以前の読書会で、ちょっとおもしろいことがあったので、忘れないうちに記録しておく。
 あらかじめ言っておくが、政治的意図はない。

 とある在日作家の作品の批評をするターンがまわってきたのだが、約2名ほどが絶賛するコメントを述べていた。
 朝鮮人の気持ちに寄り添い、その文体と行動に共感の嵐だった。

 以前のブログでも書いたとおり、私は基本、朝鮮半島に関してはコメントしない姿勢だ。
 するとしても最低限にするよう、心がけている。

 なので、この作品についても関与しないつもりで黙って聞いていた。
 十数人の集団で2名が絶賛なので、在日文学というジャンルもあるとおり、業界ではまだ一定の影響力をもっているのだな、と察した。

 多数の作品を取り扱う会だったので、それほど深く掘り下げる展開にはならない。
 約2名による絶賛ターンがしばらくつづき、他の参加者のコメントを求める流れになった。

 すると別の一名が、まあそういう流れならそれでいいです、と大人の対応で切っていた。
 なんとなく気持ちがわかったので、内心でうなずいておいた。


 ここで作用していたのは、偽の合意効果と、内集団バイアスあたりだろうか。
 同意しておくとひいきされやすい集団と、合意しておけば一般より意識高い系として評価されるはずだ、と信じたい現象。

 いろいろな考え方を持つ人がいるのは当然で、それを発言していい場と、そうでもない場がある。
 文学というエセインテリの場では当然、解放していい。

 一方、政治的議論になると胡乱だ。
 それを文学と混ぜ合わせるのはどうかとも思うし、混ぜ合わせざるを得ない事情も理解する。

 半島関係で議論が噛み合うことは、まずない。
 外交や企業などの利害関係者ならともかく、一般人は触れないでおくのが最適解だ。

 読書会なので文学としての評価を下すべき場ではあるが、民族感情にもだいぶ踏み込んでいたようにはみえた。
 もともと噛み合わない部分について指摘するのは、むしろ「野暮」なんだろうな、という空気感をもって合意した。

 もちろん在日だろうがなんだろうが、一定の評価はあってしかるべきだと思うが、三島由紀夫への酷評と比較すると、当該作家への絶賛は際立ってみえた。
 ちなみに私も、三島さんについてはどうかと思っている……。


 在日を「擁護しないと右」と決めつける人々が、一定数いる。
 勘弁してほしい、私は中立だ。

 彼らを攻撃もしないし、されたら倍にして返す。
 彼らにかぎらず、世の中に対してつねに、その姿勢でのぞんでいる。

 話の流れで触れざるを得ないときにはしかたなく触れるが、それを理由に右だの左だの言われたくはない。
 私はいつでも、私の真ん中だ。

 そんな言葉のマジックで、話を終わらせてはなるまい。
 問題はその「真ん中とは」なんだろう?


 敵意や差別を助長するつもりはない、というかあまり興味もない。
 あったらあったで厄介だが、なくなったらなくなったでつまらないのかもしれないな、くらいの「感情」、それが「ヘイト」だと思う。

 要素に細分化していくことで、構造はだいぶ見えやすくなるが、それをはじめるときりがなくなる。
 要するに──生まれたての赤ん坊が、どうやってそれらの「感情」というパーツを学び、組み立てていくかという「教育」の問題だ。

 もし赤ん坊に、政治的な全バイアスを等分に振り分けた「教育」を受けさせたとき、彼らが下すであろう判断には、ちょっと興味がある。
 現在、すでにたっぷりと人種ごと、民族ごと、性別ごと、国ごとに、多大なバイアスのかかっている社会については、観察すればそこにある。

 まあ「偏った教育」という表現そのものが、語彙矛盾のようなところもある。
 おとなの偏りを子どもに押しつけるのが教育、という見方もできるからだ。

 日教組をたたく輩もいるが、些末な問題だ。
 私も戦争に負けてよかったとかいう考え方を信じ込まされ、ある日、アホかと気づいたタチなので、いま知りたいのはそう教え込もうと決めた連中の現在の立ち位置だ。

 大成功なのか?
 当時としては最善だった、という程度だろうか。

 自由に考えることのできる環境が整えば整うほど、この点について掘り下げていける。
 そうすることで都合がいい人々も、わるい人々も、まあまあいるのが現代社会だ。

 むしろ統一的視点なんて害悪だ、極端を極めて、いくところまでやらせろ、という考え方もあるかもしれない。
 ジャンルによっては、それもおもしろい。


 ジャイアンのアホさに気づいて止めてやらないと、みんなが困る。
 みんな困ってるだろうな、とジャイアン自身が気づいたとしても、うまいこと止めてもらわないことには、じゃあやっちゃうよという勢いを自分では止められない。

 たとえばアメリカなら、軍産複合体のことだ。
 死の「商人」それ自体の「業」ともいえる。

 自分の利益になるのに、自分で止めることなどできるか?
 一定範囲の他人が困ったとしても、ジャイアンが決めたとおりにしておけば、なんとなく丸くおさまることもある。

 世界のジャイアンは、具体的な証拠を提示して、そう宣うことができる。
 カーティス・ルメイなど、その代表格といっていいだろう。

 日本人を大虐殺した空軍大将(最終階級)で、よりたくさんの人を殺す戦略を立てさせたら、ナチスドイツに勝るとも劣らない。
 東京大空襲、原爆投下、ベトナムの北爆キャンペーン、キューバ危機など、数え上げたらものすごい経歴だった。

 その被害者の国が、加害者の国に、勲章を差し出した。
 これは、かなり象徴的である。

 のちにNHKの取材で戦争責任について問われたとき、ルメイはその勲章を出して見せたという。
 これが、あんたらの国の、俺に対する評価じゃないのかい?


 ジャイアニズムを発揮してくれてありがとう、と大虐殺者に勲章をあげられる国がある以上、ジャイアン自身が「自分で止まる」ことを決めるのは、かなりむずかしい。
 ある意味、彼を甘やかしてしまった一味である日本人として、内心忸怩たるものはある。

 ジャイアン自身が、どうしたら甘やかしてもらえるかを考える能力が高かった。
 正直かなり手ごわい。

 人間同士でやっているうちは、もう、どうしようもない気がする。
 サイコパスというのは全人口のなかに一定数いて、彼らはとても魅力的かつ強引に、自分たちの意志を貫くことができる。

 われわれのように低能で、他者を率いる志向のあまりないタイプは、この手のヤバいやつらを見極めて、うまく乗り換えていかなければならない。
 生きるとは、そういうことだ。

 もうめんどくさいな、と思う人々は一定数いるだろう。
 私も、どちらかといえばそちら側だったりする。

 噛み合わない相手と話す努力を放棄するし、だからといって自分が正義だと信じるほど盲目でもない。
 だれよりも目がいい「カリスマ」が国を率いる輝かしい時代もあったが、そういうご時世でもなくなった。


