訪問日:2020年8月11日

所在地:滋賀県甲賀市水口町

訪問人数:単騎

 

参考文献:なし

 

歴史

現地案内板に書いてあること以上のことは調べていません。

神社の方に歴史について色々とお聞きしたかったのですが不在でした。

柏木神社本殿は三方の空堀によって取り囲まれていますが、

天正8年に織田信長の軍勢に攻められた際に城砦化したのではないでしょうか。

 

安土城摠見寺の現存仁王門は柏木神社の楼門を移築したものですが、甲賀攻めの時に掻っ払ったのかな。。。

現地案内板

 

入口に「甲賀郡中惣起請の社」とあります。

甲賀二十一家の柏木三家の結束地だったと推測されます。

 

拝殿

 

本殿の写真は撮り忘れました。

本殿の裏に回り込むとお目当ての空堀を発見

空堀を上から撮影

 

 

空堀を横から

 

そして更に奥に進むと幅広の空堀が!これにはかなり感激しました。

城砦化した神社を象徴するかのような大きな堀です。

ちなみに泥濘んでいたので奥は探索していません。

 

柏木神社は甲賀では有名な神社のようですが、

ここを訪れた際に是非本殿裏の堀も見ていただければと思います。

 

以上、柏木神社城でした

訪問日:2020年3月7日

所在地:神奈川県厚木市七沢

訪問人数:城友さん2名と私の計3名

 

参考文献:『神奈川県中世城郭図鑑』、『日本城郭大系』

 

歴史

宝徳2年(1450年)の江ノ島合戦の際、上杉憲忠方の長尾景仲、太田資清らが七沢山に要害を構える。長享2年(1488年)の実蒔原の合戦の際には、扇谷上杉朝昌が守る。

-

七沢城は昭和40年のリハビリテーション施設の建設に伴い城跡は全壊し、現在は城跡碑があるだけというのが通説だと思いますが、縄張図をよく見ると堀切がしっかりと残っています。

 

訪問する直前まで堀切のことは全く意識しておらず石碑と詰城の見城だけ見て帰る予定でした。しかしリハビリテーション施設を取り囲む尾根を見渡すと、如何にも何か残っていそうな雰囲気だったので思いつきで尾根に突入した次第です。尚、本記事では見城については記述しません。

 

こちらが縄張図。BとCの部分が堀切遺構です。堀切遺構がある尾根道は『日本城郭大系』によると「タカハタ」と呼ばれ、上杉氏在城の頃に旗が掲げられていたそうです。

出典:『神奈川県中世城郭図鑑』

 

そして「タカハタ」への進入路です。

正確な場所は忘れたのですが、地図に二箇所の赤丸どちらかの場所に害獣柵の入口があります。

この入口は開閉可能なので、普通に開けて入ります。入った後は施錠を忘れずに。。。

入った後に西側に向かってひたすら道なりに進むと、堀切Cに出会します。途中、悪路はないので到達は容易です。

 

これが堀切C。かなり浅いですが形状はよく分かります。

 

 

 

次は堀切Bを見るために東側に戻ります。堀切Bは害獣柵入口の近くにあります。

そしてこれが堀切B。こちらの堀切はなかなか立派。深さは4m程度です。

 

 

切岸側は竪堀になって落ちています。

 

東側から見ると土塁があり、土塁を越えると堀切があります。

 

堀切Bの近くにあった祠

 

堀切Bを見た後に「タカハタ」から脱出しました。

 

最後に現在の七沢城を象徴する城跡碑を撮影

 

七沢城は冒頭でも述べた通り、城跡碑だけの城というのが通説だと思いますが、遺構はしっかりと残っています。

と言うわけで七沢城を訪問の際は「タカハタ」の堀切も是非ご覧あれ!

