訪問日:2021年8月10日

所在地:新潟県新発田市浦字城山

訪問人数:単騎

 

参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『日本城郭大系』

参考サイト:埋もれた古城

 

歴史
新発田重家の武将山田源八郎が古城を修復強化したといわれています。修復強化の時期は新発田合戦の際と思われます。

 

浦城遠景。比高差は約80m。

 

 

縄張

全体的に小規模な郭群で防御するという古いタイプの城で、いかにも南北朝期の山城という感じです。山田源八郎による強化改修の際に堀切が築かれたのではないでしょうか。

出典:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

 

当日のルート

赤いピンの位置から入ります。入ると墓地があり墓地の横に林道があるので、その林道を道なりに歩けば主郭に到着します。ところで城址の東側にゴルフ場がありますが、航空写真で見ると城址の東側はゴルフ場建設により破壊されてたりして、、、なんて思ってしまいます。

 

この墓地の横に林道があります。

 

林道の先へ進むと、南側尾根の堀切が見えてきました。深さ1m程度の小規模な堀切です。

 

堀切をさらにもう一本発見。こちらも小規模です。

 

堀切からさらに歩みを進めて主郭に到着。

 

主郭の内部はど藪。訪問時期が夏日なので仕方がないのですが、、、

 

主郭の北側には小規模な郭が並んでいます。主郭に虎口のような地形があったのですが果たして城郭遺構なのでしょうか。

 

帯郭、写真だと何が何だか、、、

 

主郭の北西側にも堀切等の遺構があるようですが、藪がすごかったので見学せずに下山しました。

 

実際に見学してみて、やはり古いタイプの山城という感想でした。冬場であれば城郭遺構がもっと綺麗に見えるかもしれません。

 

以上、浦城でした。

 

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浦城、新発田市

訪問日:2020年10月24日

所在地:新潟県柏崎市善根字飛岡

訪問人数:城友さん2名と私の計3名。当日は安田越後守さんに城址を案内して頂きました。

 

参考文献:『新潟県の合戦-長岡・柏崎編-』、『日本城郭大系』

 

当城の城域は未整備であり道がなく藪で被われていますので、それ相応の装備で見学することが望ましいです。

 

歴史
城主は安田毛利氏から分家したとされる善根毛利氏です。ちなみに越後毛利氏は安芸毛利氏と同族で大江広元を祖としています。城址は一豪族の城にしてはかなり巨大ですが、上杉謙信が北条高広征伐の際に善根に出陣したので、その際に拡張された可能性があります。また、善根冬城の東側に同じく善根毛利氏の城である八石城(善根夏城)がそそり立っていますが、冬城の対の城(詰め城)でしょうか。

 

縄張

馬蹄形状の尾根に郭を配置し、土塁、堀切、畝状竪堀、桝形なので防御する構造です。縄張図を見ただけでかなり広い城ということが分かります。

出典:『新潟県の合戦-長岡・柏崎編-』

 

当日のルート

八石神社の裏手から登城しました。ルートはあまり正確ではありませんが、当日の記憶を辿るとこんな感じで移動しました。

 

登って早々に大堀切の北側の堀切に到着しました。深さが2m程度の小規模な堀切です。

 

そこから歩みを進めると、最初のお目当ての大堀切に到着。かなり深いですが長さが凄いです。山を丸々ぶった斬っており、長さは約100mあります。

 

スケール感を出すために自撮り

 

郭から見下ろすと凄い深さ

 

大堀切を超えて藪漕ぎしながら主郭へ向かうと驚くべき光景が!呆れるくらいの高さの切岸が登場しました。高さは20mはあると思います。

 

なんて威圧的な切岸なのでしょう。この上が主郭ですがこんなところはよじ登れません(一応頑張って無理やり登りましたが)。大堀切以上に感動した、善根冬城の一番好きなアングルです。

 

主郭も藪ですが土塁を確認することができました。

 

主郭を通過すると箱堀状の堀切が登場します。

 

ここでもスケール感を出すために自撮り

 

箱堀を超えて歩みを進めると畝状施設が登場します。平坦面に築かれており竪堀というよりも阻塁と呼んだ方が正確かもしれません。

 