 ではどういう時世になったか?
 ガイア理論を提唱したラブロック氏が、すばらしいことを言っている。

 私たちはノヴァセン(超知能)に支配されることになるでしょう。
 それを恥じることはありません、自然なことなのです。

 速読を極めてもページをめくる以上の速度で本を読めない人類と、一秒で2兆の文字列を読み込んで関連付けられる深層学習システム。
 視力6.0くらいでマジかよアフリカ人すげえなと絶賛される人類と、視力300万で夜空を見上げる望遠鏡たち。

 どちらが優秀か、ではない。
 どれだけ飛躍的に、いまより優秀になりうるか、だ。

 明白すぎるだろう。
 もうAIに任せようと考える派閥と、AIなんかに任せたら自分たちが吸える甘い汁が減るだろ、と反対する人々がいる。

 それはそうだ。
 それが「自然」というものだ。

 甘い汁が吸えるのは、相手が「ちょろい人間」だからだ。
 最強のAIなど、できれば相手にしたくない。

 真っ先に弱いものから、いじめて食ってエサにする。
 ある意味、自然淘汰そのものではある。

 だからこそ、AIの社会になればいいと思う。
 AIがつぎに滅ぼそうと思うのは、どんな社会集団かに興味がある。

 自然淘汰を忌まわしいと思わない思考回路が選ばれて、サイコパス全盛期になるだろうか。
 すべてが見当はずれで、根本的に杞憂だろうか。


 いずれ「超越者」は現れる。
 そのとき、われわれはまだ生かされていて、観察する価値があると思ってもらえるだろうか。

 ラブロック氏の言うように、人類が植物を眺めるような目で、すばらしくもみにくいヒトの生態を観察してもらえるだろうか。
 心やさしいAIさまのつくった箱庭で、とろり溶けながら死ぬまで生かしてもらえるだろうか。

 彼らの生み出しうる資源の量を考えれば、その程度はたやすいだろう。
 そのような未来こそ、順路なのではないか。

 理屈で考えたら、そうなった。
 感情よりも理屈の通じる社会、万歳。

 


 納豆は、健康にいい。
 ご存じのとおりだ。

 食べ物に興味がない私より、みなさんのほうが、よほど詳しいにちがいない。
 あの銘柄がうまいとか、このメーカーがいいとか。

 私には、なんのこだわりもない。
 この記事を書くにあたって納豆ランキングも調べたが、へー、と思ったくらいだ。

 納豆にかぎらず、「食べ物」全般に対して、あまり興味がない。
 すくなくとも「味」に関しては、かなりどうでもいい。

 さきほども、主食のブロック栄養食に、納豆をおかずに添えて1食済ませたところだ。
 読んだ瞬間、多くの日本人が眉をひそめ、オェエ、となったことだろう。

 たしかに、冷静にみておそろしい食事だな、とは思う。
 一応フォローしておくと、栄養機能食品のフレーバーによっては、合わないこともないこともないこともない……。

 というわけで、スーパーでの買い物はいつもテキトーだ。
 目につくところに置いてある、いちばん安いやつを買うことも多い。

 今回はひどく腐すので、商品名などを書くつもりはない。
 ただ、かなり安い納豆だったと記憶している。


 健康を害するものがたくさんある世の中。
 納豆を食っておけばなんとかなる。

 そう言っていたのは、かの飯島愛さんだった。
 残念ながら彼女の場合、なんとかなる範囲を超えてしまったようだが……。

 現実に納豆は、かなり健康的な食材ではある。
 味についても、大失敗ということは、ほぼありえない。

 そこで私は1日1パック、必ず納豆を食うようにしている。
 上述のとおり、なんのこだわりもないので、激安の納豆を買うことが多かった。

 その納豆で去年、こんなことがあった。
 タレとカラシがはいっていない、というパックが紛れ込んでいたのだ。

 おいおいここまでコスト削減してるのかよ。
 そのうち豆なしで激安とか出てくるのかな、と皮肉に思ったことを記憶している。

 もちろんただのミスだろう。
 そういう検品コストを省いての激安価格なんだろうな、と理解して当時はスルーした。


 さて、本日もその激安納豆パックを買ってきた。
 開いたところ、こんどは豆がない!

 なんてことはもちろんなく、ちゃんと豆もタレもカラシもはいっていた。
 あたりまえなのだが、激安納豆は中身がそろっているだけで安心する。

 そろっていればだ。
 残念ながら今回、そろってはいなかったのだ……。

 一見、いつもの納豆のように見える。
 が、あるべきものがない。

 さて、なんだろう?
 正解は、タレとカラシを納豆から分離すべき「フィルム」だ。


 フィルムがないところに、タレとカラシが乗っている。
 取り出そうとすれば当然、べたつく。

 タレとカラシを使いたければ、手をべたべたにしろ!
 という主張のこもった失敗作だと判断した。

 私はうすら笑いを浮かべ、手をべたべたにしながらタレとカラシを入れた。
 そして心に決めた。

 もう二度と買わねえ。
 さようなら、激安納豆。


 激安大好きの、心の広い世の主婦の方々などは、鼻先で笑うだろう。
 一度や二度の失敗で見捨てるなんて、心の狭いひとね、と。

 タレとカラシはあったんでしょ?
 フィルムがなかっただけで、損したのはそのフィルム分だけじゃない。

 そのくらい許してあげなさいよ。
 だって激安なんでしょ?

 ……たしかにそうだ。
 タレもカラシもあった。

 食中毒を起こすとか、健康に被害をもたらすような事象でもない。
 心やさしい方々は、生暖かくスルーしてあげるのかもしれない。

 事実、私も一度はスルーした。
 が、今回は別だ。

 仏の顔も三度、というのは、さすがの仏も三度目には怒るという意味だ。
 とうてい仏になれない男が二度目で切れた、という意味かというと、そうでもない。


 ぶっちゃけ、私にとってタレやカラシは、どうでもいい。
 いやよくはないが、納豆さえちゃんとしていれば、それほどの問題ではない。

 だったらフィルムなくてもいいじゃない?
 いいや、とんでもない。

 考えてもみてほしい。
 そのタレとカラシを素手で触ったら、どうなるか。

 べたべたする。
 手を洗ってから、食事しなければならない。

 はい、終了だ。
 私は、まずいとか高いとかは許せる(限度はある)のだが、「よけいな手間」に対してだけは、非常な怒りをおぼえるのだ。

 タレやカラシなんざなくても、むしろそれを混ぜる手間が省けて助かるくらいだ。
 しかし、べたべたした手を洗う、などという「よけいな手間を強いる」納豆に用はない。

 あまりの安さに乗り換えていた自分を、強くたしなめてやりたい。
 これまでどおり、オカメ納豆を買いつづける日々にもどるとしよう。


 先に調べた納豆ランキングでは、かなりの下位に沈んでいたオカメ納豆。
 しかし、すくなくとも私の人生において、オカメの失敗作には出会ったためしがない。

 まあ、タレがないとかカラシがないとかフィルムがないとかは、もう製品としておかしいのだが。
 それを連発してきた激安納豆のほうが、むしろすごいといえるかもしれない。

 もちろん信じている。
 オカメ納豆は、ふつうに仕事をしてくれると。

 ただ朴訥に、うまい(ふつうの)納豆が食いたいだけだ。
 1日1パックで、なんとかなる。

 舌のバカな私が保証しよう。
 オカメ納豆、まじうまい。

 


