私はカネを転がして得たあぶく銭で、しばらく息をしていた。
 生きる価値のない人間だと思うので、死ぬときがきたらおとなしく死にたい。

 とはいえ現在、まだ生きている。
 おおむね昔のあぶくを吸って生きているが、それだけではむずかしい。

 そこで、このあぶくというやつが、たまに「吸ってくれ」といわんばかりに膨らむチャンスを、淡々と待っている。
 いや、もうそういう取引をするほど心が健康ではないのだが、習慣的にマーケットの動向を追ってしまうのは、己が業の深さゆえだろう。


 というわけで、ビットコインの売買はしていないのだが、一応、主要な暗号通過としてウォッチはしている。
 で、ボーッと映画を観ていた土曜日の午後、チャートがすごいことになっていた。

 1時間足らずのあいだに、1万ドル以上、下落。
 この間、清算されたビットコインは、およそ13億ドル相当。

 またしてもショーターの勝利か、と回想モードに浸りつつ、いろんなことを考える。
 よくあることだが、この値動きに反応している人々の姿を想像するだけで、じつにおもしろい。

 なかでもおもしろかったのが、エルサルバドルだ。
 ご存じのとおり、法定通貨としてビットコインを保有している。

 この大統領が、暴落に合わせて150ビットコインを買い増した、とツイートしていた。
 えらいバカ買っとる、エルサルバドル。

 この時点では、なんでこんなに下げたのかさっぱりわからなかった。
 週が明けても、あまりしっくりくる理由はわからない。

 地合いが悪化していた、構造的な問題がある、など漠然とした説明はできる。
 米国株の下げで資金余力の乏しくなったヘッジファンドの損失覚悟の売りが、週末の真空地帯に重なって起こったフラッシュクラッシュ、という分析がどうやら正しいらしい。

 ビットコインやリップルについては、大規模ロスカットを巻き込んだいつものオーバーシュートか、と受け流してしまいそうな事態ではある。
 ただ個別銘柄では逆行高している暗号資産もあり、入れ替えが起こっているのかな、という気もする。


 同じころ、トルコリラもおもしろいことになっていた。
 あいかわらずFXでは死人が出ているようだ。

 トルコリラの暴落は、だいぶまえから着々と進行していた。
 さすがにもう下げ止まるだろ、という昔の私のような逆張り日本人の大量参入を促してもいたようだ。

 が、あまりにも下げすぎた。
 昔の私のような輩が泣く泣く「投げた」結果、現在、円建ての買いポジションは往時の半分以下まで減っているらしい。

 正解だと思う。
 どこまで下がるのか、まだよくわからない。

 トルコの大統領と中央銀行がケンカしているニュースは、よく流れてくる。
 このまま利下げをつづけるつもりらしいので、まだしばらくは安値更新するだろう。

 で、先週、耐えかねたトルコ中銀が「不健全な価格形成」に対して介入した。
 あまり効果はなかったようだ。

 為替の「急激な変動」に対しては各国の中銀が動くことになっているが、よほど大規模な「協調介入」でもなければ効果は期待できない。
 この手のニュースで、いつも思い出すのはイギリスの惨事だ。

 いわゆる「ポンド危機」というやつで、ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドに、イングランド銀行が負けた。
 国家よりヘッジファンドのほうが強いことを、このとき多くの人々が思い知った。

 自国通貨を買い支えようにも、「外貨」には限度がある。
 しかも今回、トルコはもっと大きな「世界」を敵にまわしている。

 勝ち目はない。
 政策転換するまで、行きつくところまでは行くだろう。


 ……とはいえ、さすがにそろそろ買いだろ、という気はしないでもない。
 ファンダメンタルズを冷静に分析できるほどの情報と知識があれば、世界のどこかには判断できる「天才」がいるのかもしれない。

 私は凡才だが、代わりに蛮勇があった昔なら、たぶん買っていただろう。
 いまは、怖くて無理だ。

 中銀が介入した水準から、さらに数割は下げる、というのが現在の私の経験則だ。
 ポンドは、たしか5割以上下げて数年間、変動相場にさらされたはずだ。

 スイス中銀も、「禁じ手」である「上限」を撤廃してから現在に至るまで5年以上、異例の価格水準に苦しみつづけている。
 自国通貨の価値を見誤った中銀に、マーケットが「お仕置き」する姿を想像すればいい。

 なのでトルコリラも、上昇に転じてから買いにはいる、くらいで遅くはないだろう。
 安値で高金利通貨をつかめれば、その後長くスワップ金利を楽しめる。


 ビットコインもそうだが、政府とか国が参入した場合、下手な価格を出すとしばらく「お仕置き」されることが少なくない。
 エルサルバドルの平均取得価格「以下」の水準で、しばらく調整する可能性は高いように思う(現在は回復しているようだが)。

 ことさらに悲観シナリオを好む、日本人的傾向で言っているわけではない。
 厳しい現実として、トルコリラともども値動きには注意を払ったほうがいいだろう。

 そして私は静かに映画を観る。
 お金なんて汚い話だ……。
 


 最近、産総研(産業技術総合研究所)のあげている動画をよく観る。
 なかでも選んで観るのは、宇宙とか地質にまつわる動画だ。

 JAXA(宇宙航空研究開発機構)や国立天文台のライブ配信、JAMSTEC(海洋研究開発機構)の番組もけっこう好きだ。
 物事を真摯に研究している人々の成果を拝見できるのは、ほんとうに眼福である。

 ではあるが、それに興味をもっているひとはあまり多くないらしいこともわかるので、すこし残念だ。
 目が腐るようなバラエティ(失礼)が数日で何百万も再生されているのに、何年もまえにアップされた地質の動画が数百から数千の視聴数で、万いったら御の字の世界。

 なにかがまちがっている、という気もするが、これが当然という気もする。
 自分が少数派であることには慣れている。

 とはいえ、多数派が完全に興味ない、というわけでもない(はずだ)。
 人間だれしも、知的好奇心というものをもっている。

 4年ほどまえ、冥王代生命学の動画を再生数100くらいの時期から見はじめて、ブログにも書いた。
 それが現在は何十万とか、まとめ動画では百万単位の再生になっている。

 軒並み数百から数千程度の産総研の動画も、これから伸びていくのではないか。
 ……まあ好きな人だけ観ればいいので、再生数なんかどうでもいいか。


 ちょうど、いま視聴しているのが「ウェブカラ地質図」という番組だ。
 ネットで「地質図navi」と検索すると出てくる地図と合わせてみると、とてもおもしろいのでオススメする。

 私が現在、執筆している物語の舞台である東京の都区部は、だいたい新生代第四紀に形成された堆積層であることがよくわかる。
 海成・非海成混合層、自然堤防堆積物、埋め立て地、そして段丘堆積物といったモノに、多くの都民が乗っている。

 関東平野はだいたい、この手の「薄い」色合いの地層で成り立っていて、つまり「最近できた土地」なわけだ。
 新生代第四紀など、タモリ氏に言わせるまでもなく「新参者」なのだ。

 日本列島にどのくらい古い地層があるのかを調べるだけでも楽しい。
 まずは自分が、どんな地層のうえに住んでいるかを調べるところから始めるのもよろしかろう。


 基本的に、山のほうに向かうほど、古い地質、地層があらわれてくる。
 私が棲んでいる土地はどのくらい古いかな、と調べてみたところ……後期更新世中期から後期更新世後期にかけての「段丘堆積物」だった。

 関東平野の隅っこに堆積した土地に住んでいる私も、どうやら新参者らしい。
 周囲には新第三期中新世や鮮新世の岩石地帯もあるが、やはり人が棲むには「堆積」によってできた「平ら」な土地が必要ということだろう。

 上流である軽井沢も意外に新しく、完新世の湿原・湿地堆積物でできている。
 旧軽井沢になると、やや古い。

 下流である高崎から埼玉にかけては、第四紀のチバニアンや完新世に形成された土地が広がっている。
 山に囲まれた群馬は火山岩岩屑なだれ堆積物の地質も多いが、埼玉は河川や段丘堆積物が多い。

 と思いきや、埼玉も秩父のほうへ向かえば、たいへんな地層が広がっている。
 中生代前期白亜紀、中生代中期ジュラ紀といった時代に形成された岩石に囲まれた、じつに興味深い土地だ。

