ジャーナリスト 石川秀樹 -51ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

『Facebookはビジネスで有効に使えるのだろうか』

このところ、ずっと考えていた。
言うまでもなく、Facebookは双方向のメディアである。ホームページに比べて簡便だ。
htmlファイルの知識がなくても、パソコンやスマホで普通に入力できるし、写真や動画も簡単にアップできる。
しかもコメントが入れやすく、双方向の会話が自由自在。
一昔前から考えれば、夢のようなツールの出現だ。
ゆえに『Facebookがビジネスで活用できないわけがない!』と僕は考えている。


だが、日本の現実はどうだろう。成功例をあまり聞かない
あってもアメリカの有名企業であったり、著名人の話ばかり。
日本では「実名の壁」がささやかれている。だから利用者自体がまだまだ少ない。
気兼ね社会であるうえ実名だから、投稿の中身も当たらずさわらず。
さらに、まことしやかにささやかれる定説は「宣伝すると嫌われる…」。そうなると「ビジネスに使える」どころか、宣伝・PRはご法度のような空気さえ漂い始める。
日本のFacebook、まことにつまらない!


そこで僕は“実験”をいろいろやってみた。
どんな投稿が受けるか、あるいはスルーされがちとなるのか。さまざまな傾向の投稿、つぶやきをしてみた。長い投稿、簡潔なつぶやき。口調も丁寧言葉を使ったり、ガラッパチの砕けた調子にしてみたり。脱原発論を展開したかと思えば食べ物の話。時に家内を引っ張り出して花の話もする。
(「実験」とは言っても、書いていることは正真正銘の本気。伊達や酔狂で書いてはいない)


反応はそれでもおおむね悪くはなかった。
しかし、しばらくやり続けていると、同じテーマであっても書き方の出来不出来、主張の当否、論調の鋭さ・鈍さによって反応は驚くほど違うことに気がついた。
もらえる「いいね!」の数は今のところ70~200くらいだろうか。かなり幅がある


実験によって分かったことが2つある。
1つは、Facebookの利用者の水準がかなり高いこと。ひとの投稿をきちんと自分の尺度(価値観)で評価していることが感じられる。
第2。それゆえ、一般論など通用しないということ。
長い文章がやみくもに嫌われるわけではないし、ビジネス志向の投稿、つまり「人に来てほしい」「買ってほしい」「評価してもらいたい」「応援してほしい」と言った投稿も、『宣伝・PRだからノー』ということではない。
ひとえにその投稿が「共感」を得られたかどうかなのだ。


これって、リアル社会と同じだね、と僕は考える。
連想として浮かんできたのは街頭のビラ配りだ。
ある日突然街角に立って、マイク片手に自分の主張をがなりたてても振り返る人は少ない。普通の人にとってはうるさいだけ。はっきり言って、場にそぐわない(街という人々が行きかう公共空間)声髙の主張は迷惑なのだ。
ではどうするか。動員力のある団体なら大勢で繰り出し「何かをやっている」という雰囲気を自らつくりだす。あるいは、何月何日にどこそこでこういう催し(呼び掛け)をしますと事前にPRをしておく。その場合も、ネットだけの広報にとどめず、人海戦術で知り合いに声掛けしておくことが効果的だ。
動員力のない個人はどうするか。「繰り返す」のではないか。
雨の日も風の日も街頭に立って呼び掛け続ける政治家志望の新人候補。路上ライブを繰り広げる若者たち。来る日も来る日も続けることで人々の心象風景の一角を占める。すると、心情的に応援したくなるのが人情というものだ。それがどこまで広がるかは、政治家で言えば「言葉の力」だろうし、路上ライブなら曲と演奏の良しあしということになる。