肉眼だと形状がよくわかるのですが、草で覆われており写真だと何が何だか。

 

 

畝状施設を見たあとに下山しました。

 

この広大な城域と巨大な城郭遺構はいつなんのために築かれたのでしょうか。城主の善根毛利氏は安田毛利氏から分家した一族ですが、分家一族の城にしては巨大すぎる気がしました。安田毛利氏の居城である安田城と同等以上の規模ではないでしょうか。もともとこの規模感の城だったのか、上杉謙信の北条高広討伐時に拡張されたのか、それとも御館の乱の際に拡張されたのか、気になる城です。

 

歴史は謎の部分が多いですが、城郭遺構は超一級品ですので柏崎で城巡りする際は是非見学いただきたい城です。

 

以上、善根冬城でした。

 

安田越後守さん、Thank you for guiding us on the day !!!

 

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新潟県柏崎市、善根冬城、善根城

訪問日:2021年10月9日

所在地:栃木県鹿沼市下粕尾

訪問人数:城友さん3名と私の計4名

 

参考サイト:余湖くんのホームページ、栃木県の中世城郭

 

歴史

不詳

 

*当城の見学は山の所有者様の許可が必要です。所有者様から入山許可を頂いた後に害獣柵の入口を開錠して入山する流れとなります。

 

*当城には山蛭が生息しています。見学の際は山蛭被害に遭わぬように山蛭撃退スプレーなどを携帯することが望ましいです。

 

土木量が半端ない山城が2017年頃に鹿沼市で発見されたという噂を以前から聞いており、ずっと気になっていた城でしたが念願叶ってその噂の天狗沢城を遂に訪問することができました。

 

思川の対岸から天狗沢城を望む。比高差は70m程度。

 

当日のログです。S地点にある害獣柵の入口から入山します。道はありますが途中から薄くなり手探りで郭まで進む必要があります。

 

縄張図。尾根道を数本の堀切で断ち切る構造。川に囲まれた要害地形でもあります。

出典:余湖くんのホームページ

 

登り切ると最初に目にするのが北側に長く延びる巨大な竪堀。竪堀は麓の手前までおちていますが、元々麓の手前までおちていたのか、それとも林業用に延伸されたのかは分かりません。

 

竪堀は途中で屈折しており人為的に加工された地形ということが分かりました。そして竪堀の最上部が囮虎口のような形状になっており、敵を郭の手前まで誘き寄せるための竪堀に見えました。

 

竪堀を見た後に縄張図の1郭に移動します。郭の北側に小規模な堀切がありました。当時は木橋でも架けていたのでしょうか。

 

堀切の北側にある祠

 

1郭に到着。郭のスペースは城内で一番広く、城の中心的な役割を果たした場所だったと思います。

 

1郭の奥に進むと堀切が登場します(1郭と2郭を隔てる堀切)

 

堀切を2郭から撮影。高さは約5m

 

2郭にはL字型の土塁がありました。奥は櫓台のような造りになっています。

 

そして2郭を超えた先にある堀切(2郭と3郭を隔てる堀切)。

 

そして3郭へ移動。こちらにも2郭ほど明瞭ではありませんがL字型の土塁がありました。

 

そして3郭の先にある堀切(3郭と4郭を隔てる堀切)。

 

堀切の側面に石がありましたが恐らく自然物です。それにしてもこの山は石が多い。

 

この後に4郭に移動し薄らと残る堀切と畝堀らしき遺構を見ましたが写真を撮り忘れました。

 

4郭を見学した後は下山するために竪堀付近まで戻りました。その途中で見た6郭の真下にある堀切。城の西側を防御しています。この堀切を見て思ったのですが2郭と3郭にあるL字型土塁も西側に盛られています。西側を強烈に意識した縄張という印象を受けました。

 

6郭の堀切を見た後に下山しました。

 

天狗沢城は2017年頃に発見されたとのことですが、実際に見学してこれほどの城が人目につかずに眠っていたとはとても信じられませんでした。かなりの土木量であり、技巧的でもあるので城好きさんにオススメしたい城です。

 

また、当日に城跡を見学させてくれた地権者様にこの場を借りて改めてお礼申し上げます。山蛭対策用スプレーまで用意して頂いたお陰で私は無傷で済みました。本当にありがとうございました。