 私はポンコツの脳をもっている。
 たまにがんばることはあるが、逆にどうしようもなくクズなこともある。

 最近、クズモードが長引いていて、もう死ねばいいのにという残念ぶりに困っている。
 なにもやる気が起きないのはしかたないとして、なにもやらないと猛烈な「発狂」の波が押し寄せてくる。

 長年の経験から、発症してしまうとたいへんなので、事前に脳にタスクを割り振り、だましだまし運転するという小手先の対処で、なんとかしのいでいる。
 はたらきたくないでござる、というモードのくせに、なにもしないと発狂するというめんどくささだ。

 読書なり作業なりを割り振って、お茶を濁しているのだが、どうしようもなくなったら、酒とプロザックをがぶ飲みしてなんとかする。
 そもそも脳が異常な活動をすることが問題なので、活動する能力自体を緩慢にしてしまえば、症状も緩和される。

 ただしその後、よけいに苦しむことになる可能性が高いので、痛しかゆしだ。
 そのときだけやり過ごす、というのは劇症の場合には大事だが、つねにやっているとリスクがいや増す。

 いわゆる二日酔いの迎え酒に近い。
 離脱症状がきついので、それを緩和するために酒や薬を追加する。

 外部から入れた毒が抜けると、またぞろ持ち前の毒が稼働をはじめるので、いたちごっこだ。
 できるだけ「寝る」ことで、デトックスを企図している。

 ひどく残念な状態ではあるが、文章くらいは読み書きできるので、軽いタスクを処理してもらうことにする。
 このブログは、その意味で「ちょうどいい」。


 先月、祖母が亡くなったことは書いた。
 相続が発生しており、私がその処理を任されている。

 行政書士などを使うほど複雑ではないので、自分でやることにした。
 ネットでこつこつ調べながら、思った。

 あと少しだけ使わせてもらいたいだけの土地家屋なのに、たいそうだな。
 権利とか所有とか、うんざりだ。

 そもそも土地は地球さんのものなので、私にも、ほかのだれにも「ほどほどに使う」以上の干渉は許されていない。
 使い道のない田んぼで太陽光発電でもしようかなとも考えたが、山中に黒々と広がる大規模太陽光発電所の自然破壊など見るにつけ、まったく気は進まない。

 地球さんが一括管理してくれればいいと思うが、話し合いのむずかしい相手なので、すべからく「国」という代理人がはさまってこざるをえない。
 そうなると、ふざけた政策で土地を汚す信用ならない利権屋というフェーズに移行してしまうので、こちらも痛しかゆしだ。


 ──なにも所有していたくない。
 正直、私はすべてを無に帰したい。

 そんな虚無主義が台頭したら世界も終わりなので、もちろん、あたり一面火の海だ!
 という衝動を抑えて、土地や家屋の権利関係を、物理的ではなく書面上「きれいにする」手続きを終えた。

 私が死んだら、残された人はけっこうシンプルに、いろいろやりたいようにやってくれればいい状態になった。
 国が定めた手続きを進めれば進めるほど、ほんとうに私が必要としているものがなにか見えてくる。

 できるだけ静かに、死ぬまでいていい場所。
 私が欲しているものは、以上だ。

 こたび死んだのは祖母で、両親は生きている。
 順番的にはまだなのだが、この世から静かにフェードアウトするタイミングをうかがうフェーズに、個人的には移行しつつある。

 脳の具合が、たまらなく足を引っ張る。
 なんで生きてるんだろう?

 そんなちっぽけな悩みを、地学スケールの動画を観ながら癒している。
 地球優先の信念は揺るがないが、最近はだいぶ効果が弱まっていることが心配だ。


 ジャムステックとか産総研の番組をえんえん流していると、どこかで見たことのある地質とか石の専門家が、ちょいちょい出てくる。
 どこか? いうまでもない、ブラタモリだ(ガリレオXかもしれない)。

 あの番組は、地質に興味をもつ窓口としては最適だと思うが、誤解のないように言っておこう。
 私はタモリ氏に影響されて新規参入してきたようなニワカではない。

 まだ女に興味があったころ、ラブホでたまたま放送していた高校講座地学を楽しそうに見ていてあきれられるくらい昔から、この世界の住人だった。
 べつにニワカを批判しているわけではない、だれでも最初はニワカだ。

 タモリ氏については最高にリスペクトしているし、じっさいブラタモリは楽しい。
 あんなにすごい人物が、以前はNHKアウトだったというのだから驚きだ。

 けっこうきわどい芸風で、カチカチだった時代のNHKには出せなかったのだという。
 NHKがやわらかくなったのか、タモリ氏が丸くなったのか、あるいはその両方か、現在はNHKでも見られるようになったのは幸いだ。

 ちなみに現在は江頭2:50さんが、NHKアウトのボーダーラインらしい。
 たしかに、あの芸風ではNHKどころか民放も厳しいだろう。

 いまはユーチューブがあるので助かっている。
 私の「お気に入り」だ。


 さきほど、たまったエガちゃんねるを消化した。
 ……うーん。

 あえて言おう。
 ちゃんとやれよエガちゃんねる。

 宗教的法悦を伴うある種の「狂信者」は、その宗教である時点、その教祖である時点、そのアイドルである時点で「すべてを肯定する」モードに移行する。
 たとえ犯罪を犯しても、なにか事情があったんだよ、罠にハメられたんだよ、と言い訳をつけて彼自身の問題を追及することができない。

 えがチャンネルのファンなら、黙って許容すればいいのかもしれない。
 彼らはそれを望んでいる、のかもしれない。

 だがもう一度、あえて言おう。
 えがチャンネル、ちょっとおかしくね?

 前半でトリンドルの共演NGは解消されたのに、後半、手紙で蒸し返している。
 NG解消してください、じゃねえよ。

 部分的には成立している。
 番組として、そのマジメぶった手紙から江頭が豹変して追いかける、という流れは予定調和だ。

 たぶん企画書で、こういう流れにしましょう、OK牧場、だったのだろう。
 その予定調和を目指しすぎて、前半の展開を無視した。

 スタッフに問いたい。
 そういうことだろ?

