訪問日:2021年5月1日
所在地:山形県鶴岡市大字田川字七日台
訪問人数:城友さん1名と私の計2名
参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』
参考サイト:春の夜の夢
七日台楯は湯田川三楯の一つ。残り二つの楯は石堂山楯と藤沢楯を指します。
歴史
永禄18年(1568年)に越後北部の国人領主、本庄繁長が武田信玄と内通し上杉謙信に対し謀反を起こしました(本庄繁長の乱)。本庄氏の盟友であり、庄内地域を支配していた国人領主の大宝寺(武藤)氏も本庄氏に同調し上杉謙信に反旗を翻しました。それをみて上杉謙信は大宝寺氏に降伏勧告状を送りましたが、その内容は領内の三楯の破却でした。この三楯が湯田川三楯に該当する可能性があります。
湯田川三楯の位置関係
七日台楯は越後小国街道(現在の国道345号線)が庄内平野に入る最後の関門となる大日坂峠の入口に位置します。
そして大日坂峠の頂上に石堂山楯、出口に藤沢楯があります。
つまり三楯は越後小国街道が庄内平野に出る口を押さえる要衝に位置しています。

七日台楯の縄張
北側の尾根道Aをハの字型の畝状施設で侵入を防ぎ、南側を三重堀切で防御する構造です。
そしてBの尾根道は尾根に対して垂直方向に刻まれ、尾根道が潰されています。
これは破壊痕となります。そしてCは畝上施設に見えるのですが、これも破壊痕の可能性があります。
七日台楯の西側に小国街道が通過しているため、敵方に楯を破壊したことをより強調して見せるためのものだと思います。
『最上義光の城郭と合戦』では、北側の尾根道Aのハの字型畝を畝状空堀としていますが、個人的にはこれは防御機能ではなく破壊痕だと思います。
郭Iが無傷のため、楯を破却して使用できなくするために尾根道Aを遮断しなくてはなりません。
Aの尾根道はやや幅が広い、かつ北側に向かって下がっていく傾斜の緩い尾根道なのですが、尾根に対して下がる方向に向かって角度をつけて刻むことによって尾根道を登るための足場を無くし(溝に足をかけると滑って尾根の端に落ちる)、郭に移動できなくするための破壊痕だったのではと思います。そしてAの中央に道はありますが、これは後世の林道によるものであり、元々はハの字ではなく、くの字だったのではと推測します。

出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』
当日のルート
梅林寺の横の広場にある階段から登りましたが、尾根道の手前で道はなくなります。
そこから先は急勾配の斜面を直登します。尾根に出たら、後はひたすら北方向へ歩みを進めます。
下山は北側尾根から降りましたが、下山場所は民家の敷地であり、猿避けの網で出入口が塞がれています。
当日は下山時に偶然、民家の住民の方がおり出入口を開けてくれましたが、基本的には元の道から降りた方が良さそうです。
民家の住民の方と、我々の存在を住民の方に知らせてくれたワンちゃんにこの場を借りて改めてお礼申し上げます。当日は無事に下山できて本当に助かりました。ありがとうございました。

尾根に辿り着き、北方向に歩みを進めると先ずは三連続堀切が登場します。
ちなみに訪問前は楯跡は怒涛の藪なのではと想像していましたが、草が綺麗に駆られており見学しやすかったです。
三連続堀切の一番南側。深さは2.5m程度


三連続堀切の南側から二番目

三連続堀切の南側から三番目

三連続堀切を超えると、縄張図Cの畝状施設があります
西側だけに畝上施設があるのは、やはり小国街道にいる敵方に破壊痕をより強調して見せるためでしょうか

そこから更に進むと縄張図Bの尾根に着きます。
尾根道がミンチにされており移動できないようになっています

縄張図Bの尾根を超えると広めの郭(縄張図I)に出ます。ここだけ無傷なのは不自然な気がしました

縄張図Iの郭の先にある縄張図Aのハの字型畝状施設に到着。写真は東側の畝状施設

縄張図Aを北側から見ます。写真では分かりづらいですが、しっかりとハの字になっていました。
中央の林道は後世のものであり、元々は両脇の畝状施設は繋がっていたと思います。

更に北方向に歩みを進め下山しました。
今まで見てきた城の中で、このような破壊痕が残っている城は初めてでした。
尾根道がここまでズタズタに破壊されている光景は、不気味な執念深さのようなものを感じます。
大宝寺氏が上杉謙信から受けた圧力は相当のものだったのではと想像しています。
以上、七日台楯でした。
石堂山楯と藤沢楯については後日記述します。
検索用キーワード
七日台楯、七日台館、七日台舘、湯田川三楯、湯田川三館、湯田川三舘