どうやらオリンピックが終わったらしい。
 まったく見ていなかったので、ヘッドラインに出ているメダルの個数しか知らないのだが、周辺事情についてはおもしろい「ネタ」をいくつか拾った。

 だれかが気に入らないことをやったら、一生涯、公の場で活動することを許さない。
 そんなやり取りが、オリンピックの前後あたりに垣間見られたようだ。

 私は解任されたり辞任したりしたひとのことを、それほど知っているわけではないし、彼らについて言及するつもりもない。
 毎度のことだが、その周囲で蠢いている人々の行動、言動、印象について掘り下げることのほうが、むしろ考察の価値があると考えている。

 最初に変換したとき、絞殺の価値がある、と出た。
 私のIMEの経験値はともかく、言いえて妙な感慨を受けた。


 私は昔、正義づらをして「いじめは許さない」とかいう看板を掲げている連中に、いじめられたことがある。
 正確にはそこまでひどくないので、あくまで象徴的な事例として考えたい。

 私は「先制攻撃をした人間は倍返しされるべき」という思想なので、この時点で「世界は赦しに満たされるべき」と考える人とは相いれない。
 その前提で、以下の事象を考察していただきたい。

 私(小学1年生)は突然、知障から先制攻撃を受けたので、倍返しした。
 すると、それが知障に対するいじめと認定されて、彼を擁護する上級生や先生たちに取り囲まれ、私がどれだけ邪悪かについて袋叩きに遭った。

 私と知障のあいだに起こった、シンプルな「攻撃と反撃」の話。
 ここに、なんの関係もない連中が介入してきて、知障を擁護し、私をつるし上げた。

 これは上級生と先生による、私に対するいじめ、先制攻撃と受け取らざるをえない。
 なぜなら「やり返しただけ」の部分について納得のいく説明を受けなかったし、集団による個人に対する集中砲火は、いじめの構図そのものだからだ。

 反撃、という私の正義。
 知障に攻撃(反撃)したことそれ自体、袋叩きに値する、という正義づらをした連中の正義。

 彼らの価値観とか、私の価値観とか、程度問題とか、いろいろ細かい留保条件に満ち溢れているので、これについていまは掘り下げない。
 さて、そこでオリンピックの件にもどる。


 昔、障碍者をいじめた経歴のある人間は、生涯、その行動に一定の抑圧、制限を受けるべきだという主張があった。
 あるミュージシャンの告白は、彼の将来において事実、一定の仕事を奪った。

 著しく程度問題で、私もまったく彼を擁護しない。
 が、批判もしない。

 どれだけ過去にやったことでも、罪自体は消えない、というのはそのとおりだと思う。
 が、重大犯罪を除く少年犯罪は、許され、守られるべきだとも考える(よって私を袋叩きにした上級生は許すが先生は許しがたい)。

 そもそも当人同士の問題、というのが大前提だ。
 その後の彼自身による偽悪的な態度、それ自体を問題視する点については同意する。

 いじめは重大犯罪につながりうるが、軽度のものは「よくあること」だ。
 学校におけるその手のストレスを0にすることはできないし、すべきでもないと考える。

 社会に出てからのストレスに耐えるための「練習場」の役割も、学校にはある。
 耐える能力が低すぎる人間は、その先の人生がかなりキツくなるだろう。

 だからといって死ぬまで追い込む必要はもちろんないわけだが、一方的にいじめ認定して「無菌理想社会」を目指す勢力も、いかがなものかと思う。
 いわゆる「アレルギー疾患」は、清潔すぎる社会のせいで起こる、という考えは一定程度正しい。


 やや話がそれた。
 過去の行為を理由に彼の仕事を奪うことに加担した、一連の人々について言及しよう。

 私にとっては、障碍者に反撃した時点で完全悪というレッテルを貼られた、小1の自分が重なる。
 自分がなにもされていないのに、他人を取り囲んで袋叩き、という構図だ。

 いや、必要ではあろう。
 重大犯罪については、社会全体で駆逐する方向性は、まちがいではない。

 だったら世界のどこかで大量虐殺してる政治家をどうにかしたほうがいいんじゃないのとも思うが、もちろんそれは論理のすり替えだ。
 先述したとおり、程度問題でもあろう。

 彼はそれだけのことをした、という考えのひとが彼から仕事を奪いたいと思うのは自由だ。
 現にそうなっておめでとうございます、という皮肉なツイートを炎上させるのも自由だろう。

 そこまで自由を行使した以上、みずからの責任も自覚していただきたい。
 それはほんとうに「正義」だったか?


 より深刻だと思うのが、マスコミの報道姿勢だ。
 時々の話題に噛みついて、食い散らかす人々。

 これに乗っかって発言している人々の顔。
 自分はいいことをしたつもりになっていて、だれかを叩きのめすことの快楽に酔っている人間。

 小学1年生のころから、血反吐が出るほどの嫌悪感を刷り込まれた。
 この手の事象が起こるたびに、いつも「気持ちわるい」と思うのは、かつて私を取り囲んだ上級生と先生の顔が重なるから、だけではないだろう。

 ユダヤ人を揶揄したから、公的な場面で活動してはならないのかどうか、それは決めるべきひとが決めればいい。
 ヴィーゼンタール・センターのおそろしさは、アメリカ政治の本を読んでいても、よく伝わってくる。

 たたいていい相手を見つけ出し、つるし上げる。
 善人として、攻撃してもいいという免罪符、むしろ攻撃命令を下す十字軍の姿をほうふつさせる。

 正義はわれにあり、やっちまいな!
 ここが、もっともおそろしい部分だと思う。


 歴史を顧みても、たいてい「正義」が勝っている。
 逆さにすると陳腐だからやめておくが。

 みずから正しいと思い、行動した以上、最後まで責任を負っていただきたい。
 反論は許さない、聞く耳もたない、責任はとらない、という人々のためには、便所の壁という落書きスペースがある。

 自分はいいけど相手はダメ、という考え方とは最後まで戦いたい。
 自分の「世界の主人公」たちが振りかざす正義という発想には、いつもヘドが出る。

 どうか俯瞰していただきたい。
 みずからの「正義」が、奈辺にあるか。

 


 私は映画を趣味にしている。
 最近、エクセルで管理しているタイトル数が、4000を超えた。

 死ぬまでに1万タイトル、という野望をもっていた時期もあったが、いや無理だなと最近はあきらめている。
 なにしろ、もうとっくに人生を折り返しているのだ。

 しかし冷静に顧みると、もしかしたら目的の半ばに達している可能性が、なきにしもあらずだと気づいた。
 エクセルでタイトルを管理する以前に観た映画が、かなり記録から漏れているからだ。

 昭和末期から平成にかけて、洋画劇場が毎週4つも5つも流れていた時代があった。
 私の映画趣味は、このころから端を発している。

 ノートに何冊も記録していたのだが、それはとうに失われた。
 数百から千くらいは観ていたと思う。


 さて、そんななか、あえて「観ない」映画のシリーズがあった。
 もっぱら邦画なのだが、とくに寅さんシリーズは避けていた。

 最近、昭和の文化を研究している過程で、よく再会する。
 言うまでもないが、いまはもう180度、見解を改めている。

 寅さんという永遠のキャラクターは、ほんとうにすばらしいと思う。
 全国を行脚して、露天商として生計を立てる、車寅次郎。

 当時の文化背景を知るうえでも、また純粋に映画としても、高く評価されているのは当然だ。
 そんなすばらしいシリーズが、私は当初、たいへん苦手だった。

 さまざまな理由はあると思うが、なかでも「商人がキライ」というのがあっただろう。
 人生の初期段階から、私はそういう性質の人間だったらしい。


 このブログでも、折に触れて「商人」という種族については腐している。
 軽薄というか、不正直というか、もちろん全員ではないのだが、そういう「クソ商人」が目立つのだ。

 なぜか配信されてくるメルマガで、生産が追いつきません、と宣伝している商人。
 応じられないような注文を募っている暇があったら、まずは注文に追いつける程度には生産ラインを強化する努力をしてから売れよ、と思う。

