祖母の納骨を済ませた。
 亡くなってだいぶ時間がたっているので、もはや感動する要素にも事欠くのだが、人が死んだことに対する「一区切り」ではあるだろう。

 時間の経過に伴い、情緒的な傾きより、事務的な意味のほうが強くなる。
 淡々と処理されるべき流れのなか、まず気になること、ひとつめ。

 時間どおりに坊主が来ない。
 母親が電話したところ「こちらにいらっしゃるのかと思っていました。すぐに伺います」ということだった。

 こちらにいらっしゃる?
 どういう段取りをすると、そういう流れになるのだろうか。

 すべて親に任せてあったので、どういうやり取りがあったのかはわからない。
 だが最初から小さな葬儀で進んでいる流れの末、49日だけは大々的な法要をお寺で、という展開は想定されるのか?

 坊主はうちの場所を知っているし、その近くに墓があることも知っている。
 祭壇に祈って、位牌に魂を移し、墓に骨を納める。

 この流れのどこに、客が寺に赴く要素があるのか?
 よもや、ただ忘れていたわけではあるまいな?

 もちろん、そんなはずはない。
 くりかえすが、年寄りが段取りしたので、どこかで行き違いがあったのだろう。

 ただ無駄な待ち時間を過ごさせてもらったことは覚えておく。
 カスタマーサービス的には減点ですぞ、坊主殿。


 専業か兼業かは知らないが、坊主も過当競争の時代だ。
 年寄りが増えて需要増はあるにしろ、そもそも寺の数が多すぎるのだから、個別の仕事量としては減っているはずだ。

 そうでなければ、われわれのような「細い客」に対して、「小さなことでも声をかけて」などと営業活動はすまい。
 そもそも2~3時間で5万も10万も稼げるおいしい仕事は、ほかにないのだ。

 かつては、49日はもちろん月命日だの何回忌だの、ご近所親類一同が参集するイベントに事欠かなかった。
 最近では、そのほとんどがなくなっている。

 現代人は、昔の人ほど暇じゃない。
 結果、イベント業者である寺のもらいが減っていることは、想像に難くない。


 それでもまあ、ひとりの人間が必ず一度は経験しなければならないのが、死だ。
 世の中には何度も臨死体験をする人がいるらしいが、私は一度でじゅうぶんだ。

 私もあなたも、この世の全員がいずれ死ぬ。
 で、順番的には両親が先に死ぬわけだが、どうしたいか訊いてみた。

 父親は、散骨してくれればいいと言っていた。
 母親も、伊豆の海に、みたいなことを言っていた。

 墓とかいらない時代になったな、と思う。
 まあ残念ながら(?)墓は確保されていて、まだ何人かははいれる余地があるので、一応は骨のカケラでも納める予定ではあるが。


 坊主によると、「全骨」を墓に入れるという風習は、日本全国的にはめずらしいらしい。
 火葬場で骨を全部集めるのは東北と関東の一部だけで、関西になると火葬場のスタッフがほとんど処理してくれて、帰ってくる骨の量はきわめて少ないらしい。

 壺いっぱいのリン酸カルシウム、というのはたしかに処理に困る場合もあるだろう。
 海や山にまく分にはいいが、そもそも骨壺というもの自体が、手元にあってうれしいような代物ではない。

 お墓に私はいないし、眠ってなんかいない、という考え方もある。
 私自身、「魂」というものの存在を否定はしないものの、「業者」が設定するような世界観を認めるつもりは、さらさらない。


 もちろん宗教者について、人類から永らく必要とされてきた「歴史」を否定するつもりもない。
 彼らのやらかしてきたことを全肯定はしないにしろ、歴史の流れとして、瞑目してうべなうくらいの余裕は持ち合わせている。

 イベント運営による営業の成果が宗派ごとのシェアであり、イベサーのボスがチョーシくれてやらかす、みたいなのが宗教戦争(?)だ。
 人類のやってきたことは、俯瞰すれば意外にわかりやすい。

 そんなふうに「宗教」を把握する人々が増えていることが、彼らの「商売あがったり」をもたらしているのかもしれない。
 心配しなくとも、昨今の構造改革とか技術革新は、これまで保たれてきた職業の多くを「あがったり」にする要因に満ちている。

 人類は、つぎなる時代への過渡期にある。
 おのおのよく考え、みずからの道を決められたい。