 ブラタモリが目をつけるのもわかる。
 長瀞がいかにおもしろいかは、川沿いの「埼玉県立自然の博物館」や「長瀞岩畳」の口コミ件数をみても明白だ。


 東秩父のほうに進むと、中生代三畳紀や古生代ペルム紀といった地層も見られた。
 恐竜とか発掘したいなあ、と考えはじめて、恐竜といえば福井だろ、と地図を移動した。

 広域にすると、だいたい色の濃い場所ほど古い地層を示している。
 山のなかほど色が濃くなる傾向はあるが、山だからといって必ずしも古いとはかぎらない。

 わずかに古生代石炭紀やペルム紀などの地層がのぞいている場所も発見できるが、基本的には中生代以降の新しい土地ばかりだ。
 逆にいえば、恐竜が栄えたのは中生代なので、古生代より古い地層では見つからない。

 ここでフクイラプトルが発掘されたのか、などと思いながら地質図を眺めていると、時間を忘れてしまう。
 インターネットというインフラと、貴重な情報を公開してくれている方々には、感謝しかない。


 ちなみに新生代だからつまらないなどと言っているわけではない。
 むしろ新生代こそがおもしろい。

 たとえば高知では、わかりやすく海岸から「縞々」模様の地質図になっている。
 九州にかけても同様に広がっているのだが、これだけでもう、ここでどんなことが起ったのか想像できて興奮してくる。

 やや内陸に古生代カンブリア紀の地層も見られるが、より興味深いのは海岸線に広がる海成段丘や断層露頭だ。
 室戸岬の褶曲隆起などは、すべて新生代に成し遂げられた仕事である。

 見た目のインパクトだけでもすごい。
 数千万年かけて赤道から運ばれてきた枕状溶岩とか、折り曲げられて縦になった南海トラフの堆積物とか。

 そう、新生代といっても、6500万年以上の歴史があるのだ。
 まだエジプトにもピラミッドないね! って6500年ではない、「万年」だ。

 さざれ石(石灰質角礫岩のことらしい)が巌になるほどの時間だ。
 国歌を愚弄するつもりはないが、たぶんそのころ人類は存在しないだろう。

 万分の一にも満たない人類の歴史など、ただ風の前の塵に同じ、そう思える。
 その塵のカケラにすぎない私たち個人の悩みなど、もう表現に値する言葉もない。

 という気持ちになれるので、宇宙や地質の話は心地よいのではなかろうか。
 まあ極微は極微で、古典物理学を超えた量子論とか興味深い世界が広がっているので、けっしてゆるがせにはできないのだが。


 ブラタモリで思い出した。
 最近やっていたフォッサマグナの回は、ほんとうに楽しかった。

 見逃した方がいたら、アーカイブででもご覧いただきたい。
 いつも以上に、タモさんには感心させられることだろう。

 いつかぜひ、川井の断層を見にきてもらいたい。
 関東で唯一、中央構造線の露頭が見られる場所で、まあまあ近所だ。

 九州から関東までを貫く中央構造線(断層)は、西のほうではけっこう露頭しているが、関東で見られないのは、まさにそのフォッサマグナが隙間を埋めてしまったからだ。
 もっと東になると、3000メートルもボーリングしなければ確認できないらしい。

 どこにどの時期の付加体がどうやって埋まり、変性しているかなど、件の地質ナビでチェックできる。
 よく調べてくれたなと、地質屋の方々には心から感謝する日々だ。

 地質にハマったら抜け出せない。
 3000メートルでも埋まりたいところだ。


 そのまえに、そろそろ祖母の49日なのでお骨を墓に埋めてこなければならない。
 地球さんから借りていた原子を、お返ししよう。

 人生はうたかたの夢、エントロピーをかき混ぜる、ちょっとした渦にすぎない。
 そう長く待たせることもない、ヒトはすぐに逝く。
 


 祖母が死んで1か月になる。
 仏教によれば、まだこっち側にいるはずだ。

 7日ごとに閻魔さまの裁きを受けて、49日目に仏さまのところへ逝く、というのが仏教の考えらしい。
 つまり、まだこのへんにいると思われる祖母が、どうやら私も連れて行こうとしているようだ。

 ……べつに怪談話をするつもりはない。
 ただ事実として、最近とみに食欲がなくて困っている。

 まあ食費もかからないし、困るほどでもないという気もする。
 餓死するレベルでは、まったくない。

 食わなければ死ぬということくらいは理解しているので、無理やり食事はしているのだ。
 が、その量が半減した。

 以前は一食分だったうどんを、2回にわけて食うようになった。
 単純計算で食費半分だが、問題は賞味期限だ。


 これまで、だいたい1週間ごとに買い物に出るサイクルだったが、冷蔵庫の食品がなくならないので出ない。
 さすがに2週間たつと賞味期限が切れてくる。

 まあ期限切れの瞬間に食えなくなるわけではないので、多少まずくなろうと食ってしまってもいいのだが、さすがに3週間になるとヤバそうだ。
 生のうどんはごっそり捨てて、これからは冷凍に切り替えよう、と決めた。

 食品が減らない、というのは単に買い物の量や回数を減らせるというメリットばかりではない。
 賞味期限が長い冷凍食品を増やす必要があるので、高くつく可能性もある。

 と思考を進めてみたが、あくまで一時的な食欲減退にすぎないかもしれない。
 それを祖母につなげて考えること自体、ナンセンスなのだろう。


 この世から去るのは、わるいことではない。
 タイミングの問題であって、ひとはいつか必ず死ぬ。

 生きる価値がなくなったら死ねばいい、という理想論を振りかざす元気は、もはやない。
 かなり能力が低下しても、けっこう生きられる社会になった。

 批判してみてもはじまらない。
 生きること自体に意味があるのだ、という意見に含まれる謎部分を掘り下げるのも詮無い。

 ただ個人的には、なにもやる気が出ない、というのは深刻な問題だと思っている。
 とくにここ数日、まったく、なにもしていない。

 やらなければならないこと、やるべきことは理解しているが、手が出ない。
 能力が喪失されたのであれば機能の問題なのでこんなところに書いている場合ではないが、単にやる気の問題にしかみえないところが問題だ。


 やればいいのに、できない。
 数時間ごとに布団に潜り込む。

 脳は起きているので、暇つぶしに聖書の朗読を流している。
 キリストさまにすがろう、というつもりはない。

 素人宗教研究家として、お勉強しているだけだ。
 おかげで旧約からの流れを、だいぶ脳内で再現できるようになった。

 これまでもこういう「症状」がないわけではなかった。
 そのたびに仏教やイスラームの聖典を聴いたり、ヒンドゥーやギリシャの神話を脳に詰め込んで、なにものかに「すがる」ことの意味を考えてきた。

 つまり経験済みの事態ではあるのだが、今回にかぎっては食欲までなくなるというプラスアルファがついてきた。
 これは初体験だ。


 ものを食わなくても意外に脳は冴えるので、学習効果はわるくない。
 順番をランダムに再生しても、だいたい聞き覚えのあるセンテンスだ。

 これは新約、これは旧約の預言書、ようサウルひさしぶり、パウロがんばってんね!
 と思えるくらいには、脳の活動は正常(?)だ。

 つねに批判的精神をもって聞いているので、単純に「信じろ」と要求してくる宗教者にとっては、おそろしく都合のわるい人物ということになる。
 要するに突っ込みどころを探しながら聴く寝物語、という体だ。

 で、神は試していいの、ダメなの?
 反撃していいの、ダメなの、めっちゃやらかしてるけど!?

 言葉の矛盾だけではなく、物語として、倫理的にどうなのよとも思う。
 奴隷を正当化したり女性差別が著しかったり、もちろん現在の基準で当時を評価してはいけないが、ご都合主義すぎないかと思うことは少なくない。


 長い「物語」なので、いろんなひとが書いている。
 現在、同じ作者でも長期連載になると矛盾が出てくるくらいだから、はるかな過去、さまざまな社会状況に合わせて書いているそれぞれの作者のあいだに矛盾が生じても、けっしておかしくはない。

 その矛盾にツッコミを入れたがるのは、「悪の力が働いている」から。
 聖なる言葉です、受け入れなさい、ありのままに。

 なにを言っても、そう返されることは目に見えている。
 宗教屋さんとは、残念ながら議論にはならない。

 いっさいの疑いを捨て、聖書の言葉を信じましょう。
 悔い改めて信じなさい、信じるのです、信じよ。

 各宗教者によって使い倒されてきた、まさに「金言」がここに極まっている。
 この言葉が「金」を稼げる事実だけは、宗教発生以来、ゆがみがない。

 もちろんこれは、強力な「需要」筋によって支えられている。
 自分に自信がない、意思決定能力がない人にとっては、だれかが強力なパワーで決めてくれることは、ほんとうにありがたいのだ。

 心に安らぎを。
 そう「信じるために聖書を聴く」べきなのだろう。

 それができない私は、救われない、だから苦しい。
 なるほど、理屈には合っている。


 祖母が私を連れに来たと言っても、そんなに苦しいなら楽にしてやろうか、というやさしさの故かもしれない。
 生きることが正解だなんて、だれが言った?