マスメディアであれソーシャルメディアであれ、資本力のあるもの、有名なものが有利であることは当たり前である。もっと言えば、ネット社会の出現以前は、普通の個人がメディアで発信することなどあり得ないことだった。
それができるようになった。初期にはホームページで。やがてメルマガ、ブログが普及し、mixiが注目を集めた。ツイッターがブームとなり、そしてFacebookが出現。
個人が世界に向けて(世界に、ですぞ!)情報を発信できるようになった。原理的に言えば一人ひとりが新聞や放送局を持つようなものだ! 違うのは「規模」だけ…。
でも、その規模たるや圧倒的に違う。
個人の生活を楽しむと言う意味でSNSを使う分には気にする必要もないが、自分と言う人間を知ってもらいたい、商品を売りたい、店や会社をPRしたいと思いだすと、「規模の違い」に圧倒される。有名人なら苦もなく拡散できることが、普通の個人にとっては100人に知ってもらうことさえ難しい。資金力のある大企業なら広告によって投網を打つように、ホームページであれFacebookページであれ、あっと言う間にファンを集められるかもしれない。しかし、小さな会社が同じことをしようとしても、ページが存在していることを知ってもらうことさえ難しい。


それで「Facebookは使えない」と言われるのだとすれば、「それは違うでしょう」と僕は言いたくなる。
マスメディアと同じ発想をしていてうまくいくはずがない
無名の個人が有名人と同じことをして、「反響がない」なんて思い違いと言うべきだ。
僕らが使っているのは個メディアである。届く範囲はしれている。と言うよりむしろ、Facebookの場合は友達にならなければ届かないのだから(Facebookページは別)、「どんな友達を作るか」というところからスタートしなければならない。そして、リアルな友達に気を使うようにネットを介した友達にきちんと心を配り、語るべき言葉も計算しぬいて行わなければならない。
SNSという個メディアで、投網を打って見込み客を一網打尽にしようなんて、発想自体がマスメディア的であり、的外れだ。でもそこのところの理解が、いまだ行き届いていないのが日本のFacebookの現状なのだと思う。


さらにもう一つ、「錯覚」があるので説明しておこう。
Facebookの声は、遠くまでは届かないということ。
電波とは違うのだ。5000人の友達がいれば、5000人に届くか。
届かない!!
ハイライト表示が標準の設定となっているFacebookのニュースフィードでは、自分の投稿が届く範囲はせいぜい数百人だと思ったほうがいい。Facebookはコミュニティーをつくるためのツールだ。だからニュースフィードに登場する人は、自分と頻繁に交流している人が主になる。友達全員の投稿が読めるわけではない
こうしたFacebookの機能上の特性は、Facebookを「広告」メディアとして使いたい人にとっては不都合であろう。しかし、元々がそのように作られているのだ。
文句を言う方がおかしい。


一方、到達性に限界があると指摘したFacebookだが、感動的なストーリーにはふだんの「いいね!」の限界を超えて数百のシェア(「いいね!」ではなく投稿のシェア)が得られることがある。
先日、ある女性が突然Facebookから凍結を受け、抗議と交渉の末、凍結解除を勝ち取ったという話が載っていたが、この話は5000人を超える人たちがシェアしていた。ごく普通の女性に起きた奇跡のような反響である。
Facebook管理者側の一方的なやり方、問答無用の姿勢によほどみなさん、カチンと来ていたからだろう、と僕は推測した。
このように元来、到達範囲が限られているはずのFacebookでも時々、信じられないような波及効果が起きることがある。すべて、共感の得られ方次第。「いいね!」の壁は高くなったり低くなったりするである。


ではどうしたら「共感」を得られるのだろうか。勝利の法則、黄金律のようなものはあるのだろうか。「ある」とは思う。
しかし断っておくが、「成功」と言っても「成功」の感じ方は人それぞれだ。
また成功の具合も、状況は常に個別であり、特別な事情である。そのうえで特別な創意と工夫、努力を重ねた結果得られるのではないかと思う。教科書のように「こうすればこうなる」という法則を求めるのだとしたら、「個メディアにマスマーケティングの手法を求めても正解にはたどり着きませんよ」、というしかない。