 

以上、天狗沢城でした

 

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天狗沢城、鹿沼市

訪問日:2021年8月11日

所在地:新潟県岩船郡粟島浦村字八幡山

訪問人数:島民の方1名と私の計2名

 

参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『図説 中世の越後』、『本庄氏と色部氏』

 

粟島の位置、歴史に関しては「越後・内浦城(粟島要害)」にて記述したので本頁では省略します。

 

 

釜谷城の場所

南西部の最先端に位置します。城の西側の浜辺はかつての船着場であったことから、船着場と付近を往来する船を監視するために機能した可能性があります。また、城からは佐渡方面を見渡せるため、色部氏が長尾為景と対立していた時期に物見台としても機能したのではないでしょうか。

 

 

縄張

城山と伝わる場所に段上の郭が築かれています。実際に訪問して感じたのは、後に詳細について後述しますが城域は城山部分だけではなく、城山から西に伸びる八幡鼻(八幡鼻展望台)までだったと思います。八幡鼻が城域でないと佐渡方面への見通しが効かなくなるためです。

出典:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

海岸付近から城跡を望む。奥に見えるのが八幡鼻、その手前にある丘(ちょっと分りづらい)が縄張図に描かれている城山です(城山の奥に見えるこんもりとした山も城跡の可能性があります。今後の調査に期待!)。

 

城跡の手前にある巨大な沢。天然の堀切といっても差し支えのない地形です。

 

釜谷城へ至る道の途中に鳥居がある。ここを真っ直ぐ進むだけで城跡に到着します。

 

城跡に至る道は遊歩道として整備されており登りやすいです。

 

 

遊歩道をしばらく歩くと城山(縄張図に描かれている場所)に到着です。城山に八幡神社がありますが、これは元々は八幡鼻にあったものを新潟地震後に城山に移転したそうです。

 

段上の郭を確認できましたが、八幡神社移転の際に改変され現在の地形になった可能性もあります。

 

段上の郭

 

そして城山から八幡鼻へ向かいます。写真は城山から見た八幡鼻。八幡鼻までを城域と考えないと佐渡方面への見通しが効きません。

 

八幡鼻へ至る道。最近まで草で道が塞がっていたようだが、同行頂いた島民の方が刈ってくれたそうな。感謝。

 

八幡鼻に到着。この下は断崖絶壁。

 

八幡鼻からの眺め。写真だと分りづらいですが佐渡島が薄らと見えました。

 

八幡鼻を見学した後に下山しました。

 

釜谷城では堀切、土塁などの典型的な城郭遺構は見当たりませんでした。しかし実際に見学してみて、それらの防御機能を築く必要がなく、急峻な地形や沢を利用すれば城として充分機能する場所と思いました。

 

釜谷城は城跡ですが、景色が大変素晴らしい場所なので城跡として見学する以外にも景色も堪能していただければと思います。

 

以上、釜谷城でした。

 

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粟島、釜谷城、粟島観光協会、釜谷地区

訪問日:2021年8月11日

所在地:新潟県岩船郡粟島浦村字要害

訪問人数:島民の方5名と私の計6名

 

参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『図説 中世の越後』、『本庄氏と色部氏』

 

粟島の位置

お城を紹介する前に粟島の位置を紹介します。

粟島は村上市から北西に35kmの海上に位置する島です。岩船港より、フェリーまたは高速船にて移動することができます。

 

岩船港から粟島を望む

 

 

粟島の歴史

 

粟島観光協会様の資料からの転載です。

 

「明治期の3度の大火により粟島の歴史を語る、文書・文献・資料等が失われたため、言葉や姓氏、地名、民俗、伝承等から下記のような推論がたてられている。 粟島では、弥生から古墳文化が確認されておらず、和人が入るまでの長い間、蝦夷の地とされていたと考えられている。地名にもアイヌ語に由来するものが確認される。8世紀後半から9世紀頃には、対馬海流を利用して北部九州の民(マツラ(松浦))の一党、現在の釜谷集落の祖先)が北上し粟島に上陸(現在の内浦地区)し、先住のエミシ人を現在の釜谷地区に追いやったとされている。次に、その半世紀後の848年(嘉祥元年)前後には、越前沿岸から越前国本保信高を祖とするホンボ(本保)) 一族が漂着し、マツラ一族を西海岸(現在の釜谷地区)に追いやった。その影響で西海岸に暮らして いたエミシびと(アイヌ民族と考えられる)は島から出ざるを得ず北方へと追われたとされている。 こうして現在にも至る集落構成が形成された。

