私の祖母は102歳だ。
 最近、誤嚥性肺炎で入院したが、これまで何度も入院しながら生還しているので、今回もきっと不死鳥のようによみがえるだろう、という気はしている。

 この祖母のすごいところは、脳があまり衰えていないところだ。
 身体は当然、年齢相応に弱っているが、いわゆる認知症の症状がほとんどない。

 長生きすればするほど発症しやすい、認知症。
 日本国にとっての宿痾でもあるだろう、この病気を取り扱ったテレビ番組を観た。


 だれもが身近な問題としてとらえるべき、高齢化、認知症。
 これを取り扱った番組も、間断なく制作されつづけている。

 何人かの認知症患者自身、およびその家族などが登場していた番組だったが、そのなかで、とある夫婦の話が注意を引いた。
 夫は単身赴任が長く、妻は専業主婦として、しっかり家を守っていた、という。

 その妻が、認知症になった。
 完璧主義者で、とても優秀だった妻が……。

 有名な学者の例が多く知られているが、かつてすばらしく高い知性を誇っていた人物が患ったときの衝撃は大きい。
 そのあまりの落差に、周囲はそうとうな無常観をおぼえる。

 件の旦那もそうだったらしく、やがて吐き出された彼の悟りにも似た言葉に、ハッとさせられた。
 (彼女はもう人間ではないので)モノとして扱っている、と。

 この告白に対して、周囲の人々はかなりご立腹だった。
 そんなひどいこと言うたらあかん、そんなこと思うあんたは人でなしや、とハッキリとは言わなかったが、要するにそういうことだ。


 分水嶺だ、と思った。
 「人間性を問われる」。

 底は割れているかもしれない。
 この旦那を批判しないなんて考えられない、と眉を顰めるひとの表情まで想像できるが、お察しのとおり「私は旦那の側につかせてもらう」。

 ──旦那がそう思ってもしかたない。
 むしろよくそこまで割り切ったと思う、えらい。

 身近で、わけのわからないことを言いだしたり、面倒なことをやらかしたりする。
 完璧だったころの妻の面影もない、とても人間とは思えない。

 それでも彼女はただ病気になっただけなのだから、最後まで介護は引き受ける。
 ただ、あまりにも人間らしくなくなってしまった彼女のことを、もうモノとでも思うしかなくなった。

 よくわかる。
 正直に、よく言った。


 責任から逃げ出したひとに対してなら、おまえにそんなこと言う資格はねえ、と糾弾してもいいと思う。
 が、やるべきことをやっているひとに、そのうえ自由に考えることさえ否定したら、かわいそうではないか。

 うちの母親も、母親の母親、つまりばあちゃんに対して罵詈雑言の嵐だ。
 脳が無事ということは、要するに口喧嘩は自在にできるのだ。

 孫の目から見ても、あまり仲が良いとはいえない母娘。
 ではあるが、ホームや病院で手続きをしたり必要なものを運んだりと、娘としてやるべきことはやっている。

 ばあちゃん子だった私としては、祖母を擁護したいところではある。
 が、祖母の介護などろくに手伝いもしなかった私には、やるべきことをやっている母親を指弾することはできないし、そのつもりもない。

 だれにでも、好きなことを言ったりやったりする権利はある。
 多くを求めすぎてはいけない、やるべきことをやっている、それでじゅうぶんではないか。


 番組の話にもどろう。
 むろん、この旦那がひどいという視点を理解はする。

 しかし奥さんのほうも、いちいちひどいことを言ったりやったりしている。
 病気のせいだ、もちろんそれも理解はするが、やったこと自体は変わらない。

 法的にいえば、結果責任だ。
 故意・過失の有無にかかわらず、損害の発生という結果に対して責任を負う。

 さらに掘り下げれば「責任能力」の話になっていくが、事理弁識能力を欠いた彼らが発生させたなんらかの被害に対して、損害賠償責任を負わされるのは家族だ。
 ある意味、被害者でもある家族の求める賠償の形が「モノ扱い」だとして、それを責める権利はだれにもない。

 情緒的に批判している方々は、たぶん法律の話にはしたくないだろう。
 都合のいい部分だけ法律を援用しはじめると、論理が破綻しやすくなることは彼らも承知のはずだ。

 そこで彼らは、人情に訴える。
 それは「人間的ではない」という自分の基準を、周囲にも当てはめようとする。

 宗教的な信念に基づいている方々は、ともかく「自分と同じように考えない人間は冷酷非情(異常)」と断定する傾向が強い。
 一定のレベルに収まっていれば許容範囲だが、危険なのは、この信念がしばしば先制攻撃に発展しやすいことだ。

 自分と同じように考えない人間を「敵」と断定する人々は、いじめの議論などでもよく出てくる。
 彼らにとって「中立」は「敵」なのだ。


 この旦那は良くないかもしれないが、悪くもない。
 夫婦の問題は、かぎりなく夫婦に任せておけばよい。

 一線を超えたら、法律が介入する。
 逆にいえば、その一線を超えない範囲はすべて、夫婦のテリトリーだ。

 妻が認知症となったこの夫婦も、これはこれで成立しているように見えた。
 妻をモノ扱いする旦那に対して、妻も妻で罵詈雑言の批判を向けている。

 しかし、デイサービスなどで施設に行った妻は、そこで不安げに「お父さん」を探しはじめたりする。
 すくなくとも見知らぬ人々に囲まれているより、それなりに信頼すべき相手である夫のほうが、彼女にとっては大切なのだ。

 これが行き着くとストックホルム症候群になっていくのかもしれないし、共依存という状態をどの程度病理として把握すべきなのかという問題にもつながる。
 ともかく言いたいのは、各々の「価値観を押しつけてはいけない」ということだ。

 とくに「自分がいいことをしている」と思い込んでいる人間の「押しつけ」さかげんは、ほんとうに気分がわるい。
 ゾッとするレベルで、人類史を汚染してきた「狂信者」をほうふつさせる。


 さらに根本的な部分に立ち返ろう。
 「モノ扱い」はわるいことか?