※以上は、僕が書こうとしているFacebook活用本の一節になる(かもしれない)文章である。
この後、Facebookを活用してプロジェクトを成功させた例を紹介したいと思っている。
もっとも、僕が書きたいのは、単に商業的な成功例のみではない。
「100人いれば100人のFacebook活用法、楽しみ方がある」
というのが僕の持論だ。
だから、登場していただくのは僕が『すてきな投稿だな』と感じた人たちに限るつもりだ。必ずしも「いいね!」の多寡にはこだわらない。Facebookの中には魅力的な人がたくさんいる。「活用本」だと言っても、ビジネスの成功を追う本ではないことをあらかじめお断りしておきたい。


(こんな本にするつもりだけど、売れますかね。ご意見を聞かせてください)




◆Facebook活用本のためのFacebookページはこちら
http://www.facebook.com/meets001



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再起動した大飯原発近くに活断層が走っている可能性が高いそうだ。
志賀原発では建屋の直下に存在
昨日開かれた経産省の原子力安全・保安院の専門家会議で多くの委員が指摘、再調査が避けられない状況になった。
新聞によれば、一両日中にも関電に再調査を指示する見込みだ。
活断層だと判明すれば廃炉にする方向で話が進むだろう。
良いニュースであると同時に、考えさせられるニュースでもある。

hidekidos かく語り記


第1に思うことは、野田首相と言う男の無責任さだ。
大飯原発敷地内の活断層は、再稼働是非を検討する最中も指摘されていた。
(きのうきょう急に出てきた話ではない)
「私の責任で」と言う以上、首相が指示して活断層あるなしの調査をきっちりやってから判断するのが筋だった。
それを1つもやりもせず「気合」だけでやられたのではたまったものではない。
大方の予測する通り「活断層」だった場合、国民への落とし前はどうつけるつもりなのか。
と言っても、再調査の結果が出るのは半年以上も先だと言う。
そのころ野田首相が首相である可能性は極めて低い。
結局、「私が責任を取る」なぞということは、うやむやに終わるだろう。
まあ、こういうことを見越した上でこの男は、再稼働をやった。
こと原発に関する限り、「一杯食わされた」話が多すぎる。


第2に、「原発下に活断層あり」の話が、なぜ今でなければ問題にされなかったかだ。
原発立地に当たって地質調査するのは当然である。
調査と評価を行った学者・研究者たちは盲目だったのだろうか。
それほど無能ではあるまい。
ちゃんと分かっていたけど、精神的なにわかめくらになり、
立地に都合の悪い事実は伏せ、あるいは見なかったことにしたのだろう。
地震大国ニッポンだ。
国中どこを掘ったところで、活断層がない(近くにない)地点などないのではないか。

こうも言える。
原発立地の地点はことごとく産業の衰退した過疎地。
だから狙ったのだろうし、都会からも遠いから好都合。
なぜ過疎地であるのかをさかさまに読めば、
人が住めない危険な地、地震あり津波ありの地、だからこそ過疎であったのではないか。
と言うことは、原発を建てようと言う地のことごとくが
古来から危険地帯とされていた地である」ことくらい常識で分かる。
それを黒をシロと言いぬけてきたから、今日ただ今の混乱がある。


第3。ほとんど”国民の敵”であった原子力安全・保安院が曲がりなりにも
「活断層の調査指示」を出すとすれば、少しはましな体制になったと喜ぶべきなのだろうか。
今までが今までだけに(つまり、いままでは紛れもなく原発業界の一員だった)楽観できないが、
ここは「よりよい変化」と信じたい。


最後に、専門家の指摘通り大飯原発1.2号機と3.4号機の間に活断層が通り、
志賀原発では2号機建屋の直下に活断層が走っていた場合のことだ。
政府はきちんとこれら地域の原発を廃炉にできるだろうか
(単に原発1機の話ではなく、その地域の一連の原発をまとめて廃炉に)