 やるべきことやらないバカでーす、と開き直っているのか。
 どういうつもりだこいつは、とイライラする。

 赤字価格です!
 と、自分のバカさかげんをひけらかす商人もいる。

 まず第一段階として、赤字で売るために仕入れるわけがないので、売れないものを仕入れたことを告白している。
 それだけでもそうとうだが、彼のバカさかげんはそれでは終わらない。

 赤字にしては、やけに高いのだ。
 その価格で赤字が出るということは、よほど高く買ったか少ロットの注文だった可能性があるが、わずかなロットすら捌けないということは、よほど問題のある商品なのかもしれない。

 ある意味、乞食の商法に近い。
 インドなどでは、わざと自分の身体を傷つけ、不具状態にして善人の憐れみを誘い、喜捨を集める子どもたちが一定数いた。

 自分の無能さ、哀れさ、バカさかげんを公表して、客の懐から金を絞る。
 そういう商法なのだと考えると、一応理解はできる。

 理解はできるが、共感はできない。
 彼らがなにを言っても、もうムカつきしかない。

 そんなふうに人をだまして、利益を得たいのですか。
 坊主憎けりゃ、宣伝文句のほとんどがイラつく要素に満ちている。


 早い者勝ち!
 よく見かける売り文句だ。

 HFT業者が言うなら、わかる。
 100万分の1秒、注文が速いほうが勝つ。

 私がデイトレードを嫌悪して、ほぼ退場した理由のひとつでもある。
 個人のトレーダーが機関投資家に勝てる可能性は、ゼロだ。

 業者レベルでも、高速取引を追求した者が勝つ。
 不公平でずるい、という声は当初からあったが、どうしようもない。

 他の取引業者より0.001秒、速く注文する。
 そのテーマ自体、映画にもなっている(『ハミングバード・プロジェクト』)。

 光ファイバーで注文を伝達するニューヨークとシカゴ、他の都市を経由して通常届くのにかかる時間が0.017秒。
 主人公たちは自らトンネルを掘り、光ファイバーを這わせて「直線」でつなぐと、0.012秒で発注できる。

 発注が一瞬でも早ければ、他の高速取引業者を排して、取引が成立する。
 1000円で買って、1001円で売ることができる。

 これを延々とくりかえす。
 当然、こんなことをしても一般の投資家はまるで儲からないが、業者はちがう。

 株式市場のほぼすべての銘柄を、一日に何千万、何億回と取引すれば、まとまった「利益」になるのだ。
 圧倒的な計算と理論、疑似量子コンピュータ、光の速度で発注するプログラムによって、先に注文した者が勝つ。

 世界と戦うための最先端の技術武装。
 映画的な誇張もあるだろうが、じつにエキサイティングだ。

 ミリ秒単位での売買。
 こういうのを、「早い者勝ち」という。


 一方、バカな商人の早い者勝ちはちがう。
 どこかの無知が早く買ってくれたら自分が勝つ、という意味だ。

 早い者勝ちの商品が、延々と並んでいるのをみればよくわかる。
 考えるのは自分のことだけ。

 最後に、よくある商人の定型句のなかでも、私にとって速射砲並みにゲボが出る問題発言を紹介しておこう。
 お客さまのために、ご奉仕。

 自分のためなのに、他人のためを装う。
 正気になってくれ、もう無理だ、商人よ。


 と、私のようなタイプはテレビショッピングの一言、ネットの文字列からでさえ嫌悪感を催してしまう。
 もちろん多くの商人が、ちゃんと仕事をしていることは知っているし、流通への貢献については敬意を表する。

 いい商品を、安く売る。
 社会に欠かせない重要な役割なのだ、商人は。

 要するに売り方の問題だ。
 さて、そこで寅さんにもどろう。

 彼は行商人である。
 どこぞの問屋で仕入れ、地方を行脚して高く売る。

 どこにでもある商品を、やや高く売っている感はある。
 が、加えて落語に近い要素、口上で客を楽しませる、という役割が一応あるようにも思われる。

 言わずと知れた「啖呵売」だ。
 並んだ数字がまず一つ、もののはじまりが一ならば、国のはじまりが大和の国、島のはじまりが淡路島、泥棒のはじまりが石川五右衛門なら、スケベエのはじまりがこのおじさん!

 もちろん私は落語が好きなので、寅さんの口上も非常に楽しめる。
 これが「押し売り」になってくると話は変わってくるが、寅さんはその手前の絶妙な立ち位置をキープして、「ヤクザなアニキ」の魅力を最大限、引き出していると思う。

 そう、当人も理解しているのだ。
 自分が、ヤクザなアニキであることは。

 冷静に考えると、身近にこんなアニキがいたらやだな、とも思う。
 だから妹がお嫁に行けて、ほんとうによかった。

 さらに冷静に考えて、自分自身これに近いのではないかと気づいた。
 どう考えても、ヤクザな入金で暮らしているような気がするのだ。

 汗顔の至り。
 もって瞑すべし。
 


 私は注目されることが苦手だ。
 と言い切ってしまっていいなら楽なのだが、承認欲求というやつは、人並みにあるのかもしれない。

 だから小説などを書いているし、よかったら認めてもらいたいという気分が、ないわけではない。
 ただ、基本的には書きたいことを書くだけで満足しているので、あまり宣伝するつもりもない。

 無理にでも読んでほしい、という欲求がきわめて低い。
 趣味の合う人が、たまたま読んでくれて、なんとなく楽しんでもらえれば、それで満足だ。

 広告業界の人々と、真逆の立ち位置といっていい。
 世に知らしめる、という欲求のありすぎる人々というのが世間には一定数いて、おれを見ろ、あたしを見て、炎上でもいいから、という人々の実在には驚くばかりだ。

 いわゆる炎上商法。
 こういう人たちで、とある業界の一部は事実、成り立っている。


 ただ私は、これらの人々がそれほど多いとは思っていない。
 ひとりひとりがあまりにも目立つので多いように見えるが、たぶんちょっとしかいない。

 私生活のほとんど全部を公開する、みたいな番組もある。
 そんなに見せたいものだろうか?

 とくに遠慮がち、控えめな生きざまで、和をもってよしとする日本民族においては、このような傾奇者どもはきわめて少数派であろう。
 言うまでもないが「性格」の話であって、いいわるいを決めつけるつもりはない。

 喜んで傾く者どもは、いていいと思う。
 一種の文化でもあるだろう……が、身近にいたらうざいだろうなとは思う。


 さて、私はたまに、ネットでクレーンゲームをやる。
 そのプレイスタイルというのが、「ひとりでひっそりやる」だ。

 ただしそんなやり方を、運営側は(システム的には)認めていない。
 だれでも他人のプレイを観覧できるし、その人数や予約件数も表示される。

 運営側の動機としては、とにかく「人を集めたい」はずだ。
 盛り上げるためには、とりあえず観覧だけでも集まってくれるに越したことはない。

 見やすいようにつくりこんでいるし、観られることを拒絶する権利など金輪際、認められていない。
 よって、だれにも見られず、ひとりでプレイすることを好む私のようなスタイルだと、工夫が必要だ。


 私のクレーンゲームは、まず観覧人数0人という台を選ぶところからはじまる。
 状況を見極め、取れそうな気がしたら、すかさずゲームスタート。

 もたもたしていてはいけない。
 途中、だれかが見にくるおそれがあるからだ。

 スタートしたら、できるだけ手早くクレーンを動かし、ゲームを終える。
 だれもこなければプレイをつづけることもあるが、だれかきた時点でゲームをやめる。

 私はゲームをしたいだけで、観られたいわけではないからだ。
 しかし、見んな、とは口が裂けても言えないので、こちらが気をつけるしかない。

 そんな感じなので、プレイするのは早朝や平日昼間など、かぎられた時間帯になる。
 たまにエアポケットのように人が少ないタイミングを見つけると、安心してプレイができる。


 ……いや、ゲームしているところを見られたくない、という表現は不正確かもしれない。
 正直には、失敗しているところを見られたくないのだ。

 成功したところ、うまくいったところは、むしろ観てほしい。
 小説でいえば、完成作品だ。

 だが、失敗している自分、練習している自分は、そもそも観られるべきものではない。
 アイデアの下書きとか、執筆途中の状態を見られるのに似ている。

 そういうのを公開して、話題になることをよしとする作家もいるのかもしれないが、私はちがう。
 途中経過などどうでもいいし、すくなくとも見せるものではないし、なんなら見ないでほしい。


