだませない。
若者に追いつこうと努力する中年の低能な大脳を、あまり見覚えのない記号や法則が侵食してくる。
微積まではともかく、初歩的な量子力学がやってくると、もうお手上げだ。
というわけで、こんな計算ができる高校生が日本を、いや世界を支配すればいいんじゃね? と思うようになった。
彼らの頭を押さえつけるオトナが、もうちょっとオトナしくなれば、世界はもっと良くなるんだろうねグレタさん……。
などと考えながら、家庭教師のトライに教えを乞うても、すぐに疲れてくる。
若い頭脳であればもっと集中できるのかもしれないが、年寄りの濁った脳髄は小一時間で「もうあかん」となる。
そこで息抜きに見るのが、ゲーム動画だ。
気がつけば息抜きのほうが長くなっていることも、よくある(汗
私はゲーマーではないのだが、ゲームは好きだ。
世の中に実況動画があふれだす以前から、好んで見ていた。
かなり好き嫌いのわかれるジャンルではあろう。
他人のプレイ見てなにが楽しいんだよ、ゲームは自分でやるからおもしろいんだろ、という意見はしごくもっともだ。
実況者の好みもわかれる。
おしゃべりがうまいひともいれば、淡々とクリアしていく求道者タイプもいる。
私の場合、ゲーム紹介動画的なものは、ほとんど見ない。
好んで見るのは「ゲームうま男の挑戦」だ。
難易度の高いステージに挑む、いわゆる「スーパープレイ」。
具体的には『スーパーマリオメーカー2』で、超絶難易度のコースに挑んでいる人々のことは、けっこう見ている。
ほかにも難易度の高いゲームは、世の中たくさんあるだろう。
しかし私は、それほどゲームに詳しいわけではないので、これがスーパープレイなんですよ、と見せられてもすごさがよくわからない。
シューティングゲームで、神業のような動きで敵の攻撃を躱すのは、まあわかる。
しかし、突然すごい必殺ボムみたいのを出されると、なんかズルくね? となる。
アクションゲームもだいたいわかりやすいが、ときどき派手な必殺技的なものを出されると、ちょっと理解が追いつかなくなってくる。
そのゲームをよく知っていれば、パワーゲージとかの戦略性も含めて楽しめるのだろうが、残念ながらそこまで詳しく知っているゲームがない。
その点、マリオは前提となるフォーマットを知っている。
なぜすごいか、わかりやすいのだ。
ショパンやリスト、パガニーニの超絶技巧に似ている。
聴けば、それがすごい演奏であることは、すぐわかる。
だが基本的なことを知らないと、どんなにうまいスーパープレイでも、その意味も価値もわからない。
ゲーム自体を知っている、ということが、まずは重要だ。
たまにドヘタな実況者がいて、ヘタであることを売りにしている部分もあるようだが、そういうのは観ない。
とある芸人のプレイを見たが、イライラしてどうしようもなくなった。
ヘタなプレイが見たければ自分でやる。
自分にはできない神業だからこそ、観る価値があるのではないか?
マリオメーカーには「コースが(ほぼ)無限にある」というのも、観ていて飽きない理由だろう。
とくに芸術的なコースは、まずつくるほうがすごい。
超絶難易度のコースに挑むプレイは、そのストイックさも含めて楽しめる。
すこしずつ先へ進みながら、コースを熟知していき、千分の一秒のタイミングの操作をくりかえして、ついに達成するコースクリア。
漫然と垂れ流されるライブはさすがに観ないが、まとめて編集された超絶技巧の数々は、ふつうに感心しながら眺められる。
超絶難易度の長いコースを、何日もかけてクリアする動画は、かなり「努力」の割合が大きいといっていいだろう。
積み重ねた「努力」の果てに、待ち受ける幸運の前髪をつかんでクリア、という順路にカタルシスはたしかにある。
それはそれで楽しいのだが、私はもっとライトな「天才」が好きだ。
タイミングや操作が絶妙で、身体が覚えるほど同じコースを練習しなければクリアできない、というコースは正直、途中で飽きてくることがある。
一方、ある程度難易度の高いステージを、初見でどれだけ進めるか、といったチャレンジは気軽に楽しめる。
まずコース自体が初見なので、毎回新鮮だ。
実況者は一瞬見ただけで、ここでジャンプしてこれを取ってここで投げてこのタイミングで抜ける、といった「解法」を脳内で瞬時に組み立て、しかもその通りに実行する超絶技巧を魅せなければならない。
私のようなおっさんでも時間をかけて考えればわかるが、それを「瞬時にやる」のがすごい。
まさに「若さ」と「才能」のなせる業だ。
すべては画面から伝わるので、ことばはあまり要らない。
よって、海外の配信者を見ることが多い。
高難易度のステージにエンドレスで挑戦していく外人。
観ていて思わず「うまっ」と言ってしまうこともある。
そして思う。
これが才能の無駄遣いというやつか、と。
すばらしい発想力と、それを実現する技巧──その能力の使いどころ、ほかにもありそうですよね。
まあそのプレイで視聴数を稼いでいるのだから、使い方としては、まちがってはいないのかもしれないが。
もちろん高難易度のステージばかりではなく、初見殺しとか、トロルなステージに苦労している姿も、それはそれで楽しい。
パズルのステージなどは、いっしょに考える、という別の楽しみ方もある。
というわけで、マリオメーカーは息抜きにはピッタリの娯楽だと思う。