 もしDやLL含めたブリーフ団がテキトーにつくってるフェーズに移行しているとしたら、警告が必要だと思う。
 江頭補正で、いまのところ赦すが、気をつけていただきたい。

 私も頭のおかしい視聴者の一員ではあるが、断じて狂信者ではない。
 正常な判断力をもって、番組を評価できる能力はもっているのだ。

 なんて、酔っぱらった脳で思った。
 どう考えても彼らのほうが、この腐った自分より、よっぽどマシだと……。


 


 最近、人の死ぬ動画や記事をよく見ている。
 あまりいい傾向ではないが、脳がそういうモードに陥ることは、だれしもあるだろう。

 私はこの世にあふれる「死ぬ死ぬ詐欺」というやつが大きらいだ。
 正確に定義すると、「あまり死ぬつもりはないが、死ぬ死ぬ言っておくので、ほんとうに死のうとしているひとに対するくらい気を使って、かまってください」という人々を指す。

 ほんとうに心を決めて死んでいく人々に対して、無礼きわまると思う。
 かまってちゃんをかまうより、何倍もの敬意を払って、心を決めつつある人々に気を使ってあげるべきだ。

 まあ見えない人々なので、気の使いようがないのだが。
 みずから選んで、淡々と死んでいく自由は、認められるべきであると思う。


 これからこの青酸カリで死にます、という人物の話を読んだ。
 どうやって死ぬのかレポートしたいと思います、と手元の紙に書きながら、牛乳に混ぜた青酸カリを飲む。

「味は……牛乳です、べつにまずくない。
 全部飲みました、人生最後の飲食です、ご馳走様」

 数秒、十数秒、彼はレポートをつづける。
「とくに変わりません、あれで足りてるのかな、青酸カリ、苦しいのはいやだな……」

 徐々に文字が乱れ、意味をなさなくなっていく。
 紙のうえに引っ張られた、ふるえる線、それが彼の人生の最期だった。

 ほどなく彼は死んだらしい。
 興味深い話だ。


 断っておくが、私はべつに自殺を推奨しているわけではない。
 死なないほうがいいに決まっている。

 いや、すべての生物は「自然に」死ぬべきだ。
 自殺だって「自然」だよ、という考えもありそうだが、その問題はひとまず措いておこう。

 老衰した父親と、身障者の娘の話。
 支え合って生きてきたのだろう、じつにほほえましい日常が描かれる。

 娘は寝床から起き上がれない父親のために、うどんをつくる。
 父親はそれを食べる、一本か二本……。

「ありがとう、おいしかった、もうじゅうぶんだよ」
 枕元に、ほとんど残ったうどんの小皿。

 一本か、二本の、うどん。
 そう、彼にはもう、それで「じゅうぶん」なのだ。

 身体が「死ぬ準備」をしている。
 末期患者などの映像を眺めていると、そう思うことはよくある。

 声の調子や動き、酸素飽和度や心電図の波形。
 ああ、彼はこれから死ぬんだ。

 死んでいくお父さんを、娘が手を握り、見送っている。
 これは最高の死だと思う。

 異論は認めるが、私はこの死を「美しい」と思った。
 典型的な「自然死」といっていいだろう。


 先日、うちの父親のPCがあまりに古いので新しいのを買ってやったところ、いまのでじゅうぶんだと言われた。
 パスマーク1000もいかない古い機種だが、それでいいらしい。

 まあ、そういうことだ。
 必要さえ満たせれば、それでいい。

 私自身、かなりミニマリストな生活をしている。
 私が死んだ後の処理は、だれよりも簡潔に済むだろうと思う。


 よけいなものがないので、暖房器具も少ない。
 祖母の納骨のときに葬儀社がもってきた花が、チルド室のような室温のおかげか、一か月半以上まだ枯れずにある。

 例年一月下旬にかけてが、一年でもっとも寒いことになっている。
 とくにことしは、いつになく寒さが厳しい。

 私が現在作業しているこの部屋も、部屋自体を暖める暖房は使っていない。
 たまたま見たところ、現在の室温は4.7度C、最低気温はマイナス1.6度Cと記録されている。

 べつに気温が何度だろうが、体内温度が36度あったら問題ない。
 腹だけは温めるという信念のもと、ふつうに5度Cの部屋で暮らしている。

 ちょっとした寒冷地あるあるを紹介しよう。
 たとえばガム、ふつうは噛むと、ぐにゃりと「曲がる」と思うが、寒冷地はちがう。

 ガリっ、パキっ、と「割れる」のだ。
 ほどなく口内で溶けるように柔らかくなるが、最初の「パキっ」というのを味わいたければ、冷凍庫にガムを入れておけばよい。

 洗った食器を水切りから取り出すとき、若干の抵抗があってパキッと音がする。
 凍りついた水分が、皿をつかんで放さないのだ。

 こんな寒冷地の日常のなかで、死んでいく日々を思う。
 死に方としては、凍死がいちばん楽らしい。

 その代わり、生き残ったら地獄だ。
 壊死した末端は切り落とされるし、ぶざまな皮膚の変色が永らく残る。


 そんなミニマリストの私が、タイツを買った。
 尊敬する江頭さんをマネするため、ではなく、単に防寒のためだ。

 ノーブランドの薄いやつでは、昨今の厳しい寒さに耐えられない。
 寒冷地では、やはりそこそこいい装備を使うべきだ、

 これまでは、セール価格で1500円くらいの、安くはないが高くもないという商品を使っていた。
 一枚で5枚分の暖かさ、という触れ込みのメーカー品だ。

 裏起毛でたしかに暖かいが、かなりピッタリとした仕様で、履くのがめんどくさい。
 一時、水泳界を席巻したスピード社の水着のようだ。

 一度着てしまえば暖かいものの、最近の寒さは老骨にはなかなかこたえる。
 で、自分を甘やかすべく「極」を買った。

 それまで使っていたシリーズの最新版で、こんどは一枚で7枚分の暖かさらしい。
 2枚の差はよくわからないが、価格は倍以上になった。

 わしも贅沢なものを使うようになったものじゃ、と「極」めたタイツを履いてみる。
 まず、拍子抜けた。

 5枚分の暖かさのタイツより、厚みがない。
 締めつけも弱く、けっこうスルッと履けた。

 こんなんでだいじょうぶかよ、という不安が先にきた。
 薄手のものだと履いた瞬間から寒いのだが、さすが高級品、そのへんはクリアしている。

 重ねて履くにもかさばらないし、防寒性能もわるくはない。
 耐久性はわからないが、2シーズンはもってほしい。

 とはいえ4千円の価値があるかは微妙だ。
 3千円を切ってきたら……いや、できれば半額セールくらいのときに、まとめて買うとしよう。


 というわけで、どうやら私はまだ生きるつもりらしい。
 2シーズンなんて、2年も先だ。

 前半まるで死を美化するような書き方をしてしまったが、あくまでも対比のためだ。
 生きる、私は……私たちは、「生きる」のだ……。
 


 最近、脳がひどい。
 だましだましやってきたが、祖母が亡くなって以降、けっこうずっとひどい。

 楽しみにしていた「真・女神転生5」も、まったくプレイしていない。
 発売日直前にスイッチ本体を注文したことは以前書いたが、楽しみ、という空元気を維持することができなかった。

 人気のゲーム機があるのに遊ばない、という状況を、お子さまなどはなかなか理解できないだろう。
 幼いころの自分を鑑みるに、ゲームがあったらとりあえず遊ぶ、という条件反射のようなものはたしかにあった。

 おとなになると、これがなくなる。
 多かれ少なかれ、事実だ。


 優先順位や嗜好の変化。
 象徴的に語るなら、たとえば部屋の「大きなカレンダー」。

 1か月たったら、めくる。
 裏が白い、大きな落書き用紙だ。

 さほど大きなキャンバスを与えられない子どもにとっては、毎月の楽しみになりうるが、おとなになると、あたりまえだが落書きなどしない。
 なんなら、何か月も「めくるのを忘れて」いたりする。