 という考えに取り憑かれることは、ままある。
 希死念慮に襲われたことがある、と答えるアスリートは10人に1人いるらしい。

 私はアスリートではないが、筋トレは欠かしていない。
 この寒い土地では、筋肉が減ると末端が冷えて眠れないからだが……。

 食事量が半分以下になったからといって、まったく死ぬ気づかいはない。
 そもそも、ただのダイエットと強弁さえできる。


 問題は、代わりに睡眠時間が倍増したことだ。
 8時間寝て16時間起きる、というのが通常の人間だとして、これが逆転した。

 8時間起きて、16時間寝る。
 すこし極端だが、そのくらいインパクトのある変化があった。

 このサイクルに切り替わってまだ数日なので、自然に回復する可能性ももちろんある。
 ただ、いまは食いたくないし、横になって目を閉じたい。

 ここまで書くだけで、指が萎えてきた。
 まだ昼間だが、布団にはいろう……。
 


 ストリートファイターリーグという、ユーチューブの動画をよく観ている。
 ゲームのなかでもマイナーなほうのジャンルだと思うので、興味のないひとは意味がわからないかもしれない。

 地味に底堅いマニアに支えられている。
 好きなひとは好き、ということなのだろう。

 私自身は、動画は見ているがゲームをプレイも購入していない。
 よって、製作会社にとっては顧客にはあたらないと思われる。

 買って遊びたいと思うほどではないが、見て楽しむ程度には好き、という中途半端な感じの「動画勢」という見当識が的確だ。
 お互いに利害関係のない立場という前提で、好きなことを書かせてもらう。


 前述のとおり中途半端な感じなので、ゲームについてはさほど詳しくない。
 スト2の知識に毛が生えた程度、と考えれば目安となるだろう。

 まず、ずらりと並んだキャラを見比べて思うのは、率直に「多くね?」だ。
 それ自体がメーカーにとって売り文句なのはいいが、つぎに問題なのは「まぎらわしい」ことだ。

 漠然と動画を眺めながら、エドとコーディの区別がつかないとか、ケン背ェ伸びた? と思ったらアレックスってだれだよとか。
 金髪白人が多すぎて区別がつかねえ、という期間がけっこう長かった。

 ガイルは髪型で判断できるし、ザンギエフは特徴ありすぎてすぐわかる。
 スト2の知識を前提で見ている部分を差し引いても、まぎらわしいキャラについて特徴付けが足りない気がした。

 女キャラは、とくに顕著だ。
 キャミィとカリンとコーリンとルシアも、どれがだれやら最初はわからなかった。

 とりあえず棒をもっているのはファルケというらしい、あたりから学習していった。
 作り手はよっぽど金髪白人美女が好きなんだな、という部分は理解した。

 せめて長身とかデブとか黒んぼ()とか、特徴つけてくれたらわかりやすいのだが。
 同じ白人でも、画面の半分を制圧する巨大なアビゲイルとか、神の域に達しているらしいギャグみたいな顔色(?)のジルは、キャラ付けの努力が生きている。

 マンガ的には正解だ。
 こういう女(男)とヤリてえ、というキャラを描けというのは、編集者の口癖らしい。

 この件については最後に触れるが、ひとつだけ事実を申し述べておく。
 黒人女は、いない。


 キャラ付けが重要とはいえ、一見して人外の、わかりやすい化け物を出せと言っているわけではない。
 ほかにモンスターが出てくる格ゲーはいくらでもある。

 ダルシムやブランカ、ホンダなど、ありえないキャラではあるが、わかりやすさについては好感がもてる。
 そういう「個性」よりも、白人が優先されている、という印象は誤っているだろうか?

 バルログやザンギエフまでは、それでもキャラが立っていて棲み分けられていた。
 いにしえのスト2の記憶が、そう感じさせているだけかもしれないが。

 ナッシュが人外の方向へ転げ落ちていたのは、ちょっと笑った。
 サイボーグにでもしなければ、白人キャラの差別化がむずかしかったのだろうか。

 逆に言えば、黒人が少なすぎる。
 『ウォーキング・デッド』のミショーンみたいな「黒人女」が、さすがにゼロというのはバランスが悪すぎではないか。

 たとえばアビゲイルを、『グリーンマイル』みたいに巨大な黒人で、死刑囚だがじつは心優しいとかいう設定にしたら、魅力的だったのではあるまいか。
 マイク・バイソンというキャラを投入するくらいだから、カプコンもそのくらいのことはやれるはずだ。

 まあアビゲイルについては、『ファイナルファイト』という元ネタがあるらしいし、バイソンも、タイソンのパクりであることが問題にされないため、名前を変えられてしまった。
 べつにタイソンのオマージュでいいとは思うのだが。


 話をもどそう。
 なぜ黒人のキャラが少ないのか。

 ここにはおそらく「物語」の不足がある。
 データベース化された物語やキャラの消費構造については、東浩紀氏が分析してくれている。

 要するに黒人の「物語」が、日本にはあまり輸入されていない、ということだ。
 とくに格ゲーのキャラには、「わかりやすさ」が求められている。

 黒人には、源泉となる「物語」が少ない。
 キャラの「鋳型」がないので、マイク・タイソンだったりヒップホップだったりを、無理やり使ったりするしかなくなる。

 そこで個人的な意見だが、歴史上の人物を使うのはどうだろう。
 アケメネス朝ペルシャのクセルクセス的な黒人はオススメだ。

 まあ私のイメージも、映画『300《スリーハンドレッド》』のものにすぎないのだが。
 バルログ的な妖しさがあり、かなり魅力的なキャラだったように記憶している。

 『300』自体、中学生男子が大好きそうな映画なので、格ゲーの需要とも重なる。
 中二病真っ盛りなセリフのオンパレードは、どちらも同じだ。

 歴史上の人物に仮託したキャラ設定であれば、バイソンのように権利問題を気にする必要はあまりない。
 クセルクセスを演じたロドリゴ・サントロは、黒塗りした白人なわけだが……。

 ここには別の問題も伏在している。
 カプコンばかりの責任ではない。

 ちびくろサンボやダッコちゃんを取り扱えば、差別だと騒がれる。
 黒んぼもチャンコロもアメ公も、あまり使ってはいけない言葉とされている。

 しかし私は、これらは「キャラ」でこそ使うべきだと考えている。
 そうしてこそ「偽悪的」であることに含まれる「偽り」の意味を逆説的に示しうるわけだし、作中でその「偽り」の部分を的確に表現できてさえいれば、むしろこれらの言葉やキャラを使ってもらったほうが、どちらの側にとっても都合がいい。


 いまでもエドとコーディの区別はつかないし、カリンとコーリンの区別もつかない……というのは言い過ぎだが、コスチュームによってはわからないこともある。
 世界の人口比では、金髪碧眼はそれほど多くないはずだ。

 もちろん正確に人口比を反映する必要はない。
 私は「偏り方を分析」しているだけだ。

 北欧の地区大会を見ていると、ノルウェーとかスウェーデンの選手は、あまり金髪碧眼キャラを使っていない印象がある。
 たまに使っていても、デンマークに住んでいる肌の黒い人だったりする。

 結局、彼らは「自分たちとは異なるもの」を使いたいだけなのかもしれない。
 つまり人口の多い「非白人に対して、白人キャラを用意している」のだ、という理屈も成り立つ。

 もちろんそんな理由でキャラを選んでいない人も多いだろう。
 昇竜拳が出せなかったので、ため技のガイルを使った私のような人も、たぶんいる。

 ストリートファイターを、人種差別ゲームだなどと言うつもりはない。
 ちゃんと「需要と供給」を考えて作られている(はずだ)。

 としたら、もっとも巨大なマーケットである日本の格ゲーユーザーそのものが差別的、ということになる。
 認めたくないものだな、村社会ゆえの差別性というものを。

 ……と、そこまで分析してみて、なに言ってんだと自分に突っ込んだ。
 先刻周知のとおり、そういうゲームではないのだ。


 最後に、かなえられる気づかいのない希望を書いておきたい。
 黒人や混血は、もうすこし多くいてもいいのではなかろうか、と。

 そもそも「見るだけ」の私のような人間にとって、いろんなキャラがいてくれたほうが楽しめる。
 もっと言えば「ヤマンバ」のような、ガングロ汚ギャル系のヤバいブスを出してほしい。

