★オリンピックを楽しむように、国会を囲むキャンドル集会に行ってくるね | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

オリンピックはいいね!
昨夜は柔道の福見友子と平岡拓晃の試合を最後まで見てしまった。
勝っても負けてもドラマがある。努力してきた人だけが感じる境地があるのだろう。
それが伝わるから、こちらも熱くなって感動する。
朝、起きて見れば水泳の個人メドレーで高校生の萩原公介が銅メダル。
女子重量挙げの三宅宏美も(テレビではやっていなかったが)「銀」を獲得した。
父の「銅」を超える快挙だ。
この2種目とも、日本人では初メダル。やるもんだ。


さて、オリンピックの話題にかき消されているが、今夜は「国会を囲むキャンドル集会」がある。
3紙にざっと目を通したが、紹介記事はゼロ。まあ、この無関心は当然かも知れないが、主催者に
よれば「100万人の結集」を目指すという。
それくらいの規模の集会をあっさり無視するとは。やはりこの国のメディアの感度は低い。
「オリンピックとかぶるなんて、時期の選択が悪すぎる」などと、今さら嘆いても仕方ない。
誰に強制されているわけでもない。集まる人は集まるだろう。


「緑の党」の発足のニュースは、さすがに載っていた。
朝日新聞の見出しは『市民派「緑の党」発足』
冒頭の行に
──「原発の即時全廃」を掲げる日本版「緑の党」と、あった。
新聞は相変わらず”レッテル貼り”かお好きなようだ。
悪意はないのだろう。しかし、こう書かれた党の先行きを僕は懸念する。
市民派という以上、「活動家の集団」ではないと言いたいのだろうが…。
一般の市民が連想するのは、それとは逆ではないか。


あまのじゃくな言い方になるが、「緑の党」は国際的な連携をする立派な党のようである。「グリーン・アクティブ」という、これも脱原発を掲げた政治運動体とも連携していくと言う。
そして、国政選挙にも打って出る計画。
こうなると「横町の隠居」のような僕などには、とてもついていかれない。
次の衆院選、東京比例区で候補を立て、何人かは当選するかもしれない。
しっかりした核がなければ、脱原発は進まないと思っているのだろう。
本当にそうなのかな(「緑の党」が大躍進すれば話は別だが…)。
緑の党=少数の当選者=脱原発は永久の少数者と、型どおりの図式ならないか。


「原発をなくしたい」と言うのは、特別の感情ではない。
危険なものは嫌、放射能は怖い、処理できない毒物は地球の迷惑。
すべて、誰もが持つふつうの感情だ。
それを「特別のこと」のように思わせているのは、今の政治があまりに国民の側を向いていないからである。
毎週金曜夜の首相官邸を囲む集会、今夜の国会を囲むキャンドル集会、
いずれも
『いい加減に気づけよ!』
『お前らのバカを国民にしわ寄せするな!』

と言いたい、ごくふつうの市民のやむにやまれぬ意思表示だ。


もちろん、主催者はいる。一定の目標を持ってやっているのだろう。
しかしツイートやFacebookの投稿で拡散する人たち、実際に現場に足を運ぶ人たちは
「イベント」を盛り上げたい一心。
ふつうの市民の声を政治家に届けたいと、ただ純粋にその思いでやっている。
それはスポーツ観戦となんら変わらない。
五輪は巨大なイベントだ。選手の目標としても超ピック。
だから世界中の関心を集めるし、ドラマも生まれる。
一方、脱原発をめぐる一連の集会もイベントである
かつての政治性を帯びた過激なデモとは違う。


今夜、国会周辺に100万人なんて集まらなくてもいい。
過剰に高揚する必要もない。
声高に政治家や東電をののしることもない。
集まり、静かに明かりを灯すだけでいい。
五輪とは違うのだ。
盛り上げてそれでおしまいではつまらない。
1人のスーパースターもいらない。
核になる政党がなくていい(ない方がいい)。
ただ、この国民のふつうの意思が、頑迷な既成政党に気づきを与えること。
狙いはそこだ。
難しいけれども、日本人の集合知は世界屈指だ。
きょうが特別の日、などと考えず、ふつうの1日の何気ないイベント、
Facebookで呼びかけられたイベントに参加するつもりで、国会周辺に行ってこようと思う。