ジャーナリスト 石川秀樹 -50ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


高橋克彦の『時宗(ときむね)』全4巻を読み終えた。
最近、元寇の沈没船が長崎県の海底で発見されたと聞き、あらためて興味を持ったのだ。
「元寇」は、日本は神国だから神風が吹いたという”神話”がつくられる元となった事件だが、読後感は『そうだったのか』の連続。
刷り込まれた常識を木端微塵に砕いてくれた。


『時宗』とあるが、2巻までは時宗の父、北条時頼の物語である。
陰謀により毒を盛られた兄に替わり、時頼が急きょ鎌倉幕府の執権に就いたのは1246年のこと。
この時代、「日本」という概念や「この国」という認識は武士たちにはない。一所懸命、ただ自分の領地のことのみしか眼中になかった。上も同様。将軍はすでに名目的な存在と化し、実権を取り戻さんと陰謀に明け暮れる日々。執権は北条家の家長的な意味だが、御家人の中の筆頭が北条であるが故に幕政を握る立場にあるに過ぎない。執権といえどもさまざまな勢力による思惑や陰謀に翻弄されていた。
そんな状況の中、大陸では蒙古が台頭、高句麗を襲い、宋にも迫る勢いとなる。
まつりごとの筆頭にいる時頼には、国が1つにまとまらなければ蒙古に滅ぼされることが分かる。

hidekidos かく語り記


この辺の発想は作家・高橋克彦の解釈であろう。
明治維新は、多くの志士により「外圧」を認識できた。藩のことしか考えなかった者たちが、最後は「日本という国」を意識し時代を前に進めた。
それより600年以上も前に同じ発想にたどりつけた男、それが高橋描くところの時頼だ。
それが事実だとすれば、あの時代に時頼のようなリーダーをもてたことこそが、「神風」以上にこの国の奇跡である。
北条の内紛を武力を持って制圧し、朝廷(将軍、背後にいる上皇や公家勢力)との神経戦にも勝利して北条執権体制を盤石にする。


しかし時頼は37歳で病没する。
跡を継いでいくのが時宗である。
フビライ率いる元の圧力が増す中、18歳で第8代執権となる(1268年)。
ここから若きリーダーは、元を打ち負かすための周到な戦略を立てていく。
名目権力の朝廷を前に立て「鎌倉」の存在を秘したり、高麗での諜報活動、敵を上陸させるためのニセ敗走作戦…。それに加えて、武士軍団の命を惜しまぬ奮闘。これらにより、文永の役(1274年)を互角に戦う(嵐で壊滅するのは高麗に撤退するときのことだ)。
さらに5年後の弘安の役では、海岸線に馬防柵を張り巡らして安易な上陸を許さず、海上でも奇襲攻撃を成功させる。鎌倉側の総兵力も15万人を結集、対等以上の戦いができる体制を築いていた。
そんな時に暴風雨が襲った。上陸もままならず海上に釘づけになっていた10万の元の戦力はこれで壊滅した。
ところが、時宗はこの天祐を喜ばなかった。
実際に戦って敵をせん滅させてこそフビライをあきらめさせることができる、と思っていたからだ。


それを戦前、戦中の歴史は”神風”と呼んだ。
神国だから”奇跡”の勝利がもたらされたのだとした。
高橋史観とは天と地ほども違う。
日本が侵略されずに在る(太平洋戦争後のGHQは除く)のは、天の助けによるのではない。
その時代に、傑出したリーダーがいたおかげである。
親子2代の揺るがぬ心を持った執権がいなかったら、600年前に日本は元の属国になっていた。


■   ■
リーダーシップとはなんだろう。
まつりごとは何のためにあるのか。
すべての民を、異民族支配やこの世の理不尽から守るためにあるのではないか。
さわやかな読後感の後に感じるのは、今の日本の政治のていたらくである。
国民のためではなく、おのれの延命のためにのみ在る政治は、政治とは言わない。ただの談合・野合である。

痛憤を禁じ得ない。




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先日、ソーシャルメディア活用本のためのFacebookページ(このページ)で、「Facebookの負の側面」について「クエスチョン」した。
Facebookのテキスト本を読むとたいてい、「アカウント設定」が冒頭に来て、その後ろに「プライバシー設定」が出てくる。
そもそも「プライバシー設定」とはなんだろう。初心者にはよくわからない。それでていねいに見ることもなく、デフォルトの設定のままにして次に進む人も多いだろう。
しかし実は、「プライバシー設定」は重要である。
実名投稿のSNSだとは言っても、悪意の者はいる。人をだますためにFacebookを利用している者も確実に存在している。だから「プライバシー設定」で、まず入口のところでこうした犯罪行為に巻き込まれる可能性をシャットアウトしておくというのが良策だ。
しかし、はじめからそれを言うと読者が引いてしまうと考えるのか、具体的な被害事例を説明して注意を喚起している本は見かけない。


一方、“過敏”なくらいに「プライバシー」を気にする人たちもいる。
そういう人の多くは、はじめからSNSに近づかない。僕の娘などもその1人だ。Facebookを奨めても乗ってこない。SNSは今後、社会に根付いていくと思うし、その中でも実名投稿のFacebookの将来性を考えると、こういう選択はとても残念に思える。


「危険を感知する」センサーは人によりかなり異なっているようだ。
Facebookで遭遇するかもしれない「危険」とは何なのだろう。
また、どんなことをされると人は「不快」と感じるのか。 これは実際に聞いてみるのが一番だ。それでクエスチョンを行ったのである。
まずは、数字をご覧いただきたい。
(先頭の数字は票数。■印の選択肢は回答者が加えたもの)