 経過を寄せ合ってブレインストーミング、みんなでつくりあげようという作品は別だ。
 チームプレイである以上、途中どれだけのアイデアが出てくるかの勝負でもあるので、そもそものスキーム、製作スタイルが異なる。

 一方、個人的作業である「創作」については、個人の「流儀」が優先されるべきだろう。
 私については、途中経過はすべて伏せ、まがりなりにも完成品を観てもらいたい。

 そもそも途中経過のアイデアや断片的シーンなど、見せられても困ると思うのだ。
 とくに私の「流儀」として、資料の読み込みや下書きなど、完成本文1万文字に対して、だいたい3~4万文字を書く傾向がある。

 自分でも読み返して「これ整理すんのか……」と呆然とするくらいだから、なおさら他人さまにそんな気持ちになってほしくない。
 膨大な「作業用」「資料」「補正用」「断片」という名のファイルをかきわけて、私は一本の小説を書きあげている。


 途中経過が大事なんだよ、という人々がいることは、もちろん知っている。
 彼らは「がんばればいいんだ、結果なんてどうでも!」という傾向が強いが、それ自体はいい、彼らの勝手だろう。

 それはそれでいいのだが、途中の努力を見られたくないというタイプも、いていいと思う。
 端的に言えば「結果がすべて」という人々に、私は与する。


 さて、観られたくないということは、他人のクレーンゲームのプレイも観ないのか、といえば、それは観る。
 自分が嫌なことは他人にしない、というのは基本なのだが、これは例外に当たる。

 そもそも自分のプレイを他人に「見せたい」人々は一定数いて、現に多数の動画がアップされている。
 彼らのプレイは、むしろ観てあげるべきだ。

 マリオメーカーの動画など、かなりよく観る。
 わかりやすい格闘ゲームも、けっこう観る。

 クレーンゲームでいえば、すでにたくさんのひとが観覧していて、当人もそれを承知でプレイしている場合だ。
 それを見ることまで遠慮する必要はない、と考える。

 とはいえ、これはあくまで「例外」であって、基本的には自分のいやなことは他人にもしない。
 小学校の先生に教わった、この態度は永遠に正しいと考える。

 その魂を百まで守りたい。
 そんなに生きたくないが……。

 


 最近はあまり聞かなくなったが、インターネットラジオ的な立ち位置で、ポッドキャストという番組が一時、多く配信されていた。
 現在もあるので、興味がある方は聞かれたらよいと思う。

 ラジオなんかよりユーチューバーでデビューしたほうが手っ取り早い、という昨今の事情はあるだろう。
 ポッドキャスト当時は、そこまで機材が充実していなかったので、やむなくラジオからはじめました、という感じが多かったかもしれない。

 で、猫も杓子もポッドキャストな時代を数年間、その勃興期をともに暮らしているなかで、現在まで聞きつづけている老舗的な番組が、いくつかある。
 私が聞きつづけている以上、そうとういい番組なので紹介したい。

 と思ったのだが、今回は批判的なニュアンスで書くので、名前は出さないことにした。
 また、できるだけ一般化して書くように心がける。


 主催者であり制作者であり中心人物であるA氏がMCを務め、適宜ゲスト(聞き手)を迎えてしゃべくる、という一般的なラジオ番組の体裁だ。
 放送業界人としてもそれなりの人物であり、疑いもなくクオリティは高い。

 実績には輝かしいものがあり、現在もギョーカイの一線で活躍されている。
 私が毎週のように聞いていたほどだから、それを制作できる能力が低いわけもない。

 ある意味、高すぎたのかもしれない。
 最近、気になる番組構成が増えてきた。

 さすがに言いすぎだろ、だれか突っ込んでやれよ、と思うのだがそれがない。
 アレキサンダー大王みたいなもので、周囲に諫言する人物がいないのだ。

 大王が思ったとおりに行動したほうが、番組としてはうまくいったりもする。
 天才というのは、一定程度、自由にやらせたほうがよいことはたしかだ。

 組織に「ナンバー2」的な人材がいたほうがいいのかどうか、これは永遠の課題だろう。
 たとえば劉玄徳は、諸葛孔明という天才的ナンバー2によって、かろうじて歴史に名を遺した(私見)ようなところがある。

 そもそも玄徳は、「徳」しかない男だった。
 この手の極端な「キャラ」は、「演義」的にはとても有用だ。

 大事なことなので、もう一度言っておこう。
 それぞれのキャラには、適した役割がある。

 天才による「創業」は、世間によくある。
 問題は、その先だ。


 件のインターネットラジオでも、優秀な後継者を育てようという流れはあったようだ。
 が、いかんせん後継すべき人材らの能力が低すぎて、あきらめたらしい。

 いや、あきらめたらそこで試合終了だろ。
 と思いながら聞いているわけだが、既存の人材の能力の低さ(偏り)については私もなんとなく察していたので、解法は容易ではない。

 そもそも周囲の人々の能力だって、低いわけではない。
 中心となるA氏の能力が高すぎるので、そう見えるだけだ。

 とくに、いちばんアシスタント歴が長い(と思われる)B氏が、あまりにもアホすぎた(半分誉め言葉)。
 正直、聞いていてイライラすることも多いし、A氏もだいぶ本気で腹を立てるようなところも、なきにしもあらずだったりする。

 ただし先述のとおり「役割」としては必要で、明確な「ボケ」役として伝説的なエピソードをいくつも残している。
 つまり番組として、不可欠の「キャラ」ではあるのだ。

 問題は、そういうタイプが「後継者」として適切かだ。
 もちろん不適切だろう。

 彼女に次代を担わせる方向で、A氏も動いたことはあるらしいが、どうやら一瞬で破綻したらしい。
 まあそうだろう。

 とりあえず彼が生きているかぎり、彼が中心となって番組はなんとかなるし、最近はあまり後継者云々という感じは、すくなくとも番組内ではなくなった。
 ここが「創業者が優秀すぎる」場合に陥る難所であろう。


 日々の番組は、まあまあのクオリティで生産されている。
 アレキサンダー大王は、たしかに優秀なのだが、彼も年をとった……。

 歴史上、かの大王は若くして亡くなったので、老醜をさらすことはなかった。
 もし彼が年老いて覇権を握ったままだったら、どうだっただろう?

 すばらしい実績を残した創業者や芸術家が、老いて「おいおい」という行動に陥ることは、ままある。
 晩節を汚す、まさに字義どおりだ。

 で、このA氏にも、その傾向が感じられるようになってきた。
 当人に言わせれば、そもそもこういう人間だよ、ということかもしれないが。

 すくなくとも話題が「政治」に寄ったとき、げんなりすることが多い。
 マスコミは「反体制」でなければならない、という呪縛に沿っているという見方もできる。

 それにしても、内容が下品すぎる。
 「ゴミ」に寄ったマスコミの気色が濃厚なのだ。


 断っておくが、私は下品な番組がきらいではない。
 たとえば江頭さんについては、見かけたら見るし、ユーチューブでお気に入り登録をしているくらい、ああいうのもあっていいとは思っている。

 ただ、彼はちゃんと番組内に「突っ込み」役を準備している。
 まずい場合に止めるためのスタッフがいるから、心行くまでキレられる番組構成を心掛けている、と思う、たぶん……。

 が、A氏は大王すぎて、番組内に批判者がいない。
 お説ごもっとも、そうですよね、おっしゃるとおり、ほんと総理大臣死ぬべきですよね、という意見が満ち溢れる。

 これって危険じゃないのかな。
 政治家というものが、1、2を争うレベルで大嫌いな私の耳をもってしても、あまりにバランス感覚を欠く放言に過ぎはしないかと。

 もちろん彼の意見は彼の意見として、あっていいとは思うが、別のご意見はないのかな? としばしば思う。
 メールを選ぶのもたぶん彼なので、そういう流れになかなかならない。

 ともかく番組内容が政治に寄ると、汚い言葉が飛び交いまくる。
 番組内に、彼に匹敵する高スペックの「ご意見番」みたいなのがいれば、こうはならないのではないだろうか。