またぞろ弥縫(びほう)策をひねり出して、
延命に手を貸すのではないかとの疑念が残る。
このへんが信用できれば、誰も苦労しない。
やれやれだ。
でも、政府が正気を取り戻すチャンスを棒に振らぬよう、国民が監視していくしかない。
首相官邸を囲む挑戦はここに来て、マスメディアも報じ始め、じわじわと効いてきた。
当分続けなければならない。
本当に「やれやれ」だが、本当の民主主義はこういうところから根付いていくのかもしれない。

それが、日本と言う国の希望だ。


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おとといから新聞、テレビ、ネットを騒がせている「やらせ」事件。
あまりにばかばかしいので『書くのはやめよう』と思っていたが、
きのう昼ニュースで、政府関係者が言い訳の前置きとして
「個人の意見を全部止めるのもどうかと思うが…云々」
と言わずもがなの言葉を発したので、堪忍袋の緒が切れた。


16日に名古屋市で行われた政府主催のエネルギー政策に関する意見聴取会に、
発言者の1人として中部電力の課長級職員が混じっていた。
意見発表の際、彼は身分を名乗ったし、
発表者は希望者の中から無作為抽出で選ばれている(政府の言を信じれば)。
単に「機会の公平さ」を言うならその条件はクリアされており
「やらせ」という言葉は一方的すぎるようにも思える……。
しかし、そんな風に言いぬけようとするから、「エリートばかだ」と言うのである。


昨今、脱原発、再稼働反対の実際行動が徐々に広がりを見せている。
この意味がわかるだろうか。
毎週金曜日夕、首相官邸を囲む人たち、最近は数万人の規模となる。
「自然発生的に」ではない。
ツイッターでは「#(ハッシュタグ)紫陽花革命」と言っている。
呼びかけ人も普通の人、参集するのも無論、普通の人々だ。
きのうの代々木公園での「さよなら原発集会」には17万人(主催者発表)。
さらに7月29日には「国会を囲む集会」が計画されている。
強気の読みでは「100万人集会」になる見込みという。
空前の盛り上がりだ!!
と言いたいところだが、まだまだだ。
「全国民」から見れば、本来の国民エネルギーの数十分の一にすぎない。
国民の怒りのエネルギーはまだまだ眠っているのだ。


hidekidos かく語り記-17万人集会


それをいいことに、「なめたらいかんぜよ!!」
確かに、銀座に行けば、渋谷に行けば、新宿に行けば、
この数倍の群衆が歩行者天国を楽しんでいるかもしれない。
わざわざ首相官邸や代々木公園に行く人はほんの一部だ。
だが、歩行者天国の人と代々木公園の人に同じ質問をぶつけてみるがいい。
「原発再稼働に賛成ですか?」
ほぼ全員が「ノー」と言う官邸前。
では新宿では?全員が無関心!?
とんでもない!!休日に笑いさんざめく新宿の人は半数以上が「ノー」と言うだろう。
これが「紫陽花革命だ」


今までのどの運動とも違う。
みんな、放射能は真っ平だと思っている。
これは100%、正真正銘の全員と言っていい。
後は「安全」を信じるかどうか、その信じる度合いの差が賛否を分けているだけだ。


今は原発賛成派は歩が悪い。
事故が起きてしまったから?
それも大きいが、もっと悪いのは、原発にはウソが多すぎるからだ。
昔の話どころか、あの震災後もずっとウソばかりだった。


原発公聴会のやらせが発覚したのは昨年のことである。
次から次へと、ウソの連鎖
全国各地で。長野で、北海道で、福島で、そして長崎で…。
原発賛成派をカネで吊るか、「仕事」の発注(または停止)をチラつかせるか、
とにかく比較優位にある者がその立場を利用して、比較下位の者に原発の必要性を訴えさせた。
茶番劇?言うもおぞましいが、粉飾公聴会がいかにも澄ました顔で行われてきた。
パターンはみな同じだった。
札びらで頬っぺたを叩いて立地してきたのと、寸分違わぬ卑しい手法。
それでも懲りずに、また今度……。
原発を推進したい面々はどこまで鉄面皮であることか。


3.11。地震で福島第一原発が壊滅した。
津波で、ではない。
わずか震度5や6の(普通に)激しい地震で、原発は機能を失ったのだ!!
放射能が大量に対は宙に垂れ流された。海へも無論、汚染水が流された。
その結果、福島県を中心に多くの人々が家と土地を捨てさせられた。
ひどい話だ。理不尽ではらわたが煮えくりかえる。
それでもこの人たちは我慢した。
暴動など1度も起こさずに、人々は支えあった。
誇り高い日本人だった。


だがその時に、政府は何をした?
東電は何をした!?