クエスチョン<facebookの負の側面>

実名投稿のFacebookにも「負の側面」はあります。今までにFbで嫌な経験をしたことがありますか?(1、2) それはどのような内容ですか?(A、B、C…) 頻度はどれくらいですか?(①、②、③…)。コメントも下さい。

118   1.ある
215   2.ない

  0  ①毎日
  0  ②たびたび
  6  ③ときどき
 77  ④ごく、たまに

  6  A.ウォールにひどいことを書かれた
  0  Bつきまとい投稿をされた
  0  C.セクハラ的な投稿  ※
  0  D.友達や他人のウォールに自分の悪口を書かれた
  9  E.投稿の言葉を誤解されケンカになった
  3  F. なりすましをされた
  0  G .Fbを離れて嫌がらせされた
  0  H.プライバシーを侵害された
  0  I. Fbをやっていることで(やっていない人から)陰口された

※ ↓ 以下、追加の選択肢
 31  ■実名以外の基本情報についてほとんど公開されていない方もあり、
     友達リクエストに承認するかどうか躊躇する時がある
 14  ■実名であるが故に参加をためらう人々(例:主婦層等)が、
     日本には確実に存在します
 10  ■メッセージのやり取りで相手の方に誤解があったようだ
  6  ■理知的な議論を期待していたが、相手の思い込みと決めつけの強さから、
     不愉快な想いのみが残った
  4  ■勝手にGROUPに加えておきながら、投稿していたらある日突然
     ブロックされた!
  4  ■勝手に削除された
  3  ■FBページに「いいね!」下さいまではフレンドリーで、
     押した後はプッツリとか
  3  ■身に覚えなきアクセスブロックがあった
  3  ■サヨナラも言わないで友達切っていかれた時
  1  ■誤って2度メッセージ送ったらスパムに申請されて謹慎
  1  ■知的所有権に無関心な野蛮人に出会い、非常に不愉快な思いをした
  1  ■自分のウォールの写真を誰かに意図的に削除された
  1  ■バツイチの知人(女性)がFB始めたとたん見つけられしつこくされた
  1  ■明らかに振り込め詐欺と思われる内容のメールがわんさと入る

hidekidos かく語り記-Facebookの負の側面を聞いたクエスチョン


◎Facebookの実名投稿ルールに抵抗感も
Facebookの「負の側面」を感じているのは3人に1人強。その頻度も「ごく、たまに」が圧倒的に多い。「毎日」「たびたび」は0人だから、表面的に見ると意外に少ない。

「嫌な思いをしたこと」の具体例を問うたところ、最も多かったのは「実名でない人がいることへの不快感・戸惑い」(31票)だった。「実名だから参加をためらう人がいる」も14票。この選択肢の書き方からすれば、Facebookの「実名投稿」というルールそのものを「facebookの負の側面」と捉えているのだろう。だから、そのルールを守らなくても堂々とアカウントを得られていることへの不快感・戸惑いがこれほど多い(31票)。 不快感だけでなく、コメントでは「顔写真なし、略歴なし、匿名、動物名などの、正しい記載をしない者に、正直者が誹謗・中傷、言いがかりなどをされる」と、実害を強調する人もいた。
この点、Facebook管理者はルールを徹底させるべきだ。


◎言葉の行き違い、いわれなき「ブロック」
──感情に歯止め掛けにくいSNSの特徴も
「言葉のやりとりでのトラブル」も25票あり、言葉のみでの交流は時に深刻なトラブルに発展することがある、というSNS特有の傾向をうかがわせた。
これに関連して「ジョークが通じなく、激怒された」「相手の名前を間違えて送り、ブロックされかけた」などのコメントがあった。
もう1つのトラブルは、マナーの問題だ。「身に覚えがないのにブロックされた」「理由も告げずに友達を解除された」など、される側からすれば多少なりとも自尊心が傷つくケースが散見された。「同じメッセージをうっかり2度送ったためにスパム申請されてFacebookから謹慎処分を受けた」などの例もあった。
ネット中心のやりとりは、時に必要以上に言葉や(言葉への)リアクションが先鋭になることがある。カリカリしなければよいのだが、相手の人格まで否定し歯止めが利かなくなることがある。「突然のブロック」も何かでカチンと来てやってしまうのではないだろうか。
実は僕も、歯に衣着せずに書き、コメントもぶっきらぼうの場合があるので「舌下事件」は1度や2度ではない。だから最近は、言葉遣いにはよくよく注意する。それでも怒らせてしまうことが、たまにある。そういうときには、ちゅうちょなく謝り、状況を説明する。
誤解であろうとなんであろうと、不快感を与えたとすればこちらの責任である。


◎Facebookでも起こる嫌がらせや犯罪行為
「クエスチョン」をさらりと読み解く限り、Facebookでは深刻な事態が起きていないように見える。質問への回答率を見ても6.7%(747人中54人)と低く、あまり関心を引かなかったようだ。逆に言えば、Facebookは実名投稿なので今までのところ大きな問題は起きていないようにも見える。
しかし、実態は違うのではないか。


数は少ないが、嫌がらせや、犯罪行為と思われる例も見られる。
当初の選択肢に加えた「つきまとい」「セクハラ」「友達のウォールへ自分の悪口を書かれる」「Facebookの外での嫌がらせ」はいずれも0票だった。非常に健全に見える。しかし、「なりすまし」は3票あったし、追加の選択肢や、同時にいただいた投稿からは次のような記述もあった。