 世間を見まわせば、けっこうある舞台装置だと思う。
 優秀すぎる創業者へ、反対意見を述べるなどという空気が、そもそもない。

 政治を除いた話題のときは、それなりにおもしろいのでふつうに聞いている。
 が、クソジジイくたばれ首相死ね死ね番組になってくると、ちょっと聞くに堪えないのでスキップすることもある。

 ある種の偏向報道はマスコミの宿命なのだと思えば、あきらめはつく。
 朝日や毎日の捏造報道っぷりは、かなり伝説的な教訓を残してくれた。

 椿事件などで検索してもらえれば、彼らの本質は透けて見える。
 第4の権力者、暴走したマスゴミというものは、私自身、大いに憎む対象である。

 もちろん、そうではないジャーナリストはいくらでもいて、彼らのバランス感覚に恃むところは大きい。
 A氏もそんなことは百も承知で、あえて突っ込む余地を残すような物言いをしているきらいすら感じるのだが、その大切な突っ込み役が不在だ。

 言っていることは正しい部分もあるし、ブラッシュアップする余地も感じる。
 それだけに、バランスを欠く番組構成だけは残念だ。

 とくに政治的発言に際しては、真摯に考えてほしい。
 と、メールを送ろうかなと思ったが、私はプライドをもったサイレントリスナーなので、よけいなことはしないでいる。

 身近に批判者がいないというのは、心地よいのかもしれないが、危険だとも思う。
 目的が盤石に定まっているような計画においては、変にブレーキを踏まないほうがいいこともないわけではないが、全体を冷静に見極める検証者はいずれ必ず必要になってくる。


 私は物事を疑うタチだし、なんなら元々そうだと思っていても他人から言われた瞬間に反抗したくなる、という厄介な性格だ。
 最近はおとなになったので、思っても言わない、ということは増えているのだが、基本的には内心で突っ込みながら聞いている。

 勝手気ままな「大王」のA氏も、心底ではそういう「女房役」を求めているのではないだろうか。
 ただ彼の能力が高すぎるので、それに匹敵する「コメンテーター」がなかなか現れないだけだ。

 一時、C氏というそうとうな知識量で、あるジャンルではA氏をも凌駕するという逸材が現れてくれたのだが、最近はあまり見かけない。
 あくまでも趣味の域でやっているインターネットラジオなので、生活を犠牲にしてまで参加するという動機もないのだろう。

 とはいえ長年かけて築き上げてきたIP(知的財産)を、受け継いでくれる人がいないのは残念だ。
 A氏もまだ50代なので、これから後継者を育てても遅くはないだろう。

 偉大な大王が必要としているのは、優秀な軍師か、あるいは二代目か。
 すくなくとも番組的には、きちんとした突っ込み役を求めたい。

 先細りの未来。
 それもまた人生ではあるが。
 


 私はあまりゲームをやらないのだが、一応、ゲーム業界を観察はしている。
 スマホゲームを含め、たまにはプレイもする。

 昔『DDS女神転生』(メガテン)というゲームがあったのだが、そのシリーズで新しいものが出たら、それだけはやるようにしている。
 最近、どうやらついに真・女神転生5が発売されるらしいという記事を見た。

 二十歳を過ぎた時点で、すべてのゲーム機は売り払ってしまったが、新しいメガテンが出たときには、筐体ごと買っていた。
 PS2や3DSを、新作が出るたびに買い、遊び終わったら売る、という行為を数度くりかえした。

 次回は、ニンテンドー・スイッチらしい。
 まだだいぶ先だが、とりあえず11月が楽しみだ。


 というわけで、そろそろスイッチ買わないとな、と思いながら検索してみた。
 ……高い。

 いや知ってはいたが、定価で買えない。
 ふつうに考えれば、販売開始から4年も経っている筐体が、3割4割引はあたりまえだと思われるのに、まだプレミアム価格とか、どう考えてもおかしい。

 売り出されて半年のPS5なら、まだわかる。
 いや、それにしても高すぎる。

 さすがに販売価格が軒並み、定価の倍というのは、異常ではないか?
 せどりが活況を呈するにもほどがある。


 安く買って、高く売る。
 商売の基本なのだが、商人が大嫌いな私は、このような行為に非常な抵抗がある。

 もちろん流通さえ担わない、私のような金ころがしはそれ以下の人間なのだが、だからこそ日々、吐き気に襲われる毎日だったのだし、きわめて早い段階でデイトレードやスキャルピングには距離をとった。
 それよりはマシであろう商行為に、文句をつける筋合いはない。

 むしろ自身、やろうかとも考えた。
 それをやれば、多少はマシな日々の生計になる。

 月に数万程度で、内職の域を出ないが、私としてもそのくらいなら「せどり」も有用な選択肢だと、心では理解している。
 PS5で何千万も儲けたという外国の高校生の記事がどこかで出ていたが、この「転売」というやつは事実、ウマイ。


 食品や薬品など、むずかしいジャンルもあるが、家電や雑貨は比較的簡単だ。
 品薄で高騰しているような商品は、おしなべて「やりやすい」。

 任天堂スイッチは典型的だが、たまたま買えるタイミングで買って、売るだけだ。
 新品が3万ちょい、ヤフオクやアマゾンでもプラス1万かそれ以上の値がついていた。

 このような商品を「仕入れ」て、転売することは「せどり」の基本だ。
 ある程度の数、まとめて取り扱うようになったら、それはもう「転売屋」、本職といっていいだろう。

 コンサートチケットなどでもよくいる「ダフ屋」が、引きこもり宣言を受けてネットに居を移した。
 自由主義経済、資本主義の原点だ、とまで言う方々もいらっしゃる。


 必要としている人間が、出せるだけの金を出す。
 これを商売の基本とする、という考え方もたしかにあるだろう。

 が、コロナ初期でマスクが不足していたときにも書いたが、私は個人的に「高値転売」という商売にムカついている。
 だったら「転売」はできないのではないか? と思われそうだが、そんなことはない。

 定価で売ればいいのだ。
 定価より安く買って定価で売るなら、利益が出る。

 いや、定価で買って定価で転売ですら、利益は出る。
 購入時に高率のポイントがつくタイミングをとらえればいいのだ。

 たとえば30%以上のポイントがつくタイミングであれば、なにも考えず「仕入れ」ればいい。
 そして定価で売る。

 ヤフオクの場合、10%弱のテラ銭をとられるが、送料を考えても残りは利益になる。
 月に何度かこの種の取引をすれば、小遣い銭程度にはなるだろう。

 やればいいじゃない、という誘惑はどうやら世間に広がっているらしい。
 私自身、20%クーポンなどが当たった画面を眺めながら、金を転がすより現物を転がしたほうが、正業に近いのではないかなという気さえしてくる。

 買って売るだけ。
 オークションへの出品にハードルはない。

 それなりにいらないものを売り払ってきたから、安く売ることには慣れている。
 が、中古ならまだしも、新品を転売というのは、なんとなく気が引ける。

 買って、届いたものの写真を撮り、ネットにアップして売る。
 こんなことは3分もあればできる。

 そう、ハードルはないのだ。
 ……小遣い銭を稼いでみるか?


 先ほど、たまたまスイッチが、楽天ブックスで定価で販売していた。
 アマゾンでも、ほぼ定価で買えるタイミングが、ちらほらあるようだ。

 さすがにスイッチの高値転売は、そろそろ終了だろう。
 転売屋も、すでに在庫処分を終えつつあるやに聞く。

 考えてみれば、わるいのは正しく供給をコントロールできないメーカーだ。
 もちろん半導体不足やコロナなどの情勢が重なったこともあり、転売チャンスタイムが発生してしまったことには、ある種、不慮の事故みたいなところもある。

 乗るしかない、このビッグウェーブに!
 という人がいても、それはそれで責められないような気が、しないでもないような気もする。

 買おうかなと思ったが、しばらくしたら売り切れていた。
 新型スイッチ発表されたにもかかわらず、まだ旧型の需要も旺盛らしい。


 それにしても、なぜ買わなかったのだろう。
 タイミング的には、買おうと思えば買えた。

 べつに転売目的ではなくとも、11月に使うんだから買えばいいじゃない?
 いや、だったら11月に買えばいいでしょ、いま買ったら転売目的になりそうじゃない?