 男ならバーディやアビゲイルなど、あきらかにデブとかブサイクな感じのキャラはいるのに、なぜ女にブスとデブがいないのか?
 全員セクシー美女というのは、どう考えてもおかしいだろ、とフェミさんが発狂していい案件ではあるまいか。

 女はセクシーで痩せてなければいけないなんて、差別よ!
 ……もちろん、そういう突っ込みを向けるべきゲームでもない。

 ストリートファイターが、伝説のスト2を超えていくために必要なのは、超絶的な悪役と、ドブスの女キャラ。
 私は、そう信じている。


 さて、スト5から世界のバランスを読み解くチャレンジも、そろそろ息切れしてきた。
 出刃包丁を片手に、しなびたオッパイをぶんぶんふりまわしながら敵を倒す「ヤマンバ」が、スト6で出てくることを祈りつつ、本日のネタを終えよう。
 


 私はゲームをほぼ卒業した人間なのだが、『女神転生』シリーズだけはやっている。
 4年半の歳月を経て、本日11月11日、最新作「5」が発売された。

 前作「4」のために3DSを買い、今回も「5」のためにSwitchを買った。
 目的がそのタイトルのみなので、クリアしたら本体はだれかにあげるか、売るだろう。

 楽天のお買い物マラソンに合わせてきのう購入したばかりなので、じつはまだ届いていない。
 というわけでメガテンについて語ることはまだないが、せっかくなのでゲーム関連の話をひとつ。


 私はゲームをプレイはしないが、動画はよく観る。
 折に触れて書いている通り、マリオとスト5が多い。

 思わずスト2と書いてしまって書き直すくらい、このコンテンツは昭和を生きたおっさんホイホイのひとつだ。
 昇竜拳(コマンド)を出せなかった私が、座って戦う待ちガイル派だった話は、まえにも書いた気がする。

 マリオ(スーパーマリオブラザーズ)については、もはや昭和とか日本というカテゴリを脱している。
 世界共通のコンテンツであり、配信者も海外のほうが多い。

 しかしスト5については、まだかなり日本市場の割合が高いように思う。
 格ゲーというジャンルのなかでは優位なコンテンツのようだが、そもそもマーケットがそれほど大きくない。


 前述のとおりゲームはほぼ卒業しているので、スト5をプレイしたことはない。
 見るだけ──いわゆる「動画勢」のひとりだ。

 動画勢=にわか、という図式は理解している。
 たしかにスト2で使ったことがあるキャラ以外、技の出し方からなにから、ほぼ知らないに等しいので、にわかと呼びたければ呼んでもらって差し支えない。

 スト5は本日時点で、44人のキャラが使えるようになっている(ようだ)。
 多くのキャラが並んでいるのを眺めていると、なんとなく壮観ではある。

 シーズン5の最後の追加キャラは、ルークという完全新キャラらしい。
 既視感のある「金髪で青い目の白人」だった。

 そこで、ふと思った。
 だいぶ偏ってないか、と。


 キャラ設定まで調べるつもりはないので、あくまで見た目判断になるが、おおよそ4分の1がわかりやすく「白人男性」という状況だ。
 さらに、白人女性や、各国で白人認定されるだろう程度の混血を含めれば、余裕で半分を超える。

 人種がどうこう言い出す時点で、科学的にはナンセンス(同じホモサピエンス)であることは理解している。
 このような考え方が人種差別の土壌を育み、人類史を穢した。

 人類が単一種であることを当然に前提としつつ、しかし一定の「区分」はあっていい、とも思う。
 現実に生きるうえでも、人種とか階層での区分は避けて通れない。

 問題はそれがどの程度、具体的被害につながるかだ。
 ブラック・ライブス・マターの最大の問題点は、現実に彼らが置かれている比較劣位な環境であり……という厄介な話をはじめるとキリがないので、ここでは語らない。


 ゲームの話にもどろう。
 スト5の制作に携わっているのは、おそらくほとんど日本(人)だと思われる。

 彼らが、いかなる「コンプライアンス」のもとにゲームを制作しているか、会社ごとの倫理綱領はどうか、など掘り下げる意思も能力も私にはない。
 ただ類推と憶測の範囲で、キャラの人種的バランスから推し量った、個人的見解にすぎないことをまずは申し上げておく。

 ほとんど日本のマーケットに向けた、日本製のゲームなのに、登場人物の半分が白人なのは、なぜか。
 ここから「白人コンプレックス」などという、使い古されたバカげた結論に飛びつくつもりはない。

 そういうところに突っ込むゲームじゃないんだよ、という反論も容易に想定される。
 ただ、スト2以来の歴史を鑑みるに、あまり深く考えてもいないのかな、という気はしている。


 昭和のマンガや、長期シリーズ化ではよくあることだが、最初あまり考えないで適当につくった設定が、あとあと足を引っ張ってくる、ということがよくある。
 そもそもキャラの名前からして、けっこう適当につけている、としか思えない。

 悪口ではない。
 私自身、さして重要ではない登場人物の名前は、けっこう適当につけたりしている。

 その証拠に、世界標準では「ベガはバイソン」だし、「バイソンはバルログ」だし、「バルログはベガ」になった。
 当時の日本人チームならではの命名を、いまさらながら修正したわけだ。

 長くなるので、なぜそうなっているのかは説明しない。
 興味があるひとは各自で調べてほしい。


 それでも現行の日本版では、ベガはベガだし、バルログはバルログだ。
 日本は世界に合わせることなく、日本の伝統を踏襲している。

 それくらいカプコンにとって、日本というガラパゴスは重要なのだろう。
 野球用品の関係者が、ヨーロッパより北米のマーケットを重視するのと同じであり、これ自体は当然の判断だ。

 プレイデータにしろ、選手層の厚さにしろ、あまりにも偏っている。
 すくなくとも日本製の格ゲーは、良きにつけ悪しきにつけ、日本人のためにつくられているといっていい(と思う)。

 だとしたら、東アジア系のキャラが多くてもよさそうだが、なぜか白人多数派の世界観が形成されている。
 たしかに「日本人」キャラは突出して多いが、外人は忍者が大好き、という事情なども勘案すれば妥当な範囲だと思われる。

 逆に気になるのが、黒人の少なさだ。
 明確に「黒人キャラ」と呼んでいいのは、私の見るかぎりバイソン以外にいない。

 人種という分類に適さない「モンスター枠」もあるので、人間だけの割合としてみれば白人率はさらに高く、黒人率はさらに低くなる。
 一方、世界大会を見ていると、意外にその黒人プレイヤーが多いことがわかる。

 もちろん黒人が黒人キャラを使わなければいけない理由はカケラもない。
 むしろ自分とは真逆の変態キャラを使いたい、という気持ちもわかる。

 とはいえ、このような偏ったキャラ編成を生み出したカプコンの企画会議に、若干の不安はおぼえる。
 スパイダーマンさえ褐色の肌になっている昨今、まだKKKの愛する北欧神話のファンタジーを受け継ぎますか、と。


 前述したとおり、最後に投入される新キャラが、金髪碧眼の白人男性、ルークだ。
 どうやら重要なキャラらしく、煽り文句が鼻につく。

 ルークが正義の味方かどうかはわからないが、たぶん悪役ではないだろう。
 だが人類史的には、もっとも「悪役」が似合う連中こそ白人だと思う。

 白人をディスるつもりは、さらさらない。
 むしろ、期待を込めて書いている。

 ベガを超える魅力的なヴィランこそ、シリーズに必要とされている、と思っている。
 現状、スト5の「悪役」には不満が多い(とくにファン)。

 異なる格ゲーの流れに、キング・オブ・ファイターズというシリーズがある。
 私も「96」か「97」くらいまではプレイしていた。

 最新作には特段の興味もないのだが、ことにすぐれている部分が「悪役」だと思う。
 ギースからはじまる魅力的な悪役の歴史こそ、シリーズを継続させる原動力ではなかったろうか、とも考察している。

 その点、スト2はいつまでも「ベガさま」が悪の主役を張っている。
 途中の歴史をあまり知らないので断言はできないが、なんとなくそんな気がする。

 名前すら変えられる世界のマスター・バイソンを、否定はしない。
 が、そろそろ次世代にバトンタッチしてもいいのではなかろうか。


 人類史の再破壊をもくろむ独裁者、白い悪魔、みたいな存在はあっていい。
 チョビヒゲの鉤十字であればわかりやすいが、さすがにそれはコンプライアンス的に無理だろう。

 しかし映画業界では、そうして長らくヒトラーを「悪」の主役として愛用してきた。
 キリスト教世界で、「暴君」ネロや「悪魔」バフォメット(マホメット)が重用されてきたのと同じだ。