その後、鎌倉時代、室町時代には色部氏の領地であった。この時期に板碑が大量に造られた。江戸時代には、村上藩や庄内藩領、幕府領と二転三転した。幕末期には、北前船の重要な避難港として位置づけられ、北前船を介した文化の交流もあったと考えられる。」

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このような歴史背景のせいか、内浦地区には本保姓が、釜谷地区には松浦姓が多いようです。また島内にはアイヌ語に由来している可能性がある史跡があります。

 

鎌倉時代初期には、小泉庄の加納色部条(村上市)に鎌倉幕府の御家人である桓武平氏系秩父氏が移住し色部氏を称します。そして色部氏は地頭職として、色部条、牛屋条、粟島を支配します。内浦城はこの色部氏支配時代に築かれた可能性があります。

 

 

内浦城の場所

内浦地区の集落と港を見下ろす位置に築かれています。

 

内浦港から内浦城を望む(黄色い丸部分が内浦城)

集落のすぐ近くですが島民の方も滅多に立ち入らない場所だとか。

 

 

縄張

北西の尾根側を堀切で防御、南東側を帯郭で防御する至ってシンプルな構造です。縄張図を見た時は、このような離島にも立派な城があることに驚きました。構造的に戦国時代の城ではないでしょうか。

出典:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

 

内浦城へのアクセス方法

山頂からアクセスする方法が楽です。村道を通ってSの地点まで行き、四角部の城跡まで徒歩、または車で移動します。城址に至る道は平坦なのでそれほど労せず移動できます。Gの地点から城跡まで登ることも可能ですが、下草が多く移動が難しいです(訪問時期が夏場だからというのもありますが。。。)

 

S地点から城跡へ至る道。島民の方々が事前に下草を刈ってくれたお陰で城跡まで楽にアクセスできました。普段は道なのかどうかも判別できないほど草が伸び放題の道とのことですが、ここまで綺麗に刈ってくれるとは感謝です。

 

そして道を進むとピンクリボンが登場します。リボンの隣の道を進むと城跡に到着します。城跡の目印のために島民の方がセットしてくれました。

 

ピンクリボンの地点から1〜2分歩くと城跡に到着。

眼前に二重堀切が!!!かなり明瞭に残っていたので思わず歓喜の雄叫びをあげました。

 

二重堀切に降ります。深さは2m程度とそこまで深くありませんが明瞭に残っていました。

 

二重堀切を超えると巨大な切岸が見えてきました。奥が主郭です。

 

そして主郭の手前には巨大な堀切が!!!

主郭側7m程度、反対側4m程度です。越後の山城にある堀切の中でもかなり大きな方では!?

 

 

主郭側切岸の高低差はなかなか

 

切岸を無理矢理よじ登って主郭へ移動。主郭はジャングル状態で形状がよく分かりませんでした。

 

主郭から続く連続帯郭。肉眼だと形状がかろうじて分かるのですが写真だと何が何だか。見通しが悪いため、今回は帯郭に降りませんでした。次回訪問時に見学したい箇所です。

 

主郭から内浦集落と港を望む。木々の隙間からかろうじて集落と港が見えました。

 

主郭を見学した後に下山しました。

 

こちらが下山道。内浦集落に温泉があるのですが、その温泉を山中から麓に通すためのパイプがこの道の下に埋められています。鹿避けの柵があるので迷うことはありませんが、下草が繁茂しており非常に歩きづらいので、できればこの道を使うのは避けた方が良いでしょう。

 

内浦城は長い間、山に埋もれ見学が難しい城でしたが、今回は島民の方々のご協力とご尽力のお陰で城跡を容易に見学することができました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

 