保身に走り、事故を小さく見せようとし、偽りの情報を垂れ流し続けたのだ。
その結果、大量被ばくした人たちがいる。
放射能感受性の高い子供たちにも、放射能は降り注いだ。
政府のウソは続いた
東電はなんの根拠もなしに「直ちに健康に影響のないレベル」と言い続けた。
その結果、だれか逮捕されたか?
責任者が1人でも引責辞任したか?
加害企業の東電は破たんしたか?
時の政権の中で1度でも「破たん処理」は真剣に討議されたか?
何もなかった。
被害者のみがばかな目を見た


こうした一連の流れを私たちは目にしたのだ。
茶番劇を見せられ続けた。
なんとわれわれは我慢強いのだろう。
だが国際世論は何と言ったか。
「日本人はエライ。賞賛すべき人々だ」と言ったか。
とんでもない!!
じっと怒りを抑え、感情を爆発させない日本国民に対して外国メディアは
『日本は奇妙な国だ。無責任な政府に対して「ノー」を言わない。共犯ではないか』
と批判的、あるいはエキセントリックな人種だと言わんばかりの見方をしている。


「誤解だァー!!」と叫びたい。
しかし、大事故にフタも出来ていない今、
大事故の検証さえしていない今、
野田佳彦政府は大飯原発3、4号機の再稼働を認めてしまった。
あろうことか「「私が責任を取る」の一言で押し切られ、責任の担保さえ取れないまま。
しかも首相はうなだれるどころか、「決める政治」を成し遂げたとばかりに胸を張っている。
思い込みもここまで激しいと超法規がまかり通る『かの国』を嗤(わら)えない。
だからこその「官邸包囲網」だと、この男は考えていないらしい。


こうも言えるだろうか。
原発事故は仕方がない。国全体で進めてきたこと。大多数の国民もそれに異を唱えてこなかった。責任の一端は国民の側にもある。豊富な電力を享受してきたのもこの時代の日本人たるわれわれだ。
だから、こみあげて来る怒りをグッと抑えている。
しかし、原発事故自体は仕方ないにしても、
事故に伴って起きた一連の政府・東電の所作はなんであるのか!!
これを「忌々しい」と言わずして何と表現出来よう。


そうした折も折、またも国民の神経をさかなでしているのが今度の“事件”だ。
無作為抽出だから公平だ!?
中電社員も国民の1人だから意見を言う権利がある!?
言論の封殺だ、メディアによるバッシングだ……。
驚きいった「正論」もあるものだ。
当事者を聴取会の発表者にするばかがどこにいる!
国民からの意見を「聞くべき立場の者」が、自分で意見を言ってどうする。



会社から(意見発表を)促されたものではないと言う。
当たり前である。
会社がそこまで愚かなら、その会社は社会に存在する意味がない。
ではこの課長、無断でしゃしゃり出たのだろうか。サ
ラリーマンだから、そんなことはないだろう。
一応、上の者に「出ますよ」と報告したに違いない。
上司はどう思ったのか。「
おーっ、よくぞ出てくれる気になったものだ」と思わなかったろう。
『困ったことになった』と感じるのが普通だ。
でも止めなかった。
前日、仙台でも同じ事件があったではないか。
中電ほどのエリート企業が、そこから何も学べなかったとは退廃もはなはだしい