 

以上、七沢城でした。

訪問日:2019年9月17日

所在地:兵庫県豊岡市伊賀谷字城山

訪問人数:城友さん3名と私の計4名

 

参考文献:『近畿の城郭』

 

歴史

詳細は不明。

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城址の場所はGoogleマップに登録されているので気になる方は調べてみてください。

 

縄張図は一緒に見学した城友さん「タムディ・マーキュリー」氏よりご提供いただきました。

直登ルート付きという優れものです。

*縄張図の転載は厳禁です

作図:タムディ・マーキュリー

 

城址の南側に三柱神社があり、神社の裏手から急峻な切岸を直登します。

5〜10分程度で城址に到着しますが、傾斜がかなりキツく城址に到着した頃には疲労困憊でした。

が、到着して早々、視界に明瞭な畝状竪堀が飛び込み、疲れが一気に吹っ飛びました。

 

南側の畝状竪堀、かなり明瞭な遺構です

 

 

 

この後に主郭に登りました。連続帯郭になっています。

 

主郭を北側に向かうと、もう一つの見どころである連続堀切が待ち構えています。

なんという巨大なコブなのでしょう、、、

深さは4m程度で決して深い堀切ではないのですが、この威圧感たるや凄まじいものがあります。

 

堀切の底に尾根があります

 

堀底

 

堀底の畝

 

連続堀切を見学後、南側の畝状竪堀をもう一度愛でてから下山しました。

 

伊賀谷城は遺構の造作が大変美しいため、再訪したい城の一つです。

 

豊岡市には伊賀谷城をはじめ、亀ヶ城、楽々前城などの大規模な畝状竪堀を有する山城がありますが、築城主体が非常に気になるところです。垣屋氏か毛利氏のいずれかだと思うのですが、、、

 

以上、伊賀谷城でした

 

訪問日:2020年9月20日

所在地:兵庫県養父市八鹿町大江堀

訪問人数:単騎

 

参考文献:『近畿の城郭』、『図説養父市城郭事典』

参考サイト:山城攻略日記

 

当城の縄張図を入手したので、2021年11月15日に加筆修正しました。

 

歴史

詳細は不明。麓の住民の方にお城についてお聞きしたところ、お城の存在は認識しているものの、城史については一切分からないとのことでした。

縄張が豊岡市の伊賀谷城と似ていることから、毛利氏の陣城の一つかもしれません。

 

縄張図は持っていないので、「山城攻略日記」様の大江堀城の記事をご参照ください。

 

大江堀城の場所はここ。

訪問時にはGoogleマップに位置情報は未登録でしたが、本ブログ執筆時には登録されていました。

こんなドマイナー城まで登録されているからGoogleマップは侮れません。

 

こちらが縄張図。方角が描かれていませんが下側が北となります。主に北側を畝状竪堀、南側を堀切で防御する縄張です。

出典:『図説養父市城郭事典』

 

 

城址に行くには北側からアプローチし、先ずは春日神社を目指します。

途中、害獣柵があるのでこれを開けて進みます。

 

害獣柵を超えて歩みを進めると、春日神社が見えてきました。

 

春日神社に到着。害獣柵を超えてから5分程度で到着します。

そして神社の裏から急峻な切岸を直登します。直登と言っても僅か1〜2分登程度です。

 

城址東側の帯郭に到着。主郭側の切岸は7m近くあります。

到着後に北側と西側を防御する畝状竪堀エリアへ移動します。

 

 

北側の畝状竪堀、かなり埋まっていましたが形はよく分かりました。

 

 

西側の畝状竪堀

竹藪が強烈だったので奥には進まず

 

畝状竪堀を見た後に東側から回り込んで南側の大堀切へ移動。

大堀切はかなり明瞭に残っており、かなり感動しました。

堀底には何故か空瓶が散乱していました。

 

大堀切を見た後に北側に戻り、主郭に移動。

北側の帯郭から坂虎口を登って主郭に入るのですが、虎口付近に石垣が残っていました。

虎口付近にのみ残っていることから城郭遺構の可能性があります。

 

 

主郭、この奥に土塁がありましたが写真を撮り忘れました。

 

主郭を見た後に下山しました。

 

大江堀城は、小ぢんまりとした城で如何にも陣城という感じでした。

しかし、陣城の割にはかなり技巧的な城です。

急峻な切岸と畝状竪堀で防御、背後を堀切で遮断する構造は、伊賀谷城と非常に酷似していると思いました。

築城主体が気になるところですが、伊賀谷城と同じかもしれませんね。

 