城跡は現時点では連続堀切と大堀切は形状がよく分かりますが、郭部分は藪のためよく分かりません。しかしそれを差し引いても大変見応えがある城です。いつの日か、郭の草が刈られ、そして主郭から内浦集落がよく見えるようになるのではないでしょうか。色部氏が粟島を統治するために築いたであろう、山に埋もれた内浦城が島内の歴史遺産として整備されれば、山城好きとしてこれ程嬉しいことはありません。

 

以上、内浦城でした。

 

おまけ

 

粟島の郷土料理「わっぱ煮」、粟島に行ったら是非食べてください。

 

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粟島、内浦城、粟島要害、粟島観光協会、内浦地区、わっぱ煮

訪問日:2021年5月1日

所在地:山形県鶴岡市大字藤沢字荒沢

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』

 

藤沢楯は湯田川三楯の一つ。

楯の歴史と場所については七日台楯の頁で記述したので、ここでは省略します。

 

藤沢楯の縄張

主郭取り囲むように破壊痕が残ります。そして主郭中央部に線状の溝を堀り郭を潰しています。大手と思われる南西方面を帯郭で、尾根を堀切で防御するシンプルなものです。

出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』

 

当日のルート

西側麓の道路に「湯殿山」の石碑があり、そこから山に入ります。途中で道がなくなるので直登する必要があります。登りはそれほどキツくありませんが、尾根道に到着すると藪漕ぎする必要があります。

主郭を見学後に大手方面の連続帯郭から降りたかったのですが、藪で見通しが悪かったため、今回は見学を諦めて元来た道より下山しました。

 

湯殿山の石碑

 

尾根に到着後、南東方向に進むと縄張図Bの三連続堀切が見えてきます。

形がはっきりしているのは一本のみで、他2本は土が堆積してかなり埋まっていました。

 

三連続堀切を超えると主格の切岸が見えてきました。

この切岸は斜度が垂直に近い急勾配なので三連続堀切側からよじ登るのはほぼ不可能です。主郭の西側に回り込むと傾斜がやや緩い場所があったので、そこからよじ登りました。それにしても主郭に行くのがかなり大変でした。

 

主郭に聳える大木。我々の侵入を阻むかのように聳え立っていました。

樹齢は500年近くあるのではないでしょうか。

 

そして頑張って主郭まで登ると、そこには無数の破城痕が!

かなり明瞭に残っていました。

 

七日台楯、石堂山楯で見られた郭をミンチ型の破城とは異なり、郭を取り囲むように切り刻まれています。

 

 

破城痕が波打っています

 

 

 

主郭の破城痕を見学した後に下山しました。

 

七日台楯、石堂山楯とは異なる趣の破城痕でしたが、城の占有面積が一番大きい部分を切り刻む方式は他の二楯と共通しています。

他の二楯はこれでもかというくらいに郭、または尾根道がミンチにされていましたが、ここ藤沢楯は郭のみミンチされており、主郭と同様に駐屯スペースとして使用されるであろう、連続帯郭がミンチにされていないのは不自然に感じました。

まあ、連続帯郭を実際に見学した訳ではないのでなんとも言えませんが、、、

今回は連続帯郭を見なかったので、いつか再訪して見学したいです。

 

以上、藤沢楯でした。

 

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訪問日:2021年5月1日

所在地:山形県鶴岡市大字湯田川字岩清水

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』

 

石堂山楯は湯田川三楯の一つ。

楯の歴史と場所については七日台楯の頁で記述したので、ここでは省略します。

 

石堂山楯の縄張

郭を潰す破壊痕が際立ち、城全体がミミズのような形をしています。破壊痕は33条あります。七日台楯は郭よりも尾根道の占有面積が大きい為か、尾根道が切り刻まれていましたが、石堂山楯は郭の占有面積が大きい為、郭が切り刻まれています。縄張自体は楯の東西を堀切で防御するという割とシンプルなものです。

出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』

 

当日のルート

石堂山楯南側にある道路に「大日堂跡地」の看板があり、そこから入ります。

大日堂跡地に到着した後は、跡地の背後にある尾根に登り、ひたすら北に向かって歩きます。

尾根道はかなりなだらかであり、楯手前までそれ程労せず移動することができます。

楯手前まで徒歩15〜20分程度です。

そして楯の手前でかなり急峻な尾根道となり登りが大変ですが、ただ大変なだけの尾根であり特に危険ではありませんでした。

 