そのプレイヤーが高校生だろうが老人だろうが、最高レベルを追求している者は、おしなべて美しい。
最後に、ゲームがうまいことはもちろん、勉強ができるからといって、世界を支配する資格にならないことは付け加えておこう。
昔勉強ができただけの老人が支配するよりは、高校生のほうがマシかな、と思うこともあるだけだ。
高校生諸君には、これから学校の勉強より大事なことを学んで、世界を変えてもらいたい。
死ぬまでの短い時間、その成果を生ぬるく見守りたいと思う。
私は人生の記録として、このブログを書いている。
だれに読んでもらおうとか、自己顕示欲とかではない。
たぶん将来、網羅的に過去の人類を学習し、評価する人工知能が登場するだろう。
彼(?)の学習素材として、このような記録があってもいいのではないか、という考えもある。
物語としておもしろいとか、興味深いエピソードがあればそれに越したことはないが、断片的な事実という程度でも無価値ではないだろう。
一種の脳トレ、備忘録としても意味はある。
とくに「入院」という環境は、私にとって「ネタの宝庫」という印象が強い。
日常では味わえない経験は、多様な発想の役にも立つ。
というわけで、記録しておく価値があるかどうかは、後世の判断にゆだねたい。
個人的には、それなりにいい思い出だ。
多くのひとが、できれば無縁でいたいはずの場所、病院。
記憶のない出産時を除けば、私がはじめて入院したのは、小学生のときだった。
交通事故。
ぐるっとまわって頭からアスファルトに落ちた(らしい)。
よく覚えていない。
それ以来、バカになったのかもしれない。
断片的な記憶のなかで、注射針がやけにゴツかったな、という印象がなぜか真っ先に思い浮かぶ。
私は趣味で何度も献血をしているが、それと比較しても、当時の注射針は、いやがらせかというくらいぶっとかった。
小学生の身体にとって比較的大きかっただけ、というばかりではないと思う。
そもそも注射針が使い捨てになったのは、1988年以降だ。
逆に言えばそれ以前は、何度も使いまわされる必然から、それなりの強度が期待できるゴツさだったのだろう。
B型肝炎が理由らしいが、採血針を使いまわして感染、というニュースは最近でもたまに聞く。
ともかく昭和末期、頭からだらだら血を流している小学生の腕に注射針をぶっ刺し、めいっぱい採血されたのはいい思い出だ。
もちろん検査に必要だったのだろうが、血を失っているひとからさらに血を抜こうとすることの理不尽、という印象が残っている。
その後、20年ほどは病院から遠ざかって過ごした。
で、ある日、骨折で入院した。
高所落下による着地時、手首を粉砕骨折した。
遠位端の骨が粉々だったので、破片を集めて金属プレートを入れて修復した。
このときの記憶は、だいぶ鮮明だ。
肩から先の局所麻酔(腕神経叢ブロック)だったおかげで、手術室内の広さから器具、会話まで、けっこうよくおぼえている。
腕に、さくりとメスがはいる。
もちろん痛みなどは感じないが、作業してる感は伝わってくる。
きれいな筋肉してますね、と医師からは評判だった。
ありがとうございます、と答えておいた。
皮膚を開き、直接、前腕屈筋群と伸筋群を観察してもらった評価なので、お世辞ではないと信じておこう。
当時、10トン手積みしていたころなので、けっこうな細マッチョだった。
輸送という目的のために「使う筋肉」であることが、一応の自慢だ。
はたらく筋肉というのは、つねに美しい。
見せるための筋肉、というものを否定するわけではないのだが、やはり筋肉には意味があるべきだと思う。
その競技に必要な筋肉だけが不格好なくらいに発達しているアスリートも、使うための筋肉という時点で美しい。
一方、絵の具と油を塗ってテカらせているボディビルダーの筋肉からは、なんとなく目をそむけてしまう。
カリカリにチューニングしすぎて餓死した伝説のボディビルダーも、それはそれでもちろんすごいとは思うのだが、やはり「見た目重視」という人間性そのものに同意がむずかしい。
見た目なんか、どうでもいい。
なにをやるか、なにができるか、その中身こそが重要だと思っている。
さて、というわけで当時、それなりのケガでしばらく仕事もできなかったが、独り暮らしなので家事などはふつうにやっていた。
とくに洗濯物を干すときの記憶が、ちょっとしたトラウマだ。
右手が肩から上に挙がらないので、左手だけだと無駄に時間がかかる。
洗濯ばさみを開く、という作業と、洗濯物を所定の位置に持ち上げる、という作業を片手でやらなければならないが……できない。
日常の小さな作業も、両手が使える前提であることは多いんだな、と気づいた。
そこで痛みに耐えつつ無理やり右手も持ち上げ、斜めになりながら必死こいて干したことが、なぜトラウマなのか。
まず、床の上でまとめて洗濯ばさみにはさんでから、左手で持ち上げて物干しざおにひっかければ済む話だったんじゃねえの、と自分の発想力の貧困に愕然とした。
高いところに吊られたピンチハンガーは、所与の条件ではない。
やわらか頭の小学生だったら、発想の転換はできたのかもしれない。
逆に、中学生並の知能に発達してしまっていたことが、件のトラウマ行動をもたらしたようだと気づく。
苦痛に耐えて家事してる自分カッケエ!