以上、大江堀城でした

 

訪問日:2019年11月17日

所在地:山形県西川町大字岩根沢字要害

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『全国国衆ガイド』

 

歴史(現地案内版より抜粋)

当楯の築城者は、沼の平楯の楯主東海林隼人佐の弟、東海林昌盛により天正年代(1570年頃)の築城であるとの伝承が残っている。それらの伝承から、当楯は沼の平楯の副城的な役割を持っていたと考えられる。しかし、当楯の北側は月山参詣の山道が見渡せる景勝の地であり、戦国期以前の築城も考えられる。

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縄張図を見ると楯の北側にある"a"が月山参拝詣の山道と思われます。月山信仰と関わりがあることから戦国期以前の築城というのは合点がいきます。そして戦国期に東海林昌盛によって改修されたのでしょう。

東海林氏は最上地域の国衆、白鳥氏に与し、最上氏と対立していましたが、天正12年(1584年)に白鳥氏は最上義光により滅ぼされます。要害森楯はその時に落城した可能性があります。

 

要害森楯の特徴は山道に向けられた19条の畝状竪堀。楯の規模は小さいものの、なかなか大袈裟な防御が施されています。

出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』

 

ところで、要害森楯の場所はこの辺り。

ピンの位置はあまり正確ではありませんが、岩根沢三山神社から町道を北上すると、町道の左手に目立つ案内板が見えてくるので、迷うことはないと思います。

 

これが現地案内板。なかなか親切な案内板です。

 

案内板の横に道があり、ほんの数秒登るだけで楯に到着します。

到着すると登り虎口らしきものが見えてきます。ただこの虎口はおそらく後世のものでしょう。

 

主郭に到着。

それ程広くなく、以下にも見張り所のような感じです。

 

主郭から見た南側の眺望、風が強い。

 

そして山道側を見ると畝状竪堀がびっしり!

草が生い茂っていますが形がよく分かります。

 

 

そして下に降りて畝状竪堀を間近で観察。

草が邪魔で形がよく分かりません。

 

 

 

畝状竪堀を見た後は、主郭南側の帯郭へ。

帯郭の中央に縦土塁がありました。この縦土塁に何の意味があるのか不明。

帯郭に降りるための階段のようなものでしょうか。

 

縦土塁を見た後に下山しました。

 

如何にも山道の監視所のような楯であり、こじんまりとしていましたが畝状竪堀が実に見事でした。

ただ贅沢を言えば、もう少し草が少なければと思います。

 

以上、要害森楯でした

 

訪問日:2020年3月21日

所在地:秋田県羽後町

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考サイト:余湖くんのホームページ

 

歴史は不詳。小野寺氏関連の城でしょうか。

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*この城を見学する際は地権者様の許可が必要です。

 

羽後町に大規模な畝状竪堀の城があるということで、ずっと訪問したかった城です。

 

当日は東側の斜面からアプローチしました。麓に鳥居があるので、そこを起点に登ります。

東側に林道はなく比高90mを直登する必要があります。

ちなみにお城の場所はGoogleマップでヒットします。

 

こちらが縄張図。東側を急勾配の切り岸で、西側と南側を畝状阻塁と竪堀で防御する構造です

出典:余湖くんのホームページ

 

10分ほど登ると東側の帯郭が見えてきました

 

一刻も早く畝状竪堀を見たくて、縄張図の1の郭に駆け上がります。

そして想像以上に素敵な畝状竪堀!しかも程よく積雪しており形状がよく分ります

 

一般的な畝状竪堀と比べて畝の幅がやや広い気がします。なぜ幅が広いのか気になりますね

 

 

畝状竪堀を間近で見るために南側から回り込みます。南側にある二重竪堀と二重横堀も実に素晴らしい!これは想定外でした。畝状竪堀に期待して訪問したのに、それに勝るとも劣らない遺構です。

 

二重竪堀

 

 

二重横堀

 

横堀の深さはこの位

 

二重横堀の堀底を抜け、畝状竪堀に接近

 