 ゲームにおいては、キャラの「わかりやすさ」が重要だ。
 ザンギエフがどういうキャラか、一見してわかる、というのは非常に強い。

 舞台設定においても、正義と悪を対置する構図は基本の「き」だ。
 魔王とか闇の勢力とか竜王とかを倒せばいいんでしょ、という構造の作品は枚挙にいとまがない。

 完全で力強い明確な「悪」は、ほとんどのゲームにおいて「必要とされている」。
 ことさら魅力的な悪役が重要であることは、昨今、しばしば主役に抜擢されている(マレフィセントやクルエラなど)ことからも明白だ。

 前述したルークが、そういう悪役に見えないのは、ある意味残念である。
 どうせいい役なんでしょと思うと、どんな重要な役割を果たそうとも、あまり興味はわかない。


 以上、ゲームに仮託して、善と悪についての私見を述べてみた。
 もちろん「必要」悪は作中の話であって、現実に身近に出現されるのはまっぴらごめんだ。

 悪は撃破する対象であるだけなので、わかりやすさでは議論の余地がない。
 善悪はあくまで一要素にすぎず、多様な価値観の真底は、もっと明確にしづらいところにある。

 世の中、意外にめんどくさい。
 次回は、今回あまり触れられなかった人種とジェンダーの問題を、もうすこし掘り下げてみたい。
 


 祖母の骨と暮らしはじめて、10日ほどになる。
 49日に納骨するまで、静かに線香をあげる毎日だ。

 供養とか埋葬の「儀式」に意味があるのか。
 その件について掘り下げると頭痛がする。

 霊魂があるとかないとかは証明できない。
 そんな議論をはじめるつもりもない。

 哲学者がまじめぶって秋の夜長にやるような話だし、われわれに直接関係があるとすれば、儀式を売る宗教者が市場として取り扱う範囲においてくらいだろう。
 証明できないからこそ、商売になるというのだから皮肉なものだ。

 考えてみれば、私の脳内で起こっていることだって、証明はできない。
 だから精神科医の出番があるわけだし、エセ科学と紙一重の領域で、心理学やメンタルヘルスの講義が現に行なわれてもいる。

 死者は、ミステリ的には多くを語るが、基本的には口がない。
 一方生者は、不定愁訴も含め多くのことを「訴える」ことができる。

 しかし、だれも「同じ気持ち」を共有することはできない。
 一卵性の双子ですら、まったく同じ「状況」ではありえないからだ。

 わかったつもりになって「寄り添う」ふりをする連中はいる。
 が、彼らも結局、共感したふりをする自分自身のことすら、まともに理解していないのではなかろうか。

 スキー場でコケたとき、見つめられて「ああ心配されているな」と悲劇のヒロインぶっていたら、まわりの人々はただ「邪魔だから早くどいてくんねえかな」と思っていただけだった。
 そう気づいたときの恥ずかしさは半端ない、とある女子が言っていたが、非常に同意できる。

 物事を理解するのは容易ではないし、理解したと思っても、ほとんど「誤解」だったりする。
 そんなことを、先日の選挙の後始末を眺めながら思った。


 出口調査から各局が導き出した、政党ごとの獲得議席数について。
 全局が惨憺たるありさまだったわけだが、とくにNHKの「予想」がひどすぎて笑った。

 「取りこぼしをしないのが最重要課題」であるNHKは、こう予想した(わかりやすさのため第一・第二政党に絞る)。
 自民212~253、立民99~141。

 結果、自民261、立民96。
 要するに、予想の上限にも、下限にも届いていないのだ。

 なんのために予想してるの?
 もう予想0~500でいいんじゃないの?

 全国各地で突っ込まれているとおり、まあ、ひどい。
 他の局も明確にハズしているので、NHKだけを指弾するのは厳しいのだが、「幅をとっておいて」その限界からすらハズすというのは、恥ずかしい以前の問題だ。

 212~253なら、ふつうに中央値をとって230くらいにしておけばよかった。
 そうすれば「他の局と同程度」の外し方で済んだ。

 取りこぼしをしないために、すべてを失った、といったところか。
 あまりにも目立っていたので、政治に興味のない私ですら、わざわざ記録のために書き残しておくことを選んだくらいだ。


 さて、この現象を分析した記事に、以下のようなものがある。
 「意識高い系は出口調査に協力し、そうでない人々はあまり協力しない」。

 調査に協力する人間にリベラル系が多いので、保守系の数字が低く出るという理屈だ。
 このいわゆるサイレントマジョリティは、トランプの岩盤支持層や、ブレグジット賛成派にも重なる。

 ことさらに主張はしないが、断固として保守的・排他的な選択を支持する人々。
 リベラル的な書き口を「調教」されがちな「新聞」やマス「ゴミ」に、うんざりしている人々でもあろう。

 新聞を読まない人々を、新聞側も無視することに決めた。
 そうして「互いを無視」した結果が、この始末であるのかもしれない。


 もちろん公共の報道機関である以上、言い訳にはならない。
 そもそも「予想」というものは、そういう「傾向」をも考慮に入れて算出しなければならないものだからだ。

 それが、ここまで外れたのは、まさに「恥ずかしい」話だ。
 トランプ大統領からブレグジットにつながる流れを、ものの見事に踏襲した結果であると考えると、感慨深い。

 えらそうにしているインテリの一角が、自分らのバカさかげんをさらけ出した。
 偽悪的な言い方をすれば、そうなる。

 とくにこじらせた「文系」が多いのだろう。
 「理系」をかじっていれば、その「計算」式がどれだけ貧弱な基盤に基づいたものか、わかりそうなものだ。

 簡単なことをわざとややこしく言いまわして、一般ピープルを煙に巻こうとする詐欺師の係累と考えると、「文系」に対する嫌悪はいや増す。
 まあ理系とか文系とかいう分類も、どうかとは思うが。


 『啓蒙の弁証法』(岩波文庫・2007年)という本がある。
 ホルクハイマーとアドルノによって著され、1947年に出版された。

 彼らの近代批判は、「数字になった人間」の定義からはじまった。
 その分析によれば、規格化された情報という商品の供給と、啓蒙的な支配によってもたらされた不満のはけ口が、ユダヤ人に対する虐殺だった、らしい。

 啓蒙の進展で、いわゆる無知蒙昧の迷信は縮退する。
 一方で、ナチスのような狂気が、高度な科学力を駆使して成立しうる。

 彼らの「弁証法」は、この両者への反省によって、理性と感性の融和を目指すものだ。
 現代風にいえば、えらそうなリベラルと、サイレントな保守層、仲良くしろ、という話だろうか。

 要するに、どっちも困ったものなので、お互いに自重せよと(反省的な理性)。
 読み方まちがってたらすいません……。


 みずからその「信頼度」をおとしめるマスコミ。
 私を含む「新聞も読まないような愚民」を無視した結果だ。

 この「インテリぶっている」人々は、他人を「バカにして」商売し、洗脳しようとしている層に重なる。
 まったくもって吐き気を催す連中に、反噬を食わせてやろう。

 などと、たいそうなことを考えてはいない。
 ただ、マスコミのことがあまり好きではない理由のひとつとして、とりあえず書き残しておいた。
 


 選挙から逃げるように、映画を観ていた。
 いつもなら広い心で観られる国産のクソ短編映画に苛立つ。

 発生した被害に対して、わるいのはみんな「現代人の歪んだ欲望が……」というナレーション。
 ぶつぶつと「制作者のおかしな性癖が」だろ、と突っ込む。

 底辺映画によくある風呂敷の広げ方。
 いつもならスルーできるのだが、あまり具合のよろしくない脳のせいだろう、思わず絡んでしまう。

 彼らが変態なのは勝手だし、変態であればあるほど楽しいことも理解はするが、その責任は「現代人のせい」か?
 自分の性癖によってもたらされた被害を、なぜ全体にかぶせようとする?