 謎の葛藤の末、買わなかったというのが正直なところだ。
 私がゲーム機の転売に手を染めることは、おそらくないだろう(買って使って要らなくなったら売るが)。

 転売は、たしかに簡単に小銭を稼げる。
 が、こういう仕事は私以外に、もっと向いた人間がいると思う。

 必要に迫られてやっている人々を腐す意図は、微塵もない。
 むしろ、がんばって商売してもらいたいとさえ思う。

 定価を超えないかぎり、つまり良識の範囲内であるかぎり、個人的な転売は許容範囲であろう。
 言い換えれば、ふざけた転売ヤーは絶滅してほしい。

 バカげた値段をつけて、高値で売りつけようとする「商人」については、私はいまでも敵意しか感じない。
 奴隷商人を筆頭として、やっていいこととわるいことの区別のつかない残念な輩が、商人には多いような気がする。

 一方で、正しく流通をまわしてくれている、誉むべき商人も多数いる。
 そちらの一員として、頑張ってくれているかぎり、せどりは正しいと思う──。


 というわけで、定価で買うとか情弱か、というスタンスで生きてきた大阪仕込みの買い物上手にとって、まだスイッチは高すぎる。
 11月までに定価以下にならなければ、メガテン最新作のプレイは延期かもしれない。

 まあ遊び終わったらどうせすぐ売るので、購入価格がいくらでも、あまり関係はないのだが。
 いまは黙して、市場が落ち着くことを祈るのみだ。
 


 大谷さんが、がんばっているらしい。
 芸能・スポーツに興味がなく、グーグルのおすすめ記事も「スポーツに興味がない」をタップして軒並み消しているにもかかわらず、なぜか表示されてくるオオタニサン。

 もはや社会現象だから、知っとけよ、という意味だろうか。
 たしかに、先発ピッチャーでホームランバッターというのは、マンガみたいで人々の食いつきがいいのもわかる。


 口幅ったいことを言うようだが、私は大谷さんに世話になったことがある。
 かつて千葉に住んでいたときだ。

 北海道日本ハムファイターズの二軍本拠地兼練習場・ファイターズスタジアムという施設が、鎌ヶ谷にあった。
 その関係で、たぶん入団した最初のころ、大谷さんの現住所は鎌ヶ谷だったと思われる。

 で、だいぶ給料が上がってきて、たくさん税金を納めてくれるようになったらしい。
 鎌ヶ谷市長が、こんなことを言っていた。

 アメリカに行ってほしくないですね、高額納税者ですから。
 スポーツに興味のない私は、当時、完全に聞き流していたのだが。

 タックスペイヤーは、タックスイーターを支えている。
 考えてみれば、低額納税者の私を含む下層市民は、高額納税者である大谷さんなどによって支えられていた(という側面もある)。

 当時、鎌ヶ谷図書館で借りた本の何冊かは、大谷さんの納税によって賄われていたかもしれない。
 世話になったね、ありがとうオオタニサン!


 そんな大谷さんも、現在はMLBを代表する大物選手だ。
 彼に対して下手なことを言ったりやったりすると、たいへんな炎上騒ぎになるらしい。

 ちょっと乱暴な口をきいた選手や評論家などが、軒並みバッシングされていて、多少の哀れさえ催した。
 通訳をつけているのはいかがなものか、英語を話せない選手は困るな、みたいなことを言ったコメンテーターも、たいへんな差別主義者に仕立て上げられていた。

 しかし、考えてもみるがいい。
 彼らにとって、その程度は差別ではないのだ。

 現在のアメリカを築き上げたスポーツ文化の創始者である一部の人々にとって、アジア人とか、英語を話せない外国人とかは、ただの「出稼ぎ労働者」なのだ。
 そんな連中に、アメリカ文化の代表選手づらをされると、不愉快なのだ。

 当人は差別主義者ではないと弁明しているようだが、私もそうだと思う。
 彼らにとっては、あたりまえの「常識」にすぎない。

 アメリカがどういう国か学んでおけば、彼のような意見が「ふつう」であることは察しがつく。
 なにしろトランプを大統領にする国なのだ。

 おそろしい国は、おそロシアだけではない。
 彼らアメリカ人の育んできた、偉大な映画文化からも察しがつく。


 アメリカで「ゾンビもの」が流行る理屈を、私なりに考えてみた。
 主人公たちはゾンビに襲われ、しかたなく「敵を倒す」。

 客観的には、動きの遅い、倒しやすい「標的」だ。
 接近されると危険だが、銃なら安心安全、多くの人類がアフリカで野生動物をトロフィーにしてきたように、狩猟本能を満足させられる。

 そうしてプレイヤーは、ターゲットを破壊する。
 たいして抵抗できない「物体」を次々と。

 バン!
 ユー、ウィン!

 しかも、それは殺しているわけではなく、ただ危険なので排除しているだけだ。
 人の形をしているが問題ない、なぜならゾンビだからだ。


 さて、敷衍しよう。
 人間には思考力や想像力があるので、脳内で「象徴」や「仮定」を取り扱うことができる。

 それは殺してもいいもの、壊してもいいものだ、なぜなら人間ではないから。
 こういう心理状態で、彼らの祖先は黒人やインディアンを虐殺したんだろうな、と理解すると、とてもわかりやすい。

 黒人やインディアンは人間ではないので、いくらでも殺していい。
 司祭、牧師はそう言って、マニフェスト・デスティニーを肯定した。

 虐殺者と略奪者の子孫たち。
 そのなかに、色濃く祖先の行動原理を受け継いでいる人々がいても、おかしくはない。

 事実、彼らはそうやって、現在そこに住んでいる。
 彼らの祖先は、そうやって彼らをその地に残したのだ。

 なるほど、ありがたい!
 じいちゃん、サンキュー!

 すべてのアメリカ人がそうだとは言わないが、多くの既得権者は該当すると思う。
 侵略者たちの子孫による、祖先の行動に対するオマージュ、それがゾンビ愛なのだ!


 私はべつに、これを「わるい」と言っているわけではない。
 そもそもすべての子孫は、先祖に対して感謝と敬意を払うように、遺伝子レベルでプログラムされている。

 祖先に対する敬意は、失ってはならないものだ。
 その遺伝子に基づいて、現在の行動がある程度支配されることには、蓋然性もある。

 そういうリスペクトが、アメリカ人のゾンビ愛を支えている。
 という理屈を、思いついてしまったのだからしかたない。


 無抵抗で縛りつけられたゾンビ、わけのわからないうめき声を発している死体、放っておくと危険なので殺してしまえ。
 殺す、いや、壊すことが正義であると自分に言い聞かせて、彼らは無抵抗のゾンビを破壊する。

 先祖もやってきたことを、子孫が喜んで模倣する。
 彼らが生きた黒人にやったことを、死んだゾンビに対してやっているだけだ。

 人類は、そうすることが楽しくてやっている。
 奴隷を売買したり、ヒトの形をした、しかし人間ではない物体を壊すことは、それほどの罪ではない、むしろ正しいことなのだと。

 正しいことをやっているのだ。
 ゾンビ狩りの映画を観ていて、彼らが言いたいことがよく伝わってくる。

 人類は、自己正当化しなければ、なかなか生きづらい。
 そういうことだ。


 そんな「日常」がある国で、味方を増やしている大谷さんは、すなおにすごいと思う。
 現に、彼に噛みついたような感じを見せただけで、軒並み炎上しているということは、そういうことだ。

 古い略奪者、殺戮者の血は、それなりに薄まっていることは事実なのだろう。
 既得権者に対するペイバック、という意味合いもあるのかもしれない。

 もちろん100年前の常識は、現在の常識ではない。
 とはいえ、そういう地盤の上に多くのアメリカ人が立っている事実も、けっして忘れてはならない。

 アメリカの本質は変わらないと、私は思っている。
 大谷さんの無事な帰国を祈るばかりだ……。
 


 私は引きこもりなので、用事がなければ外出しない。
 言い換えれば、用事がたまればしかたなく外に出る。

 過日、買い物、ごみ捨て、献血、給油という予定がたまったので、外出してきた。
 べつに買い物や給油などはその日でなければならない理由はないので、予約を入れた献血の日程に合わせた格好になる。