やはり雪があると形がわかりやすい

 

畝が整然と並んでいます。横から見ると横幅の厚みは分かりません

 

畝状竪堀エリアを抜けて北側に向かうと箱堀状の郭がありました

 

この箱堀を見た後に下山しました。

 

城域はそれほど広くないですが、この城の遺構の規模感はとにかく凄まじいです。

築城主体と城主は小野寺氏の重臣クラスなのではないでしょうか。

 

以上、田代城でした

 

 

 

 

 

訪問日:2019年9月7日

所在地:滋賀県近江八幡市沖島町

訪問人数:単騎

 

参考文献:『滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)』

参考サイト:城郭探訪、越後の虎〜武士の軌跡と史跡〜

 

当城の縄張図を入手したので、2021年11月15日に加筆修正しました。

 

歴史

南北朝時代の南朝側であった新田義貞軍の中継基地として要害が築かれたという説があります。

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歴史は不詳な部分が多いですが、琵琶湖を監視するために戦国時代も機能したのではないでしょうか。

 

沖島にある要害は主に三つあり、その一つが尾山城です。

 

それぞれの要害の位置関係はこちら。島の両端と中央に要害を築き、どの方角も監視できる体制になっています

 

沖島までは当然ながら船で移動します。堀切港からの眺め

 

往復するには充分な便数です

 

出発時刻まで堀切港で寛ぐ猫ちゃんを観察

 

この後に船に乗って沖島港まで行ったのですが、沖島港から登城口までの写真を探しても見つかりません。

登城口ですが、沖島コミュニティーセンター裏手側の斜面に墓地があり、墓地の先にハイキングコースの入口があります。ハイキングコースを5分程度進むと無数の帯郭が見えてきます。

 

ちなみに縄張図ですが、小生の手元にないので「城郭探訪」様のHPでご確認ください。無数の帯郭に驚かれると思います。

 

こちらが縄張図です。斜面に無数の帯郭が築かれています。この帯郭が城郭遺構だとすると、対岸に近い東西南を意識して築かれたのでしょうか。それにしてもここの帯郭は並び方に特に規則性がなく、一体どういう意図でこんな築き方をしたのか気になるところです

出典:『滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)』

 

墓地からハイキングコースを進むと、早速帯郭と思しき地形が見えてきます

 

石積もありました。当時のものか不明ですが、帯郭を耕作地として利用した可能性もあるので、耕作地用の土留石かもしれません

 

そして尾根まで続く連続帯郭が見えてきました

 

 

 

間近で見るとこんな感じ

 

尾根に到着すると琵琶湖を一望できます

 

尾根をしばらく進むと土橋状の地形があります。ここだけ細尾根になっており、人為的に狭められた感じでした

 

 

見晴らし広場に到着。ここからの景色が美しい

 

安土城と観音寺城が見えます

 

見晴らし広場をさらに進むと坊谷城があるのですが、藪が凄かったので途中で引き返しました

そして東側から下山

 

下山途中に切通らしき場所を発見。これは城郭遺構なのでしょうか

 

東側も帯郭がびっしり

 

 

下山後は頭山城へ向かいました。頭山城の投稿はいずれまた

 

頭山城から見た尾山城

 

沖島尾山城は堀切等は一切なく、ひたすら帯郭で防御した、いかにも南北朝時代の要害という感じでした。

堀切好きさんには物足りなさを感じるかもしれませんが、無数の帯郭は圧巻です。

 

以上、沖島尾山城でした

訪問日:2019年12月28日

所在地:新潟県村上市関口字上の山

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『日本城郭大系』、『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

お詫び

3/2に投稿した本記事は、タイトルを関口城(早稲田城)としましたが、後で詳細を確認したところ、関口城と早稲田城は全く別の城であることが判りましたので、3/4にタイトルを関口城(早稲田城)→関口城へ修正しました。早稲田城は関口城の北にある早稲田集落にある城で、関口城とは別の場所にあります。

 