大日堂跡地入口付近から見た石堂山楯の遠景。奥に見える頂が楯跡です。

ここから見ると大日堂からかなりの距離がありそうです。

 

大日堂跡地の入口

 

大日堂跡地。実はここは大日坂楯の跡地でもあります。

この大日堂跡の石碑の裏にある尾根に登り北方向に向かって移動します。

 

楯の手前の尾根道に到着。

ここからが急坂で大変ですが、木に捕まれば難なく登れます。

 

急峻な尾根道を登きると西側の二重堀切が登場します。

ただその内一本はかなり土が堆積しており、ハッキリと見えたのは一本のみです。

深さは1.5m程度です。

 

そして二重堀切を超え、縄張図Iの郭に向かうと破壊痕がお出ましです。

かなり明瞭に残っていました。形は畝条施設と同じですが、似て非なるものです。

 

 

ここまで切り刻まれると駐屯スペースを確保することができません。

 

郭Iの東側の郭に移動します。

こちらも容赦無く切り刻まれていました。

 

 

 

更に東側に進むと大堀切があるのですが、藪で見通しが悪かったのと雨で足場が悪かったため、見学せずに元来た道を歩いて下山しました。

今思うと無理してでも降りて見学すれば良かったです(かなり後悔)。

 

石堂山楯には破壊痕を期待して訪問しましたが、想像以上に素晴らしい破壊痕でした。全国的にもかなり珍しい破壊遺構ではないでしょうか。

 

以上、石堂山楯でした。

 

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訪問日:2021年5月1日

所在地:山形県鶴岡市大字田川字七日台

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』

参考サイト:春の夜の夢

 

七日台楯は湯田川三楯の一つ。残り二つの楯は石堂山楯と藤沢楯を指します。

 

歴史

永禄18年(1568年)に越後北部の国人領主、本庄繁長が武田信玄と内通し上杉謙信に対し謀反を起こしました(本庄繁長の乱)。本庄氏の盟友であり、庄内地域を支配していた国人領主の大宝寺(武藤)氏も本庄氏に同調し上杉謙信に反旗を翻しました。それをみて上杉謙信は大宝寺氏に降伏勧告状を送りましたが、その内容は領内の三楯の破却でした。この三楯が湯田川三楯に該当する可能性があります。

 

湯田川三楯の位置関係

七日台楯は越後小国街道(現在の国道345号線)が庄内平野に入る最後の関門となる大日坂峠の入口に位置します。

そして大日坂峠の頂上に石堂山楯、出口に藤沢楯があります。

つまり三楯は越後小国街道が庄内平野に出る口を押さえる要衝に位置しています。

 

七日台楯の縄張

北側の尾根道Aをハの字型の畝状施設で侵入を防ぎ、南側を三重堀切で防御する構造です。

そしてBの尾根道は尾根に対して垂直方向に刻まれ、尾根道が潰されています。

これは破壊痕となります。そしてCは畝上施設に見えるのですが、これも破壊痕の可能性があります。

七日台楯の西側に小国街道が通過しているため、敵方に楯を破壊したことをより強調して見せるためのものだと思います。

 

『最上義光の城郭と合戦』では、北側の尾根道Aのハの字型畝を畝状空堀としていますが、個人的にはこれは防御機能ではなく破壊痕だと思います。

郭Iが無傷のため、楯を破却して使用できなくするために尾根道Aを遮断しなくてはなりません。

Aの尾根道はやや幅が広い、かつ北側に向かって下がっていく傾斜の緩い尾根道なのですが、尾根に対して下がる方向に向かって角度をつけて刻むことによって尾根道を登るための足場を無くし(溝に足をかけると滑って尾根の端に落ちる)、郭に移動できなくするための破壊痕だったのではと思います。そしてAの中央に道はありますが、これは後世の林道によるものであり、元々はハの字ではなく、くの字だったのではと推測します。

出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』

 