 ワクチンを打ってしまうと面倒そうなので、そのまえに献血いっとこう、という思いもある。
 ちなみにワクチン自体、個人的にはあまり打ちたくない。


 さて、私は外出すると、なるべくおもしろそうな事象を探すことにしている。
 いつもの献血ルームで、さっそく発見した。

 カウンターで対応してくれた女性スタッフの顔面が、だいぶ損傷していたのだ。
 鼻の上、目の周辺あたりに、痛々しい治療の跡がある。

 たぶん転んだかなんかだろう。
 とは思うのだが、私はもちろん、そんな常識的な推論で満足しない。

 卑劣なDV男によって過酷な日常を送る彼女の正体は、生き血を吸う変態ヴァンパイアの使い魔。
 吸血プレイでいつも貧血ぎみだが、献血ルームから出るわずかにチューブに残った産廃の余剰血液を吸って、かろうじて命をつないでいる。

 哀れな「血液バッグ」として主人に仕える日々を過ごしながら、こちらを見つめる視線には、すがるような光がある。
 そう、彼女はヴァンパイア・ハンターを待っているのだ……。

 などとラノベふうな物語を脳内に展開することで、短い待ち時間を楽しく過ごさせてもらった。
 くりかえすが、彼女が怪我した理由はわからない。


 献血自体はスムーズに終わったのだが、最後にもうひとつイベントがあった。
 あまり愉快ではない出来事だ。

 ほとんどの献血ルームは、だいたい周辺の駐輪場や駐車場の代金をもってくれる。
 千葉に住んでいたころは、別の用件のついでに駐車して、代金を浮かしたものだった。

 今回も駐車券を差し出したところ、こう言われた。
 その駐車場とは提携していません、と。

 もちろん、わるいのはちゃんと調べなかった私なのだが、献血ルーム周辺の駐車場は軒並み提携していると思っていたので、ややムッとした。
 近所で済む買い物を、わざわざ遠くまで行って、よけいなガソリン代と駐車場代と血液を支払ってきた自分に、言い知れぬ残念さをおぼえずにはいられない。

 日本赤十字社が転売する400cc全血血液のお値段は、18000円らしい。
 それを無償で吸うといて、何百円かの駐車場代くらい払ってくれてもよさそうなものじゃまいか?

 さらにこちらが顧客として、この18000円の血液を輸血してもらうときは、40000円を支払わなければいけないらしい。
 おいおい、いい商売だな……。

 もちろん莫大な人件費や設備経費がかかっていることは理解する。
 その先にある闇も、だいぶ深そうだ。


 というわけで、これから献血に行かれる方。
 その献血ルームが、周辺のどの駐輪場、駐車場と提携しているか、調べてからいらっしゃることをオススメする。

 わずかな金額どうでもいいよ、というお金持ちの方は別だ。
 惜しげもなく寄付する喜びに、打ち震えられるがよろしかろう。

 私が献血をする理由は、もちろん善行だからではない。
 いつか遠慮なく返してもらうためだ。

 基本、だれにも、貸しも借りも作りたくない。
 自分の足で立ち、できることをやり、なにもできなくなったら、ひっそりと消えたい。

 目指すはイコールゼロの人生。
 それが私の生きる道だと思っている。
 


 またぞろ小学生の列にトラックが突っ込んだらしい。
 2人死亡、容疑者からは基準値以上のアルコールを検出、と報道されている。

 どうしようもない運転手だ。
 死刑でいいだろ、と気持ち的には思う。

 だが過失で死刑は、わが国の法理ではありえない。
 飲酒となると話は別のようにも思われるが、おそらく刑期が伸びる程度だろう。

 かつて、追い越されたことに腹を立てた運転手がバイクを追跡し、相手を轢き殺すという事件があった。
 これに危険運転致死ではなく殺人罪が適用されたのは、ドライブレコーダーに、かなりはっきりした「殺意」が記録されていたためである。

 しかし飲酒運転は、故意の自己危殆化ではあるが、自らの行為が危険であるという認識があっても、殺そうという実現意思がない。
 残念ながら、殺人罪は適用できないのだ。


 この手の「事故」は、定期的に起こる。
 人間が運転するかぎり、事故そのものがなくなることは、おそらくない。

 飲酒している、いないにかかわらず、人間はミスをする。
 どんなに気をつけていても、事故るときは事故る。

 引き起こされた結果の重大性が問題だ。
 殺されたほうにとっては、加害者の状態がどうだろうが、あまり関係はない。

 車を運転するということは、巨大な殺人兵器を動かしている、と強く意識しなければならない。
 たとえるなら、そう、人型決戦兵器に乗っているようなものだ。

 1トン以下の軽自動車でも、じゅうぶんな破壊力がある。
 大きくなればなるほど、その効果は抜群だ。


 私も20代のころ、運送業に携わっていたことがある。
 振り返れば、なんともおそろしい仕事をしていたものだ。

 最初に大型トラックに乗ったとき、まず思ったのは、12メートルもうしろのことなんてわかんねえよ、だ。
 ミラーをたたまないと当たるような横幅に、ギリギリ切り返せる広さしかない駐車場で、バックで入れるとか神業か、と。

 しかし人間、しだいに慣れてくる。
 こいつ動くぞ、なんて言いながら巨大な鉄の塊を転がしていた。

 俺は首都高の赤い彗星だぜ、と3倍の速度を出したくなったり。
 車幅感覚を研ぎ澄まし、どれだけギリギリでガードレールの横を抜けられるか、みたいなチャレンジをしたことも。

 若気の至りだ。
 思い出すと顔から火が出る。

 うまいとか速いとか強い(?)とか、ほんとうにどうでもいい。
 なにより大事なこと、それは安全運転だ。



 と、ここまで飲酒運転や自動車の危険性を強く主張する論旨になっているが、ここから、やや話が危険な方向にそれる。
 こいつ脱輪してるぞ、と見えるかもしれないが、最後まで読んで判断していただきたい。

 たしかに飲酒運転は、許されざる行為だ。
 許されざる行為だが、では、どこからが飲酒運転か?

 ためしてみよう。
 私という人間は、たまに、そういう飛躍的な論理展開を行なうことがある。

 飲酒運転は、どこから、どのくらい危険なのか。
 自分の身で、たしかめてやろう。

 酒気帯びという基準もあり、取り締まるために数値が必要なことは理解しやすい。
 が、この影響については、個人差が非常に大きい。

 酔えば酔うほど強くなる格闘家もいる。
 ほぼノンアルで顔が真っ赤になる下戸もいる。

 重大事故の発生要因として、酒酔い運転は十分条件ではあるが、必要条件ではない。
 いかなる理由であろうと、結果の重大性がすべてだ。


 くりかえすが、私は、飲酒運転は殺人行為だと思っている。
 が、自分自身、酒をたしなむ人間なので、酒を呑んだら24時間運転しちゃいけないとか、非現実的な話をするつもりもない。

 酒が抜けたら運転していい、あたりまえだ。
 つぎの問題は、どのくらいの時間を空ければいいか、となる。

 これが、むずかしい。
 アルコール処理能力は個人によって異なるので、一概に言えないのだ。

 体重が重いと血液の量が多いので、アルコール濃度が低くなったりもする。
 肝臓の大きさ、能力にも個人差がある。

 60~70キロの一般的な体重だと、1時間で純アルコール9グラムを代謝できる、というのはあくまでも平均だ。
 もっと早いひともいれば、遅いひともいる。

 ビール中ビン1本が抜けるのに、約2時間。
 長いような気もするが、意外にすぐ運転していい感じもする。

 慎重に考えた末、つぎの条件で実験してみることにした。
 ストロングチューハイ350を1本飲んで2時間後、コンビニまで運転してみるのだ。

 通報しますた、とリプライするのはちょっと待っていただきたい。
 なにも考えていないように見えるかもしれないが、一応、理屈はあるのだ。

 まず、私は肝臓が強いらしく、かなり代謝が速い。
 つぎに、このあたりは田舎なので、万一事故っても人を巻き込む恐れが少ない。

 酒気帯び運転なんて、どこでもダメだろ、とおっしゃる原理主義者の方。
 ぜひ、福島に原発が建てられたロジックを考えてみていただきたい。

 原発自体ではなく、立地の問題だ。
 そんなに安全なら東京につくればいいだろ、という主張が実施された場合、あの日あのとき、いかなる被害がもたらされたであろうか。

 事程左様に、リスクの高い実験ほど、都市部ではなく田舎ですべきなのだ。
 もちろんやらなければいいのだが、やるなら田舎なのだ。

 さすがに「泥酔」状態での実験は、すべきではないだろう。
 私道ならいいが、公道はまずい。

 とは思うが、公道での許容範囲がどのあたりかは、しょせん個人的感想にすぎない。
 個人的に、その境界をはかる実験だった。


 結論からいえば、ほとんど危険は感じなかった。
 だから酒を飲んで運転していいとは言わない、むしろ、だからこそ飲酒運転はいけない、という結論にいたった。

 理屈を述べよう。
 まず体内にどの程度アルコールが残留していたかだが、計測機器をもっていないので、あくまでも感覚的なものだ。

 醒めているといえば醒めているし、余韻が残っているといえば残っている。
 想像可能な酔いの残滓のなかで、運転を開始した。

 そのとき、自分が酩酊と素面の境界に挑戦していることを理解していたし、よりいっそうの集中力を保とうと気力を奮い起こしていた。
 結果として、むしろ通常の運転より変化に敏感だったと思う。