 日本人は、付喪神などの伝統もあるとおり、モノを大事にする。
 独善と情緒の世界に生きている人々は、認知症のヒトを「モノ扱い」することに批判的だが、これまで「ヒト扱い」で表現しきれなかった愛情を、モノに仮託して表現しようとしているのかもしれないではないか。

 もはやヒトではなくなってしまったモノに対する取り扱いは、あらためて再考されるべきだ。
 露悪的な言い方をすれば、殺したり傷つけたりしたら殺人罪等に問われる危険物、という認識もあっていい。

 もちろん症状の程度にもよるのだが、人間らしさをなくしたモノを、どう愛すべきモノに変えていくかは、重要な発想の転換をはらむと思う。
 まさに「モノを、どう愛するか」という伝統芸に絡むのだ。

 モノ扱いの時点で袂を分かった人々とは、なかなか話がかみ合わないだろうと理解はしている。
 それでも考え方は個人の自由だし、無理してどちらかに寄せる必要はない。

 どこに「超えてはいけない一線」を引くかは、法律に任せておこう。
 盲目的な「法家」もどうかとは思うが、現状ではそれが無難だと思う。

 結論。
 やるべきことをやっているかぎり、だれにも文句をいわれる筋合いはない。
 


 前回、軌間の問題についてちょっと触れた。
 東京の電車に乗っていると、さまざまな幅のゲージに触れる。

 標準軌、馬車軌道、狭軌が代表的だが、特殊狭軌(762ミリ)というのもあるらしい。
 それ以外にも新交通システムなど走行方式にはいろいろあって、乗っていてちょっとした楽しみになるとかならないとか……。

 いや、ならない。
 むしろ害悪だ、という件について今回は書いてみたい。


 有名な悲劇だが、2005年、福知山線で百人以上が犠牲になる脱線事故があった。
 あれも標準軌だったら問題なかったはずだ、狭軌だからこそあの速度で脱線したのだ、という主張には部分的に同意する。

 数学に詳しい人が、標準軌での当該カーブにおける限界速度など計算しているサイトを読んだが、たしかにそうなのだろう。
 そうなのだろうが、「いまさらどうしようもないこと」に突っ込んでも、それこそ「どうしようもない」。

 標準軌なら限界速度がさらに高く設定されていたかもしれず、過密・速度勝負の土俵に上がってしまったこと自体を問題視すべきだ、という意見もまた正しい。
 標準軌は標準軌でいくらでも事故はあるし、高速鉄道は速度が出せるだけに、むしろ万一の場合の被害は大きかろう。


 軌間の問題で、よく語られるのが性能の差だ。
 狭軌は小回りが利くとか、標準軌は高速安定性が高いとか。

 戦前の時点なら、大きな機関車を積む必要などから、たしかに標準軌のほうが有利だったかもしれない。
 それを補って余りある「コスト」の問題が、当時は大きかったのだろう。

 何度か改軌のチャンスはあったが、ことごとくフイにした。
 それでも、与えられた環境でベストを尽くす日本の変態的技術者たちの努力のおかげで、現在、性能面における差はほとんどないといっていい。

 TX(つくばエクスプレス)やNEX(成田エクスプレス)はヤバい速度を出す(130km/h)し、いまはなき在来線特急「はくたか」は事実、160km/hで走っていた。
 現在、在来線で同じ速度を出せるのはスカイライナー(標準軌)くらいだが、最高速を出しているのは印旛日本医大-空港第2ビル間のみで、表定速度(停車時間も含む平均速度)はスノーラビット(狭軌)にも劣る。

 もちろん、だったら狭軌のほうがすぐれているのかといえば、そんなわけはない。
 デメリットを必死にカバーしたおかげで、なんとか私鉄に伍しているという程度だ。

 小回りが利くとか、バカげた話だと思う。
 そもそも狭軌でなければ曲がれないようなカーブ、見たことがない。

 なぜ標準軌の京急が18メートルで、狭軌のJRが20メートルの車体長なのか?
 小回りを利かせたいなら、車長だって短くしたほうがいいに決まっている。

 関西の路面電車に乗ってみればわかるが、多くが標準軌だ。
 低速運行を旨とする路面電車すら、標準軌で問題なくやれている。


 問題は、そんなことではない、そんな些末なことはどうでもいい。
 そもそも狭軌と標準軌、ついでに馬車軌道が混在していること「それ自体」が、最大の問題なのだ。

 いうまでもなく、軌間の異なる区間には物理的に乗り入れができない。
 本来なら相互乗り入れができる、したほうがいい区間であっても、議論の余地なく「できなく」している最大の元凶、それが軌間問題なのである。

 相模原(橋本)から花の都大東京に向かって乗ってたら、いつのまにか千葉まで連れていかれたぜ、本八幡ってどこだよ!?
 と周囲を見まわす男を、なぜ成田まで連れて行ってやれないのか?

 なぜなら新宿線は本八幡が終点で、そこから先は総武線(狭軌)にも京成線(標準軌)にも、つなげようがないからだ。
 新宿線が無理やり京王線に合わせたとしても、そのゲージはあまりにも独自すぎる天下の変態規格・馬車軌道なのだった。

 本八幡から新鎌ヶ谷に直通する千葉県営鉄道の計画がポシャッたのは馬車軌道のせいだ、とまでは言わないが、もしすなおに標準軌に改軌していれば、夢は東へ西へ広がった。
 本八幡で京成に乗り入れて高尾山まで往復することもできたし、馬喰横山で浅草線に直通することだってできただろう。

 もはや夢、フリーゲージトレインでもないかぎり、つなげようがない。
 そういうの、もうやめないか。

 百年の失策とよくいわれるが、百年どころではあるまい。
 当時の関係者と同様の思考回路を有する現代人の方々には、猛省を促したい。

 自分のところに鉄道がくれば、将来の国がどうとか関係ないよ!
 無駄でも公共事業くれよ、将来の世代にツケとか関係ないよ!

 そういう人。
 頼むから。


 さて、ここまでは異なる規格で「会社が困る」話をした。
 間接的にはそのコスト体質によってユーザーも困っているはずなのだが、以下まさに直接的に困る規格の話につなげよう。

 部品は共用したほうがコストが安くなる、常識だ。
 異なる規格を各社で出したら、悲惨な目に遭うのはユーザーだ。

 EUは言った、これからのUSBはタイプC以外に認めない。
 そのくらいの強権を発動してでも、規格は統一すべきなのだ。

 古いタブレットを取り出してきて活用しようと思ったら、アダプタがない、充電できない。
 ソニー専用、東芝専用、富士通専用……ふざけんな! と憤慨したユーザーは、私だけではないはずだ。


 なんで掃除機を買うのに、マキタにするか日立にするか、こんなに悩まなければならないのか?
 バッテリーだ!

 どっちかの会社の工具を買ったら、その会社を使いつづけるしかない。
 最初に付き合った男に一生引きずられるタイプの女に似ている(いや似ていない)。

 最近、母親に日立の掃除機を買ってやった私だが、妹にはマキタの掃除機を勧めた。
 両社のバッテリーが共用できないことに買ってから気づいた、と言いたいところだが、そのまえに気づいてはいた。

 諸般の事情から異なるメーカーになったわけだが、内心忸怩たるものがある。
 自分の会社の製品を買わせつづけるために用いる「専用規格」、このような邪悪な手法にズブズブになっている連中には、いつか思い知らせてやりたいと思っている。

 もちろん互換バッテリー以外に買う気はない。
 こんな邪悪な「囲い込み」をする連中の純正品を買って、一円でも多く渡したくはないからだ。


 プラグの幅とか、バッテリーの形とか、そんなもので独自色を出してどうする?
 前世紀からずっと言いつづけていたことだが、機能とか価格とか、そういうもっと重要な部分で競争してくれまいか?