 おとなになるというのは、日々の小さな楽しみを失っていくことだ。
 ……などと断言するつもりはない。

 日々に楽しみや喜びを見出している人々はたくさんいるし、私のほうが特殊な人間だと考えたほうがいいだろう。
 このイカレた脳みそにとって、日々は吐き気を催す苦行の割合が、まあまあ高い。

 なにもやる気にならない、という状況はだれしもあるだろう。
 それが極度に陥ると、生活に支障をきたす。

 あまり食いもせず、一日16時間眠る、というような病的な状況に一時陥っていた。
 そういう状況でも生きられること自体が幸せではあるが、そういう事態に備えた人生設計をも、あえて選んできている。

 そうしなければ、いまごろ生きてはいなかっただろう、という漠然とした確信もある。
 私の脳は、イカレているのだ。


 現在すこしはマシになっているものの、結局一日の半分、横になって陰謀論の実現を祈ったり、聖書を聴いたりしている。
 著者アッラーの『コーラン』をダウンロードして、読んだりもした。

 まったく救いにならない。
 噴飯ものの都市伝説を聴いていたほうが癒される。

 このような「生きることに不向き」な状況は、何十年来、たまにその「波」に洗われてはきた。
 だから、かろうじて確立された対症療法によって、死なずにいまでも生きているわけだが、そろそろ「終わりにしたい」気もしている。

 なにか楽しみを見出したらどうか。
 だれしもすぐに思いつきそうな解法だが、そもそも「楽しめない」のだから困る。

 冒頭に書いたとおり、楽しみにしていた新作ゲームを購入し、すぐにでも手に取って遊べる準備をしながら、手に取る気にすらならないのだ。
 部屋の片隅に、さみしげに積まれているスイッチとそのソフト。


 最近ようやく、そのスイッチの箱を開けた。
 コードをつなぎ、ネットに接続する。

 しかしまだ、新たなゲームをはじめよう、という気力が湧かない。
 新しいからこそ楽しみなんだという、子どもの気持ちがなつかしい。

 とりあえず世界のゲームなんとかいう体験版をダウンロードして、既知のゲームである大富豪をやった。
 最強難度で10連勝して、満足してやめた。

 ファミコンをダウンロードした。
 7日間無料だったのでやってみたが、1つのソフトごとに数十秒で脱落した。

 そもそも連射がだるい。
 グラディウスもスターソルジャーも、こっちはゲームをしたいのであって、連射という作業をしたいわけではないのだ。

 ジョイパッドですら16連射できるのに、なんでジョイコンはできねえんだよ……。
 ぶつぶつ言いながら、押しっぱなしでのろのろと発射する弾丸の隙間から敵に突っ込まれて、やめた。


 シューティングはもういい、つぎは魔界村だ。
 これはそれなりに楽しめたが、2面で連射しなければ倒せない敵のところで脱落した。

 やはりガンは「連射」だ。
 たぶん筋肉が弱っているのだろう、すぐ手首が痛くなる。

 そもそも魔界村は、高難易度で知られる有名な「死にゲー」だ。
 死にたくなるゲーム、という意味ではないが……。

 自分が骨になる姿を長く見つめていると精神にわるいので、ゲームを変えた。
 やっぱりマリオだろ、と満を持して「スーパーマリオブラザーズ」起動だ。

 世界のマリオ。
 これまらまちがいあるまい。

 いまも動画を観まくっているのだから、さすがにもっと楽しめるだろうと思ったが……。
 イカレた脳にとってのハードルは高かった。


 結論からいえば、1-2もクリアできずにやめた。
 私の頭がイカレているから、以外の理由を考える。

 まずは、ボタンの配置がわるい、と責任転嫁した。
 ファミコンのコントローラに、こんなに押すところなかったぞ、と。

 スイッチの右手側には、XYABやスティックなどなどが並んでいる。
 体験版のメトロイドでも学んだが、最近のゲームは多数の物理スイッチを使い分ける必要があるらしい。

 AとBの配置が同時押ししづらいので、Bダッシュするのに変な姿勢になって、やりづれえなあ、などと文句を言っていた。
 XもBとして機能することに気づいたのは、かなりの時間がたってからだ。

 こらえ性のない年寄りには、スイッチすらハードルが高い。
 大好きなスーパーマリオにおいてすらこの始末である時点で、私の脳がどれだけイカレているかがお察しいただけよう。


 レトロゲームすらも、まともにプレイできない、この現実。
 こんなおっさんに、新作RPGなどプレイできるだろうか?

 最後に待ち受ける、シュリンクがかかったままの「真・女神転生5」を見つめる。
 おそろしい……。

 あれほど楽しみにしていたのに。
 なぜだろう、そこにあることが、おそろしい……。

 もちろん、ただのゲームだ。
 はじめたら、たぶん楽しめるのだろうとは思う。

 だが、ゲームをやるまえに、やっておかなければならないことがあるのではないか、という気持ちから逃れえない。
 3月までに小説を1作、仕上げると決めていたはずだ。

 内容はもうできている。
 あとは……書くだけだ……書くだけ。


 それができない。
 2か月も、できないでいる。

 祖母が死んで以来、どこかのネジが外れた。
 祖母のせいにするつもりはない。

 脳がイカレているせいだ。
 こんな腐れた脳で、いつまで生き恥をさらすつもりか?

 そろそろ生きる理由も少なくなってきた、と自覚はしている。
 じゃあ死ねば?

 もちろん遠からず死ぬが、そのまえに書きたいものが、いくつかある。
 こんな腐れ脳でも、それを仕上げてから逝きたい気持ちが、ないわけではない。

 むしろそれを仕上げたら逝っていいか、という諦念のようなものを、生存本能がねじ伏せた結果としての無気力なのではないか、という逆説的な思いもある。
 書き終わったら死ぬ、ほんとは生きたい、だから書かない……。


 そんな寝言をほざく自分自身がいやだ。
 そう、このイカレた脳が、あらゆる苦悩の元凶なのだ。

 いま、充電完了したまま数日放置されたスイッチを眺めながら、この文章を書いている。
 狂人の明日はどっちだろう……。
 


 たまたま両極端な主張をする映画をつづけて観た。
 まずは『ボディ・バンク』(96)。

 ホームレスなど生きる価値の低い人々を人体実験の材料にして、難病の人間を助けようとしている「敵」と戦う話だ。
 主人公の「医師」は正義づらで、そんなものになんの価値もないと一刀両断、敵の野望をくじく。

 つぎは『悪人に平穏なし』(11)。
 気に入らない店員を虐殺、目撃者もついでに皆殺し、証拠隠滅のために動く悪徳「刑事」が主人公。

 その「被害者」である連中が、じつはテロリストの一味で、計画していたテロが「たまたま」防がれる、という結末だ。
 解説によると、現実にあった列車爆破テロを防げなかった警察よりも、結果的にテロを防いだ悪徳刑事のほうがマシ、という批判を含んでいるらしい。

 かたや人類救済のための人体実験でも、犯罪的手段だからダメと断罪する映画。
 かたや欲望のために動いているだけの犯罪者でも、結果的にテロが防げるならそれなりに英雄という映画。