 酩酊状態でいい仕事をするひとは、脳のよけいな部分を鈍麻させて、ひとつのことに集中できるからだ、という考え方もある。
 だからといって、アルコールの力で運転に集中する、という可能性を追求すべきではない。

 言い換えれば、一点に全集中して呼吸を奮い起こさないと、テキトーな感じになりやすい身体状態だったかもしれない。
 コンビニに行くくらいなら集中力は保てても、長くなればなるほど切れやすくはなるだろう。

 酒量が増えればもちろん、まともに集中すらできない。
 だからダメなのだ、飲酒運転をしては。


 当然すぎる結論で恐縮ではある。
 そんなこと、たしかめるまでもないだろう、と思った方々。

 自分の身体でたしかめることは、とても重要なのだ。
 むかしワルかったひとのほうが、他人の気持ちがよくわかるというような話の真実味は、このあたりにある。

 麻薬をダメと言うためには、それなりに麻薬をやったひとでなければならない、とまでは言わないが、説得力ではやはり過去ジャンキーだった経験値は重要だ。
 私もできればためしてみたいところだが、まあ、末期がんになるまでとっておこう。

 飲酒によって、自分がどういう状態になるか。
 その状態での運転によるリスクを、どう考えるか。

 自らの理性によって、判断する根拠を積み重ねる。
 それが「おとなになる」「経験を積む」ということなのではないだろうか。
 


 だいぶ長いこと、ヤフーから毎月508円の請求がつづいている、と親が言った。
 あー、と思った。

 言わずと知れたヤフーの経常利益()だ。
 使いもしないヤフープレミアムを、通信契約の解約と同時に解除しないことにより、元ユーザーの懐から小銭をかすめとること。

 ヤフーBBあるあるだ。
 うちの親も、どうやらそれにハマっていたらしい。

 自分で解約すべきだが、それがむずかしい年寄りなので、こちらで代わりにやったほうが早い。
 あまり気は進まないが、メールアドレスとパスワードを教えてと言った。

 ヤフーのアドレスだけは使っているらしいから簡単な問いだと思ったが、なかなか届かない。
 しばらくすると、ガラケーで英数字が入力できない、やり方がわからない、とかいうSMSが飛んできた。

 このレベルだ。
 しかたないので、写真で撮って送れと伝えた。

 父親はスマホをあきらめたひとなので、母親がラインで手書きのメモを撮って送ってきた。
 メールアドレスのみ。

 この時点で、イラっとしている。
 メールアドレスだけで契約変更できたら世界はたいへんなことになるわ、と内心で毒づきながら、パスワードを問い合わせる。

 しばらくして、パスワードらしい文字列が伝えられるが、案の定、ログインできない。
 メールアドレス自体はわかっていて、自動ログインはできるらしいので、調べ方を教える。

 教わるまでもなく「パスワードを忘れた場合」とかヘルプが出ているのだから自分でやればいいのだが、うまくいかないらしい。
 むこうも苦労しているのはわかるが、こっちも「ホームページの画面の右下のほう」とか「登録情報という文字を探す」とか、いちいち細かく教えるだけで、じゅうぶん疲れる。

 何度も何度も同じ問い合わせをする(させる)というのは、ストレス以外のなにものでもない。
 アドレスとパスワードを送れ、了解これです、プレミアム解除完了、と3度で済むべきところを、なぜ何度も何度もやり取りせねばならぬのか?

 ほんとうに心が折れるし、しだいに、もうどうでもよくなってくる。
 何度も同じことを問い、答えさせるというのは、警察の取り調べやたらいまわしするユーザーサポートの常套手段だが、その狙いの一端は「あきらめさせる」ことにある。

 毎月500円、払いつづけるがいいさ。
 そう思ってしまう私のようなタイプは、あるべき顧客サポートや教育者というものには向いていないのだろう。

 自分にとって簡単にできることは、だれにとっても簡単にできるという思い込み。
 それを脱却して、辛抱強く同じことを教えつづけられるひとこそ、「先生」と呼ばれるにふさわしい人格だ。

 ガキと年寄りの相手は、私にはできない。
 そもそも人間と会話すること自体が少ない社会不適応者なので、しかたあるまい。

 結局、その日はあきらめた。
 方法はあるはずなのだが、やる気が失せた。


 後日、別の用事のついでがあったので、実家に寄った。
 私は引きこもりだが、用事が3つ以上重なれば、外出することもある。

 で、父親のPCから契約情報をみたところ、プレミアム登録されていない。
 ……どういうことだ?

 母親がみせた請求書と、実家が昔ヤフーBBを使っており、父親がいまでもヤフーのアドレスを使っていること。
 これらの情報から、てっきりそのプレミアムが継続されているものだとばかり思いこんでいたが。

 謎は深まるばかり。
 と思ったが、むしろシンプルになった。

 クレジット請求の場合、解約には、そもそも請求書とカード情報しか必要なかったのだ。
 「有料サービスを利用しているYahoo! JAPAN IDがわからない」場合のヘルプを検索し、その指示に従って手続きすればよい。

 自分で解除できれば即時反映だが、この方法だと利用停止まで1週間程度かかるらしい。
 ということは7月分の料金はかかるかもしれないが、それでも、何年も払ってきた無駄金を終わらせられたこと自体は、よかったと思う。


 答えにたどり着けば、予想以上にあっけない、ということはよくある。
 予断をもって物事をみると、簡単な事柄を無駄にややこしくする典型だ。

 結局、どういう理由でヤフープレミアムの課金が発生していたのかは、よくわからなかった。
 ともかく、その発生自体を消滅させることはできた。

 請求履歴とカード情報に基づいて、利用停止を申請する。
 この基本的な解決法を、もっとちゃんと広報してほしい。

 もちろん「商人」が、わざわざ経常利益を損なうようなことをするわけがないのだが。
 わけもわからず508円を貢いでいる人間の一味に、私もなりかけた。

 年寄りを軽んじている場合ではない。
 思い込みの罠に陥っているのは、こちらのほうかもしれないではないか。

 


 いわゆる「信者」が苦手だ。
 素人なりに宗教を研究してきたが、結論としてそうならざるを得なかった。

 主催者側にとって最高に都合がいい存在、信者。
 この人間に特有の生態を、宗教をはじめとした、あらゆる「マーケット」が活用している。

 活用されたくない私はもちろん、あらゆる信仰に疑いを抱くよう心掛けている。
 その一環として、アンチ・アップルになった。

 リンゴを食べないわけでも、椎名林檎がきらいなわけでもない。
 むしろリンゴは好きだし、椎名さんはもっと好きだ。

 GAFAの一角、マッキントッシュのアップル社に対する、アンチである。
 これは、あいほんが幅を利かす日本では、かなり危険な発言であることを自覚している。

 妹や友人の多くもあいほん派なので、戦いになると血で血を洗いそうな気はする。
 しかしまあ、苦手なものはしかたない。


 アップル信者とかアンチアップルで検索してもらえば、いろいろ具体例は出てくると思うので、その対立の根深さについてはここでは語らない。
 まずは「信者」がどれだけ「ヤバい」か、という概論から。

 いきなりむずかしいのは、どこからを信者と定義するかだ。
 とりあえず極端な例を出してみよう。

 ある教祖が、犯罪を犯して逮捕された。
 これにはきっと事情があるはずだ、教祖さまは罠にハメられた、たとえ犯罪者でもわれわれはついて行きますぞ、マンセー!