 汎用品に必要なのは、まさに「汎用性」なのだ。
 専用にしていいのは、シャアのザクだけと知れ!
 


 最後の五反田講義に行ってきた。
 緊急事態宣言中なのでクルマだ。

 これまでは木曜の夕方から講座開始だったが、今回は土曜の昼からというこれまでにない時間割だった。
 毎回、方法を変えて行くという自分に課したルール通り、選定した最後のルートはシンプルだ。

 松井田妙義から乗り、練馬で降りる(高速道路)。
 光が丘から乗り、五反田で降りる(都営地下鉄)。

 ちょうど土曜なので30%の休日割引が使えるなと、ちょっと得した気分だったが、いきなりつまずいた。
 9月26日まで休日割引の適用除外を延長する、らしい。

 というわけで満額払って練馬まで行き、あらかじめ調べておいた格安の駐車場に入れようとしたら、満車。
 しかたなく近隣のやや高い駐車場を探してから、光が丘駅へ。

 得した気分を吹っ飛ばされつつも、現在書いている小説でイベントのある土地なので、時間の許す限り取材(徘徊)した。
 講座に参加した目的のひとつが、東京のいろんな土地、駅、電車に乗ることでもあったので、最後もちゃんと仕事ができてよかった。


 さて、ここからは鉄道の話なので、興味がない方はすいません。
 光が丘は都営大江戸線のターミナルで、大泉学園に向けた延伸計画もあるらしい。

 そんな話が出るほど財務体質が改善したのかと隔世の感をおぼえるが、そもそも都営地下鉄の4路線は、そのすべてが異なる規格という、コスト体質のカタマリのような業態だ。
 営団(東京メトロ)が引き受けなかったのも、むべなるかなといったところか。

 たとえば浅草線は、京成と京急をつなぐため、1435ミリという標準軌を採用している。
 同様に新宿線は京王線とつなぐため、1372ミリという変態規格(馬車軌道)を採用。

 三田線は日本では一般的な狭軌(1067ミリ)で、東急(目黒線)とつながっているが、当初は東武(東上線)ともつなぐ予定だったらしい。
 池袋に乗り入れないなど東武にとってメリットが少ないため、現在はシンプルな状況となっている。

 このように都心の地下鉄は、近郊の私鉄をつなぐという存在理由を課されているわけだが、今回利用した大江戸線に関しては、この目的に当たらない。
 完全に独立した路線なのだ。

 よって「鉄輪式・リニアインダクションモーター推進方式」という変態的な方式を採用しても、他社に迷惑がかからない。
 いや、メンテナンスなどのため他の路線に乗り入れる場合については牽引してもらう必要があるが、それも標準軌の路線に限られるという厄介者ぶり。

 軌間という問題について語りだすと長くなるので今回は控えるが、わるいのはだいたい大隈重信と原敬、という意見には同意する。
 せめて修正のチャンスをつかみ、後藤新平に仕事をさせるべきだった……。

 ともかく、いろいろあって厄介な状態になっている都心の地下鉄業界において、莫大な借金を抱えていた都営地下鉄だが、最近は黒字化してきているらしい。
 このままいけば東京メトロと一元化することも夢ではないようだ……が、いまさら感はある。


 などと考えながら、五反田に向かうべく大江戸線に乗った私は、時間もあったため、JRに乗り換えるという選択肢を排し、そのまま大門へ向かった。
 このあたりの地下は深い。

 40メートルを超える深さで知られる六本木をはじめ、麻布十番、青山一丁目、大門など、周辺の地下鉄駅は軒並み、かなり深い場所にある。
 大江戸線大門駅は、エスカレーターを二回、上がらなければ浅草線に乗り換えられないなど、その深度差を体感させてもらった。

 こういうダンジョン感は、けっこう好きだ。
 毎日使っている人にとっては、乗り換え時間が長くなればなるほどイラつくことだろうが、たまに冒険したい(エセ)乗り鉄にとっては楽しい。

 ちょうど浅草線の大門駅で停車していた、京急の赤い車体に乗り込む。
 目指すは三崎口。

 都心を走る列車とも思えないボックス席のハンドルに手をかけて、身体を支える。
 なんとなく1駅乗って、三田で降りた。

 乗る前からわかっていたが、京急で五反田には行けない。
 それは「京浜急行」だからだ。

 乗り入れ割合はよくわからない。
 馬込の車両基地という用途はあるので、まったく走らないということもあるまいが。

 三田のホームで浅草線を待っていると、つぎにやってきたのは誇らしげに「北総鉄道」の看板を光らせる灰色の車体だった。
 どうやら羽田に向かうらしい。

 なつかしいなと思いながら(もと鎌ヶ谷市民だ)見送っていると、ほどなく浅草線の朱色の車体がやってきた。
 安心して乗ったところ、泉岳寺どまりの回送車両だった。

 しかたなく降りて、向かいで待っていた当駅始発の西馬込行きに乗った。
 五反田まで2駅。

 揺られながら、いわゆる「浅草線」について、泉岳寺から先を切り離して「五反田線」にでもしろ、という意見は正しいような気がした。
 そのくらい浅草・泉岳寺間を走っている列車の需要は「羽田」や「横浜」や「成田」に偏っていて、西馬込から泉岳寺までの路線は「ローカル支線」にすぎない。

 そもそも大半のひとが五反田で降りるので、それ以外の駅は「池上線みたいなもの」といえば目安となるだろうか。
 などと考えながら、目的地に着いた。

 この短い期間に、まあまあいろんなことがあって楽しかった。
 やはり鉄道は乗ってナンボだな、と思う。

 たぶん、私のような目的や興味のないひとが乗ったら、めんどくせえ、ややこしい、どうでもいい、とげんなりするだろう。
 気持ちはわからないでもないが、興味をもって向き合うと、つまらない場所におもしろいものを見つけられたりするかもしれませんぞ。


 最後に鉄道ミステリの大御所、西村京太郎先生の名言を紹介しよう。
 作中に一か所、鉄道的に「まちがっている」ことを書くと、すこしだけ売り上げが上がる、という。

 どうやら「突っ込みたい鉄オタ」需要というものがあるらしい。
 鉄オタの業の深さを思い、ちと笑ってしまった。

 私もこの短い文章中に一か所、まちがっている、というか記憶が正確ではないかもしれない表現を残している。
 ちゃんと調べて正確に書き直そうかとも思ったが、あえて残すことにした。

 それはないだろ、と気づいた暇なひとは調べてみていただきたい。
 私はあのとき、いったい……。
 


 私は商人がきらいだが、商売というゲームを否定しているわけではない。
 できるだけ安く買い、できるだけ高く売る、というゲーム的な要素には実利にとどまらないおもしろみもあるだろう。

 市場参加するのに資格はいらない。
 このあたりに問題の萌芽がありそうだ。

 私のような価値観の人間にとって気になるのは、商品の価値を「見る目」のない人間の入札だ。
 これが、ちょっと気持ちわるい。

 たとえば1円スタートの商品がある。
 私はその商品の相場と写真と説明から、この価格なら購入してもいいという価格で入札する。

 あとは待つだけだが、しばらくして、その商品の入札回数が数十回に及んでいるのを見て驚く。
 そんなに何十人も欲している人がいるのか、と。

 しかし入札履歴を参照すると、2~3人しかいなかったりする。
 要するに、私以外のだれかが、何度も何度も何度も入札しているわけだ。

 ちょっと意味がわからない。
 その商品の価値を判断して、入札しているんじゃないのか?