当日のルート

梅林寺の横の広場にある階段から登りましたが、尾根道の手前で道はなくなります。

そこから先は急勾配の斜面を直登します。尾根に出たら、後はひたすら北方向へ歩みを進めます。

下山は北側尾根から降りましたが、下山場所は民家の敷地であり、猿避けの網で出入口が塞がれています。

当日は下山時に偶然、民家の住民の方がおり出入口を開けてくれましたが、基本的には元の道から降りた方が良さそうです。

 

民家の住民の方と、我々の存在を住民の方に知らせてくれたワンちゃんにこの場を借りて改めてお礼申し上げます。当日は無事に下山できて本当に助かりました。ありがとうございました。

 

尾根に辿り着き、北方向に歩みを進めると先ずは三連続堀切が登場します。

ちなみに訪問前は楯跡は怒涛の藪なのではと想像していましたが、草が綺麗に駆られており見学しやすかったです。

 

三連続堀切の一番南側。深さは2.5m程度

 

 

三連続堀切の南側から二番目

 

三連続堀切の南側から三番目

 

三連続堀切を超えると、縄張図Cの畝状施設があります

西側だけに畝上施設があるのは、やはり小国街道にいる敵方に破壊痕をより強調して見せるためでしょうか

 

そこから更に進むと縄張図Bの尾根に着きます。

尾根道がミンチにされており移動できないようになっています

 

縄張図Bの尾根を超えると広めの郭(縄張図I)に出ます。ここだけ無傷なのは不自然な気がしました

 

縄張図Iの郭の先にある縄張図Aのハの字型畝状施設に到着。写真は東側の畝状施設

 

縄張図Aを北側から見ます。写真では分かりづらいですが、しっかりとハの字になっていました。

中央の林道は後世のものであり、元々は両脇の畝状施設は繋がっていたと思います。

 

更に北方向に歩みを進め下山しました。

 

今まで見てきた城の中で、このような破壊痕が残っている城は初めてでした。

尾根道がここまでズタズタに破壊されている光景は、不気味な執念深さのようなものを感じます。

大宝寺氏が上杉謙信から受けた圧力は相当のものだったのではと想像しています。

 

以上、七日台楯でした。

石堂山楯と藤沢楯については後日記述します。

 

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七日台楯、七日台館、七日台舘、湯田川三楯、湯田川三館、湯田川三舘

訪問日:2021年4月16日

所在地:千葉県市原市

訪問人数:単騎

 

参考文献:『日本城郭大系』

参考サイト:余湖くんのホームページ

 

歴史

吉沢城は平蔵城の支城。伝承では、承平年間(931〜938年)に土橋平蔵によって築かれた城ですが、巨大岩盤堀切で尾根を断ち切る構造から見て、戦国期の里見氏、正木氏関連の城郭と判断していいかと思います。

 

当日のルートです。

鳳来寺観音堂を見学した後に、1の場所から侵入して南方へ進み、2の位置から下山しました。

 

先ずは鳳来寺観音堂を見学。この観音堂は国指定重要文化財。

 

現地案内板。昭和41年にすぐ近くにある善福寺旧地より現在地に移築されたようだ。

 

こちらが縄張図。川の合流地点の南側にある台地上にあります。構造は細尾根を堀切で断ち切るシンプルなものです。

出典:余湖くんのホームページ

 

善福寺南側の尾根道。下山した後に気づきましたが、一番北側の堀切(縄張図の堀4)を見忘れました。

 

南方に進むと縄張図の堀3に到達。深さはよく覚えていませんが、そこそこ深かった気がします。

 

更に南方へと進みます。ところでこの城は細尾根が永遠と続くため、主郭の位置がイマイチ分かりませんでした。居住空間を確保できるだけの郭もありません。そして土塁もない。防御面ではそれ程力を入れているようには見えませんでした。

 

更に進むと箱堀(縄張図の堀2)に到着。それなりの広さなので、ここが居住区だったりして。。。なんて思ったのですが、堀底に居住区というのはしっくりきません。

 

 

箱堀を超えて更に進むとお目当ての大堀切に到着。すんごい高さ!ここを注意深く降ります。

 

体感値だと千本城や峰上城の大堀切よりも深くてデカいと感じました。実際に深さを測定した訳ではないのでホントのところは分かりませんが、それらの城の大堀切にも全く引けを取らない大きさです。

 