中電の失敗の原因は、うかつさなのか、無責任さなのか、それとも傲慢さ故なのか。
いずれにしても課長は悪びれず発表した。
しかし中電は、経営者も、幹部も、一般社員も、1人残らず
自分の立場、会社の立場からではなく、一般の人々の声を素直に聞くべきである。
聞く前に自分(たち)の理屈や言い訳で高い防護壁を作るのではなく、
虚心坦懐に「普通の人はこう考えているのか」に耳を傾けるべきだった。


国民がまだしも我慢してくれているうちに、企業としての本然を取り戻してもらいたい。
地域独占の基幹企業の本然とは言うまでもない。
「国民への奉仕」ということである。



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下の写真を観ていただきたい。
6月8日に孫正義さんがfacebookで「クエスチョン」した数字である。
「再稼働すべきでない」1.8万票、正確には18,734票
Facebook世論では、9割強が「全面再稼働」に「ノー」と答えている!


hidekidos かく語り記


■   ■
リアル社会ではどうなのだろう。
きのう静岡市の繁華街「青葉通り」に自転車で出掛けた。
浜岡原発の再稼働を県民投票で決めようと言う署名活動が行われていたからだ。

『みんなで決めよう「原発」県民投票しずおか』
懸命な呼び掛けにもかかわらず、立ち止まる人はごくわずかだった。
パーセンテージで言えば「1%」に到底届かない関心度に見えた……。

住民投票条例を制定するには、有権者の50分の1の署名を必要とする。
静岡県だと6万2000人
脱原発の浸透度からいけば、「わけない数字」に思えるが、さに非ず。
けっこう高い壁だ。

僕は署名簿を持つ女性に近づき署名をし、母音を押した。
「届いていますか?」 「集計していない分があるので。それを数えれば……」
つまり、署名活動最終日の7月11日を4日後に控えたこの時点で、
「とっくに6万人は超えています」にはなっていない。

それでガッカリしたとか、肩透かしだった、と言いたいわけではない。
ほぼ予想通りで、『反応はこんなものだろう』と思っていた。

さらに、もっと難儀なことがある。
一定数をクリアしても、県議会の壁がある。
過半数の議員が賛成しなければ条例制定案は否決される。
静岡県民の再稼働に対する意思表示は、未来永劫することができない。

Facebook世論は、特殊な世界の話なのだろうか。
「SNSをやる高齢者は少ない」などと、サンプルの偏りを指摘するのは可能だ。
屁理屈はいくらでもつけられるが、民意とそれほど離れているとは思えない。

ネットとリアルの違いは何かと言えば「心理な抵抗感の差」であろう。
クエスチョンは記名投票ではあるが、1票を投じるのは気楽だ。
街頭署名は、促す方も大変だが、署名する側も負担感ゼロではない。

■   ■
僕は安易に「民意」と言う言葉を使ったが、
民意………、民意ってなんだろう???

原発って、嫌だよね、放射能出るし……
ない方がいいよね、危険だし……
何が危険?って、日本は地震が多いし、活断層だってあるし……
原発、津波でイチコロだったじゃん……
津波来なくても、震度5か6程度の地震で壊れちゃった……
「安全な原発」が、何度も何度も危機一髪だったし……
福島の事故だってなにが「想定外」だか……
お前らの無責任の方がよっぽども想定外だったんだよ!……
国会事故調が言ってたじゃん、「福島の事故は人災だった」って……
東電、ウソばっかだし、政府もウソ言い続けたし、ほんと、バカだし……
野田なんて、(大飯原発を再稼働させて)事故起きたらどう責任取れるわけ?……
取れっこないじゃん、そんなの! アホなんじゃあないの?……
東電、電気料値上げって、ふざけてるよね……
ボーナス出してるんでしょ、社員に……
(事故起こした当時の)幹部たち、クビになってネェーし……
辞めりゃあ辞めたで退職金5億って! ふざけてんじゃネェ!!……
総括原価方式だ!?政治家や学者にバラまくカネまで何で俺たちが払うんだ!!……

これが日本の民意なのだと思う。
すごい、まことに鋭い感知力だ!
学者や知識人や、エリートと言われる人ではなく、多くの人がこう感じている
「安全神話」に洗脳されたなどと言われてきたが、
今、そんなことを信じる人はただの1人もいない!