歴史

詳細は不明。関口二郎の城ともいう。

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関口城は畝状竪堀で有名な大葉沢城の近くにある城です。ここにも畝状竪堀があることから、上杉謙信による本庄繁長討伐の際に大葉沢城と同様に、関口城は上杉謙信によって拡張されたのではないでしょうか。

 

まずは縄張図から。

三重堀切の北側にある畝状竪堀が描かれていません。ただこの縄張図にケチをつける気は毛頭なく、これが当時の精一杯の踏査だったと思います。縄張図を見た限りだと、すり鉢状の郭が堀切を境にして二つ並んでいます。

出典:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

関口城の場所はここ。こんなマイナー城がまさかGoogleマップに登録されているとは思わなかった。

城址への行き方は、火結神社の横にある林道を尾根道までひたすら登ります。尾根道に出たら南方に向かって道なりを進みます。

 

尾根道。鹿の足跡があり、それに誘導されるように進みました

 

尾根の南端に到着。ここからの眺望が素晴らしい

 

尾根からの眺め、中央に見える山が村上城址がある臥牛山。本庄繁長討伐の際もここの城主は同じ景色を見たのかな

 

さらに歩みを進めるとすり鉢状の地形が見えてきました

 

そしてさらに歩みを進めると堀切に到着。結構埋まっています

 

堀切から郭を少し歩くと三重堀切に到着。ここも結構埋まっていましたが形はハッキリと分りました

 

三重堀切の一本目

 

三重堀切の三本目。二本目の写真は見当たりませんでした

 

三重堀切を越えると畝状竪堀があります。これが見たかった!!!そして想像よりも規模が大きい。越後樺沢城の畝状竪堀をやや小さくした感じかな。緩斜面の防御機能という感じです

 

 

 

この畝状竪堀を見て下山しました。

 

この城は藪もなく見学は容易です。村上市と言えば、村上城と大葉沢城が有名ですが、時間があればここ関口城と猿沢城、大平城にもお立ち寄りあれ!

 

以上、関口城でした

 

訪問日:2020年11月21日

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町

訪問人数:単騎

 

参考サイト:戦国武将の家紋

 

*縄張図は持っておりませんので、城の構造を知りたい方は赤色立体地図で地形をご確認ください。郭と堀切、竪堀の場所がよく分ります

 

歴史

現地案内版です

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関ヶ原になぜ佐竹が?佐竹といえば常陸国。まさか関ヶ原で佐竹の名前を見るとは思いませんでした。

 

以下に記すことは小生の妄想です

 

佐竹義春は佐竹氏第8代当主、佐竹貞義の3男で後に小瀬氏を名乗ります。

この時期の佐竹宗家は幕府軍に属していた足利尊氏の配下にあり、笠置山の戦いでは当主の佐竹貞義が自ら参戦しておりますし(佐竹義春が参戦していたかどうかは不明)、尊氏が倒幕軍に寝返ると佐竹貞義と佐竹義春も倒幕軍に寝返り中先代の乱にも従軍しています。尊氏と佐竹氏の関係は良好のように見えるため、案内板にある「足利尊氏におわれ」の件には少々違和感があります。可能性としては、足利尊氏が倒幕軍に寝返った後に佐竹氏を調略し、倒幕軍に引き入れたようなので、調略の過程で足利尊氏と佐竹氏との間で何か一悶着があったのか、それか貞義と尊氏の関係は良好で貞義は始めから尊氏に味方していたが、貞義と義春はこの時に不和の関係にあったのかもしれません。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出すると、足利尊氏は幕命を受け討幕勢力を鎮圧するために上洛しました。この時に尊氏は天皇方につくことを決意し、元弘3年4月29日に倒幕のために挙兵。ここで当然のことながら、尊氏は諸国の豪族に倒幕の軍勢を要請するわけですが、佐竹義春はここで一旦要請を渋り、この時に玉の城山を築き、尊氏に反抗したのではと思います。5月7日に尊氏は六波羅探題を攻め落としていますが、挙兵からの期間が短すぎるため、佐竹義春はこの期間に在京しており、尊氏に参戦を促されたと思います。
*
現在残っている遺構は、佐竹氏時代のものではなく、戦国時代の竹中氏の家臣杉山内蔵之介のものです。城山山頂の東南に大谷吉継陣跡がありましたが、城山山頂にもいたのかどうかは不明。城山は中山道と北国街道、松尾山を見渡せる場所なのでもしかしたら山頂にも布陣してたかもしれません。もしかした浅井氏もこの城を使っていたのかな?