 そうではない。
 安いから買う、値上がりした、まだ安いから買う、というだけの入札者なのだ。

 ひらたくいえば、長期的な視点を持たず、場当たりの判断をくりかえしている、ということだろう。
 いくらまで出していいかではなく、いまいくらもってるか、しか考えていない。


 同じようなタイプの人間は、世の中にいくらでもいる。
 というか、むしろ多数派かもしれない。

 携帯電話料金で2年縛りがあったころなど、私はその支払総額から価値を判断していたのだが、一般には目先の支払額が低いほうが集客効果が高いらしい。
 トータルいくら払うかよりも、高い商品がいますぐ手にはいる、ということを重視するわけだ。

 ひとは都合のいいことしか見ようとしないし、売る側もそういう目につきやすい売り方をする。
 釣り糸を垂らす人と、そのエサに集まる人々。

 その場が良ければいい、目のまえの快楽を追求する。
 そういう生きざまについて考えると、なんとなく払えるうちは再入札、というスタイルも理解はできる。

 どんなふうにゲームをするのかは自由だし、そういうひとを許容するルールなのだから、勝手にすればいいとは思うが、それを「気持ちわるい」と思うのは私の勝手だろう。
 だれかと競うのがオークションの基本なので、ほんとうに欲しいひと同士が価格を釣りあげていくのは、本来的ではある。

 だが、安価な実用品・消耗品への入札と、高価な嗜好品・美術品の競り合いを、同列にはできない。
 日用品への入札を連打しているひとの親の顔を、なんとなく見たい気はする。


 さて、私は購入だけでなく、たまに出品もする。
 で、安めの適正価格をつけるのでたいていすぐ売れるのだが、あまり注目されることのないジャンルだと、しばらく売れないこともある。

 で、その商品に「値下げのオファー」がきた。
 イラッとした。

 すでに安めの適正価格をつけているのに、さらに値下げしろってなんだよと。
 あくまでもネットなので、必要な情報が完全に伝わっていない可能性はあり、そのリスクに対して値引きを要求するというのは、もちろんありうる。

 値引きのオファーができるシステムのサイトを使っているのだから、そもそもオファーはあってしかるべき、ということも理解はしている。
 それでも、即決で売りたいだけの人間にとっては、うざい。

 出品時に、価格の相談を受けないように設定したはずなのだが、それでもオファーが届いた。
 よく見たら「気軽に」受けるかどうかを問われていただけで、値引きシステムそのものは拒否できないらしい。

 即座に拒否してやったわけだが、ほどなく提示価格で落札された。
 にしても、この「値引きを要求しないと損だ」という空気、なんなんだろう。


 冷静にみると、値引きというシステムそのものは否定しづらいというのが、わかってくる。
 どうやら多くの出品者が「値引き交渉を前提に高めの値段をつける」ということをしているようだという事情も、見えてくる。

 システム上で簡単に交渉できるか、コメントでやりとりするか、サイトによってカラーはあるが、かなりの確率で値引き交渉は「是」とされている。
 たぶん、こっちのほうが世界標準なんだろう、と認めざるをえない。

 交渉しないで言い値で買うなんてバカ、という雰囲気の国もある。
 どうやら我が国も、そちらの方向に舵を切っているらしい。

 世の中は、商人が主人公になる世界へと向かっている。
 そんな気がして、ぞっとした。

 商人や政治家を嫌悪する私のような人間が、ただの少数派なのか絶滅危惧種なのか。
 その正確な統計は、人類社会の未来を照らす鏡のような気がしてならない。
 


 アメリカの駐日大使が、エマニュエル氏になったらしい。
 その剛腕から、異名はランボーだという。

 もう私の脳裏には、「怒りのアフガン」しかなくなった。
 ようやく米軍もアフガニスタンから撤退したようだが、怒っているのはだれだろう?

 昭和を知らない若い人のために説明しておくと、映画『ランボー3』の日本でのサブタイトルが「怒りのアフガン」だ。
 シルベスタ・スタローン扮するジョン・ランボーが、アフガニスタンにトラウトマン大佐を救出に行く、というストーリーである。

 あらためてウィキで調べたところ、1990年度のギネスブックに「最も暴力的な映画」として認定されたらしい。
 全101分の本編で108人の死を描くからだという。


 そのアメリカで最近、ようやく進化論を支持する人々が過半数を超えてきたらしい。
 ちょっと昔までは、さらにひどい状況だったということだ。

 このように科学的知性が足りない国でも、腕力が強ければ、その暴力によって他国を屈服せしめ、自分が正しいと相手の首根っこを捕まえて吐かせることができる。
 ということを日本は約70年ほど前、思い知った。

 おそろしい話ではあるが、当時の社会状況を鑑みればやむをえない。
 もっと昔、モンゴル帝国や十字軍のレベルになってくると、もう吐き気を催すような略奪と侵略の記録のオンパレードだ(原爆や東京大空襲も、じゅうぶんに吐き気は催すが)。

 要するに人類はだいぶ愚かしく、容易に狂気に感染しやすい生物、と認めなければならない。
 手痛い教訓をもって、過ちはくりかえしてほしくないものだが、前述のとおり「知性の足りない」やつらに勝たせてしまったことは、のちのち大きな禍根になりかねないので注意が必要だろう。

 なにしろ彼らは「勝てば官軍」だと思い込んでしまったので、以後、軍産複合体による利害調整、つまり「戦争」という道を好んで選択するようになった。
 ヴェトナムにしろイラクにしろアフガンにしろ、この儲かる「マーケット」にどれだけの「マネー」が流し込まれたか、想像を絶する。


 さて、その愚かしい人々の知性も、ゆっくりとだが上昇はしている。
 主要国で進化論を支持する割合は、米国64%、英国73%、カナダ77%、ドイツ81%、日本88%らしい。

 これは進化論を完全に理解するとか、部分的な瑕疵を論じるとかいうレベルの話ではない。
 いわゆる進化論的な「科学的合理性の高い世界観」を支持するかどうか、つまり「多少なりとも科学への理解がある人々」の割合を意味すると考えていい。