そんなふうに思うために、無理して家事をしていたのではないか、という可能性。
当時を思い出すたびに、赤面する。
いやはや、恥ずかしいかぎりだ。
さて、最後に入院中のおもしろ記憶を、すこしだけ列挙して終わろう。
周囲から聞こえてくる、他の患者さんたちの「会話」が、意外に印象深い。
あまりいい趣味ではないと思うが、要するに盗み聞きの記憶だ。
こちらから聞きに行ったわけではなく、単に聞こえてきたことを書き留めただけなので、犯罪ではないと思う。
とくに大部屋に集う人々の会話は、いろんな意味で好きだった。
彼らはそれぞれの人生を背負って、その病室に集まっている。
娘がヤクザ者に引っかかって、自宅がなんかの公共事業の用地になって転がり込んできた大金を、示談金とかの名目で何千万も巻き上げられたという、おっさんの話とか。
夜間の無断外出の帰り、なんかヤバそうな薬の取引現場を見かけて、そこに病棟の看護師がいた、いや気のせいでしょと冗談にまぎらしていた若者の話とか。
見えない息子さんや宇宙人さんと会話してる婆さんとか。
だれかきてくれえ、といつも助けを呼んでいる爺さんとか。
いろいろあるなかで、たまたま隣のベッドにいた老夫婦の会話が、ちょっと笑えた。
昭和五年の生まれらしいから、たいそう先輩だ。
「問診票に書くんだよ。生年月日と、身長と体重と」
「え、なに?」
「身長! おまえの」
「ああ、あたしはね、ええと、ひゃくななじゅう……」
「身長だよ!」
「ひゃくななじゅうよんくらいだったかね」
「俺が165なんだよ! ばあさん!」
「ああ、じゃあ、だいぶ縮んだね。あたしも年だからね」
……どうやら、ばあさんの身長は147らしいな、と察しながら、笑いを噛み殺すのに苦労した。
幸せそうな老夫婦だと思った。
病院には、じつにおもしろい人々が多い、ような気がする。
冷静に見直すとたいした話ではないのかもしれないが、自分が弱っている状況なので、日常の小さなことにも感受性が高くなっている、という見方もできるかもしれない。
バイトテロのロジックに似ているだろうか。
家で冷蔵庫にはいってもちっともおもしろくないが、バイト先でやるとめっちゃ楽しい、みたいな……いや、ちがうか。
最終的には、やはり病院などに行かず、健康に人生を終えられるに越したことはない。
と、脳のわるい私としては、比較的マシな結論で本シリーズを終えよう。
私は三大欲求のうち最強と思われる「食欲」が、きわめて弱い。
食べないと死ぬのでしかたなく食うが、できればその時間を最小限化したい。
時代も、そちらの方向に動いている。
その証拠に、簡単に食える商品が市場にはあふれている。
総菜や弁当を買えば手っ取り早いが、週に一度以上は外出しないので、消費期限の問題がある。
そこで私は、缶詰など保存のきくレトルト食品を中心に生きている。
先ほど、たまたまミリメシの動画を見ていたのだが、ワイもう死ぬまでCレーションでいいンゴ、とか思ってしまった。
あまり評判のよくない米軍の個人用戦闘糧食(現在はMRE)だが、べつに食えればよい。
ちなみに評判がいいのはスペインやフランス、そして日本の自衛隊らしい。
ラテン系の美食の国は、やはり食い物にはうるさいようだ。日本のレーションも評判が高く、海外派遣時などには他国の軍が「わけてくれ」とやってくるという。
一方、あまり評判がよろしくないのはドイツやアメリカ、そしてイギリスだ。
アングロサクソン系は、食い物にこだわらないらしい。
イギリス、安定のマズさ! には笑った。
ただしティーバッグだけは何種類もある、という紅茶の国の個性が光っていた。
とはいえ、さすがにレーションを食って生きることに、あまり現実味はない。
代わりに愛用しているのが、某inや某メイトのような栄養補助食品だ。
まとも()な食事というのは、朝の1回くらいだろう。
その後は、腹が減ったら小刻みに食う感じである。
こだわりがないので、某有名ブランド品はあまり買わない。
何割かお安いプライベート商品を、まとめて買っている。
これらの商品のすばらしいところは、言うまでもない、時間だ。
そのまま封を切って、秒で食える。
基本的に同じものしか食わないので、メニューを考えるという労力は最初から排除されている。
それでもお湯を沸かすとか、缶詰を開けて混ぜるとか、その程度の労力はかけていたのだが、上記の食品にはそれすらいらない。
すばらしい。
たぶん一日の食事時間は、つくるところから合わせても30分くらいだろう。
さて、それよりすばらしい生活がある。
入院だ。
ベッドに横たわっているだけで、きちんきちんとエサが出てくる。
じつにすばらしい。
食事制限を受けているひとの場合はわからないが、私の記憶にある病院食は、基本的にうまかった。
味のわからないバカ舌なので半分くらいに聞いてほしいが、最大のポイントは上げ膳据え膳であること。
ベッドに寝ているだけで、目のまえにエサが出てくる。
ゼリーのように秒で食うわけにはいかないが、食器を洗ったりする必要もない。
すこし古い記録だが、病院食のメニューのメモがある。
以下のように書かれていた。
米飯180g、おいしゅうございました。
大根のお味噌汁、おいしゅうございました。
マッシュポテト、おいしゅうございました。
ぶどう一房、おいしゅうございました。
メグミルク200cc、おいしゅうございました。
普通食なので、普通のひとに必要な量の栄養成分を過不足なく含んでいると思われる。
これが、だいたい1食460円。
1日当たり、1380円。
上げ膳据え膳、完全栄養でこれなら、安い……ような気がする。
いや、保険適用でこれだと、高いのかもしれない。
外食でも、もっと安く済まそうと思えば済ませる。
まあ実質ワンコイン以下なら、許容範囲だろう。
それに、病院のすばらしいところは、この先だ。
病院がもつ最大のメリットにして、至高のメニュー。
それが、点滴だ。
決まった量、落としておくだけで腹が減らない。
そう、ヒトにはもはや、食べ物すら必要ないのだ!