■   ■
原発が安全でなかったこと、
事故を起こした時、東電に当事者能力などなく
政府もあわてふためくだけ、
東電のウソを垂れ流し、住民に大量被ばくさせ、
その途中では情報を隠し、事故の規模をあえて過少に評価し、自己保身を図った、
挙句に、今日まで誰も責任を取らず
せめても良識ある国民の願い「福島を検証せよ」を怠り、
国民の節電意思を信じず、
何の根拠もない「私が責任を持つ」の首相の虚言で再稼働に突き進み、
産業界と官僚たちの思惑にのみ添い、
「決める政治」の体裁だけを整えようとしている首相。
こうしたご都合主義を、皮膚感覚で国民は嫌悪している。

理屈ではなく、感じちゃってるんだから、本物だ。
当初は一部の人たちだけだったかもしれない。
東電や政府のウソを指摘し続けた。
それがみんなに刷り込まれ、感じられるようになった。
だから「再稼働ノー」が9割。
政府のやり方に「違うだろう!」と言っているのだ。

国民のほぼ全員が、原発に絡むウソの数々を知っている。
それでも今のところ、99.999%の人は行動を起こさない。
原発県民投票に動く人、
毎週金曜日、首相官邸を囲む人、
そんな人たちは、ごくごく少ない。 「署名を」と言われれば「ちょっとねぇー」と困り顔をする人たち、
これが大半だ。
しかし、この人たちを見くびってもらっては困る。

■   ■
普通の国民は、署名もしない、官邸にも行かない。
休日ともなれば繁華街に出向き、笑いさんざめく。
原発事故の悲惨さを100日もすれば忘れ
何の罪もないのに放射能汚染のために住家を追われた人々の苦痛を思い出すこともない

しかし、それでも「民意」は確実に、以前とは違う
僕らは、あの日、見たのだ。
事故の悲惨さ、そして事故自体より、事故直後の対処がいかに無責任で幼稚であったかを。
(現場作業のことではない。指揮命令系統のトップたちの右往左往を言っている)
そしてあの日以降今日までの、
東電や政府・政治家たち、学者、メディア、官僚たちが何をし、何をやらなかったのかを。

国民はぜーんぶ知っている
知っているが、何もしない。
しないのは政府を信用しているからでも、臆病だからでもない。
人々の怒りには閾値(しきいち)がある。
一定の高さを越えなければなにも起きない、起こさない。
静かな時間だが、不気味さを宿した休止の刻(とき)だ。

■   ■
あの事故を、なかったことにはできない。
国民の誰一人、事故後の対応が十分であったとは信じていない。
国民のそういう深層底流に乗っている政府が、
なぜ不用意に原発を再稼働させたい衝動にかられたのか理解できない。
「決断する」自分の姿に酔っていたのか、哀れな道化師首相よ!!

県民投票条例への署名数が少なくても、
議会で県民投票条例案が否決されても、
「それ見たことか、静岡県民は無関心じゃないか」
「住民投票など、だれも望んでない」とは言わせない

魔法が解けた国民がどれほどのパワーを持っているか、誰もわからない。
しかし、これだけは言える。
国民の怒りを「沸点」まで高めてはいけない
国民をなめてはいけない。
好き勝手な火遊びはここまでだ。

なかった昔には戻らない、ゼ・ッ・タ・イに!!



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「原発反対!」
「再稼働反対!」
福島第一原発の事故以来、この当たり前の国民の声が政治に届かない。
ならばその声を届けるため、首相官邸を囲め!!