 根拠が強いほど、その「ひとのせい」にしていいとは思うが、浅薄なただの「責任逃れ」に堕していないかは、つねに留意する必要がある。
 なんでも「世の中のせい」にしてすっとぼけているような連中には、あまり同意できない。

 と、ケツの穴の小さいことを思ってしまうのは、政治家が「代表している」と叫ぶ声高な「国民の」声とやらに重なるからだろう。
 国民の、国民が、代表して、と連呼する政治家さま。

 国民の?
 おまえが代表するのはバックにいる利益団体の声だろ、という突っ込みは毎度避けがたい。

 そうして国民の「代表」づらして、胸を張る政治家ども。
 そういうシステムのうえに生まれ育ったのだから受け入れざるを得ないのだが、それを気持ちわるいと感じる私自身は、現代社会を生きるのに向いていないのかもしれない。


 どぶ板選挙というものがある。
 候補者や運動員が、有権者に会うために民家を一軒一軒まわる方式だ。

 インターネット上での選挙運動が解禁されてから、まだ8年しか経っていない。
 そういうウェットな人間関係は、残念ながらまだまだ必要とされているのだ。

 支持者まわり、あいさつまわり、手を振り、握手、お辞儀。
 コミュ力のカタマリのような人々こそが、政治家の基礎ポテンシャルとして期待されている。

 その自慢のコミュ力が、われわれに直接届けられる代表的なもの、それが選挙カーによる名前の連呼だろう。
 引きこもりの私にすら届くのだから、たいへんな影響力だ。

 もっとも最近では、一般的にもかなり評判わるいのが、この「連呼」である。
 当然だ、昼間寝ているひとだっているのに、意味もなくうるさい。

 人件費はもちろん、ガソリン代も最近はバカにならない、評判もわるいとなれば、やめればよさそうなものだ。
 が、彼らに言わせれば「やらざるをえない」らしい。

 名前の連呼に意味があるのか?
 あるのだ。

 とにかくその「名前」を意識下に刷り込む、そして無意識に書いて入れろ。
 要するに、そういうことだ。

 私は、同じことを二度言うのが、きらいだ。
 言われるのは、もっといやだ。

 それを無理やり、くりかえされる苦痛。
 洗脳か? もちろん洗脳だ、決まっている。

 彼らにとっての大成功、それこそ洗脳だ。
 私などは「バカにされている」としか感じないのだが、そうではない人々への訴求効果が狙いなのだから、私がどう思うかは関係ない。


 いずれにしろ昔は正しかった。
 そしてすくなからず、いまも。

 商人もよく似た行動原理で動いている。
 おもなターゲットである「バカに売る」ためには、同じ広告、宣伝文句、価格を狂ったように叫び、表示しつづけるのが正しい。

 選挙における政治家も、まったく同じだ。
 ともかく「バカに投票させる」ことが、彼らの最大の目的なのである。

 購買層や選挙民を見下して行動すれば、名前を連呼するのはあまりにも正しい。
 だから私のように「バカにされている」と感じる、最初から選挙に行かないような人間は、そもそもどうでもいい。


 ただし、それがつねに正しいというわけでもない。
 アマゾンの動画広告で、こんなことがあった。

 冷静な(たぶん)女子高生が、「この松本ってひとのこと好きでも嫌いでもないけど、このひとの番宣から解放してくれるなら、プライムに100円よけいに払ってもいい」というようなことをツイートしたらしい。
 賛同の嵐だったように記憶している。

 ひたすらくりかえすCM、相手がバカ前提の「連呼」に効果があるとして、当然に反対の効果もある。
 これは、そうやって視聴者とやらをバカにしすぎて、しっぺ返しを食らったいい例だろう。

 昔の少年漫画の編集者も、バカに伝わるように書け、と要求していた(最近は知らない)。
 世の中のたいていの人間はバカ、だからバカ相手に効果的な方法をとる。

 私が「商人」や「政治家」を嫌悪する理由が、このあたりにもある。
 彼らがそうする理由も理解できるので、なおさら腹が立つ。

 これが効果的ではない時代になることが、国家や経済の「成熟」なのではないかと思っている。
 それまではヘッドホンでもして、選挙という苦行に耐えるとしよう。
 


 きょうは「悪役」について語るつもりだったが、状況がすこし変わった。
 結果的には、毎度おなじみ私自身の「悪」について語ることになる。

 先週末の予定としては、読書会に合わせて課題図書についてまとめる予定だった。
 まさにその当日未明、電話が鳴った。

 祖母が亡くなったらしい。
 すぐに病院に向かい、やるべきことをやった。

 現在、私は祖母の家に仮寓している。
 喪主ではないが、それなりに中心的な役割で、事務的な対応をせねばならない。

 いかに私が非常識な人間でも、さすがに読書会の参加は見合わせた。
 まあ任意参加のようなところもあるので、特段だれにも迷惑がかかっていないのは幸いだ。

 病院から葬儀社までの流れは、なかなかルーティンワークだった。
 夜が明けるまえには、さしあたり必要な事柄を片づけて帰宅できた。

 いつもと同じように、動画を眺めながら焼酎を飲み、カップラーメンを食った。
 私はイヌ派なので、イヌが敵として登場する『ファイナル・デッド』なるB級映画を、最高の悪役だなワンちゃん、と襲われる人間よりイヌに感情移入して観た。

 ちなみに一世を風靡したファイナル・デスティネーション・シリーズとは、まったく関係ない。
 このクソ邦題感も、B級ならではのルーティンだ。


 そのまま眠ることなく昼を待ち、葬儀の打ち合わせに向かった。
 書類や写真の準備、荷物をとりにいったり退院の手続きなど、ほとんどは父親がやったが私も多少、手伝った。

 タイミングがいいのかわるいのか、喪主である母親は入院中だ。
 ラインで届く喪主の見解を伝えつつ、基本的には父親の意見に多少の訂正を加える程度で、最低限の役割を果たした。

 どうやらこの手のイベントが好き(?)らしい父親は、通夜や告別式などちゃんとやりたがったが、母親や私は反対だった。
 おばあさんもちゃんとやってほしいと思ってるよ、という父親の言葉には率直に疑義を呈した。

 葬儀を盛大にやるのは「生きている側の都合」だ。
 よほど明確に「遺志」表示していないかぎり、死後のことに死者は関知しない。

 私はいわゆるばあちゃん子であり、ばあちゃんには世話になった。
 よって、できることはしてやりたいと思うが、葬式を盛大にやることが恩返しになるとは考えていない。


 私自身、まあまあ「死にたい願望」に取り憑かれている。
 が、まだいくらか書き残したいことがあるので、死なないように生きている。

 それでもいつか必ず死ねると思うと、心は安らぐ。
 祖母がどういう気持ちだったかは、わからない。

 死ぬまえの時間──全人類が現在進行形で体験中だが──とくにひとりで病室にほりこまれ、死ぬのを待っている気持ちというのは、どんなものだっただろう?
 祖母はテレビがきらいなようだったし、ただ横になって寝ているのは、いわゆる「考えるのをやめた」状態だったろうか?

 きちんと病院に入れ、施設にも入れた。
 親族として、やってあげられることはやった、といえるだろうか。

 老衰は自然なことで、101歳の老婆を健康にもどす方法などないわけだし、お金や食べ物をあげたところであまり意味はなさそうだ。
 もしかしたら食べるだけ食べて死にたかったのだろうか、それともただ話し相手になるだけでよかったのか?

 生きているあいだに、もうちょっとできることはあったかもしれない、とは思う。
 よって自分が死ぬときは、まわりのひとができることを全部やってくれなくてもしかたない、とあきらめるつもりだ。

 自分がやったことは返ってくるし、やらなかったことはやってもらえない。
 そう考えることで心が安定する人々は、私と気が合う。


 社会的な動物であるイヌは、群れとともに生き、死ぬのだろう。
 いわゆるイヌ派、ネコ派でいえば、私はイヌ派だ。

 しかし性格的には、ネコタイプであると自覚している。
 私はネコのように死にたい。

 あれ、最近タマ見かけないね?
 という感じで、ふいにいなくなるネコの生きざまは理想だ。

 要するに、死にざまを他人に見せず、この世から突然「消え去りたい」。
 さすがに現代人類社会で、そういうわけにもいかないだろうことくらいは理解しているが。

 結局だれかの世話にはなるのだろう。
 最低限のルーティンワークで「処理」していただければ、それでよいと思っている。

 生前は生者(当人)、死後も生者(他者)の都合で動く。
 家族葬は、しめやかに執り行われた。


 本日仏滅、先ほど無事、葬儀を完了して帰ってきた。
 リアリストなのでまずは現金な話をしておくと、葬儀社に支払う料金は80万円ほど、坊主には50万円ほどの「費用」が発生した。

 葬儀費用の全国平均は約195万円らしいので、それよりは安く済ませることができた。
 一生に一度のことではあるので、多少の出費は許容範囲、という人間の心理をついたうまいビジネスだな、と感心する。

 私は、枕頭に置く3000円の花すらいらないと考える派だが、父親はそういうオプションをつけるのが好きなようだった。
 最低限の家族葬を希望していた母親には、それでもよけいなコストをなるべく省くよう努力したことだけは伝えた。