前回の入院については日帰りだったので、すべて点滴で栄養補給をした。
基本的に手術当日は、だいたい点滴栄養だ。
1本目、エスロンB注維持液500ml。
2本目、ラクテックG輸液500ml。
3本目、ハルトマン液「コバヤシ」500ml。
4本目、再びラクテックG輸液500ml。
この日、2リットルほど血管から注入してもらったわけだが、おかげさまで空腹を感じることなく一日をすごせた。
惜しむらくは看護師さんのコントロールがヘタだったことか。
寝ているうちにとっくに終わっていたらしく、血液が逆流し、チューブのかなり上のほうまで真っ赤に染まっていた。
小一時間寝ていただけでこの始末だから、たぶん速すぎたのだろう。
しかたなくナースセンターまでてくてく歩き、指さしてやった。
その後は、ネットで適切な滴下数を検索し、自分でスピードをコントロールした。
毎秒何滴、という目安があるので、時計があれば自分で調整できる。
何時から手術とは伝わっていたので、その時間に合わせた。
なんでこんなことせなあかんのや、とは思ったが。
まあ自分でできることは自分でやりたい。
某障碍者が、自分でできるけどやらない、やってもらうことで障碍者の権利やら政策が云々、といったようなことを言っていたが、とても同意できない。
いつかできることが減っても、ああはなりたくないな、と思った。
ともかく点滴というのは、じつにすばらしい発明だと思う。
点滴針の留置はすこしむずかしそうだが、自己注射ごときジャンキーでもできるのだから、練習すれば問題ないだろう。
究極の病院食、点滴。
いつかそうやって生きる日がくるかもしれない。
それが進化の順路の可能性すらある。
楽しみだ。
入院してきた。
12時間くらい。
たいした病気ではないということだが、入院は入院だ。
世の健康優良児たちから、貧弱貧弱、と見下されてもやむをえない。
健康な日本人には、病院そのものに縁遠いひとが、けっこうな割合でいるようだ。
自分は病気にかかったことがない、病院に行ったことがない、救急車などさらさら乗ったこともない、というひとが多いらしい。
たいへんすばらしいことで、彼らの保険料は大きく減免して差し上げるべきだと思う。
が、そうなると私のように、数年ごとに病院のお世話になる人間の保険料が上がるかもしれない。
いや、数年ごとならまだマシではないか?