 これをアップル信者に引き延ばすと、こうなる。
 アップルが出したなら買う、信用する、製品に問題がある? 受け入れます!

 多くの教団や企業は、この手の信者に支えられている。
 ここまではいい、彼らも商売だし、それでいいと思っている顧客との関係は、おおむね平穏だろう。

 末端に位置する私にとっての問題は、その信者との関係性だ。
 残念ながら(幸いにも)、周囲に「信者」とまで呼べるタイプはあまりいないのだが、現に一定数実在するし、出会ったこともある。

 え、アンドロイドとか、おまえバカなの、貧乏なの、死ぬの?
 という目でこちらを見る、口にする、あまつさえ嘲笑し、書きたてる。

 そこにあるのは、一種の選民意識である、と私は考えている。
 自分はすぐれた商品を使っている、それにふさわしいすぐれた人間なので、周囲を見下していい、というわけだ。

 もちろんここは自由主義陣営なので、好きなことを考えていいし、言ってもいいとは思う。
 同時に、その被害についても、冷静に算定すべきだろう。

 もちろんアップルユーザーのほとんどは、信者ではない、まともなファンだと思う。
 ほとんどの鉄オタがまともであるのと同じだ。

 ときどきトチ狂った撮り鉄などが、被害をもたらす。
 それをもって撮り鉄全体を貶すことは、正しくない。

 どの企業や芸能人やチームや宗教にも「信者」というものはいて、自分と同じように考えない人々を敵視し、迫害する。
 語りだすと長くなるので素人宗教研究家は自重するが、そういう傾向があるという事実を、まずはご了解いただきたい。


 さて、ここまでは前座にすぎない。
 極端な信者は、ぶっちゃけ少数派なので、気にする意味も価値もない、ただのバカだ。

 と、アップルユーザー自身が言っていた。
 たまに変なやついるけど、気にしないでほしい、どこの組織にもいるでしょ、頭おかしいやつら、ぼくたちはちがうから、アップル信者をきらいになっても、アップルはきらいにならないでください!

 耳障りのいいことをおっしゃる、認めよう、さすがインテリ。
 ポリコレってこういうことかな、正解だな、えらいな(白目)。

 さて、ここはとても重要なターニングポイントなので、慎重に進めよう。
 私がここで問題視しようとしているのは、なんと、この控えめなアップルファンなのである。

 一見問題なさそうな、良識的で、社会に貢献する、アップルユーザー。
 彼らを敵にまわして平気なのか?

 あえて言おう、やつらはゲスであると!
 いや、言いすぎた。


 今回そう思ったきっかけは、教育用に購入するアイパッドの「強制」という記事だった。
 一応、文科省は、ウィンドウズ、クロームブック、アイパッドから選べるようにしてはいるらしい。

 だったら、選ばせればいいのではなかろうか。
 いかなるパソコン、タブレットであろうとも、強制してはいけない。

 公立高校で無駄に高い端末を買わされた、という記事における最大の問題は、まさにその価格だ。
 安いならともかく、高いのは問題である。

 アイパッドが使いやすい、という考えをもつひとがいるのはいい。
 が、無駄に高いことを受け入れるかどうかは、そのひと自身に選ばせるべきではあるまいか?

 信者が、アップル製品は性能が高いからと強弁するのを見ると、笑ってしまう。
 もちろん同価格帯で比べれば、性能は明らかにアンドロイドが高い。

 アップルの優位性は、性能ではない。
 端的に言おう、それは「ブランド価値」である。

 教育でブランドを強制してくるスタイル、どこかで見覚えがないだろうか?
 入試によく出題されるから、という理由で朝日新聞をとるのに似ている。

 自分たちは頭がいいエリートなので、そういうエリート仲間のために、朝日新聞とアップルはマストですぞ。
 という流れをつくりたい「信者」を、高学歴なファンたちが、背後から強力に支持しているさまが、透けて見えないだろうか?


 まあこの強制自体は、さして大きな問題ではない。
 アップル強制の学校はいくつかあるようだが、けっして多数派ではないのだ。

 終始申し上げているとおり、私が問題視しているのは、ある種の選民意識だ。
 その背後にある「うさん臭さ」と言い換えてもいい。

 被害が少ないように見える、無辜のアップルファン。
 むしろ良識的で、友達になれそうな、やさしい面構え。

 建前) いやあ、アンドロイドはすごいですね、世界の多くの国でトップシェアですし、われわれなんかただの少数派ですよ、もうシェアで勝とうとかまったく思ってないです、ほんと、まいりました。

 本音) シェア的な意味でね、どの世界、どの時代でも愚か者のほうが多いから、あなたたちが多数派なのはしょうがないですよ、われわれ少数派こそが選ばれし者、人類の未来につながる最先端にいる事実は、揺るがないですね。

 この選民意識!
 ──と、持ち前の被害妄想が暴走しはじめて、ちょっと楽しくなってきた。


 もちろん、アップルのデザイン性や操作性など、すぐれている部分を認めないわけにはいかない。
 東大生がある種の記憶力について、すぐれている部分があるのと同じだ。

 が、東大を出たからといって、必ずしも人間としてすぐれているわけではない。
 いわんやアップルを使っているからといって、すぐれた人間の一員だと?

 むしろ、それ以外に誇るべきものが見つからない人々が、ブランド価値にすがりついているかのような哀れさが、透けて見えないだろうか。
 これが、私が彼らに距離を置きたいと思う、大きな理由のひとつだ。

 一方で、彼らの信じるブランド価値それ自体も、また認めないわけにはいかない。
 彼ら自身が優秀かはともかく、たしかにそのブランドには価値があるのだ。

 そして、彼らがいいと思っているから使っているもの、これはいいものだ、という主観までは否定できない。
 彼らがそう思うなら、そうなんだろう、彼らのなかでは。


 あらゆる業界に信者はいると思うが、アンドロイド信者というのは、あまり見かけない。
 絶対数が多いのでわからないが、すくなくとも割合的には少ないだろう。

 ある意味、アンドロイドユーザーは埼玉県民、アップルユーザーは北海道民、という見方が似ている。
 地元に対する愛着の強さは、北海道が1位らしい。

 一方、私自身も長く埼玉に暮らしていて思うのだが、あまり地元を愛していない。
 親が家を建てたので住んでいたが、埼玉かるたなど、ほとんどおぼえていない。

 埼玉を貶されても、とくになんとも思わない。
 その点、千葉に似ている。

 千葉も埼玉に劣らず地元愛が弱いらしく、幾多の施設に平気で東京なんたらという名前をつけたがる人々が多い。
 埼玉・千葉どっちが上論争というのもあるらしいが、正直どうでもいい、とお互い思っているにちがいない。

 じっさい東京に近く、それなりに便利なので住んでいる、というだけのこと。
 北海道を愛している、沖縄サイコー! と思っている郷土愛の塊のような人々とは、対極に位置する県民性といっていい。

 まさに、アンドロイドではないか。
 じっさいユーザーが多く、それなりに安くて便利なので使っているだけ。

 みずから選んで使う、アップルすばらしい、という郷土愛はない。
 とくにこだわりもなくアンドロイドを使う、元埼玉県民。

 愛ゆえに、周囲にその気持ちを押しつけることもない。
 私のようなタイプの人間の目には、郷土愛に満たされた人間は、正直うざいのだ。

 ある意味、うらやましくもあるのかもしれない。
 そんなに一生懸命になれるものがあって、いいねえ。

 その一生懸命さが、ときどきカチンとくるのが、アンチとか信者という論争の要諦なのではあるまいか、というのが結論といえば結論になる。
 アンチ巨人で長らく生きてきて、ついに到達した一家言、そこんとこよろしく。

 ユダヤ人の選民意識が、彼らを悲劇の民に仕立てた。
 アップルファンが、その涙の轍を踏まないことを願うばかりだ。