 祖父の場合は、因業ではなかったが「院号」つきではあったので、坊主には100万くらい払ったらしい。
 坊主丸儲けだな、と思いながら淡々と終焉の儀式を見守った。


 午前中の納棺にさいしては、不覚にもすこしだけ目を潤ませてしまった。
 しかし午後、坊主がうなっているあいだは、まったく涙が出なかった。

 葬儀社の職員と談笑する坊主を見ていたせいもあるかもしれない。
 僧侶より納棺師のほうが、よほど「感情」に寄り添うのがうまかった。

 七十人訳聖書からバガヴァッド・ギーターまで、さまざまな信仰・教義というものを研究した結果、基本的にはすべての「宗教」に対して「罰当たり」なことを考えるスタンスで生きている。
 彼らがやっているのは、不安と儀式を支配・販売するという「ビジネス」だ。

 その後、移動した火葬場においては、リアルに物質化した「死」をまえに、もっと大きな感動があるかもしれないと思っていた。
 しかし骨集めなどやってくれる担当の職員さんのしゃべり方が舌足らずすぎて、涙ではなく笑いをこらえる必要があった。

 結局、「泣く」ことはなかった、といっていい。
 冷たいひとと言われそうでも、もっと悲しい瞬間に涙はとっておこうと思う。
 


 私はB級のクソ映画(誉め言葉)が大好きだ。
 とくに自分のポンコツ脳みそに対する破壊衝動の代替として、ホラー映画を利用することがよくある。

 で、たまたま『クライモリ』シリーズを観た。
 森に隠れ住む人喰いのミュータント家族に、迷い込んだ犠牲者の一団がつぎつぎと殺されて食われるという、なにも考えずに観れるスラッシャーホラーだ。

 帰れるのは悲鳴だけ、というよくわからない日本語のコピーも、きらいじゃない。
 お約束どおり、アホなカップルを筆頭に、多彩な殺されようをしてくれる。

 間断なく切り刻まれ、くりかえされる人体破壊。
 理由も一応ある、「それ」はミュータント家族たちの「主食」なのだ。

 ある意味、われわれ自身の悪質なイミテーションにも見える。
 人類はいま、どれだけの数の動物たちを殺し、食っているか……?

 などとよけいなことを考えてしまう自分に嫌気がさしつつ、何作かシリーズを消化した。
 1作目はそれなりにシリアスな猟奇ホラーだったが、その後はほとんどコメディで、どっちにしてもわるくないクソ映画だった。


 この『クライモリ』シリーズがリブートされたらしい。
 「性差別を排除」した形で。

 ふつうに同性愛カップルが出てくるとか、それに対して差別的なおっさんが殺されてカタルシスを得る、といった具合のようだ。
 処女だけが生き残る、というようなお約束も排除されているらしい。

 個人的には、「ホラー映画の役割」を果たしてくれていれば、それ以外のことはわりとどうでもいい。
 とくにB級スラッシャーに求められるのは、暴力や破壊、殺人の描写であって、思想性などはまったく期待していない。

 そういうジャンルにまで、性差別うんぬんのコンプライアンスが及んできたかと思うと、隔世の感がある。
 もちろん制作の基本的な部分として、「不条理な差別」を解消すべきであることは言うまでもないが。


 ジェンダーの問題では、個人的にいくつか思い出すことがある。
 最近では、とある賞レースで私の作品を評価してくれた「編集者」さまのお言葉だ。

 その作中には、いわゆる「ジェンダー」的に問題のあるキャラクターが出ていた。
 そういうキャラを出すと、作者もそういう人間だと思われてしまいますよ、とダメを出された。

 登場人物の性格と作者をイコールにするわけではない、と彼自身言ってはいたが、作品に対する彼の評価は最低だった。
 こういう人に好かれる無駄な努力を、永らくつづけてきた。

 その無駄さに最近ようやく気づいた、と前回すこし書いた。
 毒々しい作品を書く人間に、作品から毒を抜けと求めるのは、要するに「書くな」というに等しい。

 彼らに忖度することの無意味さが、おわかりいただけるだろうか。
 それでも配慮しなければいけないのが、出版などの「業界」ではあるのだろうが。


 自分がおもしろいと思ったものを書く。
 それをつまらないと思うひととは距離を置く。

 簡単なことのように思われるかもしれないが、徹するのは意外とむずかしい。
 結果、妥協するような書き方が、私の作品を中途半端な、ろくでもないものにしていた。

 そのことに気づくのに、だいぶ長い時間を要した。
 嫌われる勇気が足りなかった自分が、恥ずかしい。

 アドラー心理学的な意味ではない。
 あれはあれで、どうかと思う部分は多い(疑似科学的とか)。

 ただし納得できる部分もけっこうある。
 嫌われる勇気は、やはり必要だ。


 自分が他人から「嫌われる体質」であることは、察してはいた。
 それでも、やっぱり社会人として多少は好かれたほうがいいんじゃないかな、と日和っていた過去の自分を殴ってやりたい。

 私は私が書きたいものを書くし、そんな私への評価が最低なひとに対する私の評価も最低になる。
 彼らも別段、困りはしないだろう。

 お互い、別の島に暮らしていて、たまにすれ違ったらあいさつをする程度の関係。
 いや、あいさつすらしなくていいかもしれないが、わざわざ仲良くしようとする必然性は、根底からないことになぜもっと早く気づかなかったか。

 べつに私は、あのひととかかわらずに人生を終えても、なんの苦痛もないし、むしろそのほうがいいかもしれない。
 相手にとっても同断だろう、そもそも「考え方」がちがうのだ。


 私は差別主義者ではない。
 女の責任をもっと積み増して、もっと多くの男を食わせてくれたらいいな、と思っている。

 が、男と女は「同じ人間」では「ない」とも思っている。
 どう見ても「異なる人間」であり、一定程度「役割分担」すべき蓋然性を否定するつもりもない。

 大自然系の動画が大好物で、人類進化についてもだいぶ学んできた。
 で、どう考えてもオスとメスは異なっているし、何十万年もかけて築いてきた「分担」をいきなり全否定してかかる時点で、その蛮勇にはあきれる。

 すくなくとも白人と黒人の差より、男と女の差のほうが大きい。
 おかしな差別は撤廃すべきだが、根拠のある区別は残りつづけるだろう。


 という「異論」に対して、封建的で差別的、と決めつけてくる「発狂系」フェミさんについて作中で語らせたとする。
 すると、そういう作品を書く作者はアンチフェミニズム的な差別主義者だと思われるので、とても評価できません、となる。

 なるほど、これがうわさの「フェミさんを敵にまわすと大変だ」という危機管理本能か、と理解した。
 編集者もたいへんですね、とは思う。

 実際問題、キャラとしてやや露悪的に強調した部分はあるが、とくにまちがったことを書いたつもりはない。
 私は「いわゆるフェミさん」と同じ意見はもっていないのだ。

 ほほえましいと思ったのは、彼が付け足したひとことだった。
 ──もちろん「わざと」そういう「キャラ」を出していることは理解しています。

 どの程度のニュアンスかはともかく、複雑な社会について思い致す契機としてはじゅうぶんだった。
 いろんなひとに気を使って書かなければいけないんだ、と。

 など忖度しつつ、コンプライアンス? どうでもいいよ!
 と叫んでいた江頭さんの動画で癒された。


 くりかえしておくが、私は女のひとに、もっと活躍してもらいたいと思っている。
 暴走してフレンドリーファイアをぶちかます、そのへんの下手なフェミさんより、よっぽど女のひとをたいせつに思っているつもりだ。

 たとえば、とあるフェミさんの活動について、こういう部分は直したほうがいいですよ、という「意見」を申し上げたとする。
 するとその「発狂系」フェミさんは、私のやり方を批判する人間はフェミニズムを理解していない愚かな敵、と決めつけて「批判」し、仲間たちを焚きつけてその「粛清」に汲々とする、ということが事実ある。

 すぐに気づくのは、往時の共産主義との類似性だろう。
 自己批判を強要され、殺し合って果てた集団が立てこもった山荘が、うちの近所にもある。

 味方の勢力を減じる、まさに同士討ち。
 前述の例でも、その「意見」を発した、ふつうにフェミニストだった若者は絶望して、活動に距離を置くようになったという。

 人類というものは変わらないな、と思った。
 残念ながら、自分の正義を信じるあまり、その活動の幅をみずから狭めていく「原理主義者」というものが、たしかに実在するのだ。