年寄りなんか、ご近所の集会にでも参加するつもりで病院に日参しているのだから……。
というわけで、若い世代はだいたい払うほうが多く、年寄りは受け取るほうが多い。
これは社会の仕組みとして、しかたない。
年寄りも最初から受け取っていたばかりではなく、昔は多く支払っていたのだ。
彼らには受け取る資格がある。
そしてうちの親のように、ほとんど病院にかからない(受け取らない)年寄りというのも、一定数いる。
彼らのような人々が、世界に冠たる国民皆保険制度を支えているのだろう。
さて、前置きが長くなった。
今回の入院について、記しておこう。
今回の、というからには、私には何度かの入院経験がある。
いわゆる「持病」の治療だが、なかなかいい語感だ。
持病は痔。
同じ病気の再発をくりかえしている。
最初の手術は15年以上もまえ、二度目はその10年後、そして今回が三度目。
すべてジオン注という注射療法だった。
たしか昨年末だったと思うが、病院に行った話をした。
たらいまわしのあげく、手術の適用を判断されず追い返された。
その後数か月かけて、私の肛門は手術の適用となった。
さすがに何度も味わってきたので、自分の状態くらい判断できる。
肛門に違和感がある、というひとは少なくないと思う。
特殊な性癖の方々はもちろん、男子たる者、いや、日本人は全体的に(床に直接座るなどの文化的側面などから)その傾向が強いらしい。
いろんな症状があるが、私の場合はもっともシンプルな内痔核というやつだ。
肛門に近い大腸が腫れ、排便時、脱出することがある。
からいものを食べたとか、内臓がお疲れとか、泥酔したとか、ちょっとしたことでも起こる場合はある。
時間が経てば治るので、生活習慣を戻すとか、薬で完治できる。
私は去年末の段階で、その状態か、ややひどかったかもしれないが、ともかく出血があった(酒と寒さのせいだと思われる)ので診断を受けた。
手術でさっさと治したいのはやまやまだが、出血や炎症が起こっている場合は薬で症状を落ち着かせる一択だ。
その後も、なにしろ寒いところで座り仕事をしたり、酩酊したままトイレで考え事をするなど、ケツの敵のような生活をくりかえした。
で、悪化した。
こうなると「指で押さないと戻らない」状態で、手術が適用される。
私は意気揚々、というほどでもないが、手術前提で病院を訪れた。
5年前にも同じ手術をしているということで、ドクターも慣れた説明をさらに端折ってくれた。
痔の治療は、切ったはった縫ったと、なんとなく恐ろしい感じがするかもしれないが、軽い段階であれば注射で治る(薬で治らない程度には重い)。
日帰りで料金は3万少々。
やらない理由がない。
私の場合、最初から薬物療法など眼中になく、一発治療を求めていた。
世の中には薬でだましだまし、なんとなく病気と付き合っている、というひとがけっこういるらしい。
個人の判断なので、それはそれでいいとは思う。
が、日帰りで注射してもらってあとは自由、という生活のほうがコスパが高いと私は判断する。
ほぼ毎日のことなので、時間や手間の問題は重要だ。
まず、トイレに行くのに薬をもっていかなくていい。
もちろん指も汚れない。
あっというまにQOLが向上する。
そうして好き勝手に生活していると、数年から十年程度で再発する。
まさに、私自身のアホみたいな生活習慣が、それを証明している。
だからといって、生活を変えよう、とはならなかった。
日帰り治療ですくなくとも5年、問題なく暮らせるなら、それでいいじゃない、と。
なので現在も、これまでと変わらぬ生活をつづけている。
きょうも、すっきりさわやか快便だ。
というわけで、同じ手術を三度受けたわけだが、それぞれ麻酔が異なった事実を記録しておこう。
いろんな麻酔を体験できて、なかなか有意義だった。
最初の手術は「腰椎麻酔」下で行なわれた。
腰に麻酔を刺し、下半身がまったく動かなくなる。
当然、日帰りなどできない。
一週間近く、入院していたおぼえがある。
二度目は一泊。
全身麻酔だった。
ひとことで言えば、とても楽だった。
すでに点滴のルートはとっているので、そこから薬を入れるだけ。
患部の違和感より、喉の痛みのほうが強かったくらいだ。
全麻中は、舌根沈下などによる気道閉塞を避けるため、喉にラリンジアルマスクというチューブのようなものを入れる(らしい)。
これが喉の奥に貼りついて、剥がしたあと、とても痛かった。
これからはクリームを塗るなど、工夫していただきたい。
で、三度目の今回。
日帰り手術では第一選択肢だろう、局所麻酔。
先にキシロカイン20を注射するわけなので、全麻より針を刺す回数が増える。
術中の意識が鮮明なのはいいのだが、この麻酔がけっこう痛い。
歯医者を思い出してもらったらいい。
なにが痛いって、麻酔がいちばん痛い、というやつだ。
まあ、いいおとなが耐えられないような痛みではないので、それはいい。
違和感も数時間で消える。
翌日からは、ふつうの生活。
というか、当日の朝までふつうの生活をしていたくらいだから、生活サイクルに及ぼす影響はほとんどない。
そんなわけで、入院生活はあっというまに終わった。
日帰りという最短入院だが、それでもおもしろエピソードはいくつか拾った。
過去には、骨折などで数日間入院した経験もある。
当時のメモなど見返してみるに、入院生活というのは、なかなか興味深い経験が多い。
メモの域を超えた長文になる。
なるべくまとめたいと思うが、以下次回。
恋するおっさんのことなら気持ちわるい。