▼ウォールから写真を意図的に削除された
▼友人(女性)がしつこくされた
▼脅しのような書き込みをされた
さらに、
▼メッセージ・チャット・Eメールでのストーカー行為
▼友達承認後、ウォールにある友達リストを使って片っ端から販促メールやメッセージを送りつけ、露見する前にブロックして“逃亡”(典型的な「なりすまし」の手口!)
▼手の込んだ振り込め詐欺行為、有料課金サイトへの誘導
「さらに」以下の例は、完全に犯罪行為だと言える。


◎美女になりすまし情報泥棒、メッセージでデートの誘い
例えば、美人のプロフィール写真にはご用心!
実在しない女性に「なりすまし」てあなたの友達の情報をのぞき見する、などというのが典型的な手口だ。
そのプロフ写真を検索するとアジアの女優であったりする。ていねいな友達申請。それなのに、自分のウォールには本人の書き込みがなく、友達の承認をした男性らの「よろしく」コメントばかり…。
このくらい典型的だと見抜けそうなものだが、相手のプロフィールを確認せずに友達申請を承認する人も多いらしい。そこから「友達情報」がダダ漏れすることになる。

さらに最近は、Facebookのメッセージを使って法外な課金サイトに誘導するような手口まである。
これは僕も経験した。 タレントのマネジャーを自称する女性(?)からFacebookのメッセージで、「彼女が会いたがっている。あなたの投稿を読んで心を動かされたらしい」と。言葉は巧みだが冷静に読めば、女性がいきなり見も知らぬ男性に会いたいなどと言うはずがない。それで「なぜ僕にですか?」と返したら、それっきりとなった。この稿を書くためにネットで検索していたら他の“経験者”の体験が載っていた。詐欺だろうと見抜いたうえで誘いに乗ったふりをしたところ、最終的には法外な課金サイトに誘導されたとのことだった。
いきなりカネの話をせず、相手の気を引いてから巻き上げようとしてくるところが「Facebook版詐欺」の手がこんだところだ。
とは言え(現段階では)こうした詐欺を見抜くのは難しくない。
言葉が巧みすぎる、しかも状況がふだんあり得ないもの(相手がタレントだなんて!?)であるなら、100%それは詐欺だと思っていい。
リアル社会もSNSの世界も、電話でも、おいしい話などあるはずがない。
それでもこの手口はまだ続いているようだから、「自分だけは例外」と思う人はいるのかもしれない。


◎Facebookにもプロの犯罪者が紛れ込んでいる
性善説で成り立っているFacebookのコミュニティーの中で、プロの犯罪者が紛れ込んでいる。だから対処法を心得ておくことは非常に大切だ。
犯罪者たちにFacebookが踏み荒らされないよう、自衛策を講じなければならない。
まず、水際で食い止めよう。
おいしい話など絶対にないと思っていても、向こうも研究しているから、最近はもっと巧妙に「普通の人」を装うかもしれない。美人の写真を使わない、ウォールへの書き込みもある程度する。種まきをした上で、何人かに友達申請をされたら、まず気づけない。そうして友達となってから、ウォールに不用意に掲出されている「友達」の個人情報をのぞき見る。 自分では全く気づかないまま、友達に迷惑をかけてしまう可能性。これを防ぐには、こちらも用心深く対処する必要がある。だから僕は現在、「友達」を見ることが出来る人は「親しい友達」に絞っている。


また詐欺とは少し違うが「集客のプロ」などと称する輩の中にもおかしな連中がいる。 例えば、集客のツールと称して「無料でビデオをあげる」と言う。信じてビデオをクリックすると(押した人のウォールに)勝手に「いいね!」が投稿されたり、勝手にタグ付けされてそのビデオコンテンツがウォールに貼り込まれたりする。これを「強制口コミ発生のツール」などと言うのだが、人の迷惑など考えない悪質ツールである。こんなものを使えば、友達から総スカンをくらうのがオチ。友達に迷惑をかけ、自分も信用を失う。
こういう行為はFacebook側できちんと禁じるべきだが、今のところFacebookの管理者は野放だ。やはり自衛するしかない。
これも原則は同じ。
ツイッターだろうとFacebookだろうと、ゼロ円でアッと言う間にお客を増やせる魔法のツールはないし、SNSはそんなことをするためのシステムではない。
(投稿の積み重ねで自分の存在を認めてもらい、結果としてそれが集客や販売促進につながる場合があることを僕は否定しない。真剣にSNSに向き合うことと、欲得でSNSを手軽に使ってカネ儲けしようすることは、全く別である)


◎悪質な手口を出来る限り明るみに出し、情報を共有しよう
こうした例に限らず、手を変え品を変え新手のだましの手口(または違法すれすれの手法)を編み出している連中が、今現在もFacebookの利用者の1人として存在していることは事実なのだ。 残念ながら僕が把握しているのはごく一部にすぎない。
出版する時までにできる限り手口を掌握して、公表したい。実例を多く載せることができれば、クサイと思われる手法の多くは防ぐことが出来るからだ。


怪しいと思った事例、不幸にして引っかかってしまった例など、教えてほしい。
皆で情報を共有することが最良の防御策につながる。
今回の「クエスチョン」の回答では深刻な事例は見られなかった。
しかしだます側は間違いなく研究している。楽観できる状況ではないと思う。
Facebookという若い伸び盛りの樹を、正しく立派に成長させたい。
白アリから樹木を守るため、情報の提供を切にお願いする。



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http://www.facebook.com/meets001/





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朝日新聞朝刊(7/30付)1面に「国会を囲むキャンドル集会」のことが載っている。
正式名称は「7・29脱原発 国会大包囲網」と言うらしい。
主催者発表では20万人、警察関係者の話では1万数千人。数に開きがある。
真実は、現場にいた僕でも分からない。
国会をグルッと取り巻けたかどうか。それも1周、回ってきたわけではないのでわからない。
ともあれはっきり言えるのは、午後7時過ぎの国会正門前には、相当多くの人が集まり、警察官が車道に人を出さないよう万全の態勢を敷いていたにもかかわらず、車道まで人で埋まっていたということだ。