多くの人がそう思っていた。
4月、散発的に首相官邸に抗議の意思を表明する人たちが現れた。
6月、野田首相が大飯原発3、4号機の再稼働を表明すると、反対の声は一気に膨れ上がった。だが、大手マスコミを瞠目させる規模にはならなかった。
しかし、ツイッター、facebookで呼びかけ続ける人が出てきた。


「抗議するなら官邸を囲め!!」


毎週金曜日の夕が「その日・その時間に」なった。
6月22日、万の数を超えた。
そして昨日、6月29日の抗議行動には数万人が官邸周辺に集まり、あの広い官邸を1周してグルッと囲むほどの人、車道にまではみ出すまでの人波が官邸を包んだ。
主催者発表で20万人、警察発表(大幅に過少推計して)2万人。
いわゆる活動家たちではない。
子連れのお母さんや会社員などごく普通の人たちが怒りの声を上げた。

hidekidos かく語り記-首相官邸を囲んだ人々

<動画はこちら> http://www.youtube.com/watch?v=bAdFLvTwBK0

声は野田首相に届いたのだろうか。
朝日新聞社会面(6/30朝刊)によれば、

午後7時ごろ、執務を終えて官邸から公邸に歩いて移動する際、抗議行動の声を耳にした。声の方向に顔を向け、傍らの警護の警察官に「大きな音だね」と話しかけたものの、普段通り立ち止まらずに公邸に入った。


大飯原発再稼働は首相の致命的でかつ破局的な判断ミスだと思うが、消費増税と共にこの男なりの「信念」に突き動かされて決断したものと思われる。
「千万人といえども我往かん」くらいに高揚していることだろう。
この場合、大人は水をかけて頭を冷やしてやらねばならない。
首相の熱を冷まし「我あやまてり」と反省するだけの正気を取り戻させるには、「数万人」では足りない。
十数万人、数十万人、そして数百万人に至れば、官邸どころか霞が関全体を人波が覆うことになり、さすがの野田ドジョウ氏も現実(うつつ)に戻るだろう。


今回、大手マスコミの報道ヘリも飛んだ。
大手紙の1面に写真付きで抗議行動の記事が掲載された。
ソーシャルメディアからマスメディアへ。
波は確実に広がりつつある。


「官邸を囲め!」


静かな講義でいい。
マイクも火炎瓶もいらない。
ただ一心に、声を合わせ、「原発反対」「再稼働やめろ!」を叫び続けよう。
この抗議活動が百万人の単位に膨らみ、名古屋でも、大阪でもうねりとなって広がれば、やがて政権を倒すほどの力を持つようになるかもしれない。


動画の終了間際、満員の神宮球場が写った。
政治に対する民衆の抗議行動として長く語り継がれるのは、60年安保の際、官邸をデモ隊が囲んだ光景だ。
その時、岸首相は言ったものだった。
「神宮球場を見てみろ。ここより多くの人が早慶戦に熱中している」


昨日、官邸周辺に集まった人々は、神宮球場の人たちより多かったのではないか。
確かに今、原発に反対する人たち以上に、無関心で何も発言しない、行動をしない人たちがいる。
「いる」どころではない。
直接行動を取る人は1000人に1人、いや、数万人に1人くらいかもしれない。
しかし考えてみてほしい。
モノ言わぬ大多数は、政治に白紙委任しているのだろうか。
いつの時代も声を出し、行動する勇気を持つ人はほんの一握りだ。
しかし、そういう行動こそが暴走する政治に歯止めをかけてきた。
いや、違うな。
いったん政治が暴走し始めると、民衆行動でそれを止めたり、方向を変えさせるのは極めて困難になる。
だからこそ、そこまで弾みがつく前に、それに待ったをかけるのだ。


幸いにして、今のところ日本は民主主義の国である。
民が主人公。
正しい政治家は「民」の声を踏みにじって専横な振る舞いはできない。
それをやろうとする者には「ノー」を突きつけなければならない。


金曜日の夕方、首相官邸を取り囲め!


国民の武器は声のみ。
「原発反対」
「再稼働を許すな」
「政治家は国民の声を聞け!」


野田首相がたじろぎ、ヘリで逃げ出したくなるほどに、声のエネルギーを官邸に届かせよう。




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