と、なめとこ山っぽく書き出してみたが、自分の書く話を最初におもしろいといえるところは、さすが宮沢賢治だと思う。
ブログという性質上、ここは自分のことを書く場だ。
つまり私が恋をした話を書いてもいいのだが、そんなもの読まされたらそれは気持ちわるいだろうな、という冷静な視点も持ち合わせている。
そもそも愛とか恋とか多用する文化には、あまり共感できない。
が、そのことばの意味を限定しようとする狭量さも、いかがなものかと思う。
広い意味で恋をした、といってもいいのではないかと、一瞬思ってしまったのでこのタイトルを採用した。
といっても私は年寄りなので、恋という概念からはだいぶ離れている。
いや、年寄りの恋愛を否定するわけではない。
恋をしてください、いくらでも。
じっさい私ですら恋らしきものを感じてはいる、ような気がする。
図書館で会った女の子に。
先に断っておくが、まったく生臭い話にはならない。
そもそも図書館は、偉大なる知識に触れるための場所なので、愛だの恋だのちちくりあう場では断じてない。
図書館そのものは、愛すべき場所だ。
あの空間にいるだけで、ほんとうに心が落ち着く。
本に恋でもしたんですかね、という魚の死んだような目で見るのはやめていただきたい。
ちゃんと人に恋をしたのだ、(たぶん)司書のお姉さんに。
おもしろくなりそうな展開だと思う。
私が恋愛小説家なら膨らませるところだ。
結論からいえば、彼女には好意をもっている。
だからどう、という意図はない。
4月だ。
たぶん新卒採用の司書さんだったかもしれない。
ういういしい反応で、好感が持てた。
丁寧に対応してくれたのでありがとうと言うと、こちらこそありがとうございますとか、なんでだよ、と問い返したいようなリアクションがいちいち楽しい。
私は被害妄想気味なので、彼女がこんな丁寧な対応をした理由について、私のことをヤクザだと思っていた可能性を否定はしない。
怖いおっさんがきたぞ、ヘタな対応したら殺される、という恐怖が彼女にあったのだとしたら申し訳ない。
……いやそんなわけないとは思うが。
私は純粋に本を愛するだけの、そこらへんのおっさんだ。
最寄りの図書館にがっかりして以来、遠のいていた図書館生活。
最近、ついでがあって、隣接する自治体の図書館を訪れる機会があった。
ぶっちゃけ中核都市なので、日常生活必需品以外の目的があれば必ず行く、高崎市。
多くの群馬県民ばかりではない、長野や北陸の人々だって、ここを通過しないことには東京へアクセスできないのだ(過言)。
この高崎市に、20年前くらいに愛用していた図書館がある。
ひさしぶりに訪ねてみようかと思って、驚いた。
なんと、なくなっていたのだ。
正確に言えば、10年前に別の場所に建て直されたらしい。
これがまあ、りっぱだ。
最近の図書館としては、これがふつうなのかもしれないが、まったく人間に触れあうことなく完結する。
本を選ぶ、貸出機の台に本を置いて、冊数を入力しカードを読ませる。
貸し出し完了!
このご時世にぴったりの無人化。
学校の図書室みたいな近所の図書館にも見習わせてやりたい。
自動貸出機そのものは、増えつつあるらしい。
じつにすばらしい。
司書との接点はなくなるが、いらない。
私はひとりが好きなのだ。
そもそも読書とは、崇高なるひとり遊びだ。
すべてがオートマチック、それはそれで正しい進化の方向だと思う。
とはいえ、初回なのである程度は会話しなければならない。
執筆のために必要な資料を検索したところ、古い本で、自動書架にあるため窓口で申請する必要もあった。
で、件の女の子に対応してもらったわけだが、彼女のハツラツ感はなんだろう。
ほんとに一生懸命やっているな、というのがよく伝わってきた。
生きることに疲れ、社会にスレた自分自身を顧みるだに、際立つ若さ。
まあ何年かすれば、彼女もこっち側にくるのかもしれないが……。
資料の申請の対応方法とか、見つからない場合はどうとか、貸し出しの場合にはこうとか、まあルーティンワークの説明ではあるのだろう。
それにしても、好感の持てる感じだったのが、枯れた心に春風を吹き込んだ(自嘲)。
他のおばはんにも対応はしてもらったが、公平にいって、それはそれで過不足のない仕事ではあった。
それでも、次回もし窓口対応を求める場合には、あの若い女の子に対応してもらいたいなとは思った。
若ければいいのかよ最悪だなこのおっさんキモい、と思われるだろう、まあ思うわな。
しかし、たぶん何十人もいる大きな図書館の職員のなかで、偶然その女の子に対応してもらえたらいいな、という程度の一種の賭けの楽しみくらいは持ってもよかろうもん?
以上、その程度の恋をした、という話だ。
灰色の日常に、このくらいの彩はあってもよいだろう。
むしろあえて恋をしにいくくらいの若さは、あってもいいのかもしれない。
無理やりにでも恋をしなければ生きていけない女、というのもいるらしいし。
……いや、やっぱりいい。
静かに本を読んでいるほうが、私には合っている。
五反田を目指すルートを毎回変える、というルールで遊んでいるシリーズ。
午後7時までに五反田に到着し、午後11時過ぎに解放されてから群馬の奥地まで帰還できなければならない。
最初は朝まで飲むという選択肢があったので、基本的に電車ルートで問題なかった。
群馬(長野)からの電車ルートを中心に多様化を進めていたのだが、残念ながら非常事態な生活が長引いており、クルマを使用することが多くなってしまった。
朝まで営業している店は、もう期待できない。
というわけで、始発まで飲むという選択肢がない。