 突然、どこぞからヒゲを生やした神さまがやってきて、箱庭できろ、よし、と中2病っぽいことを言ったりやったりした、と信じている人々が、まだまだたくさんいる。
 もちろんこれは「科学」ではなく「神話」だ。

 その意味で、日本の残り12%の人々は、いったいなにを信じているのか、ふしぎな気持ちにはなる。
 イザナギとイザナミが池をかきまぜてできた、とでも信じているのだろうか。


 誤解のないように言っておくと、宗教的原理主義者がつねに危険だと言っているわけではない。
 現に原理主義者が多い共和党の進化論支持派は34%にすぎず、リベラルな民主党での支持者は83%だが、日本に原爆を落とせと指示した大統領は民主党から出た。

 そもそもアメリカ人が危険、という説はつねにある。
 なにしろ先住民を冷酷非道に駆逐し、略奪して建てた国民国家の末裔だ。

 冷静に考えて、彼らが倫理的であるわけがない。
 むしろ倫理や道徳なんかなくても、腕力が強ければ自分が正しいと言い張れることを、何百年もかけて証明してきた。

 だから彼らは、世界最強の軍備をつねに保っていなければならない。
 いつやり返されてもおかしくないと本能的に理解しているので、そうしなければ不安で夜も眠れないだろうからだ。


 勝ったほうが正義という原理は、古代から現在の国連憲章にまで受け継がれている。
 ただし現在、それが死文化、形骸化していることも事実だ。

 彼らが人類史における悪弊の最後の例証になってくれることを、切に望みたい。
 せめて武力の使い方を、もうすこし巧妙にしていく知恵をつけていく段階に、現在あるように見受けられる。

 武器を買わせるため、死の商人たちがどれだけのことをやらかすかは、この話のなかでもっとも吐き気を催す部分である。
 最悪の部類にはいる「商人」について語りだすと長くなるので、またにしよう。


 この最強軍事国家と日本は仲良しらしいが、私は懐疑的だ。
 もっとほかに、仲良くすべき相手はいると思う。

 イスラーム、ではない。
 そもそも私は、一神教の国家を強く警戒している。

 私のようなタイプが仲良くできると考える相手は、正直かなりの少数派だ。
 だからこそ、必然不可避に引きこもっている。

 狷介な姿勢を貫き、無駄に敵をつくるアスペに、多くのひとが距離を置く。
 安心してほしい、そのうち孤独死する予定だ。
 


 PCの寿命は5年、という説がある。
 入門機のスペックだと、そうかもしれない。

 そんなCPUで出していいのかよ、というレベルの格安PCが「現行機種」として売られている。
 10年前のハイスペック機にも劣る性能だが、そもそも設計思想が異なる(安価・省電力)ので、それはそれで需要はあるのだろう。

 この手の入門機を、5年以上使うのは、さすがに厳しい。
 言い換えれば、ある程度の高コスパ機であれば、販売から5年どころか7~8年、場合によっては10年は使えると考えていい。

 もちろん用途にもよるが、私のように調べ物や文書作成程度であれば、そもそもの時点でオーバースペックが顕著だ。
 メモリ? 4ギガでじゅうぶんですよぉ。


 ここ十数年は、3世代(3年前)ほど型遅れの中古品を、発売時の数分の1の価格で買い、2~3年ほど使う、という方法でやりくりしてきた。
 現在はHPのトリプル画面出力の省スペース型を、メインPCとして使用している。

 これが安かった。
 おそらく会社などで使っていたPCだと思われるが、セキュリティのため記憶装置を取り除いた中古で、当時は半導体需要の逼迫などという事情がなかったため、おそろしく安かった(オークションで5000円くらいで落札した気がする)。

 もちろんSSDを用意するとか必要に応じてメモリを増設するとかOSをクリーンインストールするなどの手間はあるが、慣れればたいした作業ではない。
 この方法だと、準1線級のスペックが、ほんとうに安く実現できる。

 まあまあな性能を、かなり安く準備する最適解。
 なのだが、最近その法則が、ムーアの法則以上に通用しなくなってきている。

 出物自体はあるのかもしれないが、なかなか見つからないし、全体的に高い。
 リモートワークと世界的な半導体需要の逼迫は、自作PC業界(?)を直撃している。


 ゲーム機が買えない、というのもこの理由によるだろう。
 スイッチはふつうに手にはいるようになってきたが、PS5になるとまだまだ高嶺の花緒が切れる。

 言うまでもなく、コロナという引きこもり傾向が、需要を下支えしている。
 コロナ以前の中古が、ふつうに当時より高かったりする。

 あきらかにおかしい。
 中古PCのパーツなど、時が経つほど型遅れになり、劇的に安くなって当然なのに。

 おかげで私のライフスタイルも、変更を余儀なくされている。
 3世代くらいまえの高コスパ機を中古パーツでそろえ、現行型にもまあまあ通用するPC環境を激安で組み立てる、というスタイルだ。

 冒頭に書いた入門機など、安くなっている筐体もあるのだが、私がそろえたい「高コスパ機」においては、軒並み高止まりしている。
 価格がこなれるのを待つ、という戦略は一時的に破綻していると考えてよさそうだ。


 いまこの文書を書き込んでいる、2年前に買った当時3年前のPCも、文書や動画程度にはじゅうぶんすぎる性能はある。
 そもそもゲームをしない人間だから、パスマーク5~6000もあれば日常の作業など余裕だ。

 最先端のゲーミングPCで、ベンチマーク何万もたたき出す必要性が、そもそもない。
 電気代もバカ高くなるし、むしろ低電圧の静音PCのほうが需要があるくらいだ(現にサブ機の思想はそちらに振っている)。

 とはいえ、つくりたい高コスパ環境。
 ナードというほどではないが、ガジェットに志向のあるタイプの男としては、たまに沸き起こる衝動をもてあます。

 世界がもうすこし落ち着いてきたら、また「1万円でできる最高の環境」を整えたい。
 それまではいましばし、5年前のi5にがんばってもらうとしよう。
 


 首相が総裁選挙に出ないらしい。
 直前までその気配もなかったようなので、経済界に激震が走った。

 金曜の日経平均は後場だけで500円以上も上昇。
 なかなかおもしろい週末の様相となっている。

 彼がやめることを決意したのには、さまざまな「圧力」があったらしい。
 そのまえの横浜市長選など外堀は埋め尽くされた感もあるが、結局のところ死に体と化した総理大臣に、他の選択肢はなかったものと思われる。

 「お前といっしょに河野まで沈められねえだろ」。
 と、麻生氏は協力を拒絶した。

 安倍氏も、党人事への協力を拒絶したという。
 菅くんよ、あんたじゃ戦えないんだ、引いてくれ、という意味だと思う。

 けっして「命令」されたわけではないが、むしろ命令されるよりきつい決断だったかもしれない。
 だれかのせいにできる逃げ道は、トップには最初から封じられている。

 孤立無援で、ひとり辞任を決めた。
 これ自体に、私は強いシンパシーをおぼえた。

 もちろん私とは立場も状況も、なにもかもちがうわけだが、いかなる未来であれ「自分で決める」ことに、強く共感する。
 他の道を封じられていたとはいえ、ぶざまにあがくことなく裸の王様が「自分で決めた」のだ、敬意を表すべきだろう。