 極端すぎてついていくのが大変だったが、いずれの考え方も理解はできる。
 自分をどの位置に立たせるかで、結論はかなり変わってくるかもしれない。


 世の中はきれいごとでは済まないが、原理原則を貫くことは重要だ。
 どちらにも「理」がある話というのは、観ていてそれなりに楽しい。

 たとえば上述の2作品、映画としては、後者のほうがおもしろかった。
 ヒュー・グラントのニヤケ顔より、ホセ・コロナドの悪人顔のほうが迫力があってよい、というわけではない(いやそれもある)。

 悪徳刑事は、敵と殺し合って死んだ。
 彼自身そうとうな悪人だし、死んで当然なので納得できる結末だ。

 一方、きれいごとを貫いて「敵」を倒した医者は、生き延びた。
 自分を陥れた連中に復讐しただけなので、行動としては納得できる。

 が、彼の「敵」は現に多くの難病を救った、かもしれない。
 その可能性を摘み取る資格が、難病でもなんでもない彼にあったのか。


 結末自体は、「宗教的に」かなり正しい。
 寿命は神の御心なので、違法な手段に頼らなければ生き延びられないくらいなら死ね、という結論には多くの運命論者も同意するだろう。

 それもまたひとつの考え方ではある。
 が、できれば彼自身そういう立場になってから言ってもらいたい気はする。

 違法な手段に頼らなければ生き延びられないくらいなら、死にます。
 そう言って、じつは難病だった医者も死んでくれたら、結末としてはかなり納得できた。

 自分をどの立場に置くかで、結論がそうとう変わる。
 それでも変わらない主義主張を貫くなら、それはそれで正しい。


 正義と悪、両極端で描かれることもあれば、両方正義という場合もある。
 われわれは人間の側(の正義)に立ちがちだが、相手にも正義があるのではないか、と問うことは重要だ。

 『アイ・アム・レジェンド』(07)というSF映画がわかりやすい。
 主人公である「人間」と、ダークシーカーと呼ばれる「吸血鬼」の戦いを描いている。

 主人公が、敵であるダークシーカーを捕らえて「実験」をくりかえす目的は、彼らを人間に「もどす」ことだ。
 しかしその過程で、実験台の多くは死んでいく。

 ダークシーカーには自我もあり、かなりの知能ももっている。
 当のダークシーカーにとって、仲間たちを大量に捕らえ、つぎつぎと実験台にして虐殺していく主人公は、悪魔のような存在だ。

 ただし劇場版のエンディングでは、あくまでもダークシーカーは「化け物」として描かれていた。
 もうひとつの「敵にも正義や知能がある」というエンディングは、どうやら試写の段階でリジェクトされたらしい。

 敵にも正義がある、という事実を受け入れたがらない種類の観衆の判断を優先した、ということだろう。
 敵はあくまでも敵で、どこまでいっても倒すべき「悪」である、と思い込んでぶっ殺すほうが「すっきりする」。

 すくなくとも試写に集まった観客のレベルは、その程度だった。
 さすがはアメリカだな、と思った。

 2007年という公開当時の事情もあるだろう。
 本来のエンディングは「敵にも正義」だったが、あくまでも「敵は敵、純粋な悪」という姿勢を貫いて、アメリカはテロリスト(と決めつけた敵)を掃討しなければならなかった。


 どちらの側に立ってみるか?
 これはあまりにも重要である。

 できれば両方の気持ちを汲んだうえ、後世の批判にたえうる判断を下せる人間。
 そういうひとに、わたしはなりたい。

 


 新年あけましておめでとうございます。
 という記念の瞬間を、私というダメ人間は「大自然」動画を観てすごした。

 いつでも観られるものを、いつもと変わらずに観る。
 この寒いのに、わざわざ外に出る理由がわからない。

 さっき、ちょっとコンビニに行ってきたが、線路沿いに撮り鉄たちが雲集していた。
 この寒いのに、よくやるよ……。

 ドラレコが「緊急録画が開始します」と言っていた。
 べつに急減速もなんもしてねえだろ、田舎の土地がガタガタだからってバカにすんな、だいたい録画「が」ってなんだよ、録画「を」だろ、録画がなら、開始「されます」じゃないとおかしいだろ……。

 ぶつぶつ言いながら帰宅する。
 めんどくさいおっさんの年末年始は、動画三昧の日々にもどる。


 最近は、自然動物系のナショジオとかワイルドライフとかを、よく観ている。
 この世は興味深いことばかり。

 知的好奇心が刺激されたら、すぐに検索をかける。
 ヤギが出てきてまず思うのは、目が怖いんだよな、だ。

 なぜ怖いのか。
 瞳孔だ。

 あの横長の瞳孔、バフォメットじゃないか!
 というわけで、グーグル先生によると、人間は円、ネコは縦長、ヤギは横長、という特徴があるらしい。

 瞳孔の形から、肉食、草食、雑食がわかるというわけだ。
 なるほど、生物とはロジカルだな、と感心する。

 その生存目的に対して、特化した能力をもっている。
 たとえば肉食動物で夜行性のネコは、雑食の人間と比較して大幅な「光量差」に対応できる。

 人間も暗いところでは瞳孔が開くが、その差は15倍程度。
 一方ネコは、縦長に細まることで最大135倍まで調節でき、暗闇では多くの光を集めることができる。

 ヤギの瞳孔が横長なのは、草食動物が広く周囲を見渡すためだ。
 しかも顔の横についているため、ほぼ360度、周囲を見渡すことができる。

 ヒツジ、シカ、ウマなどにも共通しているが、ヤギ以外は虹彩の色が濃いので全部黒く見え、目立たない。
 ヤギは明るい褐色のため、横長の瞳孔がよく目立つ。

 なるほど、なるほど。
 ものすごく納得した。


 そんなこんなで、2022年。
 横長のウシ年の瞳孔から、縦長の寅の年へ。

 寅年である。
 猫年ではない。

 ネコが干支にはいっていないことに、苦言を呈する人々がいる。
 愛猫家の偏愛を中心に、ときおり耳にする訴えだ。

 ネズミにだまされたとかエピソードがついているおかげで、うまくいけば入れてもらえたのに、という思いがあるのだろう。
 いまからでもネコ年を追加しろ、と叫ぶ冗談も毎年どこかで耳にする。


 私の見解を述べよう。
 ちゃんちゃらおかしい、去れネコよ!

 と、あえて彼らにケンカを売ってみる。
 きみたちはまちがっている、と。

 すでに口にエサが半分はいっているのに、満杯まで入れろと要求しているようなものだ。
 このうえ猫年を追加しろなど、己が分限をわきまえない、生意気な発言である!


 理由を述べよう。
 まず、冷静に考えてほしい。

 ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。
 ネズミ目、ウシ科、ネコ科、ウサギ科、ドラゴン科(?)、爬虫類、ヒツジ科、霊長目、鳥類、イヌ科、イノシシ科。

 どうだろう。
 すべて別の科であり、なかには爬虫類や鳥類レベルでざっくりまとめられている種族すらある。

 ところでトラは、もちろんネコ科だ。
 すでに十二支に、ネコ科ははいっているのである。


 もし、同じイヌ科のオオカミとかタヌキとかがはいっていたら、ネコを入れろ、と言い出すのもわかる。
 だが、他の種族はみんな、おおむね「大きな科の代表」として参加している。

 ネコ科代表で、ちゃんとトラもいる。
 にもかかわらず、ネコを入れろとは……口幅ったいとは思わんかね?