そこで、クルマで東京近郊まで行ってから、五反田にアクセスのいい路線のどこかの駅の近くに停めて終電前に帰る、という手法をとっている。
最初から東京近郊に住んでいればなんの苦労もないが、午後11時過ぎてから電車で群馬の奥地まで帰るのは不可能だ。
というわけで、環七、環八に近い駐車場から池上線、浅草線の駅を使うパターンは、すでに書いた。
これが、意外にコスパがいい。
山手線の外側であれば、夜間の駐車料金が500円前後という駐車場は、いくらでもある。
往復のガソリン代は3千円以下だ。
冷静に考えると、新幹線で行くより安上がりだったりする。
高速道路を使わない、という条件付きではあるが。
私の場合、もちろん高速道路は使うが、必ずしも使う必要がないという自由度も担保されている。
ほかに目的地があれば下道も使うし、ついでに買い物して帰るのは基本だ。
とはいえ電車にも乗りたい。
東京の電車網を素材に物語を著しているという個人的事情もあり、とりあえず全路線をある程度、使いこなしてみたいという動機もある。
そこで考えた別の楽しみ方が、「五反田をゴールとする、いずれかの都内の駅を発地とした最適化」だ。
最適化とは、時間・料金・乗換回数をなるべく少なくすること、と定義する。
目的地が五反田なので、都営地下鉄のみを使うルートは考えやすい。
埼玉側からの自動車によるアクセスから、新宿線は除外され、三田線が使いやすいだろう。
埼玉県和光市に隣接する練馬区、光が丘も使えるので、大江戸線も選択肢にはいる。
キロ程で計算する料金表が4~50円刻みなので、どの駅で乗り降りすると効率がいいか、どの駅の周辺の駐車場が安いかなど、調べることは多い。
これが、ちょっと楽しい。
この調査・思考過程を楽しいと思える人々は私の仲間だが、言い換えれば、ヤバい人々だ。
正確な自己評価を心掛けている私に言わせると、われわれは(いい意味でもわるい意味でもなく)特殊な種族である。
あまり腐したくはないが、世間一般からは一定程度、距離を置かれる可能性が高いのではないだろうか。
鉄オタにはいろんなタイプがあって、乗り鉄や撮り鉄が有名だが、それ以外にも広いすそ野が広がっている。
鉄道というヤバい棺桶に、片足を突っ込んだ人々の物語については、お察しいただきたい。
そのなかに、どのルートで日本一周するかとか、一日でどこまで行けるとか、そういう鉄旅をプランニングすることに喜びを見出す人々が、一定数いる。
いや、私はべつにオタではないのだが、若干その傾向はある。
決まったルートを、決まった列車が、決まった時間に走ること。
それに対する嗜好を有する人々を、昔は「自閉症」と呼んだ。
一定の、極端な生活スタイルにこもりがちな人々。
言うまでもなく引きこもりである私も、その一味であろう。
現在は、自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群などと呼ばれる。
一種の発達障害で、あるレベルを超えると「病気」と診断される。
言い換えれば、あるレベルの範囲内であれば、障害でもなんでもない。
もちろん私は、病気ではない。
その傾向があることは事実かもしれないが。
そういう偏った人々を、愛さなくてもいいが、憎まないでいただきたいものだ。
のりもの好き、大きなもの好き、速いもの好きな男の子が多いのは、ホルモンや脳の構造上の影響が考えられるらしい。
女の子でも、胎児期に男性ホルモンを過剰に浴びた場合、男の子の好む遊びに興味を示すケースが、多く報告されているようだ。
もちろん先天的な影響だけではなく、その後、男の子らしさ、女の子らしさを「刷り込」まれる影響も大きい。
遺伝子がすべてを決めないし、環境だけでもない、その両方が人間を形成する。
以前には、男の子には男の子の好むもの、女の子には女の子、という選択動機の強い親が多かった。
現在その選択圧は昔よりは減っているだろうが、それでも親は、子どもが興味を示すものを多く与える傾向があるので、先天的な嗜好はより強化されやすくなる。
幼少期に日本の駅名を全部覚えるようなタイプは、将来は地方公務員にでもなるしか道はない。
と、どこかで読んだ気がする。
もっと有効な才能の使い道があってほしいものだ。
いや、公務員はすばらしいと思うが。
さて、私は今回、往路は赤羽岩淵から乗って、復路は赤羽から駐車場までもどった。
往復で別ルートを使えるのが、駅間距離の近い東京ならではの工夫だ。
乗換案内に興味のあるひとはほとんどいないと思うので、詳しく説明はしない。
個人的に、東京電車旅を淡々と埋めていくことに、ひそかな達成感をおぼえている。
電車の需要は、もう元通りにはならないだろう、とJR東のえらいひとも言っていた。
これからは私のような趣味人も、たいせつなお客様になっていくのではないだろうか。
などと希望的観測を述べてみたが、ないな。
寝言は寝て言うことにしよう。
映画でも小説でも、視点というのはとても重要だ。
作り手、受け手、いずれにとっても最重要な要素のひとつといっていい。
映画なら、固定撮影か、移動撮影か。
小説なら、一人称か、三人称か。
かなりおおまかなくくりだが、基本中の基本だ。
まずは私の専門である、小説の視点について語ってみよう。
一人称はわかりやすいが、三人称にはいくつか種類がある。
単視点、多視点、神視点などで、私は単視点をよく使う。
一般に、小説は三人称単視点で書かれたものが多い。
これは、一人称と三人称の「いいとこどり」をしたような手法だ。
一人称のように、地の文で主人公の気持ちを書ける。