 私は、命令されるのがきらいだ。
 世の中に一定割合いると思うのだが、まさにそのなかのひとりである。

 だからといって人事のトップに向いているとは思わないが、すくなくとも自分自身に対する全責任を負い、みずから決めることができなければ、孤独な作業にも耐えられない。
 逆に言えば、他の選択肢がないので、孤独に引きこもって仕事をするしかないだけなのだろう。

 このようなタイプの人生行路としては、トップに立つか、孤独を貫くか、どちらかにならざるをえない。
 どちらも同じようなものだが、これ自体、尊重されるべきひとつの生き方だと思う。

 世の中には、まったく逆の人々もけっこう多いらしい。
 命令してもらったほうが楽、会社の歯車として役割をまっとうしたい、というマスプロ教育の成果は、現に戦前から戦後の日本を支えてきた。

 私のようなタイプは、最初からその世界観からはじき出されている。
 従順な人々にむけてつくられた多くのルールに、なじむことができない。

 「ひろえ」と命令された時点で、タップしたくなくなるスマホゲームの話は、どこかでしたような気がする。
 なつかしいCMでセガタ三四郎が「セガサターンしろ」と歌うシーンがあるのだが、その時点で、セガサターンぜったい買わねえと心に決めた(もともと買う気はなかったが)。

 もちろんセガタ三四郎という名前にかけたダジャレにすぎないことは理解しているが、それでもカチンとくるくらいには、命令文に対する反発がある。
 とくにクソ商人が、自分の利益のために「しろ」とか「買え」とか、もうその時点で無理だ。


 私もいいおとななので、世の中に「命令」が必要であることは、重々理解している。
 それが完全になくなったら、たいへんヤバい社会になるだろう。

 積極的に命令すべきときもある。
 防災における避難命令など、むしろもっと強い口調で命令してもいいくらいだ、と311の動画などを見ていて思った。

 要するに、その指揮命令系統にどれだけ説得力があるか、という話だ。
 セガタ氏が、私に対して、自分はあなたに対する指揮命令系統の上位に当たるのですよ、という事実を(それが事実であるなら)きちんと証明してから、セガサターンしろ、と命じてくるなら、承知しました、と受け入れたかもしれない。

 納得さえできれば、どんないやなことでも(限度はあるが)受け入れる程度には、社会人の常識を踏まえている。
 これは人間が生得的にもっている社会性といってもいいだろう。

 たとえば、私が軍隊にはいった場合、上官が殺せと言えば殺す。
 この点、残念ながら認めざるを得ない。


 これは「諸刃の剣」だ。
 人はいかなる「悪」も、命令されたという理由のみをもって、行使しうる。

 ハンナ・アーレントが書いていたような気がするが、ユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンが「命令されたから」と宣った、それはある意味で「正しい」と。
 ユダヤ人社会からはだいぶ叩かれたようだが、的確な指摘だ。

 もちろん大量虐殺が正しいわけはない。
 あくまで、彼がそれを実行した理屈には、それなりの整合性があるということだ。

 命令されたら、やってしまう。
 このことには、非常な危うさがあると思う。

 なにしろ、命令型そのものに拒否反応を示す私ですら、正当な指揮命令系統に納得さえしていれば従うだろう、と推察しうるからだ。
 いわんやワケもなく命令されて、さしたる疑問もなしに従う朴訥な世間の羊たちにおいてをや、社会がどれだけ一方向に突き進みやすいか、想像するに余りある。


 その点、こたびの首相辞任は、いかなる経緯であれ「みずから進退を決めた」ことそのものに、強い共感を示したい出来事だった。
 いつか評価される日がくればいいな、と思わないこともないような気がする……。
 


 私は映画と読書を趣味にしているが、それらに勝るとも劣らない趣味がある。
 寝ることだ。

 人生は3分の1も眠っているのだ、もったいない、と言う人もいる。
 私に言わせれば、それしか寝られないのか、もったいない、だ。

 ひとり静かに眠らせてくれる環境ほど愛すべきものは、この世にあるまい。
 やがて、ひとり永遠に眠るときの予行演習だと思うと、よけいにいとおしい。


 睡眠の質はとても大事だと思うし、それなりにお高い枕を使ってはいるが、それ以外はふつうの品物だ。
 膝の下に枕を入れる、という手法以外は、特段変わった寝方はしていない。

 その寝ている時間を最大限有効活用するために、多様な「音」を聞く。
 昭和歌謡とか怪談とか、その時々の流行で流す音は異なるが、たぶんいちばん長い時間を費やしているのが、落語だろうと思う。

 冒頭に書いた「趣味」は、視覚を動員しないと成立しない。
 一方「音」のほうは、目を閉じていてこそ真骨頂だと思う。

 というわけで、控えめに見積もっても、私の人生において、読書をしている時間より落語を聞いている時間のほうが長い。
 まあ大半は寝ているので、脳の稼働率を比べれば比較にはならないが。


 で、そういうひそかな落語趣味の私が、名人と認め足を向けて寝られない人物が、5人いる。
 この5人の落語を聞くことで、私の睡眠時間の半分が埋められているといっても過言ではない。

 東京には、落語芸術協会というものがある。
 検索したところ、現在は笑点で知られる昇太さんが会長らしい。

 親しげに書いているが、もちろん春風亭昇太氏と個人的に関係はない。
 ただ、大きなことを言うようだが、彼の師匠は、わが国では……私の祖父にそっくりだ。

 春風亭柳昇がご存命のころから、彼の落語はほんとうに好きだった。
 外見や雰囲気が祖父に似ていたから、というのも一因だったかもしれない。

 戦争をネタに落語をしている柳昇と、支那戦線で戦った祖父の話が、たまに重なる。
 なので、昇太氏は私の祖父の弟子なのだ、と錯覚することが……いや、ないが。


 閑話休題。
 落語芸術協会になぞらえて、私が認める5人の名人を分類してみた。

 「落語」に偏った人か「芸術」に偏った人か、という分類だ。
 落語はおもしろく、芸術はすばらしい。

 筆頭に挙げる名は、余人の追随を許さない大名人。
 彼なくして、私の落語趣味は語れない。

 いちばん好きな「落語家」であり、一丁入り(出囃子)を聞いただけで心が沸き立つ。
 尋常ではなく「おもしろい」天才、古今亭志ん生(5代目)の名を、まずは「落語」側の筆頭として挙げたい。