大堀切の壁面。粘土質の岩盤を削っています。これはとてもよじ登ることができない。

 

スケール感を出すために自撮り。堀切の全体像と比較するとこんなに小さくなります。大堀切のインパクトが強すぎて、堀底に30分滞在して観察しました。

 

大堀切を見た後に堀底から下山しました。下山と言っても少し降りるだけで平地に出ます。

降りた場所にトンネルがありました。ここに通路を設ける際に、堀切を更に掘り下げて切通状にせずにトンネルにしてくれたのは嬉しい限りです。

 

上総、安房の岩盤掘削型の巨大堀切といえば、千本城、秋元城、峰上城あたりが定番だと思いますが、ここ吉沢城でも巨大な堀切がみれるのでオススメしたい城です。

それにしても、なぜ大堀切にだけ、これだけの大普請を施したのか全くわかりません。改修を途中で止めたのでしょうかね。

 

以上、吉沢城でした

訪問日:2020年12月29日

所在地:広島県広島市安佐北区上深川町

訪問人数:単騎

 

参考文献:『広島の中世城館を歩く』

 

歴史は不詳。城址の眼下に吉川興経の居館跡がありますが、吉川興経が築いた城か、または毛利軍が吉川興経の居館を監視するために築いた城か、どちらかだと思うのですが真相は謎です。

 

 

七曲城への行き方ですが、当日は高陽自動車学校裏手にある谷戸から登りました。谷戸を北に向かって進むと石組みされた畑のような地形が見えてくるので、そこで右折し幅が狭い(幅1m程度)沢を渡ります。沢を渡った後は東側(ピンの位置)まで直登。1〜2分も登れば堀切が見えてきます。

 

こちらが縄張図。

三篠川に沿って伸びる半島状の尾根にあり、尾根元を大堀切、尾根を四重堀切、斜面を畝状竪堀で防御しています。尾根元には大手となる七曲があるようなのですが見落としました涙

出典:『広島の中世城館を歩く』

 

谷戸から登ると一番初めに出くわす北側の四重堀切一重目と土橋。

この土橋は果たして城郭遺構でしょうか?というのは、城址が畑や公園として使用される際に利用者が移動しやすいよう、堀切に新たに土橋を架ける時があります。ただ、この城で確認できた土橋はここだけで、他には見当たりません。移動のしやすさを追求するのであれば連続堀切全てに土橋を架けると思うのですが、ここだけ架けてあるので城郭遺構の可能性もあります。でもなんだか不自然。結局、城郭遺構なのか否かは分かりません。

堀切は薄らと残っている程度です。

 

四重堀切二重目。こちらも薄らと残っています。奥に見えるのは主郭の切岸。

 

そして三重目と四重目の堀切。深さ2m程度ですが、物凄い威圧感がある堀切です。

 

三重目と四重目の堀切を横から。畝が結構デカい。

 

四重堀切の先には主郭の切岸があります。こちらも威圧感が凄いです。高さは約15mあります。

 

主郭切岸を見た後に主郭東側に回り込み畝状竪堀を探します。

 

これが主郭東側の畝状竪堀ですが、形がどこか不自然です。本当に竪堀なのでしょうか。

 

そして次は主郭西側の畝状竪堀です。横から撮影しましたが形がよく分かりませんね。

 

畝状竪堀を下から撮影。波打っているのが分かります。

 

西側の切岸を登って主郭に侵入します。郭が屈折していました。

 

主郭から四重堀切を見下ろす。

 

主郭と二郭の間に大堀切があります。これがなかなかデカイ。主郭側は10m、 二郭側は6m程あります。

 

二郭に侵入し主郭を望む。やはり主郭の切岸はすごい高さです。

 

二郭から見た大手の郭、この下に七曲が薄らと残っているそうなのですが見逃しました。

 

二郭を見て下山しました。

 

歴史不詳の城ですが、威圧感のある連続堀切、斜面を畝状竪堀で防御、これらは毛利氏の城でよく見かけるものなので、この城は毛利氏の城のような気がしました。

というわけで吉川興経の動向を監視するための城だったのかもしれません。

 

歴史が不詳なことを差し引いても、遺構は抜群なのでオススメしたい城址です。

 

以上、七曲城でした