ただし、他人の気持ちについては書けず、そう思っているのだろう、というような忖度した書き方になる。
登場人物全員の気持ちを自由に書けるのが多視点や神視点だが、これはとっ散らかる恐れがあるし、よほどの筆力がないと描き切れない。
すべてを書ける反面、視点が分散するため感情移入を妨げる恐れもある。
単視点だと、主人公が認識したものはもちろん、彼の存在する場所にあるものや事象について俯瞰した解説も、すべて書いていい。
ただし主人公に見ることができない他の場所の出来事については(それを知りうる手段についての言及がないかぎり)書けない。
こうしてみると、意外に制限が多いように思われる。
が、制限自体が観客の感情移入を促進するところもある。
主人公に近い視点でありながら、すこし離れた客観的な立場。
まさに、観客そのものの視点、それが三人称単視点だ。
さて、つぎに映画の視点。
映画については門外漢なので、専門的な話はできない。
視点の問題というよりは、もっぱらカメラワークの話になるが、さまざまな技法があるようだ。
いずれにしろ、視聴者や読者に物語をどう伝えるかの手法の問題である。
そのために固定撮影がよければそうするし、移動したほうがよければそうするだろう。
複雑で多様な撮り方のできる時代なので、より自由な発想力の問われる職業、それが映画監督だ。
そのうち、私があまり同意できない撮影手法については、以前にも書いている。
二行でまとめると、以下の撮り方だ。
固定撮影については、よく意味のわからない(監督は芸術家なので理解できないとしたらおまえがわるいという感じの)長回し。
移動撮影については、あまり必然性の感じられない(素人でも手振れの少ない見やすい動画を撮れる時代にもかかわらず)ブレブレの手持ちカメラ。
それ以外については、監督のセンスをすなおに受け入れることにしている。
おもしろい映画を撮れる監督は、ほんとうに尊敬している。
さて、小説は作り手の視点、映画は観る側の視点を、なんとなく分析してみた。
最後に、観る側の視点を、同じ観る側から分析してみよう。
言うまでもなく「どういう見方をするか」は、視聴者、読者がそれぞれ決めればいい。
その作品について、自分はどう感じたか表現するのも自由だ。
小説や映画については、たくさんの「レビュワー」がいる。
彼らの感想がどのくらい同意できるものか、すこし考えたい。
たまたま読んだレビューで、気になる表現があった。
もっぱら、いわゆる「クソ邦題」の問題だ。
あまり汚い言葉で罵りたくはないのだが、邦題に対する憎悪表現は半ば一般化しているので、ご容赦いただきたい。
なんでそんなアホな邦題つけたんだよ、というような突っ込みは、ほとんど枕詞のように使われている。
もちろん、うまいことつけている邦題もあるので、必ずしも批判はしない。
ただ、クソ邦題が多いのも事実であり、むしろ突っ込まれるために「わざと」しているんじゃないかな、とすら穿ってみている。
そういう心のゆがんだひとがタイトルをつけることも、まれにはあるかもしれない。
が、基本的にはバイヤーも努力している(はずだ)。
その努力を、やけに否定したがるひとが、むしろ気になった。
映画にかぎらず、社会的一般にもよく見られる思考法だったので、言及に値する。
そのレビュワーは、要するに、人種問題とかフェミニズムを絡めた、センシティブな視点に立っていた。
ポリティカリーコレクトとしては、人類みな平等、男女の公平を標榜したいのだろう、という部分は理解する。
作品自体については、まあまあ褒めているし、私も同意する。
ただ、「夜空に恋した」というサブタイトルについて、ひたすら絡んでいくスタイルが、ちょっと気になった。
作品自体はフェミニズム全開で、女の子が女の子らしくすることを評価されるような集団において、宇宙を目指す女子がいてもいいじゃないか、という感じ。
もちろん、まったくいいと思うし、夜空に恋してるんだな、と私にも思えた。
が、そう思わないレビュワーの噛みつき方が、どこぞのめんどくさい女教授の姿をほうふつさせた。
ある種のフェミニストにとっては、夜空に「恋」するという表現が、そもそも気に入らないらしいのだ。
「女=恋」という固定観念がどうのこうの、この作品に恋愛要素は皆無だのなんだの。
いや、ちゃんと「夜空に」恋した、って書いてあるじゃないの。
ある意味、すべての天文学者が夜空に恋してるんじゃないの?
とある博士なんて、数式とか愛したりするんですよ。
フェミニズムとか人種問題とか、狂信者じみた至上命題を背負った人々は、ときに、ほんとうに無茶な絡み方をする。
前半の「夜空」を完無視して、「恋」という字づらだけに絡んでいくスタイルは、その一例といっていいだろう。
邦題が気に入らない確率は非常に高いので、絡もうと思えばいくらでも絡める。
そんな無理やり愚痴をこぼさなくても、と感じた。
ともかく邦題がダメ、というバイアスのかかった視点で見ると、こうなりがちだ。
ほかにろくでもない作品は、いくらでもあるはずだ。
どんな作品でも、ともかく腐したいという罵詈雑言勢力は、それなりに実在する。
ストレス解消には有用なのかもしれない。
最後に一応、言っておくと、べつにそういう見方をしてもいいし、それを表現すること自体もまったく自由だ。
私の場合、できるだけ個別具体的、是々非々で判断しているので、その旨、記録しておいた。
もちろん人間なのでバイアスをゼロにはできないが、できるだけ中間を目指すべく、日々学んでいる。
もって他山の石としたい。