 

 

というわけで、早速城山を登ろうとしたところ、熊出没注意の看板が目に入ってきてビビりました。一応熊鈴を装備して登城開始

 

登城口には登山用の杖が置いてありました。保存会の方々のお気遣いに感謝です

 

写真を撮り忘れましたが、登山道はとてもよく整備されており頂上まで容易に登れます。また登山道に錆びた鉄杭が何本もあったのですが、もしかして近代以降もこの山は何かしらの理由で使用されたのではないでしょうか。

 

そして頂上に到着。頂上には東屋がありますが、東屋の目の前は怒涛の藪でした。しかし藪の中に一応道はあります

 

藪を抜けて少し歩くと郭に到着します。かなり広いです。この広さならそれなりの兵を収容できるでしょう。ひとまずここを主郭と仮定します

 

広大な郭を抜けると大堀切に到着。これが見たかった!

 

 

斜面側は竪堀になっています

 

主郭の南北に帯郭があります。主郭の切岸が美しい

 

帯郭には竪堀が数本あります

 

 

 

そして城址から見た古戦場と菩堤山城方面の眺め、かなり眺望が効く山です

 

城の構造は至ってシンプルですが眺望がかなり効きます。関ヶ原の合戦の際にこの山を使わない手はないでしょう。ただ一点気になることが、、、冒頭でも触れましたが、登山道に何本もの鉄杭があることから近代以降にこの城は何かしらの目的で使用された可能性があります。つまり、城郭遺構が近代以降に一部改変された可能性もある訳です。ただ、そこを差し引いても当時の合戦を妄想するには充分すぎる山なので関ヶ原で城巡りを予定されている方にオススメしたい城です。

 

以上、玉の城山でした

 

ここからは後日談です。

この城を訪問してから数日後にNHKで『決戦!関ヶ原 空からスクープ 幻の巨大山城』という番組が放映されたのですが、その番組内で玉の城山が取り上げられました。玉の城山は、普通に調べれば普通に見つかる城なので、幻の山城と呼ぶには少々大袈裟な気がしましたが、それにしても何という偶然なのでしょうか。自分が訪問した城が訪問直後にTVで放映されるとは嬉しい限りです。関ヶ原の城跡といえば、松尾山、菩堤山が有名ですが、玉の城山もTV放映をきっかけに訪問者が増えるかも知れませんね。

訪問日:2020年1月2日

所在地:静岡県掛川市西大渕

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

玉石垣で有名な城です。

 

横須賀城と言えばこれ!

 

 

しかし、この日は玉石垣をみるためではなく、松尾山北側の大堀切をみるために訪問しました。玉石垣エリアを素通りし、すぐに松尾山背後に向かいました。

 

松尾山の場所はここ。駐車場から松尾山背後まで徒歩で移動します

 

そして松尾山背後に到着すると外堀跡の標柱がありました

 

この標柱の裏に回り込むと、そこには素敵な堀切が!

 

圧巻の切り岸!!!高さは15m近くあるのではないでしょうか

 

 

土塁の一部には玉石垣の跡がありました、ただ部分的に残っているだけであり当時のものかどうかは分りません

 

更に堀底で歩みを進めます、なんて明瞭な遺構なんでしょう!!!

 

横須賀城は玉石垣がクローズアップされがちですが、松尾山背後の大堀切も大変見応えがあります。横須賀城を訪問の際に時間があれば是非見学頂きたい場所です。そして横須賀城に限らず、お城を隅から隅まで探索すると普段クローズアップされることがない派手な遺構群を見れることがあるので、お城の主要部分だけ見て終わりではなく縄張図とじっくり睨めっこしながら城内をまわると楽しさが倍増するかもしれません。

 

おまけ、天守台。このアングル大好き

 

以上、横須賀城でした。