私の祖母は102歳だ。
 最近、誤嚥性肺炎で入院したが、これまで何度も入院しながら生還しているので、今回もきっと不死鳥のようによみがえるだろう、という気はしている。

 この祖母のすごいところは、脳があまり衰えていないところだ。
 身体は当然、年齢相応に弱っているが、いわゆる認知症の症状がほとんどない。

 長生きすればするほど発症しやすい、認知症。
 日本国にとっての宿痾でもあるだろう、この病気を取り扱ったテレビ番組を観た。


 だれもが身近な問題としてとらえるべき、高齢化、認知症。
 これを取り扱った番組も、間断なく制作されつづけている。

 何人かの認知症患者自身、およびその家族などが登場していた番組だったが、そのなかで、とある夫婦の話が注意を引いた。
 夫は単身赴任が長く、妻は専業主婦として、しっかり家を守っていた、という。

 その妻が、認知症になった。
 完璧主義者で、とても優秀だった妻が……。

 有名な学者の例が多く知られているが、かつてすばらしく高い知性を誇っていた人物が患ったときの衝撃は大きい。
 そのあまりの落差に、周囲はそうとうな無常観をおぼえる。

 件の旦那もそうだったらしく、やがて吐き出された彼の悟りにも似た言葉に、ハッとさせられた。
 (彼女はもう人間ではないので)モノとして扱っている、と。

 この告白に対して、周囲の人々はかなりご立腹だった。
 そんなひどいこと言うたらあかん、そんなこと思うあんたは人でなしや、とハッキリとは言わなかったが、要するにそういうことだ。


 分水嶺だ、と思った。
 「人間性を問われる」。

 底は割れているかもしれない。
 この旦那を批判しないなんて考えられない、と眉を顰めるひとの表情まで想像できるが、お察しのとおり「私は旦那の側につかせてもらう」。

 ──旦那がそう思ってもしかたない。
 むしろよくそこまで割り切ったと思う、えらい。

 身近で、わけのわからないことを言いだしたり、面倒なことをやらかしたりする。
 完璧だったころの妻の面影もない、とても人間とは思えない。

 それでも彼女はただ病気になっただけなのだから、最後まで介護は引き受ける。
 ただ、あまりにも人間らしくなくなってしまった彼女のことを、もうモノとでも思うしかなくなった。

 よくわかる。
 正直に、よく言った。


 責任から逃げ出したひとに対してなら、おまえにそんなこと言う資格はねえ、と糾弾してもいいと思う。
 が、やるべきことをやっているひとに、そのうえ自由に考えることさえ否定したら、かわいそうではないか。

 うちの母親も、母親の母親、つまりばあちゃんに対して罵詈雑言の嵐だ。
 脳が無事ということは、要するに口喧嘩は自在にできるのだ。

 孫の目から見ても、あまり仲が良いとはいえない母娘。
 ではあるが、ホームや病院で手続きをしたり必要なものを運んだりと、娘としてやるべきことはやっている。

 ばあちゃん子だった私としては、祖母を擁護したいところではある。
 が、祖母の介護などろくに手伝いもしなかった私には、やるべきことをやっている母親を指弾することはできないし、そのつもりもない。

 だれにでも、好きなことを言ったりやったりする権利はある。
 多くを求めすぎてはいけない、やるべきことをやっている、それでじゅうぶんではないか。


 番組の話にもどろう。
 むろん、この旦那がひどいという視点を理解はする。

 しかし奥さんのほうも、いちいちひどいことを言ったりやったりしている。
 病気のせいだ、もちろんそれも理解はするが、やったこと自体は変わらない。

 法的にいえば、結果責任だ。
 故意・過失の有無にかかわらず、損害の発生という結果に対して責任を負う。

 さらに掘り下げれば「責任能力」の話になっていくが、事理弁識能力を欠いた彼らが発生させたなんらかの被害に対して、損害賠償責任を負わされるのは家族だ。
 ある意味、被害者でもある家族の求める賠償の形が「モノ扱い」だとして、それを責める権利はだれにもない。

 情緒的に批判している方々は、たぶん法律の話にはしたくないだろう。
 都合のいい部分だけ法律を援用しはじめると、論理が破綻しやすくなることは彼らも承知のはずだ。

 そこで彼らは、人情に訴える。
 それは「人間的ではない」という自分の基準を、周囲にも当てはめようとする。

 宗教的な信念に基づいている方々は、ともかく「自分と同じように考えない人間は冷酷非情(異常)」と断定する傾向が強い。
 一定のレベルに収まっていれば許容範囲だが、危険なのは、この信念がしばしば先制攻撃に発展しやすいことだ。

 自分と同じように考えない人間を「敵」と断定する人々は、いじめの議論などでもよく出てくる。
 彼らにとって「中立」は「敵」なのだ。


 この旦那は良くないかもしれないが、悪くもない。
 夫婦の問題は、かぎりなく夫婦に任せておけばよい。

 一線を超えたら、法律が介入する。
 逆にいえば、その一線を超えない範囲はすべて、夫婦のテリトリーだ。

 妻が認知症となったこの夫婦も、これはこれで成立しているように見えた。
 妻をモノ扱いする旦那に対して、妻も妻で罵詈雑言の批判を向けている。

 しかし、デイサービスなどで施設に行った妻は、そこで不安げに「お父さん」を探しはじめたりする。
 すくなくとも見知らぬ人々に囲まれているより、それなりに信頼すべき相手である夫のほうが、彼女にとっては大切なのだ。

 これが行き着くとストックホルム症候群になっていくのかもしれないし、共依存という状態をどの程度病理として把握すべきなのかという問題にもつながる。
 ともかく言いたいのは、各々の「価値観を押しつけてはいけない」ということだ。

 とくに「自分がいいことをしている」と思い込んでいる人間の「押しつけ」さかげんは、ほんとうに気分がわるい。
 ゾッとするレベルで、人類史を汚染してきた「狂信者」をほうふつさせる。


 さらに根本的な部分に立ち返ろう。
 「モノ扱い」はわるいことか?

 日本人は、付喪神などの伝統もあるとおり、モノを大事にする。
 独善と情緒の世界に生きている人々は、認知症のヒトを「モノ扱い」することに批判的だが、これまで「ヒト扱い」で表現しきれなかった愛情を、モノに仮託して表現しようとしているのかもしれないではないか。

 もはやヒトではなくなってしまったモノに対する取り扱いは、あらためて再考されるべきだ。
 露悪的な言い方をすれば、殺したり傷つけたりしたら殺人罪等に問われる危険物、という認識もあっていい。

 もちろん症状の程度にもよるのだが、人間らしさをなくしたモノを、どう愛すべきモノに変えていくかは、重要な発想の転換をはらむと思う。
 まさに「モノを、どう愛するか」という伝統芸に絡むのだ。

 モノ扱いの時点で袂を分かった人々とは、なかなか話がかみ合わないだろうと理解はしている。
 それでも考え方は個人の自由だし、無理してどちらかに寄せる必要はない。

 どこに「超えてはいけない一線」を引くかは、法律に任せておこう。
 盲目的な「法家」もどうかとは思うが、現状ではそれが無難だと思う。

 結論。
 やるべきことをやっているかぎり、だれにも文句をいわれる筋合いはない。