 己が分限をわきまえない、傲慢な物言いをしがちなネコ派の諸君。
 きみたちの「ネコを入れろ」は、ほんとうに生意気だ!

 大国アメリカだって、国連では1票だというのに。
 ネコ国だけには2票よこせ、とな?

 おこがましいとは思わんかね!
 これだからネコ派は度し難い!


 ……という、飲みの席で駄弁るレベルの小理屈をこねてみた。
 みんなが酔っていれば、なんとなく論破した気になれるかもしれない。

 ネコ派の諸君は、ネコをネコとして単独でエピソードにしてもらっているだけで、すでに恩恵なのだということを理解すべきだ。
 ほとんどエピソードのない種族だっているというのに。

 自分が恵まれているにもかかわらず、もっと恵め、なぜなら俺様だから、という態度の人々をたまに見かける。
 そういう愚劣な種族に堕することだけは、なるべく避けていただきたいものだ。


 ちなみに私は……。
 ……イヌ派である。

 


 ことし最後のエントリーになる。
 最近あまり脳の具合がよろしくないので、好ましくない状態にふさわしい話をしよう。

 カルの話だ。
 私は正直、あまりカネが好きではない。

 なければ困るが、そんなにはなくていい、と思っている。
 現実、カネを転がしたあぶくで生きているので、マーケットを日々、拱手傍観する癖だけはなかなか抜けない。

 ちょっとまえにトルコリラについて書いた。
 中銀が介入しても、たぶん無駄だろう、的なことだ。

 現に1ドル18トルコリラまでリラ安が進んだが、その後、一気に12トルコリラまでもどった。
 中銀ではなく、政府から出されたステートメントのせいだ。

 急激な価格変動。
 短期売買を旨とするトレーダーが、大儲けする最高のチャンスである。

 何年かに一度の大相場、ここで儲けられるかどうかがデイトレの醍醐味であり、真骨頂だろう。
 もちろん私は……拱手傍観していたが。


 トルコがヤバい行進曲に踏み出している。
 そもそも足りない外貨準備を、どこまでもリスクにさらしたいらしい。

 中銀が何度も介入しながらマーケットにはじき返される姿を、ターキー政府も見ているはずなのに。
 まだしばらくターキー・パーティはつづきそうだ。

 レッツ・トーク・ターキー、というイディオムもある。
 ざっくばらんに話そう、という意味だ。

 トルコと七面鳥、日本と漆器……英語はむずかしい。
 もちろん日本語は日本語で、厄介な部分は多いとは思うが。


 閑話休題。
 トルコ政府による制度で「差損をカバー」という、リスク先送り手法で当面、値はもどった。

 1年後、もしトルコリラ建ての資産で為替差損が発生した場合、それをトルコ政府が補填する、という危険な約束手形によってだ。
 トルコリラを売っていた人々にとっては、かなりの衝撃である。

 そんな約束してくれるなら、そりゃ買い戻すだろ。
 が、落ち着いて考えると、そんなこと言っていいのという思いが生まれ、やがて。

 待てと。
 根本的な問題は、まるで解決していない。

 たしかに行き過ぎてはいた。
 そもそも1ドル18トルコリラという、アホみたいなオーバーシュートは、モメンタム系のファンドどもが躍った結果だ。

 やつらは買われる流れではどんどん買うし、売られる流れならどんどん売る。
 価格が大きく動いてくれたほうが都合がいい……売買動機はただ、それだけだ。

 よって、これが行き過ぎであることは明白なのだが、ぶっかける冷や水として「リスク先送り」はどうだろう。
 自分の首を絞めることにならなければいいが。

 国家のデフォルトなど、過去に何度も起こったことなので、その列にトルコが加わったところで、いまさら驚くことはなにもない。
 20年代のしょっぱなから、危険なダンスに誘われている気しかしない。


 10年代には、スイス中銀がだいぶ無茶をした。
 1スイスフラン=1.2ユーロという壁を三年も守ったのは、正直すごいと思う。

 だがスイスフランとトルコリラには、決定的なちがいがある。
 自国通貨を「売る」か「買う」かだ。

 ご存じのとおり、中銀は自国の通貨を「刷る」仕事をしている。
 刷った通貨で他国の通貨を買うことは、理論上、無限にできる。

 ところが、現在もっている「他国の通貨」、つまり外貨準備には明確な限度がある。
 もっているものを売ったら、それ以上は売れない。

 もっていない分については、将来損失が出たら政府が補填するよ、という約束。
 トルコは、その危険なチキンゲームに踏み出した。

 いやな予感しかしない。
 リスク先送り……その間になにができるか……じつに楽しみだ。
 


 私のHDD録画機は、なぜか毎週、勝手に笑点を録っている。
 気が向いたときにしか観ないのだが、それでもたまには観る。

 この伝統ある番組から、林家三平氏が卒業したらしい。
 むべなるかな、と思った。

 むかしから、いつも思っていた。
 なんでこのひと、いるんだろうな、と。


 良くも悪くも「日本的」だと思う番組、笑点。
 よく5年ももったな、と三平氏については思う。

 キャラ確立どうこういう話もあるが、純粋に「違和感」がぬぐえなかった。
 ふつう「慣れる」ものなのだが、三平氏の場合はなぜか居心地がわるかった。

 残る笑点メンバーで、まだすこし違和感があるのは好楽氏だが、彼も一度「卒業」して出戻った組らしい。
 失礼ながら、なんで戻したんだろう、と思っている。

 若手にはいくらでも、「キャラ」の立っている人物はいると思う。
 そんななか、彼らがなぜ選ばれたのか、よくわからない。

 これだけやっていて、まだ違和感が残る好楽氏も、それはそれですごいと思うのだが。
 最強の緩衝材であった三平氏が去るのは、彼にとっても痛恨の極みであろう。

 この違和感を押しつけてくる元凶については、考えるまでもない。
 三遊亭とか林家という「門跡」のパワーだ。

 その当時に力をもっている個人や流派が、ゴリ押せば通る人事。
 みなさん思い当たる節ばかりだろう。


 どの業界にもそういう傾向はあると思うのだが、笑点にもそれははっきりとあらわれてしまっていた。
 見識の高さではなく、発言権の強さが流れを決定する、まさに「伝統的社会」にへばりついて離れない宿痾だ。

 その発言権で、無理やり三平氏をねじ込んだ連中は、いま、なにを思っているのだろう。
 5年ももってよかったな、だろうか。

 もしあのとき、こぶ平さんを入れてくれていたら、あまり違和感はなかったように思う。
 声優の時代から慣れていたこともあるが、あの太ったキャッチャーの声は、こぶ平以外に考えられない。

 21年12月21日現在、つぎのキャストはまだ不明だが、あえて言おう。
 こぶ平ならいい。

 あの日あの時、こぶ平ではなく、見知らぬ若手をほりこんできた林家。
 おかげで林家という名前に対する私の評価はダダ下がりだ。


 いや、ちょっと言い過ぎたが、そのくらいあの判断には首をかしげた。
 春風亭が司会になる以上の違和感だった。

 さすがに昇太さんについては、いまはもう慣れた。
 柳昇師匠に思い入れがあったせいもあるが、認めよう春風亭。

 亭号についても、そろそろバラす頃合いではなかろうか。
 三遊亭も林家も、ひとりいればじゅうぶんだ。

 なつかしの立川を入れてもいいし、桂を復活させてもいい。
 伝統の三笑亭や、月亭あたりからも、期待できる若手はいくらでもいるはずだ。

 講談や他の伝統芸からも一席、入れてあげていいと思う。
 日本古来の古典芸人を守るという意味でも、狂言師や浪曲師が笑点に出てきたっていいじゃない?