 彼について語ることはあまりにも多いので、ここでは触れないでおく。
 同じネタを何度聴いてもおもしろいのだから、天才と呼ぶ以外にない。


 一方「芸術」側の筆頭には、三遊亭圓生(6代目)を配したい。
 落語協会分裂騒動や三遊亭の所業については残念なところもあるが、当人の「芸」についてはすばらしいの一語に尽きる。

 正直、彼の話を聞いて笑ったことはあまりない。
 が、しばしば感心させられる、という意味で「芸術」的だ。

 私は知的好奇心を刺激されると必要以上に感心するタイプなので、その意味で圓生とは「合った」のだろう。
 持ちネタの多さは圧倒的で、いまではだれも演じないような演目の資料的価値は非常に高く、たまに聴いて感心している。


 東の落語家ばかりを述べたが、西にももちろん名人はいる。
 調べたところ、江戸落語家の圓生も出身は大阪だった。

 芸術寄りの落語家として、西の代表格は、桂米朝(3代目)だろう。
 この人が「発見」した古典落語は尋常ではなく、口演も神業がかっており、人間国宝に値する。

 圓生同様、感心はするのだが笑いどころはあまりない、ということで「芸術」寄りだ。
 反対に、「落語」寄りでそれなりに笑える名人として、古今亭志ん朝(3代目)を挙げる。

 私は縁故主義に批判的であり、ろくでもない二世・三世議員やタレントについては吐き気しかおぼえないわけだが……志ん朝は別格だった。
 唯一無二の天才と認める志ん生の息子であり、ふつうに考えれば親が天才で大変だったね、で終わりそうなところだが、志ん朝はほんとうに「おもしろい」のだ。

 それに気づいたとき、私は「血」の効果について、しばらく真剣に再検討したくらいだ。
 結論としては、志ん朝が特殊すぎる例外、ということになったわけだが、ともかく彼の落語はじつにおもしろいので、ぜひお聞きいただきたい。


 ここまで「芸術」寄り「落語」寄りの名人たちを列挙してきたが、最後に、芸術的でありながらきちんと落語でもある、早世の天才・桂枝雀(2代目)を挙げておこう。
 非常にバランスのとれた落語家といってよい。

 幅広い話種を演じこなし、芸術的でもあるが、笑いどころもきちんと押さえている。
 とくに妄想爆発な変人の表現が秀逸で、思わず笑ってしまう。

 真摯に一つ事を追求しすぎて自殺してしまった人、という典型ではなかろうか(うつ病で自殺を図り、1999年に死去した)。
 天才の脳には病的なところが必ずあって、それが現に生き死にを決してしまうこともある。

 枝雀師匠の「緊張と弛緩」、ストイックに極めようとした「笑い」の極意は、われわれ自身が彼の芸から類推すべき深みに沈潜している。
 彼の話芸に悲しみを読み取ってしまうのは、こちらの勝手な都合だ。


 まとめよう。
 芸術寄りから落語寄りへと順に、圓生・米朝・枝雀・志ん朝・志ん生。

 笑いたいときは志ん生、感心したいときは圓生、両方を兼ねたいときは中間のどこか。
 そういう聴き方で、睡眠時間の多くを満たしている。

 最後に付け加えておくと、これらの名人たちは、比較的新しい。
 歴史に残る大名人で、落語の形をつくった三笑亭可楽(初代)や、中興の祖と呼ばれる三遊亭圓朝(大圓朝)などという名前も調べると出てくるが、いかんせん彼らの声を聞いたことがない。

 19世紀以前にも多くの天才はいただろう、すごかったんだろうなとは思うが、音源がないので判断のしようがない。
 私が20年来、落語を聴きつづけている過程で、この5人が記憶に残り、それでも聴くに値する「名人」と認められた。

 ただそれだけの話なので、参考程度に聞き流していただきたい。
 ほかにもすごい落語家さんはいると思う。

 そういうのを発掘する気力や能力はないので、亡き名人の面影に浸っているだけだ。
 くりかえすが、一押しは志ん生である。

 とりあえず志ん生を聴いておけば、落語のすばらしさは伝わるだろう。
 できれば最盛期の古い音源で、お楽しみいただきたい。

 


 前回、嫌われることを選択した国の話を書いた。
 今回は、好かれることを選択した国と比較してみたい。

 わかりやすいのが、中国だろう。
 当初、日本に嫌われることを選択した大陸と、好かれることを選択した台湾。

 その結果は、如実にあらわれている。
 14億対2000万という劣勢にありながら、りっぱに独立して運営されている台湾は、代表的な親日国のひとつだ。

 もちろん好かれているから栄えるとか、嫌われているから滅びるとか、一概には言えない。
 反対の例証は、残念な歴史上、あまたある。

 とはいえ、好かれていたほうが都合がいいことは多い。
 仲良しクラブと揶揄される先進国サミットも、それなりの役割は果たしてきた。

 嫌われることで役割を果たしている国もあるが、たとえばロシアの陥ってる苦難は、その役割の負の側面に多くの原因がある。
 敵がいなくなったら困るアメリカとしても、必要以上に仲良くしたくはない。

 現在、その矢面に立たされているのが中国だ。
 ロシアから役割を引き継いで、伝統的な対立構図に組み込まれた。


 敵が必要、という政治力学が根底にある。
 当然に憎み、打倒すべき敵。

 国民にそれを信じさせるために重要なのが、宣伝だ。
 客観的事実を判断材料とすべきだが、人間はほとんどの場合、そのような冷静な視点を保って世界を見ない。

 宣伝は基本、二択だ。
 敵への憎悪を煽るか、自国への称揚を寿ぐか。

 たとえば日本なら、神の国だから負けないとか、南方では勝ちつづけているとか、大本営発表や戦意高揚プロパガンダの歴史があり、その事実については戦後教育にも組み込まれてきた。
 「そんな国滅びて当然ですよね」という教育にとって都合がよかった側面もあるだろう。

 当時はいいかもしれないが、のちの世で失笑や反感を買う、という典型的パターンだ。
 すべての国で、このパターンはくりかえされてきた。


 日教組がなにを考えていたのかわからないが、中国共産党のプロパガンダらしいビデオを、小学生のときになんかの授業で見せられた記憶がある。
 あまりにも衝(笑)撃的で忘れられない。

 自分の国はすごいんだという宣伝の一環なのだろう、農民に一張羅の「背広を着せて」農作業をさせていた。
 思い出すたびに頬が緩む。

 中国は偉大な国です、我が国の農民はこれほど豊かです、と他国民が思うと判断して当時の共産党が外国に提供した資料映像らしい。
 現在の価値観で当時を判断してはいけないが、これが宣伝になると考えた広報担当者もすごい。

 北朝鮮にも「買い物できないデパートの大混雑」など似たような動画はたくさんあるが、彼らはそれが宣伝になると思っていたのだ。
 昔のプロパガンダ動画は、ほんとうにおもしろいので、どこぞのまとめサイトなどでご覧になられるとよい。