静岡駅15:19発の『こだま』で東京に向かった。
新橋駅で下りたのは正解だった。
午後5時頃、国会議事堂に向かう道筋でデモを多数、見かけた。
位置と人波の方向から察するに、日比谷公園に結集していた人たちが千代田区内幸町1丁目の東京電力本店に向けて、抗議に出掛けたものだろう。
延々と続く。ただし、行進自体は静かなものだった。シュプレヒコールでうるさいわけでなく、時々「再稼働反対!」の声が上がる程度。


僕はデモをやり過ごして、逆方向の議事堂に向かった。
途中、もちろん警察官の数は多い。でも、緊迫感はない(まあ、この時間だからね)。
人の流れを避けて、1本北側の道を通り「外務省上」の交差点まで着いた。ここで警察官に、国会が正面から見える場所を聞いた。
「あちら側(霞が関交差点を指して)に行くと人でいっぱいですから、ここを下ってあそこに見える信号を左折してください」

hidekidos かく語り記-7.29 国会前


言われた通りに信号を渡ると、国会を正面にとらえる道路に出た。
動員した警察官を運んだバスだろうか、計9台が駐機している。
(後で国会に平行に接する道路に出たが、ここにも数台のバスがあった)これから推測すると、500人を下らない警察官が動員されていた模様だ。
国会正門に向かう道路を含め、国会を囲む道路と言う道路には「馬防柵」ならぬ
鉄製の1.5㍍ほどの柵が置かれ、要所要所にはメガホンを持った警察官が立っている。
柵は道の両側に配置、絶対に車道側に人を出さない配慮と見受けられた。
(試しに、と言うより写真を撮るためだが、隙間から車道に出たら、3か所くらいから「道路に出ないでください!」とたしなめられた)


6時少し前、「緑の党」の一団がやってきた。
僕が腰かけていたところから30㍍くらい先の一角に場所を取り、“活動”を始めた。マイクを回し、何人かが短い演説をする。
「緑の党は原発反対!」
「緑の党で子どもを守りましょう」
聴くともなく聞いていて、僕には少々耳障りだった。
発足したばかりの組織をPRしたい気持ちは分かる。
しかし『原発反対はあんたたちだけじゃない。あんた方に頼らない多くの人たちがここに集まっているんじゃないか。独りよがりはいい加減にしとけ』と思った。


何人目かに、女性議員がマイクで声を張り上げた。
「関東だけで5000人集めろと言われています!」
ん? なんのことだろう。
しばらく耳を澄ましていて分かった。東電を告訴しようということらしい。
関東だけでも5000人、だとすると全国で1万人…? 企画だけは壮大だ。
「刑事告訴です。まだ裁判じゃありません!!」
なるほど、告訴となると告訴権者は「被害者」だから、それで1万人の権者を集めようと言う訳か。残念ながら、静岡市に住む僕は権利がなさそうだ。
でもこの発想、悪くはない。
これまで、司法当局には全くやる気が感じられなかった。
だから数を集め、それをメディアに長し、司法当局が受理しないわけにいかない空気をつくろうという作戦だろう。受理されなければ捜査もないだろうし、裁判にもたどりつけない。
これだけの破局的な事故を引き起こしても、誰1人責任を取らない、またそれを追及する者もない異常さ。国民の怒りの発端はここにあるだろうから、そこを突くのは合理的だ。
僕は「緑の党」だからと言って、すべてを是としないし、きょうの演説の仕方(つまり党自体を売り込む意識満々の演説)は支持しないが、刑事告訴するという手法はいいと思う。


そんなこんな、6時半過ぎには国会議事堂前が人で埋まってきた。
上空ではヘリが飛んでいる。なんとなくざわざわした空気。
例の柵の前では、目の前に座り始めた人たちと「歩いてください」と流動を促す警察官とで(口先だけだが)小競り合いも始まっている。
デモに参加していた人たちが戻ってきたのだろうか、人の流れが急に激しくなってきた。
老夫婦や若者の一団、小学生を囲む家族、研修帰りらしい男女数人、高校生、キャバクラ風のミニスカートで横断幕を持って歩く女性たち、外国人、ベビーカーの人、自転車を引っ張っている人……つまり、ありとあらゆる階層、年齢層の人たちだ。
デモと言えば「動員されているんでしょ」と言う人がいるが、しっかり現場を見た方がいい。そうすれば今回のデモが、ほぼ普通の人たちで構成されていることに気づくはずだ。


それは、それぞれが持っている明かりにも見られる。
「ローソクを持ってきて」という呼びかけだったが、多くの人は懐中電灯、ペンライト、100円ショップで買ってきたようなチカチカするライト、光る腕輪などを持ってきていた。イベントをいかに楽しむか、アイデアを凝らし、あるいはその場の思いつきでとにかく手元にある光を発するモノを持ち寄った格好。
労組や団体が動員してデモをする時代は、遠い昔のこと。
今は思い思いの意思表示の集積で、即席野外ステージがそこここに出現する。
広い車道を挟んだ向こう側では、終始、太鼓や笛、音のするもので「再稼働反対」が小気味よいリズムを刻んでいた。それは一種、祭りのようでさえある。楽しいのだ。使命感に満ちたつながりではない。僕だって途中でその“連中”に出合っていれば、紛れ込んで歌い続けていたかもしれない。
今のデモとはこのようなものである。
政治家やメディアはこの点、見誤ってはならない。
1960年、70年代、昭和のデモとはまるきり違っているのだ。