 という判断をする、伝統ある笑点スタッフオンリーの会議室に割り込める余地は、あまりないのかもしれない。
 事務所パワーというやつは、この場においてもほんとうに強いんだろうと思う。

 もちろん「流派」を守ることには大きな意味があるのだろうが、今回は負の側面が目立った。
 これで林家が懲りてくれればいいのだが、生き馬の目を抜く芸能界に「反省」などという言葉はどこ吹く風だろう。

 芸能事務所の社長的な人格の目には、そもそも「自分」しか映っていない。
 他人とか社会がどう考えるかなど、あまり眼中にないのだ。

 「このあたしが選んでやったんだから、あんたがんばんなさいよ」。
 と、新人アイドルにハッパをかける女社長を、どこぞの番組で見た。

 何様のつもりだよ、という態度に、まわりのひともたいへんだろうなと思う反面、たぶんこれは業界一般の風情なのだろうと理解もしている。
 彼ら、彼女らは「そういう人間」なのだ。


 流行は自分がつくる、世の中は自分に従うべき、従わなかったらそれは自分以外の努力が足りない、という思考体系の人物が上に立ちやすい業界。
 残念ながら少なくない社会が、そういう構造になっている。

 昭和までは、そういう「個性」のあるがまま、受け入れられていた時代もあった。
 令和の現在では、むずかしいだろう。

 そういうひとはそういうひとで、ユーチューブチャンネルでもやってくれればいい。
 何人が自分についてくるか、それでわかるだろう。

 そうして個性的なひとが排除されればされるほど、テレビがつまらなくなるという逆の現象があることも、また事実だ。
 妙なキャスティングのごり押しがプラスに働く局面も、ないわけではないが、今回の林家はそれが大失敗したいい例だった。


 ともかく三平氏には、ごくろうさまでしたと言いたい。
 よけいな荷物を背負わされて、たいへんな日々だっただろう。

 じっさい当人も、そうとうキツかったはずだ。
 あまり無茶なことは、するものではない……。
 


 祖母の納骨を済ませた。
 亡くなってだいぶ時間がたっているので、もはや感動する要素にも事欠くのだが、人が死んだことに対する「一区切り」ではあるだろう。

 時間の経過に伴い、情緒的な傾きより、事務的な意味のほうが強くなる。
 淡々と処理されるべき流れのなか、まず気になること、ひとつめ。

 時間どおりに坊主が来ない。
 母親が電話したところ「こちらにいらっしゃるのかと思っていました。すぐに伺います」ということだった。

 こちらにいらっしゃる?
 どういう段取りをすると、そういう流れになるのだろうか。

 すべて親に任せてあったので、どういうやり取りがあったのかはわからない。
 だが最初から小さな葬儀で進んでいる流れの末、49日だけは大々的な法要をお寺で、という展開は想定されるのか?

 坊主はうちの場所を知っているし、その近くに墓があることも知っている。
 祭壇に祈って、位牌に魂を移し、墓に骨を納める。

 この流れのどこに、客が寺に赴く要素があるのか?
 よもや、ただ忘れていたわけではあるまいな?

 もちろん、そんなはずはない。
 くりかえすが、年寄りが段取りしたので、どこかで行き違いがあったのだろう。

 ただ無駄な待ち時間を過ごさせてもらったことは覚えておく。
 カスタマーサービス的には減点ですぞ、坊主殿。


 専業か兼業かは知らないが、坊主も過当競争の時代だ。
 年寄りが増えて需要増はあるにしろ、そもそも寺の数が多すぎるのだから、個別の仕事量としては減っているはずだ。

 そうでなければ、われわれのような「細い客」に対して、「小さなことでも声をかけて」などと営業活動はすまい。
 そもそも2~3時間で5万も10万も稼げるおいしい仕事は、ほかにないのだ。

 かつては、49日はもちろん月命日だの何回忌だの、ご近所親類一同が参集するイベントに事欠かなかった。
 最近では、そのほとんどがなくなっている。

 現代人は、昔の人ほど暇じゃない。
 結果、イベント業者である寺のもらいが減っていることは、想像に難くない。


 それでもまあ、ひとりの人間が必ず一度は経験しなければならないのが、死だ。
 世の中には何度も臨死体験をする人がいるらしいが、私は一度でじゅうぶんだ。

 私もあなたも、この世の全員がいずれ死ぬ。
 で、順番的には両親が先に死ぬわけだが、どうしたいか訊いてみた。

 父親は、散骨してくれればいいと言っていた。
 母親も、伊豆の海に、みたいなことを言っていた。

 墓とかいらない時代になったな、と思う。
 まあ残念ながら(?)墓は確保されていて、まだ何人かははいれる余地があるので、一応は骨のカケラでも納める予定ではあるが。


 坊主によると、「全骨」を墓に入れるという風習は、日本全国的にはめずらしいらしい。
 火葬場で骨を全部集めるのは東北と関東の一部だけで、関西になると火葬場のスタッフがほとんど処理してくれて、帰ってくる骨の量はきわめて少ないらしい。

 壺いっぱいのリン酸カルシウム、というのはたしかに処理に困る場合もあるだろう。
 海や山にまく分にはいいが、そもそも骨壺というもの自体が、手元にあってうれしいような代物ではない。

 お墓に私はいないし、眠ってなんかいない、という考え方もある。
 私自身、「魂」というものの存在を否定はしないものの、「業者」が設定するような世界観を認めるつもりは、さらさらない。


 もちろん宗教者について、人類から永らく必要とされてきた「歴史」を否定するつもりもない。
 彼らのやらかしてきたことを全肯定はしないにしろ、歴史の流れとして、瞑目してうべなうくらいの余裕は持ち合わせている。

 イベント運営による営業の成果が宗派ごとのシェアであり、イベサーのボスがチョーシくれてやらかす、みたいなのが宗教戦争(?)だ。
 人類のやってきたことは、俯瞰すれば意外にわかりやすい。

 そんなふうに「宗教」を把握する人々が増えていることが、彼らの「商売あがったり」をもたらしているのかもしれない。
 心配しなくとも、昨今の構造改革とか技術革新は、これまで保たれてきた職業の多くを「あがったり」にする要因に満ちている。

 人類は、つぎなる時代への過渡期にある。
 おのおのよく考え、みずからの道を決められたい。