 黒歴史というやつだろう、だれにでもある。
 もちろん成熟した国民は、そんなころもあったね、あんまり言わないで、と過去の醜態を恥ずかしく思うフェーズに移行する。

 現代の中国も、そのへんはしたたかだ。
 伝統の中央集権国家だけあって、変化の速度もまあまあ早い。

 当面、日本を敵にまわさないほうがいい、と思っている当局者がかなり多いこともあるだろう。
 経済力がなかったころの反日政策やプロパガンダについては、彼らも「忘れてもらいたい」と思っているようだ。

 とくに日本に対して「これはまずい」と気づいたらしく方向転換をはかっているが、効果は微妙といったところか。
 習近平氏が、最近日本にやさしくしてやっているのに、日本人の中国への好感度があまり上がらないと文句を言ったらしい。

 もちろんどう考えても、ごく最近まで反日デモをやっていたのだから、無理がある。
 何十年も反日プロパガンダをつづけてきて、きのうきょう親日国のふりをしても手遅れ、ということだろう。


 中国史はあまりにも長く、国土も広い。
 中国の新たな時代を築く、つぎの政権には強い期待を寄せたい。

 私は台湾が、ほんとうに好きだ。
 ワクチンとか、私のぶんも差し上げていただきたい。

 おかげで中国人そのものに対する嫌悪もあまりない。
 同じ中国人である中華民国が大陸の覇権を獲るべきだと思うので、これからも強く台湾を支持していく。

 朝鮮半島の過ちは、そのへんだと思う。
 せっかく分裂したのだから、一方は友好的、一方は敵対的という顔を使い分けるのは、常套手段だ。

 真田家も、家をふたつに割ってでも、徳川と豊臣、両方にいい顔を見せた。
 ところが半島は、両方が似たようなことをやっている。

 無視してほしい、と心ある在日氏が言うのも理解できる。
 あまりにも戦略がなさすぎるのだ。


 まあ半島はどうでもいい。
 台湾が大陸の覇権を獲る可能性について、すこし真剣に考えた。

 王朝国家である中国は、易姓革命の国だ。
 定期的に王朝の交代をくりかえしてきた。

 それぞれの国の持続期間は、それなりに短い。
 周など半ば伝説(局地)的な古代文明は除いて、最長の統一王朝は唐(289年間)であろう。

 江戸時代(265年)とだいたい同じくらいだ。
 統一的な政権が持続できる期間など、本来その程度なのだろうと思う。


 おそらく共産党政権も、この例に漏れない。
 さすがに唐の記録を抜くことはないはずだ。

 どこかの段階で、中華民国が政権を握る可能性は、じゅうぶんある。
 ……もしくは、まったく異なる時代がくる。

 私は正直、その可能性を真剣に考えている。
 それは中国だけではなく、世界中を巻き込んだ巨大な「政権」になるだろう。

 私のきらいな「政治家」が働く場所は、そのころにはもうない。
 だいたいろくでもないことをする人間の代表が、この政治家という人種なのだ。

 それでもまだしばらくは、バカな人間がえらそうにしたがる時代がつづくだろう。
 人間を乗り越えた存在に、期待しないわけにはいかない。

 毎度おなじみ人工知能。
 人工超知能の小説を書いて、とある最終選考に残ったこともある。

 だいたい人類の敵として描かれることが多いが、私は信じている。
 人工超知能は、人間を生ぬるく観察してくれるいい子だと。
 


 直近の楽天セールのまとめ買いで、安いビールを買った。
 父親にあげたところ、韓国のビールはいらないと返された。

 どうやら朝鮮半島のことが大嫌いらしい。
 嫌韓の下地は広く波及しているのだなと、あらためて感じた。

 まえにも書いた気はするが、私は半島のことは無視するようにしている。
 ふつうに買い物してしまったことでもわかるとおり、生産国を気にすることはあまりない。

 とはいえ、意外に身近に不買運動の実践者がいて、感慨を新たにした。
 もちろんかの国には、より熱心な不買運動者がいる事実があるので、倍返しをする観点からも、日本側ももっと熱心に嫌韓してもいいのかなとは思う。

 私は与しないが、そうなる理由も理解できる。
 なぜそうなったのか、かの国の広報担当者は真摯に反省したほうがよいのではなかろうか。

 私に「無視」を推奨した韓国人の当事者(在日)も、その点は当然に理解している。
 そりゃまあ、そうなりますわな、と。

 だからこそ彼は、私に「無視するのが最善」と忠告したんだと思う。
 賢い韓国人の忠告には、私もすなおに従いたい。


 他人から好かれたり嫌われたりする方法は、いろいろあると思う。
 アドラー心理学的には「嫌われる」ことも大事らしいが、だいたいのひとは好かれていたほうが都合がいいと考えるだろう。

 憎まないでください、という宣伝活動が大成功したのがアメリカだ。
 何百万人も殺されて超絶憎悪すべき相手にもかかわらず、現代日本人があまり憎悪していないのをみると、びっくりするほどだ。

 一方、憎んでください、という宣伝に終始している朝鮮半島も大成功だ。
 これだけの憎悪を、日本人に植えつけることに成功した。

 どこのアホが宣伝担当したのだろう、と驚く。
 というより、意識的に宣伝しないとこうなる、ということなのかもしれない。


 理屈で考えて、そんなことしたら憎まれるよね、ということを平気でやる。
 このような民族性が一朝一夕に生み出されたとは考えづらいので、昔の日本人も、よほど腹に据えかねて攻撃したのかもしれない。

 韓国すばらしい系の「広報」に接することもあるが、率直にいってレベルが低い。
 国家レベルで洗脳工作を展開したアメリカと比較すべきではないが、それにしても残念な駄々っ児レベルの「韓国マンセー」を叫ぶ記事には、若干の憐れみすらおぼえる。

 たぶん、そんなに予算をもらえていないのだろう。
 最初からあきらめているのかもしれない。

 くりかえすが、私が強く影響を受けたのは、状況を冷静に顧みたのだろう在日氏が、私に「無視してほしい」と言ったことだ。
 彼らには彼らで、いろいろ苦労があるのだろう。

 が、できれば自己解決してほしい。
 八つ当たりは、ほんとうに勘弁だ……と思うのは、あくまでも日本に住んで接する情報のかぎりでの見解にすぎない。

 より高い次元での判断は、人間にはむずかしいだろう。
 数十年後には、AIが冷静な分析役にまわってくれるはずだ。

 人から嫌われる才能、というパラメータを評価したら半島はかなり上位にくると思う。
 個人的にはよく我慢してるな近隣諸国、という感じなのだが、あくまで人間の感想なので当然バイアスがかかっている。

 超AIレベルにおける「世界史の俯瞰」には、けっこう期待している。
 歴史家たちの夢、完全に客観的な「世界史」の完成が、とても楽しみだ。