 あらゆる宗教やスポーツなどの集団に、「狂信者」や「フーリガン」と呼ばれるような少数派は、必ずあらわれてくる。
 彼らは声が大きく戦闘的なので、下手に敵対すると痛い目に遭う。

 その存在はフレンドリーファイアとなって味方を傷つけることもあるが、撃ちまくっていれば敵に当たることもある(ので無意味というわけでもない)。
 こういう危険な集団に、なるべく近寄りたくないというのは、人間として正直な反応でもあるだろう。


 私は、それに触れる物語を書く。
 政治や宗教、神や悪魔のタブーに触れようとも、書きたいものを書く。

 そもそも私は、私の考えが差別的だとは思っていない。
 そう思う人々がいるとして、彼らに忖度する物語を書くつもりはなくなった。

 「不条理な」差別の解消のためには、もっといい方法がある。
 すくなくとも「原理主義者」の方法は、断じて正しくない。

 さらにいえば、人種差別や社会の不公正へのありかたも、現状、強い違和感をおぼえている。
 私は公正世界仮説の信奉者であり、つねに均衡ある方向へ社会を進めていくべき義務が、われわれにはある。

 フィクションにおいても、その信念はゆるぎない。
 そのために必要な「悪役」の表現も含めて、次回は語っていきたい。
 


 最近、脳の具合がよろしくない。
 定期的にやってくるので、毎度おなじみやり過ごしてはいるが、そのたびに感じる危機感は増しつつある。

 終わりにしたい。
 そういう衝動に堪えて、いまこうして書けているのは僥倖だ。

 そう、これはひどくラッキーなことだと気づいた。
 本能的に避けてきたからこそかもしれないが、だとしたら生物の「生存本能」というやつはおそろしい。

 ちょうど92年の映画『セント・オブ・ウーマン』を観ていた。
 目に麻酔でもしているのではないかと思うくらい、盲目の退役軍人を演じるアル・パチーノの演技はすばらしかった。

 そこで彼は拳銃を手に言った。
 役立たずが無駄飯を食っている、きみにも気持ちはわかるはずだ。

 その強烈な自殺衝動に、少しく寒気をおぼえた。
 そして少なからぬ共感も。

 正直、自分が役立たずだというだけの理由で死を選ぶほど、私は高潔な人格の持ち主ではない。
 しかし他人とのかかわりで生じる多くの問題が積み重なれば、死にたくなるリスクは格段に増すだろう。

 私の場合、自分の「内部」に厄介ごとを抱えているが、外部には比較的それが少ない。
 いま、こうして生きていられるのは、そのおかげでもある。


 人間関係に悩んでいるひとは、世の中にとても多いと思う。
 どこかの心理学者も、人間が悩む原因はすべて人間関係にある、と喝破している。

 私は早々に「まっとうな社会人」の道をドロップアウトしたので、他人の意見はあまり気にしない。
 ノーストレスで、きょうも元気に引きこもっている。

 と、そんな気でいたが、社会との接点がゼロではないので、対人関係ではそれなりの正気を保たねばならない。
 偽悪的な態度をとることもあるが、基本的には好かれる方向でいたい。

 社会から強制的に弾かれるほどではない範囲で、一応の「社会人」を演じている。
 そうして「正気でいること」それ自体に最近、若干の違和感をおぼえた。


 私は趣味で小説というものを書いている。
 あくまでも趣味だ、と言い切りたいところだが、まだそれをひとに「認めてもらいたい」という、いやらしい気持ちが拭いきれないらしい。

 講座などに参加して、他人に読んでもらったりしているのも、そのせいだろう。
 去年、謎の10万円が舞い込んだことなどもあり、それをSF講座なるものに使ったことについては後悔もないが、ここで学んだいくつかの事柄については、必要以上の後悔をもたらしている。

 どういうことか。
 批判を承知で、あえて語ろう。


 そもそも「好かれるものを書こう」という気持ち。
 これが諸悪の根源だった。

 他人に評価されるための講座なのだから、批判を受けるのは当然だし、覚悟もしている。
 しかし納得のいかない評価や、意見の割れる部分について、どこまで受け入れ、忖度すべきか?

 いわゆる「えらいひと」が評価をするので、彼らに好かれる作品を書くべきだ、という心理的モメントが前提として措定されている。
 これに合わせることに汲々とした……つもりはないのだが、個人的にこの「寄せる努力」に最後の答えが出たことは、よかったと思う。

 私は書きたいものを書くべきだし、それを読みたくないひとには読んでもらいたくない。
 割り切ろう、と。


 人間関係は、できるだけ円滑にしたほうがいい。
 そのための努力は必要だが、たくさんいる人間たちのなかで、真っ先に削っていいのが「自分のことを嫌いなひとに好かれる努力」だと思う。

 ひとに好かれる努力それ自体は、社会的生物として必要だ。
 しかし全員に好かれる必要は、そもそもない。

 世の中には、あなたと「気が合う人」と「合わない人」という、両極端な少数のふたつの集団がある。
 それらを含めた「みんなに好かれる努力」は、不必要であり、すくなくとも極度に優先順位が低いと、まずは認めよう。

 真逆なのが、気が合う人だけを探して仲良くする、という生き方だ。
 もちろん、それもあっていいとは思うが、それだと世界が狭まりやすい。

 事実、世界の人間の大多数は、あなたに「興味がない」。
 互いに興味がない間柄での「交流」はあっていいが、そこで「気が合わない」と判明した人々まで含めて仲良くしようとする努力のコストは、あまりにも高くつく。

 そもそも相手はこちらのことを嫌っているのだから、相手も自分が嫌われる覚悟くらいは決めているはずだ。
 ある意味、お互いの意見は一致しやすい。


 作品に対する好き嫌いは、もちろんあっていい。
 その好き嫌いを表明された側の態度の話だ。

 結論からいえば、私は私の作品が嫌いな人という集団から気に入られる努力を、最初から放棄することに決めた。
 これまでもそんな気分になったことはあったが、最近ようやく踏ん切りがついた。

 おそらく私の作品に嫌悪感を示す編集者が多かった結果が、現在の私がただの「趣味で小説を書く人」につながったと思われる。
 が、ここにも一定の留保条件がつく。

 これまでは、そういう人に好かれるものも書かなきゃいけないのかな、と漠然と思っていた。
 それが結果的に、自分の作品の中途半端さにもつながっていた。


 もちろん「忖度」したからこそ、ある程度まで選考に残してもらえた、という可能性はある。
 10作以上書いているが、ほとんどが「それなりに」残っている。

 しかし冷静に考えると、選考に残してもらったから、なんだというのか?
 この業界、「2位じゃダメ」なのだ(例外はある)。

 なんらかの賞レース、「受賞してからモノを言え」という空気のなかで、枯れ木も山の賑わいと名前を残してもらうことに、ほぼ意味などない。
 いまさらながら、そういうのに「うんざり」した。

 主催者側のいちばんえらい編集長に、私は嫌われている。
 そろそろ学習して、見習おう。

 そうだ、こういう人に好かれる必要はない。
 それなら最初から、私の作品が好きと言ってくれるひとに向けた作品を書けばよい。


 コストは最適に配分しよう。
 とくに自分が少数派だと自覚している人は、わざわざ「あなた(の書くもの)が嫌い」とみずから標榜しているような人々と仲良くする努力だけは、まっさきに排除してかかるべきだ。

 学校などで「えらそうにしている」やつらに、こういう手合いはとくに多い。
 旧来の枠組みで出世するタイプと、少数派のあなたが、そもそも相いれるわけがないことを、はなから覚悟しよう。

 もちろんすばらしい教育者はたくさんいるので、あなたの側に問題がある可能性には、つねに留意する必要はある。
 が、それでも書きたいものがあるなら、好きなものを書くべきだ。

 こんな簡単なことに気づくのに、半世紀近くもかかった。
 あまりひとのせいにしたくはないが、日本の教育行政への不満は感じざるを得ない。

 自分の性格が孱弱だったのと、いやらしい社会的生物の本能が邪魔したことは認める。
 それに、弱い人間のほうが人にはやさしくなれたりして、弱さは必ずしも悪ではない。

 とはいえ別段いいひとでもなかった私は、そのへんも中途半端すぎた。
 自己正当化という罠に、そうとうハマっていた。

 つねに疑問をもちながらも、決めたことはやり遂げる。
 なかなか難しいのだが、これからは徹していきたい。

 好きなことを好きなように書く。
 そう、趣味に徹すればいいだけだ、むしろ世界は簡単になった。


 最後に、言うまでもないことではあるが一応、書き残しておこう。
 私が評価されない最大の原因は、私の能力が足りないからである、以上。