7時を過ぎ、あたりがようやく暗くなり始め、明かりが数を増す頃、ついに人波が柵の切れ目から車道に漏れ出した。歩きやすいので、僕もそちらに向かう。
国会がシルエットで浮かぶ。
前へ前へと人が進む。だがそれはゆったりとしたもので殺気など微塵もない。
誰も駆け出したりはしない。
警察官には悪いが『いい光景だ』と思った。
国会を囲む!広々とした車道は集会場のようだ。歩道に押し込められていると、国会の影さえ見えない。だがここからはそれを真正面に捉えることができる。
グリーンの中央分離帯に入り、そこから写真を撮っていた。


と、その時だ!
車道に停めていた車のマイクが「国会議員は犯罪者だ!」と叫んだ。直後に、
「国会に突っ込めー」
と割れんばかりの声で叫ぶ。
えっ? それはないだろう! こんな時に扇動してどうするのか。
煽動するような状況でもない。
僕は人々を見た。無反応だ。ホッとした。
にしても、こんなアジテーションが続けば駆け出す人も出ないとは限らない。
中国のデモではないのだ。実力行使して何かを引き出す運動ではない!
その車に近づき注意をしようと思った時、再びマイクから声。
「今のは訂正します。スイマセン…」
車内の誰かが止めたのだろう。冷静な人がいてよかった。
近くに大勢警察官がいたが、群衆整理に追われていて、気づかなかったようだ。


この日の集まり、主催者が望んでいた「100万人集会」にはならなかった。
集まって何かが得られたわけでもない。
すぐさま野田首相が改心するわけでもないだろう。
しかし僕は『こういう運動が在ってよかったな』と思った。
福島第一原発の事故現場にフタもできていない。
事故の検証も終わっていない。それゆえ事故原因についても諸説が入り乱れている。
核燃料プールのある4号機については、激しい地震がもう1度来れば世界を破局させる事故を引き起こすかも知れない、と予想されている。そんな中での大飯原発の再稼働。
「日本人は何を考えている!?」
「このような政府は危険だが、国民が止めないと言うことは、国民も共犯ではないか」
とまで、アメリカのメディアでは日本人そのものが批判を受けている。
そんな折の、この平和的な集会だ。
参加できたことに僕は誇りを感じた。


■    ■

新聞を読むと、主催者たちはこうした運動をまだ続けると言う。
良い知らせだと思う。
日本に、国民参加型の民主主義運動を根付かせるチャンスだ。


一方、メディアには言いたいことがある。
多くの社がヘリコプターを飛ばした。街角で参加者のインタビューも行っていた。
しかしその相手は日本版「緑の党」の参加者たちにだった。
確かに目新しい。脱原発側の1つの核にはなるだろう。
しかし一歩間違えれば、純粋に市民主体で始まったこの運動を、何か政治的な目標を持った“プロの活動”にすり替えていってしまう恐れなしとしない。
聞くなら(手当たり次第で構わない)、ごく普通の参加者100人にランダムに聞いて見ればいい。100人100様の動機があるはずだ。
怒りかもしれない、未来への恐れ、子供のため、誰かが行くからついてきた、1票の行使と同じ感覚、おもしろそうだから……。
こうした人たちこそが、脱原発社会を本気で実現させようと言う時には力になる。
いや、逆に言えば、こういう人たちにソッポを向かれて大願が成就することなどありえない。


「緑の党」を批判したいわけではない。
しかし一足早く政党として立ち上げたがために、今は知名度を上げること自体が目的になっているようにも見受けられた。本末転倒であろう。
人類学者の中沢新一さんらが率いる「グリーン・アクティブ」はこれとは一線を画すという。ぜひ、そこは貫いてほしい。なぜなら
「既成政党の議員であっても、原発を作らない、売らない、わからないものは作らないというポリシーに賛同してくれる議員にはグリーンシールを貼る」
この発想こそが正しい方向だと思えるからだ。
普通の人が普通に支持してきた、あるいは義理人情や利得に絡め取られて1票を投じてきた、既成政党の議員たちこそが、「国民の声を聞け」という今のうねりのような運動を体感し、国民の側に立つべきだ。
彼らをバカ呼ばわりしても始まらない。現場に連れて来て、分かってもらわなければならない。


真夏の半日、国会周辺にいて、僕はそんなことを考えていた。



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オリンピックはいいね!
昨夜は柔道の福見友子と平岡拓晃の試合を最後まで見てしまった。
勝っても負けてもドラマがある。努力してきた人だけが感じる境地があるのだろう。
それが伝わるから、こちらも熱くなって感動する。
朝、起きて見れば水泳の個人メドレーで高校生の萩原公介が銅メダル。
女子重量挙げの三宅宏美も(テレビではやっていなかったが)「銀」を獲得した。
父の「銅」を超える快挙だ。
この2種目とも、日本人では初メダル。やるもんだ。


さて、オリンピックの話題にかき消されているが、今夜は「国会を囲むキャンドル集会」がある。
3紙にざっと目を通したが、紹介記事はゼロ。まあ、この無関心は当然かも知れないが、主催者に
よれば「100万人の結集」を目指すという。
それくらいの規模の集会をあっさり無視するとは。やはりこの国のメディアの感度は低い。
「オリンピックとかぶるなんて、時期の選択が悪すぎる」などと、今さら嘆いても仕方ない。
誰に強制されているわけでもない。集まる人は集まるだろう。


「緑の党」の発足のニュースは、さすがに載っていた。
朝日新聞の見出しは『市民派「緑の党」発足』
冒頭の行に
──「原発の即時全廃」を掲げる日本版「緑の党」と、あった。
新聞は相変わらず”レッテル貼り”かお好きなようだ。
悪意はないのだろう。しかし、こう書かれた党の先行きを僕は懸念する。
市民派という以上、「活動家の集団」ではないと言いたいのだろうが…。
一般の市民が連想するのは、それとは逆ではないか。


あまのじゃくな言い方になるが、「緑の党」は国際的な連携をする立派な党のようである。「グリーン・アクティブ」という、これも脱原発を掲げた政治運動体とも連携していくと言う。
そして、国政選挙にも打って出る計画。
こうなると「横町の隠居」のような僕などには、とてもついていかれない。
次の衆院選、東京比例区で候補を立て、何人かは当選するかもしれない。
しっかりした核がなければ、脱原発は進まないと思っているのだろう。
本当にそうなのかな(「緑の党」が大躍進すれば話は別だが…)。
緑の党=少数の当選者=脱原発は永久の少数者と、型どおりの図式ならないか。


「原発をなくしたい」と言うのは、特別の感情ではない。
危険なものは嫌、放射能は怖い、処理できない毒物は地球の迷惑。
すべて、誰もが持つふつうの感情だ。
それを「特別のこと」のように思わせているのは、今の政治があまりに国民の側を向いていないからである。
毎週金曜夜の首相官邸を囲む集会、今夜の国会を囲むキャンドル集会、
いずれも
『いい加減に気づけよ!』
『お前らのバカを国民にしわ寄せするな!』

と言いたい、ごくふつうの市民のやむにやまれぬ意思表示だ。


もちろん、主催者はいる。一定の目標を持ってやっているのだろう。
しかしツイートやFacebookの投稿で拡散する人たち、実際に現場に足を運ぶ人たちは
「イベント」を盛り上げたい一心。
ふつうの市民の声を政治家に届けたいと、ただ純粋にその思いでやっている。
それはスポーツ観戦となんら変わらない。
五輪は巨大なイベントだ。選手の目標としても超ピック。
だから世界中の関心を集めるし、ドラマも生まれる。
一方、脱原発をめぐる一連の集会もイベントである
かつての政治性を帯びた過激なデモとは違う。


今夜、国会周辺に100万人なんて集まらなくてもいい。
過剰に高揚する必要もない。
声高に政治家や東電をののしることもない。
集まり、静かに明かりを灯すだけでいい。
五輪とは違うのだ。
盛り上げてそれでおしまいではつまらない。
1人のスーパースターもいらない。
核になる政党がなくていい(ない方がいい)。
ただ、この国民のふつうの意思が、頑迷な既成政党に気づきを与えること。
狙いはそこだ。
難しいけれども、日本人の集合知は世界屈指だ。
きょうが特別の日、などと考えず、ふつうの1日の何気ないイベント、
Facebookで呼びかけられたイベントに参加するつもりで、国会周辺に行ってこようと思う。
先だって僕は、Facebookでいくら頑張っても、
「いいね!」をもらえる数は自分の場合70~200程度、と書いた。
投稿の内容によって、これだけの幅が出てしまうと。
この数字でもう1つ分かることがある。
投稿が到達しているであろう範囲のことだ。
友達は3000人いるが、通常の場合、届くのは数百人程度であろう。


『うーん、数百人かぁー
これって、多いのか、少ないのか……??
Facebookでなんらか広告(文字通り「広く告げる」)したいと思っている人にとっては、厳しいだろうね。


もちろん例外はあるから、その話もしておこう。
僕の投稿に、いいね!が1000以上ついたときがあった。
1月末に会社を退職することになり、お世話になっていた局で送別の花束をもらった時のことだ。初孫誕生の時も700いいね!をいただいた。
この2件、ふだんの数字(実績)から言うと、信じられないような出来事だった。
両方とも「シェア」の数は多くなかった。
つまりfacebookの「拡散」機能は働いていない。
にもかかわらずこれだけのいいね!を得られた理由は…。
考えられるのは、いいね!が短時間に集中したのでニュースフィードへの出現頻度が高まった、ということだ。
加速度がつくと広がりやすいのだろう。
まぁ、そんなこともあり、僕の投稿も必ず200止まりというわけではない。
しかし、よほどの慶事であっても1000いいね!をもらえることは稀だと思うし、
1万いいね!がつくことは、まずないだろう。
このような「数字」を見ると、Facebookを広告機能としてとらえたとき
拡散ツールとしては少々物足りない
ただし、そのように言い切っていいのだろうか、という疑問は残る。


なぜなら、Facebookは単純に「数字だけの問題」として見るべきメディアではないからだ。
もっと魅力的な機能がひそんでいる。では、
──普通の人が何か事(コト)やモノを売り込もうと思っても、Facebookでの拡散は無理な話だよ!
と、思わない人がいたとすればどうだろう。
いたのである。そのチャレンジは刺激的だ。


■   ■

村岡克彦さんと言う。福岡市在住の音楽プロデューサー(49)。
彼が取り組んでいるのは、映画『ペコロスの母に会いに行く』の全国ヒット、である。
Facebookを起点にこのプロジェクトに火を点け、燃え上がらせようという。
ドン・キホーテのように無鉄砲に見えるが、実は緻密な計算がある。


『ペコロス─』は長崎市在住のしがない(表現悪くてゴメン…)漫画家兼シンガーソングライター、岡野雄一さんが自費出版したマンガ本が原作だ。
89歳になる認知症の母と故郷に戻った息子によるトンチンカンなやりとりが主題。
死んだ夫と会話する母をいぶかしく思いながらも癒されてしまう息子。
62歳にして見事なハゲ頭。さえない風采。カネもない。
長崎ローカルのどこにでもありそうな日常。
それは見ようによっては、悲しく重苦しい話だが、
岡野さんが描く母とペコロスは何ともおかしくやさしい
癒され、そして泣ける
メガホンを取るのは「時代屋の女房」「美味しんぼ」「ニワトリはハダシだ」などで知られる森崎東監督(85)だ。人情映画の巨匠。出演者は雄一役に名わき役の岩松了、若いころの母に原田貴和子、老いてからは賠償美津子が演じる。竹中直人も何らかの役で登場することが決まっている。9月初旬にクランクイン、来夏公開の予定だ。


と、ここまでは決まった。
自費出版からほぼ半年、まさに超特急の展開だ。


村岡さんが「ペコロス─」を知ったのは今年1月のこと。
ペコロスは小玉の玉ネギを意味する。ハゲ頭の岡野さんの愛称。
村岡さんは彼のことを少し前から知っていた。
岡野さんは若いころ、漫画家を目指した時期がある。高校を卒業し、逃げるように長崎をあとにし東京に住み着いた。故郷は狭く、希望のない街に見えた。20年間、吉祥寺近辺に暮らした。結婚し、子供もできた。だが離婚。
結局、子連れで長崎に帰省した。
「ちょうどよく、両親も老いてきた時期」に。
以後は地元タウン誌の編集などをやりながら、プロ顔負けの歌をライブハウスで披露したりもする。
温和な顔に似ず、爆発するようなエネルギーをもつ。
岡野さんを知る人の間では「寺町ぼんたん」が有名である。別名「ちんちんの唄」。曲名を告げた途端、拍手と爆笑に包まれる。歌詞はとてもここに書けない。そんな曲。しかし聴けばしびれる。村岡さんも初対面の夜、洗礼を浴びた。以来、『この人は天才だ…』と思っている。
※「寺町ぼんたん(by youtube)」 http://www.youtube.com/watch?v=yfJa8JL8yJU

hidekidos かく語り記


そのペコロス岡野氏がタウン誌などに書きためたマンガを自費出版するというニュースを、地元紙「長崎新聞」で知った。500部。それでも岡野さんは「売れるかどうか心配」と言っていた。村岡さんは、宣伝と販売を買って出た。破天荒で時に爆発的なエネルギーを持ちながら、ギターを持たない素面(しらふ)のオカノさんは、シャイで生真面目な営業下手のただのオッサンである。
義侠心と友情。さらに村岡さんには、プロデューサーとしての勘と、少しの欲があったのだと思う。
(以下、少々僕の推測で書く)


欲と言うのは、『Facebookでスターを作りたい』という夢のことである。
例えば、地方都市にいるシンガーをメジャーに押し上げたい。音楽プロデューサーなら誰しも持つ夢。
『Facebookならできるんじゃないか』


それと言うのも、村岡さんにはこんな経験があるからだ。
Facebookを始めてすぐのころ、発信力を高めたくて友達を増やそうとしていた。
友達申請を頻繁に行っていたある日、Facebookから通知が来た。
3か月間の「申請凍結」なのだと言う。その間、何もできない…!! Facebookを重要なPR手段として考えていた身にとっては死活問題だ。
──もう、友達を増やせない? 開店休業? でも、Facebookそのものを止められたわけではない…。考えているうち、腹が立ってきた。
『分かった。向こうから寄って来るならいいんだな。俺のコンテンツで人を集めてやる』と思った。
以来、エッジの効いたコンテンツとは何かを考えるようになった。
そして実践。
動物(特にネコ)のおもしろ写真、皮肉で色っぽい画像、街角で気づいた変な看板……。
プロデューサーとして培った情報網とアイデア力、
人は何をおもしろいと思うか”を見切るセンス、
それらを存分に使って“見られるウォールづくり”に熱を上げた。
効果はすぐに出た。
以後、友達申請を自分からは出さず、申請されるのを待つ。
以前の友達2000人に加え、意識を変えてからは3000人。
かなりのスピードでFacebookの上限、5000人に達した。
(現在、フィード購読数は4473人)


『やはり、人を動かすコンテンツって、あるんだな』
大きな自信が生まれた。
──今度はそれを自分の仕事に生かす番だ。
おもしろコンテンツの合間に、自身が推すシンガーの路上ライブなどの情報をウォールにアップする。
慌てず焦らず、反響に一喜一憂せず、情報は出し惜しみをせず、飾らず、誇張せず、誠実に。
大手が打つ広告に比べれば微々たる“成果”だ。
それでもファンは地元を中心に確実に増えている、と言う手ごたえがあった。


岡野マンガの販売にかかわってあらためて感じたことがある。
「コンテンツの価値」ということ。
誰もが目をそむけたくなる老人の認知症。
だが岡野さんは描く。
ボケたからこそ見えるらしい「亡き夫」との会話。
子連れ心中さえ考え泣かされ続けた酒乱の夫と、いま母は楽しそうに会話する。
「ちっぽけで、閉塞感漂う港の見える街」と若い頃には思えた街を、母はいとおしそうに日がな一日眺めて暮らす。
ボケすらが人間の味わいのように見えてくる岡野マンガの世界…。
村岡さんは確かに売らんがためにFacebookに投稿を続けた。
その効果なのか、発送作業に追われるほどになった。
Facebookはすごい!?
確かにそれはあっただろう。
でも、売れていくのはコンテンツそのものに力があったからではないか。
何より、岡野マンガは温かい。
だから求める人が出てくる。
コンテンツが持つ力だ。


一方、岡野さんにはそれほど勝算はなかった。
折に触れいろいろな媒体に描いてきた母とのことを1冊にまとめたい思いはある。
それで、3年前にも自費出版した。
だが、売るには苦労した。
なけなしの金で500部刷った。
テーマは前と同じだ。母の認知症は進みいっそう重くなった。
希望と不安が半々。最後は『どんげんでんなる』と開き直った。
そういうときに村岡さんが「手伝う」と言ってくれた。
ありがたかった。
Facebookで訴えていくのだと言う。
『それなら俺もできる』と思った。
この時点で岡野さんもFacebook歴1年にならんとしていたからだ。
意外にも手ごたえがいい。
初版はほどなく完売した。恐る恐るもう5000部増刷。
それもあっという間に売り切れた。村岡さんは、本業そっちのけで本の発送にてんてこ舞いすることになった。


この間、Facebookは力を発揮したのだろうか。
公平に言えば、地元長崎を中心に岡野マンガの世界に長い時間をかけてファンが付いていた、と言えるのではないか。
さらに認知症の母とハゲボンのゆったりとしたかみ合わない交流が、3.11以降なんとなく意気が上がらず「傷ついた感じがする時代」に合った。
一言でいえば、コンテンツのよさがあったからこそ、だと思う。
ただし、最良のコンテンツでも人に知られなければ世の中に存在しないも同然、もまた真実である。
地元紙がまずそれをやってくれ、絶妙のタイミングで村岡さんらの仕掛けも動き始めた。
よい循環が生まれ、じわり「ペコロス─」は知られていく。
九州地方のメディアの雄「西日本新聞」も岡野マンガに注目し、新聞社の企画本として本にまとめる話が出てくる。
歯車が確実に一つ「カチリ」と回転したのである。


そして、奇跡が起きる
村岡さんのもとに、Facebookを通じて知り合いになっていたプロデューサーの井之原尊さんから問い合わせが入った。
「ぜひ映画にしたいが、マンガの著作権はどうなっているか」
権利は当然岡野さんが持っている。映画のオファーが来たことを話すと目を白黒させた。
無論、「ノー」と言うはずがない。
ここから先は一瀉千里。
2人のプロデューサーのフットワークが利き始める。
井之原さんは森崎東監督を引っ張り出す。
一方、村岡さんは5月5日、映画化を応援するためのFacebookページを立ち上げ、情報の拡散を図った。結果的に『映画「ペコロスの母に会いに行く」を応援しよう!』のFacebookページは、1ヶ月で全国から「5000いいね!」を獲得した。


「結果的に」と書いたが、村岡さんはただ自然に任せていたわけではない
西日本新聞からの新刊発行の話や、映画化の進捗状況、監督との打ち合わせやキャスト発表などを楽屋裏の話を含め逐一ページで語ることにより、単なる「情報の共有」ではなく「共感の共有」を目指した
そして飛び切り強調したのは、「ペコロス─」は“Facebook発の映画”であることである。
本の周知、販売、重要な3人(岡野さん、村岡さん、井之原さん)の出会い、そして応援団も…、そのすべてにFacebookが起点になっている。映画制作のために必要な資金集めにもFacebookの力は生きている。村岡さんは今、Facebookを通じて紹介された企業幹部を訪ね歩いては協力を要請している。さらに一般からの公募にもまたFacebookを使う。


ことさら「Facebook」を強調するわけは、話題性の提供だ。
「Facebook発」だからこそ、マスメディアが飛びつく
朝日新聞、NHK、西日本新聞ばかりではない。
きのうは、岡野さんがウォールに載せたマンガにコメントした僕のところに、ある映像制作会社からメッセージが届いた。「岡野さんのマンガに介護体験者のあなたはどんな感想をもったれたか」を知りたいと言うのだ。村岡さんの読み通り、さまざまなメディアが動きつつある。


7月22日、新宿の「水たき玄海」でこの映画の応援団が集まって「森崎東監督とペコロス岡野氏をハゲます昭和大宴会」が開かれた。会場の大広間にはFacebookでこの会を知った約100人が集まった。互いに見ず知らずの人たち。
村岡さんの緊張でコチコチのあいさつ、
寡黙な森崎監督の精いっぱいのつぶやき。
途中、あいさつを求められた岡野さんは、照れ隠しに「ちんちんの唄」を裃(かみしも)姿のままがなり立てた。
大半が初めて聴く人たち。
軽快ながら激しいリズム、そして歌詞の珍妙さ。
みな度肝を抜かれた。
でも、ノリにノッてきた。
そのあと井之原さんは生真面目に「Facebookでの熱い志と拡散への感謝を、良い作品をつくることでお返しする」と宣言
最後に村岡さんの発声で万歳三唱ならぬ「どんげんでんなる」を三唱、会を締めくくった。
Facebook大宴会は大いに盛り上がって終わった。
終始カメラが回っていた
村岡さん、井之原さんはメイキング映画も作る予定だ。
そしてNHKがこれらの模様をすべて記録している。やがてどこかのタイミングで特集企画として放送されるに違いない。


Facebookと言う個メディアから生まれたプロジェクトは全国にムーブメントを起こすことができるだろうか。
村岡さんは企画の当初から、マスコミに“発見される”ことを狙っていた。
この投稿の冒頭に書いたように、Facebookの拡散機能は、広く伝えるという意味では心もとない。
しかし、人々をつなげ、つながった者同士が共感を深めるツールとしては最強だ。
村岡さんの戦略の中には、最初からFacebookの2面性をいかに使いこなすか(弱点をカバーし、長所を生かす)が念頭にあったに違いない。
今後、同様の大宴会を大阪でも、京都でも、福岡でも行い、クランクインの長崎につなげていく。Facebook応援団の絆を深め、合わせてマスコミに話題を提供する



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