ドル以外、全部売れ。
 22年6月3週のマーケットは、だいたいそんな感じではじまった。

 モメンタム系自動売買が億千万の取引をくりかえし、ヘッジファンドが勝どきをあげる流れ。
 CPI(消費者物価指数)をきっかけに動いたようだが、まだまだ荒れそうな気はする。

 まあ、このくらいのボラタイル(変動)は定期的にやってくる事象なので、それ自体は割とどうでもいい。
 今回は、先週と今週の空気感の差について、ちょっとおもしろいと思ったことを書いておこう。


 まず、そもそも信用してはならないのが経済学者やアナリストの「予想」である、というアノマリー(笑)は前提だ。
 ビットコインを分析している、とあるサマリーを読んだのだが、先週末の記事には、こんなことが書かれていた。

 直近の下値は短時間で反転クリアして、上値を試す流れになっている。
 二度のトライ後、やや落ち着いているが、これから上抜ける可能性が高い。

 たしかそんな感じだったが、あきらかに上昇する流れを思わせる書きっぷりで、俺様のテクニカル分析を信じなさいよ、とでも言わんばかりの熱意すら感じた。
 数時間後だ、ビットコインの急落がはじまったのは(仮想通貨含めて全体的に)。

 下値のメドとやらに向け、淡々と下落をつづける。
 下値については、一応書いておかないとまずいという程度のサラッとした書き方で、この水準は固い的なニュアンスだったが、週末の薄商いを経て、あっさりと突き破ってきた。

 ただのテクニカル分析とはいえ、あまりにもわかりやすく真逆に動いたので、むしろ笑ってしまった。
 チャートの側面だけでなくファンダの面でも大底を突いた可能性がある、あとは反転のきっかけだけだ、くらいまで書いていたのだからなおさら笑わせる。

 ショーター(売りから攻める輩)はショーターでイラつく。
 語弊はあるが、要するにハゲタカだからだ。

 しかし今回、ロングに賭ける「思惑」のほうがよっぽど強く感じられて、気持ちわるくなった。
 輪をかけて語弊はあるが、ハゲタカ以下だと思った。

 取引量が増える、値段が上がる、参入者が増える、より胴元が儲かる。
 ビットコインには上がってもらわないと困る輩のほうが、かなり増えているらしい。


 相場は上がる。
 彼が、ほんとうにそう思っているなら、それはそれでいいと思う。

 もちろん人間なので、まちがうことはある。
 むしろたくさん失敗したほうが、たくさんのことを学習できる契機になる。

 私も恥の多い人生を歩んできたが、なかったことにするつもりはない。
 批判があれば真摯に受け止めて学ぶことができる、それはチャンスだ。

 一方、投資について発信していたタレントさんが、ツイートを全消ししたことなどが話題になった。
 個人的には、もったいないな、と思う。

 当人は「飽きただけ」らしいが、理由はどうでもいい。
 たとえ推奨した銘柄が爆下げしようが、「投資は自己責任」なので、いくらでもハズしていい(?)と思う。

 ただ、あまりにも壮大にハズしている姿をみると、消したくなる気持ちはわかる。
 あのときの損失、なかったことに──すべてのギャンブラーが思うことを、ツイートやブログなら簡単にできる。

 あの日の黒歴史、なかったことにできたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~。
 と、薄切りベーコンを食べながら脳内で歌うおっさんも、どうかとは思うが。


 最後に、先週おもしろ予想をしてくれた編集部の今週のお言葉を記しておこう。
 暴落後の現在「ボリンジャーバンドは下落を、RSIは上昇を予想」している、らしい。

 半ば投げやりな雰囲気を感じたが、ある意味、伝統に忠実ともいえる。
 ご承知のとおりテクニカル分析は、もっともらしいチャートを利用して素人をだまくらかそうという試みだ。

 なにも言っていないに等しい、ともいえる。
 この漠然とした親近感……わびしい。

 ただ私と彼らには、決定的に大きな差異がある。
 私はただの趣味だが、彼らは商売であるということ。

 われわれは、けっして忘れてはならない。
 「胴元はビジネスを、顧客はギャンブルを」しているのだということを。
 


 いつものようにネットを徘徊していると、ナチスの話題が引っかかった。
 同じころ読んでいた記事から、グーグル先生が忖度したのかもしれない。

 ネオナチと戦っている(らしい)プーチンさん。
 そんな彼を指して、ナチはおまえだろ、とチョビヒゲをつけられている現実。

 たしかに似ている、ような気はする。
 そもそも鉤十字と鎌と槌は、ある意味とてもよく似ているのだ。

 国家社会主義の労働者党と、保守主義の統一ロシアという、専制。
 なにより重要なのは、当時のドイツ国民も現在のロシア国民も、独裁者を熱狂的に支持している(らしい)ことだ。


 戦争になる以前のウクライナについては、正直なにも知らなかった。
 近代史を概括したとき、ポーランドやチェコなど東欧諸国の一環として「蹂躙された」気配が強い国、程度の知識だ。

 問題は、それについてあまり「知らない」ことより、さほど「知りたい」という欲求すらないことのほうかもしれない。
 今回記事にするため、すこしばかり調べたが、そこまでだ。

 あいかわらずナカワルですね、もっと仲良くしたらどうですか、以上。
 日本人はこの戦争に、積極的に関与する必要はないし、そのことに文句を言われる筋合いもないと思う。

 じっさい欧米人は、近いところであがった火の手に、たいへんな大騒ぎをしている。
 が、アジアやアフリカのどこかでくりかえされている虐殺には、たいして興味もないし手も出さない。

 同じことだ。
 日本人がヨーロッパの騒ぎに関心をもつ理由が、そもそもあまりない。

 だいたい旧宗主国は、アフリカなどで多くの紛争の原因をつくった当事者ですらある。
 彼らがその国々に対してもつ興味と、われわれがウクライナに対してもつ興味を、冷静に引き比べてみるだけでよい。

 われわれは、この件にあまりかかわる必要はないと思う……が、逆にいえば、ほとんど関係のない第三者として、先入観のない状態で冷静に評価できるかもしれない。
 いうまでもないが、以下は個人的な見解である。


 とりあえず一方の言い分だけで物事を判断するというのは信条に反するので、両者の意見を比較したい。
 まずプーチンさんの言い分によれば、ウクライナはネオナチの「悪」だ。

 その主張の是非はともかく、大ロシア帝国からソビエト連邦を経てロシアへいたる「プーチン史観」を信じるロシア国民は、それなりに多いらしい。
 ゼレンスキーさんに対する「怒り」も、無根拠というわけではないようだ。

 一方、ウクライナの立場については、欧米の承認と支持を得て日本のメディアでも垂れ流されているとおり、信じるか信じないかはあなた次第です。
 私は、欧米が正義だなどとはちっとも思っていないから、彼らが支持するという理由でウクライナの側につくつもりはない。

 事実のみを判断しよう。
 ロシアは「先制攻撃」をした。

 この時点で、かなりの無理筋である。
 たとえば日本の法廷での話だが、こんな裁判があった。

 「殴れるもんなら殴ってみろよ!」と挑発した男が、殴られた。
 殴られた男は、殴った男を相手に、訴訟を起こした。

 被告は当然、殴れと言われたから殴った、と主張した。
 裁判所は「挑発に乗ったほうがわるい」と、原告の勝訴を告げた。

 まったく同じことが、第二次大戦でもあった。
 ロシアはこの残念な日本の姿を見て、なぜ学習しなかったのか。

 巨悪が、じりじりと敵の首を絞めて「殴ってみろよ」と挑発してくる。
 それに対して「弱いほう」が反応したらダメなのだ。

 ポーランドに侵攻したドイツや、真珠湾を攻撃した日本は「悪」だ。
 と、国連憲章にまで書いてある。

 かてて加えて、プーチンさんは「非核国に対する核兵器による先制攻撃」を「脅し」として使った。
 これは世界の構造を変える、稀代の「愚策」だった。

 一線を越えた、それも両足で。
 もはや取り返しのつかない「悪」認定でよい。


 両者の意見と事実を勘案した結果、「悪」が「悪」を倒すために動いたのが、この戦争(特別軍事作戦)ということになる。
 だいたい武器をもって殺し合っているような連中が、正義なわけがない。

 そもそも論になって恐縮だが、たくさんの敵を殺して降伏させた(勝った)ほうが正義、という「設定」そのものがおかしい。
 とは思うのだが、それを言い出すと人類史がヤバいことになる。

 結局われわれは、「選択可能でマシなほう」を選ぶ以外にすべがない。
 どちらがより巨大な「悪」かは、事実の重みによって歴史が証明するだろう。

 その悪役が、さらに上手の悪役として推しの存在、それが「ナチ」である。
 最後に、この伝統的悪役「ナチス・ドイツ」について、すこし記しておこう。


 あらゆる映画で、ナチス・ドイツといえば、たいてい悪役に決まっている。
 というか、それ以外の取り扱い方ができない。

 なぜか。
 ナチスは「絶対悪」だからだ。

 それは「常識」であって、異論は認めない。
 ナチスにもいい部分はあった、的な発言そのものがナンセンスであり、タブーとされている。

 しかし日本人には、上記のような議論を好む人々が少なくない。
 さまざまな分析があるが、詳しくは「ナチス 絶対悪」などで検索すると、つらつらと出てくるので参照されたい。

 さすがに検索上位には、それを否定する側のサイトが出てくる。
 が、その下には陰謀論的なサイトがずらずらと並んでいて、ほほえましいものを感じる。

 個人的には、陰謀論サイトのほうが好きだ。
 なぜなら「楽しい」からである。

 ナチスの残党が月の裏に逃げて地球侵略をたくらんでいる、という荒唐無稽な映画もあるが、正直きらいじゃない。
 『アイアン・スカイ』(2012)……べつにオススメはしない。

 もちろん全体主義や原理主義、Qアノンやテロリストなど、冗談では済まない部分はあるだろう。
 これらを肯定するつもりはないが、だからといって絶対悪と決めつけるのもどうかと思う。

 絶対とか100%とか、なるべく言わないようにしている私にとって、ナチス・絶対悪・常識という考え方には、本能的に距離を置いてしまう。
 一方で、陰謀論は楽しい娯楽、という以上のものであってはならないとも思う。


 くりかえすが、私は個人の信条として、絶対的なものをあまり信じない。
 よって絶対善である「神」とか、絶対悪であるナチスとやらも、娯楽的価値以外については、まったく信じない。

 ただ、社会学者が欧州の「空気」を研究して、そのような結論に至っている処世術そのものに疑義を呈するつもりもない。
 これらの社会学者が忖度している空気を察する程度の想像力は、私にもある。

 要するに「そういうことにしておいたほうが、いろんな方面でうまくいく」ということだ。
 みんなでそういうことにしようと決めたことを、部外者である日本人の社会学者ごときが否定するなど、できようはずもない。

 絶対善の神をこしらえることで、2千年来、それなりに社会がまわっていた。
 そんな欧米人にとって、絶対悪という概念は、それなりになじみやすい空気感でもあっただろう。

 すべからく教条的な「宗旨」として奉られ、異論は認められない。
 それ自体、もはや議論の俎上にはのぼらないのだ。

 欧米人が新たな「信仰」として獲得したのが、ナチス絶対悪である。
 宗教の使い勝手の良さについては、もはや言うまでもあるまい。

 相対悪のロシアも、喜んでそれを利用した。
 ナチスという絶対悪は、小悪党の隠れ蓑としても利用価値があったのだ。

 大事なことなので、もう一度述べておこう。
 ナチスは絶対悪、異論は認めない。


 このような方々とは、すくなくともその件に関しては、議論のしようがない。
 とある件について、朝鮮半島の方々と「話し合うのは無駄」と結論する歴史学者が、わが国にも一定数いるのに似ている。

 とある名をもつ神が絶対と信じる方々と、その件について話し合うことがどれほど無駄なことか。
 けっして折り合いのつかない件については「触れない」のが正解だ。

 にもかかわらず、まさに、であるからこそ、ネットでは議論が姦しい。
 ナチスは絶対悪派と、いいところはあった派だ。

 定義の問題を超えて、もはや教義に近い。
 互いに「絶対」的な「真実」に依って立ち、相手を否定する。

 ナチスは「絶対」悪なんだ、異論は認めない。
 絶対なんてない、彼らのなかにも善人はいた、これは「真実」だ。

 と、互いに罵詈雑言をぶつけ合っているやりとりに、思った。
 こいつらはカルトの「予備軍」だな、と。


 カルトは、しばしばカリスマ的な「教祖」によって率いられる。
 もちろんヒトラーは、驚くべきカリスマで歴史を動かした重要人物だ。

 アメリカにはチャールズ・マンソンという、有名なカルトの指導者がいた。
 20世紀を代表するカリスマのひとりで、けっこう最近(2017)まで生きていた。

 ある種のカウンターカルチャーの到達点。
 ネットには、その劣化コピーが蔓延している。

 かの「悪のカリスマ」を評する、こんな言葉がある。
 どこの本か映画か忘れたので、正確な引用ではないことをご了承願いたい。


マンソンは「真実」を語る。なぜなら彼は、なにも知らないからだ。
なにも知らない無知は「常識」から自由であり、いまここにある「現実」も理解できない。


 自分がなにも知らないことを、どれだけ理解しているか?
 ソクラテス以来の、これが「教養」だ。

 さて今回、私は「常識」と「陰謀」の両方を否定した。
 私に足りない「教養」を探しつづけるために、それが「答え」であってはならないからである。
 


 私は基本的に、アニメというものを観ない。
 べつにきらいではないのだが、とにかく観ない。

 ただし「映画」は観る。
 最近、なんとなく映画『ドラえもん』を観はじめて、驚いた。

 これは……おもしろい。
 正直に言おう、おとなのくせに泣いてしまった。

 藤子F不二雄が、いかに天才だったか。
 そのすごさに、いまさら気づいた。


 懐古厨と呼ばれてもしかたないが、涙の量としては古い作品のほうが多かった。
 新しい作品のほうは比較的冷静に観たものの、もちろんちゃんとおもしろかった。

 新旧を比較しているサイトはけっこうあったが、たいてい「リメイク」のあとには「ひどい」がサジェストされる。
 新しいほうは新しいほうで、いいとは思うのだが。

 のび太の恐竜2006(26作目)以降の声優変更も、最初は違和感があったが、すぐに気にならなくなった。
 何年やっても違和感をぬぐえない落語家もいれば、1年でなんとなくなじんでしまう声優もいる。

 プロはすごい。
 そしていちばんすごいのは、もちろん藤子F不二雄だ。

 7作目くらいまでリアルに観ていた私にとって、ほぼ全作リメイクされている事実にも感心せざるを得ない。
 その価値のある名作ばかりということだ。

 最近亡くなった藤子不二雄Aも、こう言っていた。
 ──藤本くんはほんとうに天才で、一時はもう、彼のマネージャーにでもなるしかないと思っていた。

 言うまでもないが、藤子不二雄Aも、たいがいすごい。
 そのひとが容赦なく天才と認めたのだから、それはすごかろう……。


 ゲームやアニメは子どものもの、という悪しき慣習に縛られていた私は、ドラえもんから離れていたことを残念に思った。
 リアルタイムで観た7作目『鉄人兵団』以降の記憶が、まったくない。

 逆にいえば、予備知識のない状態で第8作以降を楽しむことができた。
 一気に観倒したが、全体的にそうとうおもしろかった。

 もちろん子ども向けのS(すこし)F(ふしぎ)なので、突っ込みどころは多い。
 とりよせバッグ使えばいいじゃんとか、いしころぼうしで身を隠せばいいのにとか、チートすぎるけどタンマウォッチで解決じゃないの、とか。

 そういう些事に突っ込むしかないくらい、作品としてのクオリティが高い。
 とくにキャラクター、鉄人兵団に登場するリルル(作中に登場する少女型ロボット)の魅力には、あらためて感心した。


 さて、そこで「突っ込み待ち」のドラえもんのひみつ道具、その「制限」について調べてみた。
 すると、これはこれで、いろいろ考えさせられるところがあった。

 ドラえもんの道具は、じつは「購入」しているのは全体の2割ほどで、残りのほとんどは「使い捨て」の「レンタル」か「試供品」らしい。
 すくない「おこづかい」でやりくりしているので、最強レベルの道具については汎用できない、ということなのかもしれない。

 たしかに映画でも、スネ夫の投資した3万円がドラえもんの道具の購入に大きく寄与した、という表現がある。
 ドラえもんはドラえもんなりに、苦労しているのだ。

 だったら道具を使って、お金儲けしたらいいじゃない?
 などというズルは、もちろんできない。

 未来の法律を管理するパトロール隊に、たいそう怒られるからだ。
 まあ、そうでなければ未来デパートは好き勝手、資産無限増殖すればいいことになる。

 行きつくところ、ドラえもん一行を悩ませる問題全部、タイムパトロールに任せればいいのに、と思わないこともない。
 いざというときタイムパトロールが助けにくるオチは、映画にもけっこうあった。


 とりあえず、ドラえもんのポケットは、つねにフル装備ではない可能性は高そうだ。
 じっさい、あわてたドラえもんが、なにかないかなにかないか、とわけのわからない道具(?)を取り出すいつものシーンをみても、たいしたものははいっていないようにみえる。

 その制限のありかがあいまいなので、なんとなく突っ込んでしまいたくなる。
 が、まちがいだ。

 映画『ドラえもん』のプライオリティは、ひみつ道具にはない。
 どんな道具を使うかではなく、どう行動するか、という「成長物語」にあるのだ。

 ひみつ道具に頼ること自体、原作者からして否定的に取り扱っている。
 自分でなんとかする、というモチーフは映画の端々にもあらわれている。

 困難は自力で克服する。
 有名な「さようなら、ドラえもん」というエピソードをみても、そういう志向の物語であることはあきらかだ。

 自力でジャイアンを倒す。
 ドラえもんが、安心して未来に帰れるように。

 道具によるトラブル、ドタバタを楽しむギャグマンガとしての側面は当然あるが、とくに映画版では、ひみつ道具は補助的な狂言まわしにすぎない。
 そういう視点でみれば、感動もひとしおだろう。


 冒頭に書いたとおり、年寄りの私には懐古厨の気配がある。
 とはいえ新しい作品も好きだ。

 なかでも評判の高い38作目「宝島」がベスト、と言いたいところだが、個人的には36作目「日本誕生」を選びたい。
 オリジナルは10作目の「日本誕生」で、そのリメイクになる。

 めずらしくオリジナルを超えた、と私は思っている。
 ……異論は認める。

 7万年まえの日本にもどった、のび太たちの物語。
 これを選んだ理由については、私がそれに近い物語を書いたことがある、という関連性を無視できない。

 のび太がキメラを製造した件については、悪魔的な合体を想起させて、これもまた興味深い。
 遮光器土偶のモンスター感や、電車ごっこのシーンにも心が動く。

 要するに個人的理由なわけだが、じっさいいい作品だと思う。
 心に響いたセリフも、けっこうある。

「土地なんて46億年もまえから地球にあった。
 それをあとからやってきた人間が勝手に切り分けるなんておかしいだろ!」

 スネ夫のくせに、じつに的確だ。
 ほんとどうしようもないな、人類。

 ついでにドラちゃんも、なかなかの決め台詞を宣った。
「偽物の歴史が、本物の歴史に勝てるわけがない!」

 新・のび太の日本誕生。
 機会があったら、ぜひご覧いただきたい。


 じつはタイトル曲も、新しいほうが気に入っていたりする。
 世代的には「アンアンアンとってもだいすきドラえもん~」なのだが、映画のタイトルバックに流れていた「しゃららら歌をうたおう~」を何度か聞いただけで、もうドラえもんはこれでいいんじゃないかな、と認めた。

 その後、2019年から新しい曲に変わったらしいが、残念ながら響かなかった。
 星野さんのことは、べつに好きでもきらいでもない、というかよく知らない。

 なんなら「しゃららら」を歌っているひとのことも、ほとんど知らない。
 タイトルすら知らなかったが、さきほど調べたところ「夢をかなえてドラえもん」だった。

 楽曲としては、完璧だ。
 この曲を聴くだけで心が揺れる、っておっさんのセリフじゃないな……。


 最後に、私が欲しいひみつ道具をひとつ、記しておこう。
 ほんやくコンニャク。

 これさえあれば、すべての言語が読める。
 謎とされている文字、たとえばインダス文字やミノアの線文字A、インカのキープ、ロンゴロンゴ、ヴォイニッチ手稿なども解読が進むだろう。

 まだ人類のだれも知らないことを知る。
 じつにすばらしいと思わないか?

 グンマーとしても、コンニャクを推さないわけにはいかない。
 というわけで、コンニャク、今夜食う。
 


 認めたくないものだな、自分自身の家族ゆえの過ちというものを。
 と思ったのは、私がまだ坊やだからかもしれない。

 多少ふざけてみないとやってられないほど、あまり語りたくない話をしよう。
 私の近親者のうち若干名は、モンスターらしい。

 まあ警察沙汰にはなっていないので、モンスターは言い過ぎかもしれない。
 それでも親戚ご近所に毛嫌いされる程度には、「厄介な」性格の持ち主がいる。

 私自身、頭のおかしさは自覚しているので、あまりひとのことは言いたくない。
 ただ「他人に迷惑をかけない」という範囲は堅守している。

 そのボーダーをはみ出す近親者。
 他人なら責めるか無視を決め込めばいいが、身内だとそう単純でもない。

 きらわれるということは、そのひとにとって「いやな人物」という印象を与える言動・行動をしているということだ。
 そういうことをやりそうな、またはやっている近親者を有する方々なら、より状況をご理解いただきやすいかもしれない。


 そもそも他人とかかわりたくない私は、近親者に対してすら興味がない。
 妹が結婚してどんな苗字になったのかも知らなかったし、とくに知りたくもない。

 現在、田舎に引きこもって『アテネのタイモン』よろしく生活している。
 ヴェンティディアスとアルシバイアディーズとローゼンクランツとギルデンスターンが話し相手で満足だ。

 要するに「人間ぎらい」なわけだが、タイモンほど深い理由もなく、ひとことで言えば社会不適応者だ。
 当然、厄介な人間とのかかわりは、もっともごめんこうむるところである。

 べつに死人に鞭を打つつもりはないし、私にとっては「よい祖母」だったので、あまり掘り返すのも気が引けるのだが、きっかけがあったので踏み込むことにした。
 周囲の人々の見解によると、まあ「厄介な婆さん」だったらしい。

 なんとなくそんな気はしていたが、よい祖母であってほしいという願望もあり、なるべくその手の話にはかかわらないようにしていた。
 しかし彼女は現に、因業な婆さん、だったようだ。

 唯一の男孫だったせいか、私に対して(だけ?)は非常にやさしくしてくれた。
 言い換えれば、それ以外に対する当たりはだいぶ厳しかったようだ。

 現在、その祖母の家に暮らしている。
 上記のとおり引きこもりなので、ご近所づきあいもあまりない。

 静かに暮らしたい、それだけが望みであるが、順番というものはまわってくる。
 班長になったので、区費やら配布やらの仕事をやらないわけにもいかない。


 で、区費の集金にうかがった隣家がきっかけだ。
 2000円が「ない」というので、翌日、あらためて取りにいった。

 現金をあまり家に置かないひともいるだろうが、それほど大金でもない。
 いやな予感しかしなかった。

 つぎの集金までに、おそらく「準備」を整えるつもりなんだろうな。
 どうやって引きこもりの耳に「苦言」を注ぎ込んでやるか、2000円といっしょに準備しておくという意味だろうな、と気分は沈みがちであった。

 案の定、というか予想の斜め上に、長かった。
 子どものように玄関に「立たされた」私は、小一時間、「お説教」(苦情)を聞かされる羽目になった。


 いろいろあったが、長くなるのでひとつだけ例を出そう。
 それはさすがにひどいなあ、と私も思った。

 所有者のいない土地が裏にあるのだが、そこに邪魔な木が何本か生えていたらしい。
 隣家に工事があって業者がやってきているとき、祖母が「ついでに」その木を伐ってくれと頼んだ。

 費用は自分が払うと言っておきながら、あなたの家の裏なんだからと、隣家にも3分の1を払わせたらしい。
 たしかに場所としては隣家の裏だが、頼んだのは祖母だ。

 当人が亡くなっているので、あまり一方の言い分だけで書くのも気が引ける。
 しかしまあ、やりそうだなあ、とも思う。

 「ご近所なので、お線香はあげさせてもらいましたが……」。
 なるほど、線香すらあげたくないほどきらっている相手なんだと、たいへんよく伝わってきた。


 近親者に「毒」成分の多い人物をかかえているご家庭は、それなりにあると思う。
 当人がどういう気持ちかは知らないが、家族はたいがい「迷惑」している。

 情けは人の為ならずという言葉があるが、いいことをしておけば、めぐりめぐって自分のところにもどってくる、ということだ。
 しかし、わるいことをしてしまうと、めぐりめぐって子孫にまでもどってくる、ということでもある。

 いや、もちろん先祖の罪を子孫が負わねばならないなどという理屈は、そもそもまちがっている。
 千年前の先祖がやられた、という理由で被害者づらをする民族さえあるが、狂気だ。

 とはいえ心情としてはありうると、理解もしている。
 当人に言ってくれというのは私の意見だが、当人が死んでしまっている以上、遺族である私にぶつけたいというのがご近所さんの思いではあろう。


 自分がわるくもないのに謝るのは信条に反するのだが、今回ばかりは、どうもすいません、と謝っておいた。
 現にその祖母の家に暮らしているので、無関係ではないことを理解もしている。

 当人が家の外で迷惑をふりまいていることを喜ぶような、ひとことで言えば「一族郎党すべて毒」というようなご家庭は、世の中にはあまりない。
 うちの子が、うちの親がすいません、と家族は平身低頭というパターンが多いのではなかろうか。

 家族が重大事件などを起こしたら、身内の苦労は頂点だろう。
 さいわいうちは犯罪レベルではないが、親しく付き合うのは「ごめんこうむる」くらいの毒は含んでいるようだ。

 むしろ私としても、その点に特段の不満はなかった。
 そもそもご近所「付き合い」はしたくないのだ。

 あまり「木を伐」りたくもない。
 草刈りは必要かもしれないが、さほどの重要性も感じない。

 自然を大事にしている、という言い方もできる。
 もちろん欺瞞だ、ただの「めんどくさがり」である。

 だれに貢献もせず迷惑もかけず、静かにこの狂った脳をだましだまし使い果たしたい。
 そのために引きこもって、死ぬまで呼吸をさせてほしい。

 とくに多くを望んでいないし、これといった野望もない。
 そんな私にガツンと響く、因果の応報であった。


 お金も土地も、なにもいらない。
 私より権利があるひとが現れれば、すぐさま差し出してもいいくらいだが、死ぬまで使える場所だけはどこかに探さねばなるまい。

 すべてを捨て去りたいひとの気持ちがわかる。
 あらゆる物質は通り過ぎるエネルギーの流れであり、自然に返すべき借りものだ。

 人類によって汚し尽くされ、迷惑な話だろうと思う。
 お金なんて、地球さんにとってみたらゴミクズの極みだろう。

 なにも持たずに生まれてきた私は、なにも持たずにこの世から去る。
 一瞬のすれちがう時間、もっと有用な使い方をしたい。

 近所づきあい、無駄なコストが生じるくらいなら、接点すらないほうがいい。
 必要なひとはいるかもしれないが、私はそちら側の人間ではない。

 才能にあふれたひとなら一日でできる仕事も、さほど能力に恵まれていない私では何日も、何週間もかかる。
 くだらないことに費やせる時間は、そもそも低能な私にはないのだ。
 


 よく考えるまでもなくお金は大事だが、命はもっと大事だ。
 ということになっている。

 いや、大事だろう。
 もちろん自殺はいけない。

 ただ「いけない順位」の話になると、いちばんいけない、とまでは言えない。
 自殺は他殺よりはよっぽどマシだし、世の中には平気で大量虐殺の命令ができる政治家もいる。

 そんな極端な極悪人は別格としても、自殺のハードルはそれほど高いとは思えない。
 希死念慮という言葉は、けっこう身近にありうる「状態」だ。

 私には3親等以内に自殺者がいる。
 叔母は正しくないことをしたと思うが、全否定するつもりはない。

 この世から消え去りたくなることは、だれにでもある。
 問題はおそらく「当人」ではなく、ある意味「周囲」の問題であるといってよい。


 いわゆる「自殺報道」で、フジテレビとテレ朝がやらかした。
 モザイクもなしに自宅前などから生中継して、ネット上から政府まで、だいぶお怒りを買ったらしい。

 自殺は、あたりまえだが突然なので、追悼用ブイの準備などまにあわない。
 しかし情報を得たマスコミの条件反射として、なにもしないというわけには断然いかない。

 そこで彼らは自宅前に突撃し、リポーターは嬉々として(?)自殺方法などを具体的に報告した。
 生放送中に生中継、自宅にモザイクなどかけられない。

 さすがに、ピンポン鳴らして遺族を追い込むことはまずい、くらいの判断はできていたようだ。
 しかしWHOのガイドラインでは、「死因や場所の特定」もダメということになっている、と尾木ママが指摘していた。

 おそらく、どこまでやっていいかの判断が現場レベルでつかなくて、とりあえずやっとけ、という話になったのかと思われる。
 さすがに現場の人間が「知らなかった」では済まないと思うのだが。

 自宅前に行ったところで、なにも撮れるわけではない。
 あたりには弔問客も遺族もいない。

 近所の住人の話など聞いたところで、なにがわかるというのか。
 それでもやる、なぜか。

 体育会系に特有の「勢い」。
 「やってる感」を出したい、たぶん、それだけだ。


 芸能人が亡くなるたびに過熱報道が問題視され、ついに自殺については世界的に「触れないでおこう」という結論に達しつつあるように思われる。
 それが正しいのかどうかはわからない。

 すくなくとも自殺は、当人が決めてやったことだ。
 芸能人として最期に目立つことをやって逝こうという思いが、なかったともかぎらない。

 もちろんそんな気持ち(があったとしてもそれ)より、周囲への「影響」のほうが問題視される。
 世界の報道は現状、自殺については「なるべく触れない」という結論で、合意形成が進んでいるようだ。


 もうひとつ、報道に疑義をおぼえた話題。
 給付金誤送金問題だ。

 山口県の自治体が、給付金を一世帯にまちがってふりこんだ、という話がかしましい。
 4630万円を返してくれない、と町が怒っているらしい。

 どんな町だよ、と思って調べようとしたが、町役場のサイトにちっともつながらない。
 たぶん全国各地の私のような人々が、そう思って検索しているのだろうなと察した。

 調べても「当事者」の姿がなかなか見えてこないので、以下の見解は、町が「ろくでもない自治体」であるという前提で進める。
 そうではない、すばらしい町なのだ、という情報があれば訂正したい。

 まずウィキなどで調べたところ、阿武町は平成の大合併を乗り越えて、独自の政治体制を温存した小さな町らしい。
 地図を見ればわかるとおり、周囲はすべて合併に応じた萩市となっている。

 多くの合併は、過疎化が進んだ小さな自治体に必要な合理化の一環として行なわれた。
 財政に問題がない、自分たちだけでやっていける、という自治体であれば乗っかる必要はあまりない。

 ところでこの阿武町という自治体、人口3800人で低所得者給付金が463世帯という、謎の自治体らしい。
 当然、補助金がなければ成立しない。

 その補助金を「適当にばらまいた」ように見えるのが、今回の事件だ。
 適当に、好きなようにやりたい町だから、合併しなかった……ように見える。

 合併に応じれば当然、合理化や無駄を省くなど、他人の言うことを聞かなければならなくなる。
 好きなようにやりたい阿武町が、適当に適当を重ねた地方行政の結果。

 だとすれば、起こるべくして起こったミスだ。
 自分たちさえよければいい人々は、たいてい適当な仕事をする。


 地方公務員をディスるつもりはない。
 ただ個人的に、ろくでもない寄生虫のような人間を知っている。

 細かいことは長くなるので省くが、適当に嘘をついてこちらに被害を与えた挙句、アカウントを消して連絡不能になるような人物だった。
 公金にたかる寄生虫、と彼のことを表現したい。

 もちろん、たまたまクソみたいな公務員がいたから地方自治を全否定、などというつもりはさらさらない。
 ただ親切にしてやった公務員が親切を返してくれるとは、なかなか信じられないことも事実だ。


 たとえば今回の件でいえば、一方の当事者である「手続きをまちがった担当者」だ。
 その人物のことがまったく伝わってこないので、どう評価していいのかわからない。

 どうせ適当に仕事をしていて、いやーまちがっちゃったよごめんね、とヘラヘラ笑っている担当者なのかもしれない。
 そうでなかったら謝るが、見えないものに対しては最悪のケースを想定せざるを得ない。

 役場が、自分たちのシステムをつまびらかにして、どこにどういう問題があったのか、これからどうするのか。
 責任ある立場の人間と当事者が表に出て、きちんと説明すればいい。

 問い合わせに応じるため、サーバを強化し、反省とともに道筋を示すなど期待したいところだが、いまのところそれはない。
 先述のとおり、知りたいと思って検索しても、ホームページにつながりもしないのだ。

 一般財源の八割が「依存財源」という寄生虫。
 私にとっては、そんなウィキペディア情報がすべての町になる。

 自分たちのミスだけ回収できればよく、とくに全体を改善をするつもりはないのかもしれない。
 合併に応じればいい自治体というわけではないが、応じなかった時点でハードルは上がっている。

 適当に仕事をして、適当に飯が食えて、適当に失敗したら、ごめんねで済ます。
 そんなぬるいお役所勤務の地方公務員が実在することを、残念ながら私は知っている。


 報道の姿勢についても、たいそう疑問だ。
 まちがった側ではなく、まちがいにつけこんだ側に対する報道が多すぎる。

 まあ、おかげで「つけこんだ側」もそうとうなクソ野郎らしいことはわかったので、彼を擁護する気には、まったくなれない。
 どう考えてもプライバシー侵害な話までウィキに書き込むのはどうかと思うが……。

 と、思っていたら、私が読んだページは「即時版指定削除の方針に従い」消去されてしまった。
 たしかに、週刊誌引用のyahoo!ニュースばかりにリンクした、ウィキに似つかわしくない記述だった。

 いずれにしろ誤送金の金を使い込んだ男のことは擁護できない。
 が、だからといって町の側が「正しい」わけではなく、ただ「返せ」とだけ言う、そんなアホな態度では済まされないと思う。

 いっそこの機に地方自治体の闇をあぶりだすキャンペーンでもはじめたいくらいだが、彼らもそんな藪蛇には応じないだろう。
 自分たちの闇をバラされるくらいなら、なかったことにして逃げ出したいというのが本音かもしれない。


 ちなみに私が給付金をまちがってふりこまれたら、全額引き出して電車で遠くの街へ行き、一杯呑んでから警察に出頭して、こう言う。
 酒屋で「もう半分」と呑んでいたらお金のことを忘れてしまった、探したけど見つからなかった、どうやら盗まれたらしいごめんね飛び降ります、と。

 そして警察になだめられつつ、その全額を自分の口座から、清水の舞台から飛び降りるつもりで、どこぞの慈善団体にでも寄付をする。
 自治体もミスしましたが、私もミスしました、失った額もお互い様ですし忘れましょう、で幕引きを図る。

 適当に仕事をする癖のついた自治体を甘やかしても、あまりいいことはない。
 だったらどこぞの有志に託して、いいことをしてもらったほうがマシだ。


 私は善人ではないが、悪人でもない。
 全体としてマシな結果になるなら、あえて「正しいことをしない」選択肢もあると思う。

 まあ、そんなアホな公務員がいなくなればいいだけの話だ。
 そもそも淡々と談合や事務作業するだけの議会や行政など、さっさと合理化して、AIにでも任せればいいのだ……。

 


 うちの近所には鉄道が走っている。
 観光客が集まる程度には、めずらしい路線らしい。

 折に触れて鉄オタも集まってくる。
 連休などイベント時に買い物に出ると、線路沿いの道路にそれらしい面々が集まっているのを見かけることもあり、ごくろうさまです、と思いつつ通り過ぎる日々だ。

 私は鉄道の撮影にまったく興味がないので、とくに共感も反感もない。
 ただ、たまに「害悪」が発生するリスクが、どうやらありそうだ。


 あらかじめ言っておくと、彼らが原因だと断定しているわけではない。
 じっさいどういう経緯で、その路側帯が閉鎖されたのかはわからないが、気がついたときには非常時に使われるべき路側帯が、オレンジのラバーポールでふさがれていた。

 「非常停車帯の使用に関してマナーが悪い為閉鎖させていただきます」という看板が立てられていた。
 通常は空けておかなければならない場所のはずだが、それが閉鎖されるほどのマナーって……。

 ある日、この路側帯に近い場所に撮り鉄たちが集まっていたのをみて、こいつらが原因じゃないのかな、と思ってしまった。
 くりかえすが、断定しているわけではない。

 ただ、あれだけ道路をふさがれると、近所のひとは邪魔だろうな、とは思った。
 もちろん良識をわきまえて撮ってくれるぶんには、私もまったく文句はない。


 その良識がない撮り鉄が、いろいろ問題を起こしているらしい記事を、よく見かける。
 撮り鉄で検索すると、まっさきに「迷惑」とサゼッションされるくらいには害悪のようだ。

 害悪な撮り鉄は一部、という指摘はある。
 もちろんそうだ、全員が害悪だったら社会的に抹殺されている。

 ただ、法令違反を犯す者「だけ」がわるい、という論調は誤っている可能性がある。
 一部の凶悪さは、その周囲にいる「ぎりぎりの撮り鉄」たちによって助長されていることも、また事実だからだ。

 彼らは基本的に「同じ穴のムジナ」である、という指摘は極端だとは思うが、完全に誤っているわけでもない。
 同じ趣味をもつ者同士、当然「仲間」意識はあるだろう。

 それでもふつうは、その仲間が法律を違反しようとしていれば、止めるべきだ。
 しかし鉄オタにはコミュ障なタイプが多く、ほとんど止めることはない、という指摘もある。

 それでも自分は法律を違反していない、という部分に安住している者は一定数いるだろう。
 そこからもう一歩、踏みだすのは簡単だ。


 現に法律違反が、つぎつぎと暴露されている。
 肩身が狭くなっている実感はあるのだろう。

 そこで「隠蔽しよう」という発想が出てくる。
 「一部の犯罪者」の周囲に一定数が集まれば、以下のような事態が発生する。

 とある「線路への侵入者」を、同じ撮影スポットに集まっていたひとりが撮影し、SNSにさらそうとした。
 すると関係ない他の面々から、罵声があがったらしい。

 こんなところ(撮り鉄スポット)に集まっている時点で、あんたも同類なんだから、自分たちが写真撮りづらくなるような行動はさらすなよ、と。
 犯罪者を守ろうとする、犯罪者予備軍の誕生だ。


 そもそもコミュ障なので、他人がなにをやっていようがあまり気にしない。
 自分がいい写真を撮れればそれでいい、というのが撮り鉄の本質だという。

 その自分が写真を撮りづらくなる状況は当然、忌避したい。
 このような犯罪が暴露されれば、ますます肩身が狭い。

 ではどうするか。
 隠蔽しておいたほうがいい。

 論理構造としては、正しい。
 その理屈に反する者に対しては、偽善者とか裏切り者といった罵声が事実、浴びせられている。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない、の心理であろうか。
 そこでひとりだけ渡らず、その姿を撮影などしはじめたら、裏切り者呼ばわりということになるわけだ。

 「線路にはいるな」ではなく「線路にはいった事実を隠せ」。
 そういう空気を読まないやつに浴びせられる「偽善者ぶるな」という罵声。


 さて、ここで私は、はてな、と首を傾げた。
 偽善者ぶる、ってなんぞ?

 善人ぶる、ならわかるが……偽善者ぶる?
 日本語は高文脈言語だし、理解できなくもないが、違和感はある。

 国語的にそのまま意味をとるなら、「善人ぶってみえることを理解していながら、あえてそういう言動・行動をとる」ということだろうか。
 文章としておかしくはないが、まちがって使われていることが多そうだ。

 要するに私のことだろうな、と考えて納得することにした。
 たまに献血の記事を書いているが、善意で献血しているわけでは、まったくないからだ。

 情けは人のためならず、いつか自分が困ったときに助けてもらうために、いまは他人のためになることを「貯蓄」しておこう、というだけの打算的献血だ。
 まさに偽善者であり、さらに「そのことについて明示的である」というニュアンスを付け加えれば、このうえなく的確である。

 みずからを鑑み、偽善者ぶるのもわるくない、と思う。
 よって撮り鉄さんたちも、がんばって偽善者ぶっていただきたい。
 


 HLA適合血小板献血をしてきた。
 適合者に依頼が届き、応諾すれば患者さんの手術(?)日程に合わせて献血する、というオーダーメイドなプランだ。

 兄弟姉妹間で4人に1人、非血縁者間では数百人から数万人に1人が、HLA適合するらしい。
 私が前回の献血から「次回献血可能日」になってほどなく、午前10時ピッタリにメールが届いた。

 私と「白血球型(HLA)の適合する患者さんが輸血を必要として」いるが「未だ献血にご協力いただける方が見つかっていない」らしく「急なお願いで誠に恐縮」だが、血小板成分献血の協力を「心よりお願い申し上げ」られた。
 お急ぎらしいので、とりあえず応じておいた。

 しかし正直、私は成分献血が好きではない。
 最大の理由は、時間がかかるからだ。

 一度出したものを体内にもどす、という現象自体にも抵抗がある。
 反芻動物でもあるまいし、江戸っ子……いや上州っ子が一度出したものを引っ込められるかってんだ、べらんめい!

 と、冗談はともかく、私にとって血よりもはるかに大事なのが、時間だ。
 献血など最短時間で済ませたいし、だから前回、予約して行ったにもかかわらず2時間以上もかかったことに、ひどくご立腹だった。

 とはいえ私の何時間かが、どこかのだれかの何年間かを支える可能性を考えると、有意義な時間の使い方になるかもしれない。
 そう自分を納得させて、いってきた。


 400の場合は指に針を刺した事前検査になっているのだが、成分献血はあいかわらず本番と反対の腕から注射で血を採った。
 心電図までとられたことには引いた、こちとら時間を大切にしているというのに。

 まあ連休中のせいか、待っているひとはほとんどおらず、献血自体はスムーズに進行した。
 そりゃそうだ、予約して行ってるんだから、本来はこうあるべきだ。

 やたらエアコンの風がよく当たる椅子で、70分もかけて血を出したり入れたりされた。
 やることもないので、看護師さんと会話した。

「……ええ、成分はほとんどやらないんですよ、時間かかるのがいやなんで」
「気持ちはわかります。お急ぎですか?」
「いや暇は暇ですけど、早く行かないとスーパー閉まっちゃうんで」
「あはは、すぐそこにいいお店ありますよ」

 などと他愛ない会話をしつつ、ふと思いついて訊いてみた。
 そういえばHLAの型とか教えてもらえないんですかね、と。

 自分がどのくらいめずらしい型なのか知りたかっただけで、他意はない。
 看護師さんによると、そういう情報はまったく現場には降りてこない、ということだった。

 理由はたぶん個人情報云々で、くわしいことは調べればわかると思いますけど、みたいな話だった。
 しかたないので調べた。

 調べなければよかった、と思った。
 以下にコピペするが、この文面考えたやつ死ねばいい。



 HLA型は移植医療の現場において大変重要な情報です。これが一般的に公開されると骨髄バンクを含め公平な臓器提供が行われなくなる可能性や、まれですが臓器売買等が行われる心配があります。そのため、第三者はもちろんドナー登録者本人にも個人を特定したHLA型は教えないこととしています。



 まず日本国憲法なみに、日本語としてどうかと思う文章だ。
 いろいろ突っ込みどころが多いが、順番に片づけていこう。

 とりあえずわからないのが「一般的に公開」の意味だ。
 第三者に勝手に教えるとか、やめろ、あたりまえだろうが。

 この「現場において大変重要な情報」であるHLAを、本人にも教えない理由はなんだろう。
 核心にはいるまえに、まずは推しはかってみよう。

 HLAを調べるには当然、ある程度のお金がかかる。
 彼らは自分の目的のためにすでに調べているわけだが、それをタダで教えるわけにはいきませんよ、という理屈はわからんでもない。

 HLAタイピングにはいろいろなやり方があり、検査項目、費用もさまざまだ。
 まあ、だいたい数万円かかる、と考えていい。

 民間企業ががんばって稼いでいる遺伝子検査の領域に、公益法人がしゃしゃり出て邪魔するわけにもいかん、と。
 彼らの天下り先のひとつなのかもしれないし、ほかに理由があるのかもしれない、ともかくお金にまつわる理由なら理解はしやすい。

 ところがだ、彼らはこの常識的な忖度の範疇を、斜めはるか彼方へと飛び越えた。
 ありえない理由が、眼前に突きつけられたのだ。

 HLAを「登録者本人にも」教えない理由が、もっともおかしい。
 冷静にもう一度、読み返していただきたい。

 「臓器売買等が行われる心配がある」ため「ドナー登録者本人にも」教えない。
 そう書いてある。

 本人に情報を教えると臓器売買するかもしれないから教えません。
 そう書いてあるのだ!

 おいふざけんなよマジで。
 この文面考えたやつ、ほんと死んでくれねえかな。

 ……いや失礼。
 しかし、そう声を荒げたくなるほど、この文章にはムカついた。

 告知しない理由として「犯罪に巻き込まれる恐れがある」とか「民間の営業に影響を与えられない」とか、もっともらしい理由はいくらでも考えられる。
 それなのに、なぜこんなひどいことが書けるのか?

 善人ぶって骨髄バンクに登録とかしてるおまえが犯罪者かもしれないから教えないよ。
 この説明だけは、どう考えても無理だ。


 自分たちが大量虐殺しているのは相手のせい、と現在進行形で殺しつづけている人々が、最近もよくニュースに出ている。
 相手を悪と決めつけることで、自分の悪を隠蔽しようとするロジックは、どこまでも社会に蔓延している。

 国家ですら、この始末だ。
 闇の組織・赤十字め、もう二度と献血なんかしねえぞ、と決意しかけてふとサイトのアドレスを確かめ、考え込んでしまった。

 JMDP──日本骨髄バンクだった。
 赤十字も骨髄バンクも同じだろ、と決めつけたい気持ちはあるが、ただの公財と特別法による認可法人を同列には扱いづらい。

 赤十字のサイトにも似たようなこと書いてないかな、と探してみた。
 残念ながら(?)見つからなかった。

 HLAの型については「教えません」としか書いてない。
 ぎりぎり危機管理が行き届いているのか、ただの偶然か。

 ともかく献血については、やめないことにした。
 骨髄提供はむろん、断固としてやらないと決めた。


 「想像力が、いのちを救う」とトップページにある骨髄バンク。
 どうやらボランティアに想像力をはたらかせることは求めても、自分たちがボランティアに対して想像力をはたらかせる必要はない、と考えているらしい。

 自分の都合しか眼中にないので、すべてを「相手のせい」にできる。
 もう絶望した、輩みたいな連中がいっぱいの社会に、絶望した。

 責任転嫁ばかりのこんな世の中じゃ、血の一滴もポイズン。
 せめて言いたいことくらいは言わせてもらおう……。
 


 私は頭がおかしいので、頭のおかしいやつら用の番組をよく観る。
 江頭さんの番組だが、そこで出演者の汚い部屋を掃除する企画をやっていた。

 なかなか汚い部屋だった。
 個人的には、すこし懐かしいものを感じた。

 手の届く範囲にいろいろある、という状況が落ち着くという気持ちは、わからないでもない。
 わからないのは、ゴミを捨てないという部分だけだ。

 世の中には「ゴミ屋敷」というものがあるが、極端な人々はゴミを「集めてくる」ので、掃除をせずに片づけない結果として部屋が汚れる、というレベルの話とは異なるだろう。
 正直、私もほとんど掃除はしないのだが、部屋は意外にきれいだ。


 男なんてこんなもんでしょ、という意見もあったが、それはちがう。
 潔癖症の男はいくらでもいるし、汚ギャルという言葉もあるとおり、これは性別ではなく性格の問題だ。

 私はべつに潔癖症ではなく、先述のとおり掃除もほとんどしない。
 たんに「都度ごみを捨てているだけ」で、まあまあきれいである。

 と言ってしまうと、きれい好きの人々からは猛烈に怒られる気はする。
 ロボットが掃除してくれないトイレや風呂場は、ある意味、とても汚いからだ。

 風呂の隅などだいぶ変色しているが、あまり気にしていない。
 自分が使う範囲内はまあまあきれいなのでいいんじゃないかな、と思っている私は、たぶん性格的に部屋が汚くなる要素を多分に含んでいるだろう。

 それでも、まあまあこぎれいなのは、なぜか。
 あまり物を置かない、というミニマリストのおかげだと思われる。

 まず障害物がないので、ロボット掃除機が最大限活躍してくれる。
 戸の枠や桟などにはかなり埃がたまっていたりするが、部屋自体は一見すると片づいている印象がある。

 大事なのは、やはり断捨離だ。
 必要なものだけを置く、という生きざまは、死を意識した瞬間から徹底されてきた。


 酒代と本代はケチるな、という文化がある。
 新聞社などマスコミ関係ではよくある警句だが、私もこれはけっこう守っている。

 酒は消費するので邪魔にならないが、本はそういうわけにいかない。
 定期的に処分しないと床が抜けそうになるし、決意してブックオフに持ち込んでも二束三文だ。

 そこで図書館の利用頻度は昔から多かったが、最近は近所の図書館といろいろあって足が遠のいている。
 で、傾倒しているのが電子書籍だ。

 部屋が狭くならないし、邪魔になって二束三文で売ったあと、読み返したいと思って買い直す必要もない。
 それは永久に、私の所有するデータとして残るからだ。

 いや永久ではない。
 いろいろ制約が多いことは事実だが、それでも部屋に本を積み重ねる必要はなくなる。


 ところでこの電子書籍には、ちょっと言いたいことがある。
 汎用性が低すぎやしませんか? と。

 私は何社かの電子書籍を使い分けている。
 この時点で、詳しいひとは、ああ、と理解してくれるかと思う。

 なにも考えずに各社で買ってしまうと、どこになにがあるのかさっぱりわからなくなるのだ。
 そこで、ノンフィクションや一般書はここ、資料はここ、小説やマンガはここ、その他はこのへん、といった感じに買い分けてはいる。

 完全に分類はできていないが、問題はそこだ。
 「あれは小説だからここのはずだよな、ないな……ああ、こっちで買ったんだっけ」というようなことが、たまに出てくる。

 電子書籍のメリットとして、同じ本を買おうとすると「もう買ってあります」と警告してくれるわけだが、会社をまたぐとその意味がまったくない。
 ブックリーダーの使い方も微妙に異なり、不便といえば不便だ。


 そこで言いたい、統一する、ということはできないものだろうか?
 すくなくとも共通フォーマットは、あっていいのではないか?

 たとえば、メモ帳としても使えるEinkを使った電子ペーパーがある。
 アプリが入れられないので、電子書籍のリーダーとしては使えない。

 ところがpdfは読み込めるので、自炊した本は読める。
 これは、おそろしい事実だ。

 合法的に購入したマンガは読めないのに、違法に入手したマンガは便利に読める。
 そういうことなのだ。

 私も数年前、社会問題になっていたころ、違法ダウンロードを試してみたことがある。
 マンガというものがどのくらい簡単に、無料で手にはいるものなのか……。

 これはひどい、と思った。
 ちょっと懐かしいマンガを全巻ダウンロードして、対価も払わず読んでしまったことを心から謝罪したい。


 さて、違法行為は論外だが、問題は合法側にもある。
 先述のとおり利便性が低いのだ。

 なぜ金を払うと不便になるんだろう?
 どんなリーダーでも読めるように、せめて一括管理できるアプリを出してほしい。

 ソシャゲだって、時間が短縮できるとか便利とかいう理由のために、課金に応じている。
 課金者が有利になるのは当然なのに、電子書籍に関しては逆だ。

 もちろんソシャゲは無課金でも犯罪者ではないが、電子書籍の無課金は著作権法違反という犯罪者になる。
 犯罪者と呼ばれるリスクを負ってはいるが、盗人が金銭的に得をするという部分はともかく、「そのほうが便利」というのはさすがに不愉快だ。

 ただpdfを読み込むことに特化した野良アプリのほうが、反応が速かったり使いやすかったりする。
 このリーダーで読みたい、と思っても、読めない。


 法律違反者を追跡、断罪することは当然、やるべきだ。
 根絶はできないだろうが、徹底的にイタチどもを追い詰めてほしい。

 一方で、合法的利用者に対する利便性の確保は、会社同士で合意形成すればできるはずだ。
 本屋同士の利害関係とか縄張り争いこそ、話し合って解決すべきではないだろうか。

 これは違法ダウンロードを妨げることにはならない。
 しかし「お客さまの利便性」には資する。

 いちばん大事なのは、そこではないだろうか?
 この問題を乗り越える努力を放棄しているようにみえるところが、なにより腹が立つ。


 結論。
 自炊すればいい。

 個人で購入した電子書籍を、私的利用のために「複製」=pdf化することは、どうあがいても「合法」だ。
 個人使用の範囲ならOCRを施すのも適法であることから、より使いやすくなる可能性もある。

 これを代行するサービスなどは「違法」だろう。
 「使用する者が複製」したわけではないからだ。

 不特定多数に転売、アップロード。
 論外だ、裁かれてほしい。

 一方、顧客の囲い込みに汲々とする書店が、汎用のリーダーやフォーマットを用意してくれる気配もなさそうだ。
 有志によるアプリ開発に期待するのも詮無い。

 愚痴を言っていてもはじまらないので、もし詳しいひとがいたら、pdf化とOCRのおすすめなやり方を教えていただけると助かる。
 やってもらうのは違法なので、自分でやるしかないからだ。

 クグレカス?
 なるほど、それもそうですね……。


 ちなみに5月19日から、国立国会図書館が所蔵する電子データ化された書籍、雑誌、論文など150万点が、パソコンやスマホで閲覧できるようになるらしい。
 貴重な絶版本など、図書館に行かなくても見られるのはありがたい。

 古典籍資料(貴重書等)などを中心に多くの図書が、すでに閲覧できるようになっている(約55万点らしい)が、私の知能レベルでは、古文書の解読はむずかしい。
 絵文書や図解などであれば雰囲気は理解できるので、きょうも楽しませていただいている(pdfでダウンロードできる)。

 そういえば世紀の奇書として有名な『ヴォイニッチ手稿』もダウンロードして、しばらく眺めていた気がする。
 イェール大学などが公開しているので、興味のあるかたはぜひ。

 日曜の昼間から酒を飲みながら眺める、人類の叡智。
 本はいいね、人類の宝だよ。
 


 私はアスペの傾向があるので、よく不謹慎なことを言って怒られがちだ。
 ウクライナ戦争の件でも変な替え歌をつくったり、笑いごとではないのに笑ってしまうことが、たまにある。

 今週いちばん笑ったのは、プーチンさんだ。
 ロシア正教会のイベントで、「世界の平和を祈るプーチン」。

 待てと……。
 さすがにそれはずるいぞ……。

 まじめな顔でやるコントが、いちばんおもしろい典型例だ。
 ニュースを見てから小一時間ほどは、思い出すたびに吹いてしまった。


 さて、世界中の人々が突っ込んでいるので、私から言うべきことはもうない。
 きょうは、プーチンさんと仲良しの安倍さんが残した遺産についての話をしよう。

 アベノマスクだ。
 全国各地、そろそろ届いている方々も多いと思う。

 うちの父親のところにも、アベノマスクが届いたらしい。
 1000枚で申し込んだが、届いたのは100枚だった。

 ちょっとまえに読んだ記事によると、自治体からの申請はほぼ希望どおり発送され、その他の一般人に対しては適当に割り振った、ということのようだ。
 そもそも1000枚も申し込む意図が不明だが、個人がアベノマスク100枚も、どうするつもりだろう……。


 そのマスクの申請についてであるが、数か月まえ、父親が「できないのでやってくれ」と私に依頼してきた。
 パンフレットみたいなのを読んだが、さしてむずかしいこともない。

 自分でできるだろこのくらい、と言った。
 できない、という答えだった。

 必要情報を記入したエクセルを添付してメールするだけだ。
 どこで躓いてるんだよ? と訊いたら、最初から、らしい。

 めんどくさいので、やってやった。
 その結果、「たった100枚」が届いた。


 この報告に、狭量な私は、すこしイラッとした。
 たった100枚だが、「まあよしとしよう」とメッセージはつづく。

 まずは、模範解答を考えてみよう。
 アベノマスク届いたよ、10分の1の枚数だったけど、ありがとう。

 これなら受け入れられる。
 ネガティブな発言とポジティブな発言のバランスがとれているからだ。

 たった10分の1だった、ケチくさいな、まあ勘弁してやるよ……と、なぜ私に伝えるのか?
 そもそも枚数を決めたのは、私ではない。

 頼んだ以上、アベノマスク愛用しているのかと思えば、自分は日常では立体マスクを使っていて、アベノマスクは分厚くていやだとか。
 いやあんたが欲しいというから申し込んだんだろ……。


 アベノマスクの配布がケチくさいのも、分厚くて使いづらいのも、私の責任ではない。
 息しづらくてすいません、100枚で納得してくれてありがとうございます、と私が応じるのはどう考えてもおかしいので、とりあえず無視はしておいた。

 申し込んでやったこと自体は、たいしたことではないので恩を着せるつもりはない。
 しかしその結果、愚痴っぽいメッセージの相手をさせられるいわれもない。

 本件で、私にとっての正解は「アベノマスク100枚届いた」という報告のみだ。
 感謝されるほどのことはやっていないが、報告くらいしてもバチは当たらないだろう。

 そこにネガティブな感想はいらない。
 あえてつけるなら、ポジティブな感謝もつけてバランスをとってくれ。

 心の狭い人間は、いいことをした自分に酔い、感謝《プラス》を要求するだろう。
 心の広い人間は、いいことをしているのに文句《マイナス》が返ってきても平気だ。

 私は感謝も文句もいらない。
 せめてバランスをとってほしい。


 プーチンさんによる平和の祈りも、悪意ある編集のせいでコントになってしまった。
 いずれの側の報道も、バランスがとれているとは言いがたい。

 一国の意見が偏りすぎるのは、どこかにひずみがある証拠だ。
 西側諸国の正義が地球を支配しているとは、ゆめゆめ思わないほうがよい。

 とはいえロシアのほうがさらに極端なので、西側も反対の極端に振れる気持ちはよくわかる。
 一定程度はしかたないが、最終的には中国のように距離を置くのが正解、という可能性はある。

 本来は当の中国も、できるだけ巻き込まれたくないが、完全にロシアを見捨てることもできない、というジレンマの渦中にあるだろう。
 厄介な犯罪者の身内をどこまで擁護できるか、お手並み拝見だ。

 


 私は肉をあまり食わない。
 定期的に買ってくるのは納豆とか卵とか、最低限のものばかりだ。

 肉体労働をしていないから、という理由もあるかもしれない。
 ビーガンではないが、植物性の食事が多い。

 しかし現場でごりごり筋肉を使っていれば、そういうわけにはなかなかいかない。
 牛丼一筋300年、それは男の世界なのだ──。


 さて、その経営陣がおもしろいことを言っていた。
 大騒ぎになり解雇されたらしいが、ふりかえってみよう。

 ──生娘をシャブ漬け。
 笑った。

 ヤクザかな、と思ったら吉野家のおえらいさんだった。
 納得した。

 キン肉マンにさんざん世話になっておきながら、作者にはけっこうな塩対応とか。
 男塾を釣りに使ってみたところ、報酬の説明が前後で食い違ってプチ炎上とか。

 ちょいちょいやらかしてくれる吉野家、最近食べてないが、元気そうでよかった。
 この手の経営陣について、すこし考えてみよう。


 ジャンプの卒業生たちは、こういう大人になっている可能性が高いのかな、と思わないこともない。
 少年の気持ちをもちつづけている、香ばしい大人たち、と考えると生ぬるい笑いが漏れてくる。

 世間的にだいぶ指弾されていて、吉野家の株価も大幅下落らしい。
 まあそうだろうな、とは思う。

 早稲田大学の主催する社会人向け講座での出来事だ。
 例のごとくSNSによって拡散された。

 ──地方から出てきた右も左も分からない生娘さんが、初めて(吉野家を)利用して、そのままシャブ漬けになるような企画。
 「不適切な表現で不愉快な思いをする方がいたら申し訳ない」という前置きは、燃料を供給された人々にとっては塵に同じらしい。

 個人的には、むしろ丁寧すぎる物言いだと思う。
 彼らの暮らす世界、ターゲットでもある「現場のおっさん」にとって、こんなものは日常茶飯事なのだ。

 男には男の世界があるのだから、そこから出てこなければよかった。
 おっさん需要だけ満たしていればいいものを、変にチャラい企画を立てようとするからこうなる。

 そういう視点が日常である業界にもどれば、彼も有能な経営者であるはずだ。
 その講義を笑って聞いていたという学生も、吉野家に就職したら出世できるだろう。


 要するに「トーシロをジャンキーにする戦略を立てろ」ということだ。
 マーケティングとしては、しごくまっとうな課題とさえいえる。

 どうやら女性への侮辱でもあるらしいのだが、じゃあ彼が「田舎から出てきた男の子」と言ったら、男性への侮辱として大騒ぎになるだろうか。
 もちろんならない。

 民主主義や社会主義の定義が揺らいでいるように、フェミニストらの物言いも世代によって異なったりするので、慎重に受け止める必要はある。
 とはいえ私は、以下のようにシンプルなロジックで受け止めている。

 世の中の女性は差別されてきたので、これからは男性を差別しましょう。
 男性は男性であるという理由によって、もっと痛い目をみてください。

 やや単純化しすぎたきらいはあるが、そう考えると納得しやすい。
 社会というものを駆動している「原理」は、比較的単純なのだ。


 私は現実をまあまあ受け入れているので、この手の駆動力も否定はしない。
 むしろ活動方針に沿った、順当な論理だと思っている。

 ミートゥー的な集団は、かなりのパワーをもっている。
 問題の核心は、この一点に尽きる。

 いま私が分析しているのは、吉野家を「たたく側」の論理だ。
 戯画化した小説のなかですら、ジェンダー問題を絡めてたたいてくる人々は、事実いる。

 男女が「同じ人間」であれ「異なる人間」であれ、すべての「活動家の都合」は同じだ。
 かの共産主義者たちがみせてくれた「小児病」の姿を重ねても、わかりやすいだろう。

 あらゆる「主義者」が希求するのは、集団に対する動員、訴求力だ。
 この力学そのものを、まずは理解する必要がある。

 騒いで、ついてきてくれる人々が、一定数いること。
 それだけで、そのなかにいる人々は気持ちよくなれる。

 もちろん実利も伴われる。
 大なり小なり、人間を集めることができれば、利益が出るのだ。

 まさに市場原理でもあるのだが、マーケティングを教えている側が、最高の「反面教師」ぶりを示してくれた。
 おそろしく皮肉の効いた牛丼を、ひさしぶりに食いたくなったくらいだ。


 神を信じる十字軍から、階級と戦う共産主義者まで、その時々に人々を動員しやすい「流行」性感冒のような「思想」がある。
 なぜ人々が流行に乗っかるのかといえば、それが正義だと信じ、目標を達成することで「気持ちよく」なれるからだ。

 思想が弱いと達成のカタルシスは遠のくが、それが強ければより気持ちよくなりやすい。
 そこで流行というものが生まれる。

 害のない流行はもちろんあるし、あっていい。
 しかし、たまに有毒な「熱狂」があるから、気をつけなければならない。

 いわゆる「炎上」の多くが、残念ながらそう見える。
 たたきやすそうな「なにか」を待ち受け、見つけたら嬉々として飛びつく、彼らこそがジャンキーではあるまいか。

 ジャンキーを生み出す方法を考えろという発言自体が、多数のジャンキーを呼び寄せてしまった。
 この騒動は、最高のカリカチュアだ。

 食べ物を違法薬物にたとえる、という方法もたしかに不適切だろう。
 が、あらゆるファストフードが、そのジャンキーたちによって支えられている事実もまた否めない。


 「人権・ジェンダー問題の観点からも到底許容できるものではない」。
 火消しに躍起になっている吉野家だが、あなたがたに足りないのは、そういう会社なのだという自覚のほうだろう。

 一方で、この死に体に食いつき、むしゃぶり尽くそうとする人々の姿も、私にとっては「ハゲタカの群れ」だ。
 いつもどおりの「炎上」で焼かれた肉は、焦げついて食えたものではあるまい。

 残念ながら、この件の「おいしいところ」は、もう終わった。
 慶大卒のエリートがみせてくれた「最高のマーケティング」に、いかなる突っ込みも蛇足であろう。

 だからこれ以上、死体に鞭を打たず、そっとしておいてやろう。
 これが私の、本件に対する結論だ。


 やらかしたほうは、たしかにじゅうぶん気持ちわるい。
 が、彼をつるし上げて暗い欲望を満たす「正義」の炎上も、私にとっては気持ちがわるい。

 そもそも「正義づら」自体に、アレルギーをもっている。
 あなたがたは、ほんとうに正しいのか?

 いまでも思い出す。
 私の貧弱な正義を、多数の上級生と教師が、彼らの正義によって圧殺したことを。

 その後、私が「人間ごとき」ものへの嫌悪を募らせたのは、自明だった。
 みずから選んで、孤独な側にいる。

 往々「ひとりぼっち」でも、だいじょうぶ。
 考える力さえあれば、生きていける。


 旧約の著者たちの嘆きも、このあたりにあったのだろうなと察する。
 ヒトとは、みずから考えて善悪を決める知恵の実を食った、忌まわしい種族である。

 旧約のなかで、しばしば偶像など崇拝し、預言者によってなじられるユダヤ人。
 禁忌の罪を犯し、罰を受ける、という流れは旧約の「お約束」でさえある。

 神は高ぶる者に敵対し、謙虚な者を引き上げる、という。
 旧約の著者にとって、それは自分自身への「慰め」でもあったのだろう。

 ゆえに私も書いている。
 偶像を崇拝する世の中で、流行を追わない私のほうが「変人」だからこそ。

 謙虚に自分の意見を省察してもいいと思っている。
 いまのところ、引き上げてくれる